【優良企業】アンパンマンショップ【時給500円】 [無断転載禁止]©2ch.net
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「あの犬は中々利巧だったが、こいつはどうも莫迦らしいな。 もう酔のまわった牧野は、初めの不快も忘れたように、刺身なぞを犬に投げてやった。 お蓮は牧野の酌をしながら、前に飼っていた犬の鼻が、はっきりと眼の前に見えるような気がした。 それは始終涎に濡れた、ちょうど子持ちの乳房のように、鳶色の斑がある鼻づらだった。 「へええ、して見ると鼻の赭い方が、犬では美人の相なのかも知れない。」 牧野はお蓮の手を突つきながら、彼一人上機嫌に笑い崩れた。 しかし牧野はいつまでも、その景気を保っていられなかった。 犬は彼等が床へはいると、古襖一重隔てた向うに、何度も悲しそうな声を立てた。 のみならずしまいにはその襖へ、がりがり前足の爪をかけた。 牧野は深夜のランプの光に、妙な苦笑を浮べながら、とうとうお蓮へ声をかけた。 が、彼女が襖を開けると、犬は存外ゆっくりと、二人の枕もとへはいって来た。 そうして白い影のように、そこへ腹を落着けたなり、じっと彼等を眺め出した。 お蓮は何だかその眼つきが、人のような気がしてならなかった。 それから二三日経ったある夜、お蓮は本宅を抜けて来た牧野と、近所の寄席へ出かけて行った。 そう云う物ばかりかかっていた寄席は、身動きも出来ないほど大入りだった。 二人はしばらく待たされた後、やっと高座には遠い所へ、窮屈な腰を下す事が出来た。 彼等がそこへ坐った時、あたりの客は云い合わせたように、丸髷に結ったお蓮の姿へ、物珍しそうな視線を送った。 彼女にはそれが晴がましくもあれば、同時にまた何故か寂しくもあった。 高座には明るい吊ランプの下に、白い鉢巻をした男が、長い抜き身を振りまわしていた。 そうして楽屋からは朗々と、「踏み破る千山万岳の煙」 お蓮にはその剣舞は勿論、詩吟も退屈なばかりだった。 が、牧野は巻煙草へ火をつけながら、面白そうにそれを眺めていた。 高座に下した幕の上には、日清戦争の光景が、いろいろ映ったり消えたりした。 敵の赤児を抱いた樋口大尉が、突撃を指揮する所もあった。 大勢の客はその画の中に、たまたま日章旗が現れなぞすると、必ず盛な喝采を送った。 しかし実戦に臨んで来た牧野は、そう云う連中とは没交渉に、ただにやにやと笑っていた。 彼は牛荘の激戦の画を見ながら、半ば近所へも聞かせるように、こうお蓮へ話しかけた。 が、彼女は不相変、熱心に幕へ眼をやったまま、かすかに頷いたばかりだった。 それは勿論どんな画でも、幻燈が珍しい彼女にとっては、興味があったのに違いなかった。 雪の積った城楼の屋根だの、枯柳に繋いだ兎馬だの、辮髪を垂れた支那兵だのは、特に彼女を動かすべき理由も持っていたのだった。 二人は肩を並べながら、しもうた家ばかり続いている、人気のない町を歩いて来た。 町の上には半輪の月が、霜の下りた家々の屋根へ、寒い光を流していた。 牧野はその光の中へ、時々巻煙草の煙を吹いては、さっきの剣舞でも頭にあるのか、 所が横町を一つ曲ると、突然お蓮は慴えたように、牧野の外套の袖を引いた。 お蓮は彼に寄り添いながら、気味の悪そうな眼つきをしていた。 牧野は思わず足を止めると、ちょいと耳を澄ませて見た。 が、寂しい往来には、犬の吠える声さえ聞えなかった。 お蓮は房楊枝を啣えながら、顔を洗いに縁側へ行った。 縁側にはもういつもの通り、銅の耳盥に湯を汲んだのが、鉢前の前に置いてあった。 庭の向うに続いた景色も、曇天を映した川の水と一しょに、荒涼を極めたものだった。 が、その景色が眼にはいると、お蓮は嗽いを使いがら、今までは全然忘れていた昨夜の夢を思い出した。 それは彼女がたった一人、暗い藪だか林だかの中を歩き廻っている夢だった。 彼女は細い路を辿りながら、「とうとう私の念力が届いた。 きっと今に金さんにも、遇う事が出来るのに違いない。」―― するとしばらく歩いている内に、大砲の音や小銃の音が、どことも知らず聞え出した。 と同時に木々の空が、まるで火事でも映すように、だんだん赤濁りを帯び始めた。 が、いくら気負って見ても、何故か一向走れなかった。………… お蓮は顔を洗ってしまうと、手水を使うために肌を脱いだ。 その時何か冷たい物が、べたりと彼女の背中に触れた。 そこには小犬が尾を振りながら、頻に黒い鼻を舐め廻していた。 牧野はその後二三日すると、いつもより早めに妾宅へ、田宮と云う男と遊びに来た。 ある有名な御用商人の店へ、番頭格に通っている田宮は、お蓮が牧野に囲われるのについても、いろいろ世話をしてくれた人物だった。 こうやって丸髷に結っていると、どうしても昔のお蓮さんとは見えない。」 田宮は明いランプの光に、薄痘痕のある顔を火照らせながら、向い合った牧野へ盃をさした。 これが島田に結っていたとか、赤熊に結っていたとか云うんなら、こうも違っちゃ見えまいがね、何しろ以前が以前だから、――」 「おい、おい、ここの婆さんは眼は少し悪いようだが、耳は遠くもないんだからね。」 牧野はそう注意はしても、嬉しそうににやにや笑っていた。 あの時分の事を考えると、まるで夢のようじゃありませんか。」 お蓮は眼を外らせたまま、膝の上の小犬にからかっていた。 「私も牧野さんに頼まれたから、一度は引き受けて見たようなものの、万一ばれた日にゃ大事だと、無事に神戸へ上がるまでにゃ、随分これでも気を揉みましたぜ。」 「へん、そう云う危い橋なら、渡りつけているだろうに、――」 田宮は一盃ぐいとやりながら、わざとらしい渋面をつくって見せた。 「だがお蓮の今日あるを得たのは、実際君のおかげだよ。」 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。