ここでは、現在のセンター試験の問題点として、知識・技能を単独で
評価していることが挙げられている。確かに、知識・技能は使うもので
あり、それを使う力を養うことは重要だ。しかし一方で、そもそもの
知識・技能がなければ、それを使うことはできない。文科省の自前の
調査によると、中学・高校時代の内容の補習をしている大学が全体
の約半数に上っているという無視できない問題がある(文部科学省
「大学における教育内容等の改革状況等について」2011年)。
 この補習は、高校を卒業した大学生に「知識・技能」を使う「思考力
・判断力・表現力」が不足しているために行われているのではない。
大学で学ぶために不可欠な「知識・技能」が高校卒業時点で身に付
いていないから行われているのである。
http://toyokeizai.net/articles/-/86799?page=3

(中略)

 このアクティブラーニングを、教育改革のひとつのシンボルとして全国的に
展開するようだが、全国津々浦々の学校に行きわたる公教育でそれが
本当に可能なのかも考えてほしい。教える側となる教職員の研修には
莫大な時間と労力がかかるだろうし、学校にはいろいろなタイプの生徒がいる。
 高校での1コマの授業は大体45分。一般的なクラスサイズは40人くらい
である。1人1分話せば授業は終わる。学習習慣がついていない子はど
うだろう。能動的に話をしている勉強熱心な生徒の発言をわかったような
顔で聞いていればやり過ごせるが、もちろん自分で勉強しないかぎり、
知識や技能などは定着しない(私もオックスフォードで予習が足りない授業
のときはそうなった……)。
 そして、これが前述の「大学での補習」につながるのだ。このような教育は、
一部の生徒には効果を発揮するだろう。しかし、知識や技能が定着したうえ
で思考力を基に論を組み立てることができる生徒が全国にどのくらいいる
のだろうか?やった気になる勉強ほど危ないものはない。公教育の役割
というものを、もう一度考え直さなければならない。
http://toyokeizai.net/articles/-/86799?page=5