■ 道徳教育 ■
教員不正採用、食品偽装、裏金問題・・・
腐敗した世の中
生徒に道徳を説きましょう
大いに語りましょう
自分の行く先を固定化させないこと。
現在を起点として、未来・過去にも手に届く距離というものがある。
自分の中にないものはないものとして、あるもので進むしかない。. いくら自分を厳しく律したつもりでも人間間違う時は間違うし、
むしろガチガチに管理するから失敗に歯止めがかからなくなることもある。
人間の限界を弁えた上で、根をつめ過ぎないこと。 負けた時に負けた理由なんかいくら考えてもしゃーないよ。
負けた事実だけを噛みしめればそれでいい。当座はね。 何かをすればそこには必ず批判・反発・抵抗は湧き起こる。
それはそういうものと諦めるしかない。 過ぎたるは猶及ばざるが如し。不足があるのなら補えばいい。
人間、足るを知ることも必要。 一つの考えに留まり続けないことも大切。
自分や他人を責めることが悪いのではなく、心がこわばって抜き差しならなくなるのが問題。 昨今嫌われる勇気なんてのが取りざたされているが、
勇気なんて力こぶを入れている時点でまだまだ甘ちゃんやね。
嫌われるのがデフォルトになってしまえば、何を思い悩むことも企むこともない。
無理して嫌われる必要はないが、好かれる必要もないわけでな。 言うまでもなく人生は無駄の積み重ねの上に成り立っている。
ある程度の目星をつけて進む必要があるにせよ、全てを管理できるというのは思い上がりというもの。
効率的な目標の為に生活の全てを犠牲にしないこと。 世の中そういうものだと前向きに諦めるということ。
自分の限界が分かれば無駄なものをしょい込んだり、人に押し付けることもない。
自然体で通すものは通すということ。 ま、人の生き方なんて人それぞれで外野が口を出すことではないのかもしれんね。
自分で自分を追い立てて生きるのはしんどいだろうなあ。
自分が納得しているのなら誰も文句は言えない。 できひんことはできひんけど、少なくとも生きることに本気にはならなあかんにゃろな。
それで駄目ならしゃーない。 上に立つということは人の人生に責任を持つということ。そこから逃れることはできない。 欠点を隠そうとしないこと。
そんなものはあって当たり前なので、卑下することも開き直る必要もない。
むきになって責め立てる向きには、憐れみを覚えつつも取り合わないこと。 人の意見はどんな耳の痛い意見でも聞く耳を持つ。
しかしながら従うことも含めて、最後に決めるのは自分。
それが個人の自由ということ。 怒り、あるいは相手を嫌うことを人間関係の選択肢の一つに含めない情愛は、
どんなに必死に押し付けて来ようとも愛情とは認めない。
それはどこまでいってもまがい物の愛情。
波風を立てずにいこうとしてもいずれは追いつめられて人を恨むんだから、
怒りぐらいは自分の手元に引き付けておけってこと。
どこまでなら大丈夫かの匙加減さえ見誤らなければその方が健康的。 衝突する前からへしょれてしまうような骨なしならしょうがないが、
少しは気骨があるのなら緊張の高まりをセーブしたり、後からリカバリーするテクニックはいくらでもある。
が、それは衝突を恐れない構えがあった上での話。日々の経験の中からつかみ取るしかない。 処世は自分の感覚だけが頼りだと自覚すること。
何を通そうが譲ろうが、感覚や感情そのものに手を加えることはできない。 上下関係の垣根をとっぱらうことで、立場に見合った責任の重みを自覚することから逃げる人間は信用できない。
立場が上の人間の為すことが必ずしも正しくないからこそ、上は下からの突き上げを真っ向から受け止め、
下は上が従うに足る人間であることを見定める必要がある。民主主義だのグローバルだのはその後の話だ。
世間に対抗する言葉が見つからないのなら無理に自分を合わせる必要はない。
ただ、個人の規範倫理としてそこを軽く扱うのには、
どこかに何かをごまかそうという心理が働いていることは押し付けるでもなく指摘しておく。 ま、よくよく考えたら俺には全く関りのないことだな。
多分俺の人生に全くかすりもしない問題。俺とは関係ない。この感覚は大事だな。
矢面に立たされる人は気の毒とは思うが、自己判断で動いてもらうしかないな。 あらゆる物事に白黒をつけようと躍起にならないこと。
世の中にはいい加減にしておいた方がいいこともある。
間断なくせきたててくる世間の要請は要請として、必死にならないこと。 傷つくことを恐れる気持ちは誰にでもあるが、受けた心の傷の痛みを薄めようとしないこと。
痛みを痛みとして感じることができるのは人間にとって幸せなこと。 心が高揚しそうな時ほど手元に引き付けておく必要性。肌感覚を手放さないという問題。
時の流れを自分のものにするためには、まず自分の空虚さを受け入れること。
欠点は克服するものではなく受け入れるものだと分かれば、さらに生きる意志につながる。 こういう時代のこういう国に生まれ育ったことに有難みを感じつつ腹をくくること。
社会に何の違和感も感じないのであれば、特に言うことはない。 信頼とは共に積み上げ共有したものの高さによって決まる。
自分を守るのは人との距離感のみ。 何を信じ何を遠ざけるかの判断は受け身の関係性からは生まれない。
相手の腹の中を自分からまさぐっていかないと、上っ面の好悪、立場を超えた関係は見つからない。 世の中はきれいごとだけでは回らない。
目先の損得勘定に優先する理想の存在も含めて、長期的視野に立った老獪な戦略性の必要。 後悔は萎縮、反省は改善。
自分の心の深くに根差した感覚は、誰がどう言おうと曲げないこと。 自分の中のドロドロした醜悪さを、まずは受け入れ許すこと。
あるものはあるものとして認め、先に進むしかない。 舌足らずで申し訳ない。許したところでそれが消えるわけではない。
やり場のない怒りは何かにぶつけ表現することでしか解消しない。生きるというのは面倒くさいものだね。
自分のやっていることの罪深さは自覚しているつもりだ。
だが俺は基本的に人生に取り返しのつかないことというのはないと思っている。
言うべきことがなくなればやめるまで。俺みたいな最下等の人間でも人生に何の疑いも持たずに生きている。. 怒りとは、湧き上がるそれに
これは「怒り」と名付けて、ゴミを散らかすように周囲に撒き散らかすことである。
自身で受け止めないことには、たえまない「分離」が起きるにすぎない。
自身と怒りを切り離して「怒っている私」をつくりあげることが葛藤の原因である。
実際は「怒り」だけが純然とあるのみであって、
「怒る私」は存在しない。それはあとから自身が生み出したイメージにすぎない。
「あいつが憎い、どうにかしなければ気が収まらない」
あなたはあいつのイメージをつくりあげつづけて、自分のなかに生まれたそのイメージを攻撃する。
なにしたって、無理である。撒き散らしたものが収まることはない。葛藤はイメージを作り出し続けるあなたにある。
「怒り」そのものに入り込み誰にも向けずに分離せずに、
その湧きだしてくるエネルギーと一体となるしか葛藤が止むことはない
「人生に疑いを持たず」それはただの信念への依存ではないだろうか?
宗教的でも国家的でも哲学でも思想でも、
信念を必要とする人は、実は慰めを必要としているのである
慰めを必要とするような「虚しさ」は、「虚しさ」と一体となり分離しないことである。 どんなつまらない人生でも、その人間なりに歩んできた道のりの重みがある。
ということを認めること。 過去をおろそかにしないこと。
自分を構成するものは様々な人に支えられて成り立っている。
生きているのではなく生かされているという自覚が持てるかどうか。 舞い上がった気持ちを抑えきれない向きは、一度吐き出すだけ吐き出して、
行く所まで行った方がいいのかもしれんな。
中途半端に押さえつけるのは心の健康に良くないのかもしれん。。 自分にとって得か損かの利害感覚を手元に引き付けることができない人間は結局何もできない。
エゴイズムが核にない人間ほど、薄っぺらい理想に吸い寄せられて身につかないきれいごとで自分を慰めるもの。 自分の存在がそこにいるだけで、多くの人間を押しのけ可能性を塞いでいるという宿命を噛みしめること。 大事であれ小事であれ気負わず淡々と。
どんなに力み返っても壁にぶち当たる時は当たるもの。
その時は嫌でも悩むんだから。 物事を大仰に受け止めないこと。
どんな想定を超える状況に立ち至っても、結果はプロセスの一つの通過点に過ぎない。
自分の想定と現実の間に落差をつくらないこと。 どんなに切羽詰まった状況が見えてきても張りつめないこと。
これは原因を外部に求め取り除くことで解消するのではなく、ひとえに自分の心のありようの問題。
どんな状況でも心に緩みを持たせ、遊び心を忘れないこと。 相手の気持ちは気持ちとして理解するとして、それに自分を左右されないこと。
どんなに距離の近い相手でも、どこまでいっても自分とは立場・人格の異なる人間。
情の存在は不可欠だが、それに流されないこと。 人間は他人に迷惑をかけずには生きられない。
逆に言えば他人から当然のように迷惑をかけられながら生きるしかない。
どちらの可能性も引き受けること。 自分の人生と自分が関わる世界にどのような未来が待っているか誰にも分からないということを受け入れること。 人生に過剰な意味づけをしないこと。
それが分かれば、他人のことを詮索することも主観を押し付けることもない。 人生を楽しむなんてことをやたら力こぶを入れて強調する奴もなんだかなあって感じ。
それは生きる過程においてそういう瞬間も訪れることもあるってぐらいのことで、的にして追いかけるようなものじゃない。 何か問題にあたる時は、自分の動機・プロセスをある程度筋道立てて言語化しておくこと。
人間は全て理詰めで動く生き物ではないが、心に整理された言葉があれば
状況・気分に一方的に流されることはなくなる。 困難な状況に向かう時は自分をドラマチックに演出しないこと。 全力で戦う時も無理にあがかないこと。
諦めるのではなく、負けないことに必死にならない。 どうしても人に悪意を向けざるを得ない時は正面から。
相手から反撃される可能性を奪わないこと。 弱みを見せることは恥ずかしいことではないよ。
あるものをないものとして扱うことはできない。
人間突っ張って生きていてもしょうがない。 もっとはっきり言えば、自信なんてもんが要らんねん。
そんなものにすがるから人間は自分が道を踏み外すことにも気づかへん。
努力や積み重ねは必要だとしても、一瞬で崩れ去るものと自覚すべきだな。 世の中の全てが自分の思い通りに動くというのは幸せなことではないよ。 その場その場で自分にできることに最善を尽くすこと。
失敗はあって当たり前。勝ちたいのも誰しも同じ。
勝つことにこだわり過ぎないこと。 あんまり楽々と越えられても困るってこと。
普通の人間がそこにたどり着くのには、どれ程の葛藤と闘わなければならないことか。
人生はそんなにお手軽なもんじゃないからね。 いつでもここに戻ってこれるように逃げ道を作っておくこと。 暗さ、弱さ、醜さ、それを認めることのできない自分を受け入れること。 前向きなものにせよ後ろ向きなものにせよ感情に気持ちを入れすぎないこと。 煮詰まったらさっさと諦めて次に進むこと。あまり考えこみすぎない。 人の気持ちなんてものをごちゃごちゃ考えない。それは考えるものではなく、感じるもの。 全ての始まりにおいて自分が馬鹿で無能だということを認めること。
知性や実力はその根本認識の上に積み上げるものであって、
中途半端なプライドや過去の実績・名声を頼みにすることは、冷静で客観的な自己イメージを見失う元。
これは謙虚とか傲慢といった他者評価の振れ幅で揺れ動く問題ではなく、徹頭徹尾個人的な生き方の問題。
先生「道徳の授業を始めます。みなさん副読本の『アリとキリギリス』は読んで来ましたね?それでは廊下側の一番前の席のAさんから順番に感想を言って下さい。」
生徒A「はい、わたしは真面目にコツコツ働くのが大切なんだなと思いました。キリギリスみたいに働かずに歌って遊んでいてはいけない、アリのようにコツコツ働いて蓄えなければいけないんだなと思いました」
先生「はい、ありがとう。素晴らしい感想でした。みなさんAさんに拍手をしてあげましょう」
(拍手の音)〈パチ パ チパチ パチ パ チパチ〉
先生「はい、次はBさん」
生徒B「……わたしは毎日歌って暮らすことが悪いことだとは思いません。非効率的に肉体労働をしているアリを立派だとも思いません。
―――きっと、先生はお忘れなのでしょう、だから『アリとキリギリス』で道徳の授業をするのでしょう。
―――わたしの父は声楽家です。でも音楽ではとても生活費は稼げません。それどころかいろいろと経費が掛かるので持ち出しになっていることも多いです。
一家の生活費は祖父が残してくれた財産、不動産の賃貸料や株の配当金などで賄っています。
たとえ父の歌で得られる収入は少なくても、わたしは小さい頃から聞いていた父の綺麗な歌声が大好きで、わたしも将来は父のような声楽家になりたいと思っています。
でも、世間ではそんな父の歌を「金持ちの道楽」だの「稼げないならプロじゃ無い」だのと陰口を叩く人がいるのもわたしは知っています。
こう言うと「キリギリスは財産も無いのに働かずに歌っていたのが悪いのであって、財産があるなら自由にやって構わないんですよ」とおっしゃるかもしれません。
しかし私の父が最も嫌悪する共産主義者は「ただ金持ちの家に生まれたというだけで何不自由なく暮らす者がいて一方、貧しい家に生まれたというだけで代々資本家に搾取される労働者がいる。そんな不平等な社会は間違っている」と言います。
父はそんな不満を言う労働者を「怠け者だ」と言いました。「怠けて勉強しなかったから肉体を酷使する仕事にしか就けなかったんだ。我が家は祖父と父が学問を修め、知力を振り絞って築き上げた財産がある。それを子供や孫が受け継ぐのは当然の権利だ」と言いました。
――先生、怠け者はアリとキリギリスのどちらですか?」」 何か問題が起こっても存在に関わるようなことでない限り、しばらく手を加えず放置する。
変化がない場合は、その後で対策を考える。
大概の問題はこれでふるい落とされる。 外的な刺激に心が揺れ動くのを抑える。
物事に動じないといった硬直した態度ではなく、心の波をなだらかにする。
心に極端な山と谷をつくらない。 人から理解されようとしないこと。
やりたいことの為ならどんな理不尽な汚名を被ってもいい。 社会の作り出す強迫的な空気感に無条件で乗せられない。
乗せられるのなら乗せられているという自覚を持つ。
時代の只中を流されるにせよ、どこかに一人の人間として時代を対等なものとして眺める態度は必要。 他人に迷惑をかけることを嫌がらないこと。
そこを踏まえないとやって良いことと悪いことの違いも身に沁みては分からない。 目的にまとわりつく余計な感傷を削ぎ落すこと。
それらは自らの意志をぼやけさせるだけ。 行動の主体をごまかさない。
自分が自分の為にやっているという感覚に他人を混ぜ込んであやふやにしない。 自分の言動の広がりに対して自分がけじめをつけられる範囲を意識する。立場を踏み外さない。 どんなにウザい相手でも反発したり立ちふさがって態度を硬化させる前に、相手の背景を理解するよう努めること。
譲らない自分が明確にあれば、殊更それを人に押し付けることもない。 この世の不条理を受け入れること。
その強さがあればこそ自分を高めることができる。 あとは全力でいい加減に生きるこっちゃな。
それで世の中ちゃんと回るようにできてるんだから不思議なもんだ。 まあ世の中なんてそんなもんだ。
自分にできることなんてたかが知れている。
嘘にまみれた世の中だが、そういうものと諦めて自分のことだけ考えて生きていくしかないな。 色んな問題があるけど、それはしゃーないんちゃうかな。
一々まともに向き合ってたらしんどいだけ。 まあ人生なんて浮かれているのは幻みたいなもんで、本当は何一つ良いことなんかないんかもしれん。
それでも生きていれば何かが見えてくることもあるかもしれん。 日本の問題は、今俺がアイスクリームを食べたいということ。。 めんどくさいけど付き合っていかなあかんにゃなあ。やれやれ。,. 俺はやることはやるよ。どんなに風当たりがきつくてもな。
今の世の中、何かをやったつもりになってる奴ばっかりだ。. 俺の思うがままwそろそろ終わりが見えてきたな。やってられへんわ。; 通すべき筋さえ通せば、後は何やってもいいよ。
誰も自分を否定することはできない。 後は分からんことを分かったつもりにならないこと。それだけ。. めんどくさいことごちゃごちゃ考えずに生きたいように生きればいいんだよ。
そら色んなことあるわ。' 自分と他人の間に明確な一線を引くこと。
自分の問題は自分の問題。他人の問題は他人の問題。
揺れ動かない。 誰が何と言おうが今ある自分が自分。
無理に足掻かない。 人を奴隷として扱う者こそ、奴隷として扱われるにふさわしい。
生きものを物として扱う者こそ、物として扱われるにふさわしい。 上級国民のやりたい放題が道徳の日本、
こんな腐った国が改憲なんかしたら軍需産業を儲けさせるために真っ先に戦争、
高学歴の上級国民だけが良い思いをして、下級国民は前線で苦しむの見え見えだわさ。
こないだゴミ売り巨人軍の澤村拓一の暴行事件が話題になったが
同じ沢村でも不憫なんが沢村栄治やね。京都商業学校卒業後には慶應義塾大学への推薦入学がほぼ決まってたけど
ゴミ売りの正力松太郎が強引に口説いて同校を中退させて巨人入りさせた。正力は「一生面倒をみる」とまで言ったいう。
しかし、巨人は戦地から負傷(前線で手榴弾を多投させられた為の肩の負傷)して帰った沢村を解雇して約束は守らんかった。
NHKEテレで放送された「先人たちの底力知恵泉・選「野球が愛されるわけ 沢村栄治の挑戦」」によると
法律で学生が日米野球に参加できなかったため中退したとしてる。
また、2度も召集を受けたのは学歴が中等学校(旧制)中退であったからという説をとれば、
中等学校を中退しての巨人入りは沢村のその後の運命を左右してしまったと言える。
沢村は巨人から解雇を告げられた際、さすがに気落ちして父親に「大投手などと煽てられていい気になっていた、わしがアホやったんや」語ったが、
自分を責めるだけで正力や巨人に対する恨みごとは言わず、入営時には笑顔を見せてたらしい。
また、父親である沢村賢治は、戦後のインタビューで「栄治は中等学校中退だから。もし、卒業していたら、慶大に行っていたら、
こんなに3度も(召集が)こなかった。すべては私のせいです。」と涙ながらに繰り返したな。
https://youtu.be/OsWssJFAl44
https://youtu.be/oO5_FJEfi3I
http://buzz-plus.com/article/2019/05/08/otsu-ikebukuro-jiko-news/
https://outidesigoto.com/archives/24149
事故を起こして真っ先に息子に電話してフェイスブックのアカウントと携帯電話の解約をさせていたのに
「証拠隠滅の恐れがないので逮捕しませんでした」は無理がありすぎる。
事故処理よりも自分の個人情報の隠滅を優先するような人間は逮捕していいはずだ。
こんな腐った国から差別やイジメは無くならない。
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www.youtube.com/watch?v=sTpDm6icm_E http://e-freetext.net/hoshinokun_niruida.txt
道徳の教材に使われる『星野君の二塁打』。
道徳の授業では「監督の言い分が正しい。自己犠牲の精神を持つべきだ」という結論に持っていくのがセオリーらしいが
この話で監督の言い分で正しいのは、
「バントで山本君を二壘へ送る。これがあのときティームできめた作戰だつた。
星野くんは不服らしかつたが、とにかくそれを承知したのだ。いつたん承知しておきながら、勝手にヒッティングに出た。
小さくいえば、ぼくとの約束をやぶり、大きくいえば、ティームの統制をみだしたことになる。」
ここだけだと思う。「約束を破った。だからペナルティとしてもう試合には出さない」これだけなら完全に軍配は監督にあがる。
だが監督は余計なことを言い過ぎている。自己犠牲は尊いが、それは自主的に行うから尊いのであって、自己犠牲の精神を持っていないからと言って罰するようなものではない。自己犠牲を強いるのは"不道徳"に他ならない。
自己犠牲の尊さを教える方法は一つしかない。模範を示して「自分もこういうことができる人間になりたい」と思わせるしかない。
(でも、そういう意図をもって模範を見せて自己犠牲へ誘導するのは、意図があるということ自体がすでに道徳に反している)
それに星野君には打てないという監督の判断は結果的には間違っていたわけで、監督自身も「面白くない」と言っているし、どうにも面目を潰された腹いせが入っているように見える。
つまりこの話の教訓は「偉い人のメンツを潰してはいけない」ということになるように思う。 日本は残酷な国である
そしてそれを促してきたのが学校教育だ
協調が大事と言いながら個性を認めず出る杭を叩く教育=いじめの温床
戦時中は特攻隊員として国の為にたった一つしかない命を捧げることを強要し
生きて帰ってきただけで恥晒しの非国民
国に疑問を持つ者は治安維持法で迫害、虐待、虐殺
江戸時代には獄門や市中引き回しもやってた国が日本という国である
年間3万人の自殺者が依然出るのも日本が残酷な国だからである
この現実を直視し、それを元に日本から残酷慣習を廃して新しい国を作るべきである