■ 道徳教育 ■
教員不正採用、食品偽装、裏金問題・・・
腐敗した世の中
生徒に道徳を説きましょう
大いに語りましょう
明日、どうやったら上手く生きられるのか?
考え尽くせばいいのです、考え尽くして、もううまいやり方が出てこなくなる限界まで
うまいやり方を考えれば考えるほど、
それすべてが不安や恐怖で終わるのです
怖がるあなたに人間社会は理想を与えるが、
生きるすべての時間が苦痛で終わることでしょう。
これからも無秩序や恐怖は思考や思想から生まれて、
真の秩序は、思考が無いところから生まれます。 もうすこし気楽にいってもいいんじゃないかな。あまり前のめりに生きてもしょうがないですよ。
色んなことがあります。 >>710
極論としてはそうなのです。
我々は恐怖なく生きたいのに、
誰よりも上手く生きようとして常に恐怖の原因をつくりだしているのです。
明日のことを考えてください、それ全てが不安で終わるのであって、実際にあることを受け入れられません。そして理想的人物になるように絶え間ない努力が推奨されるのです。
それが道徳教育なのです。
あなたと違う誰かになりなさいといつまでもやっているのですが、
それではいつもでも愛がないのです。
愛は最初になければ、最後までありません。 ある学者が森にいる鹿の数は捕食者であるオオカミが決めていると言った
個別にしかみれない学者の完全な間違いである。
彼は森に入ったのに、森にはいない。
森に無数にある樹木の根ではりめぐされたニューロンネットワークは
木の実を生み出す数によって鹿の数を調整できる。
そこには、一切脳も思考もない。
実際はまったく脳がないものが生命の秩序そのものなのである。
脳と、脳がないものは、どちらが先に生まれたのだろうか?
思考とは、それが宇宙にロケットを飛ばそうと、本来は脳がないものの道具なのではないのか
記憶の集合体であり明日のことを考えないでいられない脳とは、
膨大なニューロンネットワークから外れてしまって、古いことから更新できなくなったバグにすぎない
それは苦しみを生み出す壊れたレコードプレーヤーだ。 脳以上の叡智があるのである。
どこにか? 何万年も人々は探し続けて彷徨っている。
そして極少数の何人かは見つけたようだが、それはまったく人々には理解されたことがない。
完全に未知のなにかである。
無数にはりめぐされたニューロンネットワークは、どこにも探さないことである。
なにも探さないで、早朝の澄み切った空気のように、ただそこにあればいい。
考える必要もなく、何かをする必要もない、すべて放棄して、
眼をつぶらずに、ただただ早朝となって澄み切っていればいいのだ。
なにもしないことである
さて、ある経済学者や政治家が、富裕層を富ませれば、中間層を富ませれば、経済は富むという。
彼は、生命に触れたこともなく、叡智にも完全に見放されている、頭で考えた試みはすべて失敗するだろう。
その失敗のツケの払い方は、スクラップリビルドの戦争しかしらないようだ。
澄み切った早朝が終わると、人間が古くから抱える貧しさと苦悩がはじまる
生命は、生命を生かそうと彼らなにも持たないものが生きることができるレベルにまで
経済の水準を下げることも上げることもできるだろう。
それは、学者がどんな手をつかっても、デフレ経済になろうがおかまいなしに、
なにもいっさい持っていない貧しき彼の生命のために働くのだ。 自分の心を守ろうとだけはすんなよ。
負ければ心は痛いし勝てばうれしい。
ここをごまかす人間はどんなに成功しても人としては失敗作。 何をやってもいいし誰も止めることはできない。
そこから感情の自分の範囲を超えた暴走を抑制するバランス感覚がテクニック。
時にその枠を踏み越えざるを得ない時があるにせよ。 ま、あんまり深く考え込まんこっちゃな。
大した生きもんやないで。 >>56
そもそも、道徳は良い悪いではない。行動(行為)と結果であって、そのいくつかある結果の価値観の葛藤が道徳
いじめ指導は道徳教育の中の人権教育
ただし、いじめの結果としてその行為は犯罪行為となる為100%悪いとする指導になる。
実際の社会
犯罪行為は犯罪行為
いじめにおいて無関係な者は居ない。犯罪の被害者と犯罪の実行犯、共犯者、傍観者がいるだけ。
問題は犯罪者を完全に取り締まる事が出来ない事
故に、それぞれの能力に応じて、自分自身を守る為の行動を取っている。被害者が端っこ的存在としての行動を取っているのは、その被害者の能力的に自己防衛する能力がそういう行動しかできないから。
こんな感じ? 張りつめた心を緩ませること。目的に遊びを持たせること。 後は自分の攻撃性と向き合うだけ。肝心な時にそれを出せるかどうか。
簡単なことではないよ。 自分の力の及ぶ限りは決して投げ出さないこと。
及ばない事態には前向きに受け入れ、無駄に力まないこと。 人間は基本的に身の丈を超えた生き方はできないが、
時には一か八かの博打をしてしまう生き物だということは押さえておく必要がある。
自分の感情に嘘はつけないということ。 私は成功して偉大な何者にかに成らないといけない、親からも先生からもそう教わってきた。
だからこの自分であることには我慢ならず向上に力をつくすのだ。
しかしそれはたいてい自殺の原因となるのでしょう
そのスパルタ国の人たちは、他人とどのような関係を築くのでしょうか?
自他誰もそれでいいと認められない極度に自己中心的な閉じられた社会になることでしょう
たとえ強力な精神(実はただの極度に閉塞的な精神)や
強い軍事力を持っても自己閉塞的な関係のなかでは滅亡するのです。 脳みそは、全人類に一つだけとんでもない幻覚を見せています。
「自分がある」と思わせることです。
それはどこにあるのでしょうか?
指を差して確かめてください、実際に触ってみてください。
どこにもなく、
どれもただのなんでもない人間がいるだけです。 知らず知らず細かなことに捉われて生きている心の縛りを解きほぐすこと。
余裕がある範囲で日々の生活のリズムから足を抜いてみるのも一つの選択肢。 まったく無駄!!不要!!いらない!!
全ての公立学校はどんどん統廃合すべきだ!!
今いる教員数を3分の1以下にすべきである。
見せ掛けのための教育と管理第一主義の糞校長・教頭どもを全員クビにして
教育に効率の良い学校へ転換することだな。
税金の無駄使い公務員をブッ殺せ!!
教育を隠れミノにするなよ!!
悪徳公務員はさっさと死ね!!
偽善教育のバカ公務員死ね!! 最後は自分は自分、人は人。共感も温情もこのラインを明確に。 優良企業で正社員の内定を貰うには素行調査をクリアしないとダメ
企業にとっては高い買い物、無能だけならともかく犯罪をされたら企業イメージが失墜する
心理学における行動学
人間性テストや統計で判断される
素行調査でパチンコ店に出入りしたり喫煙を確認した時点で即切り捨て確定
統計的にパチンコスロットをしない者や非喫煙者のほうが良質な仕事ぶり、だと調査結果が出ている
素行調査は採用後も節目節目にある
出世に影響するし、迫害にも繋がる 目的を追求しすぎない。心に遊びを持たせてバランス感覚を整える。 どーなんやろ。ほんまにこれでええんやろか。よー分からん。
まあ大崩れさえせえへんかったらそれでええわ。 色々考えてまうんが人間ってもん。人間ってそういうもん。 メンタルゆうんは強けりゃええゆうもんでもないからな。大崩れだけはせんように。 失敗は失敗。あるものとしてそこにあるもの。もう少し気持ちを入れていこう。 大事の前のプレッシャー・緊張感はついてまわるもの。あまり軽々と越えられても困る。 今まで言ってきたことを簡単にまとめると、
お前なんか全然大した人間ちゃうわ、あんま調子に乗んな、ってこと。 自分に課すハードルは能力の振れ幅の下の方に設定しておいた方がいい。
勝負にこだわるのと縛られて身動きが取れなくなるのとの違い。
と言ってそう簡単にいかないのが世の中なわけで。 少し世の中をなめすぎた意見だったかもしれない・・・ まったく無駄!!不要!!いらない!!
全ての公立学校はどんどん統廃合すべきだ!!
今いる教員数を3分の1以下にすべきである。
見せ掛けのための教育と管理第一主義の糞校長・教頭どもを全員クビにして
教育に効率の良い学校へ転換することだな。
税金の無駄使い公務員をブッ殺せ!!
教育を隠れミノにするなよ!!
悪徳公務員はさっさと死ね!!
偽善教育のバカ公務員死ね!! 諦めなければ必ず夢はかなうとは俺は思てへんからな。
それでもやらなあかんけどな。
それだけ。 そういうもんなんだからしょうがない。
多分こういうことを延々と続けていくんだと思うよ。 それがなかったらもはや人とは言えん。人間は間違うもの。 社会的地位の高低に関わらず一人の人間の力など知れたもの。
それは安倍だろうが宮崎駿だろうが引きこもりの無職だろうが同じこと。
という認識に立って初めて自らの立場に応じた責任を自覚できる。
そういうことだ。 道徳の教科書使って、子供評価するとか
マジで頭おかしい
仕事無駄に増えただけ
今のおっさん連中の道徳とか
テレビ見せられて、寝る時間だったやろ 何かを否定する時だけやたら能力を発揮するのが今の日本人。
あらゆるモチベーションをそこにしか注げない。
もったいないよなあ。 どんな強い人間も最初から強いわけではない。
まずは自分の弱さを受け入れないと、先には進めない。 ○平成29年の自殺者数は21,321人となり、
対前年比576人(約2.6%)減。平成22年以降、8年連続の減少となっている。
民主党の悪政から自民党の安倍政権に移り、毎年「減少」しています。
こういう「ウソ」に騙されないように気をつけましょうね!
「左翼は平気でウソつく」ということです。 捏造大好き朝日新聞!! 覚えておきましょう! 立場が上のものが容易く弱みを見せるのは子供の為にもならない。
大人は間違っていても謝らないもの。
失点は行動で取り返すもの。 頭と体が完全に一致するというのは本来そんなに簡単なことじゃないってこと。
すり合わせる努力なしに楽には勝たせないよ。 予定調和っすなあ。
気持ちに揺らぎやムラ、それとの葛藤が全くないのは人として信用できん。 極論を恐れずに言うと、人生は一に拡大、二に成長、三四がなくて五に安定。
人生設計・生活防衛なんてもんは、いよいよ行きづまって生存の不安が現実のものとして
見えてきてからでも改めてゆっくり考えればいい。
ネガティブな感情から生まれる問題意識は、例えそれが解消するとしてもネガティブな結果しか生み出さない。
人間とはそういうもの。 少しくどかったね。ネガティブ云々はどうでもいいや。でもそういうこと。
喜怒哀(苦)楽の感情が湧き起こるのは当たり前だが、後味を残さないこと。
クールとか冷静とかいう問題ではなく、感情に振り回されないとはそういうこと。 ざっくり噛み砕いて言うと、あらゆることに意味があるっちゅうこっちゃな。 人間には無限の可能性が眠っていると言った世迷い事を信じる程能天気ではない。
そんなものを心の支えにしなければ成り立たないモチベーションなどろくなもんじゃない。
まあそんなことを本気で信じ込んでいるのは一部の勝ち組だけだろうが、
なんとなくそういうものとして受け入れることで、容易く人生に絶望する凡人を量産しているのも事実。 。 自他の線引きをきっちりつけること。
自分の立場ですべきこと、する必要のないこと、すべきでないことのラインを明確に。 人間は理屈で動く生き物ではないってこと。
人の心を動かすのは内に秘めた情理のみ。
上っ面の計算を超えるから人を巻き込むことができる。 自分の行く先を固定化させないこと。
現在を起点として、未来・過去にも手に届く距離というものがある。
自分の中にないものはないものとして、あるもので進むしかない。. いくら自分を厳しく律したつもりでも人間間違う時は間違うし、
むしろガチガチに管理するから失敗に歯止めがかからなくなることもある。
人間の限界を弁えた上で、根をつめ過ぎないこと。 負けた時に負けた理由なんかいくら考えてもしゃーないよ。
負けた事実だけを噛みしめればそれでいい。当座はね。 何かをすればそこには必ず批判・反発・抵抗は湧き起こる。
それはそういうものと諦めるしかない。 過ぎたるは猶及ばざるが如し。不足があるのなら補えばいい。
人間、足るを知ることも必要。 一つの考えに留まり続けないことも大切。
自分や他人を責めることが悪いのではなく、心がこわばって抜き差しならなくなるのが問題。 昨今嫌われる勇気なんてのが取りざたされているが、
勇気なんて力こぶを入れている時点でまだまだ甘ちゃんやね。
嫌われるのがデフォルトになってしまえば、何を思い悩むことも企むこともない。
無理して嫌われる必要はないが、好かれる必要もないわけでな。 言うまでもなく人生は無駄の積み重ねの上に成り立っている。
ある程度の目星をつけて進む必要があるにせよ、全てを管理できるというのは思い上がりというもの。
効率的な目標の為に生活の全てを犠牲にしないこと。 世の中そういうものだと前向きに諦めるということ。
自分の限界が分かれば無駄なものをしょい込んだり、人に押し付けることもない。
自然体で通すものは通すということ。 ま、人の生き方なんて人それぞれで外野が口を出すことではないのかもしれんね。
自分で自分を追い立てて生きるのはしんどいだろうなあ。
自分が納得しているのなら誰も文句は言えない。 できひんことはできひんけど、少なくとも生きることに本気にはならなあかんにゃろな。
それで駄目ならしゃーない。 上に立つということは人の人生に責任を持つということ。そこから逃れることはできない。 欠点を隠そうとしないこと。
そんなものはあって当たり前なので、卑下することも開き直る必要もない。
むきになって責め立てる向きには、憐れみを覚えつつも取り合わないこと。 人の意見はどんな耳の痛い意見でも聞く耳を持つ。
しかしながら従うことも含めて、最後に決めるのは自分。
それが個人の自由ということ。 怒り、あるいは相手を嫌うことを人間関係の選択肢の一つに含めない情愛は、
どんなに必死に押し付けて来ようとも愛情とは認めない。
それはどこまでいってもまがい物の愛情。
波風を立てずにいこうとしてもいずれは追いつめられて人を恨むんだから、
怒りぐらいは自分の手元に引き付けておけってこと。
どこまでなら大丈夫かの匙加減さえ見誤らなければその方が健康的。 衝突する前からへしょれてしまうような骨なしならしょうがないが、
少しは気骨があるのなら緊張の高まりをセーブしたり、後からリカバリーするテクニックはいくらでもある。
が、それは衝突を恐れない構えがあった上での話。日々の経験の中からつかみ取るしかない。 処世は自分の感覚だけが頼りだと自覚すること。
何を通そうが譲ろうが、感覚や感情そのものに手を加えることはできない。 上下関係の垣根をとっぱらうことで、立場に見合った責任の重みを自覚することから逃げる人間は信用できない。
立場が上の人間の為すことが必ずしも正しくないからこそ、上は下からの突き上げを真っ向から受け止め、
下は上が従うに足る人間であることを見定める必要がある。民主主義だのグローバルだのはその後の話だ。
世間に対抗する言葉が見つからないのなら無理に自分を合わせる必要はない。
ただ、個人の規範倫理としてそこを軽く扱うのには、
どこかに何かをごまかそうという心理が働いていることは押し付けるでもなく指摘しておく。 ま、よくよく考えたら俺には全く関りのないことだな。
多分俺の人生に全くかすりもしない問題。俺とは関係ない。この感覚は大事だな。
矢面に立たされる人は気の毒とは思うが、自己判断で動いてもらうしかないな。 あらゆる物事に白黒をつけようと躍起にならないこと。
世の中にはいい加減にしておいた方がいいこともある。
間断なくせきたててくる世間の要請は要請として、必死にならないこと。 傷つくことを恐れる気持ちは誰にでもあるが、受けた心の傷の痛みを薄めようとしないこと。
痛みを痛みとして感じることができるのは人間にとって幸せなこと。 心が高揚しそうな時ほど手元に引き付けておく必要性。肌感覚を手放さないという問題。
時の流れを自分のものにするためには、まず自分の空虚さを受け入れること。
欠点は克服するものではなく受け入れるものだと分かれば、さらに生きる意志につながる。 こういう時代のこういう国に生まれ育ったことに有難みを感じつつ腹をくくること。
社会に何の違和感も感じないのであれば、特に言うことはない。 信頼とは共に積み上げ共有したものの高さによって決まる。
自分を守るのは人との距離感のみ。 何を信じ何を遠ざけるかの判断は受け身の関係性からは生まれない。
相手の腹の中を自分からまさぐっていかないと、上っ面の好悪、立場を超えた関係は見つからない。 世の中はきれいごとだけでは回らない。
目先の損得勘定に優先する理想の存在も含めて、長期的視野に立った老獪な戦略性の必要。 後悔は萎縮、反省は改善。
自分の心の深くに根差した感覚は、誰がどう言おうと曲げないこと。 自分の中のドロドロした醜悪さを、まずは受け入れ許すこと。
あるものはあるものとして認め、先に進むしかない。 舌足らずで申し訳ない。許したところでそれが消えるわけではない。
やり場のない怒りは何かにぶつけ表現することでしか解消しない。生きるというのは面倒くさいものだね。
自分のやっていることの罪深さは自覚しているつもりだ。
だが俺は基本的に人生に取り返しのつかないことというのはないと思っている。
言うべきことがなくなればやめるまで。俺みたいな最下等の人間でも人生に何の疑いも持たずに生きている。. 怒りとは、湧き上がるそれに
これは「怒り」と名付けて、ゴミを散らかすように周囲に撒き散らかすことである。
自身で受け止めないことには、たえまない「分離」が起きるにすぎない。
自身と怒りを切り離して「怒っている私」をつくりあげることが葛藤の原因である。
実際は「怒り」だけが純然とあるのみであって、
「怒る私」は存在しない。それはあとから自身が生み出したイメージにすぎない。
「あいつが憎い、どうにかしなければ気が収まらない」
あなたはあいつのイメージをつくりあげつづけて、自分のなかに生まれたそのイメージを攻撃する。
なにしたって、無理である。撒き散らしたものが収まることはない。葛藤はイメージを作り出し続けるあなたにある。
「怒り」そのものに入り込み誰にも向けずに分離せずに、
その湧きだしてくるエネルギーと一体となるしか葛藤が止むことはない
「人生に疑いを持たず」それはただの信念への依存ではないだろうか?
宗教的でも国家的でも哲学でも思想でも、
信念を必要とする人は、実は慰めを必要としているのである
慰めを必要とするような「虚しさ」は、「虚しさ」と一体となり分離しないことである。 どんなつまらない人生でも、その人間なりに歩んできた道のりの重みがある。
ということを認めること。 過去をおろそかにしないこと。
自分を構成するものは様々な人に支えられて成り立っている。
生きているのではなく生かされているという自覚が持てるかどうか。 舞い上がった気持ちを抑えきれない向きは、一度吐き出すだけ吐き出して、
行く所まで行った方がいいのかもしれんな。
中途半端に押さえつけるのは心の健康に良くないのかもしれん。。 自分にとって得か損かの利害感覚を手元に引き付けることができない人間は結局何もできない。
エゴイズムが核にない人間ほど、薄っぺらい理想に吸い寄せられて身につかないきれいごとで自分を慰めるもの。 自分の存在がそこにいるだけで、多くの人間を押しのけ可能性を塞いでいるという宿命を噛みしめること。 大事であれ小事であれ気負わず淡々と。
どんなに力み返っても壁にぶち当たる時は当たるもの。
その時は嫌でも悩むんだから。