レ、レ、レ、レタッチマン!今が出番だ!
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いや、出番はないんだが・・・、どこへ行ったレタッチマン! >>348 1990年放送の『想い出にかわるまで』だね 今井美樹が主演で石田純一が婚約者 今井の妹役の松下由樹が姉の婚約者を寝取るはなし 伊東四郎が父親で製版会社経営 佐藤オリエが女房で大沢樹生が今井と松下の弟役 伊東四郎と色味のはなしをしていたのはカメラマン役の財津和夫 >>349 宮崎勤の実家は地元の新聞会社で裕福な家の長男 曽祖父は村会議員、祖父は町会議員を務めており、地元の名士であったらしい 勤も家業を継ぐためか中野坂上の東京工芸大学短期大学部画像技術科に進学し就職したがすぐに解雇 無職になったが実家ではたいした仕事もせずニート状態 やがて幼女殺害を繰り返す ドラマ「硝子のかけらたち」では藤井フミヤがDTPやってたな かなり古いやつの一部訂正でもとがポジフィルムしか残ってないやつどうしてる? うちではDTPできないレタッチの親父が週3ぐないで出勤してやってる。 CTPが主流になったいまでも、他会社からの流用版でポジもらいって結構あるんだよなー。 しょうがないから自分で打ち込んで返し返しで修正してるよ。 DTPしか知らない餓鬼ばっかりだから。 「アナログの設備は全て廃棄して、修正は一切できません」って言っている。 なまじ設備を残しておくと、「これ他所でやったんだけど、直してくれ」なんて言われるので。 デジコンのパスワードが実は一部の会社でもてはやされたシルティのアプリ だって何人の人が知ってるだろうか・・・・ すまんアナログのねたじゃなかったね。 ラインワークスのことですね。 シルティもデジコンもコニカだからね。 コニカついでで、去年富士フィルムに年賀状制作のバイトに行ったのだが、 こともあろうにライバル会社のコニカbizhubを使ってた。 でも富士ゼロックスのドキュカラーもあった。 富士フィルムとコニカってライバル関係じゃないの? かつてコニカからポジフィルムのデュープを頼まれたことがあった。 注意として、絶対に富士フィルムのデュープフィルムを使うなと。 まだコダックの方があきらめがつくと言っていたのを思い出した。 ライバルで思い出した。 >>356 大きな会社もフィルム全部処分してたな 訂正が入るか判らないフィルムを保管してても在庫が増えるばかりで管理しきれないらしい データから新しく作り替えたほうが金になるしな フィルムの部分修正の為にレタッチ職人を雇えないんだろう うちでは旧レタッチの職人は今はDTPの製版検査に回ってる ジジーどもにゃパソコン自体無理だわな(爆) 時代に潰されりゃいいよ昔気質の職人どもは。 >>363 そうつれない事言うなよ。 同じ泥舟に乗っているんじゃないか。 (´・ω・`)だな オペも50歳過ぎたらどうなるやら 昔受取で今はDTPの責任者やってるが、DTPのほうが楽だな。慣れればバカでもできるが給料は安い。 今でもレタッチ当時の用語が飛び出してしまったりするなぁ。 Photoshopでのゴミ取りをピンホールと言ってしまったり。 同じくクリッピングパスを切り抜きと言ってしまったり。 Illustratorでトリムマークをトンボと言ってしまったり。 もう印刷関連の仕事じゃないのに。 明室プリンターで合成してる間って、どうしてた? 30秒くらいだけどちょっと暇だよね〜 ライトテーブルの真後ろの席だった時はお菓子ぽりぽり食ってたけど、 離れたてた時は寝てたな・・・ ここも段々と書き込みが減ってきたね。 レタッチの事をもっと熱く語って欲しかったのに。 仕方ないか。 もうやめちゃった会社だけどレタッチマンだけで10人くらい 丁数送る機械(名前は知らない)が10台くらいあったな 今はみんなどうしてるのかな そのころからどんどんフィルムあるやつも デジタル化していってたからな しかし、書き込みの最初が2006年5月で8年経って374か。 1000迄行くのには後15年位掛かるね。 このスレを消化する頃には、年金を貰い始める人もいるだろうね。 この間、久しぶりにフィルムを見た。 在版からロゴをデータにしてくれって。 俺より早いレタッチマンは見た事が無かった! 受け取りやってりゃ月軽く100万は超えていただろ〜な〜〜 実際俺より遅い受け取りが100万超えていたからな〜 受け取りはバブル時代は儲けまくったらしいね 年収一千万なんてザラ 汚らしいオヤシでも 別荘持ってたり カッター握ったまま死んでたり 過労死も多かったらしい すぐデジタルに変わり スキャナーやMacオペで就職できない年齢の人達はその後に職にあぶれたが アナログの頃はブラックだった訳だが、デジタルではどうなんだ? 大日本印刷は1年に1回小学生の低学年が社会見学にくるが、解説してくれる お姉さんはいつも「ここは製版という部署です」と大きな声で説明してたな・・ 20代のころ妄想で製版界には2人の紙がおる。ひとりは「見当の神」そして、 もうひとりは「色調の神」じゃ。ある日二人の神々に質問した人がいた。 見当と色調どちらが重要でしょうか? その答えに、そりゃあ色調だろう多少見当が ズレてても色が冴えてれば読者は気になるまい。いえいえ見当でしょう。版ズレした 字や画像は、見ずらいですよ。と・・・・ そしてデスレタッチ率いる暗黒邪道製版者と魔法道具を扱う勇版者との闘いが始まる。 スペーサーのことをスペンサーと言うジジイ嫌いだった。 ドットエッジのことをドテッチと言うおっさんも嫌いだった。 基本的に俺が製版してたのはオフセットだから適当にやってたけど、何種目かは アミグラ製版だったので色分け多いと鬱だった。しかも角度ゲージに合わせて伏せないと いけないし、もちろん分解ネガも合わせてセットするので汗びっしょりだった。 検版時に角度違い発見して崖から突き落とされる気分だった。 あ、あと、無地アミ(平アミともいう)はオフセット150線、アミグラは175線だった。 画像の分解ネガは両者とも175なのに・・・ だから、無地アミ用のバインダー(厚紙で手作り)は2種類あった。 でーにほん印刷だとなぜか時間の明記が「G」だった。 本日5Gまでに校正下阪。とか。 アナログ製版時代。初任給が32マンだった。しかし残業毎月100時間だったため、 ほぼ自由は無く、会社→帰宅しメシ食う→ゲーム三昧→爆睡→再び会社の繰り返し だった・・・ 昔分解画像ネガをそっくり再スキャンからやり返ることを再アミと呼んでいたが、 DTPになった今でも、画像処理の指示カードが再アミ依頼と印刷されてる。 1年に1回は自現の現像液と定着液を入れ間違えて作る奴がおって大騒ぎになった。 朝スタートした時点ではわりとマイペースだが仕事が煮詰まって夕方以降になると、 みんな狂ったように走る。プリンターまで横っ飛びする。 今日は終電で帰りたいなあ・・・・ 色分け指定で色見本が付いて来て、カラーチャートで見てもイマイチ分からなかったので、 40年のベテランに尋ねたら、一発で答えてくれた。流石! カラーチャートも結局印刷時のインク濃度によってまちまちだから 当てにならないんだよねー。 俺がいた会社では作業靴は「サンダル」がほとんどだった。女子も結構履いていた。 見当合わせで立ちっぱなしになるし、移動はプリンターに行くくらいだから軽いのに こした事はないんだよね。 チラシをプリンターで焼いている時に同僚が話しかけてきて、 さて今スイッチを押したっけということが何度もあった。 >>398 マスク版返してる時に会話に夢中になり過ぎて、自現に通したら、真っ白 というか透明のポジが出て来てびっくりした。 明室プリンターも2種類あって、手前からカバーがかかってすぐ露光してくれる タイプと、カバーかかった後バキュームをよくするため重しみたいのが往復する タイプ。後者のは露光が長くて遅い。遅いプリンターしか空いてないとイライラ したな。でもマスター版なんかは合成してる人の隅っこで焼かせてもらってたっけ。 昨夜の地震くらい大きいのだと自現の安全が心配になるよな。 今もポジ出力やデジコンは自現部分は設計が変わらないから、大きな揺れくると すぐに駄目になる。何十年も経つのに地震対策がまったくされてない。 けしからん事だな。 蛍光ピンクをケイピーじゃなくてケイピンと言う奴がいて嫌いだった。 昼めしはいつもライトテーブルの下にもぐり込んで食っていた。 モグラみたいな生活してたな。 まだ、明室プリンターが出る前には、職人が昼に暗室で寝ていた。 夏になるとランニングになるような職人が。 ポジをポシって言うんだよ。 職人は意地が悪かった。「俺は教えないよ。教えたら 自分の居場所が無くなっちゃうから」なんて、未経験者の俺に 面と向かって言うんだもの。 で、その職人が独立して辞める時に、喫茶店に呼び出されて 一緒にやらないかと言われた。もちろん断ったけど。 別の会社だったけど、アメリカの製版の仕事もした。 ネガ製販なんだね。そしてフルブラックって言うんだっけ。 スミ版が一番多いヤツ。あれはなじめなかった。 日本でも主流になるんじゃないかなんて言われたけど あまり定着しなかったね。 赤字が「OK with corrections」なんて書いてあった。 Very Good!と書いてあると何だかうれしかった。 遠い日の思い出、長々すまぬ。 大きなアミ抜けした箇所を筆ペンで点突いて上手く修正できると、俺は書道十段 だからとよく自慢してた。 >>404 今から25年前くらいならファミコンのスーマリ攻略本をやったな。なぜか再校・念校 までは普通のポジフィルムだったけど、下阪時にネガにしてた。 あとポジをぽポシって言うのは多分江戸っ子だからだと思う。 もう忘れたが、ネガ下版もマク下だからポジから返してネガにすると マク上になるのでデュープでマク下にするとか、やっていたような。 じゃ、最初からマク上のポジだと校正で逆になるだろうと言う 得意先があったりして。ポジ→ポジのデュープはあまりやらなかったな。 今はデータだからサーバー経由とかで送れるが、昔はポジフィルムだけだから 海外にもフィルムを輸送してた。で、不謹慎だけど飛行機おちた時の対策として常に 二部製作してた。 今みたいにPCじゃなくて職人的な手作業でやるもんだから「製版」というものを 知らない人に説明するのがめんどくさかった。だもんで古くは新入社員にイラストレーター や勘違いしてカメラ趣味の人が来ることも珍しくはなかった。 アミグラ以前にコンベンショナル・グラビアというものがあったそうだが、 ポジフィルムを見ると網点になっていない有諧調ポジなるものを噂で訊いたが 詳しい人います〜? >>410 詳しくはないけど、最初に習ったのがグラビアでした。 網点が無く、言えば墨絵のような状態のモノクロポジを製版してました。 当時のグラビア印刷は、銅版を腐食させて版の深さでインキ量を調節して濃淡をだしてたようです。 ですからいわゆるピンホールの修正も大変でした。 現物ポジを見て「修正箇所の濃度に合わせたインキで、その形大きさに埋める」 毛抜き合わせのようにするわけです。面相筆で。 インキの面積がピンホールより小さい場合白く隙間が出来ますし、大きすぎるとポジの濃度+インキの濃度で、 周りがドーナツ状のゴミみたいになってしまいますので結構神経使いました。 オフセット製版みたいに大量に製作出来ませんでした。 あれほどの印刷時におけるシャドウ部分の再現性はオフセットでは無理ですね。 長文済みませんでした。 そうなのか。という事は画像部分はグレースケールの墨絵のような状態なのか。 製版の分解ネガも墨絵みたいなのか。文字の色分け(無地アミ伏せ)も30パーの濃度 の有諧調ネガ反転させて入れてたのかな。俺が製版し始めたのは昭和60代。 その頃にはアミグラになってたし、その時教わった上司は昔はアミ点を筆で1個1個 突いて平アミを作る練習何時間もやらされたって訊いてゾッとしたよ。 昔は製版を知らないデザイナーさんのために色指定や色調指示の仕方などを 解説したガイドブックが出ていたが、その本を参考までに買ってみたら 自分の会社のリーダーやベテランが作業してる写真載ってて驚いた。 >>412 平アミは事前に作っておいて、糊で貼ってました。 文字はオフセットのポジトンボ付きで、それを台紙にして写真と平アミを糊で貼ってました。 あと硬調軟調は現像・定着液の温度や時間で加減して、足りないところは筆でつけてました。 グラビアより、描き版の職人さんはまさに神業でした。 写真を見ながら、YMCそれぞれの版をインキで紙に書くんです。 それに網掛けして見当合わせて刷ると、あーら不思議カラー印刷のできあがり。 バラバラに書いてるのに、ピタッと合うんです柄も色も。 あれは自分には出来ませんでした。 グラビア印刷なんかでも機上で職人が部分的にエッチングしたりしてたしな グラビアのグラデェーションは大変そうだ。うちの場合は薄い髪にエアーブラシで 作ってそれをカメラ撮影してたからボケ足がイマイチだった。雑誌の商品の影なんか は墨1色で済ませてが、編集の人かクセ者で赤字に「技術の粋を見せて下さい」 なんて書かれていてウンザリだった。そしてその時製作したグラデは元にいつか また使う時のためにお道具箱に保管し返し返しで使用してたのだった。 残版整理でヤレフィルムの入った麻袋を捨てに行くのは男共の仕事だった。 自分のいる部屋は2階でフィルム置場まで2kmはあった。帰ってくると手がしびれて カッターの動きが鈍かった。 フィルム。文字で書くとこうだけど、みんな「ふいるむ」と発音してた。 フィルムにも様々な種類があったな。合成用。返し用。キモリス。ストリップ。 あとオートポジの使い方がイマイチ分からなかった。本来は色調直しに使う物 だけど、そこまでするなら再スキャン頼んだ方がいいし、専らかげ文字の 台紙用に使用してた。勿体無や〜。 入社した日だけ定時で帰り、次の日にはいきなり駅まで走ってなんとか終電で 帰ったのを覚えてる。 半年1回だけ定時で帰れて、あまりの嬉しさに駅までくるくる廻りながら歩いて 周りの人に笑われた。ひさびさに早く帰れるが何しようかと色々考えたが、 結局は普通にメシ食ってテレビ見てゲームして風呂入って少し早めに寝た。 ちょっとアニメに興味あって、アニメで使う小型ライトボックスが家にあるので、 こっそり分解ネガを返して複版し、見当合わせを楽しんだ。 入社するまでは昼寝なんてめったにしなかったのに、毎日毎日8時から12時まで 働かされ、いつしか昼寝が日課になってしまった。 真にすまん。8時から24時までだ。 ついでに言うと昼寝はガチでみんな枕と毛布を持参して机の引き出しにしまっていた。 無い人は古くなった原稿管理のビニール袋にプチプチとか詰めて簡易枕作ってた。 何回も手直しで色調直して駄目だしされると「レタッ恥」と言われて罵倒された。 初校はともかく、再校はやり過ぎなくらいがいいと思う。 それをちょっとずつやっても、なかなかゴールにたどりつけない。 行き過ぎて戻る方が結局は早いと思う。 製版機械(スキャナーとか)のカタログがテーブルの上に置いてあったのでチラっと 拝見したら、ポジフィルムの面付けの自動見当合わせ貼り込み機みたいなのがあったのを 覚えてる。どんなのか知ってる人いますか? でも、そんなのよっぽどの大手じゃないと 使わないだろうし基本人力でやるよなー・・・ ネーム台紙のネガをセットする時微妙なサイズだと四つ切りと尺二にするか迷った。 同様にBサイズとAサイズも迷った。 プリンタで合成する時間違えないように各フィルムに色丸シールを貼ってたが、 DTPになりその必要性も無くなりメーカーは売り上げは急降下になり賞与も減った ことであろう。 初めてAGFAゲバルトフィルムを見た時は驚いた。ベース面が紫、膜面が青緑。 ちょっと感動した。 あれって単に科学薬品の色なのかな。 絵柄の点数が多いと画像貼りの効率をよくするため「デュープ」をリバーサルから 起こして作成してたが、切り抜きだとほとんどトリミングが合わなかったため、 切り張りするので全く意味が無かった。それにプラスして色調もオリジより少し 劣化するため、結局再分解時にオリジからスキャンし直し切り抜きし直しで 散々だった。 昼ご食べる時にストリップコート(赤ストとも呼んでた)に挟んであった 薄い紙をライトテーブルに敷いて大活躍してた。課によってはコピー紙の 代用にして経費削減してた。 あと、床掃除の時にヤレベースかフイルムをテープで貼ると埃が集めやすく チリトリよりこっちの方がデフォだった。 ここはマッキントッシュに負けた「オヤジたちの戦後」スレですか? というのは冗談ですが、わたしも1つ。 1985年に東京に震度5の地震があった。 そのとき、自動現像機の現像液と定着液が混ざったのではないかと、 ビル内の各所で大騒ぎになった。 結局多少混ざったかもしれないが、ちゃんと現像できるので レタッチャーは早く帰りたいので、フィルムを流し始めてしまい、 チェックを担当したやつらはだんまりを決めた。 でーにほんの委託で働いていた。 所属は写真製版第一課。 刑事ドラマの捜査一課みたいでかっこいいと思った。 委託っていわゆる「受け取り」とは違うんですか? 受け取りさんって、80年代前半は月100万くらい稼いでいたけど、 90年代は仕事なくなったはず。 委託と受け取りは違います。でーにほんに設備(フィルムなどの資材)を全て借りて 製版代だけを要求するシステム。今は分からないけど昔はほとんど委託だった。 さらに画像部門と組版部門と製版部門が分業されていた。 ネットでいんさ〜つ!プリントパック の社長は、製版切り捨てて、 アイデア大量生産と投資をしながら、 売上をすごい上げたんですね。 Googleブックで 「気軽な印刷を提供するプリントパック」 で検索。 >>434 俺は射精四課にいた。 同じフロアーに中国人が何十人もいた。 彼らの仕事ぶりを見て、中国人が大嫌いになった。 ごく、たまにだがが、○×は何処ですか? と訊かれることがあったが、自分の課と 食堂とプルーフ校正の場所以外は知らなかった。 今でこそデジコンだけどDTP初期のころまでスパコン(手動式コンセ)だったので、 初校出校はピン穴なくていちいち見当合わせにゃいかんし、下阪時も全てポジ貼り だった。でーにほんには原版管理倉庫があるがまだ稼動してんのかな? コンセンサスなんて20年ぶりに聞いた言葉だ。 で、でーにほんの方は、いま何やってるの? でもデジコンだってデジタルコンセンサスの略でしょ。 「愛という名のもとに」のチョロの上司役の人って、 もうこの世にいないんですね。 DTPやる前よく観ていた。 市ヶ谷にいたときに、MPSていうのがあった。 写真と地アミが貼り込まれたのがネガで出力されて来て 後は文字台紙の色分けをするだけというやつ。 あれで請負の単価が随分と下がってしまった。 MPSはミスが多かったなあ。うちではミスがある時は伝票出して単価訂正してたよ。 角版と平アミは組むけど切り抜きはやってくれないのがズルいよなー。 あと、アミ伏せ専用のチントエースってものあったね。 >>445 チントのおかげでマトメが随分と楽になった。 それまではマスターの平網を返して使ってたけれど ゴミやムラで苦労した。 そのMPSはフロントエンドがマックにとって変わられる前か後のことか。 いずれにしても、昼間っから書いてる良い齢になっているはずのおじさん、 いや先輩がたは、今どうなさっていらっさいますか? その世代でDTPオペレーターに移れたのは、ごく一部と思われ。 セパネガレタッチ時代からの人にはPCはキツいよね。 うちは主にポジ出しの面付け張り込みと検査。手が空いたら切り抜きだけやるとか。 当然CTP主体の現在ではそんなに仕事はなく週2とか完全バイト扱い。 今の子は青のマジックで版下原稿の上からずけずけと書き込んだらビビりまくるぞ! もうこの知識はオッサーンとオバハーンの照明になった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる