昔の神奈川中央交通 [無断転載禁止]©2ch.net
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昔の神奈川中央交通バスについて語るスーレだお♪マターリいきましょう。 >>862
B905Nってやつだね。
側面の窓が斜めのメトロ窓の。
ナンバーが相模2こ●●●●から相模22か200番台あたりだったから年式としては1970年前後だね。
さらに遡ると、日野RB系帝国ボディの貸切車なんてのもいたようだ。 試作で入った冷房車は、早期に引退したけど再就職できなかったのはなぜでしょうかね? お彼岸に日野公園墓地まで臨時便出してたことあります? 神奈中は、寒川神社や平塚七夕などのイベントのための臨時便を律儀に残している印象。 その正月の高村団地発着の寒川神社行の利用状況ってどんなものなのか >>860
ググッてみたらこんなのが。
ttps://ameblo.jp/maryamo-photo/image-12304758588-14013215507.html
ここの3枚目の画像がたぶん横浜のK-MS615Sセミデッカーだけど、フロントマスクは普通のようですね。
4枚目のフルデッカUも懐かしい
>>862>>864
ttp://tekuteku.ongaeshi.biz/kc-no14/y971f.jpg
大御所からの借り物だけどコレ? >>870
その横浜のやつより後に入ったのが、何故かMP117と同じライトベゼルだった。
大御所の借り物が「タラコ」その前がMRと同じ顔。 >>871
そうそう。1981年式のね。
ライトベゼル間に行灯がなかったから、何となくあっさりした印象だった。 >>873
>>872だけど、俺の記憶違いかもしれん。
ただ行灯あっても、ヘッドライトと一体型ではなくて独立型だったような…。
今度の休みに真剣に画像を探してみる(笑)。 >>874
たぶんそれが正解かと?
ライトも行灯も出っ張っていたから、運ちゃんが改造と言ったのかも? >>876-877
何故か非冷房MPのひ14が人気ですねw
自分もよく乗ったので懐かしい限り。
地味に貴重なのがBU10Dのは57の写真ですかね。
大御所では『は12』とされている相模22か15-15のナンバーをしっかり捉えてますし、
78年下期車の分割方向幕車が系統番号設定後の姿で走っている点が良いですね。
他にも80年上期の冷房K-U31Lも貴重。戸袋窓が一段落としの3E量産冷房車は少ない…
試作冷房のひ68の前扉が4分割(い61は2枚窓)であるとか、
非冷房が惜しまれる『は37』の北村CJMとか懐かしすぎます。 >>877
さ56のボディとシャーシはどこのメーカー? 富士重工日産厨(3E・5Eが好き。7Eはそこまで好きじゃない、あといすゞよりも日産が好き)
の自分には2つ目左下の冷房付きで後方のL字のダクト?の形状の3Eが
ガキの頃至高の形だった >>881
これ天井のルーバーが独特だよね
さ以外で見たことない >>880
これは確かK-CCM410(川重)で89年頃までは走ってた。
K-CDM410もいたはずだけどネット上で画像を見たことが無いね
同時期には秦野と津久井でMK116Jを投入してたけどいすゞの投入は無い。
登戸線用にはこの後に唯一のP-LR312J(6E)が配置されたけど、これも謎車両だよね。 登戸って1985年に一度だけ乗ったんだが、その時はMP218Mだった。 >>876
>>877
このあたり余裕かましていたら、7年程度で廃車になったから貴重です!
>>885
それは当たり! >>887
このあたりの神奈中は、新車が登場する半期ごとに、方向幕や前扉や冷暖房や降車釦音などなど、著しく進化を遂げていると感じてた。今とは違って新車と廃車の格差がとても大きかった。
自分も被写体対象にしてたのは新車がメインだったけど、もっと古いバスを撮影しておけばよかったと後悔している。 >>887
撮影時期と撮影対象が渋くて素晴らしいです
U20Nのひ69は廃車が87年の3月頃のはずなので最期の姿でしょうか…
U20Nは元々平塚に配置が無くて、どこかからの転属車だった記憶がうっすらあります。
(大御所では誤ってひ54として掲載されてますね)
当時惜しかったのはひ74・・・
80年下期投入車なのに非冷房だったから87年5月に廃車。恐らく実働7年未満ですよね。
試作冷房もいたのに、平塚は何故かRC321は全車非冷房での導入というのは何故だったのか… >>887
ち46は1979年下期導入で、新製当初はふ117(長後)だったやつだね。この代のBU10D富士重ボディは、神奈中全体でもふ118と共に2台しかいないレアな存在だったけど、そもそも新製で藤沢に入ったことが不思議だったなあ。
>>889
平塚はMP118Mがメインで入ったし、当時はやはり『日野といえば伊勢原』だったから、妥当じゃないかな。舞岡にも非冷房のRCが2台入ったけど、むしろこちらの方が驚きだったな。
RCの量産冷房車は戸塚・大和にも入ったよね。 あと5年以内に見れなくなるのは日野車体、西日本車体、そしてふそう偏平ノンステかな。 トリコロールの神奈中は特定が大半だけど、
一般路線は
神奈川リハビリ〜七沢温泉、広沢寺温泉が有名だったな。
(リハビリ完成前は小野?小野橋からだった。)
接続が悪くてあまり利用機会なかったんだけど。
(時刻表も小型バスで運転と記載)
この当時ポンチョとかなくて小型バス自体神奈川県内は少なかった。
(多分知ってる範囲だと、箱根地区除くと藤沢〜高根の江ノ電ぐらい)
いまはどうしてるんだろうか?
ダイレクトで直通なのか、まだリハビリ乗り継ぎなのか。
他県に越してから分からん。 こうして見ると、RC321の試作と量産冷房車で結構差異があるんだなぁ…
試作はK-規制前、量産はK-規制対応だからなのか、ルーバー配置と床下コンプレッサー搭載位置が
静岡交通にいたRE141の冷房改造車とよく似てる
>>890
RE140/141時代までは平塚にもそこそこ日野車はいたんだけどね…(ひ129とか)
でも座席配置が今で言うラッシュ仕様で後輪タイヤ上まで両サイドとも一人がけ座席だったから転属車?
>>891
は61の北村冷房CJM大好きでしたw
冷房はヂーゼル機器の分散型だったとは記憶に無かったのでサイド写真で知れてありがたいです。 >>895
確かに平塚は1977年上期のRE140が5台と下期のRE141が4台いたし、更に遡ると帝国ボディのRB10とかいたからね。
試作冷房車のひ68は最後尾の座席が4人掛けなのは有名だけど、同じ試作冷房車のい61は普通に5人掛けだったよね? >>896
い61は乗車したことがないから分からないのでゴメン。
ひ68は数回乗車して、最後尾の座席の中央にはシートがなく、イメージとしてはPJ-MPワンステ車の前輪
タイヤハウス上の荷物置き場と似た感じの樹脂製マットに金属の棒で囲われていた。さらに金属プレートで
「ここに座ることはできません」みたいな注意書きが設置されていた記憶があります。
ちなみに、ひ130(RE140)とかひ20(RE141)とかひ36(K-RC321)等の非冷房車は普通に最後尾5人がけ。
い46(K-RC321の初期量産冷房車)も5人がけ。
考えられるのは後軸重の問題で、量産冷房車はコンプレッサー搭載を前方にしたものの、試作冷房車は
後方よりだったので、冷房ユニットとあわせて後軸重が厳しかったのではないかと。
また、ひ68は座席配置が非冷房車と異なっていたので、後輪あたりから2人がけを増設し、立席削減し
座席も+2だとまずいので最後尾を-1して調整したのかもしれないね。 https://i.imgur.com/gXR9euR.jpg
スレ違いすまそ。今までアップしてきた写真撮っていた頃の箱根登山バス神奈中古と、近くにあった工場 なんか見にくい写真ばっか披露してすみません。
ネガをスキャンすれば良いのでしょうが、断捨離してしまいました。 >>898
工場の写真の最後に写っている神奈中塗装のMK115らしき車、
大御所で前方から撮影されてた小田急車両工業の敷地にいたMK115と同じ車?
MK115Hのリア見たことが無かったけど思ったよりも近代的… >>900
B622Bのワイルドな3枚ルーバーに比べると、確かにMKは上品な印象だった。 >>898
の最後の写真にある日野車の同タイプが引退後に、ラーメン屋や居酒屋になって秦野中井インター近くで営業してたな。
平塚ラオシャンと似たタンメンを出してた。 箱根登山といえば、以前平塚駅まで乗り入れてましたよね。
幼少の頃、平塚駅で折り返し小田原駅ゆきになる登山のバスが待機しているのをよく見かけましたが、いつ頃まで乗り入れてたのでしょうか。 箱根登山の神奈中古冷房改造車は、ダクトが片側にしかなかった。でもカーテンついてシートも良くなっていた記憶。 >>898の写真の右上の富士3E仕様のBU10Dって、
カナ中時代の社番はもしや『ひ29』では?
当時の平塚では別にBU10D自体はそこそこ残っていたけど川重主体で
富士3EのBUってレアな存在だった気がするんだよね。代替は当時最新鋭のMP218Mだったけどね 昔、神奈中から箱根登山に行ったBUに乗ったことあるけど、箱根の登り坂はきつそうだったな。
小田原駅→箱根町まで最後部の席に乗ったけどエンジン音と振動がすごかった。
中ドアはステップをふさいで椅子が設置してあった。
帰りは貸切落としの路線バスだったから快適だった。 >>898
貴重画像乙!
工場でのケツ向け画像が圧巻だね。
長崎バスから持ってきたばかりのBU10。金産RE100。ナンバー剥がされたRV100P。PR95。
で、神奈中古のBU10Dがこの頃一大勢力。箱根の山登りの運用にも平気で突っ込む。BU-Dなんて、京急鎌倉の専用道路の坂で爆音の癖にちっとも加速しないのに辟易していたから、高い運賃払ってまで乗りたくないと敬遠してましたわ。
乗った人は爆音を堪能できたはず。俺は専ら呉羽のB9が来るのを待って乗ったが… >>907
そう言えば以前の箱根登山鉄道の神奈中の中古は中ドア埋めていた時期あったな
BUは知らないがブルドッグは初期に転入したのは中ドア埋めていたが、途中からその改造は省略するように変わった 神奈中民だから登山なんてちょいと足延ばせば撮れたのに、列車賃やバス賃のハードルが高かった…
左下におしり向けている初期RVの大きな一枚ルーバーが登山に多かった印象がある。ふそうとは違って、ラジエーターでエンジン見えないんだよね… >>910
その左下の写真の左隅に日野REがいるけど、帝国ボディじゃなくて金産ボディなのが渋いな…。 https://i.imgur.com/nQyAxum.jpg
また恥を忍んでアップしました。
上二枚は、当時の観光バス、二段目はちょっと前に話題になっていた呉羽ベゼルの箱根登山車、三段目は冷房化率向上のために長崎から来たやつ、それによって淘汰された日野RE、四段目は、同じ頃撮影した東急バスにはこんなのがまだ現役でした。
いい加減のスレ違い重ね重ね失礼。 >>908
RV100はわかるとしてPR95ってまだそんなに古くないイメージだけど少数派だから廃車早かったとかあるんでしょうか? >>913
写真アップした者ですが、同じ時期に、沼津でPR95
を撮影しました。沼津22き1だったかな? >>912
貴重なものをありがとうございます!
神奈中MP117の画像がありましたが、
B800の方が多かったような記憶が…。営業所によって違ってたのかな。 B8 の重低音の再来と思えたLV380も懐かしいです。 >>916
B800Nは1976年上期から1977年上期まで90台、MP117は1977年下期から1979年下期までM尺が79台とN尺が93台のあわせて172台です。 >>916
ちなみに、横浜はB800NはいたけどMP117はゼロ、町田はB800Nが9台に対してMP117Mが6 台なので、営業所によってはB8のほうが多かったといえます。 >>918
おまけに左側面と後面左に小さなルーバーの有無でエンジン音も違ったような?
>>918
その町田の一台が「ま111」で5EのUDがバトンタッチ、最近廃車になったKL-MP37がその社番。 >>921
B800Nは1976年上期とそれ以降とでルーバーが変わったね。あと1976年式と1977年上期とで前扉の幅が変わった。
エンジン音は一緒だと思うよ。聞こえ方は人それぞれだけど。 >>922
たまたま神奈中がMRを好んで入れていたので、76年上期までのルーバーがそれ以前のものなんだけどね。そのせいで、他の地域でバス窓や頭が丸いB8見ても感動しなくって…
エンジン音は個体差かもしれないけど、ルーバー少ないほうが高回転で安定していたように思った? >>923
正直B800Nのエンジン音に関しては、観光バスみたいだなとか、迫力あるな、くらいしか思わなかったから、年式による差違はほとんど感じなかったわ(笑)。
ところでMRといえば、最終導入となった1975年下期車のみバス窓じゃなくてサッシ窓になったよね。あれは初めてみた時感動したな。ただ、MR450のエンジン音は好きではなかった。1970年式あたりのMR410の音が一番好きだった。 >>918
>>919
情報ありがとうございます! 舞岡と横浜沿線なので納得ですー。
走行音や、行き先と戸袋の間の細長い固定窓が凄く印象に残ってて。
画像やあの音を聞いてみたいね。 東急は以前は長期的に使うイメージだったが、今は逆になったなあ。
と、思いきや以前の神奈中が早過ぎただけ。
東急はこの頃から13〜4年で今と余り変わってない。 >>924
一番後だけバス窓だったやつですな。
その前までのMRのエンジン音の違いがよくわからないのだが、そのMRだけ明らかにエンジン音というか排気音が違ったね。
ただ、3ルーバーじゃないMRは個人的に許せなかったのよ… 廃ガス記号が付く前の昔の神奈中って、前の折戸が後ろに向かって開く仕様だったけど
大御所見ると、開いたときに戸の下の方がステップにめり込むようになってるのと
なっていないのがあるよね。
途中で設計変更したのかな。 P-規制の頃は、仕様変更の盛んな時代でしたね。
三菱がフィンガーシフトコントロールでモノコック
いすゞ、日野がスケルトンボディの棒シフト
日産デがデジタルタコメーターとか。方向幕も白幕けら黒幕、そして系統番号入りと変化激しい時代でした。 連投
けら⇨から
あと波型塗装から直線塗装への変更もありますね。 冷房車導入当初、いすゞは座席上の送風口が無かったりとかikコーチボディと富士重でエンジン音が違ったりとか結構変化が激しい楽しい時期でしたね。 >>929
ドア開閉装置の関係で78年式あたりで仕様変更していると思った
RE141あたりですでにドアがステップに食い込む形になっていた記憶がある
>>930
個人的には日野のP-HTのゲート式シフトが至高の一品だと思う
でも運転しにくそう…特に3→4速とか
>>932
いすゞの座席上の送風口はCJMの頃からあるんだけど、全席じゃないのよね。(ヂーゼル機器製の場合)
5Eなら88年下期のひ137でもこのタイプでびっくりしたもの。(5EでもUDならFHIクーラーで個別送風口あり)
7EになるとP-LVもヂーゼル集中型に変わってFHIクーラーに近いタイプになったけどね。
FHIクーラーでも3Eの頃は吹き出し口が小型の調整できないゲジゲジタイプと、大型のルーバータイプ、5Eと同様の
小型丸型の吹き出し口と3タイプあった。 >>933
前扉はステップの張り出し形状を変えたのではなく、開閉装置の関係だったんだね。
FHIのU31の冷房車でも、80年下期のはゲジゲジと大型のルーバータイプの
両方が1台で混在していた。
81年上期のはゲジゲジの部分も大半が大型のルーバータイプに置き換わったけど、
81年下期と82年上期は客席部分が小型丸型になって、運転席と前ドア周囲に
ゲジゲジと大型のが残って3種類が混在していた。 初代カナちゃん号は、路線車で初めて?の黄色ベースでない塗装でびっくりしたけど、神奈中バス独自仕様の運賃支払い窓も無かった。 >>934
平塚車だと、80年下期のひ57が各座席にゲジゲジ型を装着、運転席横と非公式側4枚目の窓横のピラーに
ルーバー型を縦に搭載していたと思う。
81年上期だと、ひ50が各座席ルーバー型を搭載して、ゲジゲジは前ドア上に2個搭載に変化していて、
81年下期だと、ひ99が5E同様の小型丸型を各座席、ドア周りにルーバーとゲジゲジ搭載の3種混載。
82年上期だと、ひ120(平塚最後の3E)がほぼ5Eと同様の配置だったと思います。
他にもマニアックな点として、81年下期から非公式側座席のうち、後ろのタイヤハウス前の座席の足元の踏み台?
が従来の長方形でRのついたものから、正方形に近いタイプに変更されて、踏み台からイスの後脚が生える
タイプになって5EのK-U31Lとほぼ同様の座席配置に変わった記憶がある。
>>935
確かにダンゴムシに似てるw
このダンゴムシ型の吹き出し口は7Eになってもドア付近に健在だったね 試作冷房のあ115は見たこと無い吹き出し口だったよ。
車内のエアコン装置の蓋も違っていた。 >>938
そういえば、あ115は乗車したこともないし、車内写真は見たことがない・・・
ちなみにひ68は後の量産冷房車のRCと同じ吹き出し口。
MP118の広告枠の上に並んでいた黒くて細長い吹き出し口が各座席のところにあるというびっくり仕様。 昔は東京の23区内まで行く系統があったって聞いたけど本当かしら?
今よりも守備範囲が広かったのかな。 >>940
パストラルというサイトによると、1966年の路線略図に新宿駅西口まで路線がひかれている。どこを結ぶ路線だったかは不明。 >>940
確か、相模湖(駅)だったような。その名残が相模湖??八王子線だと思う。 新宿西口に相模湖の幕を付けた車が停まってるなんて胸アツだね。 >>943
昔は夢のような路線がたくさんあったようだね。
吉祥寺駅〜原町田駅・長後駅・藤沢駅・辻堂駅〜江の島とか、凄すぎる。 >>941
パストラル。すごいなこれ、丁寧に記録してる。
暇つぶしにいいし見ててあきないわ サンキュー 江ノ島に乗り入れる神奈中、末期は藤沢駅〜湘南港〜辻堂駅が免許維持的に残ってたね
神奈中の湘南港停留所は江ノ島のどの辺にあったんだろう 神奈中は富士重工ボディを好んで導入してたけど、なぜ茅ケ崎に集中して入れたのでしょうか?藤沢は川重アイケイコーチばかりでしたが。 >>948
たまたまでしょ。1980年当時だと10台もおらず、圧倒的に川重のほうが多かったし。
もっと前には茅ヶ崎にUDの4R系もいたけど、特に富士重が集中してるとは感じなかったね。 1970年代茅ヶ崎在住でしたが、後部丸かった三菱MR や4Rの代替で入ったいすゞ川重の近代的ボディに感動しました。しかも2年後には前面平面ガラスにモデルチェンジしたのが入ってびっくり。 俺も相模原だから、とにかく呉羽ボディーの長尺車こそ神奈中。
由利本荘で朽ち果てようとしているのが惜しい。 >>944 その相互乗り入れの相手先、小田急バス路線で吉祥寺駅発大秦野駅行はいつまで走っていたのだろう
1970年くらいまでは秦野町駅(上宿通り)バス停で見た記憶があるけど
神奈中の社史って路線圏内の図書館に行けば見られるんですよね。 >>941-943
新宿西口〜(甲州街道・八王子駅・相模湖駅)〜上野原
後に新宿〜八王子が廃止になり、八王子駅〜上野原を京王バスと共管。
その後、京王が撤退し神奈中も[八07]八王子駅〜相模湖駅、[湖24]相模湖駅〜上野原に分割。
京王の[山31]高尾山口駅〜相模湖駅は90年代初頭まで運行していたが現在廃止。
八王子周辺での京王と神奈中のエリアは結構絡み合っていた。
1970年代後半まで八王子の寺田、大船付近は神奈中津久井のエリアで
当時は[八72]八王子駅〜橋本駅も津久井の担当。後に「さ」→「た」
さらに遡ると八王子駅〜(高尾、マチカイ)〜相原駅、高尾駅〜相原駅が京王の路線で
橋本駅〜相原〜上大戸(大戸ではない)が神奈中担当。
ちなみに系統番号が付いた当初、相原は「原」じゃなくて「相」だった。
[相21]橋本駅〜大戸だったんだよ。 地元の中学・高校だったが、修学旅行では
神奈中の観光バスを利用したことが一度もない。 中学の遠足でなら乗ったカナ?
中1最初の遠足は非冷房のB806Nか何かだった。
マンモス校なのでだいたい3社位の梯団、相鉄/神奈中/イースタン/京急からどれが当たるか?になる。イースタンや京急MSセミデッカーが人気だったが俺は大体神奈中の呉羽タラコを引いていたような。流石に冷房は付いていた。 今更ですが、間01と間03系統の違いが判らないので教えていただけないでしょうか?
たしかターミナルができる前から「鶴ヶ峰駅」行を名乗っていたのに、いつの間にか廃止されて
ターミナルができた時は逆に間01が「駅」行になっていたので…
あと間03っていつ頃まで走ってました? >>956 神奈中本社のある平壌市民でしたが、 まず観光バスと言えば
富士急.登山. 伊豆っぱこのどれかの車でしたね。 近場だと神奈中の乗合車
で行ったことも多々あった。 当時は神奈中はバス代が高いから
遠足なんかの仕事は頼めないとかのうわさは有りましたけど。 >>959
いまの鶴ヶ峰本町、当時は「鶴ヶ峰」で折り返していたのが間01、
旧バスターミナルで折り返していたのが間03、のようだけど、
旧バスターミナルは今の商店街駐車場ってことでいいのかな。
(南口から現バスターミナルに向かう相鉄バスの「北口」のバス停は、
その中に残している)
http://hamarepo.com/story.php?page_no=0&story_id=3569&from=
これを読む限り相鉄のバスターミナルとして作られ、
今も相鉄の持ち物のようだけど、
神奈中はそこに入っていったんだろうか。 神奈中に西工ボディが入った時は感動した。神奈川県では、西工ボディは、横浜市営バスの循環系統にちょこっと入ったのと、伊豆箱根の観光バスしかなかったのが
21世紀に一気に入ってきた。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。