昔の神奈川中央交通 [無断転載禁止]©2ch.net
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昔の神奈川中央交通バスについて語るスーレだお♪マターリいきましょう。 昔のま
鶴川駅〜鶴川団地線はまのドル箱路線だった。 それほど昔ではないが、かつては横04は後払い整理券方式だった。
前払い均一運賃の横浜駅西口に、異なる運賃支払方式の路線が乗り入れるのは異質だった。
それでも大多数の乗客はちゃんと順応していたが、乗客と運転手がトラブルになっているのを目撃したことがある。
その乗客の言い分は、乗車した時にバスカードをカードリーダーに投入したのに、なぜ降車する時もバスカードをカードリーダーに通さなければならないのか、というものだった。
(当時はバスカードの時代だった)
その時は私も運転手に加勢してその乗客に運賃支払の仕組みを説明し、このバスは運賃後払い方式なので、降車時にもバスカードをカードリーダーに通す必要があることを納得してもらうことが出来た。
今では横04は、前払い・行先自己申告方式で運行されている。 町47 町48 買物バス
そして、あと数日で町11 町14 町42が仲間入り…… (´・ω・`) 神奈中指折りのドル箱路線戸62が走っていた頃の長後は輝いていたな。
あの激狭な東口の浜銀前で誘導員の笛を合図に、長尺のブルやエアロKが方向転換をする光景こそ神奈中らしさの凝縮だったな。
やはり神奈中には広々小綺麗なターミナルは似つかわしくない。 あんな想定外な場所に小綺麗なターミナルが本当に出来たからね………
乗り入れてくるバスのダイヤは劇的に歯抜けになったが。
小田急の方も今や、昼間は各停のみ10分に1本だけ停車する寒駅になってしまった。 本厚木駅南口〜長後、藤沢、茅ケ崎、綾瀬車庫、用田車庫、伊勢原
が同じ乗り場から発車していた。
なかなか定刻運転が難しい路線ばかり。 神奈中で誘導員を使った折り返しといえば昔の原町田駅かな
中山行とか瀬谷行とか相模原病院行とか長距離路線が多かった
その頃は上溝や淵野辺駅北口にも誘導員いたような、、、記憶違い? 前扉が後ろに開く
床が木
シートがビニル張り
非常口が中央にある
降車ボタンが緑パンツ 戸塚駅の大踏切脇から出ていた横46
日中でも頻発していた。 >>12
前ドアが客席側に開くのはなぜだったんでしょう!? 車掌専用
灰色パンツボタン
冷房車のペンギンヘッドマーク >>9
長後街道路線が長後(立場じゃないよ)で分断される前は更に凄い事になっていたのでは。長後操車所は戸塚の配下だった。
>>11
小田急の優等系が停まらない駅、で察して貰えると思っていた。長後駅東口。
>>12
中央非常口とは。北村、富士のBA30とか呉羽のMR490ですかね。
東武が1980年頃にCJM500の富士3Eで中央非常口仕様を出してきたというのは、蛇足か。後付け冷改された個体もいた。
ビニールシートは、凄まじい色の日焼けと、夏場は本当に焼けちゃって、背ずりに凭れるのが憚られるのが。ザラザラシートが神に思えた。
>>14
神奈中名物謎仕様でしたな。停止しきる前に開扉する運転手も多く、ヲタ席では素晴らしい迫力を堪能出来たw 橋本〜相模原のように同一区間になん系統も存在した。
少量多品種の神奈中。 水道道〜戸塚駅 のように起終点両方書いてあって、系統番号がなかった。
前の方向幕の左側の系統幕は、前のり前払いと運賃の支払い方法が書いてあって、系統番号が出来たとたんに運賃の支払い方法から横46のような系統番号を表示するようになった。 ボケる前に書いて置く。ってことだよ。
ナウでヤングな君達も、GGIになればわかるさ。
>>21
町田が以前からそうだったんだよね。東京バス協会のお約束で都内のバス全てに系統番号を振る様になった時、「前乗り後払い」の幕を使ったものだから、
乗降方式の表示は何処かへ吹っ飛んでしまった。因みに系統番号は白地に青文字で、1986年の県内一斉付番とフォーマットは違う。
今考えると、横長幕を導入した時に、乗降方式幕の別途確保にこだわり、エアロスターの安全窓を潰してまでも幕を設置したのは、この時の反省が元かもしれぬ。 >>22
横浜市営バスの緑営業所でかつてあったような、系統番号を独立幕にしてた仕様は、神奈中では他には例が無かったはずなので唯一か?
今の話になるが、町田の前面LED表示は幕時代を彷彿させる「経由地・行き先」の1行表記が他所より多いような。
他所では経由地上段、行き先下段の2行表示が殆どだけど。 ピンポンパ〜ン♪
お待ちどうさまでした。毎度ご乗車くださいましてありがとうございメス。
この車は厚木8系統 本厚木駅発、松蓮寺行でございメス。
途中お降りの際は車内取り付けブザーでお知らせ願いメス。
お知らせがなければ通過いたしメス。
なお、車内でのおタバコと、危険物の持ち込みは固くお断りいたしメス。
走行中は揺れますから、ご注意願いメス。
事故防止上、やむを得ず急ブレーキをかける場合がありますから
ご注意願いメス。
車内でお年寄りや体の不自由な方のために、優先席を設けてありメス。
車内の混雑の時には、すすんで席をお譲りいただくようご協力願いメス。 >>5
たしか、横52も後払いだった記憶がある。
この路線と62・横51が笹下車庫担当だったとは、なんか非効率だった気がしないでもないな。
当時は環状2号が開通してなかったということもあるけど。 >>21
78年式までの方向幕横の小窓に系統を表示していた時、行先と系統は連動していたの?
もし手動で運転手の目視頼みだったら、
[平45][平塚駅〜小田原駅]
みたいな微妙な間違いが多発していたと思われるのだが。 >>24
「ダァ!しゃ〜りやっす! 」
ギィィィィィィーーーーーーーッ!!! ゴロゴロロローーーートッ....スチャッ! ペッ!
ウォンォン ウウウウゥゥゥォォォォォォォーーーーーーッ....ガラゴソッ...ギャッ
ウウウウゥゥゥォォォォォォォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン.......... 神奈中と言えばランダムダイヤ
昔
10 02 21 29 41 44 58
11 09 25 44
12 12 50
13 05 10 24 27 49
14 02 25 40 56
現在
10 00 30
11 00 30
12 00 30
13 00 30
14 00 30 相模原駅から国立相模原病院に行く場合、国立病院行きよりも小田急相模原駅に乗ったほうが速かったよね 神奈中の1986年系統番号設定の凄まじいところ。
・ルートナンバー概念は無く、運行区間全ての種類に対して系統番号を付番したこと。
船22の区間系統が立01とか、余所者には絶対想像の付かないことが、遍く発生した。
・幕を惜しげもなく新調したこと…そりゃそうだろ。というところだが、78年以前の小型幕車について、前面幕と後面幕を共用しそうなところ、敢えてそれをしなかった。
・旧乗降方式表示幕…系統番号表示の為だけに提供(乗降方式表示がお留守になった問題。側面の可動式の出入口幕を操作して解決すると判断していたようだ)
・前面行先幕…従前のフォーマットを保持。
・後面行先幕…系統番号と、起終点表示を同居。普通ならこの幕を前面にも充当しそうなところ、実際はそうでなかった。
エアロスター黒幕新車の、系統番号相当部分が艶消し黒の目隠し板を施され、運用していたのも思い出。 そうそう、黒幕が出たての頃、
なんで行先表示が右端に寄ってるんだろうって思った。 >>16
非常口が中央にある車両
日野RB10もな。
最後まで残ったのは、津久井の富士重BA30で1980年下期まで、でよいよな。 富士重工3EのU31冷房車のエアコンの吹き出し口のバリエーション。
半期導入ごとにコロコロ変わったな。 金産ボディのRB10て、舞岡と秦野以外にいましたかね? >>26
系統・前・横・後、全て独立操作。
ダッシュボード?に縦2横4列の幕操作ボタンが並んでいた。 富士重3Eの冷房吹き出し口(UD)
横長でグレーの固定式のダンゴムシみたいなやつ。
横長で黒くてそろばんみたいなやつ。縦方向に角度調節できる。
正方形で真ん中が金属製のやつ。縦横に角度調節できる。
いすゞはヂーゼル機器製のため、これらとは全く違ったと思う。 昔もあんなもんじゃない?
まさか、今の長後駅東口ターミナルしかご存知ない訳ではあるまいな。アプローチも、長後街道ではなく国道467に変わってしまった。
知らないとすれば、ぐぐーるマップの航空写真をご覧あれ。
長後街道を、踏切直前まで西進してきたバス(戸62ほか)は誘導員に交通整理された踏切前を左折、オリジン弁当の前あたりが降車場。古久家から横浜銀行前あたりの道幅一杯を使って、別の誘導員の笛の助けを借りて切り返し反転。
乗車場はオリジン弁当向かいあたりの線路際。踏切前で右折し、長後街道を戸塚やいずみ野、上和田団地(大和駅)方面へ。
藤沢やドリームハイツからのバス(と長後車庫の回送車)は湘南台小前交差点から北上、理容アイザワの前で左折、長後駅舎の前で右折、長後駅の階段を行き過ぎたあたりが降車場。同じく切り返し反転し、横浜銀行前が乗車場。
(店名は、ぐぐーるマップ掲載の現在のもの) >>5
運賃箱の現金投入口に蓋があったな。
停留所に着くと運転手が開け閉めしていた。
>>9
厚52、東名中学行きってなかったけ。
>>10
上溝には誘導員居たが、淵野辺には誘導員居たっけ?。
上溝の定期券窓口、かなり古い建物。
淵野辺のかなり古い待合室と日時限定の定期券窓口があった。
今現在の淵野辺の状態になっても、多摩営業所のワゴン車がバス待機所に乗り付けて、やはり日時限定で定期券を販売していた。
いつの間にか定期券の販売は終わってしまったが。
>>19
相39作の口経由、橋35大島経由、橋38南橋本工業団地経由、橋52宮下経由、橋53オハラ経由、橋55三菱経由。
>>31
相16、相模原駅〜富士見町〜仲町〜上溝〜番田駅前〜原当麻〜座間〜相武台前駅〜小田急相模原駅〜国立病院、かなりの長距離運行。
仲町、番田駅前の区間は廃止になったし。
仲町は厚木営業所のバスも通っていた。 運賃の支払い方法を表示する部分を特注したのか、いすゞのLVキュービックとその中型のLRジャーニーはあとつけのようにてっぱっていた。
前ドアのドアエンジンの関係だろう。
秋田中央交通に移籍したLRは運賃支払い方法の窓を埋めずに撤去もせずそのまま、でっぱりの上をカラーリング。後ろのり後払いで使えばよいのに。 >>42
藤沢には帝国ボディのRB10がいたのは覚えてるが、金産もいたっけ? 東海道線の踏切を渡り切れなくて電車に突っ込まれたのってB8?MR? >>25
中山市ヶ尾も、『よ』がやってた。
>>
長後車庫の跡は市営住宅だっけ?あの部分だけ道が広くなってる。
>>43
なぜかあのころのいすゞは、前ドアが開くとき『ダン』って音がしたな。 横浜駅西口から保土ヶ谷駅〜東海道〜戸塚駅方面だと、平戸団地、東戸塚駅、戸塚駅(大踏切)と昔は色々な行き先があって、横浜市営バスの平和台ゆきや芹が谷ゆきと同じバス停でかなり本数があった。
今じゃ、東戸塚駅ゆきだけで本数も半分に、市バスは廃止に。
朝の横浜駅方面は、相鉄の西横浜駅利用者のための水道道ゆきも結構あったような。
横浜市営バスのバス停だと、簡単な路線図に市バスは丸に系統番号、神中は丸の中に番号でなく神とかいてあって、神奈中の系統番号ができてもそのままだった。(今でも?) 平戸団地発水道道行き
何て言うのも1日1本有りましたね。
せっかく坂を登って来たのに誰も乗らすに出ていってた。
実質坂下口始発便だった。 戸30保土ヶ谷駅西口
系統番号付いた後も走っていたのかどうか謎だった クソ車椅子が乗ってきたせいで遅刻しそうになった。本当迷惑 >>52
戸塚発着じゃないのに なぜか戸28
逆の水道道→平団はあったの?
88 かわいいバス。乗りたかったな〜
ttp://mu3rail.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_14e/mu3rail/1966machida05-03-a8cc7.jpg?c=a1
本厚木〜八王子の路線とか。 >>57
保01 水道道〜こども医療センター
があったから保系統でもよかったはずだけど
戸27 戸塚駅〜平戸団地+
戸28 平戸団地〜水道道=
戸29 戸塚駅〜水道道
とセットで付番したんだろうね。
水道道発着便は保土ヶ谷駅東口で折り返せなかった時代の名残だから、
当然水道道発の設定はあったんじゃないかな。 >>63 保土ヶ谷駅東口にバスロータリーが出きる前は、路上バス停だったな。
水道道付近に専用の反転地があった記憶もないけど実際はどうだったのだろうか。
水道道到着→回送で浜松町交差点右折→すぐまた右折→藤棚商店街通過→東海道に戻り、水道道バス停から戸塚駅ゆきに。
とか。
横浜市営バスや相鉄バスも保土ヶ谷駅東口ロータリーがないときはどうしていたのだろうか? 水道道は「西横浜駅前」などに改称するか、サブネームを付けてもいいと思うけど、あえて放置してるの?
車内放送でも駅がすぐ近くにあることを案内しないし。 横浜の歴史を語る名称で長年続いているし。
敢えて変える必要もないんじゃない?水道道。
今の横46は、保土ヶ谷区内で「新道回り」を表示していた期間があったような。1977年前後? 羽衣町(関内駅前)みたいな扱いでいーんじゃないの? 幼少の頃、茅ヶ崎に住んでた俺は、時々親戚のいた平塚に行ってたのだが、平塚駅前では実に様々なバスが見れて、興味が尽きなかった。
特に、伊勢原から来る川重のBA30や、秦野から来る富士重のBA30、金産のRB10は、落ち着いた感じのふそうMRと比べてボディスタイルやエンジン音にグロテスクな印象を受けたものだ。
当時は小田原駅行きの箱根登山も見れたのだが、いつの間にか姿を見かけなくなった。
あれはいつまで平塚駅に乗り入れていたんだろうか? >>67
保土ヶ谷2丁目から市営が旧東海道を経由(現在の相鉄と同ルート)していたので、
神奈中は新道経由と表示していたんですよね。 よそ者だが茅ヶ崎に身内がいた俺としては、5Eの丸目車と角目車の違いがようわからなかった憶えが。
5Eが消えてからやっとその疑問が解けたのだが、
いすゞはCJMが丸目だったのがLVでは角目になったのに対して、日デはU31からU32になっても丸目のままだった。
これだけは何故だったのかが未だに謎。
まぁその細かい部分の違いがあるのは7E(窓の枚数)でも新7E(クーラー形状)でも連綿と受け継がれだが。 初めての乗りバスは相模原始発の矢部駅経由淵野辺駅北口行きだった >>53
小学生まで国道1号線沿いに住んでいて、よくバスに乗ったり、見に行ったりしてたけど、系統番号設定前は記憶にないが、設定後は見た事ないな。幕だけの存在だと思ってた。
>>066
LCD運賃表示器の下部(黒い部分)に、本日は環境定期券適用日です…みたいに、相鉄線西横浜駅ご利用のお客様は…みたいなのは字幕流れているけどね >>67>>71
「新道経由」というと、横32戸塚駅西口〜横浜新道〜横浜駅西口を思い出す。
幕の経由地表記は「バイパス」だったかな? >>75
是非復活して欲しい路線のひとつですね。
今なら当時より渋滞も無いと思うが。 >>75
戸塚時代はバイパス表記、戸塚駅表記
舞岡時代は横浜新道表記、戸塚駅西口表記 昔の巻取り式の運賃表には、整理券番号のところが黄色のものと
赤色のものとがあったように記憶している。
黄色の車が圧倒的に多かったが、まれに赤色の方に乗れると嬉しかった。
当時よく食べていたレトルトの丸大ハンバーグは、
ビーフが赤、ポークが黄色のパッケージだったので
俺の中ではいつもそれのニュアンスと重ね合わせていた。 >>78
あれ確か1981年以降で、増車した車両に設置されてた。
運賃箱も赤色のやつがセットで設置されてたね。 >>60
この形のバスっていつ頃まで走ってたんだろう? >>65 横浜市民じゃないから、平日朝のみ運行の水道道行きを見に行けない。
知り合いの湘南神奈交バスの運転手さんに聞いても、会社と営業所が違うから知らないだろうな。
複雑怪奇と言えば、二宮駅発着の団地の循環路線。
ダイヤ表と団地内の経路図を持たされて乗務していると教えてもらった。
知り合いの運転手さんは、完璧に覚えたから、地図を途中で見ることないとか。
昔から複雑怪奇な神奈中バスの路線てありましたか? 一昔前の町田の様子を記録した写真集が刊行されるんだけど、それには昔懐かしい神奈中の写真も幾つか載るらしい。
吉川百貨店の前を行く大和車なんか萌え〜だな 水道道回転は市営9系統藤棚と同じ
回送か実車かの違いだけ >>49
昭和40年代の後半まで、小田急の狛江営業所が担当していた様ですね。
まだその当時は、町田と生田(現在の登戸)営業所は無かった様だし。
>>73
淵57、相模原駅〜市役所前〜矢部駅〜淵野辺駅南口〜淵野辺駅北口のルートだっけ?。
>>83
淵24の多摩区役所〜登戸間は往路と復路で経路が違うから、スタフに地図が記載してあると聞いた事があるが。 昨日、茅ヶ崎駅から小谷行きの神奈川中央バスに乗ったんですが、声からして20代、30代の若い運転手さんの活発な声かけや大きな声での安全確認など、とても好感を持ちました
8割以上の運転手が停車の際の声かけや社内のアナウンス、安全確認さえ無いのに、昨日の若い運転手さんは久しぶりに素晴らしくて感動しました❗ 昔の神奈中のスレなんだよな。
客とウテシが喧嘩して、ウテシがブチ切れて。
文句があったら陸運局でも何でも言いやがれや。
スラロームのコーナーをジグザグハンドリングでJK達を悲鳴と号泣の巷に放りこんだりね。
ダンプの運ちゃんには挙手の礼をしたりする。というね。
楽しかったな。あの頃の神奈中があるから、今の神奈中も好きな俺が居る。 乗客満載でオラオラ運転、
降車にモタついたらプシュプシュ鳴らして煽る
でも、年寄りや身体が不自由な人の乗降には気遣いする
職人魂に溢れた運転手が居た時代 昔、洪福寺の左折レーン(曲がった先が陸橋で、渡ると浜松町の所)でバスの前に割り込もうとしたトラックがいた。
バスの運転手さんは、「みんな後ろから並んでるからだめだと!」と言ったら、
バカトラが左ミラーをバスの前につき出す→バス無視して直進→バカトラのミラーが割れる→バカトラが追いかけてきて次のバス停で運転手同士の喧嘩→お客近くの交番に駆け込む→後続のバスに乗り換え。
1980年代に権太坂にすんでたいとこが高校の帰りに遭遇した。
神奈中か横浜市バスかどちらか覚えていないというけど、昔の神奈中だったらありそうなことだな。 35〜40年前は、新車と廃車直前でかなり差があったけど、今は大して変わらんな。
バスマニアじゃなかったら、ほとんど一緒だろうな。 今はエアロスターでエアロスターを駆逐する!という時代になって久しいからなあ。
1977年 4R94をB800Nで
1981年 MR410をK-MP118Nで
確かに雲泥の差、というのも不適切な言い方かもしれんが、凄い落差はあったね。 >>95
MP38登場までは、KC代からQKG代までは意匠がずっと同じだったから、素人目には新車に置き換わった印象は薄かったろうな。
特にツーステとワンステじゃ、09年から黒サッシ・熱線吸収ガラスに変わったくらいで他は変化に乏しいし。 発車までの待ち時間にエアータンクのバルブを開いて回る。
シャーーーーーーーーーーーーーッ!!!!
ドバシャーーーーーーーーーーーーーッ!!!!
エアドライヤーの普及で今は見られなくなった。
方向幕が手動ハンドル式の頃、終点が近づくと信号待ち時に運転席を外して側面幕を変える運転士が結構いた。 >>64
水道道の折返場は市営専用で、11系統回送と28の水道道止まりが使っていた記憶があります。
神奈中の水道道止まりは、最初から現在と同じく回送で→藤棚→浜松町→かと。 >>71
おぼろげな記憶では
狩場町方向は市営も神奈中もかなり昔(少なくとも昭和40年代前半)から、現在と同じ新道経由でした。
保土ヶ谷駅方向は、市営の大半・神奈中全部が旧道経由でした。
昭和50年前後に、まず神奈中の一部便が新道経由となり(これが「新道経由」ボード掲示)、
その後神奈中全部が新道経由になったあと、
しばらくしてから、市営28・82・106が新道経由に移行したと思います。 >>82
この型の記憶はありませんが
原町田駅〜長津田駅(成瀬経由・小川経由・岡部谷戸経由)線には
帝国日野RB10と川崎いすゞBU10のツーマンカーが、
昭和43年頃まで走っていました。
前部2〜3列くらいは両側2人掛けのクロスシート、
最前列は特等席で、父親に連れられてよく座りました。
上記車種の中扉手動折戸は、車掌台から手前に引く形でした。
当時横浜市営のツーマンカー中扉は前に押し出す形で
なんで違うのか、疑問に思っていました。
車掌ブザー合図回数(願います)も市営と神奈中で逆だった記憶があります。 >>102
おー!ツーマン車乗車の記憶がある方がいらっしゃいましたか!
私はホントに幼少の頃、平塚駅〜西海岸線で車掌のいるツーマン車に乗った記憶があるのですが、当然ながら社番や型式といったことは覚えておりません。
間違いかもしれませんが、いわゆる三方シートだったような…。
バスに興味をもち始めた時は、MR410とかRB10とか4R94といった車両が全盛でした。
横浜駅〜保土ヶ谷駅〜東海道〜戸塚駅の路線の方向幕には、戸塚駅だけのものと、戸塚駅(大踏切)とかいたものがあった気がする。
1980年頃は戸塚駅ロータリーも整備されてなくて、大踏切脇に横浜駅西口行きなどの小さな乗り場があった。
戸塚駅につく前、品濃口あたりで、運転手さんが正面方向幕を動かしたのは(大踏切)の文字が入った幕に変えたのだろうか?
1980年頃だと大踏切脇と今もある、線路を渡って右側の戸塚駅、戸塚バスセンターとあと一ヶ所ぐらいのあったはずですがどの辺ですか。 大昔(三十数年前、戸塚東口再開発が始まる前)は、元町→(柏尾川沿い)→日立横浜工場前→戸塚駅東口(降車場。戸塚駅橋上駅舎の階段前)→戸塚駅東口(所謂大踏切前のターミナル)→矢部町→元町…の一方循環だった。
再開発工事で戸塚駅周辺の柏尾川〜大踏切が行き来出来なくなったから、
戸塚駅から柏尾川を渡った地点に、仮バスターミナルが出来た。一方、大踏切前のターミナルも残った。棲みわけは、仮ターミナルが横浜駅・東戸塚駅方面、大踏切前が県道瀬谷柏尾線方面だったと思うが、あるつ。
大踏切前に行く車両には、プラスチック板に青文字で(大踏切)と掲出。 大踏切の板は使ってない時紛らわしい位置に置いてたウテシがいたな。
あと、戸80が運行開始した時は、幕が間に合わないのか、しばらくは戸67幕で、『いちょう団地経由』の板を出して走らせていたけど、そもそも白幕車は起点と終点の両方の表示が出ていたから、寄り道路線だとどっちに行くのか分からなかった。 伝説の平塚駅〜相模湖駅
写真見れないかな?
笹下町〜相模湖駅とか、吉祥寺駅〜江の島なんかも見てみたい。 ハッキリとした記憶ではないのですが、三ツ境駅よりも先にも路線があって、(「東原」だったと思います)三ツ境駅を過ぎて狭い道に入ると、誘導員さんが乗り込んできて終点まで行ってましたね。
東原には「と」がメインだったけどたまに「お」も来てた記憶があります。
ハッキリと覚えてる方いらっしゃいませんか? >>108
三ツ境東原行きは、朝戸塚駅東口発が2本ありました。
オイラは吉田大橋で子供をあやしていた時に見たのが最後です。
2000年頃の話。乗らずじまいで廃止になってしまいました。 >>109ありがとうございます。
2000年頃まで三ツ境東原行きはあったのですね。
私は1985年頃に引っ越してしまったので、幼少のわずかな記憶しかなかったのですが、当時の運転手さんは手を振ったら必ずといっていい程振り返してくれたのも思い出しました。
まだ私が幼稚園児だったからですかね?
でも、当時の運転手さんたちは暖かい気持ちを持った印象がありますね。 >>110
そりゃ荒んだ運転士じゃなきゃ小さい子供の手ふりには反応してあげるでしょうよ。
ただ、今はバスにカメラ向けたり手を振ったり声をかけるのは、見るからにイタい大きなお友達ばかりになったから、運転士だって相手にしてられんわな。
特に新車厨と葬式厨。 三ツ境東原は、正確な名称は三ツ境東原住宅だったけど色々と統一されてなかったよね。
あそこの折返し場にくるまやラーメンあったけど、すぐに潰れてしまったような気がするけど
やっぱり立地が悪かったのかな? >>105
戸塚駅東口仮設ターミナルは、一度微妙にその位置(並び)が変わった記憶があるのですが
覚えておられますでしょうか?
国土地理院の航空写真(1983/10/25)
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1025637&isDetail=true
で写っているのは、最初の位置だったような気がするのですが。。。
なお↑の写真には、江ノ電の戸塚ダイエーターミナルも写っています(^^; >>113
懐かしい時代の空中写真紹介ありがとうございます。
「お」よりも「と」沿線だったので東口仮バスターミナルの詳しい変遷は存じ上げません。申し訳ない。市バス53系統も来ていたんですよね。
・西口線路際の神奈中ターミナル
・神奈中旧戸塚バスセンター
・戸塚バイパス矢沢の出口渋滞
・後年爆撃で更地になった(嘘)西口旭町通商店街
・東口大踏切の神奈中ターミナル
・吉倉橋を渡った先の神奈中仮ターミナル(目下話題になっている件)
・江ノ電の乗り場はサンテラスの周囲歩道上に分散
・江ノ電の待機場はサンテラスの上に写っているスペース?(確信なし)
・戸塚ダイエーの江ノ電乗り場(記憶より立派だった)
・神奈中舞岡車庫が一部(川の奥の一画)だけ写っている 1966年式あたりのMR490とかRB10って、座席の肘掛けが無かったと記憶してるんだけど、覚えてる人います? そのくらいの年式だと、後部方向幕なくて、ワンマン札刺さってた印象 ウテシ席の後ろに帰省バスのチラシが
ぶら下がっていたな 3:08辺りで颯爽と登場する車は元仮名中かな〜?
ttps://www.youtube.com/watch?v=obWisM1EsHo ちょっと昔になるけれど、
赤と青の紙ヤスリみたいにザラザラしたモケットの座席が懐かしい。
あれって何年導入の車までだったっけ…。 用田車庫〜社家駅〜本厚木駅南口
非冷房のブルで運用するされることが多かった
当時、非冷房のブルが長13で運用されることがなかったから斬新だった >>120
1998年上期まで。
同年下期から中ドアから後ろの公式側が2人掛けになったのに合わせて緑モケット(小田急仕様とは異なる柄)へ。
まだ地方譲渡車で走ってる現役もいるだろうけど。 前にも話題になってたみたいだが神奈中の幕は誤植が多かった
相模原時代桜84が相模原北口発着になった時側面幕が「淵野辺駅北口」になってたり
3面連動になった時の町田の桜22「聖蹟桜ヶ丘駅〜訪諏四丁目」とか :国道774号線:03/01/04 18:10 ID:lf6RPE/C ――――‐―――‐ ―――――――――――――――――――――――――――――――ヽ
γ| [急行][高森団地] |ヽヽ______________________________ |
|γ========ヽ γ ___ | | | | | |( ) ===== .| |
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|二二二\中/二二┌┐|| || ||[出口][い23] | | | オプトスズキ | ○[入口] .| || ┌┐ |
|――― \ /―― └┘|| || ||―――ヽ\\ |________| |―― || └┘ |
|(OO) (OO)┌| || || γ ⌒ ヽ \\二二二二二二二二二二 γ ⌒ ヽ 二.| || 爾爾二 |
| o o ..└| || || | ∴ | ロ ゝ――圏圏―――――‐ | ∵ | ―.| ̄ ̄ || 爾爾― |
二二二┌―┐二二二二 .| ̄|| ̄|| | ∵ |____________| ∵ | | || 爾爾 |〕
└―┘ ゞゝ__ノ  ̄ ̄ ̄ ゞゝ___ノ ゞゝ_ノゞゝ___ ノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ギーーーーンガーーーーギーーーーーーン... >>123
私事になりますが、幕の間違いと言うと町71と64系統を思い出しますね〜
町71→西八朔(現 さつきがヶ丘)という名称は改称されて20年以上経ってるんだけど…
64 →共通定期券の設定はないんですけど…
両者とも本数が少ないから気付いてないのか、それとも並行路線の横浜市営から
正しい情報が伝えられていないのかな?
ttp://light.dotup.org/uploda/light.dotup.org342600.jpg 本厚木から厚51(間違っていたらスマソ)に乗って門沢橋で降りると、絶妙なタイミングで茅ヶ崎駅行きがやって来て乗り継ぐ事が出来た。
厚51が通る東名厚木(当時)はインターの外にバスてがあった。
バブルの頃は、東名便の最終便が東名厚木止まりなんていう時もあった。 相模大橋経由
長13藤31茅33厚32厚79
厚80厚81厚82厚83厚84
厚93厚98
本厚木駅~鶴間駅
本厚木駅~海老名駅(相鉄)
本厚木駅~二俣川駅(相鉄) 相模大橋経由
長13藤31茅33厚32厚79
厚80厚81厚82厚83厚84
厚93厚98
本厚木駅~鶴間駅
本厚木駅~海老名駅(相鉄)
本厚木駅~二俣川駅(相鉄) 本厚木界隈は2000年代初めに大整理されてしまったね
青学が移転したときだっけ??
東名厚木BS前や東名中経由で国道129号を走る路線もあった
当時の路線図がどっかのサイトでアップされていた気がするんだけど
なくなってしまったようなのが残念。
神奈中は平成初めころの小田急時刻表にバス時刻表が付いていたから
路線図だけではわからない運行ダイヤの記録が残っているのは幸運だと思う 海老名付近の話題と言うと、「BUS JAPAN」という本にあった、近いバス停と言う投稿を思い出す…
相模大橋を渡る路線を含めて、あの辺りは本当に路線が見事になくなってしまい残念です。
ttp://light.dotup.org/uploda/light.dotup.org342911.jpg 長後駅西口〜相武台下駅が藤沢営業所の担当だったというのも、今となってはすごいことだな。 相武台下………更にその前は戸塚営業所の担当だったというのも。 >>133
用田と長後に操車所があったから高山車庫からの運用はなかったと思う
戸塚は立場の頃かな? 相模原駅はMR天国だったけど、依知経由本厚木行きのBUが来る大喜びだったのを記憶している。
淵野辺駅は北口に誘導員いなかったかな? 厚木営業所って、1977年にMP117が配属される以前は三菱の大型はなかったんだっけ?
自分の記憶でも、厚木ではB800とかMR410ですら見たことがない。
いすゞとUDばかり。 1989年頃、横浜博のシャトルバスを神奈中も運行していたが、
おろしたてのMP218新車を高速道路で爆走させていたな。
ダンプタイヤの音はしなかったので良いタイヤに履きかえたのだろうね。
直結ミッションのため加速は抜群で他社エアロを余裕でぶっちぎったが
100キロに達する頃にはレッドゾーンに入ってピーッて鳴りっぱなしで
シートベルトもなくてちょっと怖かった。
>>138
昔は明確に営業所でメーカーが分かれていたよね。
厚木は勾配が多いし、MRはBUより非力だったから配属なくてよかったかも。 >>139
あのシャトルバス、各社入り乱れていたけど神奈中は両替式だったから
運転手も乗客もてんわやんわだったw
少なくても横浜駅西口側は事前に乗車券を購入するシステムではなかったね 昔は津久井もいすゞばっかりだったよね。
だから、厚木担当の平塚駅〜相模湖駅でのみ、津久井界隈でMRが走ることもあったかと思ったけど、どうやらそれもなかったようだね。 >>139
おいらは東急のU33乗ったが、立ち客がいたから60キロぐらいしか出さなかったよ。
相鉄のグリーンボックスならODギアだから115キロぐらいまでは出るだろうな。 厚木のMP118はM尺で、のちに舞岡からN尺が転入と同時に新車もN尺に変更、青山学院大学
対策と思われるが、ハンドルのキレ角が悪くなり、駅前操車場の駐車がよい難しくなった思い出が
あります。あのせまい駅前操車場ながら休憩時間は「ねぎしのそば」を少し割り引いて食べられた
り、扉の向こうの休憩所に持ち込んだりてきました。 日野ばかりの伊勢原に2台だけ配属されていたいすゞ
団地下大竹から体育館前まで情けない音でやっと登っていた 金沢図書館裏の洲崎団地前で路駐して待機する神奈中
当時のR16八景界隈は京急の追浜車、堀内車、鎌倉車に磯子の市営まで入り乱れて賑やかだった >>144
伊勢原のいすゞ川重BA30なら2台だけじゃなく、けっこうまとまった数がいたよ。 昔の神奈中バスって中ドアのステップのところに
とても小さい折り畳み式の台(?)みたいのがあったよね? >>148
整理券の発行機のせるつもりだったのかも >>149
あー、あれそうだと思っていたよ。
昔の整理券発行機の箱は、でかかった。
現代になって本当に中乗りにする段になってみたら、中扉部分のポールに整理券機やカードリーダーをくくりつければ良くなったのだから、随分小型軽量になったもんだ。 >>147
CJMの直結冷房車まで北村を買っていたから、かなり遅くまでの北村ユーザーには違いないだろう。流石に銀太郎世代は買わなかったのは、いすゞマニアには悔しかっただろうけど。
北村ボディはトラックのパネルで盛業中だから、昔ながらの楕円のマークでハァハァすべし。 中扉の上にある『出口』サインの矢印の形がおかしいと思っていたのと
光り方がどことなく半熟目玉焼きのニュアンスに似ていて好きだった。 今から40〜45年程前、平塚駅〜茅ヶ崎駅経由〜藤沢駅によく乗っていた。
ふそうMR410が多かったが、何回か日野RE140に乗った記憶がある。 厚木のMP117の中に3台だけ
転入車のMP117Nがいたなぁ。 昔、東急田園都市線の青葉台駅で神奈中バスを見た時に、駅発車直後に入口出口の表示と運賃の支払い方法の表示が一斉に変わった。
前のり前降り運賃後払いから、前のり中降り運賃先払いに変わった気がしたが…
今でも青葉台駅で運賃の支払い方法とか変わる路線があるのでしょうか?
今じゃ入口出口運賃の支払い方法の表示の幕がなくなって、板に書いてあるし…
中のり前おり運賃後払いか、前のり運賃先払い申告制中降りのどちらかに変わったのでしょうか。 >>157
昔どころか今年の3月まで走ってた町71だな 神奈中の冷房車が登場した頃は、運賃幕と方向幕が独立していて
前ドアはガラスが2枚で、屋根上に大きな箱が乗っているのが
子供の目から見た場合は最大の特徴だった。
屋根上の大きな箱だけがない非冷房車は子供内には暖房車なんて
呼ばれていたっけ。
でも暖房が着いたのもこの頃だったのでその呼び方もあながち間違いでは
なかったったことだな。 1979年の夏に、平塚駅で初めてひ68を見た時の衝撃は忘れられないな。
他のバスとは違う青いガラスで冷房の効いた涼しげな車内! 最後部座席の真ん中が荷物置き場になって4人掛けだったのはなぜ? >>161
なんか車重の関係という話しあった。
軸重バランス? 試作冷房車で俺的に好きだったのは、BU20K(お106)だな。
窓半分長い車体に、BU10Dとは違うドスの効いたエンジン音…。
舞岡エリアが羨ましかった。
当時舞岡には少数ながら川重BU10Dがいたけど、他の試作冷房車が概ね妥当と思われる営業所に入った中で、なぜ舞岡にいすゞを!と思ったりしたなあ。
ま88は試作冷房車ではあるけど、車体もエンジンも量産CJMとほぼ同じだったから、あまり感動しなかったな。なぜか1978年下期車と同じチャイムだったのか謎。 神奈中は冷房車の導入と同時にふそう以外はエンジンをワンランク上げた。 昔の舞岡営業所て、冷房車が入る前は日野車とかいたような気がします。
冷房車化でふそうの舞岡営業所というイメージ。
1980年頃、権太坂上で朝、横浜駅西口行きを待っているときに、日野車の横浜駅西口ゆきに乗った記憶があるのですか。
前ドアは客席側に折り畳むタイプだったな。 クレクレで申し訳ないが用田車庫と長後操車場について教えて。
おいらが知っているのは折り返し場の用田車庫と住宅になった長後操車場のみで画像を見た事ないのですし詳細がわからないのでお願いします。 >>166
舞岡にはRB10がいたからね。
1980年頃だと短尺のRE100もギリ残ってたはず。 >>169 情報ありがとうございます。
高校時代の夏休みにその当時、権太坂にあった親戚の家に行った帰りに、出勤する叔父と一緒に乗った記憶が。
あの時代の東海道の朝の通勤時間帯は、横浜市バスも走っていたから、次から次へバスが来ました。
今も、市バスがほとんど撤退してもかなりの本数があるはず。 >>170
神奈中では、日野大型=伊勢原というイメージあるけど、40年くらい前は割といろんな営業所にいたよね。
おいらが見たり乗ったりした限りで、舞岡・戸塚・藤沢・平塚・秦野・伊勢原・大和にいたよ。 >>166
舞岡のRB10は金産と帝国の両方がありましたね。登録番号は横浜2
RE100は約10台いました。帝国のみで横浜22か300番台でした。
当時の舞岡はMR410やMR450が大半でしたが、川崎いすゞや富士重UDもいて楽しかったです。 1980年上期車配属時点での車両一覧表を見ると、舞岡の帝国ボディRE400は1971年上期車が6台残ってる。(お44・48・51・54・55・56)
他に同型式同年式として、ふ92、は1・2・4・8・43の6台があったようだ。
ちなみに1971年下期車からはRE140の導入が始まり、舞岡には1972年に6台、1974年に2台が配置された。
そして1980年に非冷房のK-RC321が2台配置されている。 訂正
RE400じゃなくてRE100です。
追記
舞岡にはRE141は配属されなかったようだ。 >>173
手元のメモでは、RE100は「お48」でなく「お45」でしたが真偽はわかりません。。。
K-RC321はトップナンバーお1・お2でしたが、横41系統の開業日の初便、戸塚駅→横浜駅まで乗ったのがその「お1」でした〜 >>175
大変失礼しました。
ご指摘通り、お48は1978年式のMP117Nであり、お45がRE100です。
入力ミスです。すみません! 日デの4R111って、神奈中では戸塚に1972年下期車が8台だけだったと記憶してるんだが、他に配属されてたか知ってる人います?
ちなみに戸塚の8台とは、と64・71・72・73・74・75・132・133。 神奈中も昔は短尺それなりに居たんだね。
物心ついたときはほとんどが長尺で標準尺が少しという感じだったが
近年(といっても10数年くらい前)はまた短尺に回帰してきたね。 昔の神奈中は大型短尺ばかりかと。
住宅団地輸送対策をせねばあかん!とばかり長尺を入れ出したのが71後、本格的には72年以降のようだね。
戸塚のトナニー他の3Eグループは良く覚えてる。降車ボタンが丸くて前面ウィンカーが横浜標準の矢印式だった。だが、猿人がUD4だったという一番肝心な事項に気がつかなかった情けない俺。
4R111(サイズ的にはこれが正当かと)、4R105(改?)両方の説があるんだが、どっちが正解? ナイルス製の丸い降車釦で次停車と表示されるやつのことなんだが、二種類あったよね。
釦部分がケースから若干出っ張ってるタイプと、釦部分がケースより引っ込んでるタイプ。
前者は『ワンマンの時お降りの方はこのボタンを押して下さい』て銘盤が緑色だった。
前者が1971年上期車のみで、後者が1971年下期車から1973年上期車までと認識している。 大御所に、MP117の導入時期について『1978年上期から1979年下期まで』と記述されているのだが、最初に導入されたのは1977年下期である。
この最初期車の特徴は、
@前扉の4枚ガラスのサイズが、1977年上期車のB800Nと同じであること。(1978年上期車から1979年上期車まではガラスが上下方向に拡大されている)
A座席がフカフカシ−トであること。(三菱以外の他メ−カ−車同様、1976年下期車から1977年下期車まで採用されたもの)
この1977年下期車は、MP117Mが9台(平塚4・厚木5)、MP117Nが19台(舞岡4・戸塚6・藤沢3・相模原6)の計28台が導入されている。
ただこの代のMP117は検索しても出てこないのが残念だ。 >>181
MP117でも側窓の上が固定だったのがあったはず。
相模22か1353辺り。 >>182
サッシ窓で上下開くのは川崎ボディーって印象。
富士重とかは上窓固定。 MP117は1977年下期から1979年下期までのわずか5期で、総勢172台が入った一大勢力だったね。
(M尺79台・N尺93台)
ただ、新成配置だけみると、厚木4台、町田6台だけだし、横浜は0。茅ヶ崎・伊勢原・津久井・大和にも配置なし。 >>184
そうそう、厚木の77年式4台は一見78年式と大して変わらなかったが
乗ると何故かボロイっていう印象しかなかったな。
上窓が開かないってのもあるんだけど、ヒーターがなかったり
腰掛けの形状とかも違ったような。
この77年式には手すりが後付けされなかったってのもあったな。 >>181
MP117なのにブザーの音がプーじゃなくてビーッていう古いタイプのがいたかすかな記憶が。
あれが77年式だったのかな。 >>187
そうですね。
当時の降車釦の音は
1977年下期まで…まさにブザー音そのもので、ブーとかグーとかギ−という感じ。
1978年上期…プーという感じのやや高めの音。音量控えめ。運転席右上に、【暗・中・明】三種類の音色を変えられる灰色のスイッチが装備された。
1978年下期以降…キンコーンというチャイム音。ただ、1978年下期と1979年上期以降ではチャイムが別種類で、音色もやや異なる。
と、変遷が続いた時期でした。 1980年上期の新車は、量産冷房車の導入、前扉折り畳み方向の変更、一部メーカーでエンジン・ボディスタイルの変更など、まさに大革命的だった。
一方この時点で、最古参の1970年式車が全体で19台残っている。
1970年式車といえば、わずか10年前であったが、座席はビニール、降車釦は大光電気製の緑色のパンツ型で、新車との差があまりにも大きかった。
残っていた内訳は以下の通り。
三菱MR410(呉羽)…2台(藤沢2)
いすゞBA30(川重)…1台(大和)
いすゞBA30(富士重)…1台(大和)
日野RE100(帝国)…15台(秦野10・伊勢原4・大和1)
なお、日デの1970年式車は既に残っていなかった。 >>190
あったらしいな。札掛?だったかな。熊しか居ない様な所。ヤビツ峠
へ抜けるのがあったらしい。 >>192
札掛もそうだが、平塚駅〜相模湖駅を担当してたのがわかるな。 路線図のブログは藤沢が面白いと思うよ。
北半分(今の綾瀬)は戸塚が担当していた時代。藤沢の市街地は藤沢銀座にも路線があって複雑だったので路線図は色鉛筆で塗り分け出来るようになっていた。因みにこの路線図、藤沢のMR410で見たかも。戸塚〜横浜間の急行系統は見ものかも。 平塚〜相模湖の急行や吉祥寺〜江ノ島はいつ廃止になったんだろ? >>198
「札掛 神奈中」でぐぐると出て来る路線図の画像→ブログになっているからその中を探す。 >>167
長後操車所は、藤沢営業所の長後駅発着路線を主に担当し、閉所直前には狭い車庫に46両が配置されていた。
当時の藤沢営業所は広いエリアに路線数も多く、方向幕が前、後、側3連動になる以前の
車両は、高山と長後でそれぞれ幕の内容が一部異なっていた。 >>167
用田車庫は、エリア的には長後に近く、長後からの路線の便が数多く折り返していたが、管轄は高山で、高山のダイヤのうち用田出退勤ダイヤが、午前、午後、通し各2本あり、4両を配置していた。
無人の車庫で、電話点呼用の高山車庫との専用回線電話だけが置かれている小屋があり、当該ダイヤは用田近辺在住の専属運転士が担当していた。
休憩は高山車庫で、その際運賃箱の金庫精算を行う。
出先車庫で予備車両も無く、始業時の故障対応が厳しい事から、常に比較的新しい車両が配置されていた。 >>202
用田って、単なる折り返し場ってイメージだったけど、そんな運用が組まれてた時代があったんですか。
初めて知りました。ありがとうございます! >>201
確かに高山と長後は運用が分かれてたよね。
通常、高山所属車が長後駅〜相武台前駅に就くことはなかったし、長後所属車が藤沢駅〜戸塚バスセンターに就くこともなかった。
ただ、イレギュラーなのか、長後所属のふ2(1978年式MP117N)が藤沢駅〜高山車庫やってるのを目撃したことはある。 >>205
試作冷房車の「ふ70」を藤沢〜本厚木でよく目撃したけど、長後〜本厚木では見たことなかったわ! 本厚木から相模大橋を渡る系統が全廃になって久しいな 1系統だけでも・・せめて免許維持路線としても・・
といいたいところだがそれすらも残ってないのが悲しいね >>206
同感です。
あと、1980年前後の話だけど、高山にはふそう・日野・いすゞ・日デの4メーカー揃ってたけど、長後には日デの配置はなかったと記憶してる。 >>203
昭和60年頃、船32の藤沢発16時15分と、折り返し大船発16時45分が用田運用に組み込まれていた。
非冷房車がそれなりに居た当時、用田の4台は既に全車冷房車で、バス通学の帰り、特に夏は確実に冷房車が来るこの時間に合わせてよく乗っていた。 試作冷房車がでた頃、旧車体、型式に冷房車と新車体、型式の非冷房車が入り交じって面白かった。 横浜も笹下と本郷で分かれてたよね。
試作冷房車のよ45は本郷所属だったから、中山方面に行くことはなかったのかな? N尺のエアロスターKや5Eがいた頃は良かったな。京王も3ドア・P尺のエアロスターMいたし。
現行のMP38のM尺は長過ぎて多摩や麻溝管轄すらNGなんだろうか? 横浜営業所には1970年式のMR410が配置されてたようなので、当時の長距離路線・笹下町〜相模湖駅(三ヶ木?)に運用されることもあったのかな?
その頃の津久井って、いすゞ車だらけのはずだから、そこに一日1本だけMRが走っていたのかな? >>0215
横浜22か6537 だったかな
江ノ電や京急は7Eで登場したのに神奈中は5Eだった
確か笹下ではなく本郷の配置だったような…
よく大船発着でよく見かけたので >>215,216
オイラは、国道平戸で見かけたので
笹下で合っているかも。 >>215
よ131だな。これと平塚のひ137は7E登場直前の異端車だったな。
つい最近のようだけど、もう廃車されて16年たつのか…。 >>218
国道平戸で見かけたのは舞岡の車両じゃないですか?よ131は本郷の車両だったと思います。どちらにしろ、
三菱だらけの営業所の中でかなり異端で目立っていましたよね。どういう経緯でああいう配属をしたんでしょうか?
あと、よ131って波型でない新塗装だけど、最初からおでこが赤くない塗装だったんでしょうか…
もっと写真を撮ってよけばよかったけど、当時は情報がないから難しかったよね〜
ttp://light.dotup.org/uploda/light.dotup.org352880.jpg よ131:富士重5E/いすゞ
おでこが赤いのは波模様から現在の直線に変わった試験塗装の62年式(横浜22か58ー●●)だから、よ131は元から現在と同じカラー
舞岡:富士重5E/UD
最初に お41.72.73、 その後に 失礼! 途中で送信してしまった…
お41.72,73、その後に お6.8.10.11.136が導入されたと記憶している うdの81年下期車の中扉ガラスには『自動扉』の白い表記の下に
何やら別の白い文字が書かれていたっけ。 神奈中でのいすゞBU10D導入期間って、【1971年から1979年まで】でよい?
最終が1979年下期というのは自分で確認してるが、最初がイマイチはっきりしない。
1971年上期は富士重のみ、下期から富士重と川重、1972年上期から富士重と川重と北村が入るようになったと記憶してるのだが。
1970年までの仕様である、緑色パンツ型降車釦のBU10Dが存在したのかどうか…。
ちなみに、1972年上期まで、いすゞではBA30も併行導入されていたなあ。 少し昔の神奈中の車って、床が木だったり、握り棒にゴムがなかったり
シートがざらざらだったり、サッシが銀だったり
中引戸だったり、テールランプが米粒だけだったり
整理券発行機が音がしなかったり、押しボタンが昔から変わっていなかったり
とにかく都営や小田急の同型車と比べて質素だなぁと思っていた。
それが7年程度で車を使い捨てにするためだというのはわかっていたけどね。 >>225
U-MPで津久井以外13年使用になってからは、国内では殆ど中古車として再就職されなかった時期もある。 少し前っていつ頃の30年前なんだよ。と言いたくなる。
床は木からイボ付き床材になっていたし。整理券機は前扉なんだから音を出す必要がそもそも無いし。
昔からいすゞ車は地方に売りやすい為か塗り直し無しの早期廃車があった。冷房化率100%に際しては車種を問わない早期廃車をやった。しかしふそうの長尺は売れなかったねえ。 最後の神奈中のブルドッグが引退したのっていつだろう? >>228
H4下期ぐらいまでは居たようだ。
一部はそれ以降も2年ぐらい湘北短期大学のスクールバスで残っていたな。
ガラスの内側から学校名が紙で貼ってあったのを覚えている。
座間四ッ谷って何も無い場所なのに矢鱈バスの系統も本数も多かったな
今では見る影もないが >>230
渋沢駅から西側は全廃されてしまった
もっとも元は箱根登山だったから、神奈中としては変化が少ないか
秦野駅〜高砂車庫の出入庫がかなり減便された気がするけど
今でも回送が結構走ってるんだよな。途中バス停で待ってるときとか乗せてくれと思うw >>231
座間四ッ谷は当時土曜のみの運行になった台08乗るためにわざわざ行った思い出が…
座間四ッ谷より隣のバス停の「沢田獣医前」の名前のインパクトが強くて覚えています。
バス停の名前変わっちゃったけど、獣医さん廃業したのかな? そういや何で台08は土曜のみ運行だったんだろうなw >>234
オイラが台08に乗った時は、
一人のリーマンが江の島線の陸橋前後の
バス停でさりげなく降りていった。
その後、ウテシが「珍しいよ。こんな所で降りるなんて。」
とヲタ席のオイラに話しかけてきた。
(´・ω・`) >>235
土曜のみ運行だと免許維持路線としては一年中で一番運行しなくて済むんだけど、(規制緩和で、免許維持という考えも今は余り意味は
なくなっていますが)今ある免許維持路線の多くは休日のみ運行になっていて運行本数を増やしているのは運転手の路線への運転習熟
もかねているのかな?それにしても台08系統は、土曜のみの1本運行で地名無しの「車庫前」行という行先で路線の存在を知っている
マニア以外は座間四ッ谷〜相武台前駅間以外はどこに連れて行かれるか分からな過ぎて怖くて乗れませんね…
↓せっかくなので昔撮った写真をどうぞ。
ttp://light.dotup.org/uploda/light.dotup.org361417.jpg 前々から不思議に思っているのだが、小泉今日子が
「厚木市在住で、津久井高校中退」ってどうやって通っていたんだ?
半原経由なら出来たかも知れんが… 荻野新宿〜半原〜三ヶ木じゃなかったか。
半原で厚木と津久井の運転手と一緒に、撮影をしていた様だが。 >>240
定期券代が凄いことになったろうね。
神奈中にしたら優良顧客だったね。 >>240
今の運賃だと荻野新宿〜半原が15,220円
半原〜三ヶ木が11,650円/月。
まあ、「ロクに通ってなかった」説もあるし、山ほどある厚木の高校に行かなくて
わざわざ津久井高校に行くってのもねぇ。今は知らんが相当アレだったらしい。
橋本からの直行便があったというのもね。 [懐かしの車内放送] 地球環境保全の為 当社では 停車中の エンジンの停止 及び アイドリングストップ車の導入を実施致しております。何卒 主旨をご理解いただき 皆様のご協力をお願い致します 昔、月刊明星という芸能雑誌があって、デビューしてから、あまりたっていない小泉今日子を取り上げた写真入りの記事で、津久井高校時代神奈中バスで通っていて、気になるイケメンの運転手さんがいる。
という内容で、バスの車内で神奈中バスの運転手さんとのツーショット写真が載っていた。
やらせがあたりまえだった1980年代だったから、運転手さんも本物じゃなくて、あまり有名ではない俳優を使って、バスだけ神奈中からかりて営業所で撮影したのだろう。
たしか、1983年の頃かな。 神奈中古の長尺車は国内では北海道を除いて
著しく不人気だったな。
特にいすゞの立方体。 2000台近く所有するのに、重整備と板金は藤沢の工場だけってのも凄い。箱根登山バス本社隣の小田急車両にも神奈中車入るんだか分からない? >>246
わが地元東海バスに何台かきたなあ。
あれはカッコいいし、海辺の集落や峠道の狭いところをガンガン突っ込むのは乗ってて楽しかった 上のほうで77年式MP117Mの話が出ていたので気になったのだけど
平塚の4台って大御所情報にもないけど、社番とかはわかりますか?
当方30中盤ですが、77年式のBU10とかが淘汰されたのは86年頃
(代替投入の新車が波線の後期型P-U32あたり)だと思うのだけど
当時廃車されたMPの存在が記憶に無いのよね。
ちなみにMP117Mで当時一番ボロの印象があったのは、ひ3,24,25の
3台で、これらはつり革の上半分が広告になっているタイプで、この辺
が淘汰されたのが61年秋頃、62年夏まで残存していたのがひ7とかの
タイプと、運賃幕が下に移動したタイプのひ46,54あたりだったかな >>249
やっと当時の話の通じる人が出てきたようなのでお答えします。
MP117Mの第一陣である1977年下期車は、平塚に4台、厚木に5台の計9台で、平塚車の社番は、94・95・112・113です。
なお、当方の資料(1980年上期車導入時点での配置一覧)では、ひ3・24・25はいずれも1971年式MR410となってます。
当時の乗車記録を見て、またわかったら報告します。 >>250
ひ112,113はS60年頃に乗車経験ありますね。
確かにMP117Mでしたが、つり革も押しボタンも標準型でしたが、搭載
されている料金箱が新型?(コイン投入口の縁取りが赤、両替皿が
かなり上のほうにきているタイプ)で印象に残ってますね。当時は湊
製作所製の両替皿がかなり下のほうについているタイプが主流だった
ひ94と95がMP118Mだった記憶は無く、ひ95に関しては川重BUの記憶
があって、昭和61年頃に急にブルドックになってしまった記憶しかないですね
ブル時代は公式側の側面の社番表記が『ひ9 5』みたいに間延びしていた
印象が強くて、確かその頃ひ5,91,92,125あたりもブルになった記憶が。
たぶん他所へBU10を放出して冷房ブルが転入したのでしょうね (続き)
その後のひ112,113ですが、こちらもやはりいつの間にか冷房ブルに
置き換えられて(相模22か2564or2565?)いたのですが、こちらは平塚
営業所で最後の新車ブルドックの投入となっています。(大御所参照)
ただし、ブルが新製配置であればS59年には営業運転しているはずだから
やはりひ95あたりと同時期に転入で置換されたと考えたほうが自然かもですね。
ちなみにこの頃、厚木の青山学院大学の輸送需要の影響で厚木にブル長尺を
集める動きがあり、M尺の冷房付車両をS61頃まで激しく放出したり、逆に藤沢で
使い勝手の悪いN尺(主にMP118NとCJM550)へ他所へ放出する動きもありましたので
(たとえばひ121-124のCJM550も藤沢からの転入車、かわりにBU10を放出)
もしかしたらこの辺の影響をうけてわかりにくい配置もあったのかもしれないですね 平塚のMP117M最初期車(1977年下期車)4台の登録番号は下記の通り。
ひ94 …相模22か1357
ひ95 …相模22か1358
ひ112…相模22か1355
ひ113…相模22か1356
このあたりの年式車は、冷房化推進の中で7,8年で廃車されていたので、1984年式P-MP118Mに代替えされても不思議ではない。 (続き)
また、上述のひ24(相模22か1414)・ひ25(相模22か1412)は、ともに1978年上期車で、降車釦の音が『プー』という音色になった代。
まだ正面の方向幕は従来通りの運賃幕と並んでいたタイプ、前扉はガラスが縦方向に若干伸ばされてはいるが相変わらず4枚のタイプ、もちろん冷房も暖房もついていない。
ひ3(相模22か1461)は1978年下期車で、降車釦音がチャイムになった代。
この頃は新車が入る度にどんどん近代化されていって、どのメーカーでも新車と最古参とでは格差が大きかった。 >>253
確かにそうなんですよね。
ただ、ひ94は86年にP-U32N(相模22か3115)に代替されているので
しばらく空番だったか、あるいはリリーフ転属があったか…
ちなみに77年式MP118の内装の特徴とかはご存知ですか? >>253-254
ちなみにこの車両の登録番号のソースってなんですか?
大御所の過去データとも全く異なるみたいですが… >>255
内装の特徴といえば、他の1977年下期車と同じで、下記の通りくらいかな。
☆降車釦は1974年下期車から続くナイルス製『とまります』表示で、音は『ギ−』といった感じ。
☆座席は赤色クッション生地でふかふかした感じ。肘掛けは薄い赤色系で、ふそうで長年使用されてるタイプ。
☆床は木。
登録番号は当時自分で目視確認して記録してた。
大御所サイトは私もお世話になっているが、過去データに関しては明らかに事実と異なる点が散見されるため、参考程度に閲覧してる。 >>257
確かに大御所サイトの情報もソースがよくわからないんだよね
77年式つながりで、ひ16,ひ20の2台は間違いなくRE141だったはず
なのに川重BU10になっていたりするし・・・
でも当時自分も5,6歳でナンバーまでは覚えてなかったからなんとも…
内装の件、サンクスです
一度だけ平塚のふそう車で中ドア後ろの車掌スペースと最初の座席
を仕切る板がグレー塗装の鋼板でなく、ベージュっぽいパンチメッシュ
仕様だった古い車に乗ったことがあるのですか、あれはMRだったのか・・・ >>258
私が持ってる1980年当時の車両リストでも、平塚には1977年下期のRE141が、ひ16・20・106・110の4台いますね。
あと1977年上期のRE140が、ひ126・127・128・129・130の5台、1979年上期の試作冷房車RC321ひ68で、計10台の日野が在籍してました。
当時、全て自分で目視または乗車して記録してあります。 >>259
ひ106以外すべて乗車経験あるわー
RE141は確か側面方向幕の縁取りが現代風になっていて白い枠が
印象的でしたね
RE140も141もとにかくサスが柔らかすぎるのかよく揺れる車なのと
中ドアからタイヤハウス上の座席まで一人がけ仕様だったから
親と一緒に二人がけ席だと前が見えなくて幼心に嫌なバスでしたw 平塚の日野車(1981年時点)、まとめると下記の通り。
☆1977年上期・RE140☆
ひ126(相模22か1207)
ひ127(相模22か1208)
ひ128(相模22か1209)
ひ129(相模22か1210)
ひ130(相模22か1211)
☆1977年下期・RE141☆
ひ 16(相模22か1317)
ひ 20(相模22か1318)
ひ106(相模22か1326)
ひ110(相模22か1327)
☆1979年上期・RC321☆
ひ 68(相模22か1628)
☆1980年上期・RC321☆
ひ 73(相模22か1726)
☆1980年下期・RC321☆
ひ 36(相模22か1886)
ひ 43(相模22か1885)
ひ 74(相模22か1888) >>261
それって小田急バスの狛江営業所が、まだ運行していた時代の時では。
おいらは、16時頃に小田急線読売ランド前→百合ヶ丘間の車内から見た淵野辺駅行き、初めて淵24の運行を見たわ。 俺は厚木で育ったけど、MP117でも異様に古めかしいのがいたな。
上窓が開かなく、つり革の上半分が広告だったのを覚えている。
エンジンの音は確かに6D2系の音だったよ。
この時の新車ブルは2〜3席ごとに握り棒が装備されていた。
従来車にもさかのぼって後付けされたが、MP117の最初期車というか
上窓が開かない車にはメーカー問わず施工されなかったね。
厚木には青学輸送のため長尺車を集めたとあり、確かにエアロK最初期車と
エアロKのトイレ床の最初期車は全車、ブルの中期車は結構まとまった数の
標準尺車は転出していたな。
唯一解せないのは、長尺ブル最終型の「あ198」「あ201」が転出した代わりに、
入ってきた新車のエアロK黒幕最初期車は標準尺だったことだな。 >>262
サンクス。
ひ110だけ降車ボタンが緑色だったような記憶がチラチラ…
ひ126からひ129は60年3月頃に転入のK-MPで置き換えられたけど
ひ130も転入だったのかな?(83年式MP)
そういった点では、ひ106と110も早期廃車?(84年式で代替)
ひ16,20のほうが61年まで粘っているので…
そういえばRC321とK-RC321では非公式側のルーバー形状が微妙に
違うのと、乗車時のエンジン音がRC321のほうはRE141よりでしたね
K-RC321はほぼHT22系に近いエンジン音でしたが >>264
上窓が開かないMP117って外観はサッシ窓になっているタイプですよね
このタイプは確かに握り棒の施工は無かったのと、暖房が無かったかも
大体相模22か31-xxから32-xxあたりで代替されてましたね。
厚木の84年下期のエアロK(相模22か26-xx)は平塚にも何台か転入して
きていたので、それらの車でボロいMP117が代替されていったりしました。 >>264
最初期MP117(1977年下期車)は厚木にも5台いたからね。
まとめると、M尺が平塚4台、厚木5台の計9台。
N尺が舞岡4台、戸塚6台、藤沢3台、相模原6台の計19台。
でもこれらの画像ってネット上でみかけないね。 >>266-267
そうだね、ボディの印象はB8に似ていたよ。
その翌々期の車から降車チャイムが『キンコーン』という金属的な音に
変わったが、またその後の期からはまた別の音に変わってしまった。
あの音、当時好きだった女の子(お父さんが神奈中社員)の家のインターホンの
音に似ていて、個人的に好きだったのにな。 そういやMP117の52年式と53年式以降とでは、
側窓の上下方向の面積の比率が違っていたことを思い出した。
52年式は上窓の方が相対的に少し小さく、53年式以降は上下ほぼ同じ割合。 昔の神奈中社員って1000万プレーヤーも普通にいて、いい生活してたよな。 >>269
確かにチャイムは1978年下期車と、それ以降のでは異なる型だったので、同じキンコン音でも音色が違ってた。
前者が♪ソー・ミー♪で、後者が♪シー・ソー♪って感じかな。
一部には例外もあったようで、試作冷房車のま88は前者のタイプだった。 そういえば平塚には北村ボディのBUって在籍したことはあるのかな?
昔MP117/118と同じ椅子の車でBUサウンドの車に乗った記憶がある
けど勘違いなのかなってずっと気になってます >>273
平塚に北村のBUは在籍したことないですよ。BAもCJMもね。
茅ヶ崎と秦野にはいたから、それに乗ったと思われますね。 小学校の頃、仮名中バスを貸し切って工場見学に行ったが
なぜか地元厚木ではなく横浜の方の車が来た。
行きはMP117で帰りはU31で自動車専用道を爆走した。
高速走行になるとU31は『ボォォォォォォォォォ!!!!!」という感じで
何かが激しく燃えているような爆音を発して必死な感じだったが
MP117の方は明らかに余裕だったのを覚えている。
北村+CJMという組み合わせを新車で導入した大手バス会社は他にどこかあるのかな?
すでに富士5Eという見た目新しいのを導入しつつ、昭和40年くらいから変わらないデザイン
の車を昭和53年入れていたのは、単に値段が安い?とか
北村のCJMは非冷房車と一世代前のBUが窓配置が一緒で
シャシのモデルチェンジとボディーのモデルチェンジがかみ合わなかったな。 北村製作所地元の越後、新潟交通、頸城と常磐交通以外で
他にありますかね?
東京、神奈川、埼玉、千葉にはいなかったかと。 >>276
当時のいすゞ系の車体選択としては
CJM550・・・川重のみ
CJM500・・・富士5E、川重、北村になっている
北村車は確かに5Eと比べたらデザインも劣るけれども頑丈だった
という話も聞いたことがあるから、川重純正との比較導入的な意味
よりも、当初から早期廃車→地方譲渡を考えての選択だったのかも。
あとは当時の状況からして大口の事業者(公営系とかKKKとか)が
大量に車両更新を行うなどで、架装がいっぱいいっぱいになり、
いすゞディーラーから納期の都合で北村車を提案されたとか?
(CJM500に川重が少ないのが気になる) >>274
以前ネットで拾った八幡操車場のS57年頃の全体写真に
どう見ても北村BUと思われる車が写っているものがあるのだが
(方向幕は分割タイプ)
とりあえず検証用画像は明日にでも用意します。 >>279
お待ちしております!
>>280
北村の冷房CJMって、秦野・津久井・町田しかいなかったから羨ましたかったな。
茅ヶ崎に町田からの転入で北村が来たときは驚いた。 >>281
厚木のいすゞ車は確かS51年以降は入ってこなかったから
「メーカー」という概念がなかった子供の頃の俺にとって
北村はすごく古いバスってイメージしかなかった。
だから町田で初めてブルーガラスの北村冷房車を見たときは
すごく頭が混乱した。
古めかしい車体に当時のヒーローだったブルドッグ並の装備だもんな。
消防の頃は、バスが古い新しいかはナンバープレートの数字で判断していた。
だから稀に見る転入車の非冷房車でナンバーの数字が高い車も
本当はナンバーの数字が同じくらいの冷房車並みに新しい車だと信じていた。
当時は転属があまりなかったってのもあるけどね。
>>283
逆に80年式くらいの平行導入の非冷房車はホントは新しいのに
何故か古めかしい印象しかなかったので、平塚のK-RC321とかは
87年に廃車になったときは当然だと思ったりw >>282
1980年上期時点で厚木には1977年式(上期か下期かは不明)の北村BU10Dが2台在籍がある。
(あ26・あ54)
ただしこれが新製配置なのか転入なのかは定かではない。 >>285
本当だググったら厚木に77年上期の北村は2台どころか結構いたんだね。
だけど下期からふそうになってしまった、と。 >>287
2台以上いたのでしょうか。
お手数ですが、参考までにググったリンク先を教えて下さい。 tp://kanachango.web.fc2.com/1981-a.htm >>281
一応これが検証用画像。
画面中央付近にRC321試作冷房が見えると思いますが、
そのとなりに非冷房ブル、そしてその隣が問題の車…
ttp://imgur.com/a/4LXzT
どう見ても川重車でもないし、富士3Eだとしたら運転席の窓が違う
全体が見えないから断言はできないけど、ほぼ間違いないかと思う >>289
大御所の過去データ、特に1980年以前のものには明らかな間違いが散見されるので、残念ながら参考程度に閲覧することをおすすめする。
>>290
試作冷房ひ68の2台手前側、これどう見てもガッチリ川重BU10Dだね。
フロントガラスの下に段差があることから、1976年上期以前のもの。
そして、運転席横が小窓であることも川重の証拠。サッシ窓の北村BUは、この部分の窓は小窓ではない。
当時毎日平塚の動向をチェックしてた訳ではない。
イレギュラー的にほんの数日間のみの在籍があったかまではわからないが、少なくともこの写真は証拠物件にはならないね。 >>292
確かにネット上にある神奈中北村車の画像を見ると指摘の通りだね
写真の角度の関係なのか川重BUにしては正面のおでこの感じが
随分と丸みを帯びていて北村っぽい顔つきだから?だったけどね。
昔平塚駅で見た秦野の北村CJMも確かに非常口近くのの窓が変則
的で運転席すぐ近くの窓は普通だったから確かにそうだわ。サンクス 北村のBU10Dは、年式によって窓形状・窓配置、前扉の幅、座席の肘掛け、降車釦などに差異が見られ、興味深い車種でした。
こーゆー30年前のマニアックな話が出きるのは嬉しいことです。 >>294
かなちゅう廃車になった北村BUは、箱根登山で冷房改造されて走ってたな。
ダクトが片方しかないやつで、ドア窓や床高さに
バラエティーがあった。 北村CJMはイスがMP117/118と同一タイプ(肘掛も)だったけど
あれは何でだったのかな?
当時川重CJMの肘掛けは黒ですごく新しく感じたものだが… >>285
>>292
そうか..大御所は頼りにならないか...
だけど相模22か1252と1253は乗った記憶があるよ。
(当時ナンバープレートと車番をジャポニカ自由帳にメモしてた)
あ26は相模22か1179のU20Nだけど、ナンバープレートがバンパーについていて
その上に謎の穴が空いていたのを覚えているよ。
あ54の相模22か1193は確かに北村だった。 >>297
後期型3Eでバンパーにナンバーつけていた車というと『よ77』が
画像で残っているね(大御所にある)
ところで、前面方向幕が分割だった時代の話ですけど、
まだ系統番号が設定される以前の平塚で『満員』という表記が
表示されていたのを見た記憶があるんですけど、知っている人います? >>293
例の写真、どう見ても川重ではなく北村に見えてしまう。
北村でもCJMは運転席直後は小窓だったので、
秦野の80年式CJMが検査とか貸切とかでたまたま八幡に入庫していた可能性はないだろうか。
北村CJMに非冷房仕様がいたかどうか定かでないが。 >>299
北村CJMは非冷房がBUと同じ中ドアから後ろ5枚窓、冷房車が中ドアから後ろ4枚窓でした。
上にある箱根登山いったやつがBUでバスコレクションになったのがCJM >>299
80年式のCJMである場合、例の写真の車はまず前面方向幕分割
タイプなので違うと考えられます。(79年式BUから大型タイプ)
それと>>298でも指摘されていますが窓割についてはこの2枚で
ある程度わかるかと思います。
(80年式非冷房CJM)
ttp://tekuteku.ongaeshi.biz/kc-no11/chi52f2.jpg
(82年式冷房CJM)
ttp://tekuteku.ongaeshi.biz/kc-no11/ma38r.jpg あっ・・・298じゃなくて300だった・・・
ついでに
北村車については、75年式までがバス窓で76年or77年式あたりで
サッシ窓になっているようです。ただ、正面ガラスについてはサッシ窓で
4枚ガラスの古い顔つきのものと2枚ガラスの近代的なものがおり、
78年式になると例の写真の顔つきに似た雰囲気になってはいます。
大御所の懐かしページにも78年式の北村車は一枚だけありますが
微妙に側窓の様子がつかめないのが残念ですが、狭窓には見えない
ため、やはりBUで狭窓はいなかったのではないかと 1987年の完全冷房化のときの廃車は、北村ボディーみたいなちょっと古めなのも含めて、いすゞは多数他社転籍してるけど、MP117は他社転籍の記録はないのですかね。神奈中中古で呉羽タレ目ヘッドライトベゼル車は、多数いたけどほとんどスクラップになっちゃったのかな? >>299
川重と北村のBU10D、共に実物を見て乗っていくらか写真でも記録している俺が言うんだから信用してくれや(笑)。
例の写真の件の車両は間違いなく川重。
そして平塚には北村車の配属はなし。 >>299
北村CJMに非冷房車がいたかどうか定かではないなんて言ってるようじゃ、話にならん。
>>303
MP117はおろか、B800、MR450、MR420なんかも中古で移籍した話はきかないね。
MR410だけは江ノ電や岩手に何台も嫁いでるけどね。 戸塚管内でずっと育った奴が通りますよっと。
新ステップ車が入りだした頃に神奈中を定期的に使う様になって、新ステップ車か銀ホイールのかなちゃん号が来ると大はしゃぎだったもんだなと懐かしく思う。
戸70で今は亡き祖母と下飯田から戸塚までノンビリ出かけたのも良い思い出。
今思えば、下和泉界隈の1.7車線くらいしかない狭い道を大型が走っていたなんて信じられない。 ブルより前までのふそうってあまり評判良くなかったように思う。
小学校の頃同級生でお父さんが神奈中の運転士してる子がいたけど、
ふそうといすゞは登りでギア変えられないという話だったよ。
UDが一番力があって、いすゞは「非力で小さい車」扱いだった。
ふそうが良くなったのは路線がブル、観光がエアロになってからでないかな。 単にいすゞの販路(特に東北方面)があって、早期廃車→転入でwin-winの関係が築かれていたのではないか。
ふそうはMR410の時代ならともかく、長尺は北海道でもなければ使い道がなく、しかも暖房強化が必須ともなれば売るのは難しかったのでは。当時は道内の各社は新車を買って何とか賄えていたし。 国立病院〜原町田を結んでいたバスは独特な形だった
天井のルーバーが交互にあって ふそうは非力というのはむしろMRの頃の話だと思う。
MP117から搭載の6D20はN/Aで200ps出していたわけで・・・
他のメーカーになると
BU10D・・・D920H(175ps)
U20 ・・・PD6H(185ps)
RE141 ・・・EB400(190ps)
全車N/Aでトルクは不明だけど馬力だけだったらMP117が最強。
それでも売れなかったのは車体の問題だと思う。
78年からは名古屋純正ならB35ボディがあったのに、呉羽に拘った
カナ中の車体は旧来のMRボディだったからそれが災いしたのかも 試作冷房車はどこへも移籍してないのは、
お試し物はちょっととかあるのかな? >>298だいぶ昔だけど
満員の表示は、「ワンマン」の行灯の下にプラスチックの普段で(西武鉄道の701系の急行表示見たいなやつ?)であった記憶。
わかりにくくて申し訳ない。 6D20って215ps説と200ps説とがありますが、
どちらにしても6DC2で200psのB8程は走らないという話もあったみたい。
51年排出ガス規制でパワーを絞っていたのか。 >>314
カナ中の6D20ってOD5段じゃなかたっけ?
MP118の2期目からDDになったような記憶が
そのせいで走らないイメージだったんじゃない? >>306
MR420は函館バスに移籍したのがある。
以前バスグラフィックに写真が載ってた。 MP117の最終型は引退間近でもまだ車内外とも綺麗だったのを覚えている。
せいぜい車齢7年程度だから、今の時代ならこれからってところだね。
厚木のU30試作冷房車は10年程度は在籍したようだけど
MP117試作冷房車はいつ頃まで活躍したんだろう。
長尺、直結冷房、OD5速って亀のように遅かったんだろうか。 試作冷房車は、完全冷房化の翌年に全車廃車だね。
K-代の非冷房車より1年弱長生きしたけど、引き取り先は無かった気がする。 そういえばK-代の非冷房車ってどうして投入されたんだろうね…
特に量産冷房車が登場した80年に平行導入されたやつ…
ちなみにK-U31Lの非冷房仕様っていたのかな?
RC321、MP118、CJM500/550の非冷房は実際に乗車したことがあるが
平塚界隈だとK-U31Lは全部冷房車だったからなぁ >>320
K代の非冷房車は1980年上期と下期のみの導入。
上期が厚木、下期が町田にいたな。 >>308
BUからU-LV324Lまでいすゞ車は非力だと思うけど、他メーカーより燃費が良かったのと最後部のデッドスペースが小さかった。 >>321
よく見たら運転席側の画像は大御所に一枚だけ町田車があった
気になっているのは、その非冷房のK-U31Lの戸袋周りの処理
なんですが、79年式以前の所謂一段落としの戸袋窓なのか、
それとも冷房K-U31Lと同じツライチのHゴム仕様なのかなんですよね
他社の車は81年式でも一段落としの画像があるけど、カナ中は探して
も見つからないしうーん・・・ >>325
これなんか80年上期式冷房車で一段落としだね。
ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~iwate/vehicle/extra/primer/coach/images/u31n_01.jpg
80年式の途中から変わったのかもしれないね。 >>326
おお・・・超サンクス。
平塚にいた一番初期のK-U31Lは、ひ57だったんだけど、
こいつは80年下期導入車でツライチHゴム仕様だったからね。
これは恐らく80年上期までが一段落とし仕様だと確信しましたわ。
冷房で戸袋窓が一段落としなのは厚木の試作冷房だけかと思って
いたから貴重な発見でした 「あ13」相模22か1427だった貸切色トップドアのMK115には
一度も乗れなかった。
赤いザラザラのシートだったのかな。座席の配置とか。 >>328
何度か乗ったよ。
1978年上期車なんだけど、降車釦はチャイムだった。
座席は当時のふそう車と同じで、生地はザラザラしたやつ。
初めて見た時は驚いた車両だったけど、乗ってみるとあまり感動はなかったな。 あ13って基本は小野橋からの温泉専用車だったんじゃないの?
2代目?のサンシャシン顔のP-MK116Jも味がある車だったね。
確か、は107と同じ仕様だっけ? >>330
一日に1or2本、駅発着の直通便もあったような気がするんだが、よく覚えてないや。 >>331
厚木東高校のスクールバス利用してたとき毎朝見てた気がする。 厚木バスセンターで、あ13のMK115をよく見ていたよ。
いつか乗りたいなぁと思っていたらMK116になってしまった。
ちょうどMK115の時代に七沢行くときに、途中で中型車に乗り換えた記憶が
あるんだけど、その車はウェーブラインの標準塗装だったんだけど、
車種はまったく覚えていないんだ。
方向幕が2つ付いていてブルドックっぽい顔だったような気がするんだが
大御所ググっても出てこない。
厚木営業所で、あ13以外にも中型って当時あったんだっけ? >>333
方向幕が2つってどういうこと?
秦野のヤビツ峠用のB622Eとかみたいなやつかな? 「あ13」って何かしら特別な車種だよね。
・サンシャイン顔のMK116
・清川村村営バスのハイエース
・現在はPKG-MP35UM(ワンロマ)
普通の大型の時代ってあったの? >>335
旧々貸切色のMK115以前はわからないけど、以後はない。
MK115→MK116(ここまで貸切色)→MK218(唯一のトップドア)
→ハイエース→MP35UM(ワンロマ)だと思うから、ある意味現在が
一番マトモな気がする 大御所の津久井にいた方向幕2つのMK115が
七沢で乗ったやつにそっくりだ。
車内で丸いクロスファンが回っていたよ。 >>337
当時厚木の中型車は、あ13だけだったので、点検や修理などの時に津久井や秦野から一時的に借り入れてたのを目撃したのかもよ。 カナ中の場合非冷房車にはラインファンは搭載されていないので、
丸いクロスファンというと、K-MK116Hじゃないかな?
カナ中全体で何台いたかわからないけど珍車中の珍車だからなぁ
ただ秦野車(は13だっけ?)は方向幕一つだなぁ… そっかー、記憶が錯綜しているな。
あの頃は中型車とか初見の神奈中車見るとわくわくしていたよ。 >>340
まぁ昔の記憶なんてそんなもんよ。
ちなみに秦野にはK-MK116HもK-MK116Jも両方所属していたけど
型式だけみると同じ車の尺違いと思ってしまうけど全く違う車だったり
してびっくりしたし。
天井のキノコクーラーだけは共通してたけどね 記憶が錯綜といえば、昭和61年頃によく平塚駅で秦野の5E
(P-U32L後期型)の波線塗装車(相模22か30-xx)を見かけたのだけど、
当時見た社番は「は108」だった記憶があるのよ。
ところが当時のは108は大御所サイトによると5Bトップドア仕様の
NBC線専用車のように記述されている。年式とかナンバーも近いし
何故だろう?と長年の疑問。
社番違いかと思ったけど、秦野には5E波線塗装が1台もいなかったみたいだし
平塚車には不思議と相模22か30-xxは一般路線車で在籍したことがないから
「ひ108」とかとの見間違いはないと思っているんだけどね 涼風車懐かしいですね。
秦野車は非公式側の最後部のメトロ窓のサッシが破損して
棧がグニャと曲がっていたのを覚えてます。 瀬谷柏尾道路をブルーリボンや5Eで走ってたのが懐かしいな さっき実在しなかったブルドッグの貸切塗装に乗った夢を見た。 >>342
高校生の頃、手書きで作成していた営業所別の
車両表を引っ張り出して見てみました。
「は108」は、相模22か30-93で、一般路線車です。同時に入った109〜112がNBC専用車ですね。 >>342
高校生の頃、手書きで作成していた営業所別の
車両表を引っ張り出して見てみました。
「は108」は、相模22か30-93で、一般路線車です。同時に入った109〜112がNBC専用車ですね。 大御所は過去データには誤りが散見されるので、完全には信用せず、参考程度にすべし。 趣味でかなちゅう全路線のりつぶしを3年前からちびちびやってるけど、路線途切れてるのが多くて難儀した。海老名→厚木とか。昔はあったみたいね。小谷〜寒川間とか。 神奈中にも東京〜等々力くらいの長距離路線ってあったのかな? 平塚駅〜国府津駅がほぼ同じくらい?
ならば本厚木〜宮ヶ瀬は越えてそう。
廃止された運転系統なら藤沢〜横浜とかゴロゴロある気がする。 つーか、横43が既に東98よりも長距離なんだけど。スレ違い失礼。 横浜駅起点なら座間四ッ谷ってのがあったよね。あれはいつ頃まで走っていたのだろう? ナイロン経由、と
横長のフォントで、
急 行
高森団地
が、子供の頃は気になっていた。 白幕時代、伊勢原や舞岡に何故か
[平90]伊勢原団地・平 塚 駅
(経由地の「伊勢原団地」が青字)
とか双方向表示でないのが散見されたけど、あれはどういう理由だったのかな? >>347
オレ以外にもちゃんと見たことがある人がいて良かったわ…
あとはどっかから画像でも出てくれば・・・
最終的には途中では108は転属でもしたのかな?
>>357
全部の路線で見られたわけじゃないんだよね。
愛甲原住宅行きとかもそうだったと思う お●こは売ってないが、おこめは売ってたぞ!
印象深いのは「都こんぶ」だが… 神奈中ストアは名前ばかり知ってて行く事がついに無かった。
県央には殆ど見かけなかったからな >>367
自分も使わず仕舞いだったが、平和台に存在していたのは覚えてる。 >>367
下大槻団地(秦野市)にあったな、懐かしい。
なお相当前に閉店になってそのままじゃなかったけ?
(近隣の「まるだい」ストアーがあるから) 白色LEDにあまり違和感がないのは
橙色LED前は黒地白抜き文字だったから? エアロKの中扉の上って
何で補修の必要があったの? >>371
幕車だった頃のMP317/33/35と同じ面の車両が健在で先祖返りのようにも見えるが、
大型車では新製時に方向幕だった車はもう一般路線では走ってないんだよな。
中型だとT-2,T-10、か1013がいるが、これらは白LEDになることはなく廃車だろうし。 キュービックの波線塗装は似合わなかったという意見が多いようだが
当時自分にとってはエアロやブルリも霞むほど最高にかっこいいバスだった。 泥臭い出来上がりだから波線も似合ったんでね?
鉄工所のエアロスターと揶揄された北村の鯰の方が余程洗練されていたからね。 白色LEDは昼間見にくいな。
幕の方が見やすかった。 恐らく秦野辺りで使っていたトップドアのいすゞの中型が栃木の関東自動車に移籍して、今は廃止になった石橋駅〜小山駅で運用されているときに乗った。
1990年ころだった。 ほとんどが昭和時代の話題だと思います。
昭和のバスの話題でこれだけ盛り上がっているスレもそうそうはないですよね。恐るべし神奈中バス!! >>381
だって、1990年代以降のバスって面白みに欠ける。
MR490、BA30、4R94、RB10あたりが全盛だった頃が最高! さすが人口の多いと違うわ。北村のお膝元新潟なんて北村のきのじすら出ない。 平塚相模湖急行バスは資料も写真も殆ど無いのかな。
例のサイトを見ると70年代の間に廃止されたみたいだけど 町12町田ターミナル〜木曽南団地、俺子供の頃(昭和60年代後半くらい?)大和営業所のバス来てたけど、あれいつなくなったの?
あとなんで大和営業所と共管になった?
散々ググってみたけどわからなかった、わかる人いたらスマソ。 >>379
ダンプタイヤの長尺車こそ神奈中の醍醐味だったのに。
K尺ばかり買うなんて、腕の良い長尺転がしていたドライバーさん達はもう殆ど残っていないだろう。 >>380
相模原のK-CCMじゃない?
秦野はBA30以降いすゞ中型はエルガミオまでいなかったはず。
>>386
意外に4Rの頃とかも県西部は短尺・標準尺が多かったのだが。
特にUD車の長尺なんて5EのK-U31NとP-U32Nくらいなはず。
例の3E仕様の4R105が長尺というかどうかの考え方もあるが… 笹下町〜相模湖っていつまであったんだろう!
乗ってみたかった 笹下町〜相模湖駅って、横浜の担当だったらしいから、津久井エリアにMRが走ることもあったのかね。
これとは別に、三ヶ木〜笹下町ってのが津久井担当であったらしいが、この辺の運用とかってどうだったんだろうか?
平塚駅〜相模湖駅は厚木の担当だったそうなので、4Rが津久井エリアを走ることもあったんだろうね。 >>385
平成6年上期までは確実に来ていた。
当時神奈中の運用に興味があり、運転席後ろの席に座るや否や、運ちゃんにバレないようにスターフを書き写したりしていた。
町田BT 19:28発木曽南団地行がそれ。
ちなみにその前は鶴間駅東口14:55発横04で横浜西口を1往復して休憩を挟んだのち、 ↑↑↑ 途中で送ってしまいました。
休憩を挟んだのち、町87で町田入りしています。
レアな運用を見つけたり、見かけたときはうれしかったな。 大和の日野車が懐かしいな。
側面方向幕の周りが白かったやつ。 〉〉374
さ30…MR450の印緒ロが深い(^^; >>393
>>394
けっこう広域で運用していたんですね、情報ありがとうございます。 ちょっと>>395で出ていて思ったのですが
77年式あたりの日野RE、もしくは80年式あたりの北村CJMのように
側面方向幕が白枠で縁取りされていた時期があったと思いますが
他の車種でも同様の仕様は存在したのでしょうか? 77年の日野車の側面幕の周囲って、横浜市営とかだと薄水色だったと思うけど、神奈中だと白色だっけ? >>400
1982年式のK-MK116Jがそうだったと記憶してるし、大御所にも画像あるな。 昔その側面方向幕周りが白の日野車が
凄いベロベロベロって音立てて走ってたのを覚えている。 RE141だな。
日野の経年車はリアの点検蓋がバババと共振してうるさい車が多かった。 しかし何でREはこの代だけ側面方向幕周りがあんな仕様になったんだろ。
発注ミスで後で強引に方向幕装置をはめ込んだとかかね。 大御所にある77年式REの画像を見る限り、フロントガラスが4枚窓と
2枚窓仕様の両方が存在しているので、少なくても2期連続で白枠
仕様だったと思うのでミスではないかな…
もっと前の年式の画像から推測すると、もともと側面幕の仕様は
帝車の場合バス窓をそのまま利用していたように見えるので、
帝車がサッシ窓に移行したタイミングでサッシ窓の上段部とあわせて
あのような仕様になったが、何らかの理由で旧来の仕様に戻したの
ではないかと? そうか。その後いろいろ調べていて何となく分かったのだが
多分、行先窓はサッシ窓初期の上段固定の時代までは白枠で、
上段下降になってからゴム枠になったのだと思う。
上段固定の窓は上段下降のそれと比べて桟の高さが高い。
だから白枠の方が隣の窓と桟の高さが揃うから良いと判断したのかも。 K-MKの白枠は近代化試作的な面がありそう…
完成形のエアロスターKでは普通の窓と高さが一緒(雨どいまで来てる)
のに、K-MKでは微妙に誤差がある 昔、運賃の支払い方法ってヘッドライトの上辺りの専用の幕でななくて、行き先の方向幕の左側の系統幕に「前乗り先払い」
と表示してあったような気がします。
舞岡の車両でみました。
その後「横45」とか神奈中でも系統番号を作った時に、バスの運賃の支払い方を表示してあった系統幕に系統番号を表示してあった気がしますが、覚えている方いますか? >>409
全社的に系統番号が出来る以前から導入されてた町田営業所では、白幕に青字で系統番号を出してたよ。 >>409
あと、【先払い】じゃなくて【前払い】な。 >>409
大型車で78年下期までの車がその仕様
大御所の懐かしページにいけばいくらでも確認できるよ
特に77-78年式あたりは系統番号設定時に何とか残存していたので
前面方向幕のとなりに系統番号を表示していたけど連動してなかったと思う 前面行先表示が二分割だった車は、すべての幕を個々に運転士が合わせていたよ。
たまに後部だけ合わせ忘れて、異なった表示で走り去って行くなんてことも… >>413
1970年か1971年式までは、『手巻き』だったから、終点に着くと運転士はグルグル回してた。
見てると楽しかったが、運転士は大変だったろうな。
もっとも1966年式くらいまでは後部の幕すらなかったからな。 系統番号表示っていつから始まったんだっけ?
85年式の大型黒幕車(相模22か29-xx)あたりが登場したときはまだ系統番号準備中で
変な幕だった記憶があるのだが…
そんなわけで前面方向幕分割タイプの77年式あたりがぎりぎり装備できたかどうか
大御所の78年式の日野RE141の画像はある意味貴重 カナちゃん号が出たときには系統番号使ってた。
エアロスターやキュービック、ブルーリボンなどがでたときは未だ無かった。多分86年くらいかと。 町田が周辺の他営業所に比べて系統番号を早く使い始めた記憶 一応は東京都ですからね。
昭和58年に国鉄町田駅からのバスに乗りに行ったとき、金森・成瀬街道方面は柿20(他社だけど)以外系統番号が無かった。 神奈中全域に系統番号が付いたのは1986年。
PLせつな氏の資料によると、
1972 都営など23区内の事業者が漢字+2ケタのスタイルに変更
1976 都内全域で漢字+2ケタのスタイルに
ただし
都内を走る路線にだけ附番した東急みたいな場合と、
都内の営業所の路線にだけ附番した神奈中みたいなのもある。 系統番号は86年か…
77年式が淘汰された時期だからやはり分割方向幕で系統番号を
左側に掲出していたのは78年式のみのようですね。
ちなみに秦野のK-MK116H(81年式)は分割方向幕にもかかわらず
無理やり運賃支払い窓を残す仕様になっていたので、もしかすると
系統番号独立が面倒で、中型車タイプの幕に交換した車両もあったかも
しれないかな…
(平塚で系統番号を同様の方法で掲出していたBU10Dに遭遇した記憶もあるが) ここのHPに1980年当時の神奈中町田&相模原の映像。
町田ではすでに系統番号を使用していた。
http://tokudanesya.fc2web.com/toukyo2.htm
1980年といえば神奈中に自分が一番わくわくした年だったw >>414
それが不思議と手巻き時代の記憶がないのです…
この板、最初のほうに書いてある「黄色と緑」のボタンで上下させていたのが、設定機導入されて走りながら幕が回っていたのに感動しました! >>420
86年なら87年の冷房車率100%に向けた大量廃車中だから、二分割巻の何台が全営業所の系統番号表示に対応されたかどうか? 昔、系統番号が表示されてなかった頃も、車内の案内放送のテープでは「このテープは厚木○○系統半原行きです」となっていたから、番号を表に出してなかっただけなんだね。 旧バス停(だるま型?)からユリ型への転換っていつ頃になりますでしょうか?
70年代後半から80年代頭なのかなあ・・・。 >>425
85年頃でもチョイチョイ残ってた
恐らく87年くらいまでは現存していたと思う
その後特殊なバス停のみ残存(降車専用とか)で今に至る >>429
それも、北海道の旭川電気鉄道に渡った(自社発注のノンステ導入に伴い現在は廃車) >>↑その旭川電気軌道にいったブルドックかどうか判らないが、神奈中→旭川?→北海道の高校のスクールバス→廃車後バスマニアが購入保存車両がある。
バスマニアには結構知っている人が多いんじゃないか。
場所は迷惑になるので伏せておきます。 >>431
2台いたうちの1台は道内、もう1台は本州ね。
個人の自家用車晒すのと一緒だから、詳細は伏せる! 俺もP-MP118の音が大好きなんだが、DDよりもODの方が好きだな。
残念ながら神奈中にはいなかったけどね。 昔のふそうのバスだと、ブルドックは人気だったからなあ。
ふそうが多かった神奈中だし、昔は9年くらいで廃車大体していたから、近場だと小田急系列がらみで、箱根登山バスや東海バス、あと宮城交通とかも多く移籍した気がします。 >>261
当初は神奈中2本、小田急2本だとききましたよ。 ブルは冷房最初期のK-MP118(ひ21とかひ47あたり)は
ちょっとエンジン音がMP117寄りな印象なんだよね。
逆に最末期ブルのP-MP118(ひ85とか)はMP218寄りに感じてた
一時期の平塚はブルばかり投入していたから自分的にはハズレ。
UDも85年まで全然入らなかったし、日野とIKCも84年にモデルチェンジ
してるのにブルだけ旧態依然なスタイルだったからなぁ >>430
神奈中はブルから直結5速を入れたのかね?それともメーカーに仕様がなかったのか?
確かMP117までは5速入れる運ちゃん居なかった気がするのだが… >>436
相模原はMR450を駆逐したからずっと恨んでた…っと言ってもブルに罪はないが。
気付いたらバブルに乗って早々廃車され、譲渡先も拓殖くらいしか残ってなかったが、タッチの差で廃車…申し訳ないような気分になった。 >>429
大きな換気扇が5個ぐらい付いていて、屋根上といい運席まわりのスイッチ類といい物々しい感じだったな。
あとスターフ受けは可動式ね。 ブルの車体は天井が薄く窓は上の方に配置…という今のエアロスターに繋がるコンセプトだったから、モノコックだけど古臭いとは思わなかった。
P-MP118のエアロスターK車体が横浜市や川崎市に入ったのは口惜しかったかも。
平塚でリベット打ちの初期5Eを見たけど革新的とは思えず。
日野スケルトンは当時もて囃されたけど、窓が小さくて、スケルトンと小窓はトレードオフの関係なのかと理解せざるを得なかった。
で、キュービックね。天井にはリベットがボコボコしてるし、妙なリブはあるし、四角いだけで貧乏臭くて泥臭い車。神奈中の初期版に関しては、ボックス状の青紫灯の妙な処理や、側面幕付近の寸法採りのアンバランスで、登場時から不自然な存在だった。 平塚の最初期の5Eは82年式UD(ひ1,12,65,81,82,97)だと思うけど、
この辺はL尺でも狭窓8枚仕様、非常口窓も角が丸い、リア3枚窓
とか3Eの特徴を引き継いでいたからね…
83年式UD(ひ22,96)になると非常口窓は四角くなったり、車内配置も
後期型に近くなったけど、本格的には84年式LV以降のパネル化を
またないといけない。
そういった意味では85年式UD(ひ90,107,108,109,116)の登場は
衝撃だった。 でも、そんな初期の5Eでも「ま1」という印象的な社番、前面幕に並んでビルトインされた紫ランプが点いた姿は格好良かったな〜! >>444
確か白、黄色、ピンク、水色、黄緑だったかと?
探せば全色持っている。あと、運ちゃんから貰った残り少ない巻き紙… たまに用田の交差点通るんだがふつうで地味な交差点だけど
江戸時代以前は相模の国でもかなり要衝な辻だったんじゃないかな
なんかいつも思うよ 独り言なんだけど >>449
>>450
たまに回数券購入していますので、財布の中に90円券と170円券入っています。
発売場所により170円券は在庫切れになっていますが。 ICカードを導入した民営バスで紙の回数券が残っているなんて、かなり珍しい。
磁気カード発売した時点でやめてしまう会社がほとんどだったのに。
公営バスだと、関西ので紙の回数券、磁気カード、交通系ICカード対応と、神みたいなバスがあったような。
車内で紙の回数券と磁気カードの両方販売とか。
神奈中も自社の案内所や営業所で紙の回数券を販売し続けてほしいな。 >>444
藤沢営業所か茅ヶ崎営業所か忘れたけど、藤沢駅〜茅ヶ崎線で7色整理券機というのを
初めて見た記憶がある。
江ノ電バスが4色(赤・青・緑・黄色)
京浜急行バスが3色(赤・青・緑)
だったので、驚いた記憶がある。
色は、赤・青・緑・黄色のほかに白が入っていた以外は覚えていない。 高速有鉛という雑誌で、一昔前の神奈中のプチ特集やってまんがな。 昔は貸切車も波線だったんだね。
Evaluation: Good! 昔走ってた神奈中のブルドッグってこんな感じ(1:04辺り〜)の音だったよね。
ttps://www.youtube.com/watch?v=qK37KkzllSc >>437
亀すまそ。神奈中はブルからゲテノンがATになるまでずっとDD。
神奈中以外でもMP117はODなのにMP118はDDになった事業者が幾つかあった(ケチ王とか) 同じブルでも神奈中は5速までフルに使うが、都営や東急は3速全開60キロ近くまで出していた。
だから同じ車とは思えないほどイメージ違った。 そういえば、厚木の5Eっていつまでいたのかな?
台06が相模原に移管される前の97年位まではよく見かけたけど。 5E自体は87年までで12年使用だと2000年前に無くなったのかな?茅ヶ崎の5Eは2003年くらいまでいたような。 >>466-467
厚木の5Eは99年6月頃までだね
87年式のN尺車 >>467
当時は代替えペースが早かったから、12年なんて使わなかったよ…
早くなる前は10年廃車が基本だったし。 >>475
ひもで吊るしてあるチラシを必ず持ち帰ってた!
親父やお袋に行先がどこにあるのか?教えてもらったな… 紐で吊るされてたチラシ、懐かしい。
更に、当時の新車は中扉のところにチラシ挿しが整備されてね。
神奈中が夜間高速バスから完全撤退するなんて想像だにしなかったな。 >>478
チラシ挿しに神奈中旅行会って書いてあったっけ。
横浜西口の天理ビル前に、早朝から観光バスが何台も連ねて停まっていたのが懐かしい。 確か二色か三色刷りでフルカラーじゃなかったような?
覚えているのは、波塗りのパノラマデッカから斜め塗りのフルデッカUかな(^^;
その後定期路線でエアロクイーンMが登場して、時代の変化を感じた! 大和市内の国道246号上に下鶴間停留所が存在したらしいけど、詳細知ってる人いたら教えてください
場所、廃止の理由、時期、写真など何でも >>482
サンクス
ただその区間自体は廃止じゃないのに停留所だか廃止したのはなぜなのか そいや海老名市内の相鉄との共管区間で
神奈中だけ長らく東国分停留所が無かったのを思い出した >>475
神奈中のお盆帰省バス乗ったことある人いますか? 立場に集合して各地に行くやつ
路線バスの車内にも広告ありましたよね。 いちばん遠いとこだと松山とかあって
到着が昼過ぎの予定っだったような。
上便だと発車が18時くらいでどうやって運転手を回してるんだろうとバスの中で広告見ながら
悩んでた。 >>485
平塚、本厚木、大秦野など出発地から立場まで最終目的地に関係無く混乗。
立場で青森、松山など最終目的地行に乗り換え。
立場には観光バスが大集結、テントを設営して土産物売り場もあった。 >>485興味深いのは、91年夏の中部北陸方面の行先に、松本、高山、富山に混じって上高地が入っていたこと。
平スケボディで釜トンネルをくぐり、そのあと安房峠を越えて高山、富山へ向かったのだろうか。 上高地で1台配車ではないの?
そのときのチラシ見てみたい。 話折るけど
ふそう大好きなかなちゅうの歴史では、ブルドックとエアロスターMの存在感って薄いよね。
両方とも導入は4年くらいでモデルチェンジだし、前者は4メーカー並行導入してて、廃車早かったから実質10年足らず、後者は中型導入のわりくってたのと、エアロスターKの存在感に埋もれたなんかかなちゅうらしくないまま消えた感じだった。 >>488
上高地仕様車は元々神奈中でもっていたから不思議ではない
恐らくP-MS725の上高地仕様(サブ冷/ショート50)が運用されていたのでは?
あるいは時期的にはまだK-MS615(82年式くらいの)が残っていたかもしれんが…
>>490
B35の存在感が薄いと思う人は恐らく伊勢原or茅ヶ崎or津久井エリアの人でしょう
厚木や平塚、秦野あたりでは掃いて捨てるくらいの存在感だったので…
一応、80年式から84年式まですべて投入されて、最終的に93年春頃まで残った車もありましたし。 >>488
上高地は帰省バス以外に神奈中旅行会のツアーもあった。 >>485
京急の帰省バスは割りと知られていたけどカナ中でもやっていたんだ??? >>491
その通りです。茅ヶ崎在住で川重、富士重ばかり
(たまに北村)他の営業所の車が乗り入れてくることもなくガラパゴスなバス環境でした。笑 >>494
平塚が来てたじゃん。寒川神社、もしくは南口で海岸経由が。
藤沢と綾瀬も! >>494
いすゞ車大好きな当時の自分からすればうらやましい限り
三菱もODギアだったMP117までは好きだったけどね…
幼稚園入園する頃くらいまでは平塚でもFHIのBU10が残っていたけど
ちょうど最初期のエアロスターKに代替されて消えてしまったのが悲しかった
いすゞBUはもう少し残っていたけど、FHIならではの良さがあったなぁ… 厚木の5EはL尺は平塚に異動になりN尺しか残らなかった。
と思っていたら1台だけ厚木に残したらしい。 >>497
あの転入車は正直新車7Eを期待してた自分はがっかりで
廃車まで好きになれない車だったなぁ…
確か、ひ4.8,37,99だっけ? 系統番号がつく前の昔の方向幕は
「水道道〜戸塚駅」と起点と終点両方表示していたな。
コマ数が多い関係だとおもうけど…
しかし、同じバス停に両方向停まる所は間違って乗った人も居るだろうな。
あと、「戸塚駅(大踏切)」(横浜駅西口〜保土ヶ谷駅〜権太坂〜平戸〜戸塚駅)の表示も懐かしい。 >>499
系統番号が付いた後でも、狭幅の白幕の方向幕で「〜」が入る起終点表示の幕はありました。
戸塚駅「大踏切」の表示も懐かしいですね。わざわざプラスチックのプレートを入口の所に掲げて
いる時もありました。特に地下鉄工事中の時は戸塚駅行でも、到着が日立の横のバスターミナルと
踏切横では大違いな訳で…別掲のプレート、横41の「保土ヶ谷経由」や東93の「上大岡駅経由?」
もあったと思うけど写真を撮って記録に残せなかったのが、個人的にもいまだに残念です。 大踏切脇にあった、横浜駅西口などへ行く乗り場は、今思えばこじんまりした感じてしたね。(1981年ころ)
戸塚駅の駅前広場が整備されてバス乗り場がかわったらまるで別物になってしまいました。
あの、田舎の駅前のバス乗り場のような感じがなんともいえませんでした。
大踏切を渡って、戸塚バスセンターまで歩いて大船駅行き乗った思い出。 戸塚駅裏口という記述もあった大踏切脇の乗り場。市バスの53と69も来ていたんだっけ。
踏切を渡った角の立ち食いうどんの三吉とバスセンターに向かう旧1国沿いの中華三十七番が、俺的戸塚の食い物で忘れられないものだったがものの見事に消滅してから、丁度10年になるか。 野津田車庫前にあったケメコ食堂にまた行きたい!
...今の社員で↑知ってる人、もう少ないだろうなぁ 町田の北口踏切近くにあった鬼無里とかいう居酒屋にまた行きたい。
あの辺は短尺車しか通れなかったんだよな。 >>506
だから町田は、いすゞが多かったのよ。
波塗り末期でMP218Nが入ったけど、その後は転属の1台だけだったはず? >>507
MR450とかB800Nとか普通にいたけど… MRの時代でも、450くらいの長ものになればパワステ付き? >>510
確か無かったような?
エアブレーキですらMP117でやっと装備されるし… ttps://www.youtube.com/watch?v=iy9UHIdq0hY
この動画の7:50あたりにリアルーバが●の形が特徴的だったBA30が走ってる。
子供の頃、横浜駅西口でぱぁ〜〜んと貧弱なエンジンをふかしながら、鶴間駅行や相鉄バス(旧塗装)の大池行でよく見かけ80年代前半まで走っていて、このバスが来るとワクワクしたのをおぼえてる。横浜市営では見かけなかったね。
確かルーバは富士重ボディは●形、北村は完全な●ではなくに右側が少し欠けてた気がする。 上の動画では、神奈中の呉羽リア独立2枚窓や3枚窓のMR490の勇姿に感激だ。
市バスの「市電代替新車」な呉羽MR470、北村4R、富士重PRもいいね。
俺も幼少期はいすゞBR30が主力の路線を利用していたよ(神奈中ではない)。物悲しいサウンドは今でも耳から離れず。いすゞの魅力はその貧乏臭さにあるのを知った、原体験だった。 いすゞというとやっぱりBU04/10Dだなぁ…
あのD920Hエンジン(ODギア)を超えるものはないと思う >>514
直噴BUは神奈中の他臨港、東急、北海道中央、静鉄にいた >>520
その世代だと日野ぐらいかと、エアブレーキ。 そうなると、ドアの開閉ぐらいしかエア使ってなかったのかな。 >>476
それを思えば今は使用年数が長くなったね
ツーステの末期の車両は13年くらいで廃車になった車両が多かったが
今では15年程度走っている車両も結構あるし
14年未満で廃車になる車両は少なくこれだと早いと感じるくらい
ノンステが増えた今、横浜市内あたりをツーステが走っていたのが遠い昔に感じられるな 補助金出るとはいえ、早いペースで替えていたら手持ちの金は尽きるからな
あのJR東でさえ車両計画見直しやらで廃車のペース遅らせているし
リーマンや東日本震災の絡みもあるんだろうけど で、ま88は他の試作冷房車より登場時期が少し遅く1980年に入ってからだったけど、初対面の時は驚いたよな。
1979年下期のお106と同様BU20Kかと想像してたのに、量産車に先駆けてCJMそれも550だったからね。
1980年上期はCJM500だけだったし、下期からの550とは細部の仕様が異なってたことから、特別な車両だという思いがあった。 間違えた。
お106(BU20K)は1979年上期車ね。 >>526
そこまで違いがあるとは知らなかった…
そもそも「さ」や「つ」のエリアから「ま」のエリアになったので、元々あった車両の違いがわからなくて。ただのCJMだと思ってた… >>527
昔は舞岡にいすゞ大型車がいたんだ。沿線民だけどビックリ
当時でも珍しい存在だったのかな >>529
1974年か1975年式くらいのBU10D川重ボディがいたよ。
お106はそれからいきなりの試作冷房車だったから驚いた。
当時、舞岡は4メーカー揃ってたから、いすゞが入るのもおかしくはなかったけどね。 >>530
ありがとう。某所で、別営業所にいた1975年式のBU10D川重を見てきた。
U31の富士重3EやU32の5Eは見たし乗ったんだけど、
川重ボディは覚えてない…いつごろ廃車になったんだろ? >>531
舞岡のいすゞ、気になって昔の資料を見てみた。
1980年時点で川重BU10Dは、1974年式が5台と1975年式が2台いる。(社番省略)
ちなみに富士重BU10Dも、1972年式1台と1973年式5台いる。
いつ廃車になったかは、大御所サイトを参考に、同期の記録から推測してくれ。
多分10年以内に廃車されたと思うけど。 いすゞと言えば、かなちゅうは北村製作所ボディ最後まで採用してたな。町田とかにあのどんくさいのが来てたのが懐かしい。 >>533
最後じゃないでしょ…
キュービックを見掛けたとき川崎?富士?まさか北村?!とクラスのマニアで盛り上がったけど、北村は独自の進化を遂げていたかと… 国立病院〜町田ターミナルで使用していた見慣れない中型はどこの? >>535
ターミナル開設当時の中型なら、いすゞCDMとかかな? >>537
相模原ならCDMだね。
>>538
ターミナル開設当時に大和に中型あった? >>539
懐かしいな。
相模原にトップドアのそんな車両がいたな〜。
ちなみに当時中型がいたのは一部の営業所だけで、大和にはいなかったよ。 なぜか海老名〜鶴間の新道経由の方にやや力を入れてた時期があった。
今では免許維持路線に転落したが >>543
新道経由って海07でしょ?とっくに廃止されたのでは?
旧道経由(海08)は免許維持で今もあるけど。 >>542
唯一、登戸駅前で撮った写真があるのだけど、当時の俺と友達が写った記念撮影なんだよな… 中学生でもできる嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索⇒『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
00PPC そう言えば、以前(2000年代初頭あたり)箱根駅伝で毎年随行していたのはミディMMじゃなかった?
MKかな 観光にMMがいたのは意外だったが、さすがに路線車にはいなかったと断言できるわ。
LTもな。 過去に戸塚営業所にいすゞ大型路線車って在籍したことある?
俺の認識では、少なくとも今日までの50年間では一度もないと思うんだが。 >>559
路線には大型9M車はいすゞBA30以来いない。
ちなみにレアな中型車としては、川重CCM/CDM410が数台と
FHIのP-LR312が1台だけ存在していたけど、LRが何故純正じゃなかったか
不思議でもある。
K-CDM410は冷房搭載のキワモノ車で実際に乗車したことはないので
どんな室内だったのか気になる >>560
いすゞは長尺を試作以外入れてないはず。
戸塚とかはMR450とかB800Nが主力だったから
BUとかはいなかった気がします。 >>562
ありがとうございます。
私も戸塚には最近の中型車以外は記憶も記録もないので、まずないだろうとは思っています。
過去日野ばっかりだった伊勢原や、ふそうばっかりの相模原でさえ、それより以前にBA30が在籍してたことを考えると、戸塚だけはいすゞがなかったのですね。 いすゞは9メートル車が得意だったらしく、江ノ電のツーマンやら、京急とか神奈川ではそう珍しくなかった。神奈中での
本格導入は昭和46年くらいからのBU10Dからかな?
当時茅ケ崎に住んでいて、日産ディーゼルの4Rと三菱のMRだけだったところに川崎の上下サッシまどは新鮮でした。 連投します。江ノ電ネタですが
70年代後半の藤沢駅南口は神奈中からの4Rや、プロパーの富士重工車体のMRやら、高根行きツーマンBA10とかが闊歩してました。茅ケ崎駅には新明和工業の送迎のBAが情け無いサウンドと、丸型ルーバーで来てたと記憶してます。 >>565
おー!
同年代、しかも地元同じく茅ヶ崎です(笑)。
茅ヶ崎駅に乗り入れてた社バスといえば、新明和のMR490後部が丸いやつを覚えてます。
神奈中茅ヶ崎の4Rは乗った記憶があります。当時、藤沢駅〜平塚駅をよく利用しており、平塚か藤沢のふそう、日野が多かったですが、たまに茅ヶ崎の4Rが来て私的にはハズレでした。 藤沢、綾瀬はいすゞの工場所在に忖度wして該当車種を一定比率で投入するというのが定説になっていて、つい最近もふそう新車をやめていすゞ新車が入った訳だけど、そんな投入を始めたのは実は1980年のCJM以降なんだよね。ふそう販社を傘下に収める直前だね。
それまでの藤沢はふそうと日野ばかりだった。いや、日デも居たな。いすゞは皆無に近かった。 >>567
藤沢にいすゞが入ったのは1979年下期のBU10Dが初で、川重と富士重が2台ずつ。
1980年上期は、いすゞ新車は無しで茅ヶ崎から廃車寸前のBU10D3台が転入しただけ。1980年下期から川重CJM550が入るようになり、以降いすゞが増えていったとゆう流れですね。 >>567
多謝。
79年から居りましたか。隣町在住で、BU新車4台はついぞ目撃しなかったもので。
いすゞ投入前の車種構成
藤沢:日野>ふそう>日デ
戸塚:ふそう>>日デ>日野
80年に出た季刊バス所載の社番リストを集計すれば確実かと。 >>567
っつうか、そもそも綾瀬は80年代後半に出来たのでは? かつて藤沢にいすゞ車が増えだしたのは、藤沢市の施策でいすゞ車購入の補助金があったためだと記憶しているけど違うかな?
70年代終盤から80年代初期は、茅ヶ崎、平塚、厚木、秦野あたりにBU10Dが集中していたので、それこそ平塚駅がBUで埋め尽くされる光景が
広がっていたなんて想像もできないと思う。(川重が多く、FHIも北村(秦野と転属で茅ヶ崎も)もいた。
んで、CJMになって長尺のCJM550登場とあいまって藤沢に一気にCJMの投入が開始されたものの、道路事情が当時はまだ悪く、
北部丘陵を走破するにはエンジンも非力(冷房の影響)でどうにもマッチしないことから、すぐに冷房CJM550と他営業所のBU10Dと交換することになった訳。
そんなわけで主に平塚と秦野に存在していた76,77年式の川重BU10Dと藤沢の冷房CJMがトレードになった。
平塚のCJMのうち、CJM500で導入されたひ51,70,72あたりは平塚向けの新車だけど、ひ121,122,123,124のCJM550グループは藤沢からの転属車なのよね。
後年のひ26,ひ13(戸袋窓が縦方向に大きくなった最終型)も確か転属車のはず。 >>572
大体は同意出来るけど、
『そんなわけで主に平塚と秦野に存在していた76,77年式の川重BU10Dと藤沢の冷房CJMがトレードになった。』
ここだけ異議あるなあ。
藤沢から平塚にCJM550が転属になったのは承知してるけど、トレードでBU10Dが転入してきたってのはホントかな?
藤沢のBU10Dは、1979年下期に新車で配置された【ふ4】【ふ36】(以上川重で高山)、【ふ117】【ふ118】(以上富士重で117は長後、118は高山)の4台と、1980年上期に茅ヶ崎から転入してきた【ふ122】【ふ123】【ふ124】だけのはず。
ぜひ、ソースをお願いします! 茅ヶ崎は道路環境が劣悪だったから、ホイールベース5.0mのやつが好まれたんですよね。南湖とか美住町あたりは狭いし。
北口の駅前広場工事の際の応援で藤沢のLV314Nや相模原のMP218Nが波線できた時はビックリしましたがw。
あっという間に戻ったので、撮影しなかったのが悔やまれます。 茅ケ崎と藤沢がいすゞへの忖度wでいすゞが集中配車されたのはわかりますが、伊勢原の日野集中は良く分かりません。 いすゞCJMといえば、冷房化の過渡期の北村製作所ボディーの違いも興味深かった。
中扉以降5枚窓はBU と同じで同時期に廃車になっていた。北村製作所と言えばいすゞと思ったら、東急バスで
4Rの北村を見聞きした時はびっくりでした。 >>575
国道246沿い、高森団地の入口近くに日野があるのは関係ないか。 >>577
それは思った!
大和に多かったのも横浜IC(当時)近くに横浜日野があったし。
そもそも相模原には三菱、平塚には日産、藤沢にはいすゞと神奈川でバス会社やるには各々顔立てなくてはならなかったのかも? 伊勢原に日野集中、藤沢茅ヶ崎綾瀬にいすゞ集中というのは思えばふそう販社を抱えた影響かも。他の営業所は可及的速やかにふそう統一の目標はあった筈だが、他社との付き合いをゼロには出来ず、苦肉の施策でこうなったのかと。 >>577
確かに今のスバルの店は昔は日野だったな。 >>573
如何せんガキの頃(幼稚園)でせいぜい当時ノートのスミにメモしてた程度だからソースがないのよw
今みたいに簡単に写真にも残せなかったし、申し訳ない・・・。
ただ、藤沢にはもっと川重車は存在していたのは確かな記憶。非冷房のCJM(ふ62?)もいましたし。
平塚車の件でも、ひ16,20の2台は白枠RE141が転入車で元々は77年式くらいのBU10Dだったはずで
その他83年から84年頃にかなりのBU10Dが転出→冷房MP118等が転入しているので、どこかには
旧平塚車のBUが集まっていたはず。。。
>>579
ふそう販社を抱えたのは、冷房化率100%早期達成のための大量代替の布石と聞いたことがあります。
伊勢原の日野車は販社説もありますが、大山対策でブレーキの関係で日野車が好まれたという説も。。。
また首都圏では比較的最後まで北村車を導入していたのは、単に川重の工場で捌き切れない分で
スポット的に北村を入れていた(3台口ずつ)のではないかと言われてます。 >>581
藤沢はCJM550なら1980年下期に非冷房2台と冷房4台が入ったのを皮切りに以後増備が続きました。
ただ、BU10Dは>>573に書いただけのはずです。
【ひ16】【ひ20】は【ひ106】【ひ110】と共に1977年下期のRE141と承知していますが、これらは新製配置されたではないのですか?1977年式のBU10Dを置き換えて転入してきたってのはどうも??です。 日野車の導入はリスクヘッジとふそうと相見積もり取るためにだしに使われたのかと思ってた 4社それぞれがエアブレーキ装備されたのはいつからですか? >>582
83年頃から86年頃までは転属が激しかったからもしかすると改番もあったのかもとか思ってみたり。
【ひ16】【ひ20】に関しては廃車時には間違いなくRE141(白枠車)で、86年にP-U32Nに代替なのは確か。
ただし新製からいたのかどうかは不明。
【ひ110】は日野車だった記憶はあるけどRE140だったのでは?降車ボタンがナイルスのあれじゃなくて、
四角っぽい緑色のボタンだったので印象に残ってるんだよね。(日野車のひ130と同型だったような)
77年式だとしたら代替が上2台と比べて2年も早く、P-MP118Mに代替だったからね。サイドの社番の書き方が
独特な車で、ひ112,113も運転席の側窓の下に車体と平行に書かれていましたよね。
【ひ106】この車だけ全く記憶にない…
ちなみに、平塚のRE141だと【ひ126,127,128,129】の4台は白枠車ではっきり覚えているけど、ボタンは
ナイルスの標準タイプ。サスが柔らかすぎてリアオーバーハングの座席だと縦ゆれが激しくて気持ち悪かったw
黒幕車が入り始めた頃にK-MPの転入車に置き換えられて安堵した覚えがあります。 >>585
1980年(昭和55年)上期新車導入時点での平塚営業所の日野REの在籍状況は以下の通りと承知してます。
1977年上期車(RE140)
【ひ126】相模22か1207
【ひ127】相模22か1208
【ひ128】相模22か1209
【ひ129】相模22か1210
【ひ130】相模22か1211
以上5台
1977年下期車(RE141)
【ひ16】 相模22か1317
【ひ20】 相模22か1318
【ひ106】相模22か1326
【ひ110】相模22か1327
以上4台
降車釦については、1977年式車は上期下期とも同型の、神奈中では標準のナイルス製ものでした。
http://bus-kun.my.coocan.jp/tsugitoma/g/button/Tniles040-1.gif
緑色の降車釦となると1970年式車まで導入されていた大光電気製のものとなります。
http://bus-kun.my.coocan.jp/tsugitoma/g/button/Tdaiko010-1.gif RE140か箱根登山バスに移籍したのは知らなかった。
帝国ボディーのエッチゴムの奴とか見たかった。 >>587
舞岡のRE100にはよく乗りましたが、とても好きでした。
お55だけが、後部方向幕が白のHゴムで異彩でした。 >>588
神奈中では1971年上期までRE100でしたね。(1971年下期からRE140)。
1980年上期新車導入時点で神奈中全体で12台、そのうち舞岡には6台在籍していたようです。私自身は、藤沢と秦野のRE100に乗車した記録がありました。
1971年上期車といえば、ナイルス製の点灯する降車釦が初めて装着された代で、子供心に押してみたいと思わせるものでした。
http://bus-kun.my.coocan.jp/tsugitoma/g/button/Tniles020-2.gif
『次停車』と表示されるこの丸い降車釦は、1973年上期車まで導入が続きましたが、1971年上期車だけは釦面が周りの枠から若干はみ出ている形状で、釦の上部に設置された案内板(ワンマンの時お降りの方は…以下略)も緑色の旧タイプでしたね…。 日野エアブレーキ音は、かっこよかった。
ドア閉めて、クシュんというブレーキ音のあと、ドドドとエンジン音とと共に走り去る後ろ姿の真ん中にあるバックライトが印象的。 神奈川県内だと、20世紀製造の古いバスは、伊豆箱根か、富士急湘南くらいしかいないのかと思いますが、横浜22や湘南22.相模22ナンバーはもう絶滅しましたかね? 神奈川県内だと20世紀製造のバスが残ってる事業者は伊豆箱根か富士急湘南くらいしかいないのかと思いますが、相模22、横浜22、湘南22ナンバーはもう絶滅してますかね? 車体のスケルトン化とフィンガーシフト化のアンバランスが面白かった
P規制初期型各社 神奈中が完全撤退した鉄道駅は意外と少ない気がする。
あれだけ路線を廃止しまくったのに 吉祥寺駅
上野原は市街地直行で駅には立ち寄らなかったから元々無し
新松田駅 今の調布〜鶴川線(昔は町田行きだった)は
大昔の吉祥寺〜江ノ島線の路線の残骸らしいな。
吉祥寺から撤退したのはいつだろ? エアロMは導入期間が僅か4年弱だからねぇ。確かに影薄いナ。
窓ピラーの黒処理と樹脂製エアコンダクトが斬新だった。 >>604
樹脂製エアコンダクト(紫色の)って、U-代だけだよね。
たしかKC-代になってから鉄板製に戻ってた気がする。 >>605yes。
因みに名古屋製はニューがでた後も樹脂製だったと記憶。 3Eの五十鈴は後ろから見るとやたら馬面だったなぁ。 フィンガーシフトで木張りの床だった後期ブルドックナツカシス >>593
日野はカシャーンカシャーン
三菱はプシュプシュ
日デはスカスカ
いすゞは棒ギア、後にブシュッブシュッ
三菱の棒ギアはなんかひん曲がってたよね エアブレーキではなかった頃はドア以外どこにエア使ってたの?
神奈中のMP117はエアブレーキ車だったのかな?
同期のU20とBU10Dは? >>613
箱根登山鉄道に移ったBU10の動画みたら、エアブレーキではない感じ。 あんまり古い話題でないけど、
排ガス規制対策前のKCーLVの重低音ナツカシス もうじき平塚の七夕祭りの季節だけど
最盛期は臨時の横浜行きのバスが有ったような >>616
あったね。貸切車使って、横浜駅行きと藤沢駅行きがあったし、乗った。 地下道にガイドがズラッと並んで呼び込みするのが七夕風物詩でしたな。
だが料金はすっげー高かった記憶がある。東海道線のグリーン車よりも高かった?まぁ国鉄の冷房化率が悪かった頃はアドバンテージもあったと思うが。 「必ず座れる」「冷房付き」がウリだった時代。
祭りも5日間開催だった。
駅前の街頭有線でオッサンの「ラオシャン麺」CMを聴きつつ
まんじゅうを作る機械を飽きずにみてバス待ちしてた。 関係ないけど、平塚の七夕で思い出すのはデパートの前にいた傷痍軍人。
わざと義足を外したりして、お国のためにこうなりましたとアピールしてました… 1980年頃は保土ヶ谷駅西口には今のようにバスターミナルはなくて、国道上路上バス停。まだ、東海道本線と横須賀線が東京〜大船は同じ線路を走っていたな。東戸塚駅もなかった。
朝夕の神奈中バスは「水道道〜戸塚駅(大踏切)」が横浜駅西口行きに混ざって運行されていな。
そのあと、保土ヶ谷駅西口にバスターミナルができて、反転地も確保できるようになって、横浜市バスと共同で206?保土ヶ谷駅〜東戸塚駅とかができたし。
本牧埠頭からの市バスも権太坂上行きで、反転地の境木中学の前までは回送でそのあと路線が延長になった。
当時、権太坂上近くにあった、社宅住まいの叔父の家に行くときに乗っていたな。 ちゃんと間違ってる部分を指摘しないと、この文章が正しいものとして将来に残っちゃうぞ うろ覚えで書いてる感じだから細かく指摘しなくてもいいとは思うけどね。若い世代で詳しく知りたければ調べれば良いだけだし ダメダメ
こういう過去ログを漁って文献だと言い出すアホが世の中にはいるからな 横浜というとロング車ってイメージだけど、あのでかいのが坂ばかりの横浜走ってたとは! >>628
長尺のMR450が港南郵便局前の直角曲がるのとこ、見ごたえありました。 B800Nが南高の角をゴキュゴキュ曲がるのは市バスなんかより京浜急行なんかより今で言うエモいな!と感じた訳だが。 >>629
>>630
MP118くらいから長尺と中尺を入れるようになったけど、ふそうは長尺の印象が強いな。だから江ノ電にあったMRは元神奈中とは思わなかった…
今は担当も経路も変わった町30だけど、森野三丁目の交差点で左折するMR450などの相模原のバスと運転士のハンドル捌きは格好良かった! いすゞは試作冷房まで長尺入れなかったのは、なぜだろう? BU-Dの非力さ………
お察し。
BU-Kを奢らなければ当時長尺も直結冷房も儘ならなかった事に相違ない。 いすゞは非力の印象だけど、平坦な茅ヶ崎に集中してたのはわかるけど、山道の多そうな秦野や津久井で多数派だったのは今思えば??だな。ヤビツ峠行きの満員車で北村BAに乗ったけどよくエンコしなかったと思う。 >>633
しかし最高出力だけ見るとMR450より高かった気が >>634
>>635
比較できるほど資料がないが、ふそうや日野に比べて一回り小さいような?
尺はユーザー次第だけど、いすゞの長尺自体が珍しいので短尺に一定の評価あったとか? いすゞのバスはボンネット時代からトヨタ、ニッサンと同じく短尺中心で、
最初から長尺が主力だったふそう、日野、UDとは住み分けがあった名残りじゃないかねえ。 最高出力はあてにならないぞ。
最近でも
U-MP>PJ-LV
は明らかだったし。 >>639
ちなみに登坂なんてトルクバランスが勝負だからね! 試作冷房車って、中古車として流れなかったんですか? 三ツ境周辺の狭い道をいすゞ以外車が走ってた。
ごく稀にいすゞ車も見かけた気がするが、鶴間行きだったのか? 昔の三ツ境でいすゞって言うと相鉄の3Eのがイメージあるなあ 神奈川は江ノ電も神奈中バスと同じ富士重工のヘビーユーザだったね。 昨日(25日)tvkの「俺たちの勲章」(1975年)の中で、BA30‐北村が出てきたんだけども
もし見てた人がいたら、あの走行区間が実際の路線上なのかどうなのか、教えて下さい >>649
そんなの神奈中に限ったことじゃないよ… >>647
あれ、俺は録画して見た。ロケ地は足尾で、わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線の沢入駅(そおり)も出ましたね。
後半にその神奈中バスが出てきますが、ロケとの兼ね合いがあって神奈中が使われたとおもいます。
情報としては、乗り込んだバス停(不明)、途中犯人たちが乗り込んできた一ノ沢中央交通 沢田バス停なる看板や
車内での喫煙は当たり前で、真夏に窓全開、
結果ドンパチで3人脂肪、群馬警察のパトカーあり 方向幕などは認識できず。
このスレ住人ならば車輌や車内設備、配置など詳細は分かると思います。
一ノ沢中央交通 沢田バス停でggrと画像が数枚あります。
想像するに、山間部のみの映像でしたが、神奈川ロケではなく群馬でのロケにチャーターしたと思われます。
余談ですが相模原の星が丘のレンタルビデオ屋で俺たちの勲章全話ありました、近所ならどうぞ
あとは、ロケ地情報でggってみてください >>648
確かその頃の川重BUって運賃支払い方法表示幕に『満員』って表示できたような・・・
それともワンマン表示灯の横にあったんだっけ?
白地に赤の文字だった記憶が・・・ >>652
江ノ電だと、ワンマン表示の横にあった「満員札」の裏が「深夜バス」ってなっていた記憶が…
深夜バスが設定された直後で、専用の幕がなかった時代かな?記憶違いだったらすいませんけど。 U32の最前線座席の幅広さとタップリ感は最高だった。 津久井にあったMKの初期冷房車が、冷風車みたいな装置が屋根についていたような? 神奈中バスの北村車体って古くさいけど、冷房車いたんだよなー。 大船駅は同じ神奈中なのに、東口と西口では全然趣が違ったな。
ニチイの前から出てたやつは、方向幕が
大 船 駅
金 沢 八 景 駅
と無駄にスペースの空いた方向幕だった。
系統番号導入後も
船00大 船 駅
だった。
記憶確かなら昔の時刻表って鉄板に数字と記号はシール張りじゃなかった?
手書きよりめんどくさそうだと思うんだが?
よっぽど人員いたのかしら。 >>661
何となく丸っこいやつでしょ?
実際に乗ったけど、普通に冷房車だよ。
そもそも神奈中には冷風車はない。 >>661
秦野にも30年くらい前に居たような気がする。
そういえば当時の秦野、中型車の車番は伝統なのか
固定されてたよな。
は5、は10、は13、は89辺り。 冷房装置の外観は似てるので間違いやすいが
恐らくK-MK116HとK-MK116Jの違いのことではないかと思われる。
K-MK116Hについては冷房ではなく冷風車(コンプレッサーがない)だったかと…
K-MK116Jは車体中央下にコンプレッサー装備済で普通の冷房車だったはず。
活動時期も似ているので間違いやすいのでは? 95年の中型集中投入の時、日野RJ まで入ったのにはビックリした。 >>667
あれは悪夢だったよ。少なくとも「お」では。
もう二度とやらないで欲しい。
あの時、何で中型を全営業所に入れるなんて狂った行動に出たのか、未だに知らないけど。 >>668
当時の新聞記事記憶だと、乗客の減少で車両を小さくしたみたいなこと書いてあった気がします。でも、今まで長尺が幅きかせてた路線に中型は無いよなと思いましたね。 >>668
横43や横46に中型が来たときは
殺意を覚えたぜ! >>667
その日野RJ、引退後にまさか鹿児島の「いわさき」系列にわたって
数年間も志布志〜鹿児島市内などの長距離路線で酷使されるとは
夢にも思わなかったろうな。なお既に廃車済。
ttp://busforumkagoshima.on.coocan.jp/register/200ka/0900/0876.html 八王子駅〜半原
八王子と半原は織物関係で結び付きが強かった。
八王子駅〜八日町〜山田〜大船〜相原十字路
〜原宿〜久保沢
この先、荒川〜三ヶ木経由なのか小倉経由なのか分からない。
八王子駅〜大船、八王子駅〜上寺田、八王子駅〜中沢
八王子駅〜荒川、八王子駅〜三ヶ木、八王子駅〜久保沢なんてのもあったみたい。 八王子駅〜半原
八王子と半原は織物関係で結び付きが強かった。
八王子駅〜八日町〜山田〜大船〜相原十字路
〜原宿〜久保沢
この先、荒川〜三ヶ木経由なのか小倉経由なのか分からない。
八王子駅〜大船、八王子駅〜上寺田、八王子駅〜中沢
八王子駅〜荒川、八王子駅〜三ヶ木、八王子駅〜久保沢なんてのもあったみたい。 偽厚木駅周辺も道路整備が進んだから路線バスが再設定されても良さそう 神奈中バスは長尺のイメージが強いな。
舞岡のふそうのバスに乗った時に、ツーマン路線は無いのに中ドアの所に、車掌台(車掌さんの立つスペース)但しドアスイッチなどなしがあって、座席をつければと思ったな。
たまたま、横浜駅西口でバスに乗った時に、高校から帰りの従姉妹と一緒に乗ったことがあったけど、何故か席に座らず、車掌台付近に立っていたな。 >>675
懐かしいー。87年式までは、
中ドア直後に人がひとり入れるくらいのスペースがあった。
88年式以降は、中ドア直後から席になってたと思う。
従姉妹さんが隣に座らなかったのは、恥ずかしかったからかな? MP218-Pとか長いなーと思ったな。
今は長尺は、隣の江ノ電だね。 >>672
大事なことなので(ry
八王子市西部は京王・西東京と三社でエリア調整された辺りだね
大船とか上寺田(グリーンヒル寺田)は京王の幹線になってる。 あの車掌台のところの窓がメトロ窓だった頃は
ピラーのところに怪しげなボタン(降車ボタンではない)があった記憶が…
あとあの頃の車は中ドア左側に格納式で整理券箱を設置する台があったけど何のためだったのか謎 >>679
整理券の箱付けられるようにしてたのは結構昔から現状と同じ様に中ドアから乗車させる計画があったからとか聞いた事がある。 子供の頃、格納された整理券発行器の台は、車内を洗うときにバケツとか洗剤を置く台だと思ってた。 >>680
そうだったのか…
子供の頃はあの中ドア左側部分が車体メーカーと年式によってバリエーションがあってよく見てたものだw
あと光電リレー用の装置もU32あたりから小型化するまでは色々なタイプがあったなぁ・・・とか
ガキながらにマニアックだったと思うw >>681
俺は車掌さんが結乗せる台だと思ってた。 昔の神奈中バスは、前扉も後ろに向かって開くようになっていたけど
傾斜窓の富士重ボディの車は特に、前扉の構造がちょっと複雑なつくりになっていて
晩年は開閉するときに引っかかって調子が悪い車も多かった。 バス前面上部に紫色のランプがついていませんでした? >>685
もっと前には正面屋根部分に、緑色の三連マーカーランプがついてたな。
昭和40年代前半くらいのバス。 >>686
あれは20世紀末までトラックに付いてた速度表示灯。速度が上がるごとに1個づつ点灯し、
3個全部付くのは一般道路の上限速度の60km/h。
荒くれダンプ取締用だったので、初めは大型車全部だったが乱暴運転の少ないバスは昭和40年ごろ除外された。 >>687
岡山の宇野バスだけ頑なに守り続けてるね マーカーランプ カナチゥにマーカーランプなんて付けたらアウトじゃん 本間のおじちゃん
彡川川川三三三ミ〜 プウゥ〜ン
川|川/ \|〜 ポワ〜ン ________
‖|‖ ◎---◎|〜 / タナバって愛称、オラが
川川‖ 3 ヽ〜 < 考えたんだぞ!すごいべ?
川川 ∴)д(∴)〜 \________
川川 〜 /〜 カタカタカタ
川川‖ 〜 /‖ _____
川川川川___/‖ | | ̄ ̄\ \
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| \ |つ |__|__/ /
/ ウサギ氏ね | ̄ ̄ ̄ ̄| 〔 ̄ ̄〕 >>684 舞岡営業所にいた日野車がそうだった。
オタ席に座っていて、自分の方にドアが来た。
戸塚駅(大踏切)〜保土ヶ谷駅〜横浜駅(東口)の路線だった。 >>691
舞岡の日野車に限らず、昭和40年くらいから昭和54年式車まで、一部の中型車を除いて前扉が中扉側に開くのが神奈中仕様。 今はどうだったか忘れたが、
扉開閉時の引っ張るやつ(名前不明)
緑かなんかのじゃばらになってたような。
あのじゃばらが伸びたりちぢんだりするんの見るの好きだったな。 >>693バス雑誌か何かで見たけど、折戸の開閉のアームの会社名がそのものズバリ「ジャバラ」だったような。
アーム本体を保護するためか、黒のゴム製のジャバラがついていた。(静鉄バスの場合) 神奈中クラスのメジャーなバス会社でさえ社内資料があまり残ってないのかな?
吉祥寺〜江ノ島や相模湖〜平塚など過去の名物路線の詳細や写真は未だに見た事がない。
写真ぐらいネットのどこかに転がっていてもおかしくないとは思うんだが 伊豆箱根バスは、神奈中バスが中型入れまくってたころと同年式がまだ健在で箱根山登ってるのにビックリ。
米粒テールがまだ見れる。 カナチゥの1970年〜1979年製の五十鈴、火野、うdは再就職できた車が多いが、扶桑は再就職した例が極端に少ないのは何故だろうか? >>698
妙な当て字のセンスはどうかと思うが、一応マジレスすると、
その時代の神奈中はMR450とかB800Nなどの長尺車がメインだったから、移籍先のニーズに合わなかったからじゃないか?MR410なんかは江ノ電に移籍してるし。 >>698
完全冷房化のとき置き換えられたやつで、いすゞの再就職はダントツ多かったけど、三菱MP 117 Mの移籍はゼロ?だったのは呉羽デザインの古臭さかなーなんて思ってた。 本間のおじちゃん
彡川川川三三三ミ〜 プウゥ〜ン
川|川/ \|〜 ポワ〜ン ________
‖|‖ ◎---◎|〜 / どんどん糞鉄ネタ書くべ
川川‖ 3 ヽ〜 < すべてうさぎの仕業だ
川川 ∴)д(∴)〜 \________
川川 〜 /〜 カタカタカタ
川川‖ 〜 /‖ _____
川川川川___/‖ | | ̄ ̄\ \
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/ ウサギ氏ね | ̄ ̄ ̄ ̄| 〔 ̄ ̄〕 神奈中バスで最後までバス窓だったやつはどのメーカーだろう? 神奈中バスのふそう車は、デザイン的に遅れた呉羽ボディーにこだわったのは何故だろう? あの後ろ側にドアエンジンがある前ドアを、OKしてくれたのが呉羽だったんじゃないかな
他社の話になるけど、京王が3ドア車を導入するにあたって、いすゞ車は川重にも富士重にも断られたんで北村なんだよ >>706
三菱自工と比べると、モデルチェンジの時期が少し遅れて行われていたのは事実。
この辺は
http://www5e.biglobe.ne.jp/~iwate/vehicle/extra/primer/coach/body_local_kureha.html
に書かれてるからよく読んだら。
俺は>>705ではないけど、これって周知の事実でしょ。 カタログモデルみたいなのは名自
面倒っちいのは呉羽
っう棲み分けがあったな。統合前は。
リンクを見ると、京王でB800Mに3扉のボディを架装したのは呉羽だったね。というのが判る。京急もいっとき3扉を作ったことがあって、B800Mの呉羽だった。
B800Nの時代になると、名自でも3扉のボディを架装する様になった。 >>698 栃木の関東自動車に神奈中の中型のトップドアのいすゞ車が移籍してきたな。
今は廃止になった、石橋駅〜小山駅の路線で乗った。 >>710
神奈中バスにはいなかったけど、超低床のB820 も呉羽ボディーでしたな。 きれいな仕事は名古屋へ
厄介な仕事は…
っつうこと! 厚木の初代ワンロマ初めて乗った時、観光バスのような乗り心地と、ダンプタイヤのロードノイズがしないことに感動した。 新呉羽の経年車は、車体の軋みが気になった
名自は可もなく不可もなく
頑丈なのは西工、まるで装甲車 西工車が塩漬けなのも含めて未だ除籍されてないのは頑丈なせいか? ペンギンマークの冷房車が登場…1984年?
木の床じゃない新車が入る…1985年?
中扉すぐ後ろの「光」ボタンが消える…1986年?
ツギハギ・ボディのリベット車が消える…1994年? >>710
しかし名鉄岐阜乗合京急のノンステップは名自でしたな ふそうと名鉄が深い関係だったからな
初期ノンステップは名鉄の要望だろう
当然、地元の名古屋産になるわな >>718
>ペンギンマークの冷房車が登場…1984年?
確か82年車から入ったと思う
>木の床じゃない新車が入る…1985年?
これは86年から
>ツギハギ・ボディのリベット車が消える…1994年?
P-のブルドッグも含めると、92年には消えてる 田舎から来た従兄が、新車ぼかりだと驚いていた30年前。 車掌さんがいた頃は、車内でカレーと牛丼を販売して食べれた
また復活してほしい >>722
国府宮に入ったヤツか
アレはメーカーのデモ車
真相不明だが、当時新車をたくさん買ったのでオマケで付いてきたとかじゃないのか? 初代ワンロマ出始めの頃、途中から乗ってくる人が、本当に乗っていいのかとウテシに聞く光景がよく見られた。 >>728
懐かしいw
加木屋車庫の虎の子1321思いだした
俺の小学校の遠足でMSに混じって来てたな >>728
他社の観光車格下げ車でも見たことがある
JK位の女の子2人が「これ乗っていいの?」みたいな感じ ワンロマの青い塗装といえば、伊勢原に入った日産デの前扉リフト車にはたまげた。普通に平塚伊勢原線とか走って何かと思った。 >>731
それって初代のUA440のほう?
2代目のUA460だとしたら未確認運用だと思われるが…
ちなみに更新時期でもないのに投入されたUA460は、実は江ノ電の発注流れという説が…
今でもどこかで残っていれば検証も出来ただろうけど、あの車の最後は自走不可なほどボロボロだったからな 基本的にUDは持ちが悪い…
それをグループに払い下げる西武はすごいと思うよ! 小田原だと伊豆箱根の7Eサッシ窓からなんてのが普通にいるのを見る。 い111最期の姿
ttps://shinatora.exblog.jp/iv/detail/?s=8820126&i=200808%2F11%2F11%2Ff0023211_1933939.jpg
前にネット上に2代目のい111の車内撮影した画像があったと思うんだけど
床のリノリウム材の仕上げが江ノ電そのものだった記憶があるんだよね。
どこかに画像が無いかなぁ・・・
>>735
さすがにサッシ窓のUA460は全滅したでしょ?
去年の時点で逆T窓のUA452に乗ったけどクーラーの吹き出し口が富士重工クーラーの旧式だったけど
あれまさかUA440だったなんてことはないだろうなぁ・・・エンジン音はPG6ではなかったけど… 俺がバスに詳しくなかったガキの頃、冷房車と非冷房車との格差だけでなくて、
都バス等を基準にすると、神奈中は公営に比べて内外装とも随分貧相だなと感じてた。
具体的には、モノコックの頃は床が木で方向幕も小さくて、降車ボタンも小さくて貧相。
スケルトンになると、都営や小田急が中扉が4枚折戸になって、サッシも黒、
モケットも柔らかいものになり、上質なものが奢られていた。
リアコンビネーションランプも観光バスタイプになって、乗降中サインも付いたが、
神奈中は相変わらず全部古臭いまま。
ノンステ時代になっても、神奈中はワンステばかりを導入していた。
今になってようやく追いついた感じだが、昔は7年程度で代替することになっていたのが
今は13年程度まで伸びていることを考えると、理の当然なのかもしれない。 >>737
確かに神奈中バスは、同世代他社に比べで質素な仕様だなと思う。民営で赤字路線も多数あるなかでは、質より量の方針はしょうがないだろうな。今に至るまで他社より豪華な部分はないよなと思う。 ラインデリアの数の多さやフィンガーシフトなど運転手にとって快適なオプション機能の導入は神奈中が早かった
サッシの色を最後までシルバーにこだわっていたのは嫌だった バスカードや車内販売とか、あと出っ歯なフロントバンパーなんかも神奈中バスならでは。
低床バスの導入が遅れてリーフサスが21世紀まで新車で入ってたり。 新ステップなんてのも続かない技術だったな。
なんか踏み出した時不安定だった。 >>742
新ステップは愚息が2,3歳の頃一人で乗り降りする時お世話になりました。 平戸団地から横浜駅西口へ行けたのも、こども医療センターから保土ヶ谷駅東口へ行けたのも数十年前の話か。
どちらもエアロKが運行されていたな!過去には横46も朝〜夜まで運行されていたけど、今では朝に1往復だもんな。
他にも横41(横浜駅東口〜保土ヶ谷駅〜戸塚駅東口)や東16(東戸塚駅東口〜こども医療センター〜県庁入口)もあったね。
昔がいかにバス路線が多かったか分かる。
1996年製〜1997年製のKC代で一部を除く神奈中本体車は赤座席から緑座席への更新が早かった気がする。
神奈交籍については最後のあたりまで残っていたね。ニューエアロの赤座席仕様で本体車が動いている姿を最後に見かけたのが横41のLED仕様だった気がする。
今じゃあ、緑座席から青座席への更新になるのかね。ただ、質は変わらず。
赤座席に近い質だと今の神奈中で言えば2014.7導入のMP38から2015.3導入のMP38とMP35な気がする。 >>744
思い付いたままを脈略もなく書き並べても、本人以外興味がわかない。 >>744
前世紀末の数年間平戸団地に住んでいたので懐かしい。
横浜駅西口〜平戸団地は休日の買い物の時よく利用したものだ。
高島屋辺りに居るとスカ線ホーム迄歩いて、東戸塚でバスに乗り換えるのが面倒くさくてね。 >>746
休日の買い物と言えば一時期横浜パークタウン〜横浜駅でもお買い物バスが走っていたようですね。
直では見た事ないですが、U代のエアロMが運用に就いているシーンを見たことがあったような気がします。
東16の話だが、今は新戸塚病院線の系統番号となっているが、昔は東戸塚駅からこども医療センターを経由して県庁入口まで行く路線だったな。
朝方の東06は今も変わらずだったと思うけど、東16は日中に走っていた路線だった。
今じゃ、東戸塚駅発の県庁入口行は早朝の東06の1本のみだからある意味貴重な路線。
ただ、県庁入口からの折り返しはそのまま本町4丁目始発の戸塚駅行になるのか不思議な所。 神奈中は長距離路線の分断よりまるごと廃止の方が多いイメージ >>749
買い物バスも乗りましたよ。
横浜パークタウンから南永田団地を経由して横浜駅迄行くやつね。
オイラが乗った時は一時間に一本の運転だったよ。
あと戸03とか夜の戸塚→井土ヶ谷等は「よ」の車が宛がわれていて「お」の牙城エリアでぷち萌えだったな。
戸04も何度か乗ったけど「よ」が担当していたな。
戸塚〜上大岡が2系統併せて 5〜6本/時 あった時代の戯言てすが。 >>754
横浜パークタウン〜横浜駅までの買い物バスが1時間に1本の割合で動いていたとは凄い!?
今じゃ、知る限りでは買い物バスは町田バスセンター便しか分かりません。
井土ヶ谷〜横浜パークタウン線は他の並走する路線に比べて混雑率が少ない印象で、井土ヶ谷からだと混雑しても途中で降りる人が多かったから横浜駅から1時間に1本出ていた事には驚き。
途中なら横43や横44が出ているから、そっちの方の需要が高い印象。ただ、横浜駅東口〜戸塚駅東口という事だから混雑率も相当だったな。それに端から端まで早くて片道1時間くらいだったし。
今は横46が1日1本と化してしまっているようだから、横43と横44が昔よりも混雑率が高まっているのか気になる所。
戸03の井土ヶ谷止まりがあったんですか!?戸01の前身だったのかな。
それも『よ』の担当便があったとは意外。『よ』の場合は当時だと、現在の本郷以外に笹下もあったから笹下担当だったのかな。
今の『お』エリアに乗り入れる『よ』の担当は『港95』が唯一ほぼ舞岡エリアの吉原小〜平戸〜最戸町を片道1日1本走っている位。
上大岡〜戸塚駅の路線は懐かしい。『上07』と『69』ですね!
覚えている範囲だと2001年製のKL-MP35JMがダイドーのラッピング(オレンジ)を纏った状態で『上07』で就いていたのを見かけたことがあるような。
今は戸塚駅のLED表示も『戸塚駅東口』だけど、ちょっと前までは『戸塚駅』だけだったな。
『戸塚駅』だけの表示を使っているのは今では西口・東口でもない駐輪場したから発着する鳥が丘線くらいかな。
後、戸塚と言えば『戸25』が確か戸塚駅乗り入れ路線で唯一舞岡の中型が乗り入れてたような。
今は分からないけど、その後に『戸22』に入るのは見た事あった気がする。
方向幕時代は井土ヶ谷下町行きが『井土ヶ谷』表示だったから、『井土ヶ谷』と言うバス停止まりなのか『井土ヶ谷下町』まで行くのか正直分かり辛かった。
LED表示機後は『井土ヶ谷下町』に直されているけど。 >>755
パークタウン〜横浜駅のお買い物バスは、南永田団地経由だったし、横浜駅行きに乗り継ぎ不要で便利だったなあ。
結構盛況だったのに数年で廃止されちゃったのが残念。
パークタウン終点は循環みたいになってるし、井12と東08はつなげて一つの路線にしちゃえばいいのにと思う。 戸塚と言えば大踏切の札だね。今の東口になる前の乗り場が分かれてた頃 臨時お買い物バス(横浜パークタウン(南永田団地)横浜駅東口) 専用の幕がなかったから、横浜行は[横43]、パークタウン行は[井12]で代用してた。
前面に 臨時お買い物バス と書かれたバスマスクも装着してた。 >>736
小田原はUA452しか残ってないが、熱海はUA440も残ってる。 「大踏切」の白札は印象あるな。
しかもあのバス乗り場はなんか古めかしい印象がある。
地下鉄出来て、東口バスターミナルが工事中で、
丸井がまだあった時期。
受験でしか使うことなく終わった路線だけど、
あそこから出る路線は支払い方法が異なるせいかまとめられたんだろうな。 >>758
意外と専用の幕が無かったことは意外。
そうなると、大池通り〜南永田団地間でお買い物バスを見ると違和感が沸く気がする。
でも、南永田団地経由となれば横浜パークタウン行きの際はどっちのバス停から発車していたのかが気になる。
南永田団地行きだけ専用バス停だから、専用か他系統兼用の使用だったのか。 臨時お買い物バス、懐かしいー。
横浜駅行きは「[横43]井土ヶ谷・関内駅 横浜駅」幕だったから、
パークタウン・大池通り〜南永田団地でも、幕だけでわかった。
けど、逆方向は「[井12]横浜パークタウン」しか書いてない幕だったので、
横浜駅〜大池で幕だけ見ると、大池通り〜南永田団地を経由するとは分からない状態。
その対策?として、>>758のバスマスクにプラスして、前面窓内側に
「南永田団地経由 お買い物バス」っていうような専用サボを下げてた。
>>761が言うとおり、途中の弘明寺口バス停は乗り場が3つある。
@井土ヶ谷方面行きの乗り場、A南永田団地行き専用乗り場、
B南永田団地行き以外の、引越坂方面行きの全系統の乗り場
横浜駅行きは@に止まっていた。パークタウン行きの場合は、
まずAに止まってドアを開けるんだけど、パークタウン幕なので、待ってたお客は「?」ってなる。
なので、運転士さんがマイクで「南永田団地を経由します」って繰り返し放送。
乗降が終わったら、数十メートル先にあるBにも止まってドア開けてた。
パークタウン幕なので、待っていたお客は普通の[井12]だと思ってしまう。
なので、運転士さんがマイクで「南永田団地を経由します」って繰り返し放送。
車種は、MボディのMPが多かったけど、MKや、波線塗装の長尺車での運行も。
ただ、ニューエアロスターでの臨時お買い物バスの記憶はないので、
1997年の時点では路線廃止になっていたのかも…。長文書き込みスマン。 井土ヶ谷下町の終点バス停はなんであんな中途半端な場所なのか疑問に思ってました。 舞岡ついでに、
ダイヤが乱れた時に稀に現れる「(系統番号なしの)不動坂ゆき」って、
今も現れるものなの?
>>762
8トラも当初は用意されなかったね。
時刻表も起終点と井11の単独部分の横浜ゆきにだけ、
お手製のお知らせの掲示が出されたくらいで、
あくまで臨時便でしかなかったのが災いした。
あと、買物バスがなくても、
パークタウンにせよ南永田団地にせよ、横浜や関内へは、
他のバスや京急でそこそこカバーできるって点も不利だったかも。 買物バス「ま」以外にも存在したのか。
「町50」鶴川団地〜町田BCは結構遅くまで存在していた、と思ったらまだあるのね。 >>761
小学生まで舞岡管内に住んでいたけど、系統番号が設定される前は 戸塚駅(大踏切) ※(大踏切)は青文字 の方向幕が用意されていた。舞岡.横浜.上大岡方面行き乗り場が駅から少し離れた場所にあった為、戸塚行に乗る時は大踏切行きを選んで乗っていた客が多かった >>765
町田の買い物バスはあと2系統あったんだけどねー。
循環の方はわかりづらくてあぼーんしたよね。
その途中の藤の台も山崎団地センターもだいぶ運行形態が変わってるし。 >>764
今は不動坂行きも系統番号が振られてるから、もう現れないと思う。
LEDになったし、表示が引き継がれてるのかすら怪しいw
前と後ろの幕が「不 動 坂」としか書いてなくて、
横の幕は、横書きで「不動坂ゆき」としか書いてない。
「よ」や「と」では似たような幕はないし、不思議な表示だった。
昔は、不定期で不動坂行きっていうのがあったのかなぁ。
臨時お買い物バスの放送、運行が始まって少し経ってから、
専用の放送が流れるようになったのは覚えてるけど、
それ以前の記憶が飛んでる。運転士さんの肉声対応だったのかな…。
今はLED表示&音声合成放送になったし、
路線変更や実証運行みたいのも、昔よりやりやすいのかも。 >>768
「不動坂」とだけ表示のバスは、自分は平日夜に弘明寺口で見た1回だけ。
ダイヤが乱れた時用だと思う。
90年代前半だったから、
不動坂ゆきの定期便の設定は当時は深夜バスくらいだったような。
昔は横43とかに不動坂始発の設定があったけれど今はないな。 不動坂の三菱ふそうのディーラーにエアロスターMか並んでいるのをみて、神奈中バスも呉羽と縁切ったんだと感慨持ってから早25年経ちました。 あれ、呉羽がMの図面使う様になっただけだし〜。
神奈中は昔も今も優良呉羽ユーザーだわなあ。つか、名自じゃ間に合わないから架装したとか、面倒臭い系の架装とかの役まわりだった呉羽が本流となって今やMFBMである。というのは偽富山県民の俺には感慨深い。 >>771
>>770はそこまで言ってないと思うのだが…
マウント取った気になって恥ずかしいぞ! マウントねぇー、ナウでヤングな若者でないので意味わからん。
俺が言いたかったのは後段なんで。
前段の件は、知ってて書いてたという気はしてるのよ。 昔の神奈中はみんな一千万プレーヤーだったんだよね? そもそも「あれから25年」と言っている時点で、相手もナウでヤングじゃねぇだろ? 神奈中は熱心な呉羽ユーザーだけど保守的な感じもするね。
いわゆる呉羽の平目を投入しなかったあたりが…
あるいはP-MP118のときにエアロK架装を選択せずにB35で通したのも… メインストリームな呉羽については、見極めが慎重だったのだろうね。
平目…大阪市、日交、都営
P-MP118のエアロK…川崎市、横浜市
このあたりを人柱に、様子見をね。
Qビックなんか偉く早かったんでね?東武やKKKがC系の売れ残り買い集めに躍起だったのと好対照。 >>777
積極的・・・FHI、川重
保守的・・・呉羽、日野(帝国)、北村
FHIに関しては、82年の時点で最初期のリベット+リア3枚窓5EのUD車を投入
川重のキュービックもLV発売と同時に投入(84年)だから早いよな…
他方、呉羽は前述のとおり。日野はK-RTの導入を見送ってRC321を83年まで継続投入。
北村はナマズの完成が遅れたのもあるが83年で導入打ち切り…
ナマズがもしCJM末期にロールアウトしていたら・・・とも思うが。 東戸塚駅→県庁入口懐かしいな。
貴重な路線なので一回乗ったな。
県庁入口の降車専用のポールも疲れていた感じ、今から30年前の話。
横浜駅西口〜保土ヶ谷駅〜権太坂〜平戸〜戸塚駅の路線、横浜駅出発時点で戸塚駅の表示だったのが、平戸辺りで戸塚駅(大踏切)の表示に変えていた運転手さんがいたな。
まだ、系統番号がつく前のころだった。
「横浜駅西口〜戸塚駅」から「戸塚駅(大踏切)」に変えた?と思った。 東06がまだあるし県庁入口の疲れたポールもそのまま 富士重工新7Eは比較的早かったたと。俺がみたのは茅ケ崎のいすゞだ。 >>777
観光は、エアロバスKはオリジナルではいれませんでしたね。 >>782
見た目インパクト絶大の名自エアロ入れたもんねえ。
呉羽のサンシャインデッカーだっけ?とその後のエアロKは神奈川県観光が好んで入れてたけど後年神奈中傘下になるなんて当時知る由も無く。 観光はフルデッカから移行し始めたね。
路線もふそうに対しては奥手だったような?
ブルドッグもMP118からだし、エアロスターもMP218からだし。MP38が量産第一号車なんて驚いたよ! エアロスターMは、内装のせいか車内が暗く感じた気が。 >>781
7Eは先行量産車がU33ということになっていたけど、全国的に見ても神奈中のLV314の7E化は
トップクラスに早いね。東武も早かったみたいだけどね。
あとは8EのU-LRなんて神奈中くらいかもというくらい隠れた珍車。
>>783
知っていると思うけどホンの僅かな台数だけサンシャイン顔も導入されていた。昭和61年頃だね。
>>784
PKG-MP35UMの量産初号車、LKG-MP37FKの量産初号車も神奈中だったり… >>785
車内の窓柱が黒で、冷房が吹き出すあたりがグレーだったと思う。
Kは飽きてきてたので目新しくて好きだった。 >>786
どちらだかカタログの車内の写真が神奈中仕様だったような?
ま6のATは試験導入かな?
>>785>>788
とうとう呉羽が終わったのか?と思った。 >>788
窓柱が黒いのがかっこ良かったよね
93年式は新ステップ試験車もあったけど、椅子は旧来のままで
94年式も前期には最後の旧来型ステップ(椅子は新型)というアンバランスな車両がいたり
94年下期になると窓下のモールも廃止されたり、ベンチレータ削減されたりと短期間にバリエーションがあったね
>>789
ま4じゃない?(2010.8.30投入)
まだぎりぎりPKG車を新規登録できる時期だったから、テストヘッドとして導入したと思うけど
作り置きのPKG-MPをあわてて登録したりして、製造と登録にズレがある車もいるみたいだね >>790
失礼。ま4だったか。
あの後は少し途絶えてから本格的にAT入れたよね。 >>786
8EのU-LRは神奈中11台だから目立つだけで、小湊鉄道とか頸南バスとか井笠鉄道が入れてる。 >>792
波形塗装のロングボディで、桜岡小学校近くの狭い路地に左折で突っ込んで行った姿は忘れられない。
一発勝負もいいとこだわ。 MRとかB8とかってオタ席側から中ドアまでえらいながかったけど、何席あったかご存知ですか? >>798
前向きの座席が6席あったよ。
MR450とかB800N。 >>799
レスサンクス!
中ドアから後ろは三列しかなさそうですね。 >>800
最後尾の5人掛け席を除いて3列あった。 神奈中ってバスは非常に酷い会社という思い出はあるが、50年前
だからなぁ・・・ 椅子はビニール張りで真夏は低温どころか高温やけどが不可避だったりした。ビニールそのものも灼けてしまい多分綺麗だった赤がヘッタヘタの白灰色と化していたものだ。
真冬はウテシ用のヒーターはあっても客は冷えホーダイの南関東仕様………
ウテシは何故かすれ違うダンプに挙手したりする。そんな時代の神奈中を体験出来た俺は幸せだった。 昔、月刊明星という芸能雑誌があって、デビュー当時の小泉今日子が厚木の高校には神奈中バスで通学していて、厚木営業所に気になるイケメン運転士さんがいるという記事。
神奈中バスと神奈中の運転士さんと思われる人と小泉今日子がツーショットで写っていた写真が載っていた。
1980年代の芸能界はヤラセがありだったから、当時高校生だった俺は、この記事はヤラセだよたこれと思った。
神奈中バスも宣伝になったし。 しかし、小泉今日子が実際世話になっていたのは「つ」のはず… いや、半原経由で通学していれば、一応「あ」にもお世話になっていたかもしれん。 >>804
通ってた高校は厚木(市内)じゃなかったような。違ってたらゴメンなさい。
公共交通機関なら半原経由か(当時の)国鉄か。 >>809
津久井高校ね!
まあレベルを語ってはいけない… 町田の野津田高校も昔は酷かったぜ!馬鹿ばかりは当然、車庫前にあった
コンビニーが連中の万引きで潰れたのは有名な話w >>811
まあ、その手の学校は大概人里離れたところにあるのだから近隣にコンビニなんて作っちゃダメなんだよ…
あの桜美林ですら学内コンビニできる前まで、グランド前のセブンイレブンがつぶれて以来コンビニできなかったんだから… 平塚、茅ヶ崎の昭和という写真集の広告に神奈中提供の1971年の平塚駅北口の俯瞰写真があって、写ってるのが日野RE、ふそうMR410、490? いすゞBA川重、日産ディーゼル4R93?らしきものがいます。今と比べていすゞ日産ディーゼルは短尺?かな。 バスコレに、自分が子供の頃乗ってたバスの方向幕を作って貼ろうとしてるのですが、
戸塚駅東口〜名瀬の方向幕は、どんなだったでしょうか…
戸塚駅東口 〜 名瀬
戸塚駅 〜 名瀬
戸塚 〜 名瀬
名 瀬
名 瀬 町
「戸塚」「戸塚駅」「戸塚駅東口」が使い分けられていたような気もします。
覚えてらっしゃる方、よろしくお願い致します… >>502
三吉っていうんですね。懐かしい…
小学生の頃、満尾眼科に通っていて、
帰りにそこに寄って天ぷらうどん食べるのが楽しみでした。
西友戸塚店の5階でも鉄道模型を売っていたり、
戸塚図書館の近くにホビーワールドって鉄道模型屋があったり、
西友の隣の銀行(富士銀行だったか)のロビーに鉄道模型のレイアウトがおいてあって
エンドウの113系が走っていたことなんかを芋づる式に思い出しました。 >>816
ありがとうございます!
早速印刷、とおもったら
方向幕の枠を削らないと
前乗り
前払い
が貼れないことに気が付き
デザインナイフで削って再塗装中… >>819
つけます!
あとは江ノ電買って、戸塚ダイエー にも仕立てたいな… >>821
相鉄が戸塚に入ってたのは>>820の想定してる時代より前だし横浜新道経由だったから西口に入ってたはず 相鉄バスは昔から今まで神奈中バスと横浜市営バスの隙間を細々と運転してるイメージ。 昔の神奈中バスの運転手さんは元暴走族が多かったということを聞いたことがある。
前の方のスレで、ダンプとすれ違った時に手をあげた運転手さんがいるといったけど
@昔の暴走族の仲間
Aダンプカーの運転手からバスの運転手に転職した。のどっちかだろう。
Aのパターンの人と観光バス会社でアルバイトしているときにその人のバスに添乗した時、昔のダンプカーの運転手時代の仲間とすれ違ったときに、お互いに手を上げて挨拶したな。 昔の三ヶ木ターミナル、屋根も無くて青根緑の休暇村に夏休みに行くのに橋本から来て東野行に乗り継ぐのに長時間待った記憶がある。字幕式の運賃表示機や自由乗降区間に驚いていた小学生時代。帰りはペンギンマークの冷房車に乗るためわざわざ三井経由で橋本へ戻った記憶。 首都圏で最後までいすゞ北村を選択してたのは神奈中バスですかね? >>826
その流れで、銀太郎と同じボデーまで導入されてたら最高だったが… 川重車体の泥臭い角型車体よりは、北村謹製『鉄工所のエアロスター』の方が数段垢抜けていたかもしれないな。 冷房改造じゃない北村車を投入してたこと自体がレアなんだが
何故LVから投入をやめてしまったのかは謎
北村CJMの末期の車両は平塚駅でも90年頃まで姿を見かけたけど
車内のイスは肘掛も含めてMP117/118用と同じ物が使われていて、クーラー吹き出し口は
川重と同様の一切調整のできない糞仕様、妙に目立つブルーの銘板で変な車というイメージ
だったのが懐かしい。当時は北村車って知らなかったし・・・ そもそも北村CJMを関東で入れていたの希だったし、尚且つ冷房車も更に希な存在…
しかし、興味がなければ川崎も富士も北村もいすゞは同じように見えていたからな〜。 北村といえばCJMやBUっていうよりBA30の印象が強いんだな。
神奈中最後のBA30も1972年式の津久井車だったし。当時川重と富士重のいすゞはBU10Dで導入されてたのに、北村はBAとBUが並行導入されていた。
そして、津久井とか秦野といった田舎にいるバスってイメージだったんだが、なぜか横浜にも北村BUがいたよな。 BA30は後のLTの系統だからね
道路事情の悪い営業所に投入されていたが川重車体が圧倒的だけど末期は北村なんだよね。
ちなみに搭載されていたDA640は130ps程度の出力だったなんてちょっと想像もできないね。
>>831
>なぜか横浜にも北村BU
新製配置なのか転属なのか気になりますね。
イメージ的には小田急沿線の営業所に北村がいたような気がします(伊勢原は除く)
実際平塚には配置無し、茅ヶ崎には末期に転属車のみ、藤沢は?(昔は日野が多かった) >>832
そういえば幼少の頃、平塚駅で伊勢原の川重BA30を頻繁に見てた。
BA30は2速から3速あたりのエンジン音が何とも頼りなくて笑えたなあ。
横浜の北村BU10Dは、ナンバーから推測すると新製だと思われる。当時、横浜には富士重BU10Dもいたし、舞岡にも川重BU10Dがいたね。いずれもナンバーから新製配置と思ってる。 >>834
横浜駅西口で中ドアから乗車扱いしていた頃が懐かしい。
当時は15分間隔ぐらいで、鶴ヶ峰〜亀甲山では市営バスとも手を挙げながら仲良く走っていたな。 ジーゼル4メーカーで、いすゞだけは冷房車以前長尺入れなかったのは不思議。 今日鶴ヶ峰に来たから、バス停見たけど、悲惨だな
横04が影響受けたかと思ったら、115鶴ヶ峰〜若葉台も1時間に1本削減ときたもんだ
まあ鶴ヶ峰発は横浜発(5系統)の後追いだから、空席が目立つ事があったが、それにしてもランダムダイヤすぎ。
横浜発着便は20分間隔にできんかったのか。 仮に等間隔にした所で16号の渋滞によるダイヤ乱れでぐちゃぐちゃになると思うわ。
あと115は共同運行路線だから各社旨みが無いんだろ。 >>838
ごめん現行のかなちゅうスレと書くとこ間違えた
等間隔であれば、確かに遅れはするものの同じ程度遅れたまま走るから(先行車は8分遅れ、後続車は7分遅れなど)、混雑具合は均等化する。
115系統は今かなちゅう便だけっす おいおい115が鶴ヶ峰発着で5が横浜発着だってこと忘れてねーか? 多区間制の路線で前のり前降り運賃後払い整理券方式だと、無券の区間はしめきりの中ドアを開けて乗せていたな。
バスカードの時代も知り合いの運転士さんがやっていたな。
PASMOができて、乗車バス停を記録しないといけなくなったから、中のりに変更したんだろうな。
磁気カードだと、下車の時に手入力で無券の運賃を運賃箱に設定してから、カードを通せばよかったからな。 >>841
駅から乗る場合は違和感ないけど
初めて乗る場所だと、途中停留所なのに「しめきり」側が開くのはなぜ?と戸惑ったわ 箱根駅伝見てて思い出した。
一時期、監督車の代わりだったか神奈中の中型貸切車が
普段は付けていないスポンサーの三菱FUSOのステッカー
前面に貼って伴走していたよね。 確か2000年代初頭〜中頃位だったか
カナ中MKが伴走してたのは印象的
ステッカーは気が付かなかった 三菱が車両提供していた頃ね。
自衛隊のジープからコルトに代わったり。あのMKは社内でも「駅伝用」の位置付けだったとか? ttp://www.geocities.jp/kanachan_go/kan/hi620f.jpg
大御所HPより。
U-MJ517Fなんていうレア車両だったんだな。
廃車になってからすでに16年が経過しているとは思わなかった… 三菱がいろいろやらかして
駅伝のメインスポンサーも与太に代わっちゃったしな 駅伝中継見てたけど、伊豆箱根バスは7E まだ現役? かなり昔に相模原のアイワールドに家族と行ったのだが
見慣れた厚木のふそう車と似た車体だが音が違う車種(B8?)に乗った。
車体が異様に長くて威圧感があり、乗ると厚木のより少し古めかしくて
走ると観光バスの音がして、何故かちょっと怖かった。 B8は神奈中では少数派だったけど、箱根越えの箱根登山や伊豆箱根では、昭和最後まで残ってた >>854
路線車用で90台あったから、そこそこいたんじゃないかな。 >>855
その前の3枚ルーバーのMRやその後のMPに比べたら導入された期間が短いから、少なく感じるのも仕方ないかと? 神奈中の観光車で、ヘッドライトベゼルが呉羽の路線車みたいなのがついてるのがいたような?気がします。確か隣の箱根登山鉄道バスにもいたような。 >>857
>>858
型式はMS5か6のシリーズ。
運ちゃんから聞いた話だから噂話の一つかもしれないが…本来ライトと行灯一体の一般的な顔だったけど、一部腐食した車両だけ呉羽で改造されたらしいよ。
登山や東海にあったのは、神奈中古。 >>857
MP117のようなライトベゼルの貸切車、いたね。平塚車でナンバーが相模22か19●●あたりの1981年式で、新製当初からそのスタイルだった。
七夕臨の平塚駅発横浜駅行きで乗車した記憶がある。
新車なのに顔が古くさいなと思った。 昔の観光車のトリコロールカラーはなかなかいいデザインだったような気がします。
今特定で残っているみたいですが。 >>857
さらにもう一昔前には前後が路線車と同じ顔のB805?がいた。
前面は星形ウィンカー、後面はバス協テール。
廉価版だったのかもしれないが、冷房付きのれっきとした貸切車だった。 >>862
B905Nってやつだね。
側面の窓が斜めのメトロ窓の。
ナンバーが相模2こ●●●●から相模22か200番台あたりだったから年式としては1970年前後だね。
さらに遡ると、日野RB系帝国ボディの貸切車なんてのもいたようだ。 試作で入った冷房車は、早期に引退したけど再就職できなかったのはなぜでしょうかね? お彼岸に日野公園墓地まで臨時便出してたことあります? 神奈中は、寒川神社や平塚七夕などのイベントのための臨時便を律儀に残している印象。 その正月の高村団地発着の寒川神社行の利用状況ってどんなものなのか >>860
ググッてみたらこんなのが。
ttps://ameblo.jp/maryamo-photo/image-12304758588-14013215507.html
ここの3枚目の画像がたぶん横浜のK-MS615Sセミデッカーだけど、フロントマスクは普通のようですね。
4枚目のフルデッカUも懐かしい
>>862>>864
ttp://tekuteku.ongaeshi.biz/kc-no14/y971f.jpg
大御所からの借り物だけどコレ? >>870
その横浜のやつより後に入ったのが、何故かMP117と同じライトベゼルだった。
大御所の借り物が「タラコ」その前がMRと同じ顔。 >>871
そうそう。1981年式のね。
ライトベゼル間に行灯がなかったから、何となくあっさりした印象だった。 >>873
>>872だけど、俺の記憶違いかもしれん。
ただ行灯あっても、ヘッドライトと一体型ではなくて独立型だったような…。
今度の休みに真剣に画像を探してみる(笑)。 >>874
たぶんそれが正解かと?
ライトも行灯も出っ張っていたから、運ちゃんが改造と言ったのかも? >>876-877
何故か非冷房MPのひ14が人気ですねw
自分もよく乗ったので懐かしい限り。
地味に貴重なのがBU10Dのは57の写真ですかね。
大御所では『は12』とされている相模22か15-15のナンバーをしっかり捉えてますし、
78年下期車の分割方向幕車が系統番号設定後の姿で走っている点が良いですね。
他にも80年上期の冷房K-U31Lも貴重。戸袋窓が一段落としの3E量産冷房車は少ない…
試作冷房のひ68の前扉が4分割(い61は2枚窓)であるとか、
非冷房が惜しまれる『は37』の北村CJMとか懐かしすぎます。 >>877
さ56のボディとシャーシはどこのメーカー? 富士重工日産厨(3E・5Eが好き。7Eはそこまで好きじゃない、あといすゞよりも日産が好き)
の自分には2つ目左下の冷房付きで後方のL字のダクト?の形状の3Eが
ガキの頃至高の形だった >>881
これ天井のルーバーが独特だよね
さ以外で見たことない >>880
これは確かK-CCM410(川重)で89年頃までは走ってた。
K-CDM410もいたはずだけどネット上で画像を見たことが無いね
同時期には秦野と津久井でMK116Jを投入してたけどいすゞの投入は無い。
登戸線用にはこの後に唯一のP-LR312J(6E)が配置されたけど、これも謎車両だよね。 登戸って1985年に一度だけ乗ったんだが、その時はMP218Mだった。 >>876
>>877
このあたり余裕かましていたら、7年程度で廃車になったから貴重です!
>>885
それは当たり! >>887
このあたりの神奈中は、新車が登場する半期ごとに、方向幕や前扉や冷暖房や降車釦音などなど、著しく進化を遂げていると感じてた。今とは違って新車と廃車の格差がとても大きかった。
自分も被写体対象にしてたのは新車がメインだったけど、もっと古いバスを撮影しておけばよかったと後悔している。 >>887
撮影時期と撮影対象が渋くて素晴らしいです
U20Nのひ69は廃車が87年の3月頃のはずなので最期の姿でしょうか…
U20Nは元々平塚に配置が無くて、どこかからの転属車だった記憶がうっすらあります。
(大御所では誤ってひ54として掲載されてますね)
当時惜しかったのはひ74・・・
80年下期投入車なのに非冷房だったから87年5月に廃車。恐らく実働7年未満ですよね。
試作冷房もいたのに、平塚は何故かRC321は全車非冷房での導入というのは何故だったのか… >>887
ち46は1979年下期導入で、新製当初はふ117(長後)だったやつだね。この代のBU10D富士重ボディは、神奈中全体でもふ118と共に2台しかいないレアな存在だったけど、そもそも新製で藤沢に入ったことが不思議だったなあ。
>>889
平塚はMP118Mがメインで入ったし、当時はやはり『日野といえば伊勢原』だったから、妥当じゃないかな。舞岡にも非冷房のRCが2台入ったけど、むしろこちらの方が驚きだったな。
RCの量産冷房車は戸塚・大和にも入ったよね。 あと5年以内に見れなくなるのは日野車体、西日本車体、そしてふそう偏平ノンステかな。 トリコロールの神奈中は特定が大半だけど、
一般路線は
神奈川リハビリ〜七沢温泉、広沢寺温泉が有名だったな。
(リハビリ完成前は小野?小野橋からだった。)
接続が悪くてあまり利用機会なかったんだけど。
(時刻表も小型バスで運転と記載)
この当時ポンチョとかなくて小型バス自体神奈川県内は少なかった。
(多分知ってる範囲だと、箱根地区除くと藤沢〜高根の江ノ電ぐらい)
いまはどうしてるんだろうか?
ダイレクトで直通なのか、まだリハビリ乗り継ぎなのか。
他県に越してから分からん。 こうして見ると、RC321の試作と量産冷房車で結構差異があるんだなぁ…
試作はK-規制前、量産はK-規制対応だからなのか、ルーバー配置と床下コンプレッサー搭載位置が
静岡交通にいたRE141の冷房改造車とよく似てる
>>890
RE140/141時代までは平塚にもそこそこ日野車はいたんだけどね…(ひ129とか)
でも座席配置が今で言うラッシュ仕様で後輪タイヤ上まで両サイドとも一人がけ座席だったから転属車?
>>891
は61の北村冷房CJM大好きでしたw
冷房はヂーゼル機器の分散型だったとは記憶に無かったのでサイド写真で知れてありがたいです。 >>895
確かに平塚は1977年上期のRE140が5台と下期のRE141が4台いたし、更に遡ると帝国ボディのRB10とかいたからね。
試作冷房車のひ68は最後尾の座席が4人掛けなのは有名だけど、同じ試作冷房車のい61は普通に5人掛けだったよね? >>896
い61は乗車したことがないから分からないのでゴメン。
ひ68は数回乗車して、最後尾の座席の中央にはシートがなく、イメージとしてはPJ-MPワンステ車の前輪
タイヤハウス上の荷物置き場と似た感じの樹脂製マットに金属の棒で囲われていた。さらに金属プレートで
「ここに座ることはできません」みたいな注意書きが設置されていた記憶があります。
ちなみに、ひ130(RE140)とかひ20(RE141)とかひ36(K-RC321)等の非冷房車は普通に最後尾5人がけ。
い46(K-RC321の初期量産冷房車)も5人がけ。
考えられるのは後軸重の問題で、量産冷房車はコンプレッサー搭載を前方にしたものの、試作冷房車は
後方よりだったので、冷房ユニットとあわせて後軸重が厳しかったのではないかと。
また、ひ68は座席配置が非冷房車と異なっていたので、後輪あたりから2人がけを増設し、立席削減し
座席も+2だとまずいので最後尾を-1して調整したのかもしれないね。 https://i.imgur.com/gXR9euR.jpg
スレ違いすまそ。今までアップしてきた写真撮っていた頃の箱根登山バス神奈中古と、近くにあった工場 なんか見にくい写真ばっか披露してすみません。
ネガをスキャンすれば良いのでしょうが、断捨離してしまいました。 >>898
工場の写真の最後に写っている神奈中塗装のMK115らしき車、
大御所で前方から撮影されてた小田急車両工業の敷地にいたMK115と同じ車?
MK115Hのリア見たことが無かったけど思ったよりも近代的… >>900
B622Bのワイルドな3枚ルーバーに比べると、確かにMKは上品な印象だった。 >>898
の最後の写真にある日野車の同タイプが引退後に、ラーメン屋や居酒屋になって秦野中井インター近くで営業してたな。
平塚ラオシャンと似たタンメンを出してた。 箱根登山といえば、以前平塚駅まで乗り入れてましたよね。
幼少の頃、平塚駅で折り返し小田原駅ゆきになる登山のバスが待機しているのをよく見かけましたが、いつ頃まで乗り入れてたのでしょうか。 箱根登山の神奈中古冷房改造車は、ダクトが片側にしかなかった。でもカーテンついてシートも良くなっていた記憶。 >>898の写真の右上の富士3E仕様のBU10Dって、
カナ中時代の社番はもしや『ひ29』では?
当時の平塚では別にBU10D自体はそこそこ残っていたけど川重主体で
富士3EのBUってレアな存在だった気がするんだよね。代替は当時最新鋭のMP218Mだったけどね 昔、神奈中から箱根登山に行ったBUに乗ったことあるけど、箱根の登り坂はきつそうだったな。
小田原駅→箱根町まで最後部の席に乗ったけどエンジン音と振動がすごかった。
中ドアはステップをふさいで椅子が設置してあった。
帰りは貸切落としの路線バスだったから快適だった。 >>898
貴重画像乙!
工場でのケツ向け画像が圧巻だね。
長崎バスから持ってきたばかりのBU10。金産RE100。ナンバー剥がされたRV100P。PR95。
で、神奈中古のBU10Dがこの頃一大勢力。箱根の山登りの運用にも平気で突っ込む。BU-Dなんて、京急鎌倉の専用道路の坂で爆音の癖にちっとも加速しないのに辟易していたから、高い運賃払ってまで乗りたくないと敬遠してましたわ。
乗った人は爆音を堪能できたはず。俺は専ら呉羽のB9が来るのを待って乗ったが… >>907
そう言えば以前の箱根登山鉄道の神奈中の中古は中ドア埋めていた時期あったな
BUは知らないがブルドッグは初期に転入したのは中ドア埋めていたが、途中からその改造は省略するように変わった 神奈中民だから登山なんてちょいと足延ばせば撮れたのに、列車賃やバス賃のハードルが高かった…
左下におしり向けている初期RVの大きな一枚ルーバーが登山に多かった印象がある。ふそうとは違って、ラジエーターでエンジン見えないんだよね… >>910
その左下の写真の左隅に日野REがいるけど、帝国ボディじゃなくて金産ボディなのが渋いな…。 https://i.imgur.com/nQyAxum.jpg
また恥を忍んでアップしました。
上二枚は、当時の観光バス、二段目はちょっと前に話題になっていた呉羽ベゼルの箱根登山車、三段目は冷房化率向上のために長崎から来たやつ、それによって淘汰された日野RE、四段目は、同じ頃撮影した東急バスにはこんなのがまだ現役でした。
いい加減のスレ違い重ね重ね失礼。 >>908
RV100はわかるとしてPR95ってまだそんなに古くないイメージだけど少数派だから廃車早かったとかあるんでしょうか? >>913
写真アップした者ですが、同じ時期に、沼津でPR95
を撮影しました。沼津22き1だったかな? >>912
貴重なものをありがとうございます!
神奈中MP117の画像がありましたが、
B800の方が多かったような記憶が…。営業所によって違ってたのかな。 B8 の重低音の再来と思えたLV380も懐かしいです。 >>916
B800Nは1976年上期から1977年上期まで90台、MP117は1977年下期から1979年下期までM尺が79台とN尺が93台のあわせて172台です。 >>916
ちなみに、横浜はB800NはいたけどMP117はゼロ、町田はB800Nが9台に対してMP117Mが6 台なので、営業所によってはB8のほうが多かったといえます。 >>918
おまけに左側面と後面左に小さなルーバーの有無でエンジン音も違ったような?
>>918
その町田の一台が「ま111」で5EのUDがバトンタッチ、最近廃車になったKL-MP37がその社番。 >>921
B800Nは1976年上期とそれ以降とでルーバーが変わったね。あと1976年式と1977年上期とで前扉の幅が変わった。
エンジン音は一緒だと思うよ。聞こえ方は人それぞれだけど。 >>922
たまたま神奈中がMRを好んで入れていたので、76年上期までのルーバーがそれ以前のものなんだけどね。そのせいで、他の地域でバス窓や頭が丸いB8見ても感動しなくって…
エンジン音は個体差かもしれないけど、ルーバー少ないほうが高回転で安定していたように思った? >>923
正直B800Nのエンジン音に関しては、観光バスみたいだなとか、迫力あるな、くらいしか思わなかったから、年式による差違はほとんど感じなかったわ(笑)。
ところでMRといえば、最終導入となった1975年下期車のみバス窓じゃなくてサッシ窓になったよね。あれは初めてみた時感動したな。ただ、MR450のエンジン音は好きではなかった。1970年式あたりのMR410の音が一番好きだった。 >>918
>>919
情報ありがとうございます! 舞岡と横浜沿線なので納得ですー。
走行音や、行き先と戸袋の間の細長い固定窓が凄く印象に残ってて。
画像やあの音を聞いてみたいね。 東急は以前は長期的に使うイメージだったが、今は逆になったなあ。
と、思いきや以前の神奈中が早過ぎただけ。
東急はこの頃から13〜4年で今と余り変わってない。 >>924
一番後だけバス窓だったやつですな。
その前までのMRのエンジン音の違いがよくわからないのだが、そのMRだけ明らかにエンジン音というか排気音が違ったね。
ただ、3ルーバーじゃないMRは個人的に許せなかったのよ… 廃ガス記号が付く前の昔の神奈中って、前の折戸が後ろに向かって開く仕様だったけど
大御所見ると、開いたときに戸の下の方がステップにめり込むようになってるのと
なっていないのがあるよね。
途中で設計変更したのかな。 P-規制の頃は、仕様変更の盛んな時代でしたね。
三菱がフィンガーシフトコントロールでモノコック
いすゞ、日野がスケルトンボディの棒シフト
日産デがデジタルタコメーターとか。方向幕も白幕けら黒幕、そして系統番号入りと変化激しい時代でした。 連投
けら⇨から
あと波型塗装から直線塗装への変更もありますね。 冷房車導入当初、いすゞは座席上の送風口が無かったりとかikコーチボディと富士重でエンジン音が違ったりとか結構変化が激しい楽しい時期でしたね。 >>929
ドア開閉装置の関係で78年式あたりで仕様変更していると思った
RE141あたりですでにドアがステップに食い込む形になっていた記憶がある
>>930
個人的には日野のP-HTのゲート式シフトが至高の一品だと思う
でも運転しにくそう…特に3→4速とか
>>932
いすゞの座席上の送風口はCJMの頃からあるんだけど、全席じゃないのよね。(ヂーゼル機器製の場合)
5Eなら88年下期のひ137でもこのタイプでびっくりしたもの。(5EでもUDならFHIクーラーで個別送風口あり)
7EになるとP-LVもヂーゼル集中型に変わってFHIクーラーに近いタイプになったけどね。
FHIクーラーでも3Eの頃は吹き出し口が小型の調整できないゲジゲジタイプと、大型のルーバータイプ、5Eと同様の
小型丸型の吹き出し口と3タイプあった。 >>933
前扉はステップの張り出し形状を変えたのではなく、開閉装置の関係だったんだね。
FHIのU31の冷房車でも、80年下期のはゲジゲジと大型のルーバータイプの
両方が1台で混在していた。
81年上期のはゲジゲジの部分も大半が大型のルーバータイプに置き換わったけど、
81年下期と82年上期は客席部分が小型丸型になって、運転席と前ドア周囲に
ゲジゲジと大型のが残って3種類が混在していた。 初代カナちゃん号は、路線車で初めて?の黄色ベースでない塗装でびっくりしたけど、神奈中バス独自仕様の運賃支払い窓も無かった。 >>934
平塚車だと、80年下期のひ57が各座席にゲジゲジ型を装着、運転席横と非公式側4枚目の窓横のピラーに
ルーバー型を縦に搭載していたと思う。
81年上期だと、ひ50が各座席ルーバー型を搭載して、ゲジゲジは前ドア上に2個搭載に変化していて、
81年下期だと、ひ99が5E同様の小型丸型を各座席、ドア周りにルーバーとゲジゲジ搭載の3種混載。
82年上期だと、ひ120(平塚最後の3E)がほぼ5Eと同様の配置だったと思います。
他にもマニアックな点として、81年下期から非公式側座席のうち、後ろのタイヤハウス前の座席の足元の踏み台?
が従来の長方形でRのついたものから、正方形に近いタイプに変更されて、踏み台からイスの後脚が生える
タイプになって5EのK-U31Lとほぼ同様の座席配置に変わった記憶がある。
>>935
確かにダンゴムシに似てるw
このダンゴムシ型の吹き出し口は7Eになってもドア付近に健在だったね 試作冷房のあ115は見たこと無い吹き出し口だったよ。
車内のエアコン装置の蓋も違っていた。 >>938
そういえば、あ115は乗車したこともないし、車内写真は見たことがない・・・
ちなみにひ68は後の量産冷房車のRCと同じ吹き出し口。
MP118の広告枠の上に並んでいた黒くて細長い吹き出し口が各座席のところにあるというびっくり仕様。 昔は東京の23区内まで行く系統があったって聞いたけど本当かしら?
今よりも守備範囲が広かったのかな。 >>940
パストラルというサイトによると、1966年の路線略図に新宿駅西口まで路線がひかれている。どこを結ぶ路線だったかは不明。 >>940
確か、相模湖(駅)だったような。その名残が相模湖??八王子線だと思う。 新宿西口に相模湖の幕を付けた車が停まってるなんて胸アツだね。 >>943
昔は夢のような路線がたくさんあったようだね。
吉祥寺駅〜原町田駅・長後駅・藤沢駅・辻堂駅〜江の島とか、凄すぎる。 >>941
パストラル。すごいなこれ、丁寧に記録してる。
暇つぶしにいいし見ててあきないわ サンキュー 江ノ島に乗り入れる神奈中、末期は藤沢駅〜湘南港〜辻堂駅が免許維持的に残ってたね
神奈中の湘南港停留所は江ノ島のどの辺にあったんだろう 神奈中は富士重工ボディを好んで導入してたけど、なぜ茅ケ崎に集中して入れたのでしょうか?藤沢は川重アイケイコーチばかりでしたが。 >>948
たまたまでしょ。1980年当時だと10台もおらず、圧倒的に川重のほうが多かったし。
もっと前には茅ヶ崎にUDの4R系もいたけど、特に富士重が集中してるとは感じなかったね。 1970年代茅ヶ崎在住でしたが、後部丸かった三菱MR や4Rの代替で入ったいすゞ川重の近代的ボディに感動しました。しかも2年後には前面平面ガラスにモデルチェンジしたのが入ってびっくり。 俺も相模原だから、とにかく呉羽ボディーの長尺車こそ神奈中。
由利本荘で朽ち果てようとしているのが惜しい。 >>944 その相互乗り入れの相手先、小田急バス路線で吉祥寺駅発大秦野駅行はいつまで走っていたのだろう
1970年くらいまでは秦野町駅(上宿通り)バス停で見た記憶があるけど
神奈中の社史って路線圏内の図書館に行けば見られるんですよね。 >>941-943
新宿西口〜(甲州街道・八王子駅・相模湖駅)〜上野原
後に新宿〜八王子が廃止になり、八王子駅〜上野原を京王バスと共管。
その後、京王が撤退し神奈中も[八07]八王子駅〜相模湖駅、[湖24]相模湖駅〜上野原に分割。
京王の[山31]高尾山口駅〜相模湖駅は90年代初頭まで運行していたが現在廃止。
八王子周辺での京王と神奈中のエリアは結構絡み合っていた。
1970年代後半まで八王子の寺田、大船付近は神奈中津久井のエリアで
当時は[八72]八王子駅〜橋本駅も津久井の担当。後に「さ」→「た」
さらに遡ると八王子駅〜(高尾、マチカイ)〜相原駅、高尾駅〜相原駅が京王の路線で
橋本駅〜相原〜上大戸(大戸ではない)が神奈中担当。
ちなみに系統番号が付いた当初、相原は「原」じゃなくて「相」だった。
[相21]橋本駅〜大戸だったんだよ。 地元の中学・高校だったが、修学旅行では
神奈中の観光バスを利用したことが一度もない。 中学の遠足でなら乗ったカナ?
中1最初の遠足は非冷房のB806Nか何かだった。
マンモス校なのでだいたい3社位の梯団、相鉄/神奈中/イースタン/京急からどれが当たるか?になる。イースタンや京急MSセミデッカーが人気だったが俺は大体神奈中の呉羽タラコを引いていたような。流石に冷房は付いていた。 今更ですが、間01と間03系統の違いが判らないので教えていただけないでしょうか?
たしかターミナルができる前から「鶴ヶ峰駅」行を名乗っていたのに、いつの間にか廃止されて
ターミナルができた時は逆に間01が「駅」行になっていたので…
あと間03っていつ頃まで走ってました? >>956 神奈中本社のある平壌市民でしたが、 まず観光バスと言えば
富士急.登山. 伊豆っぱこのどれかの車でしたね。 近場だと神奈中の乗合車
で行ったことも多々あった。 当時は神奈中はバス代が高いから
遠足なんかの仕事は頼めないとかのうわさは有りましたけど。 >>959
いまの鶴ヶ峰本町、当時は「鶴ヶ峰」で折り返していたのが間01、
旧バスターミナルで折り返していたのが間03、のようだけど、
旧バスターミナルは今の商店街駐車場ってことでいいのかな。
(南口から現バスターミナルに向かう相鉄バスの「北口」のバス停は、
その中に残している)
http://hamarepo.com/story.php?page_no=0&story_id=3569&from=
これを読む限り相鉄のバスターミナルとして作られ、
今も相鉄の持ち物のようだけど、
神奈中はそこに入っていったんだろうか。 神奈中に西工ボディが入った時は感動した。神奈川県では、西工ボディは、横浜市営バスの循環系統にちょこっと入ったのと、伊豆箱根の観光バスしかなかったのが
21世紀に一気に入ってきた。 >>963
あっという間の出来事だから、この時期は重宝する前輪直後のヒーター吹き出し口で許してあげて… 90年代の神奈中は傘の車内販売やら、怪しげな健康食品の販売とかやってたけど、伊勢原?かなんかで
中ドア後ろにポカリの自販機つけていた車とかあった記憶があります。 おこめは乗客よりも、バス停近くに住んでたおばあちゃんが重宝してた… >>965
元新ステップ試験車だったエアロKのい25,65の2台のことかな。
ポカリとカロリーメイトを販売する小型自販機を中ドア直後の座席をひとつ潰して設置してた。
96,7年頃に実際に乗ったが買ったことはない… いま月曜〜水曜の22時から再放送している「俺たちの旅」に確か町田のMR450が映るはず! たぶん今度の月曜の回が出てくる話かな?
ちなみにTVKね… 相模原駅の踏切もロケしてるんだよな
井の頭や吉祥寺が舞台なのになぜか多摩川はよくでるし何なんだろ >>974
相模原の踏切は気付かなかった…
グズ六夫妻宅前の坂は成城の近くだし、多摩川は撮影所の関係かと? 8トラテープって、各車両ごとの車載?
それとも仕業ごとの持ち込み?
ちなみに横浜市営は後者だった。 何本かまとめてバックに入れて車にあったな。
一本がでかいからひと荷物。時刻表と一緒に持って行ってた記憶。 それでも足りなかったのか、平塚や藤沢の駅で操車担当とバッグのやり取りしてた。 >>980
あれはテープが足りないのではなく道路混雑で遅れがひどすぎて、操車担当が本来運転士が持っている
スターフの担当と違う路線の乗務させるためにその担当系統テープを渡したのではないかと思う。藤沢駅で
車庫に帰ろうと思っていたのに、いきなり藤31とかやらされることはなかったのかな? それやるためにダッシュボードに車番書いたプレート置いていたよね。
テープの入ったバッグを運賃箱にかけていた記憶が? 今でも七夕のときとかに車番プレート登場するけど
よく茅ヶ崎車に昔は車番プレート(小型)があったね。5EのLV314で良く見た記憶がある。 >>981
高山車庫帰りが本厚木往復に化けるなんて頼んだ日にゃ、族上がりの運ちゃんにその場でフルボッコにされること確定やろ。
操車の命がいくつあったって足らんわ。 >>961
幼少の頃、バスターミナルの入り口にポツリとかなちゅうのポールが立ってたのを見て何だこれはと思ってました。 会社の同僚というか先輩で、小さい頃に平塚に住んでた人がいるんだが、その人かの有名な『平塚駅〜相模湖駅』に全区間乗車したことがあるんだと。
ツーマンのボンネットバスだったそうだ。
うらやましいな…。 >>985
いつ頃ですか?自分が鶴ヶ峰に引っ越してきた89年には無かったような記憶が… >>986 私、今56歳。 幼稚園の頃バスの運転士に憧れていたからほかの記憶は乏しいけどバスに関しての記憶は有るつもり。
その頃、四之宮在住で相模原市淵野辺に住んでいたおじさんが方向が近いから試しに乗って帰ってみたらとんでもない田舎へ
連れていかれて相模湖から淵野辺まで戻るのにやんなっちゃったと後日聞いた記憶アリ。 実際に自部は乗ってていないから
ワンマン化されていたかはわからないけどボンネットではなかったと思う。 エアロスターMは90年代のふそう車の代表みたいだったけど、神奈中バスではそんな存在感無かった気がする。 >>968
大塚製薬もいろいろ考えてるんだなぁ?
>>991
情報トンクス、さっそく注文しよう。 >>991
神奈中はふそうだけじゃなかったんだぜー。と仰る方々へは激しくおすすめ。
集まった画像に4Rは無かったのかなあ。それだけがちと残念。 あと俺のネ申車ふ70の最期を拝めて良かったよ。ありがとう。 このスレッドは1000を超えました。
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