昔の神奈川中央交通 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
昔の神奈川中央交通バスについて語るスーレだお♪マターリいきましょう。 >>530
ありがとう。某所で、別営業所にいた1975年式のBU10D川重を見てきた。
U31の富士重3EやU32の5Eは見たし乗ったんだけど、
川重ボディは覚えてない…いつごろ廃車になったんだろ? >>531
舞岡のいすゞ、気になって昔の資料を見てみた。
1980年時点で川重BU10Dは、1974年式が5台と1975年式が2台いる。(社番省略)
ちなみに富士重BU10Dも、1972年式1台と1973年式5台いる。
いつ廃車になったかは、大御所サイトを参考に、同期の記録から推測してくれ。
多分10年以内に廃車されたと思うけど。 いすゞと言えば、かなちゅうは北村製作所ボディ最後まで採用してたな。町田とかにあのどんくさいのが来てたのが懐かしい。 >>533
最後じゃないでしょ…
キュービックを見掛けたとき川崎?富士?まさか北村?!とクラスのマニアで盛り上がったけど、北村は独自の進化を遂げていたかと… 国立病院〜町田ターミナルで使用していた見慣れない中型はどこの? >>535
ターミナル開設当時の中型なら、いすゞCDMとかかな? >>537
相模原ならCDMだね。
>>538
ターミナル開設当時に大和に中型あった? >>539
懐かしいな。
相模原にトップドアのそんな車両がいたな〜。
ちなみに当時中型がいたのは一部の営業所だけで、大和にはいなかったよ。 なぜか海老名〜鶴間の新道経由の方にやや力を入れてた時期があった。
今では免許維持路線に転落したが >>543
新道経由って海07でしょ?とっくに廃止されたのでは?
旧道経由(海08)は免許維持で今もあるけど。 >>542
唯一、登戸駅前で撮った写真があるのだけど、当時の俺と友達が写った記念撮影なんだよな… 中学生でもできる嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索⇒『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
00PPC そう言えば、以前(2000年代初頭あたり)箱根駅伝で毎年随行していたのはミディMMじゃなかった?
MKかな 観光にMMがいたのは意外だったが、さすがに路線車にはいなかったと断言できるわ。
LTもな。 過去に戸塚営業所にいすゞ大型路線車って在籍したことある?
俺の認識では、少なくとも今日までの50年間では一度もないと思うんだが。 >>559
路線には大型9M車はいすゞBA30以来いない。
ちなみにレアな中型車としては、川重CCM/CDM410が数台と
FHIのP-LR312が1台だけ存在していたけど、LRが何故純正じゃなかったか
不思議でもある。
K-CDM410は冷房搭載のキワモノ車で実際に乗車したことはないので
どんな室内だったのか気になる >>560
いすゞは長尺を試作以外入れてないはず。
戸塚とかはMR450とかB800Nが主力だったから
BUとかはいなかった気がします。 >>562
ありがとうございます。
私も戸塚には最近の中型車以外は記憶も記録もないので、まずないだろうとは思っています。
過去日野ばっかりだった伊勢原や、ふそうばっかりの相模原でさえ、それより以前にBA30が在籍してたことを考えると、戸塚だけはいすゞがなかったのですね。 いすゞは9メートル車が得意だったらしく、江ノ電のツーマンやら、京急とか神奈川ではそう珍しくなかった。神奈中での
本格導入は昭和46年くらいからのBU10Dからかな?
当時茅ケ崎に住んでいて、日産ディーゼルの4Rと三菱のMRだけだったところに川崎の上下サッシまどは新鮮でした。 連投します。江ノ電ネタですが
70年代後半の藤沢駅南口は神奈中からの4Rや、プロパーの富士重工車体のMRやら、高根行きツーマンBA10とかが闊歩してました。茅ケ崎駅には新明和工業の送迎のBAが情け無いサウンドと、丸型ルーバーで来てたと記憶してます。 >>565
おー!
同年代、しかも地元同じく茅ヶ崎です(笑)。
茅ヶ崎駅に乗り入れてた社バスといえば、新明和のMR490後部が丸いやつを覚えてます。
神奈中茅ヶ崎の4Rは乗った記憶があります。当時、藤沢駅〜平塚駅をよく利用しており、平塚か藤沢のふそう、日野が多かったですが、たまに茅ヶ崎の4Rが来て私的にはハズレでした。 藤沢、綾瀬はいすゞの工場所在に忖度wして該当車種を一定比率で投入するというのが定説になっていて、つい最近もふそう新車をやめていすゞ新車が入った訳だけど、そんな投入を始めたのは実は1980年のCJM以降なんだよね。ふそう販社を傘下に収める直前だね。
それまでの藤沢はふそうと日野ばかりだった。いや、日デも居たな。いすゞは皆無に近かった。 >>567
藤沢にいすゞが入ったのは1979年下期のBU10Dが初で、川重と富士重が2台ずつ。
1980年上期は、いすゞ新車は無しで茅ヶ崎から廃車寸前のBU10D3台が転入しただけ。1980年下期から川重CJM550が入るようになり、以降いすゞが増えていったとゆう流れですね。 >>567
多謝。
79年から居りましたか。隣町在住で、BU新車4台はついぞ目撃しなかったもので。
いすゞ投入前の車種構成
藤沢:日野>ふそう>日デ
戸塚:ふそう>>日デ>日野
80年に出た季刊バス所載の社番リストを集計すれば確実かと。 >>567
っつうか、そもそも綾瀬は80年代後半に出来たのでは? かつて藤沢にいすゞ車が増えだしたのは、藤沢市の施策でいすゞ車購入の補助金があったためだと記憶しているけど違うかな?
70年代終盤から80年代初期は、茅ヶ崎、平塚、厚木、秦野あたりにBU10Dが集中していたので、それこそ平塚駅がBUで埋め尽くされる光景が
広がっていたなんて想像もできないと思う。(川重が多く、FHIも北村(秦野と転属で茅ヶ崎も)もいた。
んで、CJMになって長尺のCJM550登場とあいまって藤沢に一気にCJMの投入が開始されたものの、道路事情が当時はまだ悪く、
北部丘陵を走破するにはエンジンも非力(冷房の影響)でどうにもマッチしないことから、すぐに冷房CJM550と他営業所のBU10Dと交換することになった訳。
そんなわけで主に平塚と秦野に存在していた76,77年式の川重BU10Dと藤沢の冷房CJMがトレードになった。
平塚のCJMのうち、CJM500で導入されたひ51,70,72あたりは平塚向けの新車だけど、ひ121,122,123,124のCJM550グループは藤沢からの転属車なのよね。
後年のひ26,ひ13(戸袋窓が縦方向に大きくなった最終型)も確か転属車のはず。 >>572
大体は同意出来るけど、
『そんなわけで主に平塚と秦野に存在していた76,77年式の川重BU10Dと藤沢の冷房CJMがトレードになった。』
ここだけ異議あるなあ。
藤沢から平塚にCJM550が転属になったのは承知してるけど、トレードでBU10Dが転入してきたってのはホントかな?
藤沢のBU10Dは、1979年下期に新車で配置された【ふ4】【ふ36】(以上川重で高山)、【ふ117】【ふ118】(以上富士重で117は長後、118は高山)の4台と、1980年上期に茅ヶ崎から転入してきた【ふ122】【ふ123】【ふ124】だけのはず。
ぜひ、ソースをお願いします! 茅ヶ崎は道路環境が劣悪だったから、ホイールベース5.0mのやつが好まれたんですよね。南湖とか美住町あたりは狭いし。
北口の駅前広場工事の際の応援で藤沢のLV314Nや相模原のMP218Nが波線できた時はビックリしましたがw。
あっという間に戻ったので、撮影しなかったのが悔やまれます。 茅ケ崎と藤沢がいすゞへの忖度wでいすゞが集中配車されたのはわかりますが、伊勢原の日野集中は良く分かりません。 いすゞCJMといえば、冷房化の過渡期の北村製作所ボディーの違いも興味深かった。
中扉以降5枚窓はBU と同じで同時期に廃車になっていた。北村製作所と言えばいすゞと思ったら、東急バスで
4Rの北村を見聞きした時はびっくりでした。 >>575
国道246沿い、高森団地の入口近くに日野があるのは関係ないか。 >>577
それは思った!
大和に多かったのも横浜IC(当時)近くに横浜日野があったし。
そもそも相模原には三菱、平塚には日産、藤沢にはいすゞと神奈川でバス会社やるには各々顔立てなくてはならなかったのかも? 伊勢原に日野集中、藤沢茅ヶ崎綾瀬にいすゞ集中というのは思えばふそう販社を抱えた影響かも。他の営業所は可及的速やかにふそう統一の目標はあった筈だが、他社との付き合いをゼロには出来ず、苦肉の施策でこうなったのかと。 >>577
確かに今のスバルの店は昔は日野だったな。 >>573
如何せんガキの頃(幼稚園)でせいぜい当時ノートのスミにメモしてた程度だからソースがないのよw
今みたいに簡単に写真にも残せなかったし、申し訳ない・・・。
ただ、藤沢にはもっと川重車は存在していたのは確かな記憶。非冷房のCJM(ふ62?)もいましたし。
平塚車の件でも、ひ16,20の2台は白枠RE141が転入車で元々は77年式くらいのBU10Dだったはずで
その他83年から84年頃にかなりのBU10Dが転出→冷房MP118等が転入しているので、どこかには
旧平塚車のBUが集まっていたはず。。。
>>579
ふそう販社を抱えたのは、冷房化率100%早期達成のための大量代替の布石と聞いたことがあります。
伊勢原の日野車は販社説もありますが、大山対策でブレーキの関係で日野車が好まれたという説も。。。
また首都圏では比較的最後まで北村車を導入していたのは、単に川重の工場で捌き切れない分で
スポット的に北村を入れていた(3台口ずつ)のではないかと言われてます。 >>581
藤沢はCJM550なら1980年下期に非冷房2台と冷房4台が入ったのを皮切りに以後増備が続きました。
ただ、BU10Dは>>573に書いただけのはずです。
【ひ16】【ひ20】は【ひ106】【ひ110】と共に1977年下期のRE141と承知していますが、これらは新製配置されたではないのですか?1977年式のBU10Dを置き換えて転入してきたってのはどうも??です。 日野車の導入はリスクヘッジとふそうと相見積もり取るためにだしに使われたのかと思ってた 4社それぞれがエアブレーキ装備されたのはいつからですか? >>582
83年頃から86年頃までは転属が激しかったからもしかすると改番もあったのかもとか思ってみたり。
【ひ16】【ひ20】に関しては廃車時には間違いなくRE141(白枠車)で、86年にP-U32Nに代替なのは確か。
ただし新製からいたのかどうかは不明。
【ひ110】は日野車だった記憶はあるけどRE140だったのでは?降車ボタンがナイルスのあれじゃなくて、
四角っぽい緑色のボタンだったので印象に残ってるんだよね。(日野車のひ130と同型だったような)
77年式だとしたら代替が上2台と比べて2年も早く、P-MP118Mに代替だったからね。サイドの社番の書き方が
独特な車で、ひ112,113も運転席の側窓の下に車体と平行に書かれていましたよね。
【ひ106】この車だけ全く記憶にない…
ちなみに、平塚のRE141だと【ひ126,127,128,129】の4台は白枠車ではっきり覚えているけど、ボタンは
ナイルスの標準タイプ。サスが柔らかすぎてリアオーバーハングの座席だと縦ゆれが激しくて気持ち悪かったw
黒幕車が入り始めた頃にK-MPの転入車に置き換えられて安堵した覚えがあります。 >>585
1980年(昭和55年)上期新車導入時点での平塚営業所の日野REの在籍状況は以下の通りと承知してます。
1977年上期車(RE140)
【ひ126】相模22か1207
【ひ127】相模22か1208
【ひ128】相模22か1209
【ひ129】相模22か1210
【ひ130】相模22か1211
以上5台
1977年下期車(RE141)
【ひ16】 相模22か1317
【ひ20】 相模22か1318
【ひ106】相模22か1326
【ひ110】相模22か1327
以上4台
降車釦については、1977年式車は上期下期とも同型の、神奈中では標準のナイルス製ものでした。
http://bus-kun.my.coocan.jp/tsugitoma/g/button/Tniles040-1.gif
緑色の降車釦となると1970年式車まで導入されていた大光電気製のものとなります。
http://bus-kun.my.coocan.jp/tsugitoma/g/button/Tdaiko010-1.gif RE140か箱根登山バスに移籍したのは知らなかった。
帝国ボディーのエッチゴムの奴とか見たかった。 >>587
舞岡のRE100にはよく乗りましたが、とても好きでした。
お55だけが、後部方向幕が白のHゴムで異彩でした。 >>588
神奈中では1971年上期までRE100でしたね。(1971年下期からRE140)。
1980年上期新車導入時点で神奈中全体で12台、そのうち舞岡には6台在籍していたようです。私自身は、藤沢と秦野のRE100に乗車した記録がありました。
1971年上期車といえば、ナイルス製の点灯する降車釦が初めて装着された代で、子供心に押してみたいと思わせるものでした。
http://bus-kun.my.coocan.jp/tsugitoma/g/button/Tniles020-2.gif
『次停車』と表示されるこの丸い降車釦は、1973年上期車まで導入が続きましたが、1971年上期車だけは釦面が周りの枠から若干はみ出ている形状で、釦の上部に設置された案内板(ワンマンの時お降りの方は…以下略)も緑色の旧タイプでしたね…。 日野エアブレーキ音は、かっこよかった。
ドア閉めて、クシュんというブレーキ音のあと、ドドドとエンジン音とと共に走り去る後ろ姿の真ん中にあるバックライトが印象的。 神奈川県内だと、20世紀製造の古いバスは、伊豆箱根か、富士急湘南くらいしかいないのかと思いますが、横浜22や湘南22.相模22ナンバーはもう絶滅しましたかね? 神奈川県内だと20世紀製造のバスが残ってる事業者は伊豆箱根か富士急湘南くらいしかいないのかと思いますが、相模22、横浜22、湘南22ナンバーはもう絶滅してますかね? 車体のスケルトン化とフィンガーシフト化のアンバランスが面白かった
P規制初期型各社 神奈中が完全撤退した鉄道駅は意外と少ない気がする。
あれだけ路線を廃止しまくったのに 吉祥寺駅
上野原は市街地直行で駅には立ち寄らなかったから元々無し
新松田駅 今の調布〜鶴川線(昔は町田行きだった)は
大昔の吉祥寺〜江ノ島線の路線の残骸らしいな。
吉祥寺から撤退したのはいつだろ? エアロMは導入期間が僅か4年弱だからねぇ。確かに影薄いナ。
窓ピラーの黒処理と樹脂製エアコンダクトが斬新だった。 >>604
樹脂製エアコンダクト(紫色の)って、U-代だけだよね。
たしかKC-代になってから鉄板製に戻ってた気がする。 >>605yes。
因みに名古屋製はニューがでた後も樹脂製だったと記憶。 3Eの五十鈴は後ろから見るとやたら馬面だったなぁ。 フィンガーシフトで木張りの床だった後期ブルドックナツカシス >>593
日野はカシャーンカシャーン
三菱はプシュプシュ
日デはスカスカ
いすゞは棒ギア、後にブシュッブシュッ
三菱の棒ギアはなんかひん曲がってたよね エアブレーキではなかった頃はドア以外どこにエア使ってたの?
神奈中のMP117はエアブレーキ車だったのかな?
同期のU20とBU10Dは? >>613
箱根登山鉄道に移ったBU10の動画みたら、エアブレーキではない感じ。 あんまり古い話題でないけど、
排ガス規制対策前のKCーLVの重低音ナツカシス もうじき平塚の七夕祭りの季節だけど
最盛期は臨時の横浜行きのバスが有ったような >>616
あったね。貸切車使って、横浜駅行きと藤沢駅行きがあったし、乗った。 地下道にガイドがズラッと並んで呼び込みするのが七夕風物詩でしたな。
だが料金はすっげー高かった記憶がある。東海道線のグリーン車よりも高かった?まぁ国鉄の冷房化率が悪かった頃はアドバンテージもあったと思うが。 「必ず座れる」「冷房付き」がウリだった時代。
祭りも5日間開催だった。
駅前の街頭有線でオッサンの「ラオシャン麺」CMを聴きつつ
まんじゅうを作る機械を飽きずにみてバス待ちしてた。 関係ないけど、平塚の七夕で思い出すのはデパートの前にいた傷痍軍人。
わざと義足を外したりして、お国のためにこうなりましたとアピールしてました… 1980年頃は保土ヶ谷駅西口には今のようにバスターミナルはなくて、国道上路上バス停。まだ、東海道本線と横須賀線が東京〜大船は同じ線路を走っていたな。東戸塚駅もなかった。
朝夕の神奈中バスは「水道道〜戸塚駅(大踏切)」が横浜駅西口行きに混ざって運行されていな。
そのあと、保土ヶ谷駅西口にバスターミナルができて、反転地も確保できるようになって、横浜市バスと共同で206?保土ヶ谷駅〜東戸塚駅とかができたし。
本牧埠頭からの市バスも権太坂上行きで、反転地の境木中学の前までは回送でそのあと路線が延長になった。
当時、権太坂上近くにあった、社宅住まいの叔父の家に行くときに乗っていたな。 ちゃんと間違ってる部分を指摘しないと、この文章が正しいものとして将来に残っちゃうぞ うろ覚えで書いてる感じだから細かく指摘しなくてもいいとは思うけどね。若い世代で詳しく知りたければ調べれば良いだけだし ダメダメ
こういう過去ログを漁って文献だと言い出すアホが世の中にはいるからな 横浜というとロング車ってイメージだけど、あのでかいのが坂ばかりの横浜走ってたとは! >>628
長尺のMR450が港南郵便局前の直角曲がるのとこ、見ごたえありました。 B800Nが南高の角をゴキュゴキュ曲がるのは市バスなんかより京浜急行なんかより今で言うエモいな!と感じた訳だが。 >>629
>>630
MP118くらいから長尺と中尺を入れるようになったけど、ふそうは長尺の印象が強いな。だから江ノ電にあったMRは元神奈中とは思わなかった…
今は担当も経路も変わった町30だけど、森野三丁目の交差点で左折するMR450などの相模原のバスと運転士のハンドル捌きは格好良かった! ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています