昔の神奈川中央交通 [無断転載禁止]©2ch.net
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昔の神奈川中央交通バスについて語るスーレだお♪マターリいきましょう。 平塚の日野車(1981年時点)、まとめると下記の通り。
☆1977年上期・RE140☆
ひ126(相模22か1207)
ひ127(相模22か1208)
ひ128(相模22か1209)
ひ129(相模22か1210)
ひ130(相模22か1211)
☆1977年下期・RE141☆
ひ 16(相模22か1317)
ひ 20(相模22か1318)
ひ106(相模22か1326)
ひ110(相模22か1327)
☆1979年上期・RC321☆
ひ 68(相模22か1628)
☆1980年上期・RC321☆
ひ 73(相模22か1726)
☆1980年下期・RC321☆
ひ 36(相模22か1886)
ひ 43(相模22か1885)
ひ 74(相模22か1888) >>261
それって小田急バスの狛江営業所が、まだ運行していた時代の時では。
おいらは、16時頃に小田急線読売ランド前→百合ヶ丘間の車内から見た淵野辺駅行き、初めて淵24の運行を見たわ。 俺は厚木で育ったけど、MP117でも異様に古めかしいのがいたな。
上窓が開かなく、つり革の上半分が広告だったのを覚えている。
エンジンの音は確かに6D2系の音だったよ。
この時の新車ブルは2〜3席ごとに握り棒が装備されていた。
従来車にもさかのぼって後付けされたが、MP117の最初期車というか
上窓が開かない車にはメーカー問わず施工されなかったね。
厚木には青学輸送のため長尺車を集めたとあり、確かにエアロK最初期車と
エアロKのトイレ床の最初期車は全車、ブルの中期車は結構まとまった数の
標準尺車は転出していたな。
唯一解せないのは、長尺ブル最終型の「あ198」「あ201」が転出した代わりに、
入ってきた新車のエアロK黒幕最初期車は標準尺だったことだな。 >>262
サンクス。
ひ110だけ降車ボタンが緑色だったような記憶がチラチラ…
ひ126からひ129は60年3月頃に転入のK-MPで置き換えられたけど
ひ130も転入だったのかな?(83年式MP)
そういった点では、ひ106と110も早期廃車?(84年式で代替)
ひ16,20のほうが61年まで粘っているので…
そういえばRC321とK-RC321では非公式側のルーバー形状が微妙に
違うのと、乗車時のエンジン音がRC321のほうはRE141よりでしたね
K-RC321はほぼHT22系に近いエンジン音でしたが >>264
上窓が開かないMP117って外観はサッシ窓になっているタイプですよね
このタイプは確かに握り棒の施工は無かったのと、暖房が無かったかも
大体相模22か31-xxから32-xxあたりで代替されてましたね。
厚木の84年下期のエアロK(相模22か26-xx)は平塚にも何台か転入して
きていたので、それらの車でボロいMP117が代替されていったりしました。 >>264
最初期MP117(1977年下期車)は厚木にも5台いたからね。
まとめると、M尺が平塚4台、厚木5台の計9台。
N尺が舞岡4台、戸塚6台、藤沢3台、相模原6台の計19台。
でもこれらの画像ってネット上でみかけないね。 >>266-267
そうだね、ボディの印象はB8に似ていたよ。
その翌々期の車から降車チャイムが『キンコーン』という金属的な音に
変わったが、またその後の期からはまた別の音に変わってしまった。
あの音、当時好きだった女の子(お父さんが神奈中社員)の家のインターホンの
音に似ていて、個人的に好きだったのにな。 そういやMP117の52年式と53年式以降とでは、
側窓の上下方向の面積の比率が違っていたことを思い出した。
52年式は上窓の方が相対的に少し小さく、53年式以降は上下ほぼ同じ割合。 昔の神奈中社員って1000万プレーヤーも普通にいて、いい生活してたよな。 >>269
確かにチャイムは1978年下期車と、それ以降のでは異なる型だったので、同じキンコン音でも音色が違ってた。
前者が♪ソー・ミー♪で、後者が♪シー・ソー♪って感じかな。
一部には例外もあったようで、試作冷房車のま88は前者のタイプだった。 そういえば平塚には北村ボディのBUって在籍したことはあるのかな?
昔MP117/118と同じ椅子の車でBUサウンドの車に乗った記憶がある
けど勘違いなのかなってずっと気になってます >>273
平塚に北村のBUは在籍したことないですよ。BAもCJMもね。
茅ヶ崎と秦野にはいたから、それに乗ったと思われますね。 小学校の頃、仮名中バスを貸し切って工場見学に行ったが
なぜか地元厚木ではなく横浜の方の車が来た。
行きはMP117で帰りはU31で自動車専用道を爆走した。
高速走行になるとU31は『ボォォォォォォォォォ!!!!!」という感じで
何かが激しく燃えているような爆音を発して必死な感じだったが
MP117の方は明らかに余裕だったのを覚えている。
北村+CJMという組み合わせを新車で導入した大手バス会社は他にどこかあるのかな?
すでに富士5Eという見た目新しいのを導入しつつ、昭和40年くらいから変わらないデザイン
の車を昭和53年入れていたのは、単に値段が安い?とか
北村のCJMは非冷房車と一世代前のBUが窓配置が一緒で
シャシのモデルチェンジとボディーのモデルチェンジがかみ合わなかったな。 北村製作所地元の越後、新潟交通、頸城と常磐交通以外で
他にありますかね?
東京、神奈川、埼玉、千葉にはいなかったかと。 >>276
当時のいすゞ系の車体選択としては
CJM550・・・川重のみ
CJM500・・・富士5E、川重、北村になっている
北村車は確かに5Eと比べたらデザインも劣るけれども頑丈だった
という話も聞いたことがあるから、川重純正との比較導入的な意味
よりも、当初から早期廃車→地方譲渡を考えての選択だったのかも。
あとは当時の状況からして大口の事業者(公営系とかKKKとか)が
大量に車両更新を行うなどで、架装がいっぱいいっぱいになり、
いすゞディーラーから納期の都合で北村車を提案されたとか?
(CJM500に川重が少ないのが気になる) >>274
以前ネットで拾った八幡操車場のS57年頃の全体写真に
どう見ても北村BUと思われる車が写っているものがあるのだが
(方向幕は分割タイプ)
とりあえず検証用画像は明日にでも用意します。 >>279
お待ちしております!
>>280
北村の冷房CJMって、秦野・津久井・町田しかいなかったから羨ましたかったな。
茅ヶ崎に町田からの転入で北村が来たときは驚いた。 >>281
厚木のいすゞ車は確かS51年以降は入ってこなかったから
「メーカー」という概念がなかった子供の頃の俺にとって
北村はすごく古いバスってイメージしかなかった。
だから町田で初めてブルーガラスの北村冷房車を見たときは
すごく頭が混乱した。
古めかしい車体に当時のヒーローだったブルドッグ並の装備だもんな。
消防の頃は、バスが古い新しいかはナンバープレートの数字で判断していた。
だから稀に見る転入車の非冷房車でナンバーの数字が高い車も
本当はナンバーの数字が同じくらいの冷房車並みに新しい車だと信じていた。
当時は転属があまりなかったってのもあるけどね。
>>283
逆に80年式くらいの平行導入の非冷房車はホントは新しいのに
何故か古めかしい印象しかなかったので、平塚のK-RC321とかは
87年に廃車になったときは当然だと思ったりw >>282
1980年上期時点で厚木には1977年式(上期か下期かは不明)の北村BU10Dが2台在籍がある。
(あ26・あ54)
ただしこれが新製配置なのか転入なのかは定かではない。 >>285
本当だググったら厚木に77年上期の北村は2台どころか結構いたんだね。
だけど下期からふそうになってしまった、と。 >>287
2台以上いたのでしょうか。
お手数ですが、参考までにググったリンク先を教えて下さい。 tp://kanachango.web.fc2.com/1981-a.htm >>281
一応これが検証用画像。
画面中央付近にRC321試作冷房が見えると思いますが、
そのとなりに非冷房ブル、そしてその隣が問題の車…
ttp://imgur.com/a/4LXzT
どう見ても川重車でもないし、富士3Eだとしたら運転席の窓が違う
全体が見えないから断言はできないけど、ほぼ間違いないかと思う >>289
大御所の過去データ、特に1980年以前のものには明らかな間違いが散見されるので、残念ながら参考程度に閲覧することをおすすめする。
>>290
試作冷房ひ68の2台手前側、これどう見てもガッチリ川重BU10Dだね。
フロントガラスの下に段差があることから、1976年上期以前のもの。
そして、運転席横が小窓であることも川重の証拠。サッシ窓の北村BUは、この部分の窓は小窓ではない。
当時毎日平塚の動向をチェックしてた訳ではない。
イレギュラー的にほんの数日間のみの在籍があったかまではわからないが、少なくともこの写真は証拠物件にはならないね。 >>292
確かにネット上にある神奈中北村車の画像を見ると指摘の通りだね
写真の角度の関係なのか川重BUにしては正面のおでこの感じが
随分と丸みを帯びていて北村っぽい顔つきだから?だったけどね。
昔平塚駅で見た秦野の北村CJMも確かに非常口近くのの窓が変則
的で運転席すぐ近くの窓は普通だったから確かにそうだわ。サンクス 北村のBU10Dは、年式によって窓形状・窓配置、前扉の幅、座席の肘掛け、降車釦などに差異が見られ、興味深い車種でした。
こーゆー30年前のマニアックな話が出きるのは嬉しいことです。 >>294
かなちゅう廃車になった北村BUは、箱根登山で冷房改造されて走ってたな。
ダクトが片方しかないやつで、ドア窓や床高さに
バラエティーがあった。 北村CJMはイスがMP117/118と同一タイプ(肘掛も)だったけど
あれは何でだったのかな?
当時川重CJMの肘掛けは黒ですごく新しく感じたものだが… >>285
>>292
そうか..大御所は頼りにならないか...
だけど相模22か1252と1253は乗った記憶があるよ。
(当時ナンバープレートと車番をジャポニカ自由帳にメモしてた)
あ26は相模22か1179のU20Nだけど、ナンバープレートがバンパーについていて
その上に謎の穴が空いていたのを覚えているよ。
あ54の相模22か1193は確かに北村だった。 >>297
後期型3Eでバンパーにナンバーつけていた車というと『よ77』が
画像で残っているね(大御所にある)
ところで、前面方向幕が分割だった時代の話ですけど、
まだ系統番号が設定される以前の平塚で『満員』という表記が
表示されていたのを見た記憶があるんですけど、知っている人います? >>293
例の写真、どう見ても川重ではなく北村に見えてしまう。
北村でもCJMは運転席直後は小窓だったので、
秦野の80年式CJMが検査とか貸切とかでたまたま八幡に入庫していた可能性はないだろうか。
北村CJMに非冷房仕様がいたかどうか定かでないが。 >>299
北村CJMは非冷房がBUと同じ中ドアから後ろ5枚窓、冷房車が中ドアから後ろ4枚窓でした。
上にある箱根登山いったやつがBUでバスコレクションになったのがCJM >>299
80年式のCJMである場合、例の写真の車はまず前面方向幕分割
タイプなので違うと考えられます。(79年式BUから大型タイプ)
それと>>298でも指摘されていますが窓割についてはこの2枚で
ある程度わかるかと思います。
(80年式非冷房CJM)
ttp://tekuteku.ongaeshi.biz/kc-no11/chi52f2.jpg
(82年式冷房CJM)
ttp://tekuteku.ongaeshi.biz/kc-no11/ma38r.jpg あっ・・・298じゃなくて300だった・・・
ついでに
北村車については、75年式までがバス窓で76年or77年式あたりで
サッシ窓になっているようです。ただ、正面ガラスについてはサッシ窓で
4枚ガラスの古い顔つきのものと2枚ガラスの近代的なものがおり、
78年式になると例の写真の顔つきに似た雰囲気になってはいます。
大御所の懐かしページにも78年式の北村車は一枚だけありますが
微妙に側窓の様子がつかめないのが残念ですが、狭窓には見えない
ため、やはりBUで狭窓はいなかったのではないかと 1987年の完全冷房化のときの廃車は、北村ボディーみたいなちょっと古めなのも含めて、いすゞは多数他社転籍してるけど、MP117は他社転籍の記録はないのですかね。神奈中中古で呉羽タレ目ヘッドライトベゼル車は、多数いたけどほとんどスクラップになっちゃったのかな? >>299
川重と北村のBU10D、共に実物を見て乗っていくらか写真でも記録している俺が言うんだから信用してくれや(笑)。
例の写真の件の車両は間違いなく川重。
そして平塚には北村車の配属はなし。 >>299
北村CJMに非冷房車がいたかどうか定かではないなんて言ってるようじゃ、話にならん。
>>303
MP117はおろか、B800、MR450、MR420なんかも中古で移籍した話はきかないね。
MR410だけは江ノ電や岩手に何台も嫁いでるけどね。 戸塚管内でずっと育った奴が通りますよっと。
新ステップ車が入りだした頃に神奈中を定期的に使う様になって、新ステップ車か銀ホイールのかなちゃん号が来ると大はしゃぎだったもんだなと懐かしく思う。
戸70で今は亡き祖母と下飯田から戸塚までノンビリ出かけたのも良い思い出。
今思えば、下和泉界隈の1.7車線くらいしかない狭い道を大型が走っていたなんて信じられない。 ブルより前までのふそうってあまり評判良くなかったように思う。
小学校の頃同級生でお父さんが神奈中の運転士してる子がいたけど、
ふそうといすゞは登りでギア変えられないという話だったよ。
UDが一番力があって、いすゞは「非力で小さい車」扱いだった。
ふそうが良くなったのは路線がブル、観光がエアロになってからでないかな。 単にいすゞの販路(特に東北方面)があって、早期廃車→転入でwin-winの関係が築かれていたのではないか。
ふそうはMR410の時代ならともかく、長尺は北海道でもなければ使い道がなく、しかも暖房強化が必須ともなれば売るのは難しかったのでは。当時は道内の各社は新車を買って何とか賄えていたし。 国立病院〜原町田を結んでいたバスは独特な形だった
天井のルーバーが交互にあって ふそうは非力というのはむしろMRの頃の話だと思う。
MP117から搭載の6D20はN/Aで200ps出していたわけで・・・
他のメーカーになると
BU10D・・・D920H(175ps)
U20 ・・・PD6H(185ps)
RE141 ・・・EB400(190ps)
全車N/Aでトルクは不明だけど馬力だけだったらMP117が最強。
それでも売れなかったのは車体の問題だと思う。
78年からは名古屋純正ならB35ボディがあったのに、呉羽に拘った
カナ中の車体は旧来のMRボディだったからそれが災いしたのかも 試作冷房車はどこへも移籍してないのは、
お試し物はちょっととかあるのかな? >>298だいぶ昔だけど
満員の表示は、「ワンマン」の行灯の下にプラスチックの普段で(西武鉄道の701系の急行表示見たいなやつ?)であった記憶。
わかりにくくて申し訳ない。 6D20って215ps説と200ps説とがありますが、
どちらにしても6DC2で200psのB8程は走らないという話もあったみたい。
51年排出ガス規制でパワーを絞っていたのか。 >>314
カナ中の6D20ってOD5段じゃなかたっけ?
MP118の2期目からDDになったような記憶が
そのせいで走らないイメージだったんじゃない? >>306
MR420は函館バスに移籍したのがある。
以前バスグラフィックに写真が載ってた。 MP117の最終型は引退間近でもまだ車内外とも綺麗だったのを覚えている。
せいぜい車齢7年程度だから、今の時代ならこれからってところだね。
厚木のU30試作冷房車は10年程度は在籍したようだけど
MP117試作冷房車はいつ頃まで活躍したんだろう。
長尺、直結冷房、OD5速って亀のように遅かったんだろうか。 試作冷房車は、完全冷房化の翌年に全車廃車だね。
K-代の非冷房車より1年弱長生きしたけど、引き取り先は無かった気がする。 そういえばK-代の非冷房車ってどうして投入されたんだろうね…
特に量産冷房車が登場した80年に平行導入されたやつ…
ちなみにK-U31Lの非冷房仕様っていたのかな?
RC321、MP118、CJM500/550の非冷房は実際に乗車したことがあるが
平塚界隈だとK-U31Lは全部冷房車だったからなぁ >>320
K代の非冷房車は1980年上期と下期のみの導入。
上期が厚木、下期が町田にいたな。 >>308
BUからU-LV324Lまでいすゞ車は非力だと思うけど、他メーカーより燃費が良かったのと最後部のデッドスペースが小さかった。 >>321
よく見たら運転席側の画像は大御所に一枚だけ町田車があった
気になっているのは、その非冷房のK-U31Lの戸袋周りの処理
なんですが、79年式以前の所謂一段落としの戸袋窓なのか、
それとも冷房K-U31Lと同じツライチのHゴム仕様なのかなんですよね
他社の車は81年式でも一段落としの画像があるけど、カナ中は探して
も見つからないしうーん・・・ >>325
これなんか80年上期式冷房車で一段落としだね。
ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~iwate/vehicle/extra/primer/coach/images/u31n_01.jpg
80年式の途中から変わったのかもしれないね。 >>326
おお・・・超サンクス。
平塚にいた一番初期のK-U31Lは、ひ57だったんだけど、
こいつは80年下期導入車でツライチHゴム仕様だったからね。
これは恐らく80年上期までが一段落とし仕様だと確信しましたわ。
冷房で戸袋窓が一段落としなのは厚木の試作冷房だけかと思って
いたから貴重な発見でした 「あ13」相模22か1427だった貸切色トップドアのMK115には
一度も乗れなかった。
赤いザラザラのシートだったのかな。座席の配置とか。 >>328
何度か乗ったよ。
1978年上期車なんだけど、降車釦はチャイムだった。
座席は当時のふそう車と同じで、生地はザラザラしたやつ。
初めて見た時は驚いた車両だったけど、乗ってみるとあまり感動はなかったな。 あ13って基本は小野橋からの温泉専用車だったんじゃないの?
2代目?のサンシャシン顔のP-MK116Jも味がある車だったね。
確か、は107と同じ仕様だっけ? >>330
一日に1or2本、駅発着の直通便もあったような気がするんだが、よく覚えてないや。 >>331
厚木東高校のスクールバス利用してたとき毎朝見てた気がする。 厚木バスセンターで、あ13のMK115をよく見ていたよ。
いつか乗りたいなぁと思っていたらMK116になってしまった。
ちょうどMK115の時代に七沢行くときに、途中で中型車に乗り換えた記憶が
あるんだけど、その車はウェーブラインの標準塗装だったんだけど、
車種はまったく覚えていないんだ。
方向幕が2つ付いていてブルドックっぽい顔だったような気がするんだが
大御所ググっても出てこない。
厚木営業所で、あ13以外にも中型って当時あったんだっけ? >>333
方向幕が2つってどういうこと?
秦野のヤビツ峠用のB622Eとかみたいなやつかな? 「あ13」って何かしら特別な車種だよね。
・サンシャイン顔のMK116
・清川村村営バスのハイエース
・現在はPKG-MP35UM(ワンロマ)
普通の大型の時代ってあったの? >>335
旧々貸切色のMK115以前はわからないけど、以後はない。
MK115→MK116(ここまで貸切色)→MK218(唯一のトップドア)
→ハイエース→MP35UM(ワンロマ)だと思うから、ある意味現在が
一番マトモな気がする 大御所の津久井にいた方向幕2つのMK115が
七沢で乗ったやつにそっくりだ。
車内で丸いクロスファンが回っていたよ。 >>337
当時厚木の中型車は、あ13だけだったので、点検や修理などの時に津久井や秦野から一時的に借り入れてたのを目撃したのかもよ。 カナ中の場合非冷房車にはラインファンは搭載されていないので、
丸いクロスファンというと、K-MK116Hじゃないかな?
カナ中全体で何台いたかわからないけど珍車中の珍車だからなぁ
ただ秦野車(は13だっけ?)は方向幕一つだなぁ… そっかー、記憶が錯綜しているな。
あの頃は中型車とか初見の神奈中車見るとわくわくしていたよ。 >>340
まぁ昔の記憶なんてそんなもんよ。
ちなみに秦野にはK-MK116HもK-MK116Jも両方所属していたけど
型式だけみると同じ車の尺違いと思ってしまうけど全く違う車だったり
してびっくりしたし。
天井のキノコクーラーだけは共通してたけどね 記憶が錯綜といえば、昭和61年頃によく平塚駅で秦野の5E
(P-U32L後期型)の波線塗装車(相模22か30-xx)を見かけたのだけど、
当時見た社番は「は108」だった記憶があるのよ。
ところが当時のは108は大御所サイトによると5Bトップドア仕様の
NBC線専用車のように記述されている。年式とかナンバーも近いし
何故だろう?と長年の疑問。
社番違いかと思ったけど、秦野には5E波線塗装が1台もいなかったみたいだし
平塚車には不思議と相模22か30-xxは一般路線車で在籍したことがないから
「ひ108」とかとの見間違いはないと思っているんだけどね 涼風車懐かしいですね。
秦野車は非公式側の最後部のメトロ窓のサッシが破損して
棧がグニャと曲がっていたのを覚えてます。 瀬谷柏尾道路をブルーリボンや5Eで走ってたのが懐かしいな さっき実在しなかったブルドッグの貸切塗装に乗った夢を見た。 >>342
高校生の頃、手書きで作成していた営業所別の
車両表を引っ張り出して見てみました。
「は108」は、相模22か30-93で、一般路線車です。同時に入った109〜112がNBC専用車ですね。 >>342
高校生の頃、手書きで作成していた営業所別の
車両表を引っ張り出して見てみました。
「は108」は、相模22か30-93で、一般路線車です。同時に入った109〜112がNBC専用車ですね。 大御所は過去データには誤りが散見されるので、完全には信用せず、参考程度にすべし。 趣味でかなちゅう全路線のりつぶしを3年前からちびちびやってるけど、路線途切れてるのが多くて難儀した。海老名→厚木とか。昔はあったみたいね。小谷〜寒川間とか。 神奈中にも東京〜等々力くらいの長距離路線ってあったのかな? 平塚駅〜国府津駅がほぼ同じくらい?
ならば本厚木〜宮ヶ瀬は越えてそう。
廃止された運転系統なら藤沢〜横浜とかゴロゴロある気がする。 つーか、横43が既に東98よりも長距離なんだけど。スレ違い失礼。 横浜駅起点なら座間四ッ谷ってのがあったよね。あれはいつ頃まで走っていたのだろう? ナイロン経由、と
横長のフォントで、
急 行
高森団地
が、子供の頃は気になっていた。 白幕時代、伊勢原や舞岡に何故か
[平90]伊勢原団地・平 塚 駅
(経由地の「伊勢原団地」が青字)
とか双方向表示でないのが散見されたけど、あれはどういう理由だったのかな? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています