昔の東武バスを語ろうよ!3
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富士重工からは鉄道車両も調達していたからじゃない?
日産ディーゼルは朝日自動車が調達していたけど。 川越観光もUDのを桶川の富士重工の路線に使ってたな
今は普通のエルガミオになってるけど 東武としてUDを入れたのはお試し?4R105と1979〜80年に熊谷に何台か入れた富士4EのRMだけだったか。
日産と東武は芙蓉繋がりがあった筈だが、それよりもいすゞ・日野との腐れ縁が優先しているのは謎だよねえ。 東武バスの太田営業所が朝日自動車に移管されるときに、太田市に富士重工の工場があると言う理由で、富士重工+UDの中型が入った。
あと、いすゞのキュービックのフロントガラスが一枚で、破損した時に丸々一枚交換になるのを嫌ったり、組合の反対とかで東武バス以外にも仙台市営バス、静岡鉄道(当時)が富士重工+いすゞのLVを多く入れていた。
静鉄はその後東武顔といわれるキュービックのノンステップを一台いれて、今でも相良営業所管内の路線で使っている。 >>536
太田の初期車はフロントにUDのロゴマーク付きだった。
増備車と本庄分はロゴマーク付かなかったけど。 朝日自動車の太田営業所の初期は日野RJとUDのRN?の前後ドアの中型ツーステでしたね。
しかもオートマだったので驚いた。
東武バスの太田営業所時代は日野やいすゞの大型車ばかりで、それが一気に中型だらけになって、お客さんが多いときはどうなるかしんぱいしました。
熊谷駅からの太田駅ゆきの最終バスは東武バス時代の1986年頃は22時台でしたけど、今は平日は23時台まで遅くなって、ライバル?の矢島タクシーのおおたシャトル500を意識しています。
ところで、今でも矢島タクシーのおおたシャトル500は車内アナウンスは無しですか?初めて乗る人は不安ですね。 芙蓉グループというのは安田善次郎を軸に集まった富士銀行・安田信託銀行に由来する中財閥の集合体で
三菱・三井・住友と言ったトップダウン型のコンツェルンではなく
それぞれの企業体(例えば根津家や大倉家)が安田グループを軸にしているというのだけが集まりの根拠。
日産の元になる鮎川財閥は日立製作所を生み日立と東武は長い付き合いがあるが
日産には義理立てがないと言えばないらしい。
かといって日産を嫌っていた訳ではなくボンネット時代は日産自動車製の車両を入れていたし
最近まで朝日自動車のタクシーは約半数をセドリックにしていた。
日産ディーゼルを避けた理由は2サイクルにこだわった事や
日産自動車には付き合いがあったが民生ディーゼルには接点がなかったというのが理由だと聞いた事がa
る。 日野のブルーリボンHTとかHUの、上昇下降式側面窓は
上下が同寸法なのと上側が大きいタイプがあって、東武は同寸法のやつだったけど
あれってわざわざ選択するものなのかな? >>529
最近だとウエスト以外は日野指定だった営業所もいすゞの導入が続いているね
>>535
RNは和光の循環バスを川観から引き継ぐ時に車両も譲渡されたっていうだけだから、東武として入れたかった訳ではないよ
あの車両、遡ると川観の前は朝日にいたんだよな 自治体のコミュバスは予算にもよるが、自治体が車両購入費を出すパターンが多いんだが
新車購入費を気前よくだしてくれる自治体が多い中、予算が厳しい所だと中古車を探さないとならないこともある
だから新車でも車両を自治体が指定してきたりして、営業所指定の車両にならないこともあるよ >>542
元々日野といすゞが綺麗に分かれたのは乗合が昭和40年代後半、貸切は昭和50年代前半であって
昭和50年代末には貸切予備車として経年のいすゞ貸切車が群馬県内に配属された事もあり
そんなに長い間ではありません。
昭和40年代中盤には平地のかなりの範囲で日野といすゞは混用されていたようです。
ただ昭和40年代中盤と昭和50年代後半、そして平成初期に車種統一を考慮した大移動があった為
どの営業所はいすゞ指定、日野指定だという説になったのでしょう。
推測ですが近年の混用は営業的な補償もあるのでしょう。
都内に日野HRを入れた代わりに埼玉の日野を使用している営業所に
いすゞLV(新7Eノンステ銀サッシ)を入れたようなものです。
ノンステがATのブルリIIよりMTが選べたLVの方が都合も良かったでしょう。 もしも4R105をきっかけにUDと取引してたら
3EボディのU20Lが上尾にわんさか・・・
あんま変わらないかw 観光仕様を無理矢理に路線バス化したゲテモノが好きだったw >>547
北越谷にも顔出してたな
岩井所属車だったのかな? >>547
新島車庫所属で上尾駅東口行きにそんなのが来て
あまりのゲテモノぶりに乗らなかったお婆さん
時刻表では次のバスは約45分後でしたよ
熊谷から森林公園東松山方面に行くには快適だったろうけど、
中山道チンタラ走るにはカッタルかったはず 高速路線バスのようにヘッドライトの間の行灯を方向幕に改造せずに、おでこに新たに方向幕を作った、貸切車格下げの路線車。
中ドア付きに改造したバスは、入口横に縦長の方向幕。
普通は入口横の方向幕は右から左で一番左が、行き先(終点)
元貸切車は上から下だったような。
一度桐生営業所所属の元貸切車に乗ったことがある。(足利両毛駅から足利東武駅まで) 観光格下げ車なつかしい。エアサスがシューシュー音を立ててたな(笑) 太田営業所にも元貸切の路線車が一台(中ドア付き)がいたけど、熊谷駅〜桐生ボートの専属のようで、熊谷駅〜太田駅の路線には入らなかった。
座席が多い分、立ち席スペースで詰め込みがきかないからさけたのだろうか。
特に、埼玉県内は鉄道代替の急行妻沼ゆきもあったけど、今のように各停じゃないから、太田熊谷線が朝夕のラッシュ時は混んでいた気がする。 平成はじめの頃だと太田に貸切落としいっぱいいたよ
熊谷行きによく使われてた 神奈川県民だけど1973年に日光修学旅行行った時に乗ったバス、日野のRBのトップドアだったのを卒アルの写真で見た。 >>544 平成にはいって増えたんですね。
私は昭和の終わり頃のはなしでした。
平成に入って、前橋営業所太田出張所になった頃でしょうか。 >>556
平成2,3年頃なのでまだ太田営業所時代じゃないかな
当時熊谷駅に入ってくる貸切落としは太田と小川町の車だけでしたからね
小川町には1台だけだったので熊谷駅に乗り入れるのはレアでした
太田のは本当にバリエーションが豊富で、前面ライト回りをREの廃車部品かなんかで固めて路線車風にしたやつは変態度がヤバかった
後ろも廃車部品の窓を使って方向幕を車体にはめ込んだのとか、テールランプを路線車のに変えたやつとか同じ個体がいないような状態でした
今から考えると魔境ともいうべき光景でしたが、ほとんど写真を撮っていなかったのが残念
熊谷営業所には貸切落としはいませんでしたが3Eと都内からやってきた前中扉の5Eが占めているなか、
茨城からやってきた日野の中型がいたり面白い時代でした
時期的に新車が配置される営業所には7Eも登場してましたが
熊谷に配置されるのは、この数年後に東松山が日野車に置き換えられた際に転出してくるのを待たないとなりませんでした 貸切改造車は今思えば面白かったな
当時はガキだったから、全く写真は撮ってないのが残念 >>560
なつかしすぎる!取って付けたような方向幕といいw 太田営業所に貸切落としがたいりょうにいた頃、沼田、渋川、水上が関越交通に移管されて、それらの営業所にいたバスが集められたのでしょうか。 >>560
この手も個体差があって、寄り目ではなくライトが離れぎみの車はマトモに見えたな >>560
それでも日野車はライトベゼルがデカイからまだまし。いすゞ車は…察してねw そういえば、いすゞ車もBUあたりの川崎車体っぽいヘッドライトペゼルになってるのもいたなぁ
しかし、この手の改造って、方向幕設置、中ドア設置だけでも結構改造費がかかりそうなのに
塗装塗り替えたり、ライト周り改造したり、後部も改造したり・・・
方向幕以外は廃車発生品を使っているんでしょうが、それでも結構な金額かかっていそう
当時、足利自修の裏手には廃車になった車両のパーツが大量にストックされており、
もうイチから作れるんじゃないかってほど技術力が半端ないw 貸切落としは途中から中ドア増設をやめて、外観はおでこの方向幕のみの改造になった。 昔、観光格下げだった
本庄駅―伊勢崎駅が今
元東武のノンステップが
走ってるんだから
時代は変わったと思う >>562
その頃は時期的に水上も渋川もまだ東武だった頃でしょう
関越交通もまだ路線バスはじめる前だったのでは… >>566
スケルトン化で扉ぶち抜くのが困難になったからね >>567
そのノンステも既に10年落ちなので、結局歴史を繰り返しているかと
貸切格下車は、結構手の込んだ改造をした割に何年もしないうちに消えましたからね
時期的に平成初期頃はNOx法の関係で新車を大量増備したので
玉突き転属で余剰になった大量のP-LV314やP-HT235などの貸切格下より若い車が
NOx法エリアから追い出されて群馬地区に出回ったのが大きいのかと シューシュー音のエアサス車はいつごろまであったんかねぇ
今のエアサスよりも、ずっとふわふわしてて、カーブを曲がるときなんて
左右の揺れがしばらく止まらなかった 格下げの話はいつでも大人気ですな。
俺はR3に中扉をぶち開け、バンパー取っ払って汎用のに付け替えて、ヘッドライトは丸目4灯にして、オレンジクリームの路線色に塗った姿を想像していたが、勿論そんなのは出現しませんでしたと。 >>572
東武のR3は不遇な車種な気がしますね
時期的に東武の観光バス撤退で余剰車が溢れていたのに
路線車もNOx規制で大量にP代車が群馬に転出してきた頃だったせいか
日光を除いてほとんど残らなかったですから 格下げ車
網棚は撤去して車内広告枠に
補助席やカーテンも撤去してあった
リクライニングも固定に
観光バスらしさは無かったな
埼玉県だけは後ろにも方向幕
付いてたな >>574
日光の格下げ車?
日光は定期観光みたいな路線が多くて、昔から観光格下げが使用されてきたから
群馬や埼玉て見られた観光格下げとは別物だと思う >>571
日野車はシューシューいってて揺れが収まらない印象。あれは酔うわ。
いすゞ車はシューシュー音聞こえなかったな >>573
R3も不遇だったけど日野車体のブルーリボンも…いずれにせよ貸切の大量撤退があった以上やむを得ないのですが。
系列に流した例はともかく、系列外には東武独特のケチ仕様が祟ってそれほど出回らなかったようで。ベーシックな車と見るかお買い損な車と見るか…
今は共栄の校庭に吸収された春日部出張所や西上尾出張所の奥地に大量に並べられたこれらの廃車群を思い出します。 >>577
他社も比較してみると
日野三菱ふそうのエアサスはふかふかしすぎ、揺れ出したらしばらく揺れる
いすゞUDのエアサスはあまりエアサス感ない、けれども揺れ出したら止まらないってことはなかったような >>578
今ならそれでも新免業者がお買い上げになったかもしれないけど、あの時代だとね。 日光営業所は普通の路線バスの車両と貸切落としの両方で、貸切落としは、トップドアのまま、カンテラ方向幕改造。最近はヘッドライトの間の行灯を改造しているだけ。
普通の路線バスの車両は前後ドアだとちゃんと後ろ乗り前降り運賃後払い整理券方式にしていたようだ。
で現在の話、東武ダイヤルバス(現、日光交通)に東武バスや朝日自動車から移籍したバスは、前後ドアでも貸切落としに合わせて、前乗り前降り運賃後払い整理券方式にしている。 >>578
今でも東武に残ってる車だと、セレガRのFSは最後の東武らしい車な気がする
>>581
日光の場合、貸切落としに合わせてというよりも土地柄なような・・・
栃木って今県内の全社が基本的に前扉しか使ってなかったはずだし 昔、前後扉とか前中扉の車両を導入して
前以外はしめきりにして使う事業社があったけど
あれは何のためだったのだろうか >>583
乗ってからだいぶ先で整理券を取って運賃をごまかす不逞の輩が多かったんじゃないかなぁ。 神奈中バスも最近になって、前乗り前降り運賃後払い整理券方式から中のり前降り運賃後払い整理券方式に変えたけど。
何かの資料か、サイトで見たけど、後ろや中扉をワンマンバスで入口すると、危ないと当時の運輸省が許可しなかったとか。
その後、安全が確保できることで認められたとか。
群馬県内もワンマン化初期の頃は、各社バラバラで最終的に今の後ろ乗り前降り運賃後払い整理券方式になったとか。 群馬も東武時代にトップドアの日野REが水上あたりに存在してなかったっけ?
栃木あたりからか転属してきた可能性も否定出来ないけど ・東武バスが宇都宮駅〜西川田駅の路線があった頃は、後ろのり前降り運賃後払い整理券方式だった。
関東自動車や東野バス、JRバス関東と乗車方法がちがった。
JRバス関東の宇都宮支店も一時期中のり前降り運賃後払い整理券方式にしたけど、元に戻した。
・東武バスのトップドアが水上駅に停まっている写真を雑誌で見たことがある。
前後ドアが移籍してきても、水上地区は前のり前降り運賃後払い整理券方式だったのはなぜ?というのをこのスレで質問したら、箱根と同じで山道のカーブで後ろの確認が難しいと答えをもらった。
関越交通に移管した時に全て中型車になったためか、後ろのり前降り運賃後払い整理券方式になった。
雑誌の写真に移管路線の関越交通のバスは後扉、路線が移管されていない東武バスが前ドアを開けた水上駅の写真が載っていた。 太田市内の東武バスは1983年以降に徐々に廃止されていたけれど、高崎経済大学の先生の本によると1970年代から廃止が進んでいたようだ。
地方の中小私鉄ならまだ残っていたり、なんでこの路線が?というのがあったが、大手私鉄で賃金や組合の関係もあっただろうし、車社会が加速したのだろう。
市内にある私大の関東学園大学行きや近所にバス停がなく、東武バスが撤退したあと、太田市のコミュニティバスの宝泉線(現在廃止)が開通するまで無かったし。
群馬中央バスの伊勢崎駅〜太田バイパス〜太田駅南口の「下浜田」が近いと言っても、平日朝夕1往復しかなく。
東武バスの東毛病院行きの「浜町入口」を利用するにも二時間に一本、どちらもバス停から徒歩15分かかる距離だった。
学生は大学が車通学を認めていたので、免許取得までは、一時間に一本の東武伊勢崎線での電車通学をしている人もいた。
そのために大学は現在もスクールバスを出していない。 >>576さん
昭和40年代初頭にスタンダード貸切車と全く同じ仕様の貸切兼用車(?)が登場し、
43年に路線車が複数導入された以外昭和45年頃まではこの仕様が続きます。
43年までの兼用車は前方向幕を持ち、44〜45年は貸切の社名表示のところに方向幕があります。
48年に貸切兼用車として導入されたのが最後となります。
普通の路線車は43年の他は46年以降になります。
また格下は早いうちから行われていますが前方向幕がカンデラ式になったのは前橋など日光以外に格下車が出始めた頃の話で
以前は社名表示のところに方向幕を設置していました(43年度までは上述の兼用車が貸切車として他の営業所にもいた様子)。
>>580さん
P-RU608BB辺りが早期退役した後に東北地方の旅館の自家用送迎にいくつか東武中古が出回っています。
東北にある中古業者が東武からの仕入れに強かったのでそのルートで販売したようです。
ごく限られた数ですが、他社に移籍出来た車両もあります。岩手観光バスや秋北バスの国際興業塗装HD-IIとかは有名ですね。 >>581さん
昭和46〜48年に前後扉の一般的なRE120が導入され原則いろは越をしない運用(奥細尾・馬返・ゴルフ場線)に入っていました。
後乗りを強調する為他の営業所より大きく丸い表示板をフロントにつけていました。
>>586さん
ナンバーからして転入車です。
昭和46年以降の普通のタイプの前扉車新製配属は日光と鬼怒川だけです。
日光にRC320Pの格下車が配属される事になり水上に玉突き転入しています。
ちなみに前扉のみ扱いの理由は>>587さんのご指摘の理由、車種によって違う乗降口を揃えようとしたのが半分、
神奈中がこだわっていたのはお客さんの乗降を目視するという理由もあったようです。
>>584さんの理由は・・・う〜ん・・・。
ただ水上でもRE120全盛期は後扉からお客を乗せていた記憶があります。 >>589-590補足です。
昭和43年後期に富士重車体のRE100前扉車(ツーマン)が日光に導入され
日光のワンマン化進捗によりそのうち1両が栃木に転出、ツーマン最後の日まで運用されていたようですが、
複数台が沼田か水上に転出したと聞いたことがあります。
川場村に平成10年頃までその廃車体がありました。 日野のツーマン車は、富士重工と帝国の両方のボディで、中ドアひとつの折戸仕様(昔、小豆島バスにあったものと同じ感じで、手動ドア)と、
中ドア一つで引戸仕様の二種類があった。
中ドア一つの引戸仕様は、東武バスから岩手県南バス(今は合併して岩手県交通になっています。)に移籍したものもあるようです。
東武のツーマン中ドア車は他に移籍した会社があるのでしょうか。
あとは、東武東上線沿線の私大のスクールバスになったものもあるみたいですね。
確か、東武バスの運賃値上げで大学生が暴動を起こして、大学と東武バスが協議して、大学行きの路線バスを無くす代わりに、スクールバスに切り替えて、その際に現物支給ではないけど、バスとバス停を大学側に渡したとか。
大学名を失念してしまった。 昔の東武バスの値上げって何でそんなに揉めたんだろうな 高校の時、スクールバスに乗るのに何故か東武の定期券が必要だった
スクールバスが3台しかなく、全員登校するには路線にも振り分ける必要が
何か無駄にカネ払わされているような気がしたけど、
趣味的には色々な車両を楽しめるので良かったかな >>592さん
中扉引戸ツーマンは昭和40年に都内営業所から配属され、以降原則的に上尾以南の埼玉と東京に配属されました。
熊谷にも引戸が在籍していたのですが、川越あたりからの転入車の可能性もあります。
昭和40年はいすゞの川重車体がモデルチェンジ、いすゞシャーシ自体もビッグマイナーチェンジした年ですが、
旧タイプの丸型も引戸は練馬に存在しました。
ツーマン車の移籍ですが、過去レスによると岩手県南バスの他に南部バスにいすゞ、函館バスに日野、
また四国の貸切事業者にスクール用としてどちらかの移籍車があったそうです。
http://maguro.2ch.net/test/read.cgi/bus/1277988201/742
他に自家用スクールとして埼工大(埼工大深谷高校?)と成徳深谷高校に日野RB120が移籍しています。
>>594さん
これも過去レスにありますが運賃20円が30円に値上げになったそうです。
昭和30年代には5円単位の運賃が存在していたようですが
昭和40年代にはなくなっていてその結果いきなり1.5倍になった訳です。
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/bus/1187201954/784
OBさん・・・このスレにお戻りになってください。お願いします。 >>597 情報ありがとうございます。
昔のバスの写真集で中ドア引き戸のツーマン仕様のいすゞ車が池袋駅西口ロータリーを走っている写真があって気になっていました。
あと、高崎経済大学の大島先生の本だと、群馬県内はワンマン化に際して前後ドアの日野のワンマン専用車を導入して、他社のように中ドア車に前ドアを増設してワンマンバスにした車両がないとあったので、気になりました。
水上とかにいた、トップドアのツーマン車はワンマンの機械を設置してトップドアのワンマンバスになったと思います。 >>598(592)さん
ワンマン改造事例としては上述
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/bus/1187201954/784
にて大宮(吉野町)で2両試作した時点で終わっているという事ですが、
帝国車体の日野RB120のワンマンは新製配属された草加・前橋・大宮以外にも存在しました。
草加の車両が転属した可能性もありますが熊谷駅に姿を見せていたという情報がありました。
(熊谷駅に姿を見せる日野車は太田と本庄(深谷))
またこれとは別に昭和50年に大宮から社5023が本庄に転出しています。
こちらも日野RB120ですが、富士重車体です。
トップドアですが、昭和43年「度」と46年以降のグループに分けられ
43年「度」車はツーマンのまま除籍、46年以降の車両は最初からワンマンです。
43年「度」の車両は富士重でも3Eではなく前世代のR13バス窓です。
尚、この43年「度」車は平地のツーマンとは異なった形状を持ち、
フロントウインカーがゲンコツ式ではなくバス協埋め込み式、
前方向幕横のマーカーがないという44年度の仕様になっています。
また社番も5300代末、日光にデフォルト配置されたナンバーも栃2い2200代と
44年度のようです。
資料を見ると東武にツーマンが導入されたのは43年度までとなっていますが、
納期が遅れたか何かの理由で44年に納入されたのでしょうか。 東武バスいつ頃まで、車掌さんが乗務されてましたでしょうか?
伊奈役場ー大宮駅まで、路線ありましたでしょうか? 前中扉、前後扉、どうして地域ごとに分けちゃったんだろう。
この辺も効率よくしとけば発注時点でのコスト抑えられただろうに。
なんか趣味的にはともかく東武っていくら何でもこれじゃ非効率すぎるでしょ、ってことをしばしばやる会社だったよね。 昨日、葛生に行って来たけど昭和54年の時刻表を見ると東武バスの路線が2系統あるね >>602
前中扉は前のり前払い
前後扉は後のり後払い
埼玉県北や群馬だと都内からの転属車があったから必ずしもこの通りではなかったけど、基本はこんな感じ
前中扉は前のりだから側面方向幕も前扉の横についてる
他社で後のりで前中扉を採用してる会社でも側面方向幕の位置は違っていたりした >>604
国際興業なんかは側面方向幕は前中扉間だったね
運賃箱の設定と出口入口は転属や均一区間かどうかで設定を変更したりで
前乗り中降り運賃先払いでも中乗り前降り整理券制でも、整理券発行機用のスペースを確保するかどうかの差異はあるにしてもほぼ同一仕様で入れられるはずなのに入れられなかったあたりがやっぱり東武らしいといえば東武らしい 国際興業はもともと中扉上でしょ
冷房車以降はダクトの関係で車掌席?中扉後ろに
U-LVの2世代目でようやく前中扉間になった 昔の国際興業は東武と逆方向に割り切り過ぎ。
前乗り中乗りどちらもある神奈中なんかが前中扉間に設けたりしたこともあるのと対照的に、中扉より後ろ側か中扉上部にもあったり。
どうせ転属で中乗り地域に行ったり、両方やる営業所もあるだろうくらいの発想だと。 8000番台で初めて都内仕様を作ってみたくらいですぐやめたからな 群馬バスの昔の写真を見ると、前後ドアで後ろ乗り前降り運賃あとばらいなのに、前ドア右横のすぐのバス窓に側面方向幕なんてのもあったな。
移籍車の場合、側面方向幕を移設改造しない会社もあるからな。
関東バスから上毛電鉄バスに移籍した3ドア車も側面方向幕を移設しなかったし。
LED化されても、前乗り中降り運賃先払いの会社から中のり前降り運賃後払いの会社に移籍してもそのままの会社(宮城交通、岩手県交通など)が今でもあるのは改造費の節約か。 前後扉はなんかあか抜けない感じがした。
前中扉やトップドアにはそんな印象ないが。 前後扉は関西には多かったけど関東は少なかったな
まあ、低床化でどこも前中扉に… 群馬県だとワンマン化するときに、大量に前後ドアの日野車を入れて、中ドア一枚やトップドアのツーマン車と入れ換えたようだから前後ドアのバスが多いような気がする。
後ろドアの後ろの柱には車掌用のドアスイッチが付いたバスがあったし、前後ドアの車掌乗務の運用もあったんだろうな。
後ろドアを締め切りにして、前ドアでトップドアのツーマン車同様に乗り降りさせたとか。
他社で前後ドアのバスでツーマンで使うときはそうしたし、車掌さんはドアステップに立ち、肉声でバス停案内、ドアの開閉は運転手さんがしていた。 コスト考えない東武らしい仕様の極みは、やはり大宮、天沼、西上尾にいた3扉車かもね
料金先払い路線では、前乗り中降り
料金後払い路線では、後乗り前降り
両方の路線で使えるように3扉車にしたんだからな・・・
でも面白いのは同じく前乗り路線の北本団地線があった菖蒲出張所には3扉車の配置がなかったこと
前後扉車で前乗り後降りをやっていた
この時期の菖蒲は新車が配置されない営業所だったせいかもしれないが
太田や前橋に転属した3扉車は中扉は閉め切りになっていたな >>612
関西は色々特殊だったね。
ノンステップの時代まで前後扉にギヤもODなしでトップがギヤ比1.0の加速型で。
前後扉に無理やりこだわっていたのは本当に謎だったけど、ギヤ比に関しては高台の新興住宅地が少なからずあったからか、と。
ただ特殊な仕様が祟って、中古にするとちょっと相場より安くなりがちっていうことはあったらしいけど。
>>614
メーカーに三扉なら前乗り中後降りか、中後乗り前降りならなら理解できるけど、それは三扉車の間違った使い方みたいにいわれてもそうやったというからよっぽどだよね。 関西は均一区間の路線でも後払いが多いから、詰め込みがきく、前後ドアの採用になったのだろう。
前中ドアだと、入口の中ドア付近にお客がたまって、動かないから、中ドアより後ろの立ち席スペースが空いている。
ノンステになって、入口が中ドアでも前ドアでも、ノンステの部分の前中ドアの間に、立ち客が滞留しているからなあ。 >>616
とはいえ、中乗りのほうが一段あたりのステップが後乗りより段差が低くなるし、つり革や握り棒など捕まる場所を確保してアナウンスで誘導すれば滞留にも十分対応可能。
だけど、関西公営や東武はアナウンス対応を極度に嫌ったゆえの後ろドアかも。 学生の頃は東武と国際興業を利用してたけど
東武はドアが完全に閉まらないうちに発車する感じだったな
あと、国際は駅などの終点でエンジンをかけっぱなし、東武はマメに切る
時々国際でエンジン切ってる車を見ると異様に感じた >>615
今みたいに前中扉しか無くて前乗りか中乗りの選択しかない時代ならともかく、3つあるドアの使い方位ユーザーの考えでいいじゃん。と言いたくなる。東京城西に縁の薄かった俺はKNK関東乗合が前乗り後降り(えっ?中降りじゃないのかよ)なのには相当面食らったけどね。
東武の3扉には側面幕が2つ付いていて、照明が白熱灯(2扉車は蛍光灯)な所に東武のケチ精神が遺憾なく発揮されていて苦笑した。 関東バスの3ドア車の場合は、前入口、中終点のみ出口として開放、後ろ出口。
関東バスは後輪で下車したお客を巻き込まないためということらしい。
3ドア車の初期車には、中ドア後ろに車掌台(車掌さんのスペース)があって、ツーマンの時は前後ろ締め切り、中ドアのみで車掌さん用のマイクとドアスイッチ、連絡用ブザーが付いていた。(関東バスの本を見てわかった。)
京王バスと西武バスの3ドア車は、前中車と同じで前入口、中ドア出口、後ろドアが終点のみ出口だった。 東武バスの大宮地区にいた3ドア車が前橋営業所に移籍してきたけど、中ドア締め切り、後ろのり前降りだった。
二つある側面方向幕は、後ろドア前はしっかり幕がはいっていたけど、前ドア後ろは、幕を取り払って中身が丸見えか、白幕だったような気がする。
後ろのり確定だし、ケチな東武じゃ廃車になった前後ドアの方向幕を再利用しているかもしれないし。 東武バスの3ドア車
先払いのときでも
北浦和と上尾駅西口は
朝の混雑時は3ヶ所
全部解放して客を
降ろしてた
それ以外は中ドアと後ろドア
の2ヶ所が終点での出口だった 関西系と違って東武は後扉も折り戸だったから
停車・出発を焦っている感じはある >>621
転属してきた車両は代替で廃車等になった車両の方向幕が載せ替えられてた
95年式以降は側面幕が大型化されたから流用出来なくなったけど 大宮地区の3ドア車は、乗車時に運賃を支払う、申告制だったな。
東京ベイシティ交通と同じ。
前出だけど、前払いだと終点の駅で3ドアを解放して下車時間を短縮するため。
磁気式のバスカードが出たあたりで、3ドア車も後ろのり前降り運賃後払い整理券方式になった。
東北本線の土呂駅開業前は大宮駅〜メヂカルセンター?が3ドア車だった気がする。 >>601
東武バスが全路線ワンマン化されたのは昭和56年4月。
伊奈役場〜大宮駅(駅前通り)間は昭和40年代中盤頃まではあった。
上尾車庫〜六道〜伊奈役場〜東大宮駅〜導守〜大宮駅前通り
途中小室志久〜東大宮駅間の経由が南平塚・砂団地から志乃崎・原市団地入口に変更されていたらしい。
ツーマン末期は東大宮駅で切られていて昭和54年頃まで運行されていた。
>>602
前後扉のメリットは座席数の確保と流動性・乗車効率の良さ。
前中扉の場合中扉から後ろへの立席客の効率が悪く、中扉が引戸の場合座席数が少なくなる。
1980年代前半に内輪差による巻き込み事故が問題化した際もホイールベースより後ろの後扉設置は安全性が高いと評価されていた。
逆に前中扉のメリットは中引扉の設置が容易で降車が早いのとツーマン兼用が容易な事か。
西武・東急・京急は1960年代〜70年代初頭に前乗り前後扉を導入したものの前中扉との整合性などから
前中扉に統合され、関東は3扉化の上で後扉降車を行っている。 >>605他
国際興業は都内と県内の異動が多い。前乗り先払いと中乗り後払い整理券方式が混在するのは川口と練馬のみ。
ただその国際興業でも都内仕様と埼玉仕様があって転属時は車外マイクの位置などの調整が必要だった。
中扉上に方向幕があったのはツーマン時代の名残のようなもので大抵の事業者は昭和40年代前半まではその位置に設置されていた。
国際興業の幕位置は昭和52年にサブエンジンクーラー搭載のBU04(5000番台)が登場した際に車内冷気吹出口と方向幕が干渉する為
車掌台に移動した。その後CLM470にモデルチェンジした後の56年まで冷房車と非冷房車が並行し、
中扉の戸袋前に設置されたのは平成3年から。
>>613
東武以外の群馬県内の初期ワンマンはツーマン使用の可能性が低いあるいはほぼない場合、早めに前後扉に移行した経緯があり、
前乗り先払いの前後扉車が存在した。整理券方式に移行する際に方向幕を移設したものの殆どの車両は撤去跡が残っていた。
群バスの他、上信にも多数そうした車両が存在した。 >>614
三扉車の登場は昭和57年。当初は兼用とせず後扉前の方向幕は装置が入っていない車両が多かった。
まずは置き換え対象が43〜46年式の前中扉車で導入時期から47年以降の前後扉が対象にならなかった。
北本団地線が前乗り先払いだった理由は開設当時担当が西上尾で菖蒲には後に移管されている。
単区間なのでそのまま引き継いだと思われる。
>>617
国際興業では朝の学生ラッシュやギャンブル輸送、後のJリーグ輸送などで何度も運転士さんがマイクで後ろに詰めるよう諭しても、というのは何度も見た。
ただ、昭和60年式のLT(1013〜)のように中扉より後ろを左右両方とも二人掛けシートにした(実質立席がほぼ取れなくなる)車両も存在したが・・・。
>>625
中型(RJ)の導入が平成8年なので以前はすべて大型車で運行されていた。
採算性の問題もだけど植竹は道路事情もあまりよくないので中型固定はやむを得ないのかも。
道路事情と言えば別所団地を含めた宮原西口発着系統は完全中型化すべきじゃないのかと。
朝夕の別所団地線はそれなりに乗るが駅出て右折〜新大宮バイパスまでの道幅は大宮からツーマンで来ていた時代と変わってないはず。 国際興業は、整理券発行装置の自動放送テープで、「整理券をお取りください/要りません」の後に
「危険物の持ち込みはお断りします」などいくつかの案内パターンがあったが、そのひとつに
「中ほどへお進みください」的なものがあったような気がする 東武が大量に中型車を入れた平成8年度は各地で混乱を引き起こしたな
大型の本数そのままで中型を入れたもんだから、積み残しが発生するような路線がいっぱい出たと聞く
結果的に中型車は予備車扱いになっていく所が多かったような
運転士にとってもはじめてのフィンガーシフトの車両で最初は慣れずにスムーズな変速が出来ない事が多かった 他社の話で、東急の場合、中ドア折戸のツーマン専用車を大改造してワンツーマン車にしたな。
前ドア増設、中ドア引き戸改造で中ドア上と後ろの方向幕はそのままで、前ドア入口脇に、サボで経路表示をしていた。
そのうち、中ドア上と後ろの方向幕を鉄板で覆ったり、車体更新時に撤去して1980年代位の非冷房の新車まで、前のみ方向幕、横はサボで表示していたな。
営業で入国回送するバスで、正面は表示していたけど、営業所行きのサボをバスに積んでいないと横はサボなしだった。
目黒営業所が三軒茶屋線に中型専用車を入れたころから、前ドア横と後ろの方向幕が復活して前横後ろが連動するようになって、バス正面の系統番号サボも廃止になった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています