昔の北関東の路線バス
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昔走っていた北関東(群馬、栃木、茨城)の路線バスについて語るスレです。
なお、東武バス、JRバス関東については専用のスレがありますのでそちらをお使いください。 >>413 8は、末期は杉山に配属されてたな。
関東自動車の5が梁瀬で、6が鹿沼で7が栃木にあったな。
5は、最初は駒生だったが、すぐに梁瀬に転属になった。
駒生では、15:30頃に駒生を発車する、宇都宮駅を経由しない珍しい系統の県河内庁舎行きによく使用されてた。 >>421
はさき号用の高速バスの1748HSも錆が出ていたな。 >>421
鹿島地区の関鉄で長持ちしたのは社番1220IT(水戸200か・176)が最長じゃないか。
塩害で錆といったら、だいぶ昔、鹿島のBU社番0851(茨22あ1639→水戸22あ・・23)が晩年他の営業所に転属したが錆が目立って使い物にならなかったというのを聞いた。
他にも波崎のBUの社番0863(茨22あ1682→水戸22あ・609→土浦22あ1050)も、晩年土浦に転属したが土浦ではほぼ特定運用だった。 >>425
0863の波崎移動はメロンCDMとオートの行灯とほぼ同期で、土浦転出は88年式IKが入ったのとほぼ同期か。
そういえばオートの行灯RJも廃車後しばらく鯉渕に留置されていたね。
旧カラー時代のスケルトン見つけた。
ttp://busmania.exblog.jp/page/130/ >>423
主要駅不経由便なら一部が水戸駅を経由しなかった茨交33系統もあった。 某ツイッターに関東鉄道バス 社番0609の廃車体の画像あり。 >>426
そう。
このあたりだと、水戸22あ・603が鉾田のBU10(社番0806、元茨22あ1503)で、・605が鉾田のCDM(社番1222)
・607と・608が波崎のRJ(社番1230,1231)だった。
その後・611〜・613と水戸にCDMが入っている(社番1217〜1219)。
>>429
0609とはまた古いな。
高浜のやつと同期に入ったやつかな。 >>66
亀レスだが、栃22は1827で終わり。
関東自動車の神奈中古のK-CJM500(川重)だった。
栃木22は1215で終わり。
関東自動車のハマ中古のブルリだった。
栃木200は40で終わり。
関東自動車の川崎市営中古の富士5EのLVだった。 PC守谷〜北柏線も関鉄と東武が共同運行していた頃は便利だったなぁ。
利用客もそこそこいたし。 昔は関鉄RG車も18系統に入ってたんだな。
ttp://busstructure.sakura.ne.jp/%20kantetsu/allkantetsuphotoRG.html
茨観車にTR管轄の幕が入ってるのは見たけど。 路線バスの旅、20年前にやってたら水戸→日立もあったかもね。 >>436
石岡→水戸→日立→高萩…ってね。
けど県境で途切れると思われ…
日立駅のバック式のバス停も懐かしいなぁ。 >>437
懐かしい!
バックの時に誘導してくれるおじさんがいて待合室があって
駅横にドムドムバーガーがあってw >>438
あそこには12レーンあって、誘導員のおじさんもバスを見ただけでどのレーンに入れるか一目で解るのも凄い。
待合室でのおじさんと運転手との一服会話も懐かしいなぁ。 今年は取手〜天王台〜我孫子線、竜ヶ崎〜利根ニュータウン〜布佐線廃止から10年。 >>422 初期の頃の常総学院バスは、凄かったよ。 >>438
ドムドムバーガーならば、水戸にもJTBビルのとこに昔あったわw 前橋のバスロケーションシステムが廃止になって何年経つんだろ?
今、運用しているところも廃止すればだいぶ経費削減できるんだろな >>440
取手〜天王台〜我孫子線は末端の天王台〜我孫子間の利用が多かったんだよな。
廃止が決まった時に天王台〜我孫子だけでも残したほうが良かったんじゃないのかという意見も多数あった。 >>443
撤去費用も膨大でもうあるがままに、なんじゃないの? >>444
その路線、確かに苦しい状態だったけど、ボロボロな茨城の一般路線バスの方ではそこそこまともだったと思うのだけどね。
末端区間は本当によく乗っていたことを思えば残しておけばよかったようなものを。 >>446
最末期は排ガス規制の関係で入る車も限定されてた。
最終日の最終運行便は我孫子〜天王台間で20人強の利用があったらしい。 廃止路線を再開した関鉄グリーンバスの玉造〜土浦線は関鉄観光がやってた時代よりも利用客が多い。 鉾田から茨大行きのバスがなくなって田舎に行くとき不便だわ。
旧旭村だけど大洗鹿島線からはかなり離れてるし。 >>449
茨交51系統は大洗鹿島線開業前は30往復/日あって、2000年代初頭は10往復/日あった。最末期は4往復/日まで減らされた。
支線系統として大洗高校を経由する路線や、大洗駅始発の路線、柏熊からそのまま直進して大竹海岸まで足を延ばす系統(元祖52系統)もあった。
関鉄は内陸の県道114号線を通ってて、大貫行きや、区間便の旭村役場(それ以前は玉田海岸まで足を延ばしていた)造谷経由水戸行きなんかもあった。
大貫行きは最末期は片道1往復、休校日運休まで格下げされた。 >>449
バスあった当時からかなり不便だったと思うが 昭和50年代前半頃の鉾田〜茨大行きは乗り遅れても次を待てばいいって感じだったな。
大竹行きの滝浜新田バス停は樅山三差路を経由せずに手前の横道から国道51号線に入ってた。
その横道に大竹行きのバス停(上下共用?)があって、角材1本が建ってるだけの簡素なものだった。 >>450
最末期は平4回 土3回 休2回
大貫〜鉾田は鹿島軌道とほぼ並行。 バスマガに日本観光バスの北村CCM茨22あ1924 >>453
鹿島軌道の資料に依れば、大貫駅は水浜電車の大貫電停より離れ、鉾田駅は鹿島参宮鉄道の鉾田駅よりそれなりに離れていて不便だったらしい。
鹿島軌道の鉾田駅は現在の鉾田市役所付近にあった模様。 >>211
カンテラバス(貸切格下げ車)か自分は父親の関係で3歳から小5までつくば市に住んで
居たけど、つくば・土浦地区は北関東の街の中でカンテラバスとはほぼ無縁だった
様な気がするな、つくば・土浦地区で唯一関鉄バスのカンテラバスが走ったのは昭和56年〜昭和60年
頃までかな。他の北関東地区の宇都宮・小山・水戸・高崎・前橋に比べて活躍時期が大変
短かかったな。まあカンテラバスと言っても中間扉取り付け改造車だったしな。
まあ救いと言えば国鉄バス土浦営業所所属の71年〜74年式?の観光車がほんの数台所属いたぐらいかな。 JRバスの南筑波線ももう結構経つのな。
もう乗らなくなって10年か。子供ん時から乗ってたから思い出深いわ。
誰か運賃表とか時刻表とか持ってないかな。 >>439
バックで入れるの面倒だろうけど、あれは乗りやすかった
今は初見の人がロータリー端から端まで歩いていたりと 1983年頃の群馬中央バスの伊勢崎営業所のバス路線で太田駅(太田新島車庫)発着路線。
1新島(太田車庫)〜太田駅〜新田〜伊勢崎駅〜駒形〜前橋駅
※太田〜伊勢崎駅の区間便あり。
※1日一便「太田呑竜」経由あり。東武バスとは別位置で、専用の駐車場で車庫から乗車した誘導員がバック誘導。誘導員は途中バス停で下車。
2 新島〜太田駅〜世良田〜伊勢崎駅
※途中で昔の「県道前橋古河線」から外れて世良田へ
3 伊勢崎駅〜新田〜藤阿久〜下浜田〜太田駅入口〜南一番街〜太田駅南口
※平日のみ朝夕1往復。車社会の群馬県でなかったら、太田バイパスを途中からはずれ、関東学園大学や太田商業高校に立ち寄る形で日中も運転していたらと思った。
4 新島車庫〜太田駅〜大間々車庫
午後に一便大間々ゆきがあった。ほぼ、東武桐生線と平行した道路を運転していたはず?
実際私が乗ったのは1だけで、初めての時は運よく、1日一便の太田呑竜、伊勢崎駅、駒形経由 前橋駅ゆきでした。
詳しくご存知の方は御教授ください。 JRバスのつくばセンター〜イオンモール土浦って名残? >>461
新島車庫の跡って今はどうなっているの?
>>464
ageるのもいいけど、些細なことでもいいから話題を書いてよ。 Googleマップの映像で見る限り、群馬中央バスの太田車庫の跡は当時と別の建物が建ってしまったようで、場所がはっきり判らなかった。
太田駅から来て、東武線の新島踏切を渡って、右手にあった。
因みに東武バスは郡中バスの太田車庫のバス停に止まらなかった。
近くのバス停は「新島踏切」
・太田市本町が一方通行だった時代。太田駅行きは、東武バスも郡中バスも一本北側の道路を通っていた。そのコース上に、東武バスのみ停車のバス停(太田駅〜宝町〜尾島三菱電機線)があった。たしか、「太田女子高前」だったような? いつの間にか上信の飯塚車庫も更地になってたんだな
営業所も移転している >>466-467
ありがとうございます。
なんとなくおぼろげながら区画は残っていたのですね。
>>466
太田市本町が一方通行だった時代ってどこからどこまでが一方通行だったんですか?
90年代に出た地図だと、
女子高前〜西中前〜高山神社前〜北裏通〜二丁目
| |
〜六丁目〜〜〜〜〜〜〜〜五丁目〜〜三丁目〜〜二丁目〜〜
|
駅
みたいに書かれていますが、一方通行時代もこのように運行?
東毛に詳しくなくて重ね重ね質問すみません。 >>468
飯塚といえば強烈にぼろい営業所の建物が懐かしい。
一応、この建物は群馬のバス営業所の建物としてはかなりの骨董品レベル、みたいなことを運転士さんがいっていたけれど。 昭和40年頃まで茂木駅と常陸太田駅を国鉄バスが2往復ありました 群馬県太田市本町の昔の一方通行区間は、国道407号線との交差点から(昔は東武線を跨ぐ陸橋があった。)伊勢崎市方向に向かっての一方通行で、本町の商店街の外れまでが一方通行。 >>472 昭和40年代までは、県境越えて走る路線が結構存在してたよね。
確か、茨城交通の水戸〜御前山〜宇都宮線も、昭和40年代後半ぐらいまであったような気がします。 ★群馬県太田市の本町が一方通行時代のバス停。
(東武)東毛病院ゆき、宝団地ゆき、尾島三菱ゆき、太田呑竜経由青年の家ゆぎ
(群馬中央バス)前橋駅ゆき、伊勢崎駅ゆき、大間々ゆき
※いずれも伊勢崎方向に向かって。
太田駅→太田三丁目→太田五丁目(東武の青年の家ゆきと、群中の呑竜経由前橋駅ゆきは右折)→太田六丁目
※太田駅ゆき(東武、群中)
太田六丁目→太田女子高前(東武のみ)→太田病院前→高山神社前→北裏通→太田駅
太田駅方向は大型バスが走ると車道がいっぱいのところがありました。 >>473
茨交の宇都宮行きは昭和54年の廃止、同じ区間を走った国鉄は55年の廃止でした。 なんで北関東の中距離路線バスはこんなに壊滅してしまったんだろう
ま、群馬は論外として宇都宮と水戸市内は結構充実しているのに… 水戸は茨交の天下だし宇都宮も関東自動車の天下
群馬は中小が有りすぎるのも原因かな 鉄道すら乗らない社会でバスなんてますます乗らないよ
大手も運輸局や自治体に金せびってる 群馬県は車社会だから、路線バスが衰退した原因の一つだけど、高崎経済大学の先生が書いた東武バスの本に書いてあるけど、東武バスの担当エリアの東毛地区(館林市、太田市など)の路線廃止は多かった。
群馬県内の路線バスは赤字でも、東武鉄道全体では黒字のために、国から補助金が出ず、群馬県の市町村からの補助金しか出なかった。(当時、バスも東武鉄道直営だった。)
あと、バスのダイヤにも問題があったとか、途中まで同じコースの行き先のバスが続行ダイヤで出ていたとか
前橋駅〜渋川駅〜沼田駅がツーマンバスからワンマンバスにした時に、均等ダイヤが崩れて不便になったとか、路線を途中で分割して乗り換えが必要になり客離れが起きたとか…
ミニ国鉄と言われるように、当時の組合が強くて会社も思うようにできなかった、結果→お客にとっては不便に→減便→路線廃止→子会社や他社に路線移譲で群馬県の路線バス撤退。 >>476
東武バスはかつては水戸・両毛線沿線に中・長距離路線を展開していた。
1980年代半ばまでは水戸から小山まで東武バスだけで乗り継いで行くこともできた。
昭和末期に笠間〜下館が廃止。そして平成6年に笠間が閉所。翌7年には下館も閉所となった。
>>477
水戸は関鉄、宇都宮は東野も乗り入れている。 筑波山シャトルバスが当たりを出さなかったら茨城県南の関鉄は相当壊滅してるんじゃないかな。 関鉄とかガラガラ路線ばかりしか思い浮かばないが
しかも撤退路線数も半端ない 群馬中央バスも大昔は館林市まで行っていたし、東武バスが廃止した東毛地区(太田市、館林市、大泉町)の路線を引き継いでいたら、今太田駅、館林駅、桐生駅からの都市間高速路線バスが開設できたはず。 何年前だか忘れたが玉造駅から土浦駅まで関鉄バス
に乗ったな。今は霞ヶ浦大橋渡る路線は無いのかな?
ついでに言えば歩崎公園の売店で佃煮買いに
田伏行きの(国道経由じゃない方)バス乗ったけど
あの道の狭さは懐かしい ttp://kantetsu.co.jp/green-bus/omnibus/routemap_ishioka20140810.pdf
まだあるけど? >>486
水族館のほう通ってた県道118号経由便は2006年に廃止済
国道354号経由便は2009年に廃止したが、2012年に復活。 >>480
全盛期〜衰退期になるところが
東武のイメージダウンになるから無理。
そもそも調査するのに東武が協力しないと思うよ。 まあでも,東武鉄道が,昔から神奈川中央交通のようにバスだけの会社
だったら,路線規模縮小は避けて通れないけど,もうちょいマシな道が
あったかもしれないな。 >>491
それでも北関東からの撤退は避けきれなかっただろう。 >>456
水戸電気鉄道も戦後まで残ってたら水戸市南部も茨城交通のエリアが広がっていた。 昔の日立電鉄バスで屋根の上というか、側面?
にカバーみたいなの付けて広告載せてたのを覚えてるな。 北村CCM
ttp://blog.livedoor.jp/fusocarol/archives/52436090.html >>416
稲敷市本新のゲートボール場にあった0713か。
現在は撤去済。 >>498
群馬と関鉄だけか。北関東で北村の中型がいた事業者は。
日立電鉄は小型ならいたけど。 >>500
北村のCDMは関鉄に2台しかいなかったよ。 北村のCCMは関鉄では社番0910〜0915,0964〜0968,1029〜1031,1066〜1070,1133〜1137,1159〜1161,1189,1190がいました。
入ってた営業所は主に筑波(つくば北)、水海道など、主に県南県西地区に配置されてました。 >>499
昔はバスの廃車体あちこちあったね。
ラーメン屋に変身した廃車体もあるし。 日立電鉄バスと関鉄にいたサッシ配置が違う川崎CCM初期車も気になった。 >>505 貸切車ならいたなあ 熊谷の車庫で撮影した。 路線バスにもいたと思うんだよな
久下農協前行で乗った記憶が BSI資料館で15年前のつくばのバス路線網が見れる。 >>510
ttp://www.bus-ibaraki.jp/archives/RCtsukuba.html
この当時、谷田部〜筑波線、水海道〜上郷線がすでに休日のみの運行に格下げ。
茨観の上郷線が島名小より先が本数が一気に減る。 >>511
谷田部四つ角〜筑波線
水海道〜上郷線
つくばセンター〜筑波線
水海道〜筑波大学病院線
つくばシャトル
高野〜荒川沖線
手代木団地線
つくばセンター〜栗原〜土浦線
土浦〜上郷線
南筑波線
つくばセンター〜東光台〜石下線
要害住宅線
これだけの路線が14年のうちに消えていった。 茨観って何故つくばセンターに入る路線作らなかったんだろ? >>513 路線が免許制だったころ、つくばセンター関連の路線免許を関鉄が全部押さえてしまったから。 JRバス関東は関鉄と共同運行だから、つくばセンターに入れる。 茨交51系統が廃止になって5年経つけど、今でも鉾田の車庫跡は残ってるんだなぁ。 >>512
高野〜荒川沖線なんか、TX開業まで残ってたら万博記念公園乗り入れとか実現してそうだな。 東武バスが群馬県から撤退するときには、他社も経営が苦しかったから、既存の会社が代替路線として引き受けなかった。
もし、体力があったら前橋駅発着路線は、伊勢崎方面は群馬中央バス、赤城山方面と前橋市内の川原町行きは上毛電鉄バスが引き受けていただろう。
当時、前橋営業所がなかった関越交通は渋川駅ゆきと、南橘団地ゆきの担当に。 >>512
要害住宅はユニークな幕だったな。
谷田部(要害住宅)って幕で。 15年前の茨城県央エリア
石岡 笠間エリア
ttp://www.bus-ibaraki.jp/archives/RCishioka.html
鉾田 小美玉エリア
ttp://www.bus-ibaraki.jp/archives/RChokota.html
まだメロンバス、グリーンバスに分社する前の時代。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています