昔の北関東の路線バス
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昔走っていた北関東(群馬、栃木、茨城)の路線バスについて語るスレです。
なお、東武バス、JRバス関東については専用のスレがありますのでそちらをお使いください。 >>372 写真の東野19号車は、中古で納車当時、東野で唯一の四菱車でした。
次に四菱車が入ったのは、鬼怒川車庫に配属された日本鋼管中古の480号車。
その次は、新車で納車された652世代の4台。
東野交通も東武バスも関東自動車も、当時はカンテラ王国だったな。
関東自動車の佐野なんて、乗合車全部カンテラになってた時期あったし。
当時は日大高校の送迎が主な仕事で、路線なんて静和〜足利、冨岡車庫〜赤見温泉、冨岡車庫〜石塚団地しか無かったからな。
赤見はマイクロ44号車で運行されてたし。
赤見が休廃止になってからは、完全なカンテラ王国だったからな。
その後、321号車が入って唯一の路線仕様の車両だった。 >>371の続き
しかもK-代当時のいすゞは2本スポーク+丸形センターパッドのハンドルが標準なのにこの都営中古は1世代前の3本スポークハンドルが付いていた。
(CLM+3Eは神峰の他高萩にもあったから計2台。スマソ) >>353
見川線は一度路線休止したな。
偕楽園の駐車場から曲がって徳川博物館の前を通って行くルートでオートのタクシーのあるとこで折り返していた。
晩年は休日のみ運行で地元民からも存在感が薄かった。
他に今年廃止になった。吉沢車庫〜畑中〜新道払沢〜水戸駅線も一度休止している。
ここはみなみ団地経由ができる前は1時間に2〜3本運行していた。 >>375
そういうのが所謂「免許維持路線」だったのかな?
日立電鉄でいえば既に廃止された15系統「日立駅−旧国道−南高野団地」線も10系統水戸線が廃止されてからは一日1往復の状態が続いて終いには21系統(起終点が同一の大学通り経由)に吸収された。 >>375
畑中経由吉沢線は植物公園線の区間便として運用されてたな。
もっと前は鉾田営業所も1便担当していた。
他に関鉄水戸管内では10年くらい前までは御茶園循環、水戸駅南口経由柏渕、古宿経由吉沢車庫(払沢線の延長線)、中石崎(けやき台団地の延長線)、中山行きなんかもあった。 日立電鉄は朝晩の工場輸送に強みがあったけど、南営管轄ではここ10〜15年の間に
32系統 神峰営−塙山−大甕工場
37系統 日立駅−中央線−大甕工場
38系統 神峰営−海岸−大沼工場
がなくなっちゃったなぁ(これらは30又は35系統に吸収)。
後、中型専用の24系統・多賀駅−久慈割山線も(これには水戸22あ、の一桁ナンバー車がよく充てられた)。 >>335
昔(1980年代)そのバスに乗って通学していた。
廃止直前期に乗ったら、運転手が経路間違えて運転していたので、オタ席から正しい道順を案内したことも、今となってはいい思いです。 茨城交通が、水戸駅〜宇都宮東武まで走ってたのは、昭和何年までですか?
40年代ってのは聞いたことあるけど、詳細が解らないもので。
ちなみに経路は、水戸駅〜野口までは、現在の経路と同じかな? >>380
54年。
北関東ライナー開設時に水戸と宇都宮は30年ぶりに繋がった。 こうやって見ると懐かしい顔ぶれがいっぱいだなぁ。
ttp://blog.goo.ne.jp/yoichiro1221_train223kei/e/1b274594a011b16718f7eec6af8e8a66
>>382
>>73に書いてある。
水戸200か・・19〜30が元土浦にいた貸切車。 >>382-383
神立とは言っても旧・千代田町(現在のかすみがうら市)だけどね。 >>383
勘助行きとか懐かしいな。
昔はそれよりも先にも行ってた。
水海道の万博車は幕回してると既に廃止になった路線とか色々と出てきた。
「平松」「一言主神社」「筑波駅」「石下駅」
などの幕もあった。
水海道〜守谷〜取手線は294号を外れて野々井の集落の道を走っていたな。
この集落の道が狭くて中型限定運用だった。 最後の万博車がまだ割と残っていて、土浦には元内陸の長尺車がゴロゴロ。
もう10年になるのか。 土浦市教育委員会の昔のバスってどんなバスでしたか? 日立電鉄には万博車はなかったけど茨交の万博車は三菱こそなかったものの、他3メーカーの富士重工車があり、日野富士を最初に見たのも万博車だったな。 >>381 有難う御座います。
54年まであったんですね。
水戸〜宇都宮とか、高速バス以外では長い距離走る路線バスだと思いました。 茂木まで繋がってる頃なら宇都宮まで乗り継ぎできたよ。 >>393 長倉から茂木の区間、バス走ってましたっけ? 6年半前までは、水戸→石塚→茂木
と乗り継いで行けた。
石塚→茂木はRB専属路線。 >>395 水戸から宇都宮が走ってた頃、水戸から茂木までは、そのルート走ってたのかな? >>397
レインボーだが車格的にはリエッセの前モデルに当たる。 どーもスレ的に日野RBっつーとREの前世代を思い出すw >>396
宇都宮まで繋がってたのは御前山回るルート。
石塚〜茂木線はローカル線
その前には友部〜笠間〜茂木線もあった。
95年に笠間〜茂木が廃止になって、08年に笠間〜友部が廃止。
笠間〜茂木は焼き物ライナーで復活。 >>400 焼き物ライナーって、路線定期運行なんですか? 茂木〜塩子線で使われてたレインボー、廃車になってからミャンマー入りしただろ?
ミャンマーで走ってる写真あったし。 >>400
水都西線が長倉まで来ていた。
その後茂木まで短縮。 9年前にローカル路線バス乗り継ぎの旅があったらルイルイ&蛭子は太田〜東館に乗って白河まで1日早く到達できただろうに。 >>403
一往復だけ間合いで益子笠間の間を走るバスがあるよ 水戸ナンバーでの最若番
日立電鉄 水戸22あ・・・1
茨城交通 水戸22あ・・・7(茨城オート 3213R 茨交単体では水戸22あ・・31)
関東鉄道 水戸22あ・・10(社番0980)
因みに水戸200かだと
日立電鉄 水戸200か・・・9(元都営RJ)
茨城交通 水戸200か・・11(元都営RJ)
関東鉄道 水戸200か・・14(社番1787(貸切)。一般路線だと水戸200か・・48(社番9134)が最若番) >>407
オートは水戸22あ…8もいたな。
78年式の日野RE
水戸22時代はずっと日野に拘ってきた。
1999年に都営からいすゞのLV(水戸200か34/35)が入って日野体制が崩れた。
オート最晩年は水戸〜桜川車庫及び岩間街道沿いのエリアと赤塚南口発着路線、岩間〜奥ノ谷しか路線が無かったが、
全盛期は友部〜住吉新宿〜岩間〜羽鳥駅〜石岡駅
の路線があった(国鉄も同じ路線があったが、友部付近はオートと国鉄でルートが異なってた)。 茨交浜田の水戸22あ・907
日デスペースドリーム
茨交唯一のダブルデッカー
この型式は全国でも10台くらいしか無かった模様。 >>409
つくば科学万博の頃だね。
関鉄、茨交、電鉄、茨観、国鉄と軒並み新車購入していたな。
東武も埼玉の営業所配置だが境常駐扱いで土浦ナンバーで新車購入していた。万博終了後に大宮ナンバーに変更されたが。 >>409
これか。
ttp://blogs.yahoo.co.jp/mohane5812001/49634276.html
>>410
土浦22あ・600番台はほとんどが連節バス。 万博のボルボ、100台近く購入していたな。
万博中央〜会場をピストン輸送していた。 栃木22う…1は関東自動車の元神奈中
因みに東野の栃木22うの最若番は栃木22う…8 >>49
廃ビスカスのサイトにはこの0922より古い年代の関東鉄道バスの貸切車の廃車体がある。
旧東町地内にあった模様。 北関東でトップナンバーと言えばJRバス関東の土浦22あ…1
BUなのにフロントスタイルがCJMだった >>414
これか。
ttp://www2.tok2.com/home/alfaromeo75ibaraki/haisyalist044.htm
大室にあった0922より状態がいいね。 0922は77年式の貸切車。
谷田部の川重CCMの0909や水戸の北村CCMの0915と同期。 0909がいたのは今は亡き田伏。
谷田部にいたのは0906と0907。
田伏も閉鎖して間もない頃に行ったが、あそこだけ昭和時代にタイムスリップした感があった。 >>387 それってさ、確か常総学院バスに、譲渡されたやつの車体か? 先日波崎の1743がわずか15年で廃車になったが、その前の1469も15年で廃車。
更にその昔の1331は14年で廃車になった。
LVなんかは末期の頃は塩害で塗装が剥げて錆が出ていたな。 >>420
土浦市教育委員会→常総学院は無いんじゃないかな。 >>413 8は、末期は杉山に配属されてたな。
関東自動車の5が梁瀬で、6が鹿沼で7が栃木にあったな。
5は、最初は駒生だったが、すぐに梁瀬に転属になった。
駒生では、15:30頃に駒生を発車する、宇都宮駅を経由しない珍しい系統の県河内庁舎行きによく使用されてた。 >>421
はさき号用の高速バスの1748HSも錆が出ていたな。 >>421
鹿島地区の関鉄で長持ちしたのは社番1220IT(水戸200か・176)が最長じゃないか。
塩害で錆といったら、だいぶ昔、鹿島のBU社番0851(茨22あ1639→水戸22あ・・23)が晩年他の営業所に転属したが錆が目立って使い物にならなかったというのを聞いた。
他にも波崎のBUの社番0863(茨22あ1682→水戸22あ・609→土浦22あ1050)も、晩年土浦に転属したが土浦ではほぼ特定運用だった。 >>425
0863の波崎移動はメロンCDMとオートの行灯とほぼ同期で、土浦転出は88年式IKが入ったのとほぼ同期か。
そういえばオートの行灯RJも廃車後しばらく鯉渕に留置されていたね。
旧カラー時代のスケルトン見つけた。
ttp://busmania.exblog.jp/page/130/ >>423
主要駅不経由便なら一部が水戸駅を経由しなかった茨交33系統もあった。 某ツイッターに関東鉄道バス 社番0609の廃車体の画像あり。 >>426
そう。
このあたりだと、水戸22あ・603が鉾田のBU10(社番0806、元茨22あ1503)で、・605が鉾田のCDM(社番1222)
・607と・608が波崎のRJ(社番1230,1231)だった。
その後・611〜・613と水戸にCDMが入っている(社番1217〜1219)。
>>429
0609とはまた古いな。
高浜のやつと同期に入ったやつかな。 >>66
亀レスだが、栃22は1827で終わり。
関東自動車の神奈中古のK-CJM500(川重)だった。
栃木22は1215で終わり。
関東自動車のハマ中古のブルリだった。
栃木200は40で終わり。
関東自動車の川崎市営中古の富士5EのLVだった。 PC守谷〜北柏線も関鉄と東武が共同運行していた頃は便利だったなぁ。
利用客もそこそこいたし。 昔は関鉄RG車も18系統に入ってたんだな。
ttp://busstructure.sakura.ne.jp/%20kantetsu/allkantetsuphotoRG.html
茨観車にTR管轄の幕が入ってるのは見たけど。 路線バスの旅、20年前にやってたら水戸→日立もあったかもね。 >>436
石岡→水戸→日立→高萩…ってね。
けど県境で途切れると思われ…
日立駅のバック式のバス停も懐かしいなぁ。 >>437
懐かしい!
バックの時に誘導してくれるおじさんがいて待合室があって
駅横にドムドムバーガーがあってw >>438
あそこには12レーンあって、誘導員のおじさんもバスを見ただけでどのレーンに入れるか一目で解るのも凄い。
待合室でのおじさんと運転手との一服会話も懐かしいなぁ。 今年は取手〜天王台〜我孫子線、竜ヶ崎〜利根ニュータウン〜布佐線廃止から10年。 >>422 初期の頃の常総学院バスは、凄かったよ。 >>438
ドムドムバーガーならば、水戸にもJTBビルのとこに昔あったわw 前橋のバスロケーションシステムが廃止になって何年経つんだろ?
今、運用しているところも廃止すればだいぶ経費削減できるんだろな >>440
取手〜天王台〜我孫子線は末端の天王台〜我孫子間の利用が多かったんだよな。
廃止が決まった時に天王台〜我孫子だけでも残したほうが良かったんじゃないのかという意見も多数あった。 >>443
撤去費用も膨大でもうあるがままに、なんじゃないの? >>444
その路線、確かに苦しい状態だったけど、ボロボロな茨城の一般路線バスの方ではそこそこまともだったと思うのだけどね。
末端区間は本当によく乗っていたことを思えば残しておけばよかったようなものを。 >>446
最末期は排ガス規制の関係で入る車も限定されてた。
最終日の最終運行便は我孫子〜天王台間で20人強の利用があったらしい。 廃止路線を再開した関鉄グリーンバスの玉造〜土浦線は関鉄観光がやってた時代よりも利用客が多い。 鉾田から茨大行きのバスがなくなって田舎に行くとき不便だわ。
旧旭村だけど大洗鹿島線からはかなり離れてるし。 >>449
茨交51系統は大洗鹿島線開業前は30往復/日あって、2000年代初頭は10往復/日あった。最末期は4往復/日まで減らされた。
支線系統として大洗高校を経由する路線や、大洗駅始発の路線、柏熊からそのまま直進して大竹海岸まで足を延ばす系統(元祖52系統)もあった。
関鉄は内陸の県道114号線を通ってて、大貫行きや、区間便の旭村役場(それ以前は玉田海岸まで足を延ばしていた)造谷経由水戸行きなんかもあった。
大貫行きは最末期は片道1往復、休校日運休まで格下げされた。 >>449
バスあった当時からかなり不便だったと思うが 昭和50年代前半頃の鉾田〜茨大行きは乗り遅れても次を待てばいいって感じだったな。
大竹行きの滝浜新田バス停は樅山三差路を経由せずに手前の横道から国道51号線に入ってた。
その横道に大竹行きのバス停(上下共用?)があって、角材1本が建ってるだけの簡素なものだった。 >>450
最末期は平4回 土3回 休2回
大貫〜鉾田は鹿島軌道とほぼ並行。 バスマガに日本観光バスの北村CCM茨22あ1924 >>453
鹿島軌道の資料に依れば、大貫駅は水浜電車の大貫電停より離れ、鉾田駅は鹿島参宮鉄道の鉾田駅よりそれなりに離れていて不便だったらしい。
鹿島軌道の鉾田駅は現在の鉾田市役所付近にあった模様。 >>211
カンテラバス(貸切格下げ車)か自分は父親の関係で3歳から小5までつくば市に住んで
居たけど、つくば・土浦地区は北関東の街の中でカンテラバスとはほぼ無縁だった
様な気がするな、つくば・土浦地区で唯一関鉄バスのカンテラバスが走ったのは昭和56年〜昭和60年
頃までかな。他の北関東地区の宇都宮・小山・水戸・高崎・前橋に比べて活躍時期が大変
短かかったな。まあカンテラバスと言っても中間扉取り付け改造車だったしな。
まあ救いと言えば国鉄バス土浦営業所所属の71年〜74年式?の観光車がほんの数台所属いたぐらいかな。 JRバスの南筑波線ももう結構経つのな。
もう乗らなくなって10年か。子供ん時から乗ってたから思い出深いわ。
誰か運賃表とか時刻表とか持ってないかな。 >>439
バックで入れるの面倒だろうけど、あれは乗りやすかった
今は初見の人がロータリー端から端まで歩いていたりと 1983年頃の群馬中央バスの伊勢崎営業所のバス路線で太田駅(太田新島車庫)発着路線。
1新島(太田車庫)〜太田駅〜新田〜伊勢崎駅〜駒形〜前橋駅
※太田〜伊勢崎駅の区間便あり。
※1日一便「太田呑竜」経由あり。東武バスとは別位置で、専用の駐車場で車庫から乗車した誘導員がバック誘導。誘導員は途中バス停で下車。
2 新島〜太田駅〜世良田〜伊勢崎駅
※途中で昔の「県道前橋古河線」から外れて世良田へ
3 伊勢崎駅〜新田〜藤阿久〜下浜田〜太田駅入口〜南一番街〜太田駅南口
※平日のみ朝夕1往復。車社会の群馬県でなかったら、太田バイパスを途中からはずれ、関東学園大学や太田商業高校に立ち寄る形で日中も運転していたらと思った。
4 新島車庫〜太田駅〜大間々車庫
午後に一便大間々ゆきがあった。ほぼ、東武桐生線と平行した道路を運転していたはず?
実際私が乗ったのは1だけで、初めての時は運よく、1日一便の太田呑竜、伊勢崎駅、駒形経由 前橋駅ゆきでした。
詳しくご存知の方は御教授ください。 JRバスのつくばセンター〜イオンモール土浦って名残? >>461
新島車庫の跡って今はどうなっているの?
>>464
ageるのもいいけど、些細なことでもいいから話題を書いてよ。 Googleマップの映像で見る限り、群馬中央バスの太田車庫の跡は当時と別の建物が建ってしまったようで、場所がはっきり判らなかった。
太田駅から来て、東武線の新島踏切を渡って、右手にあった。
因みに東武バスは郡中バスの太田車庫のバス停に止まらなかった。
近くのバス停は「新島踏切」
・太田市本町が一方通行だった時代。太田駅行きは、東武バスも郡中バスも一本北側の道路を通っていた。そのコース上に、東武バスのみ停車のバス停(太田駅〜宝町〜尾島三菱電機線)があった。たしか、「太田女子高前」だったような? いつの間にか上信の飯塚車庫も更地になってたんだな
営業所も移転している >>466-467
ありがとうございます。
なんとなくおぼろげながら区画は残っていたのですね。
>>466
太田市本町が一方通行だった時代ってどこからどこまでが一方通行だったんですか?
90年代に出た地図だと、
女子高前〜西中前〜高山神社前〜北裏通〜二丁目
| |
〜六丁目〜〜〜〜〜〜〜〜五丁目〜〜三丁目〜〜二丁目〜〜
|
駅
みたいに書かれていますが、一方通行時代もこのように運行?
東毛に詳しくなくて重ね重ね質問すみません。 >>468
飯塚といえば強烈にぼろい営業所の建物が懐かしい。
一応、この建物は群馬のバス営業所の建物としてはかなりの骨董品レベル、みたいなことを運転士さんがいっていたけれど。 昭和40年頃まで茂木駅と常陸太田駅を国鉄バスが2往復ありました 群馬県太田市本町の昔の一方通行区間は、国道407号線との交差点から(昔は東武線を跨ぐ陸橋があった。)伊勢崎市方向に向かっての一方通行で、本町の商店街の外れまでが一方通行。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています