それと一つ勘違い?している印象があるので書くが、
基本、江戸時代〜昭和の前半までの間で手や空手の駿練に励んでいた沖縄の人間達で
素手で最強を求めていた人達は殆どいなかっただろう。
あくまでも自分の身を守る為の護身が中心である。
当たり前だが、本気で戦いを生業にするのであればそれは貴方が言う通り武器術の駿練を中心にする。
それこそ、沖縄には木製の小さな武器の類も多く残っているいるので、それらが流行った筈だ。
けれど、決してそれらが当時の手の修行者達の間で中心になって普及した形跡は見られないのは、
やはり命の取り合いがけして当時の琉球民達にとってもそこまで身近では無かったからだろう。

例えばアメリカやメキシコでは護身を考えた場合基本は銃等の武器になっていく。
素手の技術はそれを補完するポジションになるが、
日本ならば空手や柔道の技術だけでも十分な護身術として成立する。
治安の度合い、また戦争が起こるかどうかで、護身術に求められる基準が変わる。
当時の琉球の庶民達にとっては基本は素手での徒手格闘の技術があれば、身を守る事がある程度成立した。
その中でも血の気が多かった若者達が腕比べをしていたケースがある。
その代表格の1人が有名な本部朝基となるが、そういう人間達も確かにいた。
けれど彼らも別に素手での最強を求めていた訳ではないだろ。

素手での最強幻想が生まれたのがやはり戦後の空手バカ一代等の劇画の影響だろう。
あれで確かに空手の人気は上がったが同時の大きく歪みもした。
そしてその影響は沖縄にまである程度及んだ。