>>704
良い着眼点だと思う。
自分も昔はその部分に疑問に感じていた。
通説として「空手は当時の武器を取り上げられた琉球民達が素手で薩摩侍への対抗手段として作られた」という話があるが、これは詳しい人達ならみな知っていると思うが後から作られた創作の説である。
当時、本土でも恐れられていた示現流を嗜んでいる薩摩侍達に素手で挑むのはどう考えても無謀である。
本気で対抗するのを考えていたのならどう考えても素手よりも棒やエークや鎌やトンファー等木製で当時の農民や漁民達でも入手しやすい武器術を徹底的に磨いた方が有効である。
だが、これらの武器術の中で当時の手の修行者達の間で広く広まっている武器術は確認できる限りでは棒だけである。
それ以外は地域限定として広まっていた。
というレベル。

では、何故棒術以外の武器術よりも素手での技術が広まっていたかといえば、結果的に当時の沖縄は平和だったからという結論になる。
より正確には当時の琉球王国では薩摩と戦争をすれば九分九厘負ける結果になるから結果的に平和な期間が長かったから。

これは、琉球だけにみられる現象ではなく本土でも中国でも同じ現象がみられる。
平和な期間が長くなれば武器を使っての殺し合いよりも素手での格闘の方が庶民には一般的になるので、
必然的に庶民の間では武器術よりも素手での格闘術の方の人気が上がる。
元々、素手での手は本土の武術と同じで、本来武器の手を補完する技術であったと推測出来る。(ここは明確に断言出来る資料は無いが古い手の名人達は全員当時の武士なのでそこから推察出来る)
それが平和な時代になる事で、武器術よりも素手の技術の方が広まった。
これが自分の中での一つの結論である。
ただ、棒術だけは当時の多くの手の修行者達の間でも素手と両立して学ぶ武器術の代表格だったのはいくつもの例で確認できる。(それ以外の武器術はその地域限定だったり、個人で研究されていたので一般的という範疇からは省かせていただく)