<塩田剛三は合気道でなく合気柔術です>
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べつに合気道で強くなったわけじゃないのに、勘違いしてる人おおくね? だからなんだ?
塩田館長の口から合気道って言ってる以上は合気道だろ
その理屈だと植芝盛平も合気柔術じゃん 思考放棄でなく信頼
館長が合気道と名乗るからには何か名乗る理由があるはず
合気柔術のままでいいならばなぜわざわざ名前を変えたんだ? >>6 >>8
植芝先生がそう名乗ったから
そのまま受け継いだんじゃないですかね?
大東流しか知らない部外者の憶測ですが
本や動画で確認した処
大東流合気柔術とは確かに基盤は同じと言えど
全然違う事をしておられる様に
見受けられるものでして
難しい修行や技や危険な要素を省いて
誰にも身に付けやすくして
対立しない思想で作り直したと見れば
合気道は素晴らしく良く出来てると思いますけどね
それで、自分を殺しに来た敵と友達になることが奥義だと
それを目指すのが奥義だと言えてしまいそんな生き方を選ぼうとし、
本当にそんな風に現実を生きて行けるのならまさに理想通りでしょう >>1
>塩田剛三は合気道ではなく合気柔術
合気道もマスターしつつ大東流という合気柔術も修めているので正しい。
>合気道で強くなったわけじゃない
堀川に合気教わるまでは一般人レベルだったかというとそんなわけないので>>1が勘違いしている。 >>10
合気道側の視点から見ると、塩田剛三の動きは何か合気道と違うような… 合気道だけの頃に金魚に教わって強くなってるから
変態的身体能力を独自に持っている >>12
60代前半の動画が無くて
後半に公開し始めてから今のスタイルになっていた
合気柔術の合気を堀川の所で習って
それで崩して合気道の技をかける独自のスタイルになった 塩田は合気道とは別に合気柔術を習っていたが塩田は弟子に合気道を教えたが
合気柔術は教えなかった 外見まで剛三にそっくりな先生は
ほぼ、同じ技使えるようだけど >>15
えっ、何ていう名前の合気柔術を習っていたの? どうだろうね〜
まず>>17の質問に答えてもらわないとな〜 物知らずが煽って知識を引き出そうとする姿って見苦しくて嫌だな 物知らずが煽って知識を引き出そうとする姿って見苦しくて嫌だな 物知らずが煽って知識を引き出そうとする姿って見苦しくて嫌だな >>26-28
同感ですね
で、具体的に誰のことを言っているのですか? 戦後の合気会はGHQの圧力でわざと緩くしたんだよ
それは植芝盛平がC級戦犯だったからだ 植芝盛平は柔道6年やってた
大東流は3か月ぐらいしかやってない 植芝は合気会の宗家
塩田は養神館の宗家
どちらも大東流は名乗ってないよ 惣角は大東流合気柔術の「三十五代 総務長」を名乗り、自らを「宗家」とは名乗らなかった。
「宗家(家元)」を名乗らなかった理由として考えられるのは、
@大東流が流儀として家元制度を採用していなかった。
A自分以外に大東流「宗家」がいた。
B惣角が「宗家を名乗る事によって生じる不都合」を排除したかった。 大東流って詐称流派だったんじゃねーの
清原氏とか平家と弓矢で戦ってた源氏が柔術使うのは考えられない
嘘なんじゃね? 植芝盛平は大東流が詐称流派な事に気づいてた可能性がある
やたら柳生を強調してたらしい ただの捕手術だと思う
合気は大本の出口王仁三郎が適当に名前つけただけだよ
源氏とか甲斐武田氏とかは嘘だと思う 大東流は竹内流とか本覚克己流のパクリだと思うんだよな
技が似すぎなんだよ 会津藩に伝承された証拠も発見されたし
武田の伝承筋も明らかになって
武田の言ってたことは正しかったって出て来たのに
お前ら今更何言ってんだ?
10年以上前で時が止まってるのか? 会津藩は1864年の蛤御門の変で銃を使ってたよ
だから会津藩に柔術なんか存在してないよ >>45
>会津藩に伝承された証拠も発見されたし
>武田の伝承筋も明らかになって
へ〜、発見されたんだ。その証拠ってなに? 会津藩はゲベール銃を使ってた
西洋の軍事知識が乏しかった購入担当者が、武器商人に騙され、ミニエー銃より劣るゲベール銃を売られるというケースが少なからずあったようです。 >>25
そういや合気会にも
開祖そっくりの白ヒゲの爺様居たけど存命だろうか 確かに塩田剛三が学んだのは大東流合気柔術
何故なら、ついて学んだ植芝盛平が当時は大東流の武田総角の教授代理をしてたから
その後、植芝は武田から離れてやがて合気道を名乗りだす
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