【合気道】塩田将大【養神館塩田剛三の孫】 6
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新作おめでとうございます。
ほんじつ胸の着衣で倒す技について問われましたが、意外にもできる技だというのが余り知れ渡っていない様子でした。 塩田ご令孫
(「ごれいそん」と読み
お孫さんの意味
要するに塩田将大の事です)
東京理科大のご出身なんですね。
優秀 Σ(・ω・`)
それなら
科学的思考がお出来になるでしょう。
技を工夫する才能も
これから開花が期待される o( ’∀ ’)o
なお
大東流の佐川幸義は
東京物理学校という
東京理科大の前身のご出身。
て事は塩田ご令孫
佐川幸義の後輩なんだ ヽ(゚∀゚ )ノ 意外な関係ですね。
ここの関連門派は理系と相性が好いのかも。
戦前の拓殖大はエリート校だったそうですし、知的思考が斯界のベースとなり得るのでしょうね。
>>4
持ち返さずに腋やカラーのみで施技する返し技です。
中央にそういう人を1人置いて、傍らの計2人をぶつけて3人倒すトリックを用いられる方もいらっしゃいますね。 >>6
そう云えば塩田剛三の父君も
医師でしたね。 云われてみればそうでした。
やはり基礎的な人体知が、理系的ロジックと合わさって機能していた可能性が大きいですね。 >>8
父君の塩田清一は
どちらの大学を出られたんでしょうね?
新宿で開業なさってたんで
同地の東京医大の前身
日本医学専門学校(現
日本医科大学)あたりかな・・・・ この度、和歌山県の新・田辺市立武道館に、田辺市出身の武道家で合気道の開祖として知られる
植芝盛平の記念館が併設されるとの事で、
本来ならお祝いを述べるべき所ではあるが、私は敢えて異論を差し挟むものである。
一般的に合気は、植芝盛平が創始したと言われているが、本当の所は、
植芝の師匠である大東流合気柔術の武田惣角先生が、明治から昭和の戦時中に掛けて、
全国を巡回指導して普及したものである。
https://www.aikidosangenkai.org/blog/images/2013-05/ueshiba-kyoju-dairi.jpg
大東流合気柔術の入門帳
「英名録」中の植芝盛平の署名捺印
武田大先生に就き、大東流合気柔術 云々 御教授相受候也 と読める
この大東流合気柔術独特の合気とは、相手の力を抜く技術の事で、合気之術とも呼ばれるが、
習得が難しく、植芝盛平を始めとした合気道の師範、有段者は一人として体現出来る者は無く、
源流の大東流合気柔術の師範、修行者らが伝えているのみである。
これまで私が大東流合気柔術の稽古を続ける中で、所謂、植芝盛平以降の合気道の各会派の師範、
有段者の相手をした事が数多あるが、これが全くと言って良いくらいに
合気道の技は私に通用しないばかりか、
私の拙い大東流合気柔術の合気之術で尽く叩き付けられ、這々の体で逃げ帰っているのが常である。
異論がある方には、いつでもお相手を致す用意がある。
http://webhiden.jp/guide/detail/post_459.php
なぜ、武田惣角先生の大東流合気柔術から離反した植芝盛平の合気道の技は、合気道の内輪の者にしか通用せず、
私には通用しないばかりか、私の拙い大東流合気柔術で尽く叩き付けられるのか?
答えは簡単、合気道はカタチを大東流合気柔術からパクっただけで、
肝心要の合気の技術、即ち合気之術が全く無いからである。
武田惣角先生は、植芝盛平の技を評して、「植芝には若干教えたが、とても人に教える所の話ではなく、
折角、習わんとするに偽の合気では困る。」と仰ったそうである。
合気之術が出来ないのに、合気道を名乗るのは言語道断であり、況してや創始者、
開祖などと言うのは噴飯物であり、大東流合気柔術の人達の間では、
植芝盛平を大法螺吹きだのペテン師だのと言っていたのである。
植芝盛平自身、自分の武道は、古来から伝えられた合気之術とは違うだの、合気は愛なり、
合気は宇宙の中心と一体になる事などと嘯いていたそうだ。
ならば、合気の名称は用いるべきではないのだし、合気道ではなく、愛の道だとか、
カニ風味カマボコのように合気風味道だとか、或いはガンモドキのように、
合気モドキ道だとか、別の名称を用いるべきではないだろうか。 >>9
時の加藤海軍大将が顧客でしたので、海軍系の慈恵医大だったかも判りませんね。
塩田氏が(今や黒歴史として?)笹川氏と接近したのも、児玉氏を介して笹川氏と関わりが有ったとも云える頭山氏が塩田清一氏の顧客だったからなのかなと論察していたりします。。
>>10
まあとりあえず前回のスレッドを轍を踏まないように、もう若干サイズを削りましょう。
冒頭の3行程度で論旨は伝わるかと思われますよ。 この度、和歌山県の新・田辺市立武道館に、田辺市出身の武道家で合気道の開祖として知られる
植芝盛平の記念館が併設されるとの事で、
本来ならお祝いを述べるべき所ではあるが、私は敢えて異論を差し挟むものである。
一般的に合気は、植芝盛平が創始したと言われているが、本当の所は、
植芝の師匠である大東流合気柔術の武田惣角先生が、明治から昭和の戦時中に掛けて、
全国を巡回指導して普及したものである。
https://www.aikidosangenkai.org/blog/images/2013-05/ueshiba-kyoju-dairi.jpg
大東流合気柔術の入門帳
「英名録」中の植芝盛平の署名捺印
武田大先生に就き、大東流合気柔術 云々 御教授相受候也 と読める
この大東流合気柔術独特の合気とは、相手の力を抜く技術の事で、合気之術とも呼ばれるが、
習得が難しく、植芝盛平を始めとした合気道の師範、有段者は一人として体現出来る者は無く、
源流の大東流合気柔術の師範、修行者らが伝えているのみである。
これまで私が大東流合気柔術の稽古を続ける中で、所謂、植芝盛平以降の合気道の各会派の師範、
有段者の相手をした事が数多あるが、これが全くと言って良いくらいに
合気道の技は私に通用しないばかりか、
私の拙い大東流合気柔術の合気之術で尽く叩き付けられ、這々の体で逃げ帰っているのが常である。
異論がある方には、いつでもお相手を致す用意がある。
http://webhiden.jp/guide/detail/post_459.php
なぜ、武田惣角先生の大東流合気柔術から離反した植芝盛平の合気道の技は、合気道の内輪の者にしか通用せず、
私には通用しないばかりか、私の拙い大東流合気柔術で尽く叩き付けられるのか?
答えは簡単、合気道はカタチを大東流合気柔術からパクっただけで、
肝心要の合気の技術、即ち合気之術が全く無いからである。
武田惣角先生は、植芝盛平の技を評して、「植芝には若干教えたが、とても人に教える所の話ではなく、
折角、習わんとするに偽の合気では困る。」と仰ったそうである。
合気之術が出来ないのに、合気道を名乗るのは言語道断であり、況してや創始者、
開祖などと言うのは噴飯物であり、大東流合気柔術の人達の間では、
植芝盛平を大法螺吹きだのペテン師だのと言っていたのである。
植芝盛平自身、自分の武道は、古来から伝えられた合気之術とは違うだの、合気は愛なり、
合気は宇宙の中心と一体になる事などと嘯いていたそうだ。
ならば、合気の名称は用いるべきではないのだし、合気道ではなく、愛の道だとか、
カニ風味カマボコのように合気風味道だとか、或いはガンモドキのように、
合気モドキ道だとか、別の名称を用いるべきではないだろうか。 >>11
なるほど
慈恵医大の可能性もありますか。
・・・・気になるのは
清一医師が
柔道と剣道の町道場(これが養神館)を
ひらいてもいた点です。
つまり腕に覚えがあったという事。
柔道部を基準にするなら
慈恵医大よりも
明らかに日本医科大のほうが
強いのです。
なので日医大かと思ったのですが・・・・
まあ部の強さは
あくまで私の時代の話ですけどね。
私事ですが
日本医科大のブログにあたったら
私が学生時代に交流した事のある
一コ上のかたの記事が出てきました。
http://blog.livedoor.jp/nihon_med_judo/archives/50148330.html
同じ60kg級
大学はちがえど
このかたの創意工夫に
好い影響を頂いたものです。 連投すみません <(_ _)>
塩田剛三の
この動画初めて観ました。
https://youtu.be/cy--WZQ-JgE?t=283
最後の海外演武だそうです。 >>13
競技力の観点は面白いですね。
私には無かった着想です。
チームの歴史は慈恵が古い様子ですが、まあどういう影響関係が有ったかが重要ですからね。
特徴的な気風と人脈がどのように形成されたのか。。
ちなみにうがった見方をしますと、塩田氏がここの門派と接触したのも、清一氏の顧客だった頭山氏が出口氏とつながっていた筋からなのではないかと。
細密な真相も、もし今上塩田氏がご存じなら明かしていただきたいところだったりしますね。
>>14
やはり初見で離れない技は難しいのかな。。
映像の中盤で明らかに俯せの方が一度腕を離してから形に戻していますし。。 こちらの場面です。
↓
https://youtu.be/cy--WZQ-JgE?t=635
↑
たぶん平生から、離さないようにとする不文律が内在していたのでないかと。。 >>15
>>17
ほんとだ
離してから戻してる (´・ω・) ・・・・
まあ
全部が全部
実際にお出来になる技を見せてたわけじゃなく
こういった「演武」も
所々混ぜるかただったんでしょうね。 実はあの形で俯せにしてピンするほうが、冒頭の小手捻りで片手で固めるよりもかなり難度が下がりますからね。
示指に胸でプレッシャーがかけられますので、場合によっては手をほとんど外して腋に添える程度で固定できかねない。
それで対手の手が外れていますし、冒頭はやはり表現の範疇だったのかなと思いました。
ただもちろん非常に斬新なアイディアに満ちた施技の数々は、ちょっとやそっとでは余人が及ばない体用が込められていそうですね。 >>17 >>18
大東流の立場で言わせてもらうけど
君達、合気を掛けられたことないの?
あれは合気を掛けて外れたから塩田さんが掛け直してるんじゃないのかい?
そうするとあー云う反応になる
俯せの人が一度腕を離してから、形を戻してるんじゃないと思うんだけど?
何度か合気を掛けられる経験を持ってれば解る筈だけど?
合気道にも合気揚げはあるんだよね?
合気揚げだけでもいいから
合気を掛けたり外したりを繰り返してごらんよ
言ってることが分かるから。 >>20
なるほど。
そういった見方も有るのですね。
ただあの場面で技を掛けるなら肘に手を添え直すような気もします。
腋はあくまで胸で固めるときの専用かなとも。 この度、和歌山県の新・田辺市立武道館に、田辺市出身の武道家で合気道の開祖として知られる
植芝盛平の記念館が併設されるとの事で、
本来ならお祝いを述べるべき所ではあるが、私は敢えて異論を差し挟むものである。
一般的に合気は、植芝盛平が創始したと言われているが、本当の所は、
植芝の師匠である大東流合気柔術の武田惣角先生が、明治から昭和の戦時中に掛けて、
全国を巡回指導して普及したものである。
https://www.aikidosangenkai.org/blog/images/2013-05/ueshiba-kyoju-dairi.jpg
大東流合気柔術の入門帳
「英名録」中の植芝盛平の署名捺印
武田大先生に就き、大東流合気柔術 云々 御教授相受候也 と読める
この大東流合気柔術独特の合気とは、相手の力を抜く技術の事で、合気之術とも呼ばれるが、
習得が難しく、植芝盛平を始めとした合気道の師範、有段者は一人として体現出来る者は無く、
源流の大東流合気柔術の師範、修行者らが伝えているのみである。
これまで私が大東流合気柔術の稽古を続ける中で、所謂、植芝盛平以降の合気道の各会派の師範、
有段者の相手をした事が数多あるが、これが全くと言って良いくらいに
合気道の技は私に通用しないばかりか、
私の拙い大東流合気柔術の合気之術で尽く叩き付けられ、這々の体で逃げ帰っているのが常である。
異論がある方には、いつでもお相手を致す用意がある。
http://webhiden.jp/guide/detail/post_459.php
なぜ、武田惣角先生の大東流合気柔術から離反した植芝盛平の合気道の技は、合気道の内輪の者にしか通用せず、
私には通用しないばかりか、私の拙い大東流合気柔術で尽く叩き付けられるのか?
答えは簡単、合気道はカタチを大東流合気柔術からパクっただけで、
肝心要の合気の技術、即ち合気之術が全く無いからである。
武田惣角先生は、植芝盛平の技を評して、「植芝には若干教えたが、とても人に教える所の話ではなく、
折角、習わんとするに偽の合気では困る。」と仰ったそうである。
合気之術が出来ないのに、合気道を名乗るのは言語道断であり、況してや創始者、
開祖などと言うのは噴飯物であり、大東流合気柔術の人達の間では、
植芝盛平を大法螺吹きだのペテン師だのと言っていたのである。
植芝盛平自身、自分の武道は、古来から伝えられた合気之術とは違うだの、合気は愛なり、
合気は宇宙の中心と一体になる事などと嘯いていたそうだ。
ならば、合気の名称は用いるべきではないのだし、合気道ではなく、愛の道だとか、
カニ風味カマボコのように合気風味道だとか、或いはガンモドキのように、
合気モドキ道だとか、別の名称を用いるべきではないだろうか。
触れずに倒すインチキ武道
合気道の暴かれた現実
https://youtu.be/_hNPe1Bipcc
https://youtu.be/a6EtwbiLTmI >>22
>ただあの場面で技を掛けるなら肘に手を添え直すような気もします。
あれ? 塩田さん、肘に手を添え直してないかな? >>20
受の異国のかたの右前腕が
そのかたの背後に跳ね上がったのは
合気を掛けたから
という事ですか (´・ω・)?
・・・・
うーん (´・ω・)
あの瞬間
塩田剛三は
ご自身の右前腕甲側を
受の右上腕掌側にしか載せてませんよ。
あれで受の右前腕が
受にとって背後に跳ね上がるって
力学的にも
生理反射の観点からも
ありえないと思うんですが。 この度、和歌山県の新・田辺市立武道館に、田辺市出身の武道家で合気道の開祖として知られる
植芝盛平の記念館が併設されるとの事で、
本来ならお祝いを述べるべき所ではあるが、私は敢えて異論を差し挟むものである。
一般的に合気は、植芝盛平が創始したと言われているが、本当の所は、
植芝の師匠である大東流合気柔術の武田惣角先生が、明治から昭和の戦時中に掛けて、
全国を巡回指導して普及したものである。
https://www.aikidosangenkai.org/blog/images/2013-05/ueshiba-kyoju-dairi.jpg
大東流合気柔術の入門帳
「英名録」中の植芝盛平の署名捺印
武田大先生に就き、大東流合気柔術 云々 御教授相受候也 と読める
この大東流合気柔術独特の合気とは、相手の力を抜く技術の事で、合気之術とも呼ばれるが、
習得が難しく、植芝盛平を始めとした合気道の師範、有段者は一人として体現出来る者は無く、
源流の大東流合気柔術の師範、修行者らが伝えているのみである。
これまで私が大東流合気柔術の稽古を続ける中で、所謂、植芝盛平以降の合気道の各会派の師範、
有段者の相手をした事が数多あるが、これが全くと言って良いくらいに
合気道の技は私に通用しないばかりか、
私の拙い大東流合気柔術の合気之術で尽く叩き付けられ、這々の体で逃げ帰っているのが常である。
異論がある方には、いつでもお相手を致す用意がある。
http://webhiden.jp/guide/detail/post_459.php
なぜ、武田惣角先生の大東流合気柔術から離反した植芝盛平の合気道の技は、合気道の内輪の者にしか通用せず、
私には通用しないばかりか、私の拙い大東流合気柔術で尽く叩き付けられるのか?
答えは簡単、合気道はカタチを大東流合気柔術からパクっただけで、
肝心要の合気の技術、即ち合気之術が全く無いからである。
武田惣角先生は、植芝盛平の技を評して、「植芝には若干教えたが、とても人に教える所の話ではなく、
折角、習わんとするに偽の合気では困る。」と仰ったそうである。
合気之術が出来ないのに、合気道を名乗るのは言語道断であり、況してや創始者、
開祖などと言うのは噴飯物であり、大東流合気柔術の人達の間では、
植芝盛平を大法螺吹きだのペテン師だのと言っていたのである。
植芝盛平自身、自分の武道は、古来から伝えられた合気之術とは違うだの、合気は愛なり、
合気は宇宙の中心と一体になる事などと嘯いていたそうだ。
ならば、合気の名称は用いるべきではないのだし、合気道ではなく、愛の道だとか、
カニ風味カマボコのように合気風味道だとか、或いはガンモドキのように、
合気モドキ道だとか、別の名称を用いるべきではないだろうか。 >>24
腋に添えたままの右手のほうのことですね。
ちなみに右手のみで固めても本当に逃げられ易いのは頭の側へですが、胸でコントロールすればそれでも捉えることができて驚かれることが。。
>>25
あの場面で再度腕を上げるには前腕まで右手をスライドさせないと難しいかも。 >>25 >>27 合気が懸ってるのは受け側の腕、肩、広背筋ですよ?
接触部位は関係ありません。
合気を懸ける、懸けられた経験さえあれば
そうなるとどういう反応になるかお分かりですよね?
塩田さんは、それはもう見事なものです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています