二代目、国富忠左衛門についても『撃剣叢談』巻之一に、

「天心流は元柳生流に出づ。宗矩の門人時澤彌平と云者一派を立しと云、彌平門人国富忠左衛門此流を弘む。此忠左衛門元は備前の産也。後播州福本松平靭負殿に臣たり。今以同家に子孫有り、代々忠左衛門と称す。此流の表上段受流し、同じく切違、中段腰車、上段外し切、怒切等也。中段にはかたけしなへ、下りしない、丸木橋等のわざ有。相気、気先、ノ相、水月、寒夜霜、心妙劍、來る如くなどといふ伝有り。備前にても宝永の比渡辺友右衛門といふ者此流を伝へたり。又平井の百姓、国富忠左衛門が草履取成しが、此流を習ひ、のち備前に帰り、平井勘兵衛と称し弟子扱をせしといふ。天心流伝書に平井九郎兵衛と云者あり勘兵衛と同人か別人か未詳」

とあり、この時点で関西に伝系はあり徳川の御庭番的な話は考えにくい。