一番不思議に思うところは、竹内流の流祖に関する記載が備中伝ではものすごく詳細なのに、備中に伝わる過程が反対にものすごく曖昧なことです。
時代が下がって来た方が情報量が増えていくのが歴史の常識なのですが?
また、備中伝が元祖とする人の記述は、備中伝に伝来した情報ではなく、竹内流から発信されたものを編纂しているふしが多々あることも見逃せません。
ホームページにある竹内三代に関する記載内容は、何を見て書かれたものかうかがいたいです。