木村政彦 3
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柔道家と総合格闘家としての木村政彦スレです、プロレスと力道山の話は禁止
したい場合はスレタイ「木村政彦はなぜ」もしくはプロレス板へ
前スレ
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/budou/1551748349/ >>671
格闘技素人のプヲタ乙
瀧本は戦闘竜に勝ってるし体格だけで勝敗は決まらないから >>668
普通の人がいくらウエイトやってもこんなすごい体にはならない
これは真実だろう >>675
全盛時というか過剰な筋肉の写真を見るともう老残そのものというだけだな
普通のオッサンならもちろん凄いよ
全盛時の写真を見てもどう見ても技というよりパワー柔道だったんだなとは思うけど 技とパワーを相反するモノのように考える奴って武道や格闘技やったこと無い奴だよな >>677
バカ?
脳筋バカは度し難い
相反するとか読むのも理解力もない
こういうのは人間として発言権がない >>678
「技というよりパワー柔道」って、技と力を相反させたコメントじゃないのん? >>679
どっちに力点があるかというだけで実力は総合作用ということは誰も争っていない
って説明もいるのかw >>680
何で最初から「技とパワーの総合柔道だな」と言わないのん? >>680
力点とか言ってる時点で技とパワーを別個に考えてるお前がド素人
技を磨くこととパワーをつけることは同じことなんだよ >>683
真面目な話これを脳筋と片付けてたらお前絶対強くなれないよ 写真見て、どう見ても技というよりパワー柔道とか書き込んで
真っ赤になって必死で言い訳してる奴が強くなれるわけないじゃん >>686
脳筋がしゃべっとるな
そんな次元にないんだよw >>687
ごめん、写真見て「どう見ても技よりパワー柔道」とか書き込んで
言い訳繰り返す次元って、正気の一般人とすら隔絶してるよね >>688
よっぽど世間が狭いんだろうな 座敷牢かw
必死過ぎるよ >>689
ごめん。どこの世間に、写真を見て「どう見ても技よりパワー柔道」とか書き込むバカがいるの???
教えて次元の違う人 ゴーンさんの独房は都会の賃貸アパートよりか快適やん
∧_∧
( ´・ω・) 茶飲み話でもしますかね・・・・
( つ旦O. ∫
と_)_) 旦
過去に教授みたいな人いたかなと、
調べてみた。
そしたら畠山重忠って人みつかりました。
(「はたけやま・しげただ」)
平安時代の武将らしいです。
埼玉県深谷のお生まれ。(「ふかや」)
背が180、昔にしちゃありますね (´・ω・`)
この石を、
ひとりで担いで、置いたんだって (´・ω・`)
https://pbs.twimg.com/media/EKjNCqXUEAIH_eI.jpg
https://pbs.twimg.com/media/EKjNCqWU4AAxSTO.png
でか過ぎます (´・ω・`) ・・・・
いったい何kgあるんでしょう?
重量がどこにも書かれてないんで、
この柔道しかしてこなかった
化学も数学も知らないおバカさんが、
一所懸命計算してみました (´・ω・`) 高さ120
幅みた感じ45
奥行き35と
とりあえず (´・ω・`)
少し細めにカウントしたのは
デコボコのぶんを差し引く意図で。
次に密度ですが、
写真の色が珪長質岩にみえます。
(「けいちょうしつがん」)
密度2.5〜2.8、
軽く見積もり2.5としましょう。
120×45×35÷1000×2.5
でいいのかな (´・ω・`) ・・・・
結果は (´・ω・`) 〜
472kgと出ました ヽ( ’∀ ’)ノ
472kg (´・ω・`)!
重過ぎます (´・ω・`) ・・・・
今の常識じゃ考えられません。
でも千年のあいだには、
これが挙がる特別な筋骨格、
要は特異体質が、
一人二人いたのかも・・・・
あるいは技術 (´・ω・`)? 重忠はこの規格外のチカラを以て、
たとえば主君の命で
力士とスパーさせられた時、
肩を握りつぶしちゃったみたい (´・ω・`)
教授も、
もと力士とのスパーでは、
足払い一発、問題にせず、
その一発で相手は立てなくなったと。
ふあ (´・ω・`) 〜
別次元の強さってあるんですねえ (´・ω・`) 信憑性問わずにスゴい逸話挙げるとするならやっぱ柳生石舟斎
天狗と間違えてこの石をぶった切ったらしい
伝説の剣豪はどこまですごかったのか…
今の尺度で図れないのはまさしく木村と同じですな
https://i.imgur.com/BBUJlao.jpg 弁慶は架空の人物と言われてるよね
ちなみに関羽の握力は700sと推定されてる >>695
>>697
ふふぁ (´・ω・`) 〜
すごい話です (´・ω・`) ・・・・
並んだお名前を目にし、
|
. \ __ /
. _ (m) _ ピコーン
. |ミ|
. / `´ \
ヘ⌒ヽフ
(・ω・`)
( つとヽ ポン !
閃いちゃいました (´・ω・`)
弁慶は立ったまま亡くなったという、
あまりに有名な言い伝えがあります。
あの話はひょっとして、
モデルがいたんじゃないでしょうか・・・・
・・・・まずわかりやすいよう、
関連する時代を一覧にしますね (´・ω・`)
平安時代 (1192年まで)
鎌倉時代 (1185 〜 1333)
元 (1368年まで)
明 (1368年から)
南北朝 (1392年まで) 弁慶の出てくる最古の資料は、『玉葉』です。
(「ぎょくよう」)
成立は遅くて鎌倉初期。
大体1190年前後になるんですかね (´・ω・`)
そこには件の最期が書かれてないそうです。
『平家物語』『吾妻鏡』にも、
弁慶は出てきます。
(「あづまかがみ」)
成立は鎌倉時代、最も遅くて1333年。
そこにも最期は書かれてない。
最期が初めて書かれたのが、『義経記』です。
(「ぎけいき」)
これは早くて南北朝末期と云いますから、
1380年代後半か、1390年ごろになる。
ここに有名な「立ち往生」が出てきますが、
この書はいわゆる講談本です。
大衆向けの面白おかしい話にするため、
何かからとったのでしょうか?
時期が気になるのが、
『三国志演義』という講談本。
成立が元の末期か明の初期、
つまり1370年か少し前、世に出た書です。
その本には曹操の護衛
典偉という武将が(「てんい」)
矢がいっぱい刺さり
立ったまま絶命した場面が、描かれました。 14世紀後半から15世紀にかけて、
日中の行き来は
全盛を迎えたと、云われます。
中国の講談本が
日本に伝わり、
それをもとにした話も
生まれなくなかったでしょう。
書かれたのがそれぞれ
1370年ごろ
1390年ごろ
このタイミングは、偶然じゃないっぽい。
立ち往生は日本のオリジナルじゃなく、
中国の武将・典偉の話だった。
・・・・ほんとにそうでしょうか (´・ω・`)
忘れちゃいけないのは、
三国志演義も講談本な事です。
典偉の最期も、
これより古い正史には登場しません。
・・・・なにかモデルが (´・ω・`)? ちょうどこの少し前、
日本に関山慧玄てお坊さんがいました。
(「かんざん・えげん」)
この人がなんと、
立ったまま亡くなったそうです (´・ω・`)
それが1361年。
立寂(りつじゃく)と名づけられ、
当時仏教界で
騒ぎになったんだって (´・ω・`)
『演義』の1370年に近い、
近過ぎる (´・ω・`) ・・・・
日中の交流も全盛だった (´・ω・`) ・・・・
うむむ (´・ω・`) 〜
ひょっとして
見つけちゃいました (´・ω・`)?
『演義』『義経記』
両資料のモデルを ヽ( ’∀ ’)ノ 柳生石舟齋が
剣の本当の喩りを得たのは、
(「さとり」と読みます)
晩年だったそうです。
廊下を歩いて転びそうになり、
すんでのところで持ち直した時、
突如わかったんだって (´・ω・`)
以来、チカラを使わず立てるようになり、
刀すら持たず相手をさばけるように。
関山も
喩ってチカラが脱けたから、
亡くなっても立ってられたんでしょうね。
教授も晩年
手を人の頭頂部に置いて
真下に倒す事出来たんだって (´・ω・`)
これは立位がわかると
出来るんです (´・ω・`)
おおっ (´・ω・`)
みごと全ネタ詰め込めた ヽ( ’∀ ’)ノ >>705
>廊下を歩いて転びそうになり、
>すんでのところで持ち直した時、
>突如わかったんだって (´・ω・`)
>以来、チカラを使わず立てるようになり、
>刀すら持たず相手をさばけるように。
有名な西江水のことだと思うけど
無刀取りに開眼したのは上泉から印可認められた40くらいの時のことだからあんまり関係ないよ >>697
真田幸村の忍者達も創作だよね
忍者がどれ程のものだったのか興味があるけど >>706
まあ基本的には、
それを史実としていいと思います。
私の解釈はあくまで個人研究、
ネタの域を出ません (´・ω・`)
読み飛ばしてもらえれば (´・ω・`)
石舟齋のお孫さん
柳生十兵衛という人が
(「やぎゅう・じゅうべえ」と読みます)
代々の史話と技術を聞き集め、
廊下のエピソも著書に遺されました。
石舟齋の
一説に無刀開眼とも云われる
この時の喩りが、
具体的にどんな技か、
十兵衛は「解釈が分かれてる」と断った上で
ご自身の技術は明かしてません。
・・・・ここで気になるのが、
十兵衛の
無刀捕とはまたちがう
ある伝説化している技でした (´・ω・`)
ここから荒唐無稽が加速するんで、
読み飛ばし推奨します (´・ω・`) 云い伝えによると十兵衛は、
安坐から跳躍し
(「あんざ」。あぐらの事です)
天井を蹴り上げる事が出来たそうです。
ウッソー (´・ω・`)
一族で異常な跳躍が伝えられるのは、
十兵衛だけです。
そしてその十兵衛が、
石舟齋の大悟を書いている。
ここになにか意味が (´・ω・`) ・・・・?
私が個人的に、
これも無刀捕とはまたちがう
ある技を求め長年月(教授関連の柔道技です)、
ついに
|
. \ __ /
. _ (m) _ ピコーン
. |ミ|
. / `´ \
ヘ⌒ヽフ
(・ω・`)
( つとヽ ポン !
閃いた、その時―――!
同時に廊下のエピソと、
パズルのピースが合わさったんです。 そっか (´・ω・`)
そだったんだ (´・ω・`)
転びそうになった瞬間
石舟齋は肘が―― (´・ω・`) ――(略)
その柔道技(教授技)は、
出来るようになりました。
そして探究もしてなかった
「刀に素手で勝つ」
物は試しにやってみたら、
これも教授技と同じように
出来ちゃいました (´・ω・`)
剣道の有段者に
思いきり斬りかかってもらって
スイスイ捌き
とりおさえる事が (´・ω・`) ・・・・
それだけじゃありません。
「安坐から天井を蹴り上げる」
これも同じ事が、
出来るようになったんです (´・ω・`)
それこそ刀を相手に、
二コマ漫画にするとこんなふうなのも。
これも無刀捕っちゃ、無刀捕 (´・ω・`)? ┏━━━━━━━━━━━━━━━
┃
┃ (`д)/
┃ ,| ブフ (・ω・`)
┃ ,/ > ィ°___ ノ° ク タ 〜
┣━━━━━━━━━━━━━━━
┃
┃ ((・ω・`))
┃ ゚(( ))° ビヨヨーン
┃ Σ(`д)/ ゙ー'゙ー'゙
┃ ,| ブフ
┃ ,/ >
┗━━━━━━━━━━━━━━━ 多分>>706さまは、
この一連、急ごしらえの話と思うでしょう。
無刀捕をよく知らないから
(史実も技術も)、
と云うか他すべて
何も解かってないから、
異常な跳躍などという
いかにもセンセーショナルな話を展開し、
けむに巻こうとしている―――
そうご覧になるのは、
おそらく正しいと思います。
・・・・実は初秋、>>547に
伏線を張っときました (´・ω・`)
具体的な方法は、
やっぱり技術なんで明かせませんけど、
同一原理による結果を並べれば、
解かるようになってなくも (´・ω・`)
・転倒を立て直す
・無刀捕
・スーパージャンプ
・着衣双手背負を肘傷めずに
これらは本当の話でしょうか?
だとしたら、共通因子は・・・・?
まあ読み飛ばすのがいちばんです (´・ω・`) >>708
>この時の喩りが、
>具体的にどんな技か、
>十兵衛は「解釈が分かれてる」と断った上で
>ご自身の技術は明かしてません。
十兵衛が言ってるのは、この時の喩り≒祖父・石舟斎が編み出した西江水の用法から親父の宗矩がやり方を変えたって話であって
石舟斎の喩りがどんな技かについて解釈が別れてるなんて言ってないよ
具体的に内容記述してるし >>708
>一説に無刀開眼とも云われる
この部分聞いたことがないから(少なくともソースの十兵衛が書いた伝書には載ってない)、誰が唱えた説なのか気になって
尾張柳生系の伝承でも江戸柳生系の伝承でも上泉から印可もらったときに無刀取り披露したことになってるでしょ?
それでどこから出てきた話なのかなあって思ってさ >>709も初めて聞く逸話だ。
剣豪関係の逸話そんなに詳しくないから、出典知ってたら教えてほしいな 高専柔道は寝技だけでも一般的な柔道より弱い
高専は弱い奴同士でやる柔道 >>721
柔道経験あるのか?キツイ寝技の練習をたくさんしているだけでそれだけで尊敬に値するけどなあー
それに高専柔道部はブラジリアン柔術の技術を高専柔道にいれたんだろ?相当強そうだぞ? 高専が稽古量すごかったのは戦前の話
高専やってたことで知られる作家の井上靖は餃子耳だけど増田は綺麗なまま 人それぞれ耳の形も作りも硬さも違う
耳の質によってはならない人もいるのでは? きょう練習の帰り
くるまでとおった村に
神社を発見 ( ’∀ ’)
境内をポーン
ポーン
スーパージャンプで
ひとしきり遊んだら、
「力石」ってのがあるのに
気がつきました (´・ω・`)
(「ちからいし」と読みます)
でかい (´・ω・`) ・・・・
https://pbs.twimg.com/media/ELvRq22UEAA8U-Q.jpg
隣に置いた柔道衣
3号だけど
それでも大人用なのに
こんなに小さく (´・ω・`) ・・・・
案内板によると、145kgらしいです。
江戸時代の村人は
こんなの競って挙げたんだって (´・ω・`)
こういう先に
教授や畠山重忠の世界があるのかな (´・ω・`) >>721
「高専柔道」と
一言で云っちゃうと、
戦前の
旧制「高」等学校と
旧制「専」門学校で行われていた
寝技「柔
. 道」
て意味になりますよ (´・ω・`)
その大会は
木村政彦ひきいる拓大予科でさえ、
寝技で駆逐されました。
なので、
まさかそれを云ってませんよね。
てなると、七帝柔道ですか (´・ω・`)
七帝柔道と
講道館柔道を(講道館柔道の「猛者を」)
その寝技に於いて的確に較べるのは、
そう簡単じゃないです・・・・
長い
長〜い
一大論考を要します (´・ω・`) 基本的な話、
寝技は(寝技の実力は)
大まかに
下記の三種に分類されます。
≪1≫ 伏さった相手を
畳から引き剥がして抑える
または絞める
関節をとる
≪2≫ 仰向けで下から攻めてくる相手を
脚を越え抑え込む
≪3≫ 仰向けで下から攻め
返して抑え込む
または絞める
関節をとる
このうち≪1≫は、
講道館柔道が、得意です。
どうしても、引き剥がす力を要すため、
フィジカルモンスターが有利だからです。
講道館柔道の優位を説く人は、ここだけを
観てそう云う人が、少なくありません。
確かにこういう
引き剥がすのは、講道館柔道が上でしょう。
https://youtu.be/UZBgD_6O9Aw?t=214
動画は実業団73kg級
一昨年二位の選手です。(動画自体は今年の)
つづく ( ’∀ ’)ノ >>727
あなたは何者ですか
ブラジリアン柔術の人ですか >>728
好きで色々 (´・ω・`)
≪2≫は話が
≪3≫と多分に一体なんで、複雑です。
柔道の「下」(下からの攻め)は、
脚を相手の下半身に掛けるんで、
「上」はズボンが持ちやすく、
また「持って動きやすくも」あります。
ブラジリアン柔術で云う、ズボンパスですね。
スボンパスは
「持つ場所」
「動き方」
「相手の脚を振り回す力」
この三点の正度強度が
成否を分けます。
しかし
柔道は持ちやすい
動きやすいだけに、
力が強くて速ければ、
持つ場所がめちゃくちゃだったり
軌道が雑でも、
パス出来ちゃう。
これが七帝の下にとり、由々しき問題に
なってくるわけです (´・ω・`) ・・・・ >>727
この技(亀を横三角で返して腕固定しての押さえ込み)は木村が編み出した技だとなぜ殺に書いてあったけど本当なのかね? 木村政彦のような木を根こそぎ倒すような大外刈覚えたいものだ。 佐竹がニールセンに仕掛けた頭突き、みたいな要領だと大外刈などに応用できるかも。
つりてでぶん殴り、あるいは頭突きかましてからの大外刈足払い系統の技など。 >>736
ではタイソンのフックを振りぬいた後のエルボーみたいなもんか てか道着を握ってる時点で
普通はパンチしようとしても威力がほとんど殺されるわけで
その威力が相手にダメージ与えられるほどほどの腕力を持ってた
木村だからこそできたわけで、ずるいとは微塵とも思わんな
審判に隠れてやってたわけでもなし
道着から手を放して殴ってたわけでもなし >>732
横三と腕縛りと腕緘は
(最後は「うでがらみ」と読みます)
ちょうど順番に連絡(変化)してく技なので、
腕緘が得意な選手は、必然的に腕縛り、
そして横三が得意の場合が多く、
技の草創期なら、
その選手がそのまま創始者の可能性も、
高いと思います。 火薬・羅針盤・活版印刷も木村が発明した可能性が高い 今週読んだ
早坂吝って人の本に
(「はやさか・やぶさか」)
「シチリアンスチレット」が(→>>666)
出てきました。
シチリア島に伝わる、
短刀術なんだって (´・ω・`)
ナイフを最初から出してんじゃなく、
隠し持って突然ずぶりが、特徴だと・・・・
まあ居合みたいなものですね (´・ω・`)
でもこの他色々
イタリアの民族武術調べても、
レオナルドダヴィンチの描いた正対(→632)
どこにも無いんですよね (´・ω・`) ・・・・
古代パンクラチオンを伝える絵にも
正対は一点も出てこない (´・ω・`)
正対は
日本の柔道が登場するまで、
どこの国にも無いんです (´・ω・`)
ダヴィンチは
これがなぜ描けたのでしょう (´・ω・`) ・・・・
木村政彦と似て、
オーパーツな人ですね (´・ω・`) ・・・・ 歴史の記録が全て残ってるわけでもなし
ころんだ状態で戦っちゃいけないなんてルールがあったとも思えない
グラウンドファイトは転倒したときに自然に発生するもので
それこそ人間に進化する前からあって当然なものだと思うよ 古い日本映画見てたら投げうってからマウントパンチというシーンがあった
柔道やってる設定だった
半世紀くらい前の映画
見た人いないかな?俺の記憶違いだろうか?
それは眉唾にしても「馬乗りになって殴る」という表現はもっと前の文献でも見た事あるぞ
かなり昔からあるんじゃないかと思うんだが 例えば新渡戸稲造の「自警録」の
第九章 「心の独立と体の独立」
に載ってる。寝技の応酬ではなくただ馬乗りになって殴っただけだが
コレは違うか 新渡戸稲造の「自警録」より
“””
僕は突然床よりムッと起き上がり、彼の上に馬乗りに乗り、彼の頭を目がけて鉄拳を食くらわし、
「俺の飯を食ってるくせに、なぜ反対するか」
とどなったことがある。
””” 新渡戸稲造は嘉納治五郎と旧知の仲
いだてんに登場した嘉納治五郎の愛弟子の杉村陽太郎とも国連事務局次長の役職の先輩後輩関係 ググったら新渡戸は柔術やってたという論文があった
出典が書籍なので事実と思われる >>748
>>752
新渡戸稲造
私教養なくて
よく知らない人でした (´・ω・`)
ごめんなさい (´・ω・`) ・・・・
検索し
私なりに簡単に云うと
「日本初
世界で活躍した教育者」
だったんですね。
拓大の名誉教授でいらしたそうです。
つまり・・・・
木村政彦と一緒だ ヽ( ’∀ ’)ノ
学ばれた柔術
何でしょう (´・ω・`)?
ご生地の盛岡に
諸賞流というのがあって
(「しょしょうりゅう」と読みます)
それは藩の重要人物しか学べなかったらしく、
イナゾーのお父様が
まさに藩の重要人物だったんで、
この流派かな (´・ω・`) ・・・・ イナゾーの柔術の理解は
「人がどういう仕組で立っていて
どこを押せば倒れるか
解剖せずに学べるのが柔術なのである」
マウントパンチを
あまりに早い時代に書けた事もですが、
一流の人物は物事を的確に捉える感性
智慧があるんでしょうね (´・ω・`) ・・・・
「私は少年の時から
好き嫌いを超越しようと努めてきた」
遺された言葉も、
規範にしたいのいっぱいあります (´・ω・`) 塩田剛三のエリオ評。
http://blog.livedoor.jp/gibson3457/archives/22213927.html
読みやすく訳すと
「強い武徳会の
実は出身だった前田光世は
弱い講道館に嫌われて海外に出された。
木村は講道館の飼い犬だった。
強さじゃもちろん前田が上。
前田に劣る木村に敗れた
エリオグレイシーとかいうブラジリアンは
しょせんスポーツマンじゃのお」
塩田剛三
晩年ほんとにこんな事云ったの (´・ω・`)?
・・・・気になるのは
塩田士の武徳会推しなんですよね (´・ω・`)
前スレに私
塩田士の参段は武徳会のじゃないかと
推理を書かせて頂きました。
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/budou/1551748349/897
この推理と
今回出てきた発言は、
つながると云えばつながります。
(´・ω・`) ・・・・ >>753
新渡戸稲造の『武士道』海外翻訳出版が、柔道の海外普及に直接繋がってるな
『武士道』出版が1900年
講道館四天王の山下義韶の渡米が1902年
セオドア・ルーズベルト大統領が『武士道』に感銘を受けて、山下を合衆国海軍兵学校の教官にしている
あと嘉納治五郎と新渡戸稲造は武徳会の発行していた『武徳誌』の編集顧問を二人でやってる
>>755
嘉納が当初からスポーツを目指したとか言ってる時点で間違ってるからな
あんまり参考にならなさそうな感じ というか前田光世の経歴的に京都に行ってた時期って無いよな
青森から東京だし、その後渡米だし
武徳会が設立したのも前田上京の1895年の同時期だけど、東京の講道館に通いながら武徳会にも通うのは無理があり過ぎる というか前田光世と木村政彦を逆に解釈してるんじゃないのか?
前田光世自体は横山作次郎の直弟子で、富田常次郎が厳選して渡米に同行させた講道館のエース
講道館三羽烏の二つ名も持っている
木村政彦は、竹内三統流学んで牛島辰熊に師事して当初は武徳会で段位を取ってる
どうも逆に考えてるっぽい あんまり講道館と武徳会を別物的に見過ぎる必要も無いと思うんだがな
磯貝一、永岡秀一、田畑昇太郎、栗原民雄とか武徳会のトップ陣も講道館殿堂な訳だし
武徳会って結局講道館から派遣された人物が柔道を教えていた場な訳だし >>758
木村と親交があった塩田がそんな勘違いするのも変だし
塩田の生前時点でそんなに有名じゃない前田光世やグレイシーについて塩田が言及するのも違和感があるし
(何でか知らんが)木村を貶めたいコジが塩田の発言捏造しただけじゃないの >>756
なるほど、
イナゾー
柔道の海外普及に
ひと役買った人なんですね ヽ( ’∀ ’)ノ
そんな大事な話
教科書に載せてほしかった (´・ω・`)
前田光世が武徳会の人って話
確かに新説ですね。
聞いた事ありません (´・ω・`)
・・・・少し気になるのは
前田光世が修行時代
東京の新宿という場所にいた事です。
(「しんじゅく」と読みます)
新宿はずっと後年
陸軍と妙に関係のある場所になりました。
戸山学校、731部隊・・・・
そしてその陸軍の
大将だった小松宮彰仁という人をトップに置き
(「こまつのみや・あきひと」)
武徳会はスタートしたそうです。 つまり新宿は
いつからか判りませんが
武徳会にどこか関係のある地だった可能性
あるんじゃないかと (´・ω・`) ・・・・
同じ新宿に
居と道場を構えてた塩田お父君は
そのへん
何か知ってたのかも知れません (´・ω・`)
全ては大昔の出来事で
たどる細い糸すら残ってませんが (´・ω・`)
もちろん
塩田剛三の証言が
(証言「として出てきた話」が)
正しいと云い張るわけじゃないですよ。
この話に一縷の真実性を見出すなら―――
って趣旨の
あくまで勝手な分析に過ぎません (´・ω・`) >>758
ボケが始まってたのだろう
老いは誰でも訪れる >>757
検索し
こんな記事を見つけました。
http://btbrasil.livedoor.biz/archives/54739105.html
前田光世は1901年から1904年まで
学習院大学の助教を務めたそうです。
今でこそ学習院は
東京に在りますけど
それは1905年
現在地に移転したもので
当時は京都に在ったそうです。
つまり前田光世は
三年間京都にいた Σ(・ω・`;)
学習院の在ったのは京都の上京区
(「かみぎょうく」と読みます)
そして同じ上京区内に
武専が在りました。 前田光世は1901年
学習院生を相手に掛け試合
何と関節技で敗れてしまったと。
・・・・ひょっとして
この敗戦がご自身許せず
寝技の穴を埋めるべく
武専に通ったんじゃないでしょうか。
そして三年を過ごすうち
心も武専の戦士になっていた (´・ω・`) ・・・・
更に云えば
前田をくだした大角桂嚴という人は
東京医科大学の建学者の一人だそうで
同大学は新宿に在ります。
塩田剛三のお父君・塩田清一は
小児科の医師で
病院と柔道剣道の町道場を
新宿にひらいてました。
場所的に東京医大
もしくはその前身
日本医大ご出身だったかも知れず
そこの部活か何かで
大角氏と面識があった可能性があります。
前田光世が武専に傾いてった話は
そのとき聞いたのかも (´・ω・`)
(´・ω・`) ・・・・ >>764
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%BF%92%E9%99%A2_(%E5%B9%95%E6%9C%AB%E7%B6%AD%E6%96%B0%E6%9C%9F)
東京の学習院は1877年(明治10年)から
嘉納治五郎も普通に講道館開きながら学習院で教授とか教頭とかやってたし 私の中で新渡戸、嘉納、高橋是清の活躍が点と線で繋がりました >>769
高橋是清さん
(「これきよ」って読むんですね)
不勉強で知らなかったけど
二二六事件てので
撃たれた人なんだ (´・ω・`) ・・・・
1936年2月26日
現場
赤坂のご自宅なんですね。
赤坂って確か
牛島塾があった場所じゃ・・・・
と思い
地図を広げてみたら
Σ(・ω・`;)
現場と牛島塾
250mぐらいしか離れてない。
1935年から塾にいた木村政彦
この騒ぎ
耳にした
まさか目にしたかなあ (´・ω・`) ・・・・
そんな八十年以上むかしの出来事に
おもいを馳せた新年 (´・ω・`) いだてん見てなかったのかよ
柔道家で出たのは嘉納先生以外には、徳三宝(九段)、三島弥彦(弐段)、杉村陽太郎(六段)、
ぐらいだったけど
三島弥彦の親父が、講道館柔道が社会に出るきっかけとなった警視庁武術大会開いた三島通庸だったりとか
天狗倶楽部に前田光世が所属していたりだとか
講道館四天王話とか、日本レスリングの父が嘉納治五郎の秘書の柔道家・八田一朗だとか
幾らでも話拡げられるのに触れなかったな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています