肥田式強健術 02
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●調和道丹田呼吸法から抜粋
もしこの上虚下実の根本を逸するならば、徒らに労多くして効少ないばかりか、時に邪道に
外れて、身心を害するに至るものであります。例えば、上虚下実の構への出来ない、上腹硬凸
の人が禅など始めると、きまって、禅病に罹ったり、野狐禅に堕するおそれがあります。
されば、真実の意味に於ける禅的三昧、真信仰体得の妙境に進むことは、この上虚下実
の出来た人にのみ許されたる至上の特権なのであります。 下実の効果が漸次に現れてまいりますと、気力は旺盛となり、横隔膜は緊張下降し、腹圧は
強くなるので、心臓が安定し、心悸亢進などはなく、かつ、全身の重力が下腹部に集中している
感じとなります。こうなると、いわゆる胆力は据わり、身はあたかも泰山の如く、如何なる事に
出会ってもビクともせぬ落ち着きと、如何なる難事をも押し切る勇気、いわゆる、堅忍持久の
意志力が湧いて来るのであります。 私はまた個々の筋肉を、自由に緊張させることが容易であって、弛緩した場合には、まるで
バターのやうに柔軟であるが一度力をこめると、其れはたちまち鋼鉄の如くに、硬くなって仕舞ふ。
例えば上膊二頭筋を緊張させると、其れまでは柔らかで滑らかで、溶けそうな上腕前方に、
みるみる大きな力こぶが、石のやうに硬くなって現れる。前腕筋を緊張させれば、前腕は
たちまち樫の幹のやうになる。三角筋を緊張させれば、肩へは突然、金の板を張ったやうになる。
腓腹筋を緊張させると、下脚へはにわかに鉄筋を詰めたやうになる。かくして緊張した私の
腹直筋は、七十余貫の重量の堪へ得て、なお且つ平然として、談笑することが出来るのだ。 「オオさうだった。どんなに疲れたって、どんなに遅くたって最初の誓ひはきっと守るぞ。初一年
は、必ず徹して見せる。10年でいけなければ、二十年──。二十年でいけなければ三十年──
三十年でいけなければ、五十年──。斃れるまで、やり徹すんだ」。勇気と希望とは、たちまち
全身に湧き、布団を蹴って寝床から跳ね起き、さて猛烈に練修をやってのけたことも幾度!。
あはれ生命を打ち込んだ、最初の誓ひよ。かくして三十有七年間、継行貫徹、まさに、一日と
いへども、怠ったことはないのだ。火力到らず、陶鋳純ならざれば、終に個の令器と成り難し。 清快な熟睡を前にして、微笑は自ら頬にこぼれる。微笑こそは、熟睡にふさわしきシンボルだ。
だが他に何物をもっても現し難き無形の至宝がある。
其れは静臥中に於いて造る正中心である。私は仰臥しても、横臥しても出来る。環境の一切
を機械的に超脱することは、立った場合と同じであるけれども、其の異なる点は、どこまでも
穏やかであり、どこまでも安らかであることである。世上一切の安息と、歓喜と、幸福とは、
ことごとく来たって、我が中心に納まったやうな心持ちだ。其処には、平和と、休息と、安静と
穏やかな光明との他、何物もない。しかしこれは、立った場合の正中心が、確実に出来るやうに
なってからでないと、到底入り難き妙境である。 「すべて疲れたる者、重き荷を負える者は我に来たれ。我なんじらを休ません」。オオ其の安息境
は、我が中心にあるのだ。逆境も不幸も、誤解も批難も、失敗も不遇も、一切侵すことあたはず。
一切は勝ち得て余り有り。 では其の静臥中に於て、中心世界を造るの方法は如何。起きて居ってさへも、容易には造り
難い、正中心の型── 寝て居って造る方法などを、今ここに説いた所が何としよう。それだけ
はしばらく、預かって置くこととしようか。 いかにしたら、健康になり得るか。以下にしたら、強大な体力を養ひ得るか。人はいかなるもの
を犠牲としても、この宝を得ようと狂奔する。よせ!つまらんことだぞ諸君。単なる健康、単なる
強力、何だ、そんなものを、ただそれだけのものならば、くだらんものだ。掃きだめへでもぶち込んで
しまへ。
ただに肉体のみならず、精神、魂ともに健全にして清真の光明に純化せらるるの道があるとした
ならば、人はすべからく全力を振るって、これが獲得に邁進せねばならぬ。
だがしかく一挙にして、心身両方面の健全を図り、天真の大道に、合一するがごとき妙法が
果たして現世に存在するものであらうか。
在る。在る。在って各人の内に備えられて居るのだ。其れは云ふまでもなく、腰腹同力によって、
造らるるところの正中心である。 仰いで神に謝す。私にこの不朽なる至宝を与へ給へることを。神よ。なんじは何が故に、賤陋
見る影もなき私に、かくも無限の大恩寵を垂れ給へる!我れ今、我が正中心の至誠を捧げて
、なんじが光明の裳裾に触るることを得たり。魯鈍なすなきの我を、絶へず鞭打せられ、導きて
、この聖境に到らしめ給へることを深謝し奉る。世界人類の上に、平等に与へ給へるこの宝庫
を、我が兄弟姉妹達が啓き得て、肉体の健全と、精神の歓喜とに、常に浸さるるやう、なんじの
恩寵を垂れ給はんことを祈り奉る。 我が大本を確守して、謙虚広く学ぶべしとして居った私は、あらゆるものから教へを受くること
に努めて居った。すべての体育運動健康法競技、及び一切の武術はもとよりのこと、軍隊の
教練演習から、舞踊、作法、礼式、茶の湯、芝居、軽業、さては講演、説教、和洋音楽、義太夫、
浪花節に至るまで、熱心に熟視し、傾聴して、その中から透徹した一道の流れを汲み、諧調ある
動作、洗練された技能に触れ、いやしくも我が練修法の改善に、資するものがあるならば、取って
以って、其の糧とすることに努力し来たったのである。 これぞ私が、四十年近くの長年月、不断の鍛錬を続け、二十年間伊豆の僻村に潜みて、
孤独対天の修養より、体得したる不朽の真理である。天下、一人の共鳴する者もなく、一人
の理解する者もなく、── 否世を挙げてことごとく、反対攻撃しやうとも、私のこの信念は
動かぬ。、、、、、元来世間なんて一寸も相手にしているんじゃないからな── しかり。
私はただ真理に向かって、直進すれば足る。真理を証するが為には、鼎鑊なほ甘きの大確信
が、厳乎として我が内に存在する。 真に真理を奉ずる者は、孤立独行、漠々杳々たる大宇宙の旅に、ただ一人、淋しき歩みを
続けなければならぬ。だがいやしくも向上の志を抱く者は、真理と倶にあり、真理と共に斃れる
ならば、それで本望なんだ。何の── くだらん人間の毀誉褒貶なんて、ソンなものに、左右せ
られて何とする。 何ッ、自分独りでやる。努力── あくまでも努力しろ。そこに生きる意義と、喜びとがあるんだ。
突進!突進!突進!。 死ぬまで、、、。これしきの事をだによく為し得ずば、墓の彼方に行ぬる
にしかじ。 「伊豆の山の中だから、平静な精神が得られるのであらうが、紅塵万丈の都に於いて、それを
得る方法如何」という質問は、学生修道院院生数名、その他からも受けたことがしばしばある。
一応もっともな感じがすることではあるが、これらは全て、修養の目的を内に置くか、外に置くか
が分からないからこそ起こり来たる所の疑問である。
修むる所が、真に己の内にあるならば、山に居っても、都会に居っても、寺に居っても、軍隊に
居っても、別に変わりはないはずである。何となれば、磨く所は、ただそれ虚無聖明の中心だから
である。 腰と腹との中心を練れば身体強健となり、精神は自ずから純潔無垢となる。足の先から頭の先
まで活力は充実し頭脳は明朗澄徹一点の曇りもない。気分は常に活々している。清々している。
何時でも今生まれて来たやうだ。迅風暗澹誤解攻撃絶え間なく起こり、一人の知己なき環境も
たちまちにして光明赫々たる独自一己の新世界となる。この力は逆境艱難に遭ふて初めてその
効験を現し、しかも平々然としてその激浪を一蹴し去ることによってセルフメイド自己創造の修養
は二段も三段も躍進することが出来る。これあることによって我かくの如く進むことを得たり。
これあるによって我かくのごとく自己を造ることを得たり。欣然として逆境の恩寵を感謝するに
至る。すなわち人の以って苦しとなし、人の厭わしとする境地にあって独り中心の喜び溢るる
が如くあたかもダイヤモンドのしずくに浴するが如きの聖楽を味はふことが出来る。幸いなる
かな自己中心の世界を有する人。幸いなるかな宇宙の道を独り闊歩するの人。幸いなるかな
自己独往何者にも拘束せられざる人。丈夫自ずから沖天の気あり。如来の行所に向かって
行くことなかれ。 私はこの内に抱く、自己の世界を貴ぶ。自らの世界を自己の中心に、抱く者は幸福である。
不動の世界、安住の世界、何者も侵すあたはざる世界、全てのものと、調和溶合し得る世界、
真自由の世界、活ける神の宮殿、「神殿よりも大なるものここにあり」。 白隠七十を越えたけれども、半点の病もなく、歯も落ちないし、眼や耳は段々良くなる。
五十日、七十日、説教しても少しも疲れない。心身ますます強健で、二十歳、三十歳の頃より
か、まだ元気だと云ふ。これを読んでうらやむものは、ただに老人連ばかりではあるまい。
年若くして病魔の為に悩まされている人達は、果たして如何の感をかなすであらう。余りの名文
であるから、形容の美辞ではあるまいかと疑う方もあるかも知れないが、其れはことごとく
生粋の事実であることは、私の経験の実際が鮮やかに証明している。形容でも想像でもない。
はつらつたる生ける事実だ。 かくして道場はあっても、ただ独りでやる三畳の板の間、親にも修養法を説かない。
妻子にも練修法を教へない。家族親戚の一人だって私の強健術をやっている者などは
ありもしない。話もしなければ、勧めもしない。何と云ふアッサリしたことか──。 思へば永の年月なるかな。ことに最近の二十年間、草澤の間に埋まりて、沈黙の生を送り、
教えず、説かずといへども、独りひそかに内なる中心を叩き鍛へることは、一日といへども怠
らず、そこに幽玄無窮の新境を開拓し、広大無辺なる天父の聖恩に感泣している。
オオさうだ。自分は死に至るまで、中心の一点を叩き叩きて直進すれば、それで良いのだ。 菜っ葉や麦のくずを食べながら、朝夕困苦修練を重ね、昼は飢え、夜は凍えながら絶えず
道に精進し、それでも毒水を浴びせかけるやうに、叱りとばされ、その上禅棒でもって、ピシャリ
ピシャリと叩かれてばかりいるにも関わらず、それをもって却って、かたじけなし、有り難しとなし
、お寺の裏の松林に、骨をさらしてもサラサラ厭ふところではない。耳をつんざくやうな悪罵怒号
と、骨に徹る程、痛く鉄拳で打ちのめされても、なお且つ平然として、結跏趺坐して、厳師の元
を去ろうとはしない。けなげさ、いじらしさを眺めては、悪魔外道といへども、覚えず頭を下げて、
合掌したくなる程の熱誠真剣さだ。 中心真丹の道を得るのには、ただその器あるのみでは駄目だ。これに千鍛万錬の努力を積み
、血涙を絞り、辛汗を流し、時至りてようやくに透徹することが出来るのである。 過ぐる夜、三時間にわたりて暗誦せられたる、『現れざる古今の名文詩名歌』の数々、明晰の
頭脳、強大なる記憶力、聴衆ただ啞然として驚愕讃嘆のほかなく満堂寂として息をひそむ。
ひとり先生の力ある美声は、活泉のごとく朗々口をついて四隅に響き渡る。心弦に触るる所、
或いは泣き、或いは憤り、恍乎として酔へるが如し。 私は、宿屋におっても、朝は大抵三時には起床した。早い時は二時に起きる。さうして、氷のやうな
水を被り、部屋へ帰ってから、独り必ず練修を行った。飯は朝一杯、昼三杯、晩二杯、間食は果物
の他、更にやらない。酒、煙草などはもとよりのこと、茶もやらない。ただ清水だけである。朝は
主に菜っ葉の塩漬けだけで済まし、味噌汁もとらないことが多い。無論、動物性のものは、朝は
一切やらない。
演説する前だけは、飯を五、六杯、香の物をそえて食べる。うどんのかけだと、四つ位
平らげて腹をこしらえる。二、三時間熱弁を振るって、二十分間も猛烈な練修をするのには、
その位食べた方が良いようだ。だが、卵だの、牛乳だの、肉だの、魚だのと動物性は全然
とらない。
その方が晴々して、気持ちが良くて、力が湧き溢れて来る。種々と濃厚ないわゆる栄養物
をとらなくては、体が続かないなどと考えるのはとんだ間違いであることを、私は明らかに
体験している。 ダマスコ郊外、タルソのポーロは、突然純白の天光にうたれたと云ふが、私の場合もまた、
まさしく天光一閃の変化であった。偉大にして至妙なる力の発現に会って、唖然として、茫然
として、しばし自失してしまったが、やがて己に帰って、その場合における姿勢動作を、冷静に
検討し、慎重に審査し初めてそこに、整然たる理路と、厳然たる不朽の真理とを見出すことが
出来たのである。 酒を飲まずして陶酔の境、阿片を吸わずして恍惚の域、しかも清明艶麗の極、光耀と生命と
歓喜とを織りなした自然生まれて初めて解かれた、絶大絶美の姿、何と云ふ素晴らしい光景だ。
その芸術的、音楽的情緒を表現すべき適当の言葉を私は覚えない。一体何と叙述すべきか。
言語に絶している。実にや拈華微笑のほかには、現すべき手段とては無いであらう。 正中心に落節してから、私の心理的内面的生活は、一段とにぎやかなものとなった。独りで
おって淋しいどころか、独りの方が一層にぎやかさを増すやうになったのである。 『聖中心道』なる言葉を聞いて、何らか宗教的獲物を得たいと希望されて、私を尋ねる方が
あっても、私には与えるべき何物もないことを明らかに断って置く。同時に私は静黙を愛し、
談話は甚だしく厭い、嫌う者であることもついでに御了承を願って置かねばならぬ。 ?
静黙を愛し、談話を甚だしく厭い、嫌う者であるにしては自慢話が長ったらしい慇懃な雄弁家だよなあ
バカなんか? ソVvミヘ/Wv彡vV/ ミ∠ミ::
ミミ _ ミ::
ミ 二__, --、r'"___、 ヾ ト、::ヽ
ミレ'"~,-,、 ! ! ' '" ̄ .ノ \ヾ:、
K/ー'~^~_/ ヽミ:ー‐‐'" ヽ i::
!〉 ー―'"( o ⊂! ' ヽ ∪ Y::
i ∪ ,.:::二Uニ:::.、. l i
.,. -‐‐、. .! :r'エ┴┴'ーダ ∪ !Kl.
.,' ´ ,,,... ヽ_ .! .! .! .! ,.--<`ヽ、
,' - ヽ .i、 . ヾ=、__./ ト/´~`` ` , ヽ
,' ,..、| ヽ. :、∪ ゙ -―- ,; ∪ ,/´`` ` i .l
| .,ヘ__ノ \. :. .: 人  ̄ヽ | なんで誰も肥田春充みたいになれないのかやっとわかったわ
某番組にて、植物性たんぱく質は体形のの維持にはいいけど、筋肉アップには向かない
筋肉付けたければ動物性たんぱく質とれということで >>63
たまに周りの人から「バカでしょ」って言われない? 私は、夏ならば、冷や飯に清水をかけ、香の物かラッキョウの漬物を菜で食べることが好きだ。
そのあっさりした美味しさたら無い。食べた後まで、胸が晴々して居る。たまに、魚の乾物でもあれば
結構である。冬ならば、冷や飯に味噌汁が何よりの御馳走である。冬は、カロリーの高い肉類も、
たまには良いものであるが、夏は夕顔や葱のお汁のやうな、ごくアッサリした野菜で、食べて居れば、
精力旺盛、間違いは更に無い。
私はまた、しばしば生のチシャ菜に醤油を付けただけで、食事を済ますことがある。これほど
アッサリした、美味しい食事の仕方は、日本食としては、お茶漬けに香の物の外、他にあるまい
と思ふ。 美食の一時的楽しみよりも、淡白な食事で、心身清明、頭脳壮快、健康の香りに、筋肉常に、
躍如たる方が、いくら愉快だか分からない。 肉類はもと、中性の物であるけれども、酸化分解を受けると、酸性が残って、筋肉の疲労を増し、
進んで、麻痺作用を残す。
食欲が無いと、食膳に美味しい物を備えたがるのが、普通人のよくやる事だが、そんな時こそは、
獣鳥魚肉を全廃して、淡白な野菜物を少々摂るか、或いは、滋養の乏しい物をよく噛んで食べる
方が良い。
肉類と云っても、塩漬けの鮭や鱒や、干物などわずかならば、差し支えないのみならず、
却って、眞の食欲を感ぜしめ、且つ大なる栄養とすることが出来る。一般健康な者でも、夏時
の肉類は、鮭や鱒の塩漬けか、スルメや干物などにした方が栄養も高いし、胃腸内で腐敗する
憂いもなく、且つ味も相当に良く、一挙両得の利がある。 『中心力』はこれ、武術の精華、健康の極致、無念無想の妙諦、心頭滅却の奥義、一切衛生
の根本、新元氣迸出の源泉、病魔撃退の熱火、──而して処世の、一大秘訣である。
生理、解剖、力学を基礎として組織したる運動形式を、『中心力』を以って、実行する。これ実に
、私の運動法の生命である。また其の一大特長である。練修回数を少なくすることが出来たのも、
僅少の時間しか要しないのも皆なこの『中心力』のためである。
『中心力』を以って、運動をやれば、回数を多くし、時間を長くやるの必要は──断じて、、、
無い!!。 然らば私は、何が故に、ことさら運動を急激にせよと云ふのであるか。他なし。私は始終、
中心力=腰と腹との力を根本として居るからである。多くの運動は、中心力を顧みない。従って
身體の安定がとれて居ない。枢軸となるべき處を忘却し去って、一局部に傾いて急激に運動する
から、内部機関に振動を与へ、脳髄を衝いて、生理上の害を受けるのである。
であるから、腰と腹との緊張を第一要件とし、然る後に、運動を急激にしたならば、この場合、
急激もなく、過度もなく、電光閃き、石火迸るの勢いを以ってして、始めて活気あり、元気充ち、
体育上にも確実に効果を収むると共に、精神上にも又、無限の妙趣を味わふことが出来るの
だ。速度に制限を加へたり、少しばかりのことを、過度として憂慮したりするものは、皆な運動
を、中心力でやることを知らないからである。
物足りないって書いてた人が前スレにいたからさ
今月号の巻末の読者ページ読んでみ 大麻とメチロンで逮捕された高木一行の名前を出した読者投稿風の煽りのこと?
出所したら秘伝が面倒見るんかな 高木の本って再販は無理なのかね?
1は持ってるけど2は持ってないんだ… 1、運動はどこまでも、自分の嗜好でなくてはならぬ。言い換えると、運動が義務的の苦役であ
てはならぬ。
2、強健となるべき目的である以上、運動はどこまでも積極的でなくてはならぬ。
3、運動が無用の技術に終わってはならぬ。運動は、運動それ自身の効果を収めなければならぬ。
4、運動に金銭を要してはならぬ。健康は、身体を以って購うべきものである。
5、運動に、多大の時間を要してはならぬ。時間の徒費は運動の永続を妨げ、その結果として
は、多く疲労に終わるに過ぎない。 アボット嬢といふのが、わずかに九貫目の体重でありながら、忽ち体を重くしてどんな力持ちに
も、挙がらない様になるので、或いは人体電気だの或いは人身磁力だのといって、欧米の学者
を騒がせたのも要するに、一種の姿勢のとり方と、この呼吸とを呑みこんで居ったのにほかなら
ぬのである。足から行った腰と腹の力という、そこに面白いものが、伏在して居るのである。 その主張する方法に従って脚を働かせれば、かくして生じた力は、その瞬間だけ自分の体を
数倍の重さにしたのと同じ事になる。その瞬間の力と、勢いを利用して、強固なる緊張を、腹筋
と他の一筋に与えるのである。 筋肉の緊張法、即ち力の入れ方は、柔道の掛け、撃剣の打ち込み、銃剣術の突きと同じく
瞬間の力を、ピシャッと加えるのであるが、それは、目的の主要筋肉と腹筋とのみである。
そうして腹筋の本当にしっかりした、自然の緊張は、脚から来るものである。 春充はガンジーやヘレン・ケラーを真の勇者だと言っていた。 会ったこともないんやし、偉人の伝記とか新聞記事を読んで感動しただけやん
小学生にも言える感想やで ヘレンケラーは凄い人ではあるけど、海外ですごいと言われてるのはサリバン先生の方なんだってな
大人になってから知ったわ 二人とも今の基準だとガイジやぞ
サリバンは普通に虐待 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています