【他流を排せずして】新陰流総合【他流を認めず】2
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新スレ。
以後もID表示やワッチョイは導入しない方がいい。
おそらく、あれは一般人の書き込みが減って、
自演魔や業者の書き込みが増える要因になる。
(結局のところ、対策してる人間の書き込みばかりになる。
やたら、導入したがる人間の書き込みも信じない方がいい。
本気で荒らすつもりの人間には何の役にも立たんもんだから)
前スレ
【他流を排せずして】新陰流総合【他流を認めず】
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/budou/1540761907/
前々スレ
新陰流総合【ワッチョイ】
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/budou/1465872336/ >>452
やっぱり型だけじゃなく、試合してるんだな
しかし、勝敗はちょっと怪しいというか
ビデオ判定も無ければ、
たぶん、ルールもあいまいな時代だろうし。
勝負には多少の運もからむ。
そんなポンポン勝てるとは思えない。
極端な話、敵の竹刀が当たった後から
自分も敵に当てて
「同時だった。むしろ、こっちのが速かった」と
ゴネる事も出来るはず。
結局のところ、試合内容も主観で決まりそうだから
自分が勝ったと思えば勝ちだし。
書き残す内容も、自身に常に都合よく残せそうだ。 でも片手うちで負けた相手が片手だから無効ってごねるとこは妙なリアリティあるな 上泉信綱は余程強かったな。
柳生宗厳に圧勝し
宝蔵院に圧勝し
武田軍をなぎ倒し
北条家にも多数の弟子を持つ。 >>453
袋竹刀は当たっても死なないからな。
真剣なら明白だけどw 疋田のは武者修行の記録で相手はほとんど木刀とか八角棒だから凄いもんだよ 疋田は目録や起証文が現残ってるだけで織田信忠、豊臣秀次、徳川秀忠、黒田長政、細川忠利に指導してるからな
多分今想像されてるよりよっぽど高名だったと思う >>459
信忠、秀次が死んだ時はどう思ったんだろうな
「ありゃー・・ ・秀次様とうとう死んじゃったのか・・」
とかかな まあ、当時の手合わせというのが、今の現代人の感覚でいうものと一緒なのか
どうかも判らないからな なにせ400年以上昔の人たちがやってる事だから
今我々が想像してる試合のイメージは、今の社会性や文化から成り立っている共有概念なだけで
400年前には400年前の現代とは違う社会性や文化性があった訳だしね >>455
>武田軍をなぎ倒し
こういうことって一次史料で確認できるような情報だっけ? 甲陽軍艦じゃなかったっけ。
同時代史料ではないけど、最近はベースは武田家臣が書いたもので、案外内容は改編されてないこでは、みたいな研究もあるな。 >>463
「甲陽軍鑑」で上泉伊勢守にスポットが当たるところは箕輪城を落とした後に信玄が召抱えた
長野の旧臣二百騎の中にいた伊勢守が兵法修行のため出仕しないと伝える場面だけど、
ここでは「武辺ほまれおほき侍」という評価はあるものの戦いにおいて「武田軍をなぎたおし」なんて
描写はどこにもないんだよな
長野信濃守の家臣たちが箕輪城防衛のため勇敢に戦ったことはわかるから個人としてではなく
その中の一人としてやはり頑張っていたことを想像することはできるけど伊勢守個人としての
傑出した活躍に関しては「甲陽軍鑑」では一切知ることはできない
>>464
そっちは「史料柳生新陰流」とかで見られるし俺は最初から別に興味はない
この先新史料が発掘されても大した関心は示せないだろう
そういうレベルで興味があるのは伊勢守くらいなので なんで「甲陽軍鑑」なのかと思ったらもしかして「武芸小伝」に引かれているからか?
それはともかく有名な「上野一本槍」という感状についての情報も江戸時代後期1790年の
「撃剣叢談」以前にあるなら興味深いが、残念だけど長野家臣時代の伊勢守の姿は確実な史料からは
ほとんどわからないと思う
大抵の武芸者なんてこのレベルだから別に伊勢守一人が怪しいなんて話じゃないけど
その点でいうと宗厳は確実な姿がわかる数少ない人かも知れない
だからこっちからすると逆に調べたいという気が湧かないのかもしれないがw 興味がない話で恐縮だが、松永久秀の研究者によると、宗厳は久秀からかなり重用されてそこその地位にいた形跡があるらしい
宗厳は隠し田事件で所領無くした(詳細はわからんけど)こともあって武将や領主としてはダメダメな印象があるけど、案外有能だったんだな 松永のほか筒井順慶や三好義継といった大和に影響力を持つ勢力の長と直接やり取りした書状も残ってるし
昔からそこそこ存在感があった人なのは知られてるね あ、宗厳だけじゃなくてその前の家厳を含む柳生家がね
松永との結びつきを作ったのも家厳だし >>455
北条家中の弟子ってどんな人がいたんだっけ? >>455
>宝蔵院に圧勝し
圧勝したんだっけ?
そもそも立ち会ってるか自体が伝わってないような >>470
長男の上泉秀胤
孫の上泉泰綱
北条綱成
直接でなく弟子から
北条氏政
北条氏照
北条氏規
北条氏邦
北条三郎 疋田新陰流の三光利剣って花車の事なの?五段之切って印可之太刀? >>469
松永と繋がる過程の史料って何か残ってるの?
タイミング的に松永の大和侵攻後に鞍替えしたのは明らかだけど >>474
北条綱成の孫がまとめた
信頼性の最も高い『豆相記』にしっかりと記述されている。 >>476
こちらで確認した限り書いてないようだが
チェック漏れかも知れないから本文の該当箇所引用してもらえないか?
あと綱成の孫(氏勝?)が作者ってのも「群書解題」の説とは違うようだがそれも誰の説? >>473
疋田新陰流ってのも柳生新陰流並みに違和感ある表記だな
柳生新陰流に違和感がない人ならそれでいいだろうが 上泉が宝蔵院に圧勝ってのは相手は槍だったの?
そもそもどういう試合だったか伝えている文献ってあったっけ? >>476
豆相記の件の真相楽しみにしてる
そこまで断言してるんだから俺は本当だって信じる 柳生新陰流は間違った表記だ
そんな流名など無いとか言い始めたのは厳長あたりが最初で
萩博物館に展示されてる内藤作兵衛の高杉晋作宛伝書だと普通に柳生新陰流になってたけどな あと一国一人の印可を貰ったのは柳生だけとか言い始めたのも厳長が最初だと思う つかそんな幕末頃の長州の赤の他人が書いた文字の事なんて知るかってーの
柳生では伊勢守の伝書に準拠して流名を正式のものにしているという それ以上でもそれ以下でもねえよ ついでに言うと尾張柳生が正統で江戸が傍流だってのも厳長の大ボラだからな
「寛政重修諸家譜」では宗厳の嗣子は宗矩となっている
実際に柳生新陰流の派生流派は柳生宗家のことを「師家」と呼んで尊んでいたのだがこの師家とは江戸柳生家のこと
有地新影流、細川藩の神影流といった宗厳から分かれた系統でも江戸柳生のことを師家と呼んで正統と仰いでいた
一方尾張を正統と見做していた系統や江戸時代の史料は一つもない
根拠は厳長の「正伝新陰流」だけ >>484
そりゃ面白い
逆に尾張を別格として扱ってるのなんて全然見かけないもんな >>484
ていうか江戸幕府がまだ健在だった頃の書物なんだから将軍家の御流儀を
傍流に過ぎないなんて書けるわけないでしょ
慮り忖度するに決まってるじゃん、しかも江戸柳生は流派としては大昔に滅びてるし 逆に正伝新陰流以降の武道関係者や剣豪小説家が尾張柳生を正統として扱ってきたのも
たぶんに活動してる尾張柳生への忖度がありそう 豆相記の記述も今出ているのは法螺だからな。
かなり簡略化しすぎている。
現物には上泉信綱・秀胤・泰綱が乗っている。
訓閲集自体も既に原本でなく
宗教的内容に変えられている。 誰も見たことのない豆相記の原本に上泉の記述があるとかそんな話はどうでもいいわ
大胡地区の口伝とか情弱騙しのハッタリをかますヤツが多いスレだね ぶっちゃけ、尾張柳生が本当に正統なら
徳川も尾張柳生を呼んで指南を受けそうな気がする
一国うんぬんの規制も
当時は徳川の権力のが偉いだろうし >>143
スレ唯一の技術の話題。。。。
しかもレスが付いていない。。。。。。。
それで猿廻の意味とはどんなものでしょうか。
よろしくお願い致します。 猿廻技術は伊勢守も柳生も疋田も同じであるはずだよね。
みんな異論はないよね。 ていうか、江戸徳川家は官僚としての能力の高さで宗矩を登用してた訳で
単に芸事のお稽古の先生として登用した訳じゃないでしょ 登用時点はそこまで期待してないでしょ
石舟斎が側にいないときの代理程度で 最初から徳川家としては剣の事だけで採用した訳じゃなくて
近畿地方における大和のあの地域の戦略的重要性から、柳生の能力を期待して
招請したのだと思うけどな
たぶん、会いに行く時点で、宗矩の事まで含めて面接の段取りは
決まってたんじゃないかと思うよ 当然の事だけど間に仲介者がいただろうし 奥山休賀斎に対しても剣以外に何かアテにして入門したのかな? 結果論的には大和での宗厳の人脈が関ヶ原で活きたけど
あの時点で家康が失領した一国人の力をどれだけ当てにしてたのかは謎だな 結局本文引用もないし>>476は大嘘か
なんであんなことするんだろうね 猿廻の話なら俺も賛成だな
技術論を繰り広げてみたい 疋田の方も伝承に自信があるなら、色々ある尾張柳生系の新陰流を見て、どこが自分たちと同じなのかわかるのでは?
ぜひ教えて欲しいな。 疋田新陰流の演武を見ていて思ったけど、疋田の方は新当流や陰流の技術がかなり残っているね。
違う名称にはなっているようだけど、尾張で伝承されている村雲斬りとかと同じ技術残っているみたい。 455名無しさん@一本勝ち2019/04/12(金) 05:53:24.03ID:ODaS2uC50
上泉信綱は余程強かったな。
柳生宗厳に圧勝し
宝蔵院に圧勝し
武田軍をなぎ倒し
北条家にも多数の弟子を持つ。
結局この>>455の話の大半が根拠なしかよ
それどころかウソ出典まで出しやがって >疋田の方は新当流や陰流の技術がかなり残っているね。
そういうのがわかるんだ凄いね
特に陰流のほうをわかるのが凄い 斬合二十七箇条は他流の技術で、「この技は陰流、この技は新当流」とかそういう事まで伝わっている所もあるからね。
笑っちゃうほど嘘伝の所もあるけど。 二十七箇条は表太刀の切り方をまとめたものだけど・・・ >>509と>>510のどっちが正しいの?
天正八年の柳生但馬守平宗厳から三好左衛門尉宛伝書に見られる古いタイプの「切合廿七ヶ条之事」だと
「右旋 左転」「小詰」「村雲」「懸待 表裏」についてのことなんかが記されているけど
この辺はみんな他流のものだったのか 表太刀という表現さえ新陰流には無いよ。
現代創始の柳生新陰流については知らないが。 古流の技術を分解したモノなら、外伝試合勢法になるだろうけと。新陰流では。 ごめん、尾張の新陰流では。
纏めたモノならそれこそ燕飛や参学では? 右条々面太刀一通也。(慶長六年 石舟斎より竹田七郎宛伝書)
右条々面太刀一通重々口伝有之也。(慶長九年 新陰流兵法目録事)
これはめんだちと読むからな
これらの記述は伝書に書かれている右の三学円太刀・九箇・天狗抄・廿七箇条截相が
めんだちであることを意味している
面をおもてと読むなんて聞いたことがないし間違わないように 亦、面太刀之打太刀、新当流也。(柳生三厳「月之抄」)
お、月之抄にはめんだちの打太刀が新当流だと書いてあるな
打太刀ってのは俺には意味がよくわからないけど多分めんだちでうちだす太刀ってことだよな?
つまり
>斬合二十七箇条は他流の技術で、「この技は陰流、この技は新当流」とかそういう事まで伝わっている所もあるからね。
というのはやはり正しかったってことじゃないか!
でも「月之抄」には「遠飛 面太刀ナリ」に始まってどこまでが面太刀と見なしているのかわかりにくいところあるな
燕飛を含んでいる時点で石舟斎とのズレがありそうというか、燕飛の仮想敵が新当流の魔の太刀などであることを
指しているようにも思えてくる 調べてみたら新当流でも面太刀という用語があるみたいだな
http://kashimashi.info/bunkazai/?page_id=1561
>鹿島新當流の形 「面太刀 三ノ太刀」
それでひとつ>>512さんに聞きたいんだけどこの流派の場合これってなんて読むんだ?
無学なもんで「面太刀」の読みにやっぱりちょっと自信がないんだよ 基本、九箇之太刀と七太刀は他流でしょう
九箇之太刀に陰流が多く
七太刀は新当流(ともう一つ私見では別流からの引用があると思う)
からの引用が多い・・・
と思う んで
猿燕は陰流から工夫を編み入れた新陰流の流れそのもの
参学は柳生独特の研究と工夫
で、それらをまとめたのが廿七箇条截相
ちな、天狗抄が影流
だと思って生きて来たけど違うの? >七太刀は新当流(ともう一つ私見では別流からの引用があると思う)
>からの引用が多い・・・
時々見かけるんで前から聞きたかったんだけどこれって七太刀が他流のものって誰の説なの?
七太刀を伝えているという春風館と組んでいる赤羽根さんも「柳生新陰流を学ぶ」では
そんなこと書いてなかったよね?
というか新陰流において陰流の組太刀って他流扱いなのか
じゃあ燕飛とかも他流の技だね 「柳生の芸能」
燕飛 長岡房成子曰く。
この六本は昔の表太刀なり。当流の始祖愛洲日向守移香、昼夜肝膽を砕き工夫せられし時、
夢に鵜戸権現、猿の形ちを顕わし伝え玉わると見て、これを心悟して撰びしという。
なるほど陰流は他流だけど「当流」の始祖は愛洲日向守移香という人なんだな
愛洲日向守移香は「新陰流」の創始者なんだな
陰流が誰の流派かは忘れたが
というか今思いっきり「表太刀」って言葉が出ちゃってるけど>>512さんどうしよう?
この長岡とかいう人はそちらの言う「現代創始の柳生新陰流」の関係者か何かなのかな? 「柳生の芸能」
当流にては我れを使太刀といい、敵を打太刀という。これもまた陰流の意を含んでのことなり。
なんで他流である陰流の意を含むの?忖度してるの?
「柳生の芸能」
九箇の太刀は皆、愛洲子より伝えるところにて古き形なり。
この柳生の芸能の説が正しくて愛洲子が陰流の愛洲移香斎なら確かに九箇は他流から来たってことになるな
だって陰流は新陰流にとっての他流だもんな
この愛洲子が「当流」の元祖であるところの愛洲日向守移香のことを言ってるなら話は変ってくるが >>512
新陰流に表太刀という表現があるようだけど
その点について何かコメントすることはありますか? オレが持ってる目録には燕飛の前に、思いっきり「表太刀之次第」と書いてあるね。 猿飛と天狗書(天狗抄)が陰流の形だとされている。
他は上泉の工夫だと思う。 >>525
私はぐぐることもできない大バカ野郎です、まで読んだ それで結局表太刀という表現は新陰流にあるの?
ないの? >>521
>>522
古流の経験がない人かな?権威付けのために実質的な開祖が学んだ流派の元祖まで遡及して自流派の開祖と見做すというのはよくあることだよ
例えば九州のいくつかの疋田陰流の系統では疋田ではなく愛州移香を流祖とみなして流名も愛州陰流と名乗ってたりする
当然本家本元の平澤家の愛洲陰流とは全然違う 嘘ばかりというか、「自分の研究結果や想像」を昔から伝わっていると言う輩が悪いだけでしょう。
嘘ではない所もあるよ。 各分派同士の型を比較したら大体原形は想像つくけどね
燕飛とか柳生新陰流と示現流ですら大まかな部分は一致してるし 打太刀の意味すら理解できないオレくんは基礎的な知識から身に着けるべきだな
剣道しかやってない人でも打太刀の意味ぐらい知ってると思うぞ ついでに言うと面太刀の「面」部分の読みは新当流も「おもてのたち」な
面をおもてと読むなんて聞いたことがないのは君が無知なだけ
一回演武会でも見に行って「面太刀」を何と呼称してるのか直に聞いて来い それはすまんかったな勘違いしてたわ
でも疋田陰流が流祖を愛洲に遡及してるのは間違いではないはず
柳生厳長の「正傳 新陰流」でもその点をあげつらって疋田の連中がおかしなこと言ってるって記述がある >>534
もしかして皮肉の分からない人なのかな… >>512
昭和33年に柳生厳長師から渡辺忠敏(転会の渡辺忠成師範の実父)に出した「新陰流兵法目録」には、最初に「表太刀之次第」って書いてありますが。
厳長師は「現代創始の柳生新陰流」の人ってことですか? そろそろ>>512さんに何かコメントしてもらいたいな このスレは適当なハッタリこいては根拠を出されて逃亡するってパターン多いですね
新陰流関係は文献も多く残ってるんだから適当な話しなきゃいいのに 残ってる物も何が本物かわからん。
柳生本家、転会、春風館 江戸柳生家はかなり大勢の門弟がいたはずなのに
江戸柳生系を名乗ってるのは新陰流協会と天心流くらいしか見かけないね 適当な事言っておくと、良く知っている人達が激しく訂正してくれる。それを見る事がこちらの正しい利用法(笑)。
少し知っている人なら、それらの情報から取捨選択できるしね。
先輩方、ありがとう。 江戸柳生を騙るには、少なくとも尾張柳生の本伝を知らなければならないから、事情を知っている程名乗れないよ。
バレてしまうからね。 江戸遣いと公開している団体のは、尾張で改変されたっぽい技(それとも違うけど)のだから、江戸とは関連が無いよね。笑っちゃう。 四国の柳生神影流が江戸柳生系だね。よく知らんけど。 〜のはず 〜だろう 〜らしい
出典元や確たる証拠が出せないなら無闇にスレを混乱させるでない! その土地に残ってる口伝が聞けなけりゃ
本読んだ方が早いぜ。 512名無しさん@一本勝ち2019/04/15(月) 11:43:07.17ID:57KMXWSb0
表太刀という表現さえ新陰流には無いよ。
現代創始の柳生新陰流については知らないが。
この件に関してはホラ吹き>>512の涙目敗走ということでいいの? 江戸柳生家は貴族だし幕府なくなって剣術辞めたのはわかるにしても
あんだけ各地に派生した支流がほぼ完全に消滅してるのがすごいな
尾張柳生が本当に兵庫の代に正統を継いだかは微妙な話だけど
うちこそが正統という意識からくる責任感は剣術を続ける上でプラスに働いた気はするわ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています