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一応、歴史的には達磨太師が南天竺(現在の南インドと一部一致)から河南省嵩山少林寺に
禅と洗髄経と羅漢拳術を伝えた事になってはいる。菩提達磨は西域南天竺国において国王の第三王子として生まれ、
般若多羅の法を得て仏教の第二十八祖菩提達磨になった。
だが、それよりも古い菩提達磨への言及は魏撫軍府司馬楊衒之撰『洛陽伽藍記』卷一 永寧寺の条(547年)にあり、
全ての達磨伝説はここに始まるともいわれている。

普通元年(520年)9月21日(10月18日)に宋境南越にやって来たとされ
当時分かれていた南北朝の、南朝を訪れ、梁を治める武帝と接見し禅問答を行ったとの記録も『景徳伝燈録』にある
その問答の成り行きを武帝は嫌い、達磨はこれは縁を結べずとして梁を出て
北魏に向かった。後に武帝は後悔し、人を使わして達磨を呼び戻そうとしたが適わなかったとされている。
少林寺にて九年の面壁を行う。確認されているだけで道育、慧可の弟子がいる。
彼の宗派は当初楞伽宗(楞伽経にちなむ)と呼ばれた。

達磨伝説については伝説の域を出ないものも多く、
達磨が伝えたインド拳法と天下の功夫、少林より出ずと謳われた中国武術との関係は
そこから1500年近くの長い年月をかけてチャイナライズされて出来上がった周辺文化と言った方が正しいかもしれない。

それ故に、現在の少林寺の周辺に固まってる
ショーアップされた少林拳専修学校の拳法とかと技術を比較しても意味ないのでは?

インド武術やタイの武術とは体育的思想背景や身体観等には共通点も多いし記録も多数なので
文化の流通はあったのだろうとは言える

インド武術と中国武術が全く別物に見えるのなら少し浅慮に過ぎないか?