相伝家のHPリンク読んだけど結局は神伝じゃん。
結局は山伏の姿で現れた愛宕神の化身という結論。

備中伝は現代人の合理的な考えで生身の人間に徹底的にこだわった解釈だからな。
これを相伝家と同じだと決めつける、というか同じでありたいという願望が無理やりすぎるんだよな。

相伝家の伝承と備中伝の創作が同じ土俵に立てるわけがない。伝承と創作では歴史の重みが違い過ぎる。
そもそも分流設定の備中伝が流祖神話に手を加えること自体がおこがましい。それをやるなら竹内流を名乗るな。