柳生新陰流のような有名流派が本当に強いのか [転載禁止]©2ch.net
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今の時代でも、例えば空手界では、実際の技術体系関係なく極真が一番メジャーで、
真贋の微妙なマス伝説によって庇護されているのは事実だと思うし
歌手だって歌唱力でなくて枕とステマがモノを言う世界
根回しや取りいる事が元々この国の文化であることを思い出した
柳生新陰流のような有名流派や御留流とかって、政治家(将軍や殿様)に名を売る事が出来ただけなのかもしれない
もしかしたら宮本武蔵だって、沢庵などのコネを使って大名に名を売り、老人とされる佐々木を討ち取ってステマしたのかもしれない。
亀田の試合のように。
今の日本で言うところの、オリコンでAKB(柳生)に隠れている実力派歌手みたいなのが民弥流みたいな、そういう構図はあったと思いますか?
素朴な疑問です。悪意などはありません。 実際、宗矩は戦場経験も豊富だし、七人斬りの逸話もあるし
一門中でも剣士としての実績も随一の人物なんだけどね
日本の映画や文芸界はアンチ権力志向の左翼が多いから
そういう意味で、宗矩が権力へのアンチテーゼとして悪く描かれちゃう
事が多かったのだろう もっとも、「春の坂道」のように宗矩主人公でヒットしたドラマの例もあるから、
一概に悪く描かれてるという訳でもないか・・ 大目付として恨みを買ってた事実はあるんだろう。
実力は、江戸は尾張に劣り、将軍指南家としては小野家に劣り
同時代の人からは、武蔵や東郷に劣ると言われてきたから。 大目付として恨みを買ってた事実はあるんだろう。
実力は、江戸は尾張に劣り、将軍指南家としては小野家に劣り
同時代の人からは、武蔵や東郷に劣ると言われてきたから。 兵法家としては最大の出世をした人物だからな・・・
偉い人ってのは何かと下々からやっかみの対象になるよな
アイツなんか本当は大した事ないんだ ・・・てな感じでさ
実際には優劣なんてのは仕合ってみないと判らないものなんだけどね >>46
そんなの聞いたことないんだが??
東郷重位を出してきた時点で・・・なソースな
気がしてならないんだが。 >>51
吉川英治とその仲間たち
がやった最強論争あたりかな?? >>43
宗矩さんはしょぼいよ。
小野忠明に散々馬鹿にされてるし
政治の手腕や教え方は評価していたみたいだけど
十兵衛だけじゃん架空の部分が多いけど
宗冬さんは尾張柳生からも馬鹿にされ 本当に小野忠明が柳生宗矩の事をバカにして憚らなかったとしたら
それは逆に、小野の名を自ら汚すだけだと思うが・・ >>56
事実だったらどんだけ小物だって話だよなw >>58
さらに小野派はソッコー途絶えたじゃねーかと。 小野忠明はむしろ傲岸不遜なのが魅力。
柳生兵庫の方とだったら気が合いそうな気もする。 実際に剣で闘ったら幕末の誰かが最強なんだろうなとは思う 柳生兵庫助が得度した時の禅の師匠が確か、小野忠明の弟だか甥だかだった筈
そういう意味では実際に小野家と尾張柳生は少し繋がりあるんだよね >>62
幕末は竹刀剣術が蔓延して形骸化がはげしかった。ありえないね。 >>64
実際、日本の歴史で刀で戦争してたのは幕末の京都位だし竹刀剣術で形骸化してたって言うけど非科学的で神秘主義的な剣術とある程度教育が行き届き道場が隆盛して農民、武士問わずに沢山の剣士が居る幕末では層の厚さが全く違うでしょ >>64
形骸化を論じるなら、幕末以前の話だろうよ。
だから竹刀稽古が流行したとも言えるし。 >>65
武道は理屈の塊なんだけど意味がわからない。
だいたい江戸時代以前は武士だろうが農民だろうが
武器持って実際に戦ってたんだし層の厚さとか言われても。 >>65
幕末最強と言われた示現流は竹刀の試合稽古してないし、天然理心流は竹刀の試合は弱かったけど実戦は強かったって話だけどな。
そういえば、幕末の一刀流の誰かで、普段形稽古しかやらないのに、試合するとめちゃ強いって人いなかったっけ? >>68
寺田宗有だな。
切っ先から火が出てると言われ、
弟子の白井亨は切っ先から白い光輪が見えると言われ、
二人とも竹刀稽古してる人たちと試合して、勝ちまくった 竹刀稽古は竹刀が伸びてスポーツ化。形は無駄な動きが追加されて踊り化。 >>70
てか、戦後の武道禁止政策の余波でそうなったんだよ。
竹刀稽古は。
戦前のものは北辰一刀流や神道夢想流などの流れを組むものだった。 >>71
いや江戸時代の時点で大石進の5尺3寸の竹刀みたいなのが既にあって既にスポーツ化している。
まあ止めを刺したのがGHQなんだろうけど。 >>67
武道が理屈なのは当たり前
神秘的な事を分かりやすく理論的に説明したから北辰一刀流が隆盛したんだし戦国時代の農民の振るう剣と道場で訓練した剣とは違う
大体、町道場が溢れて農民や町人まで剣術の裾野が広がった幕末とでは剣士の絶対人口が違う >>72
それは別にスポーツ化じゃないよ。
大太刀術もあったんだし、当時の武術界も彼の戦法を
剣術として邪道だと批難してたわけだし。
真剣を扱う為の竹刀稽古という枠がちゃんとしてた。
戦後の撓競技化だよ。剣道がスポーツになったのは。 >>73
そもそも農民が武術をしていなかった。
てのが間違えてる。
幕末でなくても自衛の為に武術を稽古してたし、
それが棒の手などの伝統芸能になってる。
馬庭念流のように農民中心に伝承された流派も多い。 >>75
勿論、戦国時代にも武術は行われただろうけど剣術を行っている絶対人口が違う
念流自体は古くても馬庭念流が出来たのは関ヶ原の当りで隆盛したのは平和になった江戸期
幕藩体制下で大量の浪人が出て町道場の先生が職業として成り立っている時代の方が修行者は多いはず >>77
あのなぁ、こっちが言ってるのはその江戸期の話だよ。 示現流や天然理心流が強かったのは単純に、一方的に襲撃する立場だったから、ってだけだろう。 >>80
天然理心流が強かったわけじゃなく、
新撰組が集団で襲撃する訓練を積んでいたから強かった。
治安維持の任についてたから、場数も踏んでたしね。 そりゃ、片方はほとんど丸腰で飲み屋で飲んだくれてる潜伏テロリスト
片方は完全武装で準備万全の突撃部隊だもん どっちが有利かなんて決まってる 岡田以蔵が学んだ流派は竹刀稽古をバンバンやる流派ってのはちょっと面白いな。 幕末の剣士の意識は三条制札事件でよくわかる。
天然理心流とかは重い木刀で稽古してたから長刀でも使いこなせて強かった。
竹刀は実践的な稽古が出来るけど、それは常寸までの話。新陰流も竹刀だけど3尺2寸で常寸。 柳生は敵のミスを誘う活人剣及び対応する間も与えず一気呵成に攻める殺人刀の戦略が
幕府に気に入られたから指南役になったとか。 関係ないだろ 単に柳生宗矩が官僚として優秀だったから
その流れで剣術の方でも取り立てられたってだけだろ
結局は人だよ、息子の方だったら指南役なんてそっこー取り消されてた >>87
ならば但馬守から代替わりしたら辞めさせられてたはずだが、
宗冬までは継いでたろう。 佐川道場 全敗の記録
木村 十元師範 ライター長野に合気上げが通じずブログや本でコケにされまくり
保江 お笑い芸人に捕まれやっと筋力で上げるもスパーでは突き蹴りをもらいまくり
フルコン師範に捕まれまったく上げれず免許皆伝を進呈
佐久間 少林寺黒帯、佐川道場8年黒帯の時に掴んで投げていい大道塾の大会に出たがボコボコにされる
渡辺 佐川8年黒帯、独立してトータル20年の大東流歴、しかし巌流島で相撲経験者に15秒でKOされる
堀辺 佐川道場三元で詠春拳と合体させインチキ歴史の骨法を立ち上げるも
その弟子たちはムエタイ、総合に全敗
橋本 佐川道場初段、ボクシング、大道塾経験あり。自分に勝ったら賞金を出すと煽るも
合気道家、ブラジリアン柔術家に喧嘩売られて逃亡 聞きたいのは、小野派と新陰とか有名流派が技術内容が他と
比べて優れているから存続できたのか、単に運よく歴史の中で
隆盛しただけなのかどうなのか。
素人発想で悪いが、剣に対して同じ素質、能力の人間が10人いたと
仮定して、その内5人は、小野派や新陰を10年習い、もう、5人は
名の知れない剣の流派を同じく10年習ったとしたら、
それぞれの流派の師は実力者だったとして
本来的な技術内容によって、実戦技術的に圧倒的に差がつくんだろうか? 一刀流は知らんが新陰流については3代目の兵庫助が当時一般的だった
重心の低い介者剣術から直立ちの素肌剣術を取り入れた。
当時は他の流派では勝負にならない位の技術的有利だったと思うよ そうなのかあ。素晴らしい。
そのような時代的要請がなかったとしても、技術的優位性はあると
考えてもいいの?新陰は? だとしたら、新陰やってみたくなったなあ。
といっても、技術を身に付けるのは不可能と自覚あるが
そんな話を聞くと憧れるなあ。浸れればいいや。 >>93
素肌剣術は新陰流より古い流儀で既に存在していますよ。
古い剣術のほとんどが介者と素肌を両方とも学べます。 ていうか、新陰流も陰流も最初から素肌剣術だよq
甲冑着てる絵伝書なんて1つも無いし、そもそも甲冑着て剣術なんて実際は殆どなかったでしょうね。 兵庫助もそっちの方が伸び伸びと技が使えるってだけで別に甲冑がどうとか言ってないしな 直立ち云々って、実は宗矩だったか十兵衛の伝書にも書いてあるんだよな 戦国時代は月代剃るくらい甲冑着てたんだから武術もそれに準ずるようになる
この時代の剣術は今とは随分違うもので江戸期の流派あたりの人には想像つかんとは思う >>101
戦国時代ったって、普段から甲冑なんて着てないだろw
365日戦争してたわけじゃあるまいし。 例えば、天真正伝香取神道流の場合。
甲冑を着用した想定の『表之太刀』 五津之太刀 七津之太刀 神集之太刀 八神之太刀
平服 『五行之太刀』 三津之太刀 四津之太刀 陰之太刀 捨之太刀 發之太刀
と二種類に分かれている。 古武道に強いとか弱いとかの概念を持ち出すこと自体が間違い。
普段、戦うための練習を全くしていないのだから、
戦うことになった場合には、普段練習していないことをやることになり、
それはもはや普段練習している新陰流ではない。
新陰流ではないもので戦って勝ったり負けたりしもて、それが新陰流が強いとか弱いとかの話にはならない。
古武道なんて、そんなもん。 >>105
「ぼくがかんがえた武道観」はチラシの裏にでも書いてなさい。 >>107
厳然とした事実を突きつけられると
事実自体は否定できないので、
この程度のことしか言えないのが古武道やってる奴の悲しさ。 新陰流兵法転会で最高の名人と言われた前田英樹氏ですら
本の出版をし始めた頃の若年の甲野善紀氏と袋竹刀で試合をして、
どっこいどっこいの実力しか無かった。
(甲野氏の著書に、前田氏との出会いについて書いてある) >>110
見たんか?
わいは見たけど試合なんてしとらんぞ
甲野さんの道場でお互いの技の交流をしただけ >>111
試合してる記載あるだろ。
甲野に小手を打たれて、前田が「いただきました」って言ったという。
甲野は、自分の袋竹刀は新陰流の袋竹刀と違って、当たれば相当な痛さのはずなのに
平然と「いただきました」とだけ言った前田に感心したとか書いてたじゃん。 甲野に前田英樹が負けた記事の後で
二人仲良く共著を出しているから
甲野の記事はほんぼ事実に近いはず。 佐藤金兵衛さんによると
柳生石舟斎が得た一国一人の免許の「国」は、
大和国という意味であって日本国という意味でない。
そもそもこの当時「国」とは尾張国とか美濃国とかの一地方のことで、
柳生新陰流が新陰流の宗家を語るなど片腹痛いということらしい。
新陰流ではなく、所詮、「柳生」新陰流であると。 茶バネ新陰流みたいなチャンバラごっこではなくて、少なくとも振武舘くらいの身体使いで体系的に稽古している新陰流道場をお教えください。 >>118
新陰流武術探求会でググればお弟子さんのHPが出てくるよ 型を3年くらいやれば、剣道3段ぐらいには実戦でかてるかな。
誰か教えて。 そのぐらいの中身のある型ならいいなあ。
3年は無理でも、5年ぐらいならな。 実戦で斬り合う想定で
竹刀で自由にやり合うってことで
ルールは剣道ルールじゃなっくて
真剣想定でどこでも体に触れたら勝ちって実戦形式でね。 剣道のルールなんて実戦とかけ離れてるからね
面打ちなんて、頭をよけてるよね。
実戦なら首から肩バッサリやられてるわけで。 新陰流の合撃打ちや一刀流の切り落としも
真剣勝負や木刀勝負だと使えないよ。
江戸時代の平和な時に完成した技。
たとえば新陰流の古伝の型(転会にも柳生会にも保存されている)には合撃打ちなんか存在しない。
柳生連也が江戸の宗冬と試合したときも合撃打ちなんて全くやってない。 つまりどういうこと?合撃や切り落とし
以外なら使えるってこと?
新陰やら一刀流の型やってもすべて
俺がいった条件など使えないってこと。
今、伝わっている型はほぼ、ほぼ意味ねえってっこと? 第二次対戦のときに中国兵に日本兵が頭を狙って切りかかって斬れなかった、辛うじて斬れたのは鹿児島の示現流であった(松田隆智の調査、著書にある)。
やっぱり野戦の法と板の間道場の技は違うんだよ。
示現流は稽古場が砂だからな。
稽古着物 第二次対戦のときに中国兵に日本兵が頭を狙って切りかかって斬れなかった、辛うじて斬れたのは鹿児島の示現流であった(松田隆智の調査、著書にある)。
やっぱり野戦の法と板の間道場の技は違うんだよ。
示現流は稽古場が砂だからな。型はタイ捨流から取り入れた。
稽古着は常在戦場の意味で普段のTシャツにGパン。
斬る場所が二の腕か袈裟。
頭は斬らないからね。 剣道のおかしいところは、切られないために鎧をつけている所を叩くと勝ちってのがそもそもおかしいよな。 >>125
>柳生連也が江戸の宗冬と試合したときも
こんな話を信じてる人に言われても… >>132
全くだね。
一緒に演武はしたけど、試合はしてないのにな 合撃や切り落としは、極真空手が昔やってた真剣白刃取りと一緒で
実戦では絶対に使えない技。 後の先の技は相手を動かして初めて使える。技だけ練習しても意味ないね。 柳生先生が連也と宗冬のひぎり稽古は実質は試合でしたと言ったからだよ。。
親指が砕かれて血が吹き出たという。
それじゃ身障者になったということじゃないか(笑)。
当時は整形外科手術など無いのだから。
夢のような話を信じたりするのが
古武道やる人の特長だね。
碁盤、石地蔵を切り裂いたとかな。
そんなもの刀で斬れないだろう。 実際に自分の命が掛かってたら
よほどの力量差がない限りそんな精妙で危ない技使わんだろ >>136
というか当時の記録だとその試合だかがあったはずの日の二週間後に
宗冬は家光と大名達の前で型披露してるんだよな
二週間前に親指砕かれた人間がそんなマネできるのかと
他流使って自分とこの流祖を持ち上げるのって逆に貶めてるだけだと思うんだけど尾張柳生の先生方は違うのかな 厳周師だって江戸と尾張の不仲説は嘘だって言ってたのにな >>127
>辛うじて斬れたのは鹿児島の示現流であった(松田隆智の調査、著書にある)。
胡散くせぇ
どうやって戦後に生まれた松田がそんなこと調査できるんですかね >自分の袋竹刀は新陰流の袋竹刀と違って、
今晩は。通りすがりの者です。ご存じの方がいらしたら
お教え下さい。
柳生杖は現在一般に市販されている六尺棒よりも細いのでしょうか?
工事現場で使われる鉄筋三本分くらいの太さとイメージしてよいので
しょうか?
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