X



トップページ武道
1002コメント522KB
【実践王子】本部朝基【琉球唐手】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001名無しさん@一本勝ち
垢版 |
2014/03/01(土) 11:55:54.46ID:eIVRxano0
本部 朝基 もとぶ ちょうき
1870年5月5日(明治3年4月5日) - 1944年4月15日) 沖縄県出身の空手(旧称・唐手)家。
「琉球の名門本部家に生まれ、唐手の戦闘術、すなわち実践の強勇に至っては、郷里に誰も知らない人はいない大剛者」
(『キング』大正14年9月号)[1] と評されたように、20代の頃から伝説的な強さを誇り、戦前「最強空手家」と称えられた空手の大家である。
日本傳流兵法本部拳法(本部流)の開祖。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%83%A8%E6%9C%9D%E5%9F%BA

本部朝基は、明治3年(1870年)、本部御殿の当主・本部按司朝真の三男として、首里赤平村(現・那覇市首里赤平町)に生まれた。
童名は「真三良(三郎)」、あだ名は、その身軽さから「本部御殿の猿御前(サーラーウメー)」、「本部の猿(サールー)」などと呼ばれた。
御殿とは王族が住む邸宅のことで、同時に王族の尊称でもあった。
本部御殿は尚質王(1629年 - 1668年)の第六王子、唐名・尚弘信、本部王子朝平(1655年 - 1687年)を元祖とする琉球王族であり、国王家の分家として、日本の宮家に相当する地位にあった。
また、本部御殿は、代々本部間切(現・本部町)を領する大名であり、琉球王国最大の名家の一つであった。

沖縄時代
本部朝基は幼い頃から武を好み、数えで12歳(満11歳)の時より、首里手の大家・糸洲安恒を唐手の家庭教師として招き、長兄・本部朝勇とともに師事した。
糸洲に師事した期間は7、8年だったと言われる。
成長するにつれて、首里手の大家・松村宗棍や佐久間親雲上らにも師事した。
また、泊手の大家・松茂良興作にも師事して、特に組手を教わった。
朝基は「武これ我、我これ武」というほど唐手の稽古に打ち込み、上記の諸大家以外にもおよそ名のある武人はすべて訪ねて教えを乞い、実際に立ち会い、唐手研究に没頭した。
本部家に訪問した武術家が帰る時には、玄関口で待ち伏せして「おじさん!手(空手)をしましょう!」と声をかけるほど手に熱中していた。
0850名無しさん@一本勝ち
垢版 |
2019/03/26(火) 16:21:59.51ID:mohFffqs0
>>849
>松村宗棍は上の二人の証言。

ここはまあちょっと二人の証言なので怪しさが残るが
さりとて松村がなぜ同世代の唐手家を差し置いて名前が残ってるかというと
地位があったとか功績を残したとか、色々あるだろうけど、それでも結局のところ
腕っぷしが弱ければ仕方ないわけで、おそらく本部ほどではないにせよ松村もある程度は
殴り合いらしきものはやってたんじゃないかと思うよ。

ただし、その殴り合いの技術がどれくらいかといわれたら、多分現在のフルコンの
青帯とか茶帯程度の攻防レベルだったんじゃないかな? だけど周りの人間がほとんど
殴り合いを経験したことないなら、青帯や茶帯であろうとどれだけアドバンテージが出来るか想像に難くない。

>朝基の証言では松茂良や佐久間にうんと殴られたとあるし、翌日の記事で松茂良は組手やってたとあるな。

ここら辺はちょっと怪しい。朝基自身が前に書いたように、夫婦手だの手組みだの掛け試しだの独自の創作を連発してるし
唐手の歴史や型などに関しても盛ってるところがあるから、おそくら先人達が組手をしていないという不名誉(?)を軽減
させるために、やってた事にしたって可能性が俺は結構な率で高いんじゃないかなと思う。
なんせ、誰も見たことなく体験したのは朝基だけだしね。
0851名無しさん@一本勝ち
垢版 |
2019/03/26(火) 16:26:45.38ID:mohFffqs0
>朝基、朝勇、屋部、松村、松茂良、佐久間はやってますね。

だから、厳しいことを言うようだけど、この中で朝基、その組手の練習相手であろう屋部
それと自由組手の走りだった松村くらいかな可能性が高いのは。他の三者も可能性なくはないが
朝基の証言だからちょっと怪しいし、そもそも記事をよく読むと自由組手ではなく約束組手とも
取れる表現だから微妙なんだよな。

>糸洲とか船越の時代に型が偏重され過ぎたのかな。

唐手よりも前に柔道や剣道などがとっくに学校の正科に入ってる。
型が偏重っていうより、そもそも他に目移りするような目新しい武道の選択肢があるから
そっちに人が流れて元々組手は少数しかやってなかったのに業界全体の人数も減ったから
余計に先細りしたってのが実際のところなんじゃないかな。

例外として、宮城と許田は若い頃限定だけど自由組手を経験してると思うよ。
でなければ、周りが首里手や泊手の関係者ばっかなのに、新興創作の那覇手なんて一派を
たった2人にも関わらず普及なんて出来ないよ。おそらくそれなりの自信があったんだろう。

まあ若い頃の貯金じゃないかな。東恩納が生きてたころに、2人がパンツ一丁で
分解らしきものをやってる写真あるじゃん? あれは写真撮影のためにやったといわれればそれまでだが
そこで東恩納が「おい、ちょっと実際に技を出し合って戦ってみろ」って一言いえばそれで組手開始ですがな。
子供同士の組手を大人がけしかけるのはいつの時代も一緒。

2人が20代半ばくらいだっけ? 東恩納が亡くなったからそれ以降組手はしてないと思うけど
まあ多分10代の頃限定だけど2人はある程度殴り合いはやってたんじゃないかな。
もちろん松村同様、東恩納もそれなりに誰かと経験はしてたと思うしね。三戦裁判とかはアレ真っ黒なウソだけど。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ニューススポーツなんでも実況