船橋オート:オートレース発祥の地 21
昔山側スタンドの1階にも売店食堂ってあったっけか? 谷村新司が亡くなったけど、よく島田信廣と似てるって言われてたな 谷村新司と島田は学年1つしか違わないのか
島田は随分早く亡くなったんだな 船橋って以前ヨシカンが実況やってたことなかった?
なんか見たことあるような・・・。 昔うちの爺さんが船橋はシェブロンとフォーカスとルックスが強いっていつも言ってた。
誰のことだ?今でもいるのか? ↑ シェブロン斉藤利幸、フォーカス野村武、 ルックス ?? 6期飯田なら全盛期はジャンセン号
同期斎藤より先に船橋のトップに立ったけど長期政権
にはならなかった。 ルックス→セントポーリアと
乗り替わるたびに弱くなった選手
ホウジョウ須之内哲也がケガで選手生命を絶たれた後
飯塚将光が頭角現すまでの空白期を埋めたのが
6期ジャンセン飯田とシェブロン斎藤ラブウイングス藤崎
7期タイトル藤本フォーカス野村ツガル三浦かな
ちなみに須之内哲也が面倒をみたミスターオート飯塚
車名を受け継いだけど須之内は「ホウジョウ」
飯塚は「ホージョウ」だった 飯塚将光は9期、藤本和夫は10期。
藤本は飯塚の外に置かれたこともある。ゴール前のチョイ差しで
飯塚を下した時、飯塚を頭で買ってた知り合いの鉄工所の親父が
夜逃げした。 2期須之内哲也が引退した後、当時彼の主戦車だった
「エバホウジョウ」を6期の坂田文雄が譲り受けて
乗った。
「乗りて」の違いであそこまで差が出るのかと
思うほどに「エバホウジョウ」は腐っていった。
須之内哲也のエバホウジョウの強さを知るものにとっては
見るのが辛かった。
船橋最強伝説の序章というか起源は間違いなく
須之内哲也だった。
彼曰く「若手で元気が良すぎて見ていて危ない選手がいる」
「うまく指導すれば強くなる」
のちに「ホージョウ」の名を行け次ぐ次代のスピードスター
を指導したのも彼でしたね。 ↑
三浦の全盛期は2級車のパイオニア、浜松遠征で当時トップ2級車の上村の同ハン外におかれた、しかし走りが乱暴で危険だったな、それが原因か上級車にのり替わるごとに弱体していった。八百長で引退した浜松の和久田昭芳を彷彿させた乱暴者 今は更新されたかもしれないけど2015年までの
各場レコードタイム 2002年ごろに集中しているのは「名古屋タイヤ」
が原因 「名古屋タイヤについての詳細は需要があれば(ry…
【レコードタイム】
船 橋 6周 3.308 池田政和 2003/01/13
8周 3.310 木村武之 2002/12/24
10周 3.318 島田信廣 1991/02/14
〃 3.318 高橋 貢 2009/12/31
2級車 3.344 木村武之 2000/12/05
川 口 6周 3.313 浅香 潤 2002/01/29
8周 3.302 木村武之 2002/01/30
10周 3.296 池田政和 2002/01/30
2級車 3.365 荒尾 聡 2002/01/29
伊勢崎 6周 3.294 高橋 貢 2002/12/30
8周 3.317 竹谷 隆 2002/03/05
10周 3.312 池田政和 2003/11/26
〃 3.312 木村武之 2009/11/03
2級車 3.332 荒尾 聡 2002/12/10
浜 松 6周 3.316 伊藤信夫 1999/12/13
8周 3.305 竹谷 隆 1999/12/07
10周 3.284 伊藤信夫 1999/12/08
2級車 3.365 木村武之 1999/12/14
飯 塚 6周 3.303 久門 徹 2003/01/18
8周 3.294 有吉辰也 2003/12/24
10周 3.300 片平 巧 2000/12/13
2級車 3.349 久門 徹 2000/12/13
山 陽 6周 3.313 濱野 淳 2002/10/29
8周 3.298 伊藤信夫 2002/11/26
10周 3.316 濱野 淳 2002/11/27
2級車 3.348 荒尾 聡 2002/10/29 今は無くなったけど3級車も
船橋
3.51 沢邉和秀 ベリー熊本 (目黒) S51年5,31
川口
3,52 篠崎実 クールミッキー(東洋)48,4,30
伊勢崎
3,51 内原孝志 ポルシェ107(目黒)51,12,14
浜松
3,52 宍戸繁 ショック (目黒) 52,3.8
山陽
3,52 堀 勉 トムバース (目黒) 52,11,23
新藤敏彦 クラスティーナ(東洋)51,6,8
飯塚
3,57 永富高志 パワーアップ(目黒)59,4,7
昭和59年度版オートレース名鑑より抜粋
8 歴代3級車最強は……
11期 澤辺和秀 登録番号5398
だね! >>26
1976.3.13
1976.3.19
2節連続で優勝してるね 前に3級車史上最高と言った澤辺くん
ガッツクマモト→ベリークマモト→2級車ブロークマモトと
乗り継いだけれど、2級車の成績が思ったほど良くなかった。
原因はいろいろあったのだろうけど、成績好転の決め手として
選んだのが「3級車のスロットルコントロール感触の再確認」
もう、記憶は定かではないがブロークマモトかシラヌイ(ともに彼の2級車)
から「ヒノクニ」って車名の極東3級車に乗り戻った。
1節か2節かも覚えていないが、その選択は「功を奏した」とは言えなかった。
結果としてみれば、澤辺は3級特化型だったのかな。ケガの影響もあり
同期島田には及ばない成績に終わった。
Bアイザクソンの頃は澤辺圧勝もAマーズでは逆転された感じ? あんまり長いと読みずらいから>>32の続き
澤辺の伸び悩みで思い出したのが「飯塚将光の幻のライバル」の話
昔話だから、興味がない方はスルー推奨です。
花の9期生養成所時代、梅村貴司美(うめむら きしみ)という選手候補生が
いました。 養成所では飯塚将光の10m後ろのハンデから走っていたのだが
飯塚地区に配属されたもののデビュー戦で落車殉職という不運に見舞われた
飯塚選手の現役時代のコメントで「自分がどんなに努力しても勝てない雲の上
の存在」 「彼が生きていればこんなにタイトルは取れなかった」
「オートレースの歴史を変える選手になっただろう」 とか、思い出を語った
オートレースを長年見てきた経験からすると、聊かの思い出補正とリップサービス?
が含まれたコメントだったと感じた。
彼が(梅村くん)が事故に遭遇すること無しに現役生活を全うしたとしても
飯塚将光を超えることはなかったと思う。
特に養成所の成績はあてにはならないからね。(参考にはなりますが…)
澤辺、島田の11期、養成所の最高成績は川口配属の下垣内至(養成所検定タイムは
3級レコードの3,54) だった。 今になれば誰が強くなって誰が伸びなかったかは明らかだよね。
ま、朝暇だから書いてみたけど「ぼけ老人のたわごと」でご容赦願います。 浜松で一番がっかりは吉田富重。
ラン、ベルギャラン当時はどれほ強くなるかと思ったものだ
次に奥川、片平より将来性はあったのだけど、まあ竹中一成も同じだけど 片平は新人の頃にキブロワイトとの出逢いが大きかったな 28-31期の卒検で40切ったのは36武藤、37青山(新タイヤ)、39中村だけで、これら全員SGホルダーだからやはりセンスが全て >>35
毛髪の量に比例して成績が落ちてきたな。
ランフォーユーってのはどうしてるんだ? 今にして思えば花の19期といわれながら、片平が突出してて、岡部と政信がちょい頑張ったくらいであとはしょぼかったな 花の19期から地元市会議員がでたじゃないか。1期だけだけど おれは小関勝治ルーラーのチョイ差しが
忘れられんな 船橋オートレース場って開催期間中 朝早く行くと、入場料を払わなくても入れたんだけど、場内で野菜とか服を売ってるおばちゃんがいたけどあれって何だったの? >>43
窓口の売り子のおばちゃん様に販売していたんじゃね?
一般の.お客も購入出来たけど。 昔は入場門開けっ放しだから出入り自由だったが、シャッター閉める様になって入れなくなった
船橋は朝練見学席があったが、川口は締め出されて最後のスタート練習しか見れなくなった 2単時代、船橋は川口の6割程度の入場者数でも客単価は6場で一番高かった。
8車8枠→3単導入の流れで大口客が逃げてしまった 最終レースだけで1億売れてたもんね
のんびり予想してると混みすぎて買えないこともあった 仲口は昨年7/20山陽一般開催選抜戦(1着)以降出走していないんだね ミスター船橋は健在?彼を超える予想屋はまだ現れない。 イベントホールあったけど、数名の客しか利用してなかったな ミスター船橋を最後に見たのはパン屋だな
あの人、店員にもあの調子でギャグみたいなこと言って笑わせようとしてた 昔船橋行く時は裏の駐車場をよく使ったな
千葉方面から行くと海沿いの道が便利だったから 屋根付きの長い通路が懐かしいな
植栽は山茶花だった
全盛期は裏門にいか焼きと予想紙売りがいた 昔山側スタンドの上のほうに美味しいタンメン屋があったよな たしかに船橋はおいしい食堂や売店がいっぱいあったよな
川口とは大違いだった 東京豊海冷蔵、厚生冷蔵、東京都生コンクリート工業会 山側の階段にあったコンフリー湯麺な
正門入ってすぐ左にあったボロい食堂もうまかった >>62
3軒並んでたな
俺の好みは、一番左の店だった >>59
あの料理人
今は北九州の空港で腕をふるってるらしい タンメン屋の親父、20年前でも60代ぐらいだったと思うがw 駐車場から海側の入場口に向かって歩いていると、万年塀の向こうでズンズンとカラふかしする音が聞こえると胸が高鳴ってソワソワの頂点に達した。 元船橋オート職員で10年以上前、MIXIに選手の素顔などを色々書いてくれていた人がいたけど、
今見たら保永について書いたもの以外全部消えていた
バイクのツーリングなどでプライベートでも選手とかなり付き合いがあったようで、特に島田グループとは親密だったとか
本人の結婚式では仲人を島田にやってもらい、仲口も来場してくれた、芝崎とは特に親しく退職後も連絡を取っている、
ダイタンは酒飲み過ぎでダメになった…とか興味深い話が色々とあった うちの会社の下請けで入ってるオヤジは、オート基地外で芝崎や梅内なんかと美咲町で飲んでると言ってた。たまに若井も来てることがあり、腰の低い穏やかな選手だらしい。 海側スタンド下の焼きもちは美味かった
船橋行くと必ず喰った 梅内、広瀬、縫田、片平、船橋花の19期だったけど
1人は本当、残る3人も〇んだも同然の衰え方。 みんなとっくに60過ぎてんだから… 篠崎や貢みたいなのが異常なだけであって普通はそうなるでしょ
いくらセンスがすべての競技だとは言っても 芝崎は先月、新京成の三咲駅前の踏切でゲロ吐いてた。 また向正面からの島田のスーパーハンデ戦見たい
あの独特口調のオバチャンアナ元気なのかな
オート研究の船橋川口の表情読むの楽しみだった 藤本和夫って先輩風吹かしてかなり性格が悪かったらしいな、記者も藤本が苦手な人が多かったらしい 初めて行ったのが35年前
正門入り口で演歌が流れてたw
1コーナ辺りの壁に八選手のポスター有ったが
誰だったんだろ? 和久田がそういうのに載るとしたら最後に上位ランクにいた86年下期まで 大井オートって競馬とダブル開催あったの?
馬もうるさくて驚いたのでは遠征馬とかw >>81
あのポスター知ってるのですか?
あの頃試走タイム場内テレビで手書き板だった
そして専門誌は錦糸町駅で買った前夜番のオート新報持ってたw >>79
俺は藤本和夫の大ファンだった。ファン感謝祭の時は必ずサインと握手をお願いしてた。片平がまだニキビ面のデビューしたての頃、こいつのサインも貰ってやってくださいよ、と言ってた。後年、片平があんな凄い選手になるならサイン貰っとけばよかったと後悔してる。 バックスタンドからの眺め最高だった
昔のトラ時代はスタンドが音で響いてた
よく酢蛸にタンメン食べたな
調子悪いと場所変えて千葉競輪、江戸川競艇
行った事あった今となっては良い思い出^ ^ 次のレース前に腹ごしらえしようとしてたのか、3分くらいでタコ焼き2柵を角のポケット瓶で流し込んでケロっとしてる強者がいた。 あそこはアル中も多かったな。それこそ隠し持ってたポケット瓶のウィスキーをちびちびやったり、癌で顔半分無くなってるおっさんが包帯ぐるぐる巻きで予想紙に食いついてた。 オレは抜け道を多用して慎重に運転する必要があったから酒を飲んだことなかったな あの倉庫や山側スタンドで反響して、他場では味わえない爆音が魅力だった
トラの唸る様な爆音は船橋でしか聞けなかったな 飯塚が現れる以前は最弱の地区?稲垣、斎藤、飯田位しか出てこんし、須之内や高澤は短命だし遠征実績もないし ザウスが出来た前後頃が船橋のピークだった
無料駐車場は午前中で埋まるし、仕方なくららぽーとの駐車場に止めた事もあった
レース場寄りの駐車場のフェンスには人が通れる大きさの穴が開けられてた
週末はららぽーとで若松から動かないから、裏側の第二に車止めて帰りは港を回って花輪から京葉道路だったわ 一般開催でも片平、島田、岩田、阿久津、梅内
が走ってて記念レースだったよなw 昔山側スタンドがメインスタンドだったよな。
しかしあれは珍しいよな。
全国どこを見ても、バックストレッチ側がメインスタンドなんて、
競馬、競輪、競艇場でもないよな。 >>98
山側スタンドは市街地方面の防音壁を兼ねた建物だったんだよ
海側は当初サーキット時代のスタンドを使ってて、開場5、6年頃から改築して海側スタンドになった なぜ山側にゴール線を作らなかったかと言うと
スタート時にマフラーが隣の若松団地の方向をがっつり向いてしまうから
それであの独特なレイアウトが生まれた スタンドから見下ろして見たり、フェンス際から選手と同じ目線でレースを見たりしたが、結果的に4角からゴール線の直線をフェンス際で見るのが最高だった。 山側1Fの売店 安くてうまかったな
2F無料のお茶は出がらしで薄かったw 初めてのデート誘ったの船橋オート
バックスタンドからレース見せたら
あまりの音の五月蠅さに驚いてたよw 就職で東京に配属されたが一年で船橋に転勤。
社宅があるとこの最寄りの駅が京成のセンター競馬場駅・・今は名称が変わったが・・
当時はパチンコやるくらいで公営ギャンブルは無縁だったが ある時そとから爆音が聞こえてきた
人に聞いたらオートレースの音だって教えてくれた・・・
そこからだな。何故か引き寄せられたわ まだ19期が単気筒だった 船橋は6場の中では1番都会だったせいか、数少ない女客や店員も奇麗な子が多かったな 昔の爆音と8車6枠のレースが見たい
どっか田舎に作ってくれないかな? お守りに 5−5、5−6、6−5を枠で買っておく。 よく人気薄の56 65は買ったよ
5枠6枠は軽ハンだから
最初見せ場あるからw >>115
それは知らないな
よく島田が3枠、片平が4枠だった記憶がある 岩田は7号車が好きだと言っていた。ダイレクトもタンク緑色だったし好きだったんだな。 3単が始まる前、1998年から2年間だけ2単8車8枠の時代があった
勝負服の色をファン投票で決める事になったが
競輪と同じ7枠橙、8枠桃に落ち着いた
その頃は6枠時代の名残で0ハンが8号車、最重ハン大外が1号車だったが
ビギナーに分かりにくいって事で0ハンから1号車に改められた 最重ハン大外は4号車が多かった
1号車は勘違いだわすまぬ I号車が最弱ってなんか違和感あるんだよな
いつも1が強い競艇やミッドナイト競輪やる
俺にとっては 3号車赤い勝負服のバイカウント田中耕三は必ず買った。1号車の0ハン池谷も良く穴を出してくれた。 片平は山側スタンドで見てると
試走もゴール後もフェンスギリギリをすごいスピードで走ってたなあ >>122
田中3号車で確かに穴だしたよね
俺も60倍の配当取らせてもらった記憶があるw
池谷は知らないけど池葉はよく取らせてもらって大好きな選手だった。死んでしまったらしいが >>114
当たりが8通りあるから
俺も迷った時は買ってた 最強地区は間違いないが一定数最弱クラスも存在した、福本良成、菅菊男、佐久間善英、斎藤昇、古谷進、小井土高盛、池谷元志、佐藤慎吾、蓮沼節夫、大川進三郎今でいうと皆B級80以降クラス
ここらが飯塚、板橋、斎藤、島田、らと混在してた、だから飯塚はハンデ140って時があった そのB級底辺クラスの選手たちが夏場の熱走路でヒラヒラと逃げて大穴をだしていた。 山側の一階に「約束〜」って叫ぶ
おばちゃん予想屋あの頃で良い歳だし、もう永い旅に出たんだろうな。
中穴辺り当てると場内走り回る予想屋もいたw ミスターの銀行レースの朱書きが良く出た時代だった
出目はほぼ決まってて、いつもいくら張るかを考えてた 往年の船橋 正月開催の枠番 0オープン
@阿久津
A片平
B飯塚
C岩田
D梅内
E池葉
F島田
G宮城 >>135
やっぱり片平島田で決まったの?w
配当2倍くらいでw こんなの阿久津の先行を片平島田岩田が捕まえて
3連単激安でしょ?wあって阿久津の3着