【知ってる人は】最重ハン選手【知っている】
今は軽ハンでも昔は最重ハンの選手や武勇伝を語ろう。
引退したオート職人も可
例えば
川口・・・古橋、宍戸、且元、篠崎、菊池幸一・・・
伊勢崎・・田代・・宍戸・・鈴木清市、湯浅、上野
書ききれません・・・
みんなすげーな。年いくつだよ。廻谷なんて読めねえよ。
畦坪なみの難読名。 過去一番の難読名は飯塚5期生の「塒 敏明」 だと思う。
「ねぐら」読めたらスゴイ 貢のデビュー当時、川口決勝の時、宍戸繁が最重ハンだったような・・・気が
貢の力走でブッチギリ優勝だったかな? 小松くにかず 速攻逃げ切りで強かった
特に0オープンは強かった 大久保哲司
ビッグレース1号車で、よく穴あけてたな。 そういえば川口の阿部さんの三角走法知ってる方、どんな走法かおしえてー >>296
阿部ちゃんの走法 (三角走法とは当時は言わなかったけどね)
本人談 (昭和50年ごろかな)
「ツッコミでなるべく車を倒さずに入っていってコーナーの真ん中で車を押さえ付けて
立ち上がりに向かう走法」
解説によると(当時の浜松の場内新聞に書いてあった)
「突っ込みで車を倒すと後輪が滑るためグリップを締めなければならないので速度が落ちてしまう
これを補うため立ったままの姿勢で入っていくのであるが、上手く車を押さえ込まないと孕んで
しまうので難しい」
当時の阿部選手の凄さは浜松の選手へのインタでも垣間見える。
某浜松選手
「他の選手がインへ突っ込んでくるとぶつけられるという恐怖感が湧くが
阿部選手が入ってきても別にコワイとは思わない」
全盛期は短かったが(落車により)ハンデ交差などで考えると間違いなく最強選手の一人だった。
舗装路になってからは各地区最重ハンの更に20m後ろから走った選手って、彼以外はほとんどいない。 >>278
1号車の石川祐治ね
松丸の独走力が上だったんじゃなくて、当時の伊勢崎主力と山陽主力のレベルが違いすぎただけ
当時の石川が浜松や飯塚ならかなり勝ててたんじゃないかな? むかーし、広報で、ダート時代のJAPエンジン車にはハンデ1000なんてことが
あったと書いてあった。 誰か且元や阿部とかの全盛期のレース動画うpできないかな? 伊勢崎に関して
松岡 松丸 鈴木利あたりは常に10前が定位置だった。
絶好調時に一瞬だけ最重ハンになっただけであっというまに
もとに戻ったはず。
そのころ田谷野や青山あたりが10前の最強で、好調時
にはすぐ最重ハンに下げられてた。でもって全然勝てないから
また10前に戻る。これを繰り返していた。
遠洞、馬見塚、大塚賢は最重ハンを定位置としていた。
最重ハンの中では最弱ではあったが、ある程度の期間は
維持していた。遠洞は川口のグラチャンで優出もあったはず。
青木勝 清水卓 伊藤幸、伊藤正あたりが最重ハンに
定着したのと入れ替わりで雑魚っていったような感じ。
柿沼、中畠が新人のころのはなし。
川口に関して
スーパーハンデは
福田茂 広瀬 阿部 篠崎 且元 釜本
遠征で飯塚、岩田、鈴木辰 内原クラスが来るとは
同ハンだったが、
やや落ちるA級
(池浦 小関 板橋 保永 上野 鈴木清 宍戸幸クラス)
は10前に置かれていたな。
ただし釜本はハンデ重すぎな感じはあった。
でも雨じゃないSGの準決勝の0オープンで
島田の2着で優出したことも一応はあった。
スーパーハンデレースの動画ないかなぁ?
一度その雄姿を見てみたい セア一斉乗り換え直後山陽では、いち早く整備のコツつかんだ岡松と小関が、小林や佐々木ら主力の20後ろから出てたぜ。 私は井澤が川口最強だった時期があったというのが
どうしてもイメージができない。
数年前の森の状態みたいな感じだったのかな?
>>305
鈴木利彦は期待の選手でちょっと違う感じ >>305嘘だね。
馬見塚、遠洞は一瞬だけね。田谷野や青山は常に最重ハン。 >>309
「井澤の前に井澤無し、井澤のあとに井澤無し」って予想屋が言ってたくらい
チョウバツな時期はあったけど、期間的には半年くらいかも。
そして大外にはなったが、後ろに置かれることは希だったから記憶には残りづらいのだろう。
練習中の怪我(たしか飯塚か山陽で、ノーヘルウイリーだった記憶)で長欠、そのまま引退だった。 ヒーローとかビッグヒーローとか
グランプリってのも乗ってなかったっけ?
もったいねえよな、練習中に頭打つなんてよ ヒーローで思いだしたんだけど似たような感じの「スーパーユーロ」ってバイクに乗ってたのは誰だったけ?
川口に遠征に来てて強かったオヤジレーサーいましたよね
川口以外の所属の選手 井上正廣じゃねーか?違うか?
そんな車名の奴、確かに居たな >>318
あ、多分その人だ
川口遠征にきててピンラッシュしてた記憶ある
専門新聞も◎◎◎◎で高評価
まあ、強かったと言っても優勝戦とかに乗ってくる選手ではなかったかな? 中堅級以上、最重ハン未満って感じだったかな
雨は抜群に上手かった スーパーユーロは川口遠征に来てピンラッシュしてた
あの時は雨降ってたかも
何このオヤジ?オヤジのくせに強え〜って記憶w 風間は体が大きかったな。
北島興いわく「人間ブルドーザー」。
俺が初めて川口に行って驚いたのが0ハン逃げの多いこと。船橋ホームだったから
結構違和感があった。その中でも森田清一ムサシオーザ?かな 逃げ切って勝ったのを
何故か鮮烈に覚えてる。 風間義夫は 173,5cm 71kg だった。
井澤と風間の強さは単純には比べられないけど、全盛時対決なら井澤に軍配かな
ま、風間は全盛期に東洋のA気筒の開発に力を注いでいたから成績的にはちょっと不利だけど。
昭和59年後期のデータが残ってるから参考までに
風間義夫 ウインモア(トーヨーA気筒)
出走回数 68回 1着 15回 2着10回 3着5回
最高タイム 3,43 平均タイム 3,50
井澤芳雄 MR・ヒーロー(メグロ A気筒)
出走回数 67回 1着 16回 2着16回 3着14回
最高タイム 3,42 平均タイム 3,48
ちなみに森田清一のムサシオーザもこの時代だね。 70年代なら 森田清一は
ムサシオーカン(トラ)で、 広瀬登喜夫がいなかった5年間川口の看板選手だった。
対戦は少なかったけど、船橋2期の須之内哲也ホウジョウ(トラ)との戦いは面白かったんだよ。
ニシカタのとっつぁん!てよく聞いたんだが
どんな選手だったのですか?
西さんはダートの頃は外ばっか走ってるから
炭が飛んできて際で見てる客は作業着が真っ黒になってたりしてた。
結構パンク落車が多くてよく踏まれてたね
弱音を吐かない精神的に強い選手だったよね
330ありがとー
へー。そんなガッツマンだったんだ!
ダートはビデオでしか見たことないので広瀬のダートオーも
見た事ないんです。
神とよばれるその走りを観たかった >>334
いいんだよ。
須之内の弟子が飯塚だから譲り受けたんだよ。 う・・・そうだったのか
ホージョーってカコイイ車名だよね 鬼だよ鬼!
ミスターオートの飯塚将光が脱帽するんだぞ >>336
ホージョウの由来 飯塚将光コメント(2008年5月)
自分がデビューした時に付いた先輩が「ホウジョウ」っていう車名で乗ってたんですね。
その先輩が自分がデビューした年に地元の開設記念のレースで落車して、下半身不随になって、選手を辞めて…
自分はその人の下に付いていたんで、先輩の車名を付けさせてくださいっていう形で今に至ってます。
その先輩が須之内選手っていう2期生の選手だったんですけど、その先輩が去年の12月に癌で亡くなってしまいました。
最後の亡くなる1ヶ月前くらいに2回程会って、自分から選手を辞めるまでは車名を付けると約束しました。
コメントは、「バイクで走る人たち」 (飯塚将光編)より抜粋
http://funabashi-autorace.seesaa.net/archives/200805-1.html
須之内哲也の車名は「ホウジョウ」「北条王」「エバホウジョウ」等
飯塚将光は 「ホージョウ」「ベルホージョウ」等 微妙に違いがあるんだよね。
>>337
船橋の看板選手だった。川口遠征のとき当時の最重ハンの20m後ろから走ったこともある。
当時は川口も今みたいに弱小ではなかったからその強さが分かると思う。
飯塚選手のコメントで分かる通り開設記念で落車して下半身不随で引退。
「須之内 哲也の世界」〜もう一度会いたい〜
http://www.e-nurse.ne.jp/column/sunouchi1.html
こんなコラムもあった。 闘病記だけど。
サブタイトル
「事故に遭わなければ一時代を築いたに違いない元・オートレーサーによるコラム」
最強軍団の礎は彼が築いたんじゃないかな。
今は知ってる人も少なくなったが、当時大井オートで最強になりつつあった高沢健治は
須之内と同期生。そして義理の兄弟だった。 高沢健治も悲劇のレーサー。
20代の絶頂期に病没。弟子は土田一男だった。 で、弱いので有名だった元川口の土田栄治君は
本当は高沢健治の倅さん。師匠が無くなった後、奥さんと子供の面倒を土田一男ちゃんがみていた。
オートレース一家でただ一人だけ才能を受け継がなかった栄治くん。
一男ちゃんが甘やかしたからしょうがないけど…だから、篠崎実も手を焼いていたんだよね。
(詳しいエピソードは栄治くんのスレッドにちょこちょこ書いてあるよ)
なんか感動的ないきさつがあるんだね
。°・(>_<)・°。 ルシールNSはメグロの2気筒だったね。
この時代は福田茂(ザ・ポルシェ トライアンフ)と互格の争いしてたんだ。
最重ハン大外に回ることはなかったけど。
そういえば現在、伊勢崎の上野はどうしたんだろ?
スレチスマソ 川口の数田雅路が最重ハンだった時代を知ってるか?
確か昭和58年だったと思うが
10前で優勝し、最重ハンになったんだ
しかし、全く勝てず直ぐに元に戻った
その時の車名がグレートカブキ
当時、人気のプロレスラーから取った車名だ グレートカブキって目黒の2気筒だったよね。
トライアンフの部品調達が困難になってきて開発されたトラのコピーマシン。
僅かに残った東洋2気筒とトライアンフと生き残りを掛けて争っていた。
HKSフジはまだ単気筒617ccだけだった。いろんなマシンが群雄割拠で
当たり外れが多くて、短期間でハンデが移動したんだよね。
フジの2気筒の登場により淘汰されていくマシンが時代に抗っていたオートレースの変革期の珍時で
意外な選手が最重ハンにおかれた、面白い時代だった。 浜松の奥川裕司
怪我がなければ
まだまだ最重ハンだったろうに >>342
行方は最重ハン最内から先行して、そのまま押切るイメージが強かった。
池田光道や菊池幸一も同様な気が…
数田のグレートカブキ懐かしいね〜
>>346
優一の方?
こいつと馬場は最重ハン10前だね
噂だと河野利春と仲が悪かったらしい
橋本のオヤジは船橋の4輪の選手だったらしい 橋本優一の親父は川口所属だよ。
橋本弘 ピゴラスとかイナズマって車名だった。
最高ハンデは最重ハンの10前くらいだったかな。
昭和46年12月の四輪廃止まで頑張っていた最後の四輪戦士の一人だいね。
奥川、スタート巧者で1枠白服の時は頭買いだった。7、8年前の話だが、大怪我の後は飯塚遠征を避けてた。当時、飯塚若手イケイケだった久門、篠原。ダーティ小野らの走りが危なっかしく怖かったのが理由らしい。 石井正人が最重ハン最内にいたとき一瞬あった。
島田 岩田 片平 と並んでたw >>358
フジのVカラーで記念取って確変した時期があった
その記念優勝の上がりが3.36だったのを今も覚えてる ゼファー杉山も一時最重ハンではなかったか?
ゴールデンレース優勝オープンレースで飯塚を打ち破った
フジで腰悪くして新機種導入希望してたっけ 最重ハンから10前になった田代ってホントに引退なの? 信じられない話だか本当の話である!
あの鶴久正美が最重ハン、しかも大外に置かれていた時代があるんだ
あれは1985年…阪神が優勝した年だったな 鶴久正美のトライアンフ。ハリーバードンとベンホーガンは当時全国最重ハン。
現行オートの最重ハンが100人もいる時代ではなく、最重ハンは各場3人くらいだったから
今とは比べ物にならないくらいの価値があった。 鶴久はその後トーヨー2気筒でドラエモンに乗ってたな 13期生は阿久津、田中耕、木村光、清水右、菊池、鈴木辰、藤本剛
花の19期は岡部、片平、湯浅、青木勝美、須賀、梅内、小関、故中村政信
29期なみに層が厚い
今開催されているプレミアにも5名が出場
ちなみに20期が0、21期が1人
いかに19期が当たり年だったか分かると思う オートレースの期別で【花】という冠がついたのは、6期と9期と19期だけだからね。
田代、岩田を含む40人以上養成された15期でさえ【花】は付かなかった。
SG覇者が複数でれば「花の29期」って言われるかな。
蛇足だけど「花の6期」の主な選手たち。(個人的にだが、史上最高の当たり年は6期だと思う)
阿部光雄 全盛時代は全国最重ハンの20m後ろから走っていた
風間義夫 ブルドーザーって言われたこともある。オート選手にしては大柄だった
嶋田守孝 神様の愛弟子。記念レースで師匠がトップなのにインに切り込んで師匠が落車したことがある
山元正次 変人ぶりでは嶋田と6期の2強。気に入らない選手のタンクにオシッコ事件とか逸話あり
伊藤力示 2級アタックで第7回日本選手権を取った。浜松1期伊藤博康は兄。
鈴木 収 タイガーカブで一時代を築いた。
加納好和 第8回日本選手権覇者。 雨の鬼といわれ雨で消えたら万車券確定
飯田隆啓 須之内が引退後船橋オートを支えた選手。全盛期船橋では敵無し
斉藤利行 シェブロンが主戦車。息の長い選手だった。
その他、最重ハンを背負った選手たち。 石井正人、藤崎偉志、廻谷晃一、中村豊司郎、坂梨高行など
落車や年齢で衰えちゃった時代しか見ていない人にとっては信じられないかもしれないけどね。
ナナシーさん・・・
6期ってすごいねー
俺は雨光雄、風間、守孝、山元、加納、シェブロン、正人しか
覚えが無いのだが、特に加納の雨は少し前の釜本、福田茂、
現在の岡部や竹谷なんか比じゃないくらい強かった印象 >>372さん
だよね! 6期って凄かったよね。 川口オートレース場が一番面白かったのが
6期が3級から2級、そしてトラに乗って全盛期を迎え始めるころかなぁ〜
平日で一万人以上、日曜日は二万人。お正月なら五万人を超えるファンが来場した古き良き時代だった。
ちなみに川口6期は10人の大量配属だった。
阿部、風間、嶋田、廻谷、大塚、敷地、石垣、中島、金子とあと一人、1972年10月2日に3級車で殉職した佐藤神選手。
佐藤神は3級車から2級車に乗り換える直前でした。残された新車の2級車は、仲が良かったシキ〜チがラブロックって
車名つけて乗り継いだんだ。 スレチなジジイの昔話…でした。 自分がオートレースを見始めた時は廻谷がフジのビショップってのに乗ってて、いつも半周位遅れてゴールする程の弱さだったから廻谷が強かったなんて信じられない。
晴れで試走タイム80とかだったし(笑)
怪我で弱くなったんですか? ナナシーさん!
雨光雄の三角走法ってどんなでしたの?
かなり強かった時代の走法みたいですが、
2級車みたいな感じなのかなー? >>374
下手になった原因。予想屋が言ってたのを信じれば、
落車の影響で左手の握力がほとんど無かったらしい。
廻谷が最重ハンの大外に回ったのは半年ほどかな。セキシン号ってトラの時代
>>375
全盛時代の阿部ちゃんコメント
「車速を殺さないようになるべく車を寝かさずに突っ込んで、
コーナーの頂点で一気に車の向きを変える」言葉にすると簡単そうだが…
阿部ちゃんと同じようにバイクを立てて侵入すれば、他の選手なら金網直行コース
異次元のスピードでインから他者を抜き去り、立ち上がりも孕まない見事な走法だった。
ちなみに三角走法は秋田敬吾のほうが有名だった。
阿部ちゃんはどっちかと言うと三角を切るより突っ込み重視の走法だったから。
三角走法ってのは簡単に言うと「ものごっつい凄い切り返し」のこと。逆切って向きを変えたりした。
今は、タイヤやエンジンの特性でこんなことすれば車速が落ちちゃうから無意味だけどね。
昭和51年浜松オートに行った時、場内新聞に阿部ちゃんの記事が載っててストックしてある。
ココに、全文書いておくから興味があったら読んでちょうだいね。
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阿部光雄選手は「最近のレース界は全体的にレベルアップしてきているので、並みの努力ではとても追いつけず
突っ込みにしても立ち上がりにしても自分なりの武器を持たなければダメだ」と説明してくれた。
彼の強さを尋ねたところ「突っ込みで車を倒さずに入っていき、コーナーの真ん中で車を抑えつけて立ちあがりに向かう走法」と答えた。
これは突っ込みで車を倒すと後輪が滑るためグリップを締めなければいけないので速度が落ちてしまう。
この欠点を補うためみ立ったままの姿勢で入っていくのだが、上手く車を押さ込まないと膨らんでしまうのでなかなか難しいという。
地元の選手(この時の浜松の選手たち)に聞くと「他の選手がインへ突っ込んでくるとぶつけられるという恐怖感が湧くが、阿部選手が入ってきても
コワイとは思わない」と言う事であり、いかに阿部光雄の走法が安定してスマートであるかが分かる。
しかし、これとて一朝一夕になし得た成果ではなく、長い間の努力と練習が実を結んだ事であり、
浜松の選手達も阿部の努力に敬意を払うとともに「ヨシ、俺たちも!」という気持ちを起こさせられたようである。
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※ちょっと日本語が変な記事だけど全文まんまです。(ミスタイプはあるかもw)
※全盛阿部光雄の強さの一端は記事から読み取れると思います。 ついでにその時の浜松の番組も(暇だから) 結果は残念ながら覚えていない…
1 ザ・ヒューマン 10 菊池弘光 東洋568cc
2 ビクトリマシン 20 坂田啓一 東洋574cc
3 ムホーマツ 50 佐藤次郎 トラ659cc
4 カツトシ 10 家泉梯二 東洋602cc
5 マックル 50 伊藤力示 トラ564cc
6 ランドプリンス 0 兼子 広 東洋512cc
7 ゲット 30 毛利直樹 東洋568cc
8 ウエザビー 0 山田隆久 目黒512cc
※当時は伊藤博康、力示兄弟が最重ハン。
※佐藤次郎は今の登録名は福井次郎。 生き残っている唯一の元大井オート所属選手
当時からスタートは抜群に早かった。
※家泉梯二はその後1993年12月23日に、残念ながら浜松で殉職。 力示さんも病気で亡くなったねえ
トラのニ級に乗ってた頃だ 訂正 伊藤力示のトラの排気量が間違ってる。
× トラ564cc
◎ トラ654cc
失礼しました。 スレッドがageになってるの気がつかずにレスしてました。
>>387さん すみません。
トラの2級は498ccだったかな。
6期生は乗らなかったと記憶している。
川口4期の吉田泰二のミニタイガーが最後の2級トライアンフだったような気がします。
ちなみに2級トライアンフで活躍したのは「逆ハンの健二郎」のロングウェイや、
佐藤竹男の「トーヨーキング」などかな。
4期生が乗っていた頃の国産2級は東洋、目黒、極東とも497ccだったんだ。
6期生の乗った2級車は512ccの規定いっぱいまで排気量をアップさせたエンジン。
この、排気量アップで2級トライアンフは自然淘汰されちゃったように思っています。
5期生は川口配属が4輪選手だけだったので記憶に無いんだいねw
あら、安価間違えちゃった…orz
>381のレスの安価は
◎>>379さん です。
朝から、頑張りすぎ??で疲れちゃったかなぁ〜
?やんだし仕事いこっとw 浜松ー辰巳
飯塚ー水崎
山陽ー小関、畑、
船橋ー花澤、谷川、山田真、牧野、飯塚、阿久津
川口ー牛君、阿部光
伊勢崎ー塚越、柿沼、金山
以上