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☆★☆【夢】思春期の何でも語るスレ11【恋】☆★☆
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0001Ms.名無しさん
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2021/12/29(水) 06:27:35.860
           
       ,,;⊂⊃;,、 。” カッパッパー♪
       (,,,・∀・)/》
      【(つ #)o 巛 しぬこと以外はかすり傷☆
     (( (ノ ヽ)
            
0002Ms.名無しさん
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2021/12/29(水) 09:59:48.000
『行人』夏目漱石

 女はしばらく間をおいて、ただ「結構でございます」と一口云って後は淋さびしく笑った。しかしその笑い方が、父には泣かれるよりも怒られるよりも変な感じを与えたと云った。
 父は○○の宿所を明らさまに告げて、「ちと暇な時に遊びがてら御嬢さんでも連れて行って御覧なさい。ちょっと好い家うちですよ。○○も夜ならたいてい御目にかかれると云っていましたから」と云った。すると女はたちまち眉まゆを曇らして、「そんな立派な御屋敷へ我々風情ふぜいがとても御出入おでいりはできませんが」と云ったまましばらく考えていたが、たちまち抑え切れないように真剣な声を出して、「御出入は致しません。先様さきさまで来いとおっしゃってもこっちで御遠慮しなければなりません。しかしただ一つ一生の御願に伺っておきたい事がございます。こうして御目にかかれるのももう二度とない御縁だろうと思いますから、どうぞそれだけ聞かして頂いた上心持よく御別れが致したいと存じます」と云った。
0003Ms.名無しさん
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2021/12/29(水) 09:59:59.230
        十八

 父は年の割に度胸の悪い男なので、女からこう云われた時は、どんな凄すさまじい文句を並べられるかと思って、少からず心配したそうである。
「幸い相手の眼が見えないので、自分の周章あわてさ加減を覚さとられずにすんだ」と彼はことさらにつけ加えた。その時女はこう云ったそうである。
0004Ms.名無しさん
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2021/12/29(水) 10:00:08.370
「私は御覧の通り眼を煩わずらって以来、色という色は皆目かいもく見えません。世の中で一番明るい御天道様おてんとさまさえもう拝む事はできなくなりました。ちょっと表へ出るにも娘の厄介やっかいにならなければ用事は足せません。いくら年を取っても一人で不自由なく歩く事のできる人間が幾人いくたりあるかと思うと、何の因果いんがでこんな業病ごうびょうに罹かかったのかと、つくづく辛い心持が致します。けれどもこの眼は潰つぶれてもさほど苦しいとは存じません。ただ両方の眼が満足に開いている癖に、他ひとの料簡方りょうけんがたが解らないのが一番苦しゅうございます」
 父は「なるほど」と答えた。「ごもっとも」とも答えた。けれども女のいう意味はいっこう通じなかった。彼にはそういう経験がまるでなかったと彼は明言した。女は瞹眛あいまいな父の言葉を聞いて、「ねえあなたそうではございませんか」と念を押した。
0005Ms.名無しさん
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2021/12/29(水) 10:00:16.800
「そりゃそんな場合は無論有るでしょう」と父が云った。
「有るでしょうでは、あなたもわざわざ○○さんに御頼まれになって、ここまでいらしって下すった甲斐かいがないではございませんか」と女が云った。父はますます窮した。
0006Ms.名無しさん
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2021/12/29(水) 10:00:26.240
 自分はこの時偶然兄の顔を見た。そうして彼の神経的に緊張した眼の色と、少し冷笑を洩もらしているような嫂あによめの唇くちびるとの対照を比較して、突然彼らの間にこの間から蟠わだかまっている妙な関係に気がついた。その蟠まりの中に、自分も引きずり込まれているという、一種厭いとうべき空気の匂においも容赦なく自分の鼻を衝ついた。自分は父がなぜ座興とは云いながら、択よりに択って、こんな話をするのだろうと、ようやく不安の念が起った。けれども万事はすでに遅かった。父は知らぬ顔をして勝手次第に話頭を進めて行った。
「おれはそれでも解らないから、淡泊たんぱくにその女に聞いて見た。せっかく○○に頼まれてわざわざここまで来て、肝心かんじんな要領を伺わないで引き取っては、あなたに対してはもちろん○○から云っても定めし不本意だろうから、どうかあなたの胸を存分私に打明けて下さいませんか。それでないと私も帰ってから○○に話がし悪にくいからって」
0007Ms.名無しさん
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2021/12/29(水) 10:00:36.410
 その時女は始めて思い切った決断の色を面おもてに見せて、「では申し上げます。あなたも○○さんの代理にわざわざ尋ねて来て下さるくらいでいらっしゃるから、定めし関係の深い御方には違いございませんでしょう」という冒頭まえおきをおいて、彼女の腹を父に打明けた。
 ○○が結婚の約束をしながら一週間経たつか経たないのに、それを取り消す気になったのは、周囲の事情から圧迫を受けてやむをえず断ったのか、あるいは別に何か気に入らないところでもできて、その気に入らないところを、結婚の約束後急に見つけたため断ったのか、その有体ありていの本当が聞きたいのだと云うのが、女の何より知りたいところであった。
0008Ms.名無しさん
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2021/12/29(水) 10:00:45.080
 女は二十年以上○○の胸の底に隠れているこの秘密を掘り出したくってたまらなかったのである。彼女には天下の人がことごとく持っている二つの眼を失って、ほとんど他ひとから片輪かたわ扱いにされるよりも、いったん契ちぎった人の心を確実に手に握れない方が遥はるかに苦痛なのであった。
「御父さんはどういう返事をしておやりでしたか」とその時兄が突然聞いた。その顔には普通の興味というよりも、異状の同情が籠こもっているらしかった。
「おれも仕方がないから、そりゃ大丈夫、僕が受け合う。本人に軽薄なところはちっともないと答えた」と父は好い加減な答えをかえって自慢らしく兄に話した。
0009Ms.名無しさん
垢版 |
2021/12/29(水) 10:00:53.550
        十九

「女はそんな事で満足したんですか」と兄が聞いた。自分から見ると、兄のこの問には冒おかすべからざる強味が籠こもっていた。それが一種の念力ねんりきのように自分には響いた。
 父は気がついたのか、気がつかなかったのか、平気でこんな答をした。
0010Ms.名無しさん
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2021/12/29(水) 10:01:02.470
「始はじめは満足しかねた様子だった。もちろんこっちの云う事がそらそれほど根のある訳でもないんだからね。本当を云えば、先刻さっきお前達に話した通り男の方はまるで坊ちゃんなんで、前後の分別も何もないんだから、真面目まじめな挨拶あいさつはとてもできないのさ。けれどもそいつがいったん女と関係した後で止せば好かったと後悔したのは、どうも事実に違なかろうよ」
 兄は苦々しい顔をして父を見ていた。父は何という意味か、両手で長い頬を二度ほど撫なでた。
0011Ms.名無しさん
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2021/12/29(水) 10:01:11.670
「この席でこんな御話をするのは少し憚はばかりがあるが」と兄が云った。自分はどんな議論が彼の口から出るか、次第によっては途中からその鉾先ほこさきを、一座の迷惑にならない方角へ向易むけかえようと思って聞いていた。すると彼はこう続けた。
「男は情慾を満足させるまでは、女よりも烈はげしい愛を相手に捧ささげるが、いったん事が成就じょうじゅするとその愛がだんだん下り坂になるに反して、女の方は関係がつくとそれからその男をますます慕したうようになる。これが進化論から見ても、世間の事実から見ても、実際じゃなかろうかと思うのです。それでその男もこの原則に支配されて後から女に気がなくなった結果結婚を断ったんじゃないでしょうか」
0012Ms.名無しさん
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2021/12/29(水) 10:01:23.300
「妙な御話ね。妾あたし女だからそんなむずかしい理窟りくつは知らないけれども、始めて伺ったわ。ずいぶん面白い事があるのね」
 嫂あによめがこう云った時、自分は客に見せたくないような厭いやな表情を兄の顔に見出したので、すぐそれをごまかすため何か云って見ようとした。すると父が自分より早く口を開いた。
0013Ms.名無しさん
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2021/12/29(水) 10:01:34.810
「そりゃ学理から云えばいろいろ解釈がつくかも知れないけれども、まあ何だね、実際はその女が厭になったに相違ないとしたところで、当人面喰めんくらったんだね、まず第一に。その上小胆しょうたんで無分別で正直と来ているから、それほど厭でなくっても断りかねないのさ」
 父はそう云ったなり洒然しゃぜんとしていた。
0014Ms.名無しさん
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2021/12/29(水) 10:01:45.840
 床とこの前に謡本を置いていた一人の客が、その時父の方を向いてこう云った。
「しかし女というものはとにかく執念深しゅうねんぶかいものですね。二十何年もその事を胸の中に畳込んでおくんですからね。全くのところあなたは好い功徳くどくをなすった。そう云って安心させてやればその眼の見えない女のためにどのくらい嬉うれしかったか解りゃしません」
0015Ms.名無しさん
垢版 |
2021/12/29(水) 10:01:55.570
「そこがすべての懸合事かけあいごとの気転ですな。万事そうやれば双方のためにどのくらい都合が好いか知れんです」
 他の客が続いてこう云った時、父は「いやどうも」と頭を掻かいて「実は今云った通り最初はね、そのくらいな事じゃなかなか疑うたぐりが解けないんで、私も少々弱らせられました。それをいろいろに光沢つやをつけたり、出鱈目でたらめを拵こしらえたりして、とうとう女を納得させちまったんですが、ずいぶん骨が折れましたよ」と少し得意気であった。
 やがて客は謡本を風呂敷に包んで露つゆに濡ぬれた門を潜くぐって出た。皆みんな後あとで世間話をしているなかに、兄だけはむずかしい顔をして一人書斎に入った。自分は例のごとく冷ひややかに重い音をさせる上草履スリッパーの音を一つずつ聞いて、最後にどんと締まる扉ドアの響に耳を傾けた。
0016Ms.名無しさん
垢版 |
2021/12/29(水) 10:02:04.220
        二十

 二三週間はそれなり過ぎた。そのうち秋がだんだん深くなった。葉鶏頭はげいとうの濃い色が庭を覗のぞくたびに自分の眼に映った。
 兄は俥くるまで学校へ出た。学校から帰るとたいていは書斎へ這入はいって何かしていた。家族のものでも滅多めったに顔を合わす機会はなかった。用があるとこっちから二階に上のぼって、わざわざ扉を開けるのが常になっていた。兄はいつでも大きな書物の上に眼を向けていた。それでなければ何か万年筆で細かい字を書いていた。一番我々の眼についたのは、彼の茫然ぼうぜんとして洋机テーブルの上に頬杖ほおづえを突いている時であった。
0017Ms.名無しさん
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2021/12/29(水) 10:02:12.810
 彼は一心に何か考えているらしかった。彼は学者でかつ思索家であるから、黙って考えるのは当然の事のようにも思われたが、扉を開けてその様子を見た者は、いかにも寒い気がすると云って、用を済ますのを待ち兼ねて外へ出た。最も関係の深い母ですら、書斎へ行くのをあまりありがたいとは思っていなかったらしい。
「二郎、学者ってものは皆みんなあんな偏屈へんくつなものかね」
0018Ms.名無しさん
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2021/12/29(水) 10:02:23.830
 この問を聞いた時、自分は学者でないのを不思議な幸福のように感じた。それでただえへへと笑っていた。すると母は真面目まじめな顔をして、「二郎、御前がいなくなると、宅うちは淋さむしい上にも淋しくなるが、早く好い御嫁さんでも貰って別になる工面くめんを御為おしよ」と云った。自分には母の言葉の裏に、自分さえ新しい家庭を作って独立すれば、兄の機嫌きげんが少しはよくなるだろうという意味が明らさまに読まれた。自分は今でも兄がそんな妙な事を考えているのだろうかと疑うたぐっても見た。しかし自分もすでに一家を成してしかるべき年輩だし、また小さい一軒の竈かまどぐらいは、現在の収入でどうかこうか維持して行かれる地位なのだから、かねてから、そういう考えはちらちらと無頓着むとんじゃくな自分の頭をさえ横切ったのである。
 自分は母に対して、「ええ外へ出る事なんか訳はありません。明日あしたからでも出ろとおっしゃれば出ます。しかし嫁の方はそうちんころのように、何でも構わないから、ただ路に落ちてさえいれば拾って来るというような遣口やりくちじゃ僕には不向ふむきですから」と云った。その時母は、「そりゃ無論……」と答えようとするのを自分はわざと遮さえぎった。
0019Ms.名無しさん
垢版 |
2021/12/29(水) 18:10:59.620
           
このハゲーー!!ちーがーうーだーろー!

  ノノ ハ ∩           ちがうだろー!
 川*`ω´) ☆パーン
  ⊂彡〆⌒ヽ
     (。・_・。) < コロナで禿げま
0020Ms.名無しさん
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2021/12/30(木) 01:36:45.640
ジャニーズとかエグザエルとかのかっこいい人も好きだけど、こういうかわいい?人も好きなんだけどわかる人いませんか(๑´ڡ`๑)
https://youtu.be/kbm8DlSK53I
0021Ms.名無しさん
垢版 |
2021/12/30(木) 06:15:45.770
「御母さんの前ですが、兄さんと姉さんの間ですね。あれにはいろいろ複雑な事情もあり、また僕が固もとから少し姉さんと知り合だったので、御母さんにも御心配をかけてすまないようですけれども、大根おおねをいうとね。兄さんが学問以外の事に時間を費ついやすのが惜おしいんで、万事人任ひとまかせにしておいて、何事にも手を出さずに華族然と澄ましていたのが悪いんですよ。いくら研究の時間が大切だって、学校の講義が大事だって、一生同じ所で同じ生活をしなくっちゃならない吾わが妻じゃありませんか。兄さんに云わしたらまた学者相応の意見もありましょうけれども学者以下の我々にはとてもあんな真似はできませんからね」
 自分がこんな下らない理窟りくつを云い募つのっているうちに、母の眼にはいつの間にか涙らしい光の影が、だんだん溜たまって来たので、自分は驚いてやめてしまった。
 自分は面つらの皮が厚いというのか、遠慮がなさ過ぎると云うのか、それほど宅うちのものが気兼きがねをして、云わば敬して遠ざけているような兄の書斎の扉ドアを他ひとよりもしばしば叩たたいて話をした。中へ這入はいった当分の感じは、さすがの自分にも少し応こたえた。けれども十分ぐらい経たつと彼はまるで別人のように快活になった。自分は苦にがい兄の心機をこう一転させる自分の手際てぎわに重きをおいて、あたかも己おのれの虚栄心を満足させるための手段らしい態度をもって、わざわざ彼の書斎へ出入でいりした事さえあった。自白すると、突然兄から捕つらまって危く死地に陥おとしいれられそうになったのも、実はこういう得意の瞬間であった。
0022Ms.名無しさん
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2021/12/30(木) 06:15:55.290
        二十一

 その折自分は何を話ていたか今たしかに覚えていない。何でも兄から玉突たまつきの歴史を聞いた上、ルイ十四世頃の銅版の玉突台をわざわざ見せられたような気がする。
 兄の室へやへ這入っては、こんな問題を種に、彼の新しく得た知識を、はいはい聞いているのが一番安全であった。もっとも自分も御饒舌おしゃべりだから、兄と違った方面で、ルネサンスとかゴシックとかいう言葉を心得顔にふり廻す事も多かった。しかしたいていは世間離れのしたこう云う談話だけで書斎を出るのが例であったが、その折は何かの拍子ひょうしで兄の得意とする遺伝とか進化とかについての学説が、銅版の後で出て来た。自分は多分云う事がないため、黙って聞いていたものと見える。その時兄が「二郎お前はお父さんの子だね」と突然云った。自分はそれがどうしたと云わぬばかりの顔をして、「そうです」と答えた。
0023Ms.名無しさん
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2021/12/30(木) 06:16:04.340
「おれはお前だから話すが、実はうちのお父さんには、一種妙におっちょこちょいのところがあるじゃないか」
 兄から父を評すれば正にそうであるという事を自分は以前から呑込のみこんでいた。けれども兄に対してこの場合何と挨拶あいさつすべきものか自分には解らなかった。
「そりゃあなたのいう遺伝とか性質とかいうものじゃおそらくないでしょう。今の日本の社会があれでなくっちゃ、通させないから、やむをえないのじゃないですか。世の中にゃお父さんどころかまだまだたまらないおっちょこがありますよ。兄さんは書斎と学校で高尚に日を暮しているから解らないかも知れないけれども」
0024Ms.名無しさん
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2021/12/30(木) 06:16:14.210
「そりゃおれも知ってる。お前の云う通りだ。今の日本の社会は――ことによったら西洋もそうかも知れないけれども――皆みんな上滑うわすべりの御上手ものだけが存在し得るように出来上がっているんだから仕方がない」
 兄はこう云ってしばらく沈黙の裡うちに頭を埋うずめていた。それから怠だるそうな眼を上げた。
0025Ms.名無しさん
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2021/12/30(木) 06:16:22.790
「しかし二郎、お父さんのは、お気の毒だけれども、持って生れた性質なんだよ。どんな社会に生きていても、ああよりほかに存在の仕方はお父さんに取ってむずかしいんだね」
 自分はこの学問をして、高尚になり、かつ迂濶うかつになり過ぎた兄が、家中うちじゅうから変人扱いにされるのみならず、親身の親からさえも、日に日に離れて行くのを眼前に見て、思わず顔を下げて自分の膝頭ひざがしらを見つめた。
0026Ms.名無しさん
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2021/12/30(木) 06:16:31.490
「二郎お前もやっぱりお父さん流だよ。少しも摯実しじつの気質がない」と兄が云った。
 自分は癇癪かんしゃくの不意に起る野蛮な気質を兄と同様に持っていたが、この場合兄の言葉を聞いたとき、毫ごうも憤怒の念が萌きざさなかった。
0027Ms.名無しさん
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2021/12/30(木) 06:16:38.910
「そりゃひどい。僕はとにかく、お父さんまで世間の軽薄ものといっしょに見做みなすのは。兄さんは独ひとりぼっちで書斎にばかり籠こもっているから、それでそういう僻ひがんだ観察ばかりなさるんですよ」
「じゃ例を挙あげて見せようか」
0028Ms.名無しさん
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2021/12/30(木) 06:16:47.480
 兄の眼は急に光を放った。自分は思わず口を閉じた。
「この間謡うたいの客のあった時に、盲女めくらおんなの話をお父さんがしたろう。あのときお父さんは何とかいう人を立派に代表して行きながら、その女が二十何年も解らずに煩悶はんもんしていた事を、ただ一口にごまかしている。おれはあの時、その女のために腹の中で泣いた。女は知らない女だからそれほど同情は起らなかったけれども、実をいうとお父さんの軽薄なのに泣いたのだ。本当に情ないと思った。……」
0029Ms.名無しさん
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2021/12/30(木) 06:16:57.040
「そう女みたように解釈すれば、何だって軽薄に見えるでしょうけれども……」
「そんな事を云うところが、つまりお父さんの悪いところを受け継ついでいる証拠しょうこになるだけさ。おれは直なおの事をお前に頼んで、その報告をいつまでも待っていた。ところがお前はいつまでも言葉を左右に託して、空恍そらとぼけている……」
0030Ms.名無しさん
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2021/12/30(木) 06:17:08.350
        二十二

「空恍けてると云われちゃちっと可哀かわいそうですね。話す機会もなし、また話す必要がないんですもの」
「機会は毎日ある。必要はお前になくてもおれの方にあるから、わざわざ頼んだのだ」
0031Ms.名無しさん
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2021/12/30(木) 06:17:17.440
 自分はその時ぐっと行きつまった。実はあの事件以後、嫂あによめについて兄の前へ一人出て、真面目に彼女を論ずるのがいかにも苦痛だったのである。自分は話頭を無理に横へ向けようとした。
「兄さんはすでにお父さんを信用なさらず。僕もそのお父さんの子だという訳で、信用なさらないようだが、和歌の浦でおっしゃった事とはまるで矛盾していますね」
0032Ms.名無しさん
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2021/12/30(木) 06:17:25.780
「何が」と兄は少し怒気を帯びて反問した。
「何がって、あの時、あなたはおっしゃったじゃありませんか。お前は正直なお父さんの血を受けているから、信用ができる、だからこんな事を打ち明けて頼むんだって」
0033Ms.名無しさん
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2021/12/30(木) 06:17:37.420
 自分がこう云うと、今度は兄の方がぐっと行きつまったような形迹けいせきを見せた。自分はここだと思って、わざと普通以上の力を、言葉の裡うちへ籠こめながらこう云った。
「そりゃ御約束した事ですから、嫂ねえさんについて、あの時の一部始終いちぶしじゅうを今ここで御話してもいっこう差支さしつかえありません。固もとより僕はあまり下らない事だから、機会が来なければ口を開く考えもなし、また口を開いたって、ただ一言いちごんで済んでしまう事だから、兄さんが気にかけない以上、何も云う必要を認めないので、今日こんにちまで控えていたんですから。――しかし是非何とか報告をしろと、官命で出張した属官流に逼せまられれば、仕方がない。今即刻すぐでも僕の見た通りをお話します。けれどもあらかじめ断っておきますが、僕の報告から、あなたの予期しているような変な幻まぼろしはけっして出て来ませんよ。元々あなたの頭にある幻なんで、客観的にはどこにも存在していないんだから」
0034Ms.名無しさん
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2021/12/30(木) 06:17:47.750
 兄は自分の言葉を聞いた時、平生と違って、顔の筋肉をほとんど一つも動かさなかった。ただ洋卓テーブルの前に肱ひじを突いたなり、じっとしていた。眼さえ伏せていたから、自分には彼の表情がちっとも解らなかった。兄は理に明らかなようで、またその理にころりと抛なげられる癖があった。自分はただ彼の顔色が少し蒼あおくなったのを見て、これは必竟ひっきょう彼が自分の強い言語に叩たたかれたのだと判断した。
 自分はそこにあった巻莨入まきたばこいれから煙草たばこを一本取り出して燐寸マッチの火を擦すった。そうして自分の鼻から出る青い煙と兄の顔とを等分に眺めていた。
0035Ms.名無しさん
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2021/12/30(木) 06:17:58.800
「二郎」と兄がようやく云った。その声には力も張はりもなかった。
「何です」と自分は答えた。自分の声はむしろ驕おごっていた。
0037Ms.名無しさん
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2021/12/31(金) 07:05:12.010
【統計改ざん】統計書き換え問題 二重計上による差額「月当たり1.2兆円(年間約15兆円)」 山際大臣「非常に軽微なもの」 [スペル魔★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1640007808/
0038Ms.名無しさん
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2021/12/31(金) 13:53:17.840
「もうおれはお前に直なおの事について何も聞かないよ」
「そうですか。その方が兄さんのためにも嫂さんのためにも、また御父さんのためにも好いでしょう。善良な夫になって御上げなさい。そうすれば嫂さんだって善良な夫人でさあ」と自分は嫂あによめを弁護するように、また兄を戒めるように云った。
0039Ms.名無しさん
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2021/12/31(金) 13:53:25.700
「この馬鹿野郎」と兄は突然大きな声を出した。その声はおそらく下まで聞えたろうが、すぐ傍そばに坐っている自分には、ほとんど予想外の驚きを心臓に打ち込んだ。
「お前はお父さんの子だけあって、世渡りはおれより旨うまいかも知れないが、士人の交わりはできない男だ。なんで今になって直の事をお前の口などから聞こうとするものか。軽薄児けいはくじめ」
0040Ms.名無しさん
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2021/12/31(金) 13:53:34.480
 自分の腰は思わず坐っている椅子いすからふらりと離れた。自分はそのまま扉ドアの方へ歩いて行った。
「お父さんのような虚偽な自白を聞いた後あと、何で貴様の報告なんか宛あてにするものか」
 自分はこういう烈はげしい言葉を背中に受けつつ扉ドアを閉めて、暗い階段の上に出た。
0041Ms.名無しさん
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2021/12/31(金) 13:53:44.580
        二十三

 自分はそれから約一週間ほどというもの、夕食以外には兄と顔を合した事がなかった。平生食卓を賑にぎやかにする義務をもっているとまで、皆みんなから思われていた自分が、急に黙ってしまったので、テーブルは変に淋さみしくなった。どこかで鳴く※(「虫+車」、第3水準1-91-55)こおろぎの音ねさえ、併ならんでいる人の耳に肌寒はださむの象徴シンボルのごとく響いた。
 こういう寂寞せきばくたる団欒だんらんの中に、お貞さんは日ごとに近づいて来る我結婚の日限にちげんを考えるよりほかに、何の天地もないごとくに、盆を膝ひざの上へ載のせて御給仕をしていた。陽気な父は周囲に頓着とんじゃくなく、己おのれに特有な勝手な話ばかりした。しかしその反響はいつものようにどこからも起らなかった。父の方でもまるでそれを予期する気色けしきは見えなかった。
0042Ms.名無しさん
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2021/12/31(金) 13:53:52.610
 時々席に列つらなったものが、一度に声を出して笑う種になったのはただ芳江ばかりであった。母などは話が途切とぎれておのずと不安になるたびに、「芳江お前は……」とか何とか無理に問題を拵こしらえて、一時を糊塗ことするのを例にした。するとそのわざとらしさが、すぐ兄の神経に触った。
 自分は食卓を退しりぞいて自分の室へやに帰るたびに、ほっと一息吐ひといきつくように煙草たばこを呑んだ。
0043Ms.名無しさん
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2021/12/31(金) 13:54:01.420
「つまらない。一面識いちめんしきのないものが寄って会食するよりなおつまらない。他ひとの家庭もみんなこんな不愉快なものかしら」
 自分は時々こう考えて、早く家うちを出てしまおうと決心した事もあった。あまり食卓の空気が冷やかな折は、お重が自分の後を恋したって、追いかけるように、自分の室へ這入はいって来た。彼女は何にも云わずにそこで泣き出したりした。ある時はなぜ兄さんに早く詫あやまらないのだと詰問するように自分を悪にくらしそうに睨にらめたりした。
0044Ms.名無しさん
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2021/12/31(金) 13:54:09.460
 自分は宅うちにいるのがいよいよ厭いやになった。元来性急せっかちのくせに決断に乏しい自分だけれども、今度こそは下宿なり間借りなりして、当分気を抜こうと思い定さだめた。自分は三沢の所へ相談に行った。その時自分は彼に、「君が大阪などで、ああ長く煩わずらうから悪いんだ」と云った。彼は「君がお直なおさんなどの傍そばに長くくっついているから悪いんだ」と答えた。
 自分は上方かみがたから帰って以来、彼に会う機会は何度となくあったが、嫂あによめについては、いまだかつて一言も彼に告げた例ためしがなかった。彼もまた自分の嫂に関しては、いっさい口を閉じて何事をも云わなかった。
0045Ms.名無しさん
垢版 |
2021/12/31(金) 13:54:18.140
 自分は始めて彼の咽喉のどを洩もれる嫂の名を聞いた。またその嫂と自分との間に横よこたわる、深くも浅くも取れる相互関係をあらわした彼の言葉を聞いた。そうして驚きと疑うたがいの眼を三沢の上に注そそいだ。その中に怒いかりを含んでいると解釈した彼は、「怒おこるなよ」と云った。その後あとで「気狂きちがいになった女に、しかも死んだ女に惚ほれられたと思って、己惚おのぼれているおれの方が、まあ安全だろう。その代り心細いには違ない。しかし面倒は起らないから、いくら惚れても、惚れられてもいっこう差支さしつかえない」と云った。自分は黙っていた。彼は笑いながら「どうだ」と自分の肩を捕つかまえて小突いた。自分には彼の態度が真面目まじめなのか、また冗談なのか、少しも解らなかった。真面目にせよ、冗談にせよ、自分は彼に向って何事をも説明したり、弁明したりする気は起らなかった。
 自分はそれでも三沢に適当な宿を一二軒教わって、帰りがけに、自分の室へやまで見て帰った。家うちへ戻るや否や誰より先に、まずお重を呼んで、「兄さんもお前の忠告してくれた通り、いよいよ家を出る事にした」と告げた。お重は案外なようなまた予期していたような表情を眉間みけんにあつめて、じっと自分の顔を眺めた。
0046Ms.名無しさん
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2021/12/31(金) 13:54:28.260
       二十四

 兄妹きょうだいとして云えば、自分とお重とは余り仲の善いい方ではなかった。自分が外へ出る事を、まず第一に彼女に話したのは、愛情のためというよりは、むしろ面当つらあての気分に打勝たれていた。すると見る見るうちにお重の両方の眼に涙がいっぱい溜たまって来た。
「早く出て上げて下さい。その代り妾あたしもどんな所でも構わない、一日も早くお嫁に行きますから」と云った。
0047Ms.名無しさん
垢版 |
2021/12/31(金) 13:54:58.450
 自分は黙っていた。
「兄さんはいったん外へ出たら、それなり家へ帰らずに、すぐ奥さんを貰って独立なさるつもりでしょう」と彼女がまた聞いた。
0048Ms.名無しさん
垢版 |
2021/12/31(金) 13:55:07.010
 自分は彼女の手前「もちろんさ」と答えた。その時お重は今まで持ち応こたえていた涙をぽろりぽろりと膝の上に落した。
「何だって、そんなに泣くんだ」と自分は急に優しい声を出して聞いた。実際自分はこの事件についてお重の眼から一滴の涙さえ予期していなかったのである。
0049Ms.名無しさん
垢版 |
2021/12/31(金) 13:55:15.230
「だって妾ばかり後あとへ残って……」
 自分に判切はっきり聞こえたのはただこれだけであった。その他は彼女のむやみに引泣上しゃくりあげる声が邪魔をしてほとんど崩くずれたまま自分の鼓膜こまくを打った。
 自分は例のごとく煙草を呑のみ始めた。そうしておとなしく彼女の泣き止むのを待っていた。彼女はやがて袖そでで眼を拭いて立ち上った。自分はその後姿を見たとき、急に可哀かわいそうになった。
0050Ms.名無しさん
垢版 |
2021/12/31(金) 13:55:24.330
「お重、お前とは好く喧嘩けんかばかりしたが、もう今まで通り啀いがみ合う機会も滅多めったにあるまい。さあ仲直りだ。握手しよう」
 自分はこう云って手を出した。お重はかえってきまり悪気わるげに躊躇ちゅうちょした。
0051Ms.名無しさん
垢版 |
2021/12/31(金) 13:55:32.990
 自分はこれからだんだんに父や母に自分の外へ出る決心を打ち明けて、彼らの許諾を一々求めなければならないと思った。ただ最後に兄の所へ行って、同じ決心を是非共繰返す必要があるので、それだけが苦くになった。
 母に打ち明けたのはたしかその明くる日であった。母はこの唐突とうとつな自分の決心に驚いたように、「どうせ出るならお嫁でもきまってからと思っていたのだが。――まあ仕方があるまいよ」と云った後あと、憮然ぶぜんとして自分の顔を見た。自分はすぐその足で、父の居間へ行こうとした。母は急に後から呼び留めた。
0052Ms.名無しさん
垢版 |
2021/12/31(金) 13:55:41.540
「二郎たとい、お前が家うちを出たってね……」
 母の言葉はそれだけで支つかえてしまった。自分は「何ですか」と聞き返したため、元の場所に立っていなければならなかった。
0053Ms.名無しさん
垢版 |
2021/12/31(金) 17:10:50.340
現在、日本政府やワクチン接種を推奨してきたメディアは、
「無益で危険な致死的ワクチンを注射させた」
と糾弾されることを恐れて一切都合の悪い事実を報道していない。

新型コロナウイルスの直接の死者よりも、
ワクチンが原因となった死亡者の方が多いという疑いまで出てきている。

政府関係者は、フクイチ事故の被害を隠蔽したように、犯罪的な行為である。

日本政府やメディアは、 感染しても風邪程度の有害性しかない疫病に対し、
「例え感染してもワクチンは重症化を防ぐ効果がある」と大宣伝している。
彼らが反省することなどありえないが、責任は取らせるべきだ。

ワクチン後遺症
今の状況。また病院へ今から行きます。
https://twitter.com/0bXuqvZH1qmvXQL/status/1465541202317479937?s=20

https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0055Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/01(土) 08:49:00.040
「兄さんにはもう御話しかい」と母は急に即つかぬ事を云い出した。
「いいえ」と自分は答えた。
0056Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/01(土) 08:49:10.310
「兄さんにはかえってお前から直下じかに話した方が好いかも知れないよ。なまじ、御父さんや御母さんから取次ぐと、かえって感情を害するかも知れないからね」
「ええ僕もそう思っています。なるたけ綺麗きれいにして出るつもりですから」
0057Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/01(土) 08:49:23.800
 自分はこう断って、すぐ父の居間に這入はいった。父は長い手紙を書いていた。
「大阪の岡田からお貞の結婚について、この間また問い合せが来たので、その返事を書こう書こうと思いながら、とうとう今日まで放っておいたから、今日は是非一つその義務を果そうと思って、今書いているところだ。ついでだからそう云っとくが、御前の書く拝啓の啓の字は間違っている。崩くずすならそこにあるように崩すものだ」
 長い手紙の一端がちょうど自分の坐った膝ひざの前に出ていた。自分は啓の字を横に見たが、どこが間違っているのかまるで解らなかった。自分は父が筆を動かす間、床とこに活けた黄菊だのその後うしろにある懸物かけものだのを心のうちで品評していた。
0058Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/01(土) 08:49:34.230
        二十五

 父は長い手紙を裾すその方から巻き返しながら、「何か用かね、また金じゃないか。金ならないよ」と云って、封筒に上書うわがきを認したためた。
 自分はきわめて簡略に自分の決意を述べた上、「永々御厄介になりましたが……」というような形式の言葉をちょっと後あとへ付け加えた。父はただ「うんそうか」と答えた。やがて切手を状袋の角かどへ貼はり付けて、「ちょっとそのベルを押してくれ」と自分に頼んだ。自分は「僕が出させましょう」と云って手紙を受け取った。父は「お前の下宿の番地を書いて、御母さんに渡しておきな」と注意した。それから床の幅ふくについていろいろな説明をした。
0059Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/01(土) 08:49:43.670
 自分はそれだけ聞いて父の室へやを出た。これで挨拶あいさつの残っているものはいよいよ兄と嫂あによめだけになった。兄にはこの間の事件以来ほとんど親しい言葉を換かわさなかった。自分は彼に対して怒おこり得るほどの勇気を持っていなかった。怒り得るならば、この間罵ののしられて彼の書斎を出るとき、すでに激昂げっこうしていなければならなかった。自分は後うしろから小さな石膏像せっこうぞうの飛んでくるぐらいに恐れを抱く人間ではなかった。けれどもあの時に限って、怒るべき勇気の源がすでに枯れていたような気がする。自分は室に入いった幽霊が、ふうとまた室を出るごとくに力なく退却した。その後も彼の書斎の扉ドアを叩たたいて、快く詫あやまるだけの度胸は、どこからも出て来なかった。かくして自分は毎日苦にがい顔をしている彼の顔を、晩餐ばんさんの食卓に見るだけであった。
 嫂あによめとも自分は近頃滅多めったに口を利きかなかった。近頃というよりもむしろ大阪から帰って後のちという方が適当かも知れない。彼女は単独に自分の箪笥たんすなどを置いた小ちさい部屋の所有主であった。しかしながら彼女と芳江が二人ぎりそこに遊んでいる事は、一日中で時間につもるといくらもなかった。彼女はたいてい母と共に裁縫その他の手伝をして日を暮していた。
0060Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/01(土) 08:49:53.240
 父や母に自分の未来を打ち明けた明あくる朝、便所から風呂場へ通う縁側えんがわで、自分はこの嫂にぱたりと出会った。
「二郎さん、あなた下宿なさるんですってね。宅うちが厭いやなの」と彼女は突然聞いた。彼女は自分の云った通りを、いつの間にか母から伝えられたらしい言葉遣ことばづかいをした。自分は何気なく「ええしばらく出る事にしました」と答えた。
0061Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/01(土) 08:50:03.080
「その方が面倒でなくって好いでしょう」
 彼女は自分が何か云うかと思って、じっと自分の顔を見ていた。しかし自分は何とも云わなかった。
0062Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/01(土) 08:50:14.280
「そうして早く奥さんをお貰いなさい」と彼女の方からまた云った。自分はそれでも黙っていた。
「早い方が好いわよあなた。妾あたし探して上げましょうか」とまた聞いた。
0063Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/01(土) 08:50:27.230
「どうぞ願います」と自分は始めて口を開いた。
 嫂は自分を見下みさげたようなまた自分を調戯からかうような薄笑いを薄い唇くちびるの両端に見せつつ、わざと足音を高くして、茶の間の方へ去った。
 自分は黙って、風呂場と便所の境にある三和土たたきの隅すみに寄せ掛けられた大きな銅の金盥かなだらいを見つめた。この金盥は直径二尺以上もあって自分の力で持上げるのも困難なくらい、重くてかつ大きなものであった。自分は子供の時分からこの金盥を見て、きっと大人おとなの行水ぎょうずいを使うものだとばかり想像して、一人嬉うれしがっていた。金盥は今塵ちりで佗わびしく汚れていた。低い硝子戸越ガラスどごしには、これも自分の子供時代から忘れ得ない秋海棠しゅうかいどうが、変らぬ年ごとの色を淋さみしく見せていた。自分はこれらの前に立って、よく秋先あきさきに玄関前の棗なつめを、兄と共に叩たたき落して食った事を思い出した。自分はまだ青年だけれども、自分の背後にはすでにこれだけ無邪気な過去がずっと続いている事を発見した時、今昔の比較が自おのずから胸に溢あふれた。そうしてこれからこの餓鬼大将がきだいしょうであった兄と不愉快な言葉を交換して、わが家を出なければならないという変化に想おもい及んだ。
0064Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/01(土) 08:50:38.140
        二十六

 その日自分が事務所から帰ってお重に「兄さんは」と聞くと、「まだよ」という返事を得た。
「今日はどこかへ廻る日なのかね」と重かさねて尋ねた時、お重は「どうだか知らないわ。書斎へ行って壁に貼はりつけてある時間表を見て来て上げましょうか」と云った。
0065Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/01(土) 08:50:46.860
 自分はただ兄が帰ったら教えてくれるように頼んで、誰にも会わずに室へやへ這入はいった。洋服を脱ぬぎ替えるのも面倒なので、そのまま横になって寝ているうち、いつの間にか本当の眠りに落ちた。そうして他人に説明も何もできないような複雑に変化する不安な夢に襲われていると、急にお重から起された。
「大兄おおにいさんがお帰りよ」
0066Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/01(土) 08:50:55.660
 こういう彼女の言葉が耳に這入った時、自分はすぐ起ち上がった。けれども意識は朦朧もうろうとして、夢のつづきを歩いていた。お重は後うしろから「まあ顔でも洗っていらっしゃい」と注意した。判然はっきりしない自分の意識は、それすらあえてする勇気を必要と感ぜしめなかった。
 自分はそのまま兄の書斎に這入った。兄もまだ洋服のままであった。彼は扉ドアの音を聞いて、急に入口に眼を転じた。その光のうちにはある予期を明かに示していた。彼が外出して帰ると、嫂あによめが芳江を連れて、不断の和服を持って上がって来るのが、その頃の習慣であった。自分は母が嫂に「こういう風におしよ」と云いつけたのを傍そばにいて聞いていた事がある。自分はぼんやりしながらも、兄のこの眼附によって、和服の不断着より、嫂と芳江とを彼は待ち設けていたのだと覚さとった。
0067Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/01(土) 08:51:04.690
 自分は寝惚ねぼけた心持が有ったればこそ、平気で彼の室を突然開けたのだが、彼は自分の姿を敷居の前に見て、少しも怒いかりの影を現さなかった。しかしただ黙って自分の背広姿せびろすがたを打ち守るだけで、急に言葉を出す気色けしきはなかった。
「兄さん、ちょっと御話がありますが……」
0068Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/01(土) 08:51:14.690
と、自分はついにこっちから切り出した。
「こっちへ御這入り」
 彼の言語は落ちついていた。かつこの間の事について何の介意かいいをも含んでいないらしく自分の耳に響いた。彼は自分のために、わざわざ一脚の椅子を己れの前へ据すえて、自分を麾さしまねいた。
 自分はわざと腰をかけずに、椅子の背に手を載せたまま、父や母に云ったとほぼ同様の挨拶あいさつを述べた。兄は尊敬すべき学者の態度で、それを静かに聞いていた。自分の単簡たんかんの説明が終ると、彼は嬉うれしくも悲しくもない常の来客に応接するような態度で「まあそこへおかけ」と云った。
0069Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/01(土) 08:51:25.860
 彼は黒いモーニングを着て、あまり好い香においのしない葉巻を燻くゆらしていた。
「出るなら出るさ。お前ももう一人前いちにんまえの人間だから」と云ってしばらく煙ばかり吐いていた。それから「しかしおれがお前を出したように皆みんなから思われては迷惑だよ」と続けた。「そんな事はありません。ただ自分の都合で出るんですから」と自分は答えた。
0070Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/01(土) 11:23:47.170
信長「若い頃は毎晩利家を抱いた」利家「…///」家臣「…羨ましい…」

https://ddnavi.com/news/81890/a/

信長が実際に関係を持ち、可愛がっていたという記録も残っているのが前田利家である。
なんと信長は宴の席で「若い頃は毎晩利家を抱いたものだ」なんてカミングアウトしていたというのだ!
それを聞いた家臣たちは利家を羨み、利家も照れながら、祝の席でよく出されるという鶴の汁を飲んで喜んだそう。
このことは、加賀藩の言行録である『亜相公御夜話』にも記されている。
0072Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/02(日) 08:01:11.130
日本が経済成長しない理由

1. 税制が厳しい
2. 優秀な企業や人は海外へ
3. 人口減少の対策しない
4. 若者より高齢者優先
5. 外国人にも手厚い
6. 労働量上げて賃金上げない
7. 研究と教育に投資しない
0073Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/02(日) 09:42:22.100
 自分の寝惚ねぼけた頭はこの時しだいに冴さえて来た。できるだけ早く兄の前から退しりぞきたくなった結果、ふり返って室の入口を見た。
「直なおも芳江も今湯に這入っているようだから、誰も上がって来やしない。そんなにそわそわしないでゆっくり話すが好い、電灯でも点つけて」
0074Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/02(日) 09:42:32.600
 自分は立ち上がって、室へやの内を明るくした。それから、兄の吹かしている葉巻を一本取って火を点つけた。
「一本八銭だ。ずいぶん悪い煙草だろう」と彼が云った。
0075Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/02(日) 09:42:43.370
       二十七

「いつ出るつもりかね」と兄がまた聞いた。
「今度の土曜あたりにしようかと思ってます」と自分は答えた。
0076Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/02(日) 09:42:53.440
「一人出るのかい」と兄がまた聞いた。
 この奇異な質問を受けた時、自分はしばらく茫然ぼうぜんとして兄の顔を打ち守っていた。彼がわざとこう云う失礼な皮肉を云うのか、そうでなければ彼の頭に少し変調を来きたしたのか、どっちだか解らないうちは、自分にもどの見当けんとうへ打って出て好いものか、料簡りょうけんが定まらなかった。
0077Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/02(日) 09:43:02.180
 彼の言葉は平生から皮肉ひにくたくさんに自分の耳を襲った。しかしそれは彼の智力が我々よりも鋭敏に働き過ぎる結果で、その他に悪気のない事は、自分によく呑み込めていた。ただこの一言いちごんだけは鼓膜こまくに響いたなり、いつまでもそこでじんじん熱く鳴っていた。
 兄は自分の顔を見て、えへへと笑った。自分はその笑いの影にさえ歇斯的里性ヒステリせいの稲妻いなずまを認めた。
0078Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/02(日) 09:43:10.700
「無論一人で出る気だろう。誰も連れて行く必要はないんだから」
「もちろんです。ただ一人になって、少し新しい空気を吸いたいだけです」
0079Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/02(日) 09:43:20.580
「新しい空気はおれも吸いたい。しかし新しい空気を吸わしてくれる所は、この広い東京に一カ所もない」
 自分は半なかばこの好んで孤立している兄を憐あわれんだ。そうして半ば彼の過敏な神経を悲しんだ。
0080Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/02(日) 09:43:44.170
「ちっと旅行でもなすったらどうです。少しは晴々せいせいするかも知れません」
 自分がこう云った時、兄はチョッキの隠袋かくしから時計を出した。
0081Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/02(日) 09:43:54.360
「まだ食事の時間には少し間があるね」と云いながら、彼は再び椅子いすに腰を落ちつけた。そうして「おい二郎もうそうたびたび話す機会もなくなるから、飯ができるまでここで話そうじゃないか」と自分の顔を見た。
 自分は「ええ」と答えたが、少しも尻しりは坐すわらなかった。その上何も話す種がなかった。すると兄が突然「お前パオロとフランチェスカの恋を知ってるだろう」と聞いた。自分は聞いたような、聞かないような気がするので、すぐとは返事もできなかった。
0082Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/02(日) 09:44:03.450
 兄の説明によると、パオロと云うのはフランチェスカの夫の弟で、その二人が夫の眼を忍んで、互に慕したい合った結果、とうとう夫に見つかって殺されるという悲しい物語りで、ダンテの神曲の中とかに書いてあるそうであった。自分はその憐れな物語に対する同情よりも、こんな話をことさらにする兄の心持について、一種厭いやな疑念を挟さしはさんだ。兄は臭くさい煙草の煙の間から、始終しじゅう自分の顔を見つめつつ、十三世紀だか十四世紀だか解らない遠い昔の以太利イタリーの物語をした。自分はその間やっとの事で、不愉快の念を抑えていた。ところが物語が一応済むと、彼は急に思いも寄らない質問を自分に掛けた。
「二郎、なぜ肝心かんじんな夫の名を世間が忘れてパオロとフランチェスカだけ覚えているのか。その訳を知ってるか」
0083Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/02(日) 09:44:14.320
 自分は仕方がないから「やっぱり三勝半七さんかつはんしち見たようなものでしょう」と答えた。兄は意外な返事にちょっと驚いたようであったが、「おれはこう解釈する」としまいに云い出した。
「おれはこう解釈する。人間の作った夫婦という関係よりも、自然が醸かもした恋愛の方が、実際神聖だから、それで時を経ふるに従がって、狭い社会の作った窮屈な道徳を脱ぎ棄すてて、大きな自然の法則を嘆美する声だけが、我々の耳を刺戟しげきするように残るのではなかろうか。もっともその当時はみんな道徳に加勢する。二人のような関係を不義だと云って咎とがめる。しかしそれはその事情の起った瞬間を治めるための道義に駆かられた云わば通り雨のようなもので、あとへ残るのはどうしても青天と白日、すなわちパオロとフランチェスカさ。どうだそうは思わんかね」
0084Ms.名無しさん
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2022/01/02(日) 09:46:17.750
        二十八

 自分は年輩から云っても性格から云っても、平生なら兄の説に手を挙あげて賛成するはずであった。けれどもこの場合、彼がなぜわざわざパオロとフランチェスカを問題にするのか、またなぜ彼ら二人が永久に残る理由いわれを、物々しく解説するのか、その主意が分らなかったので、自然の興味は全く不快と不安の念に打ち消されてしまった。自分は奥歯に物の挟はさまったような兄の説明を聞いて、必竟ひっきょうそれがどうしたのだという気を起した。
「二郎、だから道徳に加勢するものは一時の勝利者には違ないが、永久の敗北者だ。自然に従うものは、一時の敗北者だけれども永久の勝利者だ……」
0085Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/02(日) 09:46:28.280
 自分は何とも云わなかった。
「ところがおれは一時の勝利者にさえなれない。永久には無論敗北者だ」
0086Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/02(日) 09:46:38.550
 自分はそれでも返事をしなかった。
「相撲すもうの手を習っても、実際力のないものは駄目だろう。そんな形式に拘泥こうでいしないでも、実力さえたしかに持っていればその方がきっと勝つ。勝つのは当り前さ。四十八手は人間の小刀細工だ。膂力りょりょくは自然の賜物たまものだ。……」
0087Ms.名無しさん
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2022/01/02(日) 09:46:47.290
 兄はこういう風に、影を踏んで力りきんでいるような哲学をしきりに論じた。そうして彼の前に坐すわっている自分を、気味の悪い霧で、一面に鎖とざしてしまった。自分にはこの朦朧もうろうたるものを払い退のけるのが、太い麻縄あさなわを噛かみ切るよりも苦しかった。
「二郎、お前は現在も未来も永久に、勝利者として存在しようとするつもりだろう」と彼は最後に云った。
0089Ms.名無しさん
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2022/01/02(日) 10:46:44.800
【コロナワクチン】抗体価4カ月で9割近く低下 また抗体価が高い患者でも重症化「抗体価高くてもブレークスルー感染し、重症化する」
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1641081481/
0090Ms.名無しさん
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2022/01/02(日) 10:48:41.630
藤原直哉
@naoyafujiwara
米海兵隊、現役兵の5%、予備役14%、期限を過ぎてもワクチン打たず
0091Ms.名無しさん
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2022/01/02(日) 12:20:20.910
日本のGDP成長率の国際順位(IMFエコノミック・アウトルック予測)

2020年 105位
2021年 116位
2022年 169位
2023年 189位
2024年 190位
2025年 191位
2026年 192位
0095Ms.名無しさん
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2022/01/03(月) 11:04:24.190
 自分は癇癪持かんしゃくもちだけれども兄ほど露骨に突進はしない性質であった。ことさらこの時は、相手が全然正気なのか、または少し昂奮こうふんし過ぎた結果、精神に尋常でない一種の状態を引き起したのか、第一その方を懸念けねんしなければならなかった。その上兄の精神状態をそこに導いた原因として、どうしても自分が責任者と目指されているという事実を、なおさら苛つらく感じなければならなかった。
 自分はとうとうしまいまで一言いちごんも云わずに兄の言葉を聞くだけ聞いていた。そうしてそれほど疑ぐるならいっそ嫂あによめを離別したら、晴々せいせいして好かろうにと考えたりした。
0096Ms.名無しさん
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2022/01/03(月) 11:04:31.980
 ところへその嫂が兄の平生着ふだんぎを持って、芳江の手を引いて、例のごとく階段を上あがって来た。
 扉ドアの敷居に姿を現した彼女は、風呂から上りたてと見えて、蒼味あおみの注さした常の頬に、心持の好いほど、薄赤い血を引き寄せて、肌理きめの細かい皮膚に手触てざわりを挑いどむような柔らかさを見せていた。
0097Ms.名無しさん
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2022/01/03(月) 11:04:40.220
 彼女は自分の顔を見た。けれども一言ひとことも自分には云わなかった。
「大変遅くなりました。さぞ御窮屈でしたろう。あいにく御湯へ這入はいっていたものだから、すぐ御召おめしを持って来る事ができなくって」
 嫂はこう云いながら兄に挨拶あいさつした。そうして傍そばに立っていた芳江に、「さあお父さんに御帰り遊ばせとおっしゃい」と注意した。芳江は母の命令いいつけ通り「御帰り」と頭を下げた。
0098Ms.名無しさん
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2022/01/03(月) 11:04:48.290
 自分は永らくの間、嫂が兄に対してこれほど家庭の夫人らしい愛嬌あいきょうを見せた例ためしを知らなかった。自分はまたこの愛嬌に対して柔やわらげられた兄の気分が、彼の眼に強く集まった例も知らなかった。兄は人の手前極きわめて自尊心の強い男であった。けれども、子供のうちから兄といっしょに育った自分には、彼の脳天を動きつつある雲の往来ゆききがよく解った。
 自分は助け船が不意に来た嬉うれしさを胸に蔵かくして兄の室へやを出た。出る時嫂は一面識もない眼下のものに挨拶でもするように、ちょっと頭を下げて自分に黙礼をした。自分が彼女からこんな冷淡な挨拶を受けたのもまた珍らしい例であった。
0099Ms.名無しさん
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2022/01/03(月) 11:04:57.790
        二十九

 二三日してから自分はとうとう家を出た。父や母や兄弟の住む、古い歴史をもった家を出た。出る時はほとんど何事をも感じなかった。母とお重が別れを惜おしむように浮かない顔をするのが、かえって厭いやであった。彼らは自分の自由行動をわざと妨げるように感ぜられた。
 嫂あによめだけは淋さみしいながら笑ってくれた。
0100Ms.名無しさん
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2022/01/03(月) 11:05:08.190
「もう御出掛。では御機嫌ごきげんよう。またちょくちょく遊びにいらっしゃい」
 自分は母やお重の曇った顔を見た後あとで、この一口の愛嬌を聞いた時、多少の愉快を覚えた。
0101Ms.名無しさん
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2022/01/03(月) 11:05:16.270
 自分は下宿へ移ってからも有楽町の事務所へ例の通り毎日通かよっていた。自分をそこへ周旋してくれたものは、例の三沢であった。事務所の持主は、昔三沢の保証人をしていた(兄の同僚の)Hの叔父に当あたる人であった。この人は永らく外国にいて、内地でも相応に経験を積んだ大家であった。胡麻塩頭ごましおあたまの中へ指を突っ込んで、むやみに頭垢ふけを掻き落す癖があるので、差さし向むかいの間に火鉢ひばちでも置くと、時々火の中から妙な臭においを立てさせて、ひどく相手を弱らせる事があった。
「君の兄さんは近来何を研究しているか」などとたびたび自分に聞いた。自分は仕方なしに、「何だか一人で書斎に籠こもってやってるようです」と極きわめて大体な答えをするのを例のようにしていた。
0102Ms.名無しさん
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2022/01/03(月) 11:05:27.570
 梧桐あおぎりが坊主になったある朝、彼は突然自分を捕とらえて、「君の兄さんは近頃どうだね」とまた聞いた。こう云う彼の質問に慣れ切っていた自分も、その時ばかりは余りの不意打にちょっと返事を忘れた。
「健康はどうだね」と彼はまた聞いた。
0103Ms.名無しさん
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2022/01/03(月) 11:05:41.090
「健康はあまり好い方じゃないです」と自分は答えた。
「少し気をつけないといけないよ。あまり勉強ばかりしていると」と彼は云った。
0104Ms.名無しさん
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2022/01/03(月) 11:05:51.650
 自分は彼の顔を打ち守って、そこに一種の真面目まじめな眉まゆと眼の光とを認めた。
 自分は家を出てから、まだ一遍しか家うちへ行かなかった。その折そっと母を小蔭こかげに呼んで、兄の様子を聞いて見たら「近頃は少し好いようだよ。時々裏へ出て芳江をブランコに載せて、押してやったりしているからね。……」
0105Ms.名無しさん
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2022/01/03(月) 11:05:59.970
 自分はそれで少しは安心した。それぎり宅うちの誰とも顔を合わせる機会を拵こしらえずに今日こんにちまで過ぎたのである。
 昼の時間に一品料理を取寄せて食っていると、B先生(事務所の持主)がまた突然「君はたしか下宿したんだったね」と聞いた。自分はただ簡単に「ええ」と答えておいた。
0106Ms.名無しさん
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2022/01/03(月) 11:06:08.520
「なぜ。家の方が広くって便利だろうじゃないか。それとも何か面倒な事でもあるのかい」
 自分はぐずついてすこぶる曖昧あいまいな挨拶あいさつをした。その時呑のみ込んだ麺麭パンの一片いっぺんが、いかにも水気がないように、ぱさぱさと感ぜられた。
0107Ms.名無しさん
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2022/01/03(月) 11:06:17.310
「しかし一人の方がかえって気楽かも知れないね。大勢ごたごたしているよりも。――時に君はまだ独身だろう、どうだ早く細君でももっちゃ」
 自分はB先生のこの言葉に対しても、平生の通り気楽な答ができなかった。先生は「今日は君いやに意気銷沈いきしょうちんしているね」と云ったぎり話頭を転じて、他ほかのものと愚にもつかない馬鹿話を始め出した。自分は自分の前にある茶碗の中に立っている茶柱を、何かの前徴のごとく見つめたぎり、左右に起る笑い声を聞くともなく、また聞かぬでもなく、黙然もくねんと腰をかけていた。そうして心の裡うちで、自分こそ近頃神経過敏症に罹かかっているのではなかろうかと不愉快な心配をした。自分は下宿にいてあまり孤独なため、こう頭に変調を起したのだと思いついて、帰ったら久しぶりに三沢の所へでも話に行こうと決心した。
0108Ms.名無しさん
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2022/01/03(月) 11:06:27.800
        三十

 その晩三沢の二階に案内された自分は、気楽そうに胡坐あぐらをかいた彼の姿を見て羨うらやましい心持がした。彼の室へやは明るい電灯と、暖かい火鉢ひばちで、初冬はつふゆの寒さから全然隔離されているように見えた。自分は彼の痼疾こしつが秋風の吹き募つのるに従って、漸々ぜんぜん好い方へ向いて来た事を、かねてから彼の色にも姿にも知った。けれども今の自分と比較して、彼がこうゆったり構えていようとは思えなかった。高くて暑い空を、恐る恐る仰いで暮らした大阪の病院を憶おもい起すと、当時の彼と今の自分とは、ほとんど地を換えたと一般であった。
 彼はつい近頃父を失った結果として、当然一家の主人に成り済ましていた。Hさんを通してB先生から彼を使いたいと申し込まれた時も、彼はまず己おのれを後のちにするという好意からか、もしくは贅沢ぜいたくな択好よりごのみからか、せっかくの位置を自分に譲ってくれた。
0109Ms.名無しさん
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2022/01/03(月) 11:06:36.060
 自分は電灯で照された彼の室を見廻して、その壁を隙間すきまなく飾っている風雅なエッチングや水彩画などについて、しばらく彼と話し合った。けれどもどういうものか、芸術上の議論は十分経たつか経たないうちに自然と消えてしまった。すると三沢は突然自分に向って、「時に君の兄さんだがね」と云い出した。自分はここでもまた兄さんかと驚いた。
「兄がどうしたって?」
0110Ms.名無しさん
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2022/01/04(火) 06:00:33.520
「いや別にどうしたって事もないが……」
 彼はこれだけ云ってただ自分の顔を眺めていた。自分は勢い彼の言葉とB先生の今朝の言葉とを胸の中うちで結びつけなければならなかった。
0111Ms.名無しさん
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2022/01/04(火) 06:00:43.630
「そう半分でなく、話すなら皆みんな話してくれないか。兄がいったいどうしたと云うんだ。今朝もB先生から同じような事を聞かれて、妙な気がしているところだ」
 三沢は焦烈じれったそうな自分の顔をなお懇気こんきに見つめていたが、やがて「じゃ話そう」と云った。
0112Ms.名無しさん
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2022/01/04(火) 06:00:52.330
「B先生の話も僕のもやっぱり同じHさんから出たのだろうと思うがね。Hさんのはまた学生から出たのだって云ったよ。何でもね、君の兄さんの講義は、平生から明瞭めいりょうで新しくって、大変学生に気受きうけが好いんだそうだが、その明瞭な講義中に、やはり明瞭ではあるが、前後とどうしても辻褄つじつまの合わない所が一二箇所出て来るんだってね。そうしてそれを学生が質問すると、君の兄さんは元来正直な人だから、何遍も何遍も繰返して、そこを説明しようとするが、どうしても解らないんだそうだ。しまいに手を額へ当てて、どうも近来頭が少し悪いもんだから……とぼんやり硝子窓ガラスまどの外を眺めながら、いつまでも立っているんで、学生も、そんならまたこの次にしましょうと、自分の方で引き下がった事が、何でも幾遍もあったと云う話さ。Hさんは僕に今度長野(自分の姓)に逢あったら、少し注意して見るが好い。ことによると烈はげしい神経衰弱なのかも知れないからって云ったが、僕もとうとうそれなり忘れてしまって、今君の顔を見るまで実は思い出せなかったのだ」
「そりゃいつ頃の事だ」と自分はせわしなく聞いた。
0113Ms.名無しさん
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2022/01/04(火) 06:01:00.570
「ちょうど君の下宿する前後の事だと思っているが、判然はっきりした事は覚えていない」
「今でもそうなのか」
0114Ms.名無しさん
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2022/01/04(火) 06:01:09.150
 三沢は自分の思い逼せまった顔を見て、慰めるように「いやいや」と云った。
「いやいやそれはほんに一時的の事であったらしい。この頃では全然平生と変らなくなったようだと、Hさんが二三日にさんち前僕に話したから、もう安心だろう。しかし……」
 自分は家うちを出た時に自分の胸に刻み込んだ兄との会見を思わず憶おもい出した。そうしてその折の自分の疑いが、あるいは学校で証明されたのではなかろうかと考えて、非常に心細くかつ恐ろしく感じた。
0115Ms.名無しさん
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2022/01/04(火) 06:01:16.470
        三十一

 自分は力つとめて兄の事を忘れようとした。するとふと大阪の病院で三沢から聞いた精神病の「娘さん」を聯想れんそうし始めた。
「あのお嬢さんの法事には間に合ったのかね」と聞いて見た。
0116Ms.名無しさん
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2022/01/04(火) 06:01:25.590
「間に合った。間に合ったが、実にあの娘さんの親達は失敬な厭いやな奴やつだ」と彼は拳骨げんこつでも振り廻しそうな勢いで云った。自分は驚いてその理由を聞いた。
 彼はその日三沢家を代表して、築地の本願寺の境内けいだいとかにある菩提所ぼだいしょに参詣さんけいした。薄暗い本堂で長い読経どきょうがあった後、彼も列席者の一人として、一抹いちまつの香を白い位牌いはいの前に焚たいた。彼の言葉によると、彼ほどの誠をもって、その若く美しい女の霊前に額ぬかずいたものは、彼以外にほとんどあるまいという話であった。
0117Ms.名無しさん
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2022/01/04(火) 06:01:33.590
「あいつらはいくら親だって親類だって、ただ静かなお祭りでもしている気になって、平気でいやがる。本当に涙を落したのは他人のおれだけだ」
 自分は三沢のこういう憤慨を聞いて、少し滑稽こっけいを感じたが、表ではただ「なるほど」と肯うけがった。すると三沢は「いやそれだけなら何も怒りゃしない。しかし癪しゃくに障さわったのはその後あとだ」
 彼は一般の例に従って、法要の済んだ後あと、寺の近くにある或る料理屋へ招待された。その食事中に、彼女の父に当る人や、母に当る女が、彼に対して談はなしをするうちに妙に引っ掛って来た。何の悪意もない彼には、最初いっこうその当こすりが通じなかったが、だんだん時間の進むに従って、彼らの本旨ほんしがようやく分って来た。
0118Ms.名無しさん
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2022/01/04(火) 06:01:41.660
「馬鹿にもほどがあるね。露骨にいえばさ、あの娘さんを不幸にした原因は僕にある。精神病にしたのも僕だ、とこうなるんだね。そうして離別になった先の亭主は、まるで責任のないように思ってるらしいんだから失敬じゃないか」
「どうしてまたそう思うんだろう。そんなはずはないがね。君の誤解じゃないか」と自分が云った。
0119Ms.名無しさん
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2022/01/04(火) 06:01:51.680
「誤解?」と彼は大きな声を出した。自分は仕方なしに黙った。彼はしきりにその親達の愚劣な点を述べたててやまなかった。その女の夫となった男の軽薄を罵ののしって措おかなかった。しまいにこう云った。
「なぜそんなら始めから僕にやろうと云わないんだ。資産や社会的の地位ばかり目当めあてにして……」
0120Ms.名無しさん
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2022/01/04(火) 06:01:59.190
「いったい君は貰もらいたいと申し込んだ事でもあるのか」と自分は途中で遮さえぎった。
「ないさ」と彼は答えた。
0121Ms.名無しさん
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2022/01/04(火) 06:02:17.230
「僕がその娘さんに――その娘さんの大きな潤うるおった眼が、僕の胸を絶えず往来ゆききするようになったのは、すでに精神病に罹かかってからの事だもの。僕に早く帰って来てくれと頼み始めてからだもの」
 彼はこう云って、依然としてその女の美しい大おおきな眸ひとみを眼の前に描くように見えた。もしその女が今でも生きていたならどんな困難を冒おかしても、愚劣な親達の手から、もしくは軽薄な夫の手から、永久に彼女を奪い取って、己おのれの懐ふところで暖めて見せるという強い決心が、同時に彼の固く結んだ口の辺あたりに現れた。
0122Ms.名無しさん
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2022/01/04(火) 06:02:35.410
自分の想像は、この時その美しい眼の女よりも、かえって自分の忘れようとしていた兄の上に逆戻りをした。そうしてその女の精神に祟たたった恐ろしい狂いが耳に響けば響くほど、兄の頭が気にかかって来た。兄は和歌山行の汽車の中で、その女はたしかに三沢を思っているに違ないと断言した。精神病で心の憚はばかりが解けたからだとその理由までも説明した。兄はことによると、嫂あによめをそういう精神病に罹かからして見たい、本音を吐かせて見たい、と思ってるかも知れない。そう思っている兄の方が、傍はたから見ると、もうそろそろ神経衰弱の結果、多少精神に狂いを生じかけて、自分の方から恐ろしい言葉を家中に響かせて狂い廻らないとも限らない。
 自分は三沢の顔などを見ている暇をもたなかった。
0123Ms.名無しさん
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2022/01/04(火) 06:02:44.820
       三十二

 自分はかねて母から頼まれて、この次もし三沢の所へ行ったら、彼にお重を貰う気があるか、ないか、それとなく彼の様子を探って来るという約束をした。しかしその晩はどうしてもそういう元気が出なかった。自分の心持を了解しない彼は、かえって自分に結婚を勧めてやまなかった。自分の頭はまたそれに対して気乗きのりのした返事をするほど、穏かに澄んでいなかった。彼は折を見て、ある候補者を自分に紹介すると云った。自分は生返事をして彼の家を出た。外は十文字に風が吹いていた。仰ぐ空には星が粉このごとくささやかな力を集めて、この風に抵抗しつつ輝いた。自分は佗わびしい胸の上に両手を当てて下宿へ帰った。そうして冷たい蒲団ふとんの中にすぐ潜もぐり込んだ。
 それから二三日にさんちしても兄の事がまだ気にかかったなり、頭がどうしても自分と調和してくれなかった。自分はとうとう番町へ出かけて行った。直接兄に会うのが厭いやなので、二階へはとうとう上あがらなかったが、母を始め他ほかの者には無沙汰見舞ぶさたみまいの格で、何気なく例の通りの世間話をした。兄を交えない一家の団欒だんらんはかえって寛くつろいだ暖かい感じを自分に与えた。
0124Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/04(火) 06:02:53.520
 自分は帰り際ぎわに、母をちょっと次の間へ呼んで、兄の近況を聞いて見た。母はこの頃兄の神経がだいぶ落ちついたと云って喜んでいた。自分は母の一言いちごんでやっと安心したようなものの、母には気のつかない特殊の点に、何だか変調がありそうで、かえってそれが気がかりになった。さればと云って、兄に会って自分から彼を試験しようという勇気は無論起し得なかった。三沢から聞いた兄の講義が一時変になった話も母には告げ得なかった。
 自分は何も云う事のないのに、ぼんやり暗い部屋の襖ふすまの蔭かげに寒そうに立っていた。母も自分に対してそこを動かなかった。その上彼女の方から自分に何かいう必要を認めるように見えた。
0126Ms.名無しさん
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2022/01/05(水) 03:44:48.360
「もっともこの間少し風邪かぜを引いた時、妙な囈語うわごとを云ったがね」と云った。
「どんな事を云いました」と自分は聞いた。
0127Ms.名無しさん
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2022/01/05(水) 03:44:57.660
 母はそれには答えないで、「なに熱のせいだから、心配する事はないんだよ」と自分の問を打ち消した。
「熱がそんなに有ったんですか」と自分はさらに別の事を尋ねた。
0128Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/05(水) 03:45:06.280
「それがね、熱は三十八度か八度五分ぐらいなんだから、そんなはずはないと思って、お医者に聞いて見ると、神経衰弱のものは少しの熱でも頭が変になるんだってね」
 医学の初歩さえ心得ない自分は始めてこの知識に接して、思わず眉まゆをひそめた。けれども室へやが暗いので、母には自分の顔が見えなかった。
0129Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/05(水) 03:45:14.960
「でも氷で頭を冷したら、そのお蔭で熱がすぐ引いたんで安心したけれど……」
 自分は熱の引かない時の兄が、どんな囈語を云ったか、それがまだ知りたいので、薄ら寒い襖の蔭に依然として立っていた。
 次の間まは電灯で明るく照されていた。父が芳江に何か云って調戯からかうたびに、みんなの笑う声が陽気に聞こえた。すると突然その笑い声の間から、「おい二郎」と父が自分を呼んだ。
0130Ms.名無しさん
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2022/01/05(水) 03:45:23.070
「おい二郎、また御母さんに小遣こづかいでも強請せびってるんだろう。お綱、お前みたように、そうむやみに二郎の口車に乗っちゃいけないよ」と大きな声で云った。
「いいえそんな事じゃありません」と自分も大きな声で負けずに答えた。
0131Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/05(水) 03:45:31.010
「じゃ何だい、そんな暗い所で、こそこそ御母さんを取とっ捉つらまえて話しているのは。おい早く光あかるい所へ面つらを出せ」
 父がこう云った時、明るい室へやの方に集まったものは一度にどっと笑った。自分は母から聞きたい事も聞かずに、父の命令通り、はいと云って、皆みんなの前へ姿をあらわした。
0132Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/05(水) 03:45:39.640
        三十三

 それからしばらくの間は、B先生の顔を見ても、三沢の所へ遊びに行っても、兄の話はいっこう話題に上のぼらなかった。自分は少し安心した。そうしてなるべく家うちの事を忘れようと試みた。しかし下宿の徒然とぜんに打ち勝たれるのが何より苦しいので、よく三沢の時間を潰つぶしにこっちから押し寄せたり、また引っ張り出したりした。
 三沢は厭あきずにいつまでも例の精神病の娘さんの話をした。自分はこの異様なおのろけを聞くたびに、きっと兄と嫂あによめの事を連想して自おのずから不快になった。それで、時々またかという様子を色にも言葉にも表わした。三沢も負けてはいなかった。
0133Ms.名無しさん
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2022/01/05(水) 03:45:48.590
「君も君のおのろけを云えば、それで差引損得なしじゃないか」などと自分を冷かした。自分はもうちっとで彼と往来で喧嘩けんかをするところであった。
 彼にはこういう風に、精神病の娘さんが、影身かげみに添って離れないので、自分はかねて母から頼まれたお重の事を彼に話す余地がなかった。お重の顔は誰が見ても、まあ十人並以上だろうと、仲の善よくない自分にも思えたが、惜おしい事に、この大切な娘さんとは、まるで顔の型が違っていた。
0134Ms.名無しさん
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2022/01/05(水) 03:45:58.510
 自分の遠慮に引き換えて、彼は平気で自分に嫁の候補者を推挙した。「今度こんだどこかでちょっと見て見ないか」と勧めた事もあった。自分は始めこそ生なま返事ばかりしていたが、しまいは本気にその女に会おうと思い出した。すると三沢は、まだ機会が来ないから、もう少し、もう少し、と会見の日を順繰じゅんぐりに先へ送って行くので、自分はまた気を腐らした末、ついにその女の幻まぼろしを離れてしまった。
 反対に、お貞さんの方の結婚はいよいよ事実となって現あらわるべく、目前に近ちかづいて来た。お貞さんは相応の年をしている癖に、宅中うちじゅうで一番初心うぶな女であった。これという特色はないが、何を云っても、じき顔を赤くするところに変な愛嬌あいきょうがあった。
0135Ms.名無しさん
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2022/01/05(水) 03:46:07.210
 自分は三沢と夜更よふけに寒い町を帰って来て、下宿の冷たい夜具に潜もぐり込みながら、時々お貞さんの事を思い出した。そうして彼女もこんな冷たい夜具を引き担かつぎながら、今頃は近い未来に逼せまる暖かい夢を見て、誰も気のつかない笑い顔を、半なかば天鵞絨びろうどの襟えりの裡なかに埋うずめているだろうなどと想像した。
 彼女の結婚する二三日前に、岡田と佐野は、氷を裂くような汽車の中から身を顫ふるわして新橋の停車場ステーションに下りた。彼は迎えに出た自分の顔を見て、いようという掛声かけごえをした。それから「相変らず二郎さんは呑気のんきだね」と云った。岡田は己おのれの呑気さ加減を自覚しない男のようにも思われた。
0136Ms.名無しさん
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2022/01/05(水) 03:46:15.040
 翌日番町へ行ったら、岡田一人のために宅中うちじゅう騒々しく賑にぎわっていた。兄もほかの事と違うという意味か、別に苦にがい顔もせずに、その渦中かちゅうに捲込まきこまれて黙っていた。
「二郎さん、今になって下宿するなんて、そんな馬鹿がありますか、家うちが淋さびしくなるだけじゃありませんか。ねえお直なおさん」と彼は嫂あによめに話しかけた。この時だけは嫂もさすが変な顔をして黙っていた。自分も何とも云いようがなかった。兄はかえって冷然とすべてに取り合わない気色けしきを見せた。岡田はすでに酔って何事にも拘泥こうでいせずへらへら口を動かした。
0137Ms.名無しさん
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2022/01/05(水) 03:46:23.370
「もっとも一郎さんも善くないと僕は思いますよ。そうあなた、書斎にばかり引っ込んで勉強していたって、つまらないじゃありませんか。もうあなたぐらい学問をすれば、どこへ出たって引けを取るんじゃないんだからね。しかし二郎さん始め、お直さんや叔母さんも好くないようですね。一郎は書斎よりほかは嫌いだ嫌いだって云っときながら、僕が来てこう引っ張り出せば、訳なく二階から下りて来て、僕と面白そうに話してくれるじゃありませんか。そうでしょう一郎さん」
 彼はこう云って兄の方を見た。兄は黙って苦笑にがわらいをした。
0138Ms.名無しさん
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2022/01/05(水) 03:46:32.230
「ねえ叔母さん」
 母も黙っていた。
0139Ms.名無しさん
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2022/01/05(水) 03:46:43.590
「ねえお重さん」
 彼は返事を受けるまで順々に聞いて廻るらしかった。お重はすぐ「岡田さん、あなたいくら年を取っても饒舌しゃべる病気が癒なおらないのね。騒々しいわよ」と云った。それで皆みんなが笑い出したので、自分はほっと一ひと息いき吐ついた。
0140Ms.名無しさん
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2022/01/05(水) 03:47:39.620
        三十四

 芳江が「叔父さんちょっといらっしゃい」と次の間から小さな手を出して自分を招いた。
「何だい」と立って行くと彼女はどこからか、
大きな信玄袋しんげんぶくろを引摺ひきずり出して、「これお貞さんのよ、見せたげましょうか」と自慢らしく自分を見た。
 彼女は信玄袋の中から天鵞絨びろうどで張った四角な箱を出した。
自分はその中にある真珠の指環を手に取って、ふんと云いながら眺めた。
芳江は「これもよ」と云って、今度は海老茶色えびちゃいろのを出したが、
これは自分が洗濯その他たの世話になった礼に買ってやった宝石なしの単純な金の指環であった。
彼女はまた「これもよ」と云って、繻珍しゅちんの紙入を出した。
その紙入には模様風に描いた菊の花が金で一面に織り出されていた。
彼女はその次に比較的大きくて細長い桐きりの箱を出した。
これは金と赤銅しゃくどうと銀とで、蔦つたの葉を綴つづった金具の付いている帯留おびどめであった。最後に彼女は櫛くしと笄こうがいを示して、「これ卵甲らんこうよ。本当の鼈甲べっこうじゃないんだって。本当の鼈甲は高過ぎるからおやめにしたんですって」と説明した。自分には卵甲という言葉が解らなかった。芳江には無論解らなかった。けれども女の子だけあって、「これ一番安いのよ。四方張しほうばりよか安いのよ。玉子の白味で貼はり付けるんだから」と云った。「玉子の白味でどこをどう貼り付けるんだい」と聞くと、彼女は、「そんな事知らないわ」と取り済ました口の利きき方かたをして、
さっさと信玄袋を引き摺ずって次の間へ行ってしまった。
0141Ms.名無しさん
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2022/01/05(水) 03:47:52.380
 自分は母からお貞さんの当日着る着物を見せて貰った。薄紫がかった御納戸おなんどの縮緬ちりめんで、紋もんは蔦、裾すその模様は竹であった。
「これじゃあまり閑静かんせい過ぎやしませんか、年に合わして」と自分は母に聞いて見た。母は「でもねあんまり高くなるから」と答えた。そうして「これでも御前二十五円かかったんだよ」とつけ加えて、無知識な自分を驚かした。地じは去年の春京都の織屋が背負しょって来た時、白のまま三反ばかり用意に買っておいて、この間まで箪笥たんすの抽出ひきだしにしまったなり放ほうってあったのだそうである。
0146Ms.名無しさん
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2022/01/06(木) 09:43:54.480
昨年12月18日に急逝した女優の神田沙也加(享年35)。
亡くなる直前に、交際相手の俳優と激しく口論する音声が存在していることが、「週刊文春」の取材でわかった。
中には、「死ね」などと罵倒を受ける場面もあった。
0147Ms.名無しさん
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2022/01/06(木) 11:01:28.030
兄の二階へ上がる足音はそれほど強くはなかったが、いつでも上履スリッパーを引掛けているため、ぴしゃぴしゃする響が、下からよく聞こえた。お貞さんのは素足の上に、女のつつましやかな気性きしょうをあらわすせいか、まるで聴きき取れなかった。戸を開けて戸を閉じる音さえ、自分の耳には全く這入はいらなかった。
 彼ら二人はそこで約三十分ばかり何か話していた。その間嫂は平生の冷淡さに引き換えて、尋常なみのものより機嫌きげんよく話したり笑ったりした。けれどもその裏に不機嫌を蔵かくそうとする不自然の努力が強く潜在している事が自分によく解った。岡田は平気でいた。
0148Ms.名無しさん
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2022/01/06(木) 11:01:53.380
 自分は彼女が兄と会見を終って、自分達の室へやの横を通る時、その足音を聞きつけて、用あり気に不意と廊下へ出た。ばったり出逢であった彼女の顔は依然として恥ずかしそうに赤く染そまっていた。彼女は眼を俯ふせて、自分の傍そばを擦すり抜けた。その時自分は彼女の瞼まぶたに涙の宿った痕迹こんせきをたしかに認めたような気がした。けれども書斎に入いった彼女が兄と差向いでどんな談話をしたか、それはいまだに知る事を得ない。自分だけではない、その委細を知っているものは、彼ら二人より以外に、おそらく天下に一人もあるまいと思う。
0149Ms.名無しさん
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2022/01/06(木) 11:02:17.050
        三十五

 自分は親戚の片割かたわれとして、お貞さんの結婚式に列席するよう、父母から命ぜられていた。その日はちょうど雨がしょぼしょぼ降って、婚礼には似合しからぬ佗わびしい天気であった。いつもより早く起きて番町へ行って見ると、お貞さんの衣裳いしょうが八畳の間に取り散らしてあった。
 便所へ行った帰りに風呂場の口を覗のぞいて見たら、硝子戸ガラスどが半分開あいて、その中にお貞さんのお化粧をしている姿がちらりと見えた。それから「あらそこへ障さわっちゃ厭いやですよ」という彼女の声が聞こえた。芳江は面白半分何か悪戯いたずらをすると見えた。自分も芳江の真似まねをやろうと思ったが、場合が場合なのでつい遠慮して茶の間へ戻った。
0150Ms.名無しさん
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2022/01/06(木) 11:02:32.940
 しばらくしてから、また八畳へ出て見ると、みんながお召換めしかえをやっていた。芳江が「あのお貞さんは手へも白粉おしろいを塗つけたのよ」と大勢に吹聴ふいちょうしていた。実を云うと、お貞さんは顔よりも手足の方が赤黒かったのである。
「大変真白になったな。亭主を欺瞞だますんだから善よくない」と父が調戯からかっていた。
0151Ms.名無しさん
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2022/01/06(木) 11:02:46.230
「あしたになったら旦那様だんなさまがさぞ驚くでしょう」と母が笑った。お貞さんも下を向いて苦笑した。彼女は初めて島田に結った。それが予期できなかった斬新ざんしんの感じを自分に与えた。
「この髷まげでそんな重いものを差したらさぞ苦しいでしょうね」と自分が聞くと、母は「いくら重くっても、生涯しょうがいに一度はね……」と云って、己おのれの黒紋付くろもんつきと白襟しろえりとの合い具合をしきりに気にしていた。お貞さんの帯は嫂あによめが後へ廻って、ぐっと締めてやった。
 兄は例の臭くさい巻煙草まきたばこを吹かしながら広い縁側えんがわをあちらこちらと逍遥しょうようしていた。彼はこの結婚に、まるで興味をもたないような、また彼一流の批評を心の中に加えているような、判断のでき悪にくい態度をあらわして、時々我々のいる座敷を覗のぞいた。けれどもちょっと敷居際しきいぎわにとまるだけでけっして中へは這入はいらなかった。「仕度したくはまだか」とも催促しなかった。彼はフロックに絹帽シルクハットを被かぶっていた。
0152Ms.名無しさん
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2022/01/06(木) 11:02:57.500
 いよいよ出る時に、父は一番綺麗な俥くるまを択よって、お貞さんを乗せてやった。十一時に式があるはずのところを少し時間が後おくれたため岡田は太神宮の式台へ出て、わざわざ我々を待っていた。皆みんながどやどやと一度に控所に這入ると、そこにはお婿むこさんがただ一人質に取られた置物のように椅子いすへ腰をかけていた。やがて立ち上がって、一人一人に挨拶あいさつをするうちに、自分は控所にある洋卓テーブルやら、絨氈じゅうたんやら、白木しらきの格天井ごうてんじょうやらを眺めた。突き当りには御簾みすが下りていて、中には何か在あるらしい気色けしきだけれども、奥の全く暗いため何物をも髣髴ほうふつする事ができなかった。その前には鶴と浪なみを一面に描いためでたい一双の金屏風きんびょうぶが立て廻してあった。
 縁女えんじょと仲人なこうどの奥さんが先、それから婿と仲人の夫、その次へ親類がつづくという順を、袴はかま羽織はおりの男が出て来て教えてくれたが、肝腎かんじんの仲人たるべき岡田はお兼さんを連れて来なかったので、「じゃはなはだ御迷惑だけど、一郎さんとお直なおさんに引き受けていただきましょうか、この場限かぎり」と岡田が父に相談した。父は簡単に「好かろうよ」と答えた。嫂あによめは例のごとく「どうでも」と云った。兄も「どうでも」と云ったが、後あとから、「しかし僕らのような夫婦が媒妁人ばいしゃくにんになっちゃ、少し御両人のために悪いだろう」と付け足した。
0153Ms.名無しさん
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2022/01/06(木) 11:03:05.060
「悪いなんて――僕がするより名誉でさあね。ねえ二郎さん」と岡田が例のごとく軽い調子で云った。兄は何やらその理由を述べたいらしい気色けしきを見せたが、すぐ考え直したと見えて、「じゃ生れて初めての大役を引き受けて見るかな。しかし何にも知らないんだから」と云うと、「何向うで何もかも教えてくれるから世話はない。お前達は何もしないで済むようにちゃんと拵こしらえてあるんだ」と父が説明した。
0154Ms.名無しさん
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2022/01/06(木) 11:03:13.940
        三十六

 反橋そりはしを渡る所で、先の人が何かに支つかえて一同ちょっととまった機会を利用して、自分はそっと岡田のフロックの尻を引張った。
「岡田さんは実に呑気のんきだね」と云った。
0155Ms.名無しさん
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2022/01/06(木) 11:03:22.380
「なぜです」
 彼は自ら媒妁人ばいしゃくにんをもって任じながら、その細君を連れて来ない不注意に少しも気がついていないらしかった。自分から呑気の訳を聞いた時、彼は苦笑して頭を掻かきながら、「実は伴つれて来きようと思ったんですがね、まあどうかなるだろうと思って……」と答えた。
0156Ms.名無しさん
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2022/01/06(木) 11:03:30.490
 反橋を降りて奥へ這入はいろうという入口の所で、花嫁は一面に張り詰められた鏡の前へ坐すわって、黒塗の盥たらいの中で手を洗っていた。自分は後うしろから背延せいのびをして、お貞さんの姿を見た時、なるほどこれで列が後おくれるんだなと思うと同時に吹き出したくなった。せっかく丹精して塗り立てた彼女の手も、この神聖な一杓ひとしゃくの水で、無残むざんに元のごとく赤黒くされてしまったのである。
 神殿の左右には別室があった。その右の方へ兄が佐野さんを伴れて這入った。その左の方へ嫂あによめがお貞さんを伴れて這入った。それが左右から出て来て着座するのを見ると、兄夫婦は真面目な顔をして向い合せに坐っていた。花嫁花婿も無論の事、謹つつしんだ姿で相対していた。
0157Ms.名無しさん
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2022/01/06(木) 11:03:39.370
式壇を正面に、後うしろの方にずらりと並んだ父だの母だの自分達は、この二様の意味をもった夫婦と、絵の具で塗り潰つぶした綺麗きれいな太鼓と、何物を中に蔵かくしているか分らない、御簾みすを静粛に眺めた。
 兄は腹のなかで何を考えているか、よそ目から見ると、尋常と変るところは少しもなかった。嫂あによめは元より取とり繕つくろった様子もなく、自然そのままに取り済ましていた。
0158Ms.名無しさん
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2022/01/06(木) 11:03:48.350
 彼らはすでに過去何年かの間に、夫婦という社会的に大切な経験を彼らなりに甞なめて来た、古い夫婦であった。そうして彼らの甞めた経験は、人生の歴史の一部分として、彼らに取っては再びしがたい貴たっといものであったかも知れない。けれどもどっちから云っても、蜜みつに似た甘いものではなかったらしい。この苦にがい経験を有する古夫婦が、己おのれ達のあまり幸福でなかった運命の割前を、若い男と若い女の頭の上に割りつけて、また新しい不仕合な夫婦を作るつもりなのかしらん。
 兄は学者であった。かつ感情家であった。その蒼白あおじろい額の中にあるいはこのくらいな事を考えていたかも知れない。あるいはそれ以上に深い事を考えていたかも知れない。あるいはすべての結婚なるものを自みずから呪詛じゅそしながら、新郎と新婦の手を握らせなければならない仲人なこうどの喜劇と悲劇とを同時に感じつつ坐すわっていたかも知れない。
0159Ms.名無しさん
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2022/01/06(木) 11:03:58.920
 とにかく兄は真面目まじめに坐っていた。嫂も、佐野さんも、お貞さんも、真面目に坐っていた。そのうち式が始まった。巫女みこの一人が、途中から腹痛で引き返したというので介添かいぞえがその代りを勤めた。
 自分の隣に坐っていたお重が「大兄さんの時より淋しいのね」と私語ささやいた。その時は簫しょうや太鼓を入れて、巫女の左右に入れ交かう姿も蝶ちょうのように翩々ひらひらと華麗はなやかに見えた。
0160Ms.名無しさん
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2022/01/06(木) 11:04:08.490
「御前の嫁に行く時は、あの時ぐらい賑にぎやかにしてやるよ」と自分はお重に云った。お重は笑っていた。
 式が済んでみんなが控所へ帰った時、お貞さんは我々が立っているのに、わざわざ絨氈じゅうたんの上に手を突いて、今まで厄介になった礼を丁寧ていねいに述べた。彼女の眼には淋さびしそうな涙がいっぱい溜たまっていた。
0161Ms.名無しさん
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2022/01/06(木) 11:04:18.980
 新夫婦と岡田は昼の汽車で、すぐ大阪へ向けて立った。自分は雨のプラットフォームの上で、二三日箱根あたりで逗留とうりゅうするはずのお貞さんを見送った後あと、父や兄に別れて独ひとり自分の下宿へ帰った。そうして途々みちみち自分にも当然番の廻ってくるべき結婚問題を人生における不幸の謎なぞのごとく考えた。
0165Ms.名無しさん
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2022/01/07(金) 11:05:05.690
        三十七

 お貞さんが攫さらわれて行くように消えてしまった後の宅うちは、相変らずの空気で包まれていた。自分の見たところでは、お貞さんが宅中うちじゅうで一番の呑気のんきものらしかった。彼女は永年世話になった自分の家に、朝夕あさゆう箒ほうきを執とったり、洗あらい洒そそぎをしたりして、下女だか仲働だか分らない地位に甘んじた十年の後あと、別に不平な顔もせず佐野といっしょに雨の汽車で東京を離れてしまった。彼女の腹の中も日常彼女の繰り返しつつ慣れ抜いた仕事のごとく明瞭めいりょうでかつ器械的なものであったらしい。一家団欒だんらんの時季とも見るべき例の晩餐ばんさんの食卓が、一時重苦しい灰色の空気で鎖とざされた折でさえ、お貞さんだけはその中に坐って、平生と何の変りもなく、給仕の盆を膝ひざの上に載せたまま平気で控えていた。結婚当日の少し前、兄から書斎へ呼ばれて出て来た時、彼女の顔を染めた色と、彼女の瞼まぶたに充みちた涙が、彼女の未来のために、何を語っていたか知らないが、彼女の気質から云えば、それがために長い影響を受けようとも思えなかった。
 お貞さんが去ると共に冬も去った。去ったと云うよりも、まず大した事件も起らずに済んだと評する方が適当かも知れない。斑まだらな雪、枯枝を揺ゆさぶる風、手水鉢ちょうずばちを鎖とざす氷、いずれも例年の面影おもかげを規則正しく自分の眼に映した後、消えては去り消えては去った。自然の寒い課程がこう繰返されている間、番町の家はじっとして動かずにいた。その家の中にいる人と人との関係もどうかこうか今まで通り持ち応こたえた。
0166Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/07(金) 11:05:13.690
 自分の地位にも無論変化はなかった。ただお重が遊び半分時々苦情を訴えに来た。彼女は来るたびに「お貞さんはどうしているでしょうね」と聞いた。
「どうしているでしょうって、――お前の所へ何とも云って来ないのか」
0167Ms.名無しさん
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2022/01/07(金) 11:05:23.480
「来る事は来るわ」
 聞いて見ると、結婚後のお貞さんについて、彼女は自分より遥はるかに豊富な知識をもっていた。
0168Ms.名無しさん
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2022/01/07(金) 11:05:34.170
 自分はまた彼女が来るたびに、兄の事を聞くのを忘れなかった。
「兄さんはどうだい」
0169Ms.名無しさん
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2022/01/07(金) 11:05:45.090
「どうだいって、あなたこそ悪いわ。家うちへ来ても兄さんに逢あわずに帰るんだから」
「わざわざ避けるんじゃない。行ってもいつでも留守なんだから仕方がない」
0170Ms.名無しさん
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2022/01/07(金) 11:05:54.440
「嘘うそをおっしゃい。この間来た時も書斎へ這入はいらずに逃げた癖に」
 お重は自分より正直なだけに真赤まっかになった。自分はあの事件以後どうかして兄と故もとの通り親しい関係になりたいと心では希望していたが、実際はそれと反対で、何だか近寄り悪にくい気がするので、全くお重の云うごとく、宅うちへ行って彼に挨拶あいさつする機会があっても、なるべく会わずに帰る事が多かった。
0171Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/07(金) 11:06:04.720
 お重にやり込められると、自分は無言の降意を表するごとくにあははと笑ったり、わざと短い口髭くちひげを撫なでたり、時によると例の通り煙草に火を点つけて瞹眛あいまいな煙を吐いたりした。
 そうかと思うとかえってお重の方から突然「大兄さんもずいぶん変人ね。あたし今になって全くあなたが喧嘩けんかして出たのも無理はないと思うわ」などと云った。お重から藪やぶから棒にこう驚かされると、自分は腹の底で自分の味方が一人殖ふえたような気がして嬉うれしかった。けれども表向彼女の意見に相槌あいづちを打つほどの稚気ちきもなかった。叱りつけるほどの衒気げんきもなかった。ただ彼女が帰った後で、たちまち今までの考えが逆さかさまになって、兄の精神状態が周囲に及ぼす影響などがしきりに苦になった。だんだん生物から孤立して、書物の中に引き摺ずり込まれて行くように見える彼を平生よりも一倍気の毒に思う事もあった。
0172Ms.名無しさん
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2022/01/07(金) 11:06:13.520
        三十八

 母も一二遍来た。最初来た時は大変機嫌きげんが好かった。隣の座敷にいる法学士はどこへ出て何を勤めているのだなどと、自分にも判然はっきり解らないような事を、さも大事らしく聞いたりした。その時彼女は宅うちの近況について何にも語らずに、「この頃は方々で風邪かぜが流行はやるから気をおつけ。お父さんも二三日にさんち前から咽喉のどが痛いって、湿布しっぷをしてお出でだよ」と注意して去った。自分は彼女の去った後あと、兄夫婦の事を思い出す暇さえなかった。彼らの存在を忘れた自分は、快よい風呂に入って、旨うまい夕飯ゆうめしを食った。
 次に訪たずねてくれた時の母の調子は、前に較くらべると少し変っていた。彼女は大阪以後、ことに自分が下宿して以後、自分の前でわざと嫂あによめの批評を回避するような風を見せた。自分も母の前では気が咎とがめるというのか、必要のない限り、嫂の名を憚はばかって、なるべく口へ出さなかった。ところがこの注意深い母がその折卒然そつぜんと自分に向って、「二郎、ここだけの話だが、いったいお直なおの気立は好いのかね悪いのかね」と聞いた。はたして何か始まったのだと心得た自分は冷りとした。
0173Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/07(金) 11:06:24.050
 下宿後の自分は、兄についても嫂についても不謹慎な言葉を無責任に放つ勇気は全くなかったので、母は自分から何一つ満足な材料を得ずして去った。自分の方でも、なぜ彼女がこの気味の悪い質問を自分に突然とかけたかついに要領を得ずに母を逸した。「何かまた心配になるような事でもできたのですか」と聞いても、彼女は「なに別にこれと云って変った事はないんだがね……」と答えるだけで、後は自分の顔を打守るに過ぎなかった。
 自分は彼女が帰った後あと、しきりにこの質問に拘泥こうでいし始めた。けれども前後の事情だの母の態度だのを綜合そうごうして考えて見て、どうしても新しい事件が、わが家庭のうちに起ったとは受取れないと判断した。
0174Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/07(金) 11:06:32.380
 母もあまり心配し過ぎて、とうとう嫂あねが解らなくなったのだ。
 自分は最後にこう解釈して、恐ろしい夢に捉とらえられたような気持を抱いた。
0175Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/07(金) 11:06:40.680
 お重も来き、母も来る中に、嫂だけは、ついに一度も自分の室へやの火鉢ひばちに手を翳かざさなかった。彼女がわざと遠慮して自分を尋ねない主意は、自分にも好く呑のみ込めていた。自分が番町へ行ったとき、彼女は「二郎さんの下宿は高等下宿なんですってね。お室に立派な床とこがあって、庭に好い梅が植えてあるって云う話じゃありませんか」と聞いた。しかし「今度拝見に行きますよ」とは云わなかった。自分も「見にいらっしゃい」とは云いかねた。もっとも彼女の口に上った梅は、どこかの畠はたけから引っこ抜いて来て、そのままそこへ植えたとしか思われない無意味なものであった。
 嫂が来ないのとは異様の意味で、また同様の意味で、兄の顔はけっして自分の室の裡うちに見出されなかった。
0176Ms.名無しさん
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2022/01/07(金) 11:06:50.960
 父も来なかった。
 三沢は時々来た。自分はある機会を利用して、それとなく彼にお重を貰う意があるかないかを探って見た。
0177Ms.名無しさん
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2022/01/07(金) 11:06:59.150
「そうだね。あのお嬢さんももう年頃だから、そろそろどこかへ片づける必要が逼せまって来るだろうね。早く好い所を見つけて嬉うれしがらせてやりたまえ」
 彼はただこう云っただけで、取り合う気色けしきもなかった。自分はそれぎり断念してしまった。
0178Ms.名無しさん
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2022/01/07(金) 11:07:07.630
 永いようで短い冬は、事の起りそうで事の起らない自分の前に、時雨しぐれ、霜解しもどけ、空からっ風かぜ……と既定の日程を平凡に繰り返して、かように去ったのである。
0179Ms.名無しさん
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2022/01/07(金) 11:07:21.710
     塵労

        一

 陰刻いんこくな冬が彼岸ひがんの風に吹き払われた時自分は寒い窖あなぐらから顔を出した人のように明るい世界を眺めた。自分の心のどこかにはこの明るい世界もまた今やり過ごした冬と同様に平凡だという感じがあった。けれども呼息いきをするたびに春の匂においが脈みゃくの中に流れ込む快よさを忘れるほど自分は老いていなかった。
 自分は天気の好い折々室へやの障子しょうじを明け放って往来を眺めた。また廂ひさしの先に横よこたわる蒼空あおぞらを下から透すかすように望んだ。そうしてどこか遠くへ行きたいと願った。学校にいた時分ならもう春休みを利用して旅へ出る支度したくをするはずなのだけれども、事務所へ通うようになった今の自分には、そんな自由はとても望めなかった。偶たまの日曜ですら寝起ねおきの悪い顔を一日下宿に持ち扱って、散歩にさえ出ない事があった。
0180Ms.名無しさん
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2022/01/07(金) 11:10:50.220
11月実質消費支出、4か月連続のマイナス 前年比−1.3%=総務省(ロイター予測:+1.6%)
0182Ms.名無しさん
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2022/01/08(土) 13:24:52.410
片想いのブスがひたすら気持ち悪いかった
0184Ms.名無しさん
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2022/01/08(土) 16:06:18.930
 自分は半ば春を迎えながら半ば春を呪のろう気になっていた。下宿へ帰って夕飯ゆうめしを済ますと、火鉢ひばちの前へ坐すわって煙草たばこを吹かしながら茫然ぼんやり自分の未来を想像したりした。その未来を織る糸のうちには、自分に媚こびる花やかな色が、新しく活けた佐倉炭さくらずみの焔ほのおと共にちらちらと燃え上るのが常であったけれども、時には一面に変色してどこまで行っても灰のように光沢つやを失っていた。自分はこういう想像の夢から突然何かの拍子ひょうしで現在の我に立ち返る事があった。そうしてこの現在の自分と未来の自分とを運命がどういう手段で結びつけて行くだろうと考えた。
 自分が不意に下宿の下女から驚かされたのは、ちょうどこんな風に現実と空想の間に迷ってじっと火鉢に手を翳かざしていた、ある宵よいの口くちの出来事であった。自分は自分の注意を己おのれ一人に集めていたというものか、実際下女の廊下を踏んで来る足音に気がつかなかった。彼女が思いがけなくすうと襖ふすまを開けた時自分は始めて偶然のように眼を上げて彼女と顔を見合せた
0185Ms.名無しさん
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2022/01/08(土) 16:06:30.240
「風呂かい」
 自分はすぐこう聞いた。これよりほかに下女が今頃自分の室へやの襖を開けるはずがないと思ったからである。すると下女は立ちながら「いいえ」と答えたなり黙っていた。自分は下女の眼元に一種の笑いを見た。その笑いの中うちには相手を翻弄ほんろうし得た瞬間の愉快を女性的にょしょうてきに貪むさぼりつつある妙な閃ひらめきがあった。自分は鋭く下女に向って、「何だい、突立つったったまま」と云った。下女はすぐ敷居際しきいぎわに膝ひざを突いた。そうして「御客様です」とやや真面目まじめに答えた。
0186Ms.名無しさん
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2022/01/08(土) 16:06:38.120
「三沢だろう」と自分が云った。自分はある事で三沢の訪問を予期していたのである。
「いいえ女の方です」
0187Ms.名無しさん
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2022/01/08(土) 16:06:45.910
「女の人?」
 自分は不審の眉まゆを寄せて下女に見せた。下女はかえって澄ましていた。
0188Ms.名無しさん
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2022/01/08(土) 16:06:54.170
「こちらへ御通し申しますか」
「何という人だい」
0189Ms.名無しさん
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2022/01/08(土) 16:07:02.520
「知りません」
「知りませんって、名前を聞かないでむやみに人の室へ客を案内する奴やつがあるかい」
0190Ms.名無しさん
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2022/01/08(土) 16:07:11.570
「だって聞いてもおっしゃらないんですもの」
 下女はこう云って、また先刻さっきのような意地の悪い笑を目元で笑った。自分はいきなり火鉢から手を放して立ち上った。敷居際に膝を突いている下女を追い退のけるようにして上あがり口ぐちまで出た。そうして土間の片隅にコートを着たまま寒そうに立っていた嫂あによめの姿を見出した。
0191Ms.名無しさん
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2022/01/08(土) 16:07:20.720
        二

 その日は朝から曇っていた。しかも打ち続いた好天気を一度に追い払うように寒い風が吹いた。自分は事務所から帰りがけに、外套がいとうの襟えりを立てて歩きながら道々雨になるのを気遣きづかった。その雨が先刻さっき夕飯ゆうめしの膳ぜんに向う時分からしとしとと降り出した。
「好くこんな寒い晩に御出かけでした」
0192Ms.名無しさん
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2022/01/08(土) 16:07:28.430
 嫂は軽く「ええ」と答えたぎりであった。自分は今まで坐すわっていた蒲団ふとんの裏を返して、それを三尺の床の前に直して、「さあこっちへいらっしゃい」と勧めた。彼女はコートの片袖かたそでをするすると脱ぎながら「そうお客扱いにしちゃ厭いやよ」と云った。自分は茶器を洒すすがせるために電鈴ベルを押した手を放して、彼女の顔を見た。寒い戸外の空気に冷えたその頬ほおはいつもより蒼白あおじろく自分の眸子ひとみを射た。不断から淋さむしい片靨かたえくぼさえ平生つねとは違った意味の淋しさを消える瞬間にちらちらと動かした。
「まあ好いからそこへ坐って下さい」
0193Ms.名無しさん
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2022/01/08(土) 16:07:35.790
 彼女は自分の云う通りに蒲団の上に坐った。そうして白い指を火鉢ひばちの上に翳かざした。彼女はその姿から想像される通り手爪先てづまさきの尋常じんじょうな女であった。彼女の持って生れた道具のうちで、初はじめから自分の注意を惹ひいたものは、華奢きゃしゃに出来上ったその手と足とであった。
「二郎さん、あなたも手を出して御あたりなさいな」
0194Ms.名無しさん
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2022/01/08(土) 16:09:35.860
 自分はしばらく嫂と応対していた。けれども今自白すると腹の中は話の調子で示されるほど穏かなものではけっしてなかった。自分は嫂がこの下宿へ訪ねて来きようとはその時までけっして予期していなかったのである。空想にすら描いていなかったのである。彼女の姿を上あがり口ぐちの土間に見出した時自分ははっと驚いた。そうしてその驚きは喜びの驚きよりもむしろ不安の驚きであった。
「何で来たのだろう。何でこの寒いのにわざわざ来たのだろう。何でわざわざ晩になって灯ひが点ついてから来たのだろう」
0195Ms.名無しさん
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2022/01/08(土) 16:09:45.400
 これが彼女を見た瞬間の疑惑であった。この疑惑に初手しょてからこだわった自分の胸には、火鉢を隔てて彼女と相対している日常の態度の中うちに絶えざる圧迫があった。それが自分の談話や調子に不愉快なそらぞらしさを与えた。自分はそれを明かに自覚した。それからその空々そらぞらしさがよく相手の頭に映っているという事も自覚した。けれどもどうする訳にも行かなかった。自分は嫂に「冴さえ返って寒くなりましたね」と云った。「雨の降るのに好く御出かけですね」と云った。「どうして今頃御出かけです」と聞いた。対話がそこまで行っても自分の胸に少しの光明を投げなかった時、自分は硬かたくなった、そうしてジョコンダに似た怪しい微笑の前に立ち竦すくまざるを得なかった。
「二郎さんはしばらく会わないうちに、急に改まっちまったのね」と嫂が云い出した。
0196Ms.名無しさん
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2022/01/08(土) 16:09:56.460
「そんな事はありません」と自分は答えた。
「いいえそうよ」と彼女が押し返した。
0197Ms.名無しさん
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2022/01/08(土) 16:10:07.240
        三

 自分はつと立って嫂の後うしろへ廻った。彼女は半間はんげんの床とこを背にして坐っていた。室が狭いので彼女の帯のあたりはほとんど杉の床柱とすれすれであった。自分がその間へ一足割り込んだ時、彼女は窮屈そうに体躯からだを前の方へ屈かがめて「何をなさるの」と聞いた。自分は片足を宙ちゅうに浮かしたまま、床の奥から黒塗の重箱を取り出して、それを彼女の前へ置いた。
「一つどうです」
0198Ms.名無しさん
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2022/01/09(日) 07:43:19.320
 こう云いながら蓋ふたを取ろうとすると、彼女は微かすかに苦笑を洩もらした。重箱の中には白砂糖をふりかけた牡丹餅ぼたもちが行儀よく並べてあった。昨日きのうが彼岸ひがんの中日ちゅうにちである事を自分はこの牡丹餅によって始めて知ったのである。自分は嫂あによめの顔を見て真面目に「食べませんか」と尋ねた。彼女はたちまち吹き出した。
「あなたもずいぶんね、その御萩おはぎは昨日きのう宅うちから持たせて上げたんじゃありませんか」
0199Ms.名無しさん
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2022/01/09(日) 07:43:28.680
 自分はやむをえず苦笑しながら一つ頬張ほおばった。彼女は自分のために湯呑ゆのみへ茶を注ついでくれた。
 自分はこの牡丹餅から彼女が今日墓詣はかまいりのため里さとへ行ってその帰りがけにここへ寄ったのだと云う事をようやく確めた。
0200Ms.名無しさん
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2022/01/09(日) 07:43:36.620
「大変御無沙汰ごぶさたをしていますが、あちらでも別にお変りはありませんか」
「ええありがとう、別に……」
0201Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/09(日) 07:43:44.960
 言葉寡ことばずくなな彼女はただ簡単にこう答えただけであったが、その後へ、「御無沙汰って云えば、あなた番町へもずいぶん御無沙汰ね」と付け加えて、ことさらに自分の顔を見た。
 自分は全く番町へは遠ざかっていた。始めは宅うちの事が苦くになって一週に一度か二度行かないと気が済まないくらいだったが、いつか中心を離れてよそからそっと眺める癖を養い出した。そうしてその眺めている間少くとも事が起らずに済んだという自覚が、無沙汰を無事の原因のように思わせていた。
0202Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/09(日) 07:43:53.770
「なぜ元のようにちょくちょくいらっしゃらないの」
「少し仕事の方が忙いそがしいもんですから」
0203Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/09(日) 07:44:01.620
「そう? 本当に? そうじゃないでしょう」
 自分は嫂からこう追窮されるのに堪たえなかった。その上自分には彼女の心理が解らなかった。他ほかの人はどうあろうとも、嫂だけはこの点において自分を追窮する勇気のないものと今まで固く信じていたからである。自分は思い切って「あなたは大胆過ぎる」と云おうかと思った。けれども疾とうに相手から小胆と見縊みくびられている自分はついに卑怯ひきょうであった。
0204Ms.名無しさん
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2022/01/09(日) 07:44:09.490
「本当に忙がしいのです。実はこの間から少し勉強しようと思って、そろそろその準備に取りかかったもんですから、つい近頃はどこへも出る気にならないんです。僕はいつまでこんな事をしてぐずぐずしていたってつまらないから、今のうち少し本でも読んでおいて、もう少ししたら外国へでも行って見たいと思ってるんだから」
 この答えの後半は本当に自分の希望であった。自分は何でもいいからただ遠くへ行きたい行きたいと願っていた。
0205Ms.名無しさん
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2022/01/09(日) 07:44:17.220
「外国って、洋行?」と嫂が聞いた。
「まあそうです」
0206Ms.名無しさん
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2022/01/09(日) 07:44:27.640
「結構ね。御父さんに願って早くやって御頂きなさい。妾あたし話して上げましょうか」
 自分も無駄と知りながらそんな事を幻まぼろしのように考えていたのだが、彼女の言葉を聞いた時急に、「お父さんは駄目ですよ」と首を振って見せた。彼女はしばらく黙っていた。やがて物憂ものうそうな調子で「男は気楽なものね」と云った。
0207Ms.名無しさん
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2022/01/09(日) 07:44:36.350
「ちっとも気楽じゃありません」
「だって厭いやになればどこへでも勝手に飛んで歩けるじゃありませんか」
0208Ms.名無しさん
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2022/01/09(日) 07:44:48.020
       四

 自分はいつか手を出して火鉢ひばちへあたっていた。その火鉢は幾分か背を高くかつ分厚ぶあつに拵こしらえたものであったけれども、大きさから云うと、普通なみの箱火鉢と同じ事なので二人向い合せに手を翳かざすと、顔と顔との距離があまり近過ぎるくらいの位地にあった。嫂あによめは席に着いた初から寒いといって、猫背ねこぜの人のように、心持胸から上を前の方に屈こごめて坐っていた。彼女のこの姿勢のうちには女らしいという以外に何の非難も加えようがなかった。けれどもその結果として自分は勢い後うしろへ反そり返る気味で座を構えなければならなくなった。それですら自分は彼女の富士額ふじびたいをこれほど近くかつ長く見つめた事はなかった。自分は彼女の蒼白あおじろい頬の色を※(「(諂−言)+炎」、第3水準1-87-64)ほのおのごとく眩まぶしく思った。
 自分はこういう比較的窮屈な態度の下もとに、彼女から突如として彼女と兄の関係が、自分が宅うちを出た後あともただ好くない一方に進んで行くだけであるという厭いやな事実を聞かされた。彼女はこれまでこちらから問いかけなければ、けっして兄の事について口を開かない主義を取っていた。たといこちらから問いかけても「相変らずですわ」とか、「何心配するほどの事じゃなくってよ」とか答えてただ微笑するのが常であった。それをまるで逆さかさまにして、自分の最も心苦しく思っている問題の真相を、向うから積極的にこちらへ吐きかけたのだから、卑怯ひきょうな自分は不意に硫酸を浴あびせられたようにひりひりとした。
0209Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/09(日) 07:44:57.340
 しかしいったん緒いとぐちを見出した時、自分はできるだけ根掘り葉掘り聞こうとした。けれども言葉の浪費を忌いむ彼女は、そうこちらの思い通りにはさせなかった。彼女の口にするところは重おもに彼ら夫婦間に横たわる気不味きまずさの閃電せんでんに過ぎなかった。そうして気不味さの近因についてはついに一言ひとことも口にしなかった。それを聞くと、彼女はただ「なぜだか分らないのよ」というだけであった。実際彼女にはそれが分らないのかも知れなかった。また分っている癖にわざと話さないのかも知れなかった。
「どうせ妾あたしがこんな馬鹿に生れたんだから仕方がないわ。いくらどうしたってなるようになるよりほかに道はないんだから。そう思って諦あきらめていればそれまでよ」
0210Ms.名無しさん
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2022/01/09(日) 07:45:06.610
 彼女は初めから運命なら畏おそれないという宗教心を、自分一人で持って生れた女らしかった。その代り他ひとの運命も畏れないという性質たちにも見えた。
「男は厭いやになりさえすれば二郎さん見たいにどこへでも飛んで行けるけれども、女はそうは行きませんから。妾なんかちょうど親の手で植付けられた鉢植はちうえのようなもので一遍植えられたが最後、誰か来て動かしてくれない以上、とても動けやしません。じっとしているだけです。立枯たちがれになるまでじっとしているよりほかに仕方がないんですもの」
0211Ms.名無しさん
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2022/01/09(日) 07:45:14.960
 自分は気の毒そうに見えるこの訴えの裏面に、測はかるべからざる女性にょしょうの強さを電気のように感じた。そうしてこの強さが兄に対してどう働くかに思い及んだ時、思わずひやりとした。
「兄さんはただ機嫌きげんが悪いだけなんでしょうね。ほかにどこも変ったところはありませんか」
0212Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/09(日) 07:45:23.230
「そうね。そりゃ何とも云えないわ。人間だからいつどんな病気に罹かからないとも限らないから」
 彼女はやがて帯の間から小さい女持の時計を出してそれを眺ながめた。室へやが静かなのでその蓋ふたを締める音が意外に強く耳に鳴った。あたかも穏かな皮膚の面おもてに鋭い針の先が触れたようであった。
0213Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/09(日) 07:45:32.490
「もう帰りましょう。――二郎さん御迷惑でしたろうこんな厭いやな話を聞かせて。妾あたし今まで誰にもした事はないのよ、こんな事。今日自分の宅うちへ行ってさえ黙ってるくらいですもの」
 上あがり口に待っていた車夫の提灯ちょうちんには彼女の里方さとかたの定紋じょうもんが付いていた。
0214Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/09(日) 16:40:06.520
日本の株価が32年前の水準に戻る間に、米企業の時価総額は12倍に
1/9(日) 6:02配信
0216Ms.名無しさん
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2022/01/10(月) 20:55:19.480
        五

 その晩は静かな雨が夜通し降った。枕を叩たたくような雨滴あまだれの音の中に、自分はいつまでも嫂あによめの幻影まぼろしを描いた。濃こい眉まゆとそれから濃い眸子ひとみ、それが眼に浮ぶと、蒼白あおしろい額や頬は、磁石じしゃくに吸いつけられる鉄片てっぺんの速度で、すぐその周囲まわりに反映した。彼女の幻影は何遍も打ち崩くずされた。打ち崩されるたびに復また同じ順序がすぐ繰返された。自分はついに彼女の唇くちびるの色まで鮮かに見た。その唇の両端りょうはしにあたる筋肉が声に出ない言葉の符号シンボルのごとく微かすかに顫動せんどうするのを見た。それから、肉眼の注意を逃れようとする微細の渦うずが、靨えくぼに寄ろうか崩れようかと迷う姿で、間断なく波を打つ彼女の頬をありありと見た。
 自分はそれくらい活いきた彼女をそれくらい劇はげしく想像した。そうして雨滴あまだれの音のぽたりぽたりと響く中に、取り留めもないいろいろな事を考えて、火照ほてった頭を悩まし始めた。
0217Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/10(月) 20:55:31.400
 彼女と兄との関係が悪く変る以上、自分の身体からだがどこにどう飛んで行こうとも、自分の心はけっして安穏あんのんであり得なかった。自分はこの点について彼女にもっと具体的な説明を求めたけれども、普通の女のように零砕れいさいな事実を訴えの材料にしない彼女は、ほとんど自分の要求を無視したように取り合わなかった。自分は結果からいうと、焦慮じらされるために彼女の訪問を受けたと同じ事であった。
 彼女の言葉はすべて影のように暗かった。それでいて、稲妻いなずまのように簡潔な閃ひらめきを自分の胸に投げ込んだ。自分はこの影と稲妻とを綴つづり合せて、もしや兄がこの間中あいだじゅう癇癖かんぺきの嵩こうじたあげく、嫂に対して今までにない手荒な事でもしたのではなかろうかと考えた。打擲ちょうちゃくという字は折檻せっかんとか虐待ぎゃくたいとかいう字と並べて見ると、忌いまわしい残酷な響を持っている。嫂は今の女だから兄の行為を全くこの意味に解しているかも知れない。自分が彼女に兄の健康状態を聞いた時、彼女は人間だからいつどんな病気に罹るかも知れないと冷ひややかに云って退のけた。自分が兄の精神作用に掛念けねんがあってこの問を出したのは彼女にも通じているはずである。したがって平生よりもなお冷淡な彼女の答は、美しい己おのれの肉に加えられた鞭むちの音を、夫の未来に反響させる復讐ふくしゅうの声とも取れた。――自分は怖こわかった。
0218Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/10(月) 20:55:42.190
 自分は明日あすにも番町へ行って、母からでもそっと彼ら二人の近況を聞かなければならないと思った。けれども嫂あによめはすでに明言した。彼ら夫婦関係の変化については何人なんびともまだ知らない、また何人なんびとにも告げた事がないと明言した。影のような稲妻いなずまのような言葉のうちからその消息をぼんやりと焼きつけられたのは、天下に自分の胸がたった一つあるばかりであった。
 なぜあれほど言葉の寡すくない嫂が自分にだけそれを話し出したのだろうか。彼女は平生から落ちついている。今夜も平生の通り落ちついていた。彼女は昂奮こうふんの極きょく訴える所がないので、わざわざ自分を訪とうたものとは思えなかった。だいち訴えという言葉からしてが彼女の態度には不似合であった。結果から云えば、自分は先刻さっき云った通りむしろ彼女から焦慮じらされたのであるから。
0219Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/10(月) 20:55:51.530
 彼女は火鉢にあたる自分の顔を見て、「なぜそう堅苦かたくるしくしていらっしゃるの」と聞いた。自分が「別段堅苦しくはしていません」と答えた時、彼女は「だって反そっ繰くり返かえってるじゃありませんか」と笑った。その時の彼女の態度は、細い人指ひとさしゆびで火鉢の向側から自分の頬ほっぺたでも突っつきそうに狎なれ狎れしかった。彼女はまた自分の名を呼んで、「吃驚びっくりしたでしょう」と云った。突然雨の降る寒い晩に来て、自分を驚かしてやったのが、さも愉快な悪戯いたずらででもあるかのごとくに云った。……
 自分の想像と記憶は、ぽたりぽたりと垂れる雨滴あまだれの拍子ひょうしのうちに、それからそれからととめどもなく深更まで廻転した。
0220Ms.名無しさん
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2022/01/10(月) 20:56:01.620
        六

 それから三四日さんよっかの間というもの自分の頭は絶えず嫂の幽霊に追い廻された。事務所の机の前に立って肝心かんじんの図を引く時ですら、自分はこの祟たたりを払い退のける手段を知らなかった。ある日には始終しじゅう他人の手を借りて仕事を運んで行くようなはがゆい思さえ加わった。こうして自分で自分を離れた気分を持ちながら、上部うわべだけを人並にやって行くのに傍はたの者はなぜ不審がらないのだろうと疑ぐって見たりした。自分はよほど前から事務所ではもう快活な男として通用しないようになっていた。ことに近来は口数さえ碌ろくに利きかなかった。それでこの三四日間に起った変化もまた他ひとの注意に上のぼらずに済んでいるのだろうと考えた。そうして自己と周囲と全く遮断しゃだんされた人の淋さびしさを独ひとり感じた。
 自分はこの間に一人の嫂をいろいろに視た。――彼女は男子さえ超越する事のできないあるものを嫁に来たその日からすでに超越していた。あるいは彼女には始めから超越すべき牆かきも壁もなかった。始めから囚とらわれない自由な女であった。彼女の今までの行動は何物にも拘泥こうでいしない天真の発現に過ぎなかった。
0221Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/10(月) 20:56:11.200
 ある時はまた彼女がすべてを胸のうちに畳み込んで、容易に己を露出しないいわゆるしっかりもののごとく自分の眼に映じた。そうした意味から見ると、彼女はありふれたしっかりものの域いきを遥はるかに通り越していた。あの落ちつき、あの品位、あの寡黙かもく、誰が評しても彼女はしっかりし過ぎたものに違いなかった。驚くべく図々ずうずうしいものでもあった。
 ある刹那せつなには彼女は忍耐の権化ごんげのごとく、自分の前に立った。そうしてその忍耐には苦痛の痕迹こんせきさえ認められない気高けだかさが潜ひそんでいた。彼女は眉まゆをひそめる代りに微笑した。泣き伏す代りに端然たんぜんと坐った。あたかもその坐っている席の下からわが足の腐れるのを待つかのごとくに。要するに彼女の忍耐は、忍耐という意味を通り越して、ほとんど彼女の自然に近いある物であった。
0222Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/10(月) 20:56:19.310
 一人の嫂あによめが自分にはこういろいろに見えた。事務所の机の前、昼餐ひるめしの卓たくの上、帰かえり途みちの電車の中、下宿の火鉢の周囲まわり、さまざまの所でさまざまに変って見えた。自分は他ひとの知らない苦しみを他に言わずに苦しんだ。その間思い切って番町へ出かけて行って、大体の様子を探るのがともかくも順序だとはしばしば胸に浮かんだ。けれども卑怯ひきょうな自分はそれをあえてする勇気をもたなかった。眼の前に怖こわい物のあるのを知りながら、わざと見ないために瞼まぶたを閉じていた。
 すると五日目の土曜の午後に突然父から事務所の電話口まで呼び出された。
0223Ms.名無しさん
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2022/01/10(月) 20:56:27.630
「御前は二郎かい」
「そうです」
0224Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/10(月) 20:56:36.650
「明日あすの朝ちょっと行くが好いかい」
「へえ」
0225Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/10(月) 20:56:43.720
「差支さしつかえがあるかい」
「いえ別に……」
0226Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/10(月) 20:56:53.120
「じゃ待っててくれ、好いいだろうね。さようなら」
 父はそれで電話を切ってしまった。自分は少からず狼狽ろうばいした。何の用事であるかをさえ確める余裕をもたなかった自分は、電話口を離れてから後悔した。もし用事があるなら呼びつけられそうなものだのにとすぐ変に思っても見た。父が向うから来るという違例な事が、この間の嫂の訪問に何か関係があるような気がして、自分の胸は一層不安になった。
 下宿に帰ったら、大阪の岡田から来た一枚の絵端書えはがきが机の上に載せてあった。それは彼ら夫婦が佐野とお貞さんを誘って、楽しい半日を郊外に暮らした記念であった。自分は机に向って長い間その絵端書を見つめていた。
0227Ms.名無しさん
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2022/01/10(月) 20:57:03.430
        七

 日曜には思い切って寝坊をする癖のついていた自分も、次の朝だけは割合に早く起きた。飯を済まして新聞を読むと、その新聞が汽車を待ち合せる間に買って、せわしなく眼を通す時のように、何の見るところもないほど、つまらなく感ぜられた。自分はすぐ新聞を棄すてた。しかし五六分経たたないうちにまたそれを取り上げた。自分は煙草を吸ったり、眼鏡めがねの曇くもりを丁寧ていねいに拭ぬぐったり、いろいろな所作しょさをして、父の来るのを待ち受けた。
 父は容易に来なかった。自分は父の早起をよく承知していた。彼の性急せっかちにも子供のうちから善よく馴ならされていた。落ちつかない自分は、電話でもかけて、どうしたのかこっちから父の都合を聞いて見ようかと思った。
0228Ms.名無しさん
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2022/01/10(月) 20:57:11.700
 母に狎なれ抜いた自分は、常から父を憚はばかっていた。けれども、本当の底を割って見ると、柔和やさしい母の方が、苛酷きびしい父よりはかえって怖こわかった。自分は父に怒られたり小言を云われたりする時に、恐縮はしながらも、やっぱり男は男だと腹の中で思う事がたびたびあった。けれどもこの場合はいつもと違っていた。いくら父でもそう容易たやすく高を括くくる訳に行かなかった。電話をかけようとした自分はまたかけ得ずにしまった。
 父はとうとう十時頃になってやって来た。羽織はおり袴はかまで少しきまり過ぎた服装なりはしていたが、顔つきは存外穏かであった。小さい時から彼の手元で育った自分は、事のあるかないかを彼の顔色からすぐ判断する功を積んでいた。
0229Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/10(月) 20:57:19.720
「もっと早くおいでだろうと思って先刻さっきから待っていました」
「おおかた床の中で待ってたんだろう。早いのはいくら早くっても驚かないが、御前に気の毒だからわざと遅く出かけたのさ」
0230Ms.名無しさん
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2022/01/10(月) 20:57:28.270
 父は自分の汲くんで出した茶を、飲むように甞なめるように、口の所へ持って行って、室へやの中をじろじろ見廻した。室には机と本箱と火鉢があるだけであった。
「好い室だね」
0231Ms.名無しさん
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2022/01/10(月) 20:57:36.600
 父は自分達に対してもよくこんな愛嬌あいきょうを云う男であった。彼が長年社交のために用い慣れた言葉は、遠慮のない家庭にまで、いつか這入り込んで来た。それほど枯れた御世辞おせじだから、それが自分には他ひとの「御早う」ぐらいにしか響かなかった。
 彼は三尺の床とこを覗のぞいてそこに掛けた幅物ふくものを眺め出した。
0233Ms.名無しさん
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2022/01/11(火) 08:46:09.480
Facebookの「一人勝ち」も、空前大ブームの「メタバース」
0234Ms.名無しさん
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2022/01/11(火) 14:50:18.130
「ちょうど好いね」
 その軸は特にここの床とこの間まを飾るために自分が父から借りて来た小形の半切はんせつであった。彼が「これなら持って行っても好い」と投げ出してくれただけあって、自分にはちょうど好くも何ともない変なものであった。自分は苦笑してそれを眺めていた。
0235Ms.名無しさん
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2022/01/11(火) 14:50:26.750
 そこには薄墨で棒が一本筋違すじかいに書いてあった。その上に「この棒ひとり動かず、さわれば動く」と賛さんがしてあった。要するに絵とも字とも片かたのつかないつまらないものであった。
「御前は笑うがね。これでも渋いものだよ。立派な茶懸ちゃがけになるんだから」
0236Ms.名無しさん
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2022/01/11(火) 14:50:36.310
「誰でしたっけね書き手は」
「それは分らないが、いずれ大徳寺か何か……」
0237Ms.名無しさん
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2022/01/11(火) 14:50:45.020
「そうそう」
 父はそれで懸物かけものの講釈を切り上げようとはしなかった。大徳寺がどうの、黄檗おうばくがどうのと、自分にはまるで興味のない事を説明して聞かせた。しまいに「この棒の意味が解るか」などと云って自分を悩ませた。
0238Ms.名無しさん
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2022/01/11(火) 14:50:53.500
        八

 その日自分は父に伴つれられて上野の表慶館を見た。今まで彼に随ついてそういう所へ行った事は幾度となくあったが、まさかそのために彼がわざわざ下宿へ誘いに来きようとは思えなかった。自分は父と共に下宿の門かどを出て上野へ向う途々みちみちも、今に彼の口から何か本当の用事が出るに違ちがいないと予期していた。しかしそれをこっちから聞く勇気はとても起らなかった。兄の名も嫂あによめの名も彼の前には封じられた言葉のごとく、自分の声帯を固く括くくりつけた。
 表慶館で彼は利休の手紙の前へ立って、何々せしめ候そろ……かね、といった風に、解らない字を無理にぽつぽつ読んでいた。御物ごもつの王羲之おうぎしの書を見た時、彼は「ふうんなるほど」と感心していた。その書がまた自分には至ってつまらなく見えるので、「大いに人意を強うするに足るものだ」と云ったら、「なぜ」と彼は反問した。
0239Ms.名無しさん
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2022/01/11(火) 14:51:01.780
 二人は二階の広間へ入った。するとそこに応挙おうきょの絵がずらりと十幅ばかりかけてあった。それが不思議にも続きもので、右の端はじの巌いわの上に立っている三羽の鶴と、左の隅すみに翼をひろげて飛んでいる一羽のほかは、距離にしたら約二三間の間ことごとく波で埋うまっていた。
「唐紙からかみに貼はってあったのを、剥はがして懸物かけものにしたのだね」
0240Ms.名無しさん
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2022/01/11(火) 14:51:13.860
一幅ごとに残っている開閉あけたての手摺てずれの痕あとと、引手ひきての取れた部分の白い型を、父は自分に指し示した。自分は広間の真中に立ってこの雄大な画えを描いた昔の日本人を尊敬する事を、父の御蔭おかげでようやく知った。
 二階から下りた時、父は玉ぎょくだの高麗焼こうらいやきだのの講釈をした。柿右衛門かきえもんと云う名前も聞かされた。一番下らないのはのんこうの茶碗であった。疲れた二人はついに表慶館を出た。館の前を掩おおうように聳そびえている蒼黒あおぐろい一本の松の木を右に見て、綺麗きれいな小路こみちをのそのそ歩いた。それでも肝心かんじんの用事について、父は一言ひとことも云わなかった。
0241Ms.名無しさん
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2022/01/11(火) 14:51:26.400
「もうじき花が咲くね」
「咲きますね」
0242Ms.名無しさん
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2022/01/11(火) 14:51:34.370
 二人はまたのそのそ東照宮の前まで来た。
「精養軒で飯でも食うか」
0243Ms.名無しさん
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2022/01/11(火) 14:51:45.370
 時計はもう一時半であった。小さい時分から父に伴つれられて外出そとでするたびに、きっとどこかで物を食う癖のついた自分は、成人の後のちも御供と御馳走ごちそうを引き離しては考えていなかった。けれどもその日はなぜだか早く父に別れたかった。
 行きがけに気のつかなかったその精養軒の入口は、五色の旗で隙間すきまなく飾られた綱を、いつの間にか縦横に渡して、絹帽シルクハットの客を華はなやかに迎えていた。
0244Ms.名無しさん
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2022/01/11(火) 14:51:55.400
「何かあるんですよ今日は。おおかた貸し切りなんでしょう」
「なるほど」
0245Ms.名無しさん
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2022/01/11(火) 14:52:05.650
 父は立ち留って木この間まにちらちらする旗の色を眺めていたが、やがて気のついた風で、「今日は二十三日だったね」と聞いた。その日は二十三日であった。そうしてKという兄の知人の結婚披露の当日であった。
「つい忘れていた。一週間ばかり前に招待状が来ていたっけ。一郎と直なおと二人の名宛なあてで」
0246Ms.名無しさん
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2022/01/11(火) 14:52:15.100
「Kさんはまだ結婚しなかったのですかね」
「そうさ。善よく知らないが、まさか二度目じゃなかろうよ」
0247Ms.名無しさん
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2022/01/11(火) 14:52:23.840
 二人は山を下りてとうとうその左側にある洋食屋に這入はいった。
「ここは往来がよく見える。ことに寄ると一郎が、絹帽を被かぶって通るかも知れないよ」
0248Ms.名無しさん
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2022/01/11(火) 14:52:33.140
「嫂ねえさんもいっしょなんですか」
「さあ。どうかね」
 二階の窓際近くに席を占めた自分達は、花で飾られた低い瓶ヴァーズを前に、広々した三橋みはしの通りを見下した。
0249Ms.名無しさん
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2022/01/12(水) 09:42:11.940
        九

 食事中父は機嫌きげんよく話した。しかし用談らしい改まったものは、珈琲コーヒーを飲むまでついに彼の口に上のぼらなかった。表へ出た時、彼は始めて気のついたらしい顔をして、向う側の白い大きな建物を眺めた。
「やあいつの間にか勧工場かんこうばが活動に変化しているね。ちっとも知らなかった。いつ変ったんだろう」
0250Ms.名無しさん
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2022/01/12(水) 09:42:20.170
 白い洋館の正面に金字で書いてある看板の周囲は、無数の旗の影で安価に彩いろどられていた。自分は職業柄、さも仰山ぎょうさんらしく東京の真中に立っているこの粗末な建築を、情ない眼つきで見た。
「どうも驚くね世の中の早く変るには。そう思うとおれなぞもいつ死ぬか分らない」
0251Ms.名無しさん
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2022/01/12(水) 09:42:30.740
 好い日曜なのと時刻が時刻なので、往来は今が人の出盛りであった。華はなやかな色と、陽気な肉と、浮いた足並の簇むらがるなかでこう云った父の言葉は、妙に周囲と調和を欠いていた。
 自分は番町と下宿と方角の岐わかれる所で、父に別れようとした。
「用があるのかい」
0252Ms.名無しさん
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2022/01/12(水) 09:42:38.880
「ええ少し……」
「まあ好いから宅うちまでおいで」
0253Ms.名無しさん
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2022/01/12(水) 09:42:47.110
 自分は帽子の鍔つばへ手をかけたまま躊躇ちゅうちょした。
「いいからおいでよ。自分の宅じゃないか。たまには来るものだ」
0254Ms.名無しさん
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2022/01/12(水) 09:42:55.170
 自分はきまりの悪い顔をして父の後あとに随したがった。父はすぐ後うしろをふり向いた。
「宅じゃ近頃御前が来ないので、みんな不思議がってるんだぜ。二郎はどうしたんだろうって。遠慮が無沙汰ぶさたというが、御前のは無遠慮が無沙汰になるんだからなお悪い」
0255Ms.名無しさん
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2022/01/12(水) 09:43:04.290
「そう云う訳でもありませんが。……」
「何しろ来るが好い。言訳は宅へ行って、御母さんにたんとするさ。おれはただ引っ張って行く役なんだから」
0256Ms.名無しさん
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2022/01/12(水) 09:43:12.580
 父はずんずん歩いた。自分は腹の中であたかも丁年ていねん未満の若者のような自分の態度を苦笑しながら、黙って父と歩調を共にした。その日はこの間とは打って変って、青春の第一日ともいうべき暖かい光を、南へ廻った太陽が自分達の上へ投げかけていた。獺かわうその襟えりをつけた重いとんびを纏まとった父も、少し厚手の外套がいとうを着た自分も、先刻さっきからの運動で、少し温気うんきに蒸むされる気味であった。その春の半日を自分は父の御蔭おかげで、珍らしく方々引っ張り廻された。この老いた父と、こう肩を並べて歩いた例ためしは近頃とんとなかった。この老いた父とこれから先もう何度こうして歩けるものかそれも分らなかった。
 自分は鈍い不安のうちに、微かすかな嬉うれしさと、その嬉しさに伴う一種のはかなさとを感じた。そうして不意に自分の胸を襲ったこの感傷的な気分に、なるべく己おのれを任せるような心持で足を運ばせた。
0257Ms.名無しさん
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2022/01/12(水) 09:43:20.590
「御母さんは驚いているよ。御彼岸おひがんに御萩おはぎを持たせてやっても、返事も寄こさなければ、重箱を返しもしないって。ちょっとでも好いから来ればいいのさ。来られない訳が急にできた訳でもあるまいし」
 自分は何とも返事をしなかった。
0258Ms.名無しさん
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2022/01/12(水) 09:43:28.820
「今日は久しぶりに御前を伴つれて行って皆みんなに会わせようと思って。――御前一郎に近頃会った事はあるまい」
「ええ実は下宿をする時挨拶あいさつをしたぎりです」
0259Ms.名無しさん
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2022/01/12(水) 09:43:37.670
「それ見ろ。ところが今日はあいにく一郎が留守るすだがね。御父さんが上野の披露会の事を忘れていたのが悪かったけれども」
 自分は父に伴つれられて、とうとう番町の門を潜くぐった。
0260Ms.名無しさん
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2022/01/12(水) 09:43:46.910
        十

 座敷に這入はいった時、母は自分の顔を見て、「おや珍らしいね」と云っただけであった。自分はほとんど権柄けんぺいずくでここへ引っ張られて来ながらも、途々みちみち父の情なさけをありがたく感じていた。そうして暗に家に帰ってから母に会う瞬間の光景を予想していた。その予想がこの一言いちごんで打ち崩くずされたのは案外であった。父は家内の誰にも打ち合せをせずに、全く自分一人の考えで、この不心得な息子に親切を尽してくれたのである。お重は逃げた飼犬を見るような眼つきで自分を見た。「そら迷子まいごが帰って来た」と云った。嫂あによめはただ「いらっしゃい」と平生の通り言葉寡ことばずくなな挨拶をした。この間の晩一人で尋ねて来た事は、まるで忘れてしまったという風に見えた。自分も人前を憚はばかって一口もそれに触れなかった。比較的陽気なのは父であった。彼は多少の諧謔かいぎゃくと誇張とを交ぜて、今日どうして自分をおびき出したかを得意らしく母やお重に話した。おびき出すという彼の言葉が自分には仰山ぎょうさんでかつ滑稽こっけいに聞えた。
「春になったから、皆みんなもちっと陽気にしなくっちゃいけない。この頃のように黙ってばかりいちゃ、まるで幽霊屋敷のようで、くさくさするだけだあね。桐畠きりばたけでさえ立派な家うちが建つ時節じゃないか」
0261Ms.名無しさん
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2022/01/12(水) 09:43:56.430
 桐畠というのは家のつい近所にある角地面かどじめんの名であった。そこへ住まうと何か祟たたりがあるという昔からの言い伝えで、この間まで空地あきちになっていたのを、この頃になってようやく或る人が買い取って、大きな普請ふしんを始めたのである。父は自分の家が第二の桐畠になるのを恐れでもするように、活々いきいきと傍そばのものに話し掛けた。平生彼の居馴染いなじんだ室へやは、奥の二間ふたま続きで、何か用があると、母でも兄でも、そこへ呼び出されるのが例になっていたが、その日はいつもと違って、彼は初めから居間へは這入らなかった。ただ袴はかまと羽織を脱ぬぎ棄すてたなり、そこへ坐すわったまま、長く自分達を相手に喋舌しゃべっていた。
 久しく住み馴なれた自分の家も、こうしてたまに来て見ると、多少忘れ物でも思い出すような趣おもむきがあった。出る時はまだ寒かった。座敷の硝子戸ガラスどはたいてい二重に鎖とざされて、庭の苔こけを残酷に地面から引き剥はがす霜しもが一面に降っていた。今はその外側の仕切しきりがことごとく戸袋の中うちに収おさめられてしまった。内側も左右に開かれていた。許す限り家の中と大空と続くようにしてあった。樹きも苔こけも石も自然から直接に眼の中へ飛び込んで来た。すべてが出る時と趣を異ことにしていた。すべてが下宿とも趣を異にしていた。
0262Ms.名無しさん
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2022/01/12(水) 09:44:05.980
 自分はこういう過去の記念のなかに坐って、久しぶりに父母ふぼや妹や嫂といっしょに話をした。家族のうちでそこにいないものはただ兄だけであった。その兄の名は先刻さっきからまだ一度も誰の会話にも上のぼらなかった。自分はその日彼がKさんの披露会に呼ばれたという事を聞いた。自分は彼がその招待に応じたか、上野へ出かけたか、はたして留守であるかさえ知らなかった。自分は自分の前にいる嫂あによめを見て、彼女が披露の席に臨まないという事だけを確めた。
 自分は兄の名が話頭に上らないのを苦にした。同時に彼の名が出て来るのを憚はばかった。そうした心持でみんなの顔を見ると、無邪気な顔は一つもないように思えた。
0263Ms.名無しさん
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2022/01/12(水) 09:44:18.090
 自分はしばらくしてお重に「お重お前の室へやをちょっと御見せ。綺麗きれいになったって威張ってたから見てやろう」と云った。彼女は「当り前よ、威張るだけの事はあるんだから行って御覧なさい」と答えた。自分は下宿をするまで朝夕ちょうせき寝起きをした、家中うちじゅうで一番馴染なじみの深い、故もとのわが室を覗のぞきに立った。お重は果して後あとから随ついて来た。
0264Ms.名無しさん
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2022/01/13(木) 09:25:15.320
国立国際医療研究センター(NCGM)
@NCGM1868
東京都の救急医療にも第6波の影響が出始めています。
救急隊が5カ所以上の医療機関に受入要請、または選定開始から20分以上経過しても
患者の搬送先が決まらない件数(救急医療の東京ルール適応件数)が、
1月11日には180件に
0267Ms.名無しさん
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2022/01/13(木) 11:24:00.820
脱炭素へ経済社会の大変革 首相の施政方針原案判明
共同通信社 2022/01/13 06:00
 
岸田文雄首相が、通常国会召集の17日に実施する施政方針演説の原案が判明した。
2050年に国内の温室効果ガス排出を実質ゼロにする政府目標の実現に向けて、
産業構造や国民生活を含む「経済社会全体の大変革」に取り組むと表明。
子ども関連施策の司令塔となる「こども家庭庁」創設を通じた縦割り行政の打破も訴える。
関係者が12日、明らかにした。

気候変動やデジタル、経済安全保障などの課題解決を図った上で、
官民の投資を集めて「成長のエンジン」に転換すると主張。
脱炭素社会を見据えた取り組みとして、
原子力の小型炉や核融合発電を挙げ「多くの論点に方向性を見いだす」と盛り込んだ。
0268Ms.名無しさん
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2022/01/13(木) 12:01:56.370
Bloomberg@business
26秒
Japan needs to significantly increase its carbon tax as soon as possible
in order to get on track for its climate goals, according to a former
senior official at the Ministry of Finance
0270Ms.名無しさん
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2022/01/14(金) 07:41:30.410
        十一

 彼女の室は自慢するほど綺麗にはなっていなかったけれども、自分の住み荒した昔に比べると、どこかになまめいた匂においが漂よっていた。自分は机の前に敷いてある派出はでな模様の座蒲団ざぶとんの上に胡坐あぐらをかいて、「なるほど」と云いながらそこいらを見廻した。
 机の上には和製のマジョリカ皿があった。薔薇ばらの造り花がセゼッション式の一輪瓶いちりんざしに挿さしてあった。白い大きな百合ゆりを刺繍ぬいにした壁飾りが横手にかけてあった。
0271Ms.名無しさん
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2022/01/14(金) 07:41:36.930
「ハイカラじゃないか」
「ハイカラよ」
0272Ms.名無しさん
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2022/01/14(金) 07:41:45.140
 お重の澄ました顔には得意の色が見えた。
 自分はしばらくそこでお重に調戯からかっていた。五六分してから彼女に「近頃兄さんはどうだい」とさも偶然らしく問いかけて見た。すると彼女は急に声を潜ひそめて、「そりゃ変なのよ」と答えた。彼女の性質は嫂とは全く反対なので、こう云う場合には大変都合が好かった。いったん緒口いとぐちさえ見出せば、あとはこっちで水を向ける必要も何もなかった。隠す事を知らない彼女は腹にある事をことごとく話した。黙って聞いていた自分にもしまいには蒼蠅うるさいほどであった。
0273Ms.名無しさん
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2022/01/14(金) 07:41:52.960
「つまり兄さんが家うちのものとあんまり口を利きかないと云うんだろう」
「ええそうよ」
0274Ms.名無しさん
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2022/01/14(金) 07:42:00.170
「じゃ僕の家を出た時と同じ事じゃないか」
「まあそうよ」
0275Ms.名無しさん
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2022/01/14(金) 07:42:08.470
 自分は失望した。考えながら、煙草たばこの灰をマジョリカ皿の中へ遠慮なくはたき落した。お重は厭いやな顔をした。
「それペン皿よ。灰皿じゃないわよ」
0276Ms.名無しさん
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2022/01/14(金) 07:42:16.520
 自分は嫂あによめほどに頭のできていないお重から、何も得るところのないのを覚さとって、また父や母のいる座敷へ帰ろうとした時、突然妙な話を彼女から聞いた。
 その話によると、兄はこの頃テレパシーか何かを真面目まじめに研究しているらしかった。彼はお重を書斎の外に立たしておいて、自分で自分の腕を抓つねった後あと「お重、今兄さんはここを抓ったが、お前の腕もそこが痛かったろう」と尋ねたり、または室へやの中で茶碗の茶を自分一人で飲んでおきながら、「お重お前の咽喉のどは今何か飲む時のようにぐびぐび鳴りやしないか」と聞いたりしたそうである。
0277Ms.名無しさん
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2022/01/14(金) 07:42:23.180
「妾あたし説明を聞くまでは、きっと気が変になったんだと思って吃驚びっくりしたわ。兄さんは後で仏蘭西フランスの何とかいう人のやった実験だって教えてくれたのよ。そうしてお前は感受性が鈍いから罹かからないんだって云うのよ。妾あたし嬉うれしかったわ」
「なぜ」
0278Ms.名無しさん
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2022/01/14(金) 07:42:30.440
「だってそんなものに罹るのはコレラに罹るより厭だわ妾」
「そんなに厭かい」
0279Ms.名無しさん
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2022/01/14(金) 07:42:38.250
「きまってるじゃありませんか。だけど、気味が悪いわね、いくら学問だってそんな事をしちゃ」
 自分もおかしいうちに何だか気味の悪い心持がした。座敷へ帰って来ると、嫂の姿はもうそこに見えなかった。父と母は差し向いになって小さな声で何か話し合っていた。その様子が今しがた自分一人で家中を陽気にした賑にぎやかな人の様子とも見えなかった。「ああ育てるつもりじゃなかったんだがね」という声が聞えた。
「あれじゃ困りますよ」という声も聞えた。
0280Ms.名無しさん
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2022/01/14(金) 07:42:48.660
        十二

 自分はその席で父と母から兄に関する近況の一般を聞いた。彼らの挙あげた事実は、お重を通して得た自分の知識に裏書をする以外、別に新しい何物をも付け加えなかったけれども、その様子といい言葉といい、いかにも兄の存在を苦くにしているらしく見えて、はなはだ痛々しかった。彼ら(ことに母)は兄一人のために宅中うちじゅうの空気が湿しめっぽくなるのを辛つらいと云った。尋常の父母以上にわが子を愛して来たという自信が、彼らの不平を一層濃く染めつけた。彼らはわが子からこれほど不愉快にされる因縁いんねんがないと暗に主張しているらしく思われた。したがって自分が彼らの前に坐すわっている間、彼らは兄を云々するほか、何人なんびとの上にも非難を加えなかった。平生から兄に対する嫂の仕打に飽あき足らない顔を見せていた母でさえ、この時は彼女についてついに一口も訴えがましい言葉を洩もらさなかった。
 彼らの不平のうちには、同情から出る心配も多量に籠こもっていた。彼らは兄の健康について少からぬ掛念けねんをもっていた。その健康に多少支配されなければならない彼の精神状態にも冷淡ではあり得なかった。要するに兄の未来は彼らにとって、恐ろしいXエッキスであった。
0281Ms.名無しさん
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2022/01/14(金) 07:42:58.120
「どうしたものだろう」
 これが相談の時必ず繰り返されべき言葉であった。実を云えば、一人一人離れている折ですら、胸の中うちでぼんやり繰り返して見るべき二人の言葉であった。
0282Ms.名無しさん
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2022/01/14(金) 07:43:07.040
「変人へんじんなんだから、今までもよくこんな事があったには有ったんだが、変人だけにすぐ癒なおったもんだがね。不思議だよ今度こんだは」
 兄の機嫌買きげんかいを子供のうちから知り抜いている彼らにも、近頃の兄は不思議だったのである。陰欝いんうつな彼の調子は、自分が下宿する前後から今日こんにちまで少しの晴間なく続いたのである。そうしてそれがだんだん険悪の一方に向って真直まっすぐに進んで行くのである。
0283Ms.名無しさん
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2022/01/14(金) 07:43:15.890
「本当に困っちまうよ妾わたしだって。腹も立つが気の毒でもあるしね」
 母は訴えるように自分を見た。
0284Ms.名無しさん
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2022/01/14(金) 07:43:26.970
 自分は父や母と相談のあげく、兄に旅行でも勧めて見る事にした。彼らが自分達の手際てぎわではとても駄目だからというので、自分は兄と一番親密なHさんにそれを頼むが好かろうと発議ほつぎして二人の賛成を得た。しかしその頼み役には是非共自分が立たなければ済まなかった。春休みにはまだ一週間あった。けれども学校の講義はもうそろそろしまいになる日取であった。頼んで見るとすれば、早くしなければ都合が悪かった。
「じゃ二三日にさんちうちに三沢の所へ行って三沢からでも話して貰うかまた様子によったら僕がじかに行って話すか、どっちかにしましょう」
0285Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/14(金) 07:43:39.160
 Hさんとそれほど懇意でない自分は、どうしても途中に三沢を置く必要があった。三沢は在学中Hさんを保証人にしていた。学校を出てからもほとんど家族の一人のごとく始終しじゅうそこへ出入していた。
 帰りがけに挨拶あいさつをしようと思って、ちょっと嫂あによめの室へやを覗のぞいたら、嫂は芳江を前に置いて裸人形に美しい着物を着せてやっていた。
0286Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/14(金) 07:43:48.350
「芳江大変大きくなったね」
 自分は芳江の頭へ立ちながら手をかけた。芳江はしばらく顔を見なかった叔父に突然綾あやされたので、少しはにかんだように唇くちびるを曲げて笑っていた。門を出る時はかれこれ五時に近かったが、兄はまだ上野から帰らなかった。父は久しぶりだから飯めしでも食って彼に会って行けと云ったが、自分はとうとうそれまで腰を据すえていられなかった。
0287Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/15(土) 09:47:26.920
        十三

 翌日あくるひ自分は事務所の帰りがけに三沢を尋ねた。ちょうど髪を刈りに今しがた出かけたところだというので、自分は遠慮なく上り込んで彼を待つ事にした。
「この両三日りょうさんにちはめっきりお暖かになりました。もうそろそろ花も咲くでございましょう」
0288Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/15(土) 09:47:36.970
 主人の帰る間座敷へ出た彼の母は、いつもの通り丁寧ていねいな言葉で自分に話し掛けた。
 彼の室へやは例のごとく絵だのスケッチだので鼻を突きそうであった。中には額縁がくぶちも何なにもない裸のままを、ピンで壁の上へじかに貼はり付けたのもあった。
「何だか存じませんが、好すきだものでございますから、むやみと貼散らかしまして」と彼の母は弁解がましく云った。自分は横手の本棚ほんだなの上に、丸い壺つぼと並べて置いてあった一枚の油絵に眼を着けた。
0289Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/15(土) 09:47:45.070
 それには女の首が描かいてあった。その女は黒い大きな眼をもっていた。そうしてその黒い眼の柔やわらかに湿うるおったぼんやりしさ加減が、夢のような匂においを画幅全体に漂わしていた。自分はじっとそれを眺めていた。彼の母は苦笑して自分を顧みた。
「あれもこの間いたずらに描きましたので」
0290Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/15(土) 09:50:07.760
 三沢は画えの上手な男であった。職業柄自分も画の具を使う道ぐらいは心得ていたが、芸術的の素質を饒ゆたかにもっている点において、自分はとうてい彼の敵ではなかった。自分はこの画を見ると共に可憐なオフィリヤを連想した。
「面白いです」と云った。
0291Ms.名無しさん
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2022/01/15(土) 09:50:16.140
「写真を台にして描いたんだから気分がよく出ない、いっそ生きてるうちに描かして貰もらえば好かったなんて申しておりました。不幸な方で、二三年前に亡くなりました。せっかく御世話をして上げた御嫁入先も不縁でね、あなた」
 油絵のモデルは三沢のいわゆる出戻でもどりの御嬢さんであった。彼の母は自分の聞かない先きに、彼女についていろいろと語った。けれども女と三沢との関係は一言ひとことも口にしなかった。女の精神病に罹かかった事にもまるで触れなかった。自分もそれを聞く気は起らなかった。かえって話頭をこっちで切り上げるようにした。
0292Ms.名無しさん
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2022/01/15(土) 09:50:23.120
 問題は彼女を離れるとすぐ三沢の結婚談に移って行った。彼の母は嬉うれしそうであった。
「あれもいろいろ御心配をかけましたが、今度ようやくきまりまして……」
0293Ms.名無しさん
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2022/01/15(土) 09:50:30.560
 この間三沢から受取った手紙に、少し一身上いっしんじょうの事について、君に話があるからそのうち是非行くと書いてあったのが、この話でやっと悟れた。自分は彼の母に対して、ただ人並の祝意を表しておいたが、心のうちではその嫁になる人は、はたしてこの油絵に描いてある女のように、黒い大きな滴したたるほどに潤うるおった眼をもっているだろうか、それが何より先に確めて見たかった。
 三沢は思ったほど早く帰らなかった。彼の母はおおかた帰りがけに湯にでも行ったのだろうと云って、何なら見せにやろうかと聞いたが、自分はそれを断った。しかし彼女に対する自分の話は、気の毒なほど実みが入らなかった。
0294Ms.名無しさん
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2022/01/15(土) 09:50:37.980
 三沢にどうだろうと云った自分の妹いもとのお重は、まだどこへ行くともきまらずにぐずぐずしている。そういう自分もお重と同じ事である。せっかく身の堅まった兄と嫂あによめは折り合わずにいる。――こんな事を対照して考えると、自分はどうしても快活になれなかった。
0295Ms.名無しさん
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2022/01/15(土) 09:50:45.970
        十四

 そのうち三沢が帰って来た。近頃は身体からだの具合が好いと見えて、髪を刈って湯に入った後の彼の血色は、ことにつやつやしかった。健康と幸福、自分の前に胡坐あぐらをかいた彼の顔はたしかにこの二つのものを物語っていた。彼の言語態度もまたそれに匹敵ひってきして陽気であった。自分の持って来た不愉快な話を、突然と切り出すには余りに快活すぎた。
「君どうかしたか」
0296Ms.名無しさん
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2022/01/15(土) 09:50:53.540
 彼の母が席を立って二人差向いになった時、彼はこう問いかけた。自分は渋りながら、兄の近況を彼に訴えなければならなかった。その兄を勧めて旅行させるように、彼からHさんに頼んでくれと云わなければならなかった。
「父や母が心配するのをただ黙って見ているのも気の毒だから」
0297Ms.名無しさん
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2022/01/15(土) 09:51:01.620
 この最後の言葉を聞くまで、彼はもっともらしく腕組をして自分の膝頭ひざがしらを眺めていた。
「じゃ君といっしょに行こうじゃないか。いっしょの方が僕一人より好かろう、精くわしい話ができて」
0298Ms.名無しさん
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2022/01/15(土) 09:51:10.250
 三沢にそれだけの好意があれば、自分に取っても、それに越した都合はなかった。彼は着物を着換ると云ってすぐ座を起たったが、しばらくするとまた襖ふすまの陰かげから顔を出して、「君、母が久しぶりだから君に飯を食わせたいって今支度したくをしているところなんだがね」と云った。自分は落ちついて馳走ちそうを受ける気分をもっていなかった。しかしそれを断ったにしたところで、飯はどこかで食わなければならなかった。自分は瞹眛あいまいな返事をして、早く立ちたいような気のする尻を元の席に据すえていた。そうして本棚ほんだなの上に載せてある女の首をちょいちょい眺めた。
「どうも何にもございませんのに、御引留め申しましてさぞ御迷惑でございましたろう。ほんの有合せで」
0299Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/15(土) 09:51:19.210
 三沢の母は召使に膳ぜんを運ばせながらまた座敷へ顔を出した。膳の端はしには古そうに見える九谷焼の猪口ちょくが載せてあった。
 それでも三沢といっしょに出たのは思ったより早かった。電車を降りて五六丁歩あるいて、Hさんの応接間に通った時、時計を見たらまだ八時であった。
0300Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/15(土) 09:51:27.540
 Hさんは銘仙めいせんの着物に白い縮緬ちりめんの兵児帯へこおびをぐるぐる巻きつけたまま、椅子いすの上に胡坐をかいて、「珍らしいお客さんを連れて来たね」と三沢に云った。丸い顔と丸い五分刈ごぶがりの頭をもった彼は、支那人のようにでくでく肥ふとっていた。話しぶりも支那人が慣れない日本語を操あやつる時のように、鈍のろかった。そうして口を開くたびに、肉の多い頬が動くので、始終しじゅうにこにこしているように見えた。
 彼の性質は彼の態度の示す通り鷹揚おうようなものであった。彼は比較的堅固でない椅子の上に、わざわざ両足を載せて胡坐をかいたなり、傍はたから見るとさも窮屈そうな姿勢の下もとに、夷然いぜんとして落ちついていた。兄とはほとんど正反対なこの様子なり気風なりが、かえって兄と彼とを結びつける一種の力になっていた。何にも逆さからわない彼の前には、兄も逆らう気が出なかったのだろう。自分はHさんの悪口を云う兄の言葉を、今までついぞ一度も聞いた事がなかった。
0301Ms.名無しさん
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2022/01/15(土) 09:51:37.670
「兄さんは相変らず勉強ですか。ああ勉強してはいけないね」
 悠長ゆうちょうな彼はこう云って自分の吐いた煙草たばこの煙を眺めていた。
0302Ms.名無しさん
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2022/01/15(土) 17:04:41.530
【超速報】東京4561人感染確認
新型コロナ(先週1224人272.6%増加 65歳以上229人 ブレークスルー感染48.7%) 死亡1人
都基準の重症者4人(+1)
国基準の重症者226人
実効再生産数3.081
0303Ms.名無しさん
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2022/01/16(日) 13:51:37.520
        十五

 やがて用事が三沢の口から切り出された。自分はすぐその後あとに随ついて主要な点を説明した。Hさんは首を捻ひねった。
「そりゃ少し妙ですね、そんなはずはなさそうだがね」
0304Ms.名無しさん
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2022/01/16(日) 13:51:50.790
 彼の不審はけっして偽いつわりとは見えなかった。彼は昨日きのうKの結婚披露に兄と精養軒で会った。そこを出る時にもいっしょに出た。話が途切とぎれないので、浮か浮かと二人連立って歩いた。しまいに兄が疲れたといった。Hさんは自分の家に兄を引張って行った。
「兄さんはここで晩飯を食ったくらいなんだからね。どうも少しも不断と違ったところはないようでしたよ」
0305Ms.名無しさん
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2022/01/16(日) 13:51:59.390
 わがままに育った兄は、平生から家うちで気むずかしい癖に、外では至極しごく穏かであった。しかしそれは昔の兄であった。今の彼を、ただ我儘わがままの二字で説明するのは余りに単純過ぎた。自分はやむをえずその時兄がHさんに向って重おもにどんな話をしたか、差支さしつかえない限りそれを聞こうと試みた。
「なに別に家庭の事なんか一口も云やしませんよ」
0306Ms.名無しさん
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2022/01/16(日) 13:52:09.710
 これも嘘うそではなかった。記憶の好いHさんは、その時の話題を明瞭めいりょうに覚えていて、それを最も淡泊たんぱくな態度で話してくれた。
 兄はその時しきりに死というものについて云々したそうである。彼は英吉利イギリスや亜米利加アメリカで流行はやる死後の研究という題目に興味をもって、だいぶその方面を調べたそうである。けれども、どれもこれも彼には不満足だと云ったそうである。彼はメーテルリンクの論文も読んで見たが、やはり普通のスピリチュアリズムと同じようにつまらんものだと嘆息したそうである。
 兄に関するHさんの話は、すべて学問とか研究とかいう側がわばかりに限られていた。Hさんは兄の本領としてそれを当然のごとくに思っているらしかった。けれども聞いている自分は、どうしてもこの兄と家庭の兄とを二つに切り離して考える訳には行かなかった。むしろ家庭の兄がこういう研究的な兄を生み出したのだとしか理解できなかった。
0307Ms.名無しさん
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2022/01/16(日) 13:52:18.980
「そりゃ動揺はしていますね。御宅の方の関係があるかないか、そこは僕にも解らないが、何しろ思想の上で動揺して落ちつかないで弱っている事はたしかなようです」
 Hさんはしまいにこう云った。彼はその上に兄の神経衰弱も肯うけがった。しかしそれは兄の隠している事でも何でもなかった。兄はHさんに会うたんびに、ほとんどきまり文句のように、それを訴えてやまなかったそうである。
0308Ms.名無しさん
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2022/01/16(日) 13:52:27.690
「だからこの際旅行は至極しごく好いでしょうよ。そう云う訳なら一つ勧めて見ましょう。しかしうんと云ってすぐ承知するかね。なかなか動かない人だから、ことによるとむずかしいね」
 Hさんの言葉には自信がなかった。
0309Ms.名無しさん
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2022/01/16(日) 13:52:37.290
「あなたのおっしゃる事なら素直すなおに聞くだろうと思うんですが」
「そうも行かんさ」
0310Ms.名無しさん
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2022/01/16(日) 13:52:46.060
 Hさんは苦笑していた。
 表へ出た時はかれこれ十時に近かった。それでも閑静な屋敷町にちらほら人の影が見えた。それが皆みんなそぞろ歩きでもするように、長閑のどかに履物はきものの音を響かして行った。空には星の光が鈍にぶかった。あたかも眠たい眼をしばたたいているような鈍さであった。自分は不透明な何物かに包まれた気分を抱いた。そうして薄明るい往来を三沢と二人肩を並べて帰った。
0311Ms.名無しさん
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2022/01/16(日) 13:52:55.640
        十六

 自分は首を長くしてHさんの消息を待った。花のたよりが都下の新聞を賑にぎわし始めた一週間の後のちになっても、Hさんからは何の通知もなかった。自分は失望した。電話を番町へかけて聞き合せるのも厭いやになった。どうでもするが好いという気分でじっとしていた。そこへ三沢が来た。
「どうも旨うまく行かないそうだ」
0312Ms.名無しさん
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2022/01/16(日) 13:53:05.090
 事実ははたして自分の想像した通りであった。兄はHさんの勧誘を断然断ってしまった。Hさんはやむをえず三沢を呼んで、その結果を自分に伝えるように頼んだ。
「それでわざわざ来てくれたのかい」
0313Ms.名無しさん
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2022/01/16(日) 13:53:17.200
「まあそうだ」
「どうも御苦労さま、すまない」
 自分はこれ以上何を云う気も起らなかった。
0314Ms.名無しさん
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2022/01/16(日) 13:53:25.550
「Hさんはああ云う人だから、自分の責任のように気の毒がっている。今度は事があまり突然なので旨く行かなかったが、この次の夏休みには是非どこかへ連れ出すつもりだと云っていた」
 自分はこういう慰藉いしゃをもたらしてくれた三沢の顔を見て苦笑した。Hさんのような大悠たいゆうな人から見たら、春休みも夏休みも同じ事なんだろうけれども、内側で働いている自分達の眼には、夏休みといえば遠い未来であった。その遠い未来と現在の間には大きな不安が潜ひそんでいた。
0315Ms.名無しさん
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2022/01/16(日) 13:53:34.640
「しかしまあ仕方がない。元々こっちで勝手なプログラムを拵こしらえておいて、それに当てはまるように兄を自由に動かそうというんだから」
 自分はとうとう諦あきらめた。三沢は何にも批評せずに、机の角に肱ひじを突き立てて、その上に顋あごを載せたなり自分の顔を眺めていた。彼はしばらくしてから、「だから僕のいう通りにすれば好いんだ」と云った。
0316Ms.名無しさん
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2022/01/16(日) 13:53:44.920
 この間Hさんに兄の事を依頼しに行った帰かえり途みちに、無言な彼は突然往来の真中で自分を驚かしたのである。今まで兄の事について一言いちごんも発しなかった彼は、その時不意に自分の肩を突いて、「君兄さんを旅行させるの、快活にするのって心配するより、自分で早く結婚した方が好かないか。その方がつまり君の得だぜ」と云った。
 彼が自分に結婚を勧めたのは、その晩が始めてではなかった。自分はいつも相手がないとばかり彼に答えていた。彼はしまいに相手を拵えてやると云い出した。そうして一時はそれがほとんど事実になりかけた事もあった。
0317Ms.名無しさん
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2022/01/16(日) 13:53:54.610
 自分はその晩の彼に向ってもやはり同じような挨拶あいさつをした。彼はそれをいつもより冷淡なものとして記憶していたのである。
「じゃ君のいう通りにするから、本当に相手を出してくれるかい」
0318Ms.名無しさん
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2022/01/16(日) 13:54:04.350
「本当に僕のいう通りにすれば、本当に好いのを出す」
 彼は実際心当りがあるような口を利きいた。近いうち彼の娶めとるべき女からでも聞いたのだろう。
0320Ms.名無しさん
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2022/01/17(月) 14:36:52.550
 彼はもう大きな黒い眼をもった精神病の御嬢さんについては多くを語らなかった。
「君の未来の細君はやっぱりああいう顔立なんだろう」
0321Ms.名無しさん
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2022/01/17(月) 14:37:02.980
「さあどうかな。いずれそのうち引き合わせるから見てくれたまえ」
「結婚式はいつだい」
0322Ms.名無しさん
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2022/01/17(月) 14:37:11.710
「ことによると向うの都合で秋まで延ばすかも知れない」
 彼は愉快らしかった。彼は来るべき彼の生活に、彼のもっている過去の詩を投げかけていた。
0323Ms.名無しさん
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2022/01/17(月) 14:37:21.620
       十七

 四月はいつの間にか過ぎた。花は上野から向島、それから荒川という順序で、だんだん咲いていってだんだん散ってしまった。自分は一年のうちで人の最も嬉うれしがるこの花の時節を無為むいに送った。しかし月が替かわって世の中が青葉で包まれ出してから、ふり返ってやり過ごした春を眺めるとはなはだ物足りなかった。それでも無為に送れただけがありがたかった。
 家うちへはその後のち一回も足を向けなかった。家からも誰一人尋ねて来なかった。電話は母とお重から一二度かかったが、それは自分の着る着物についての用事に過ぎなかった。三沢には全く会わなかった。大阪の岡田からは花の盛りに絵端書えはがきがまた一枚来た。前と同じようにお貞さんやお兼かねさんの署名があった。
0324Ms.名無しさん
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2022/01/17(月) 14:37:30.580
 自分は事務所へ通う動物のごとく暮していた。すると五月の末になって突然三沢から大きな招待状を送って来た。自分は結婚の通知と早合点して封を裂いた。ところが案外にもそれは富士見町の雅楽稽古所からの案内状であった。「六月二日音楽演習相催し候間そろあいだ同日午後一時より御来聴被下度候くだされたくそろ此段御案内申進候也そろなり」と書いてあった。今までこういう方面に関係があるとは思わなかった三沢が、どうしてこんな案内状を自分に送ったのか、まるで解らなかった。半日の後自分はまた彼の手紙を受け取った。その手紙には、六月二日には、是非来いという文句が添えてあった。是非来いというくらいだから彼自身は無論行くにきまっている。自分はせっかくだからまず行って見ようと思い定めた。けれども、雅楽そのものについては大した期待も何もなかった。それよりも自分の気分に転化の刺戟しげきを与えたのは、三沢が余事のごとく名宛なあてのあとへ付け足した、短い報知であった。
「Hさんは嘘うそを吐つかない人だ。Hさんはとうとう君の兄さんを説き伏せた。この六月学校の講義を切り上げ次第、二人はどこかへ旅をする事に約束ができたそうだ」
0325Ms.名無しさん
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2022/01/17(月) 14:37:40.260
 自分は父のため母のためかつ兄自身のため喜んだ。あの兄がHさんに対して旅行しようと約束する気分になったとすれば、単にそれだけでも彼には大きい変化であった。偽りの嫌きらいな彼は必ずそれを実行するつもりでいるに違いなかった。
 自分は父にも母にも実否を問い合わせなかった。Hさんに向ってもその消息を確める手段を取らなかった。ただ三沢の口からもう少し精くわしいところを聞かせて貰いたかった。それも今度会った時で構わないという気があるので、彼の是非来いという六月二日が暗あんに待ち受けられた。
0326Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/17(月) 14:37:49.650
 六月二日はあいにく雨であった。十一時頃には少し歇やんだが、季節が季節なのでからりとは晴れなかった。往来を行く人は傘をさしたり畳んだりした。見附外みつけそとの柳は煙のように長い枝を垂れていた。その下を通ると、青白い粉こか黴かびが着物にくっついていつまでも落ちないように感ぜられた。
 雅楽所の門内には俥くるまがたくさん並んでいた。馬車も一二台いた。しかし自動車は一つも見えなかった。自分は玄関先で帽子を人に渡した。その人は金の釦鈕ボタンのついた制服のようなものを着ていた。もう一人の人が自分を観覧席へ連れて行ってくれた。
0327Ms.名無しさん
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2022/01/17(月) 14:37:59.620
「そこいらへおかけなすって」
 彼はそう云ってまた玄関の方へ帰って行った。椅子はまだ疎まばらに占領されているだけであった。自分はなるべく人の眼に着かないように後列の一脚に腰を下おろした。
0328Ms.名無しさん
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2022/01/17(月) 14:38:09.230
        十八

 自分は心のうちで三沢を予期しながら四方を見渡したが彼の姿はどこにも見えなかった。もっとも見所けんじょは正面のほか左右両側面りょうそくめんにもあった。自分は玄関から左へ突き当って右へ折れて金屏風きんびょうぶの立ててある前を通って正面席に案内されたのである。自分の前には紋付もんつきの女が二三人いた。後うしろにはカーキー色の軍服を着けた士官が二人いた。そのほか六七人そこここに散点していた。
 自分から一席置いて隣の二人連ふたりづれは、舞台の正面にかかっている幕の話をしていた。それには雅楽に何の縁故ゆかりもなさそうに見える変な紋もんが、竪たてに何行も染め出されていた。
0329Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/17(月) 14:38:18.650
「あれが織田信長おだのぶながの紋ですよ。信長が王室の式微しきびを慨なげいて、あの幕を献上したというのが始まりで、それから以後は必ずあの木瓜もっこうの紋の付いた幕を張る事になってるんだそうです」
 幕の上下は紫地むらさきじに金きんの唐草からくさの模様を置いた縁ふちで包んであった。
0330Ms.名無しさん
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2022/01/17(月) 14:38:27.950
 幕の前を見ると、真中に太鼓たいこが据すえてあった。その太鼓には緑や金や赤の美しい彩色いろどりが施ほどこされてあった。そうして薄くて丸い枠わくの中に入れてあった。左の端には火熨斗ひのしぐらいの大きさの鐘がやはり枠の中に釣るしてあった。そのほかには琴ことが二面あった。琵琶びわも二面あった。
 楽器の前は青い毛氈もうせんで敷きつめられた舞をまう所になっていた。構造は能のそれのように、三方の見所からは全く切り離されていた。そうしてその途切とぎれた四五尺の空間からは日も射し風も通うようにできていた。
0331Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/17(月) 14:38:37.320
 自分が物珍らしそうにこの様子を見ているうちに、観客けんぶつは一人二人と絶えず集まって来た。その中には自分がある音楽会で顔だけ覚えたNという侯爵もいた。「今日は教育会があるので来られない」と細君の事か何かを、傍そばにいた坊主頭の丸々と肥えた小さい人に話していた。この丸い小さな人がKという公爵である事を、自分は後あとで三沢から教おすわった。
 その三沢は舞楽の始まるやっと五六分前にフロックコートでやって来て、入口の金屏風の所でしばらく観覧席を見渡しながら躊躇ちゅうちょしていたが、自分の顔を見つけるや否や、すぐ傍へ来て腰をかけた。
0332Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/17(月) 14:38:48.010
 彼と前後して一人の背の高い若い男が、年頃の女を二人連れて、やはり正面席へ這入はいって来た。男はフロックコートを着ていた。女は無論紋付であった。その男と伴つれの女の一人が顔立から云ってよく似ているので、自分はすぐ彼らの兄妹である事を覚さとった。彼らは人の頭を五六列越して、三沢と挨拶あいさつを交換した。男の顔にはできるだけの愛嬌あいきょうが湛たたえられた。女は心持顔を赤くした。三沢はわざわざ腰を浮かして起立した。婦人はたいてい前の方に席を占めるので、彼らはついに自分達の傍そばへは来なかった。
「あれが僕の妻さいになるべき人だ」と三沢は小声で自分に告げた。自分は腹の中で、あの夢のような大きな黒い眼の所有者であった精神病のお嬢さんと、自分の二三間前に今席を取った色沢いろつやの好いお嬢さんとを比較した。彼女は自分にただ黒い髪と白い襟足えりあしとを見せて坐っていた。それも人の影に遮さえぎられて自由には見られなかった。
0333Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/17(月) 14:38:56.570
「もう一人の女ね」と三沢がまた小声で云いかけた。それから彼は突然ポッケットへ手を入れて、白い紙片かみきれと万年筆を取り出した。彼はすぐそれへ何か書き始めた。正面の舞台にはもう楽人がくじんが現われた。
0334Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/17(月) 14:39:07.010
        十九

 彼らは帽子とも頭巾ずきんとも名の付けようのない奇抜なものを被かぶっていた。謡曲の富士太鼓を知っていた自分は、おおかたこれが鳥兜とりかぶとというものだろうと推察した。首から下も被りものと同じく現代を超越していた。彼らは錦で作った※(「ころもへん+上」、第4水準2-88-9)※(「ころもへん+下」、第4水準2-88-10)かみしものようなものを着ていた。その※(「ころもへん+上」、第4水準2-88-9)※(「ころもへん+下」、第4水準2-88-10)には骨がないので肩のあたりは柔やわらかな線でぴたりと身体からだに付いていた。袖そでには白の先へ幅三寸ぐらいの赤い絹が縫足ぬいたしてあった。彼らはみな白の括くくり袴ばかまを穿はいていた。そうして一様いちように胡坐あぐらをかいた。
 三沢は膝ひざの上で何か書きかけた白い紙をくちゃくちゃにした。自分はそのくちゃくちゃになった紙の塊かたまりを横から眺めた。彼は一言いちごんの説明も与えずに正面を見た。青い毛氈もうせんの上に左の帳とばりの影から現われたものは鉾ほこをもっていた。これも管絃かんげんを奏する人と同じく錦の袖無そでなしを着ていた。
0335Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/17(月) 16:18:18.380
岸田

「現行の企業業績の四半期開示義務について、企業は損失計上を気にして長期的な視野での経営や大規模な投資がしにくくなるため、義務化を外すための何らかの法改正が必要」
0336Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/17(月) 16:58:38.060
塩野義製薬のコロナワクチン、国内で最終治験開始
新型コロナ
2022年1月17日 16:45
0337Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/18(火) 13:10:03.760
 三沢はいつまで経たっても「もう一人の女はね」の続きを云わなかった。観覧席にいるものはことごとく静粛であった。隣同志で話をするのさえ憚はばかられた。自分は仕方なしに催促を我慢した。三沢も空とぼけて澄ましていた。彼は自分と同じようにここへは始めて顔を出したので、少し硬くなっているらしかった。
 舞は謹慎な見物の前に、既定のプログラム通り、単調で上品な手足の運動を飽あきもせずに進行させて行った。けれども彼らの服装は、題の改あらたまるごとに、閑雅な上代の色彩を、代る代る自分達の眼に映しつつ過ぎた。あるものは冠に桜の花を挿さしていた。紗しゃの大きな袖そでの下から燃えるような五色の紋を透すかせていた。黄金作こがねづくりの太刀たちも佩はいていた。あるものは袖口そでぐちを括くくった朱色の着物の上に、唐錦からにしきのちゃんちゃんを膝ひざのあたりまで垂らして、まるで錦に包まれた猟人かりゅうどのように見えた。あるものは簑みのに似た青い衣きぬをばらばらに着て、同じ青い色の笠かさを腰に下げていた。――すべてが夢のようであった。われわれの祖先が残して行った遠い記念かたみの匂においがした。みんなありがたそうな顔をしてそれを観みていた。三沢も自分も狐に撮つままれた気味で坐っていた。
0338Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/18(火) 13:10:14.450
舞楽が一段落ついた時に、御茶を上げますと誰かが云ったので周囲の人は席を立って別室に動き始めた。そこへ先刻さっき三沢と約束の整ったという女の兄あにさんが来て、物馴ものなれた口調で彼と話した。彼はこういう方面に関係のある男と見えて、当日案内を受けた誰彼をよく知っていた。三沢と自分はこの人から今までそこいらにいた華族や高官や名士の名を教えて貰った。
 別室には珈琲コーヒーとカステラとチョコレートとサンドイッチがあった。普通の会の時のように、無作法ぶさほうなふるまいは見受けられなかったけれども、それでも多少込み合うので、女は坐すわったなり席を立たないのがあった。三沢と彼の知人は、菓子と珈琲を盆の上に載せて、わざわざ二人の御嬢さんの所へ持って行った。自分はチョコレートの銀紙を剥はがしながら、敷居の上に立って、遠くからその様子を偸ぬすむように眺めていた。
0339Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/18(火) 13:10:22.490
 三沢の細君になるべき人は御辞義おじぎをして、珈琲茶碗ぢゃわんだけを取ったが、菓子には手を触れなかった。いわゆる「もう一人の女」はその珈琲茶碗にさえ容易たやすく手を出さなかった。三沢は盆を持ったまま、引く事もできず進む事もできない態度で立っていた。女の顔が先刻さっき見た時よりも子供子供した苦痛の表情に充みちていた。
0340Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/18(火) 13:10:31.170
        二十

 自分は先刻から「もう一人の女」に特別の注意を払っていた。それには三沢の様子や態度が有力な原因となって働いていたに違ないが、単独に云っても、彼女は自分の視線を引着けるに足るほどな好い器量きりょうをもっていたのである。自分は彼女と三沢の細君になるべき人との後姿うしろすがたを、舞楽ぶがくの相間相間に絶えず眺めた。彼らは自分の坐っている所から、ことさらな方向に眸子ひとみを転ずる事なしに、自然と見られるように都合の好い地位に坐っていた。
 こうして首筋ばかり眺めていた自分は今比較的自由な場所に立って、彼らの顔立を筋違すじかいに見始めた。あるいは正面に動く機会が来るかも知れないと思った時、自分はチョコレートを頬張ほおばりながら、暗あんにその瞬間を捉とらえる注意を怠おこたらなかった。けれどもその女も三沢の意中の人も、ついにこっちを向かなかった。自分はただ彼らの容貌ようぼうを三分の二だけ側面から遠くに望んだ。
0341Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/18(火) 13:10:38.870
 そのうち三沢はまた盆を持ってこっちへ帰って来た。自分の傍そばを通る時、彼は微笑しながら、「どうだい」と云った。自分はただ「御苦労さま」と挨拶あいさつした。後あとから例の背の高い兄さんがやって来た。
「どうです、あちらへいらしって煙草でも御呑おのみになっちゃ。喫煙室はあすこの突き当りです」
0342Ms.名無しさん
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2022/01/18(火) 13:10:46.990
 自分は三沢との間に緒口いとぐちのつきかけた談話はこれでまた流れてしまった。二人は彼に導かれて喫煙室に這入はいった。煙と男子に占領された比較的狭いその室へやは思ったより賑にぎやかであった。
 自分はその一隅ひとすみにただ一人の知った顔を見出した。それは伶人れいじんの姓をもった眼の大きい男であった。ある協会の主要な一員として、舞台の上で巧たくみにその大きな眼を利用する男であった。彼は台詞せりふを使う時のような深い声で、誰かと話していたが、ほとんど自分達と入れ代りぐらいに、喫煙室を出て行った。
0343Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/18(火) 13:10:54.260
「とうとう役者になったんだそうだ」
「儲もうかるのかね」
0344Ms.名無しさん
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2022/01/18(火) 13:11:02.420
「ええ儲かるんだろう」
「この間何とかをやるという事が新聞に出ていたが、あの人なんですか」
0345Ms.名無しさん
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2022/01/18(火) 13:11:11.360
「ええそうだそうです」
 彼の去った後あとで、室の中央にいた三人の男はこんな話をしていた。三沢の知人は自分達にその三人の名を教えてくれた。そのうちの二人は公爵で、一人は伯爵であった。そうして三人が三人とも公卿出くげでの華族であった。彼らの会話から察すると、三人ながらほとんど劇という芸術に対して何の知識も興味ももっていないようであった。
0346Ms.名無しさん
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2022/01/18(火) 13:11:19.550
 我々はまた元の席に帰って二三番の欧洲楽おうしゅうがくを聞いた後、ようやく五時頃になって雅楽所を出た。周囲に人がいなくなった時、三沢はようやく「もう一人の女」の事について語り始めた。彼の考えは自分が最初から推察した通りであった。
「どうだい、気に入らないかね」
0347Ms.名無しさん
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2022/01/18(火) 13:11:29.740
「顔は好いね」
「顔だけかい」
0348Ms.名無しさん
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2022/01/18(火) 13:11:38.130
「あとは分らないが、しかし少し旧式じゃないか。何でも遠慮さえすればそれが礼儀だと思ってるようだね」
「家庭が家庭だからな。しかしああいうのが間違がないんだよ」
 二人は土手に沿うて歩いた。土手の上の松が雨を含んで蒼黒あおぐろく空に映った。
0349Ms.名無しさん
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2022/01/18(火) 13:11:47.240
        二十一

 自分は三沢と飽あかず女の話をした。彼の娶めとるべき人は宮内省に関係のある役人の娘であった。その伴侶つれは彼女と仲の好い友達であった。三沢は彼女と打ち合せをして、とくに自分のためにその人を誘い出したのであった。自分はその人の家族やら地位やら教育やらについて得らるる限りの知識を彼から供給して貰った。
 自分は本末ほんまつを顛倒てんどうした。雅楽所で三沢に会うまでは、Hさんと兄とがこの夏いっしょにするという旅行の件を、その日の問題として暗あんに胸の中うちに畳み込んでいた。雅楽所を出る時は、それがほんのつけたりになってしまった。自分はいよいよ彼に別れる間際まぎわになって、始めて四よつ角かどの隅すみに立った。
0350Ms.名無しさん
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2022/01/18(火) 13:11:57.360
「兄の事も今日君に会ったらよく聞こうと思っていたんだが、いよいよHさんの云う通りになったんだね」
「Hさんはわざわざ僕を呼び寄せてそう云ったくらいなんだから間違はないさ。大丈夫だよ」
0351Ms.名無しさん
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2022/01/18(火) 13:12:06.370
「どこへ行くんだろう」
「そりゃ知らない。――どこだって好いじゃないか、行きさいすりゃあ」
0352Ms.名無しさん
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2022/01/18(火) 17:28:06.410
共通テスト平均点(カッコ内昨年平均点との差分)
46.78 (-23.55) 生物
35.94 (-19.24) 数学1A
40.10 (-14.78) 数学2B
51.17 (-11.42) 日本史B
63.86 (-7.50) 倫理
113.83(-7.45) 国語
60.57 (+3.55) 英語RD
0356Ms.名無しさん
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2022/01/19(水) 09:00:42.700
NHKおはよう日本で、
森永卓郎さんが、「バブル崩壊後賃金が上がらないのはなぜ?」という問いに
「それは消費税の引き上げのせい」とズバリ指摘
0357Ms.名無しさん
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2022/01/19(水) 09:31:38.720
【安倍大ピンチ!】「森友学園問題」「公文書偽造」…Netflixの「新聞記者」がランキング1位に。海外でも高評価 現実と同じ不祥事描写★6 [スペル魔★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1642514123/
0358Ms.名無しさん
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2022/01/19(水) 09:37:43.400
アベ政権、スガ政権の不祥事

公的文書改ざん(財務省)
勤労統計改ざん
賃金統計改ざん
小売物価統計捏造
議事録改ざん、破棄
公的行事名簿破棄
公的文書改ざん(外務省)
公的文書改ざん(経産省)
公的文書改ざん(法務省)
環境保全意見書改ざん(経産省)
学術会議推薦名簿改ざん
公的文書改ざん(海上自衛隊)
国会での虚偽答弁139回(安倍晋三)
自衛隊日報破棄
賃金統計不正(厚労省)
リニア問題議事録捏造改ざん(国土交通省)
ジャパンライフパブコメ廃棄(消費庁)
建設工事受注動態統計改ざん(国土交通省)
0360Ms.名無しさん
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2022/01/19(水) 10:29:53.750
〔需給情報〕2市場信用取引現在高、買い残が2週連続で増加=東証
2022/01/18 16:21
買い 3兆4398億5400万円(前週比751億2100万円)
◎信用倍率:5.01倍
0361Ms.名無しさん
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2022/01/19(水) 10:57:12.500
新しい資本主義 岸田ループ

1.税収の再配分
   ↓
2.増税(低所得者ほど厳しい)
   ↓
3.1へ戻る
0363Ms.名無しさん
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2022/01/19(水) 13:15:45.140
「もう時間ですから」 質問を打ち切った黒田総裁会見に見る末期症状

https://www.asahi.com/sp/articles/ASQ1L7FB5Q1LULZU00T.html
「敗軍の将は兵を語らず」というのが古書の教えだ。もし語ったらどうなるか。
言い訳、開き直り、無視――。そんな言葉が頭をよぎった。
0364Ms.名無しさん
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2022/01/19(水) 13:27:32.490
 遠くから見ている三沢の眼には、兄の運命が最初からそれほどの問題になっていなかった。
「それより片っ方のほうを積極的にどしどし進行させようじゃないか」
0365Ms.名無しさん
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2022/01/19(水) 13:27:41.110
 自分は一人下宿へ帰る途々みちみち、やはり兄と嫂あによめの事を考えない訳に行かなかった。しかしその日会った女の事もあるいは彼ら以上に考えたかも知れない。自分は彼女と一言ひとことも口を交えなかった。自分はついに彼女の声を聞き得なかった。三沢は自然が二人を視線の通う一室に会合させたという事実以外に、わざとらしい痕迹こんせきを見せるのは厭いやだと云って、紹介も何もしなかった。彼はそう云って後あとから自分に断った。彼の遣口やりくちは、彼女に取っても自分に取っても、面倒や迷惑の起り得ないほど単簡たんかんで淡泊たんぱくなものであった。しかしそれだから物足りなかった。自分はもう少し何とかして貰いたかった。「しかし君の意志が解らなかったから」と三沢は弁解した。そう云われて見ると、そうでもあった。自分はあれ以上、女をめがけて進んで行く考えはなかったのだから。
 それから二三日は女の顔を時々頭の中で見た。しかしそれがために、また会いたいの焦慮あせるのという熱は起らなかった。その当日のぱっとした色彩が剥はげて行くに連れて、番町の方が依然として重要な問題になって来た。自分はなまじい遠くから女の匂においを嗅かいだ反動として、かえってじじむさくなった。事務所の往復に、ざらざらした頬を撫なでて見て、手もなく電車に乗った貉むじなのようなものだと悲観したりした。
0366Ms.名無しさん
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2022/01/19(水) 13:27:51.270
 一週間ほど経たって母から電話がかかった。彼女は電話口へ出て、昨日きのうHさんが遊びに来た事を告げた。嫂あによめが風邪気かぜけなので、彼女が代理として饗応もてなしの席に出たら、Hさんが兄といっしょに旅行する話を始めたと告げた。彼女は喜ばしそうな調子で、自分に礼を述べた。父からも宜よろしくとの事であった。自分は「いい案排あんばいでした」と答えた。
 自分はその晩いろいろ考えた。自分は旅行が兄のために有利であると認めたから、Hさんを煩わずらわして、これだけの手続を運んだのであるが、真底しんていを自白すると、自分の最も苦くに病やんでいるのは、兄の自分に対する思わくであった。彼は自分をどう見ているだろうか。どのくらいの程度に自分を憎んでいるだろう、また疑うたぐっているだろう。そこが一番知りたかった。したがって自分の気になるのは未来の兄であると同時に現在の兄であった。久しく彼と会見の路みちを絶たれた自分は、その現在の兄に関する直接の知識をほとんどもたなかった。
0367Ms.名無しさん
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2022/01/19(水) 13:27:59.940
        二十二

 自分は旅行に出る前のHさんに一応会っておく必要を感じた。こっちで頼んだ事を順に運んでくれた好意に対して、礼を云わなければすまない義理も控えていた。
 自分は事務所の帰りがけにまた彼の玄関に立って名刺を出した。取次が奥へ這入はいったかと思うと、彼は例のむくむくした丸い体躯からだを、自分の前に運んで来た。
0368Ms.名無しさん
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2022/01/19(水) 13:28:09.540
「実は今あしたの講義で苦しんでいるところなんですがね。もし急用でなければ、今日は御免ごめんを蒙こうむりたい」
 学者の生活に気のつかなかった自分は、Hさんのこの言葉で、急に兄の日常を想おもい起した。彼らの書斎に立籠たてこもるのは、必ずしも家庭や社会に対する謀反むほんとも限らなかった。自分はHさんに都合の好い日を聞いて、また出直す事にした。
0369Ms.名無しさん
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2022/01/19(水) 13:28:17.430
「じゃ御気の毒だが、そうして下さい。なるべく早く講義を切り上げて、兄さんといっしょに旅行しようと云う訳なんだからね」
 自分はHさんの前に丁寧ていねいな頭を下げなければならなかった。
0370Ms.名無しさん
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2022/01/19(水) 13:28:25.420
 彼の家を再度訪問おとずれたのは、それからまた二三日経った梅雨晴つゆばれの夕方であった。肥ふとった彼は暑いと云って浴衣ゆかたの胸を胃の上部まで開け放って坐すわっていた。
「さあどこへ行くかね。まだ海とも山ともきめていないんだが」
0371Ms.名無しさん
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2022/01/19(水) 13:28:33.810
 Hさんだけあって行く先などはとんと苦くにしていないらしかった。自分もそれには無頓着むとんじゃくであった。けれども……。
「少しそれについて御願があるんですが」
0372Ms.名無しさん
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2022/01/19(水) 13:28:45.340
 家庭の事情の一般は、この間三沢と来た時、すでにHさんの耳に入れてしまった。しかし兄と自分との間に横たわる一種特別な関係については、まだ一言ひとことも彼に告げていなかった。しかしそれはいつまで経ってもHさんの前で自分から打ち明あけるべき性質のものでないと自分は考えていた。親しい三沢の知識ですら、そこになるとほとんど臆測おくそくに過ぎなかった。Hさんは三沢からその臆測の知識を間接に受けているかも知れなかったけれども、こっちから露骨に切り出さない以上、その信偽しんぎも程度も、まるで確める訳に行かなかった。
 自分は兄から今どう見られているか、どう思われているか、それが知りたくって仕方がなかった。それを知るために、この際Hさんの助たすけを借りようとすれば、勢い万事を彼の前に投げ出して見せなければならなかった。自分が三沢に何事も云わずに、あたかも彼を出し抜いたような態度で、たった一人こうしてHさんを訪問するのも、実はその用事の真相をなるべく他ひとに知らせたくないからであった。しかし三沢に対してさえ、良心に気兼きがねをするような用事の真相なら、それをHさんの前で云われるはずがなかった。
0373Ms.名無しさん
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2022/01/19(水) 13:28:53.800
 自分はやむをえず特殊スペシャルな問題を一般的ジェネラルに崩くずしてしまった。
「はなはだ御迷惑かも知れませんが、兄といっしょに旅行される間、兄の挙動なり言語なり、思想なり感情なりについて、あなたの御観察になったところを、できるだけ詳くわしく書いて報知していただく訳には行きますまいか。その辺が明瞭めいりょうになると、宅たくでも兄の取扱上大変便宜べんぎを得るだろうと思うんですが」
0374Ms.名無しさん
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2022/01/19(水) 13:29:01.670
「そうさね。絶対にできない事もないが、ちっとむずかしそうですね。だいち時間がないじゃないか、君、そんな事をする。よし時間があっても、必要がないだろう。それより僕らが旅行から帰ったらゆっくり聞きに来たら好いじゃありませんか」
0375Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/19(水) 13:29:11.700
        二十三

 Hさんの云うところはもっともであった。自分は下を向いてしばらく黙っていたが、とうとう嘘うそを吐ついた。
「実は父や母が心配して、できるなら旅行中の模様を、経過の一段落ごとに承知したいと云うんですが……」
0376Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/19(水) 13:29:19.790
 自分は困った顔をした。Hさんは笑い出した。
「君そんなに心配する事はありませんよ。大丈夫だよ、僕が受け合うよ」
0377Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/19(水) 13:29:29.560
「しかし年寄ですから……」
「困るね、それじゃ。だから年寄は嫌きらいなんだ。宅うちへ行ってそう云いたまえな、大丈夫だって」
0378Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/19(水) 13:29:37.730
「何とか好い工夫はないもんでしょうか。あなたの御迷惑にならないで、そうして、父や母を満足させるような」
 Hさんはまたにやにや笑っていた。
0379Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/19(水) 13:29:47.560
「そんな重宝な工夫があるものかね、君。――しかしせっかくの御依頼だからこうしよう。もし旅先で報道するに足るような事が起ったら、君の所へ手紙を上げると。もし手紙が行かなかったら、平生の通りだと思って安心していると。それでよかろう」
 自分はこれより以上Hさんに望む事はできなかった。
0384Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/20(木) 14:18:40.210
「それで結構です。しかし出来事という意味を俗にいう不慮の出来事と取らずに、あなたが御観察になる兄の感情なり思想のうちで、これは尋常でないと御気づきになったものに応用していただけましょうか」
「なかなか面倒だね、事が。しかしまあいいや、そうしてもいい」
0385Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/20(木) 14:18:50.630
「それからことによると、僕の事だの母の事だの、家庭の事などが兄の口に上のぼるかも知れませんが、それを御遠慮なく一々聞かしていただきたいと思いますが」
「うん、そりゃ差支さしつかえない限り知らせて上げましょう」
0386Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/20(木) 14:19:03.040
「差支えがあっても構わないから聞かしていただきたい。それでないと宅うちのものが困りますから」
 Hさんは黙って煙草たばこを吹かし出した。自分は弱輩じゃくはいの癖に多少云い過ぎた事に気がついた
0387Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/20(木) 14:19:13.570
手持無沙汰てもちぶさたの感じが強く頭に上った。Hさんは庭の方を見ていた。その隅すみに秋田から家主が持って来て植えたという大きな蕗ふきが五六本あった。雨上りの初夏の空がいつまでも明るい光を地の上に投げているので、その太い蕗の茎くきがすいすいと薄暗い中に青く描かれていた。
「あすこへ大きな蟇がまが出るんですよ」とHさんが云った。
0388Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/20(木) 14:19:21.960
 しばらく世間話をした後で、自分は暗くならないうちに席を立とうとした。
「君の縁談はどうなりました。この間三沢が来て、好いのを見つけてやったって得意になっていましたよ」
0389Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/20(木) 14:19:33.000
「ええ三沢もずいぶん世話好せわずきですから」
「ところが万更まんざら世話好ばかりでやってるんでもないようですよ。だから君も好い加減に貰っちまったら好いじゃありませんか。器量は悪かないって話じゃないか。君には気に入らんのかね」
0390Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/20(木) 14:19:42.270
「気に入らんのじゃありません」
 Hさんは「はあやっぱり気に入ったのかい」と云って笑い出した。自分はHさんの門を出て、あの事も早くどうかしなければ、三沢に対して義理が悪いと考えた。しかし兄の問題が一段落でも片づいてくれない以上、とうていそっちへ向ける心の余裕は出なかった。いっそ一思いにあの女の方から惚ほれ込んでくれたならなどと思っても見た。
0391Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/20(木) 14:19:56.300
        二十四

 自分はまた三沢を尋ねた。けれども腹をきめてから尋ねた訳でないから、実際上どんな歩調も前に動かす気にはなれなかった。自分の態度はどこまでもぐずぐずであった。そうしてただ漫然とその女の話をした。
「どうするね」
0392Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/20(木) 14:20:09.830
 こう聞かれると、結局要領を得た何の挨拶あいさつもできなかった。
「僕は職業の上ではふわふわして浪人のように暮しているが、家庭の人としてなら、これでも一定の方針に支配されて、着々固まって行きつつあるつもりだ。ところが君はまるで反対だね。一家の主人となるとか、他ひとの夫になるとかいう方面には、故意に意志の働きを鈍らせる癖に、職業の問題になると、手っ取早く片づけて、ちゃんと落ちついているんだから」
0393Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/20(木) 14:20:19.790
「あんまり落ちついてもいないさ」
 自分は大阪の岡田から受取った手紙の中に、相応な位地いちがあちらにあるから来ないかという勧誘があったので、ことによったら今の事務所を飛び出そうかと考えていた。
0394Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/20(木) 14:20:45.550
「ついこの間までは洋行するってしきりに騒いでいたじゃないか」
 三沢は自分の矛盾を追窮した。自分には西洋も大阪も変化としてこの際大した相違もなかった。
0395Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/20(木) 14:20:59.110
「そう万事的あてにならなくっちゃ駄目だ。僕だけ君の結婚問題を真面目まじめに考えるのは馬鹿馬鹿しい訳だ。断っちまおう」
 三沢はだいぶ癪しゃくに障さわったらしく見えた。自分はまた自分が癪に障ってならなかった。
0396Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/20(木) 14:21:18.410
「いったい先方ではどういうんだ。君は僕ばかり責めるがね、僕には向うの意志が少しも解らないじゃないか」
「解るはずがないよ。まだ何にも話してないんだもの」
0397Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/20(木) 14:21:30.980
 三沢は少し激していた。そうして激するのがもっともであった。彼は女の父兄にも女自身にも、自分の事をまだ一口も告げていなかった。どう間違っても彼らの体面に障さわりようのない事情の下もとに、女と自分を御互の視線の通う範囲内に置いただけであった。彼の処置には少しも人工的な痕迹こんせきを留とどめない、ほとんど自然そのままの利用に過ぎないというのが彼の大いなる誇りであった。
「君の考えが纏まとまらない以上はどうする事もできないよ」
0398Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/20(木) 14:21:44.380
「じゃもう少し考えて見よう」
 三沢は焦慮じれったそうであった。自分も自分が不愉快であった。
0399Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/20(木) 14:21:59.970
 Hさんと兄がいっしょの汽車で東京を去ったのは、自分が三沢の所へ出かけてから、一週間と経たたないうちであった。自分は彼らの立つ時刻も日限も知らずにいた。三沢からもHさんからも何の通知を受取らなかった自分は、家うちからの電話で始めてそれを聞いた。その時電話口へは思いがけなく嫂あによめが出て来た。
「兄さんは今朝お立ちよ。お父さんがあなたへ知らせておけとおっしゃるから、ちょっと御呼び申しました」
0400Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/20(木) 14:22:12.850
 嫂の言葉は少し改まっていた。
「Hさんといっしょなんでしょうね」
0401Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/20(木) 18:46:40.130
東京都で新たに8638人感染 2日連続過去最多 きのう(7377人)から1000人超増加
0404Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/21(金) 14:50:05.030
「ええ」
「どこへ行ったんですか」
0405Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/21(金) 14:50:12.060
「何でも伊豆いずの海岸を廻るとかいう御話しでした」
「じゃ船ですか」
「いいえやっぱり新橋から……」
0406Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/21(金) 14:50:23.200
        二十五

 その日自分は下宿へ帰らずに、事務所からすぐ番町へ廻った。昨日きのうまで恐れて近寄らなかったのに、兄の出立と聞くや否や、すぐそちらへ足を向けるのだから、自分の行為はあまりに現金過ぎた。けれども自分はそれを隠す気もなかった。隠さなければすまない人は、宅うちに一人もいないように思われた。
 茶の間には嫂あによめが雑誌の口絵を見ていた。
0407Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/21(金) 14:50:32.200
「今朝ほどは失礼」
「おや吃驚びっくりしたわ、誰かと思ったら、二郎さん。今京橋から御帰り?」
0408Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/21(金) 14:50:41.110
「ええ、暑くなりましたね」
 自分は手帛ハンケチを出して顔を拭ふいた。それから上着を脱ぬいで畳の上へ放ほうり出した。嫂は団扇うちわを取ってくれた。
「御父さんは?」
0409Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/21(金) 14:50:49.660
「御父さんは御留守よ。今日は築地つきじで何かあるんですって」
「精養軒?」
0410Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/21(金) 14:50:58.160
「じゃないでしょう。多分ほかの御茶屋だと思うんだけれども」
「お母さんは?」
0411Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/21(金) 14:51:06.150
「お母さんは今御風呂」
「お重は?」
0412Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/21(金) 14:51:14.200
「お重さんも……」
 嫂はとうとう笑いかけた。
0413Ms.名無しさん
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2022/01/21(金) 14:51:21.640
「風呂ですか」
「いいえ、いないの」
0414Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/21(金) 14:51:30.400
 下女が来て氷の中へ莓いちごを入れるかレモンを入れるかと尋ねた。
「宅じゃもう氷を取るんですか」
0415Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/21(金) 14:51:39.030
「ええ二三日にさんち前から冷蔵庫を使っているのよ」
 気のせいか嫂はこの前見た時よりも少し窶やつれていた。頬の肉が心持減ったらしかった。それが夕方の光線の具合で、顔を動かす時に、ちらりちらりと自分の眼を掠かすめた。彼女は左の頬を縁側えんがわに向けて坐っていたのである。
0416Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/21(金) 14:51:47.550
「兄さんはそれでもよく思い切って旅に出かけましたね。僕はことによると今度こんだもまた延ばすかも知れないと思ってたんだが」
「延ばしゃなさらないわよ」
0417Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/21(金) 14:51:55.730
 嫂あによめはこういう時に下を向いた。そうしていつもよりも一層落ちついた沈んだ低い声を出した。
「そりゃ兄さんは義理堅いから、Hさんと約束した以上、それを実行するつもりだったには違ないけれども……」
0418Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/21(金) 14:52:07.930
「そんな意味じゃないのよ。そんな意味じゃなくって、そうして延ばさないのよ」
 自分はぽかんとして彼女の顔を見た。
0419Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/21(金) 14:52:16.970
「じゃどんな意味で延ばさないんです」
「どんな意味って、――解ってるじゃありませんか」
0420Ms.名無しさん
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2022/01/21(金) 14:52:25.330
 自分には解らなかった。
「僕には解らない」
0421Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/22(土) 08:43:46.200
【USA】米国株は「スーパーバブル」、暴落が進行中 
「大混乱はいつでも始まり得る状態」「米史上最大の富の下落を経験する可能性」 ★3
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1642774821/
0422Ms.名無しさん
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2022/01/22(土) 09:17:29.570
「兄さんは妾あたしに愛想を尽かしているのよ」
「愛想づかしに旅行したというんですか」
0423Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/22(土) 09:17:37.400
「いいえ、愛想を尽かしてしまったから、それで旅行に出かけたというのよ。つまり妾を妻と思っていらっしゃらないのよ」
「だから……」
0424Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/22(土) 09:17:46.820
「だから妾の事なんかどうでも構わないのよ。だから旅に出かけたのよ」
 嫂はこれで黙ってしまった。自分も何とも云わなかった。そこへ母が風呂から上あがって来た。
0425Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/22(土) 09:17:55.530
「おやいつ来たの」
 母は二人坐っているところを見て厭いやな顔をした。
0426Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/22(土) 09:18:04.260
        二十六

「もう好い加減に芳江を起さないとまた晩に寝ないで困るよ」
 嫂は黙って起たった。
0427Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/22(土) 09:18:12.890
「起きたらすぐ湯に入れておやんなさいよ」
「ええ」
0428Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/22(土) 09:18:23.970
 彼女の後姿うしろすがたは廊下を曲まがって消えた。
「芳江は昼寝ひるねですか、どうれで静しずかだと思った」
0429Ms.名無しさん
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2022/01/22(土) 09:18:34.650
「先刻さっき何だか拗すねて泣いてたら、それっきり寝ちまったんだよ。何ぼなんでも、もう五時だから、好い加減に起してやらなくっちゃ……」
 母は不平らしい顔をしていた。
0430Ms.名無しさん
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2022/01/22(土) 09:18:46.560
 自分はその日珍しく宅うちの食卓に向って、晩餐ばんさんの箸はしを取った。築地の料理屋か待合へ呼ばれたという父は、無論帰らなかったけれども、お重は予定通り戻って来た。
「おい早く来て坐らないか。みんな御前の湯から上あがるのを待ってたんだ」
0431Ms.名無しさん
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2022/01/22(土) 09:18:59.210
 お重は縁側へぺたりと尻しりを着けて団扇うちわで浴衣ゆかたの胸へ風を入れていた。
「そんなに急せき立てなくったってよかないの。たまに来たお客さまの癖に」
0432Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/22(土) 09:19:10.730
 お重はつんとしてわざと鼻の先の八つ手の方を向いていた。母はまた始まったという笑の裡うちに自分を見た。自分はまた調戯からかいたくなった。
「御客さまだと思うなら、そんな大きなお尻を向けないで、早くここへ来てお坐りよ」
0433Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/22(土) 09:19:20.350
「蒼蠅うるさいわよ」
「いったいこの暑いのに、一人でどこをほっつき歩いてたんだい」
0434Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/22(土) 09:19:31.790
「どこでも余計な御世話よ。ほっつき歩くだなんて、第一だいち言葉使からしてあなたは下品よ。――好いわ、今日坂田さんの所へ行って、兄さんの秘密をすっかり聞いて来たから」
 お重は兄の事を大兄さん、自分の事をただ兄さんと呼んでいた。始めはちい兄さんと云ったのだが、そのちいを聞くたびに妙な不快を感ずるので、自分はとうとうちいだけを取らしてしまった。
0435Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/22(土) 09:19:43.210
「好くってみんなに話しても」
 お重は湯で火照ほてった顔をぐるりと自分の方に向けた。自分は瞬またたきを二つ続けざまにした。
0436Ms.名無しさん
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2022/01/22(土) 09:19:54.420
「だって御前は今兄さんの秘密だと明言したじゃないか」
「ええ秘密よ」
0437Ms.名無しさん
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2022/01/22(土) 09:20:05.990
「秘密なら話してよくないにきまってるじゃないか」
「それを話すから面白いのよ」
0438Ms.名無しさん
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2022/01/22(土) 16:56:44.780
【NHKニュース速報 16:48】
東京都 新たに1万1227人感染確認 1万人超は初めて 4日連続で過去最多
0440Ms.名無しさん
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2022/01/23(日) 13:25:32.960
 自分はお重の無鉄砲が、何を云い出すか分らないと思って腹の中では辟易へきえきした。
「お重御前は論理学でいうコントラジクション・イン・タームス、という事を知らないだろう」
0441Ms.名無しさん
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2022/01/23(日) 13:25:42.580
「よくってよ。そんな高慢ちきな英語なんか使って、他ひとが知らないと思って」
「もう二人とも止よしにおしよ。何だね面白くもない、十五六の子供じゃあるまいし」
0442Ms.名無しさん
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2022/01/23(日) 13:25:51.690
 母はとうとう二人を窘たしなめた。自分もそれを好い機しおにすぐ舌戦を切り上げた。お重も団扇を縁側へ投げ出しておとなしく食卓に着いた。
 局面が一転した後あとなので、秘密らしい秘密は、食事中ついにお重の口から洩もれる機会がなかった。母も嫂あによめもまるでそれには取り合う気色けしきも見せなかった。平吉という男が裏から出て来て、庭に水を打った。「まだそう燥かわいていないんだから、好い加減にしておおき」と母が云っていた。
0443Ms.名無しさん
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2022/01/23(日) 13:26:22.280
        二十七

 その晩番町を出たのは灯火あかりが点ついてまだ間もない宵よいの口であった。それでも飯を済ましてから約一時間半ほどは、そこへ坐すわり込んだまま、みんなを相手に喋舌しゃべっていた。
 自分はその一時間半の間に、とうとうお重から例の秘密をあばかれる羽目に陥おちいった。しかしそれが自分に取っては、秘密でも何でもない例の結婚問題だったので、自分はかえって安心した。
0444Ms.名無しさん
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2022/01/23(日) 13:26:34.910
「御母さん、兄さんは妾達あたしたちに隠れてこの間見合をなすったんですって」
「隠れて見合なんかするものか」
0445Ms.名無しさん
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2022/01/23(日) 13:26:45.410
 自分は母がまだ何とも云わないうちにお重の言葉を遮さえぎった。
「いいえたしかな筋からちゃんと聞いて来たんだから、いくら白ばっくれてももう駄目よ」
0446Ms.名無しさん
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2022/01/23(日) 13:26:54.990
 たしかな筋というような一種の言葉が、お重の口から出るのを聞いたとき、自分は思わず苦笑した。
「馬鹿だなお前は」
0447Ms.名無しさん
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2022/01/23(日) 13:27:02.930
「馬鹿でもいいわよ」
 お重は六月二日の出来事を母や嫂あによめに向ってべらべら喋舌しゃべり出した。それがなかなか精くわしいので自分は少し驚いた。どこからその知識を得て来たのだろうという好奇心が強く自分の反問を促うながした。けれどもお重はただ意地の悪い微笑を洩もらすのみで、けっして出所しゅっしょを告げなかった。
0448Ms.名無しさん
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2022/01/23(日) 13:27:11.430
「兄さんが妾達に黙っているのは、きっと打ち明けて云い悪にくい訳があるからなのよ。ね、そうでしょう、兄さん」
 お重は自分の好奇心を満足させないのみか、かえって向うからこっちを嬲なぶりにかかった。自分は「どうでも好いや」と云った。母から真面目まじめに事の顛末てんまつを聞かれた時、自分は簡単にありのままを答えた。
「ただそれだけの事なんです。しかも向むこうじゃ全く知らないんだからそのつもりでいて下さい。お重見たいに好い加減な事を云い触らすと、僕はどうでも構わんにしたところで、先方が迷惑するかも知れませんから」
0449Ms.名無しさん
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2022/01/23(日) 13:27:20.200
 母は先方が迷惑がるはずがないという顔つきで、むやみに細かい質問を始めた。しかし財産がどのくらいあるんだろうとか、親類に貧乏人があるだろうかとか、あるいは悪い病気の系統を引いていやしなかろうかと云うような事になると、自分にはまるで答えられなかった。のみならずしまいには聞くのさえ面倒で厭いやになって来た。自分はとうとう逃げ出すようにして番町を出た。
 自分がその夜母からいろいろな質問を掛けられている間、嫂あによめは始終しじゅう同じ席にいたが、この問題に関してはほとんど一言ひとことも口を開かなかった。母も彼女に向ってついぞ相談がましい言葉をかけなかった。二人のこの態度が、二人の気質をよく代表していた。しかしそれは単に気質の相違からばかり来た一種の対照とも思えなかった。嫂あによめは全くの局外者らしい位地を守るためか何だか、始終しじゅう芳江のおもりに気を取られ勝に見えた。日が暮れさえすればすぐ寝かされる習慣の芳江は、昼寝を貪むさぼり過ぎた結果として、その晩はとうとう自分が帰るまで蚊帳かやの中へ這入はいらなかった。
0450Ms.名無しさん
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2022/01/23(日) 13:27:28.220
 自分は下宿へ帰って、自分の室へやの暑苦しいのを意外に感じた。わざと電気灯を消して暗い所に黙って坐っていた。今朝けさ立った兄は今日どこで泊るだろう。Hさんは今夜彼とどんな話をするだろう。鷹揚おうようなHさんの顔が自然と眼の前に浮かんだ。それと共に瘠やせた兄の頬に刻きざまれた久しぶりの笑が見えた。
0451Ms.名無しさん
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2022/01/23(日) 13:27:37.720
        二十八

 その翌日あくるひからHさんの手紙が心待に待ち受けられた。自分は一日いちんち、二日ふつか、三日みっかと指を折って日取を勘定かんじょうし始めた。けれどもHさんからは何の音信たよりもなかった。絵端書えはがき一枚さえ来なかった。自分は失望した。Hさんに責任を忘れるような軽薄はなかった。しかしこちらの予期通り律義りちぎにそれを果してくれないほどの大悠たいゆうはあった。自分は自烈じれったい部に属する人間の一人として遠くから彼を眺めた。
 すると二人が立ってからちょうど十一日目の晩に、重い封書が始めて自分の手に落ちた。Hさんは罫けいの細こまかい西洋紙へ、万年筆まんねんふでで一面に何か書いて来た。頁ページの数かずから云っても、二時間や三時間でできる仕事ではなかった。自分は机の前に縛くくりつけられた人形にんぎょうのような姿勢で、それを読み始めた。自分の眼には、この小さな黒い字の一点一劃かくも読み落すまいという決心が、焔ほのおのごとく輝いた。自分の心は頁の上に釘くぎづけにされた。しかも雪を行く橇そりのように、その上を滑すべって行った。要するに自分はHさんの手紙の最初の頁の第一行から読み始めて、最後の頁の最終の文句に至るまでに、どのくらいの時間が要いったかまるで知らなかった。
0452Ms.名無しさん
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2022/01/23(日) 13:28:00.090
 手紙は下しものように書いてあった。
0453Ms.名無しさん
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2022/01/23(日) 13:28:46.680
「長野君を誘って旅へ出るとき、あなたから頼まれた事を、
いったん引き受けるには引き受けたが、いざとなって見ると、とても実行はできまい、
またできてもする必要があるまい、もしくは必要と不必要にかかわらず、
するのは好このもしい事でなかろう、――こういう考えでいました。
旅行を始めてから一日いちにち二日ふつかは、
この三つの事情のすべてかあるいは幾分かが常に働くので、これではせっかくの約束も反古ほごにしなければならないという気が強く募つのりました。それが三日みっか四日よっかとなった時、少し考えさせられました。五日いつか六日むいかと日を重ねるに従って、考えるばかりでなく、約束通りあなたに手紙を上げるのが、あるいは必要かも知れないと思うようになりました。もっともここにいう必要という意味が、あなたと私とで、だいぶ違うかも知れませんが、それはこの手紙をしまいまで御読みになれば解る事ですから、説明はしません。それから当初私の抱いた好もしくないという倫理上の感じ、これはいくら日数ひかずを経過しても取去る訳には行きませんが、片方にある必要の度どが、自然それを抑えつけるほど強くなって来た事もまた確たしかであります。おそらく手紙を書いている暇があるまい。――この故障だけは始めあなたに申上げた通りどこまでもつけ纏まとって離れませんでした。我々二人はいっしょの室へやに寝ます、いっしょの室で飯を食います、散歩に出る時もいっしょです、
湯も風呂場の構造が許す限りは、いっしょに這入はいります。
0454Ms.名無しさん
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2022/01/23(日) 13:28:52.130
こう数え立てて見ると、別々に行動するのは、まあ厠かわやに上のぼる時ぐらいなものなのですから
0455Ms.名無しさん
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2022/01/23(日) 13:29:05.540
 無論我々二人は朝から晩までのべつに喋舌しゃべり続けている訳ではありません。御互が勝手な書物を手にしている時もあります、黙って寝転ねころんでいる事もあります。しかし現にその人のいる前で、その人の事を知らん顔で書いて、そうしてそれをそっと他ひとに知らせるのはちょっと私にとってはでき悪にくいのです。書くべき必要を認め出した私も、これには弱りました。いくら書く機会を見つけよう見つけようと思っても、そんな機会の出て来るはずがないのですから。しかし偶然はついに私の手を導いて、私に私の必要と認める仕事をさせるようにしてくれました。私はそれほど兄さんに気兼きがねをせずに、この手紙を書き初めました。そうして同じ状態の下もとに、それを書き終る事を希望します。
0456Ms.名無しさん
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2022/01/23(日) 13:29:15.520
        二十九

 我々は二三日前からこの紅べにが谷やつの奥に来て、疲れた身体からだを谷と谷の間に放り出しました。いる所は私の親戚のもっている小さい別荘です。所有主は八月にならないと東京を離れる事がむずかしいので、その前ならいつでも君方に用立ようだてて宜よろしいと云った言葉を、はからず旅行中に利用する訳になったのであります。
 別荘というと大変人聞ひとぎきが好いようですが、その実ははなはだ見苦しい手狭てぜまなもので、構えからいうと、ちょうど東京の場末にある四五十円の安官吏[#「吏」は底本では「史」]の住居すまいです。しかし田舎いなかだけに邸内の地面には多少の余裕があります。庭だか菜園だか分らないものが、軒から爪下つまさがりに向うの垣根まで続いています。その垣には珊瑚樹さんごじゅの実が一面に結なっていて、葉越に隣の藁屋根わらやねが四半分ほど見えます。
0463Ms.名無しさん
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2022/01/24(月) 08:20:59.170
【統計学が専門の教授が試算】東京、2月8日時点で濃厚接触者が143万人に上る
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1642947408/
東京都の人口は約1,401万人(2021年11月11日時点)で、10人に1人が濃厚接触者になる計算だ。
0464Ms.名無しさん
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2022/01/24(月) 10:09:35.070
GDP成長率で最低を記録した安倍政権

ちなみに安倍首相在任期間中の平均GDP(国内総生産)成長率を計算すると、
実質でわずか0.9%しかない(2020年はコロナ危機があるので除外してある)。
小泉政権は1.0%、民主党政権は1.5%、大型公共事業を連発した橋本・小渕政権は0.9%と、
安倍政権は同率で最下位となっている(四半期ベースの実質GDPを基に年率換算)。
しかも安倍政権下の個人消費は何とマイナスだった。
0465Ms.名無しさん
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2022/01/24(月) 14:34:02.040
 同じ軒の下から谷を隔てて向うの山も手に取るように見えます。この山全体がある伯爵の別荘地で、時には浴衣ゆかたの色が樹この間まから見えたり、女の声が崖がけの上で響いたりします。その崖の頂いただきには高い松が空を突くように聳そびえています。我々は低い軒の下から朝夕あさゆうこの松を見上るのを、高尚な課業のように心得て暮しています。
 今まで通って来たうちで、君の兄さんにはここが一番気に入ったようです。それにはいろいろな意味があるかも知れませんが、二人ぎりで独立した一軒の家の主人あるじになりすまされたという気分が、人慣れない兄さんの胸に一種の落ちつきを与えるのが、その大原因だろうと思います。今までどこへ泊ってもよく寝られなかった兄さんは、ここへ来た晩からよく寝ます。現に今私がこうやって万年筆まんねんふでを走らしている間も、ぐうぐう寝ています。
 もう一つここへ来てから偶然の恩恵に浴したと思うのは、普通の宿屋のように二人が始終しじゅう膝ひざを突き合わして、一つの部屋にごろごろしていないですむ事です。家は今申した通り手狭てぜま至極しごくなものであります。門を出て右の坂上にある或る長者ちょうじゃの拵こしらえた西洋館などに比べると全くの燐寸箱マッチばこに過ぎません。それでも垣を囲めぐらして四方から切り離した独立の一軒家です。窮屈ではあるが間数まかずは五つほどあります。兄さんと私は一つ座敷に吊つった一つ蚊帳かやの中に寝ます。しかし宿屋と違って同じ時間に起きる必要はありません。片方が起きても、片方は寝たいだけ寝ていられます。私は兄さんをそっとしておいて、次の座敷に据すえてある一閑張いっかんばりの机に向う事ができます。昼もその通りです。二人差向いでいるのが苦痛になれば、どっちかが勝手に姿を隠して、自分に都合のいい事を、好な時間だけやります。それから適当な頃にまた出て来て顔を見せます。
0466Ms.名無しさん
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2022/01/24(月) 14:34:10.610
 私はこういう偶然を利用してこの手紙を書くのであります。そうしてこの偶然を思いがけなく利用する事のできた自分を、あなたのために仕合せと考えます。同時に、それを利用する必要を認め出した自分を、自分のために遺憾いかんだと思います。
 私のいう事は順序からいうと日記体に纏まとまっておりません。分類からいうと科学的に区別が立たないかも知れません。しかしそれは汽車、俥くるま、宿、すべて規則的な仕事を妨さまたげる旅行というものの障害と、平気で取りかかりにくいというその仕事の性質とが、破壊的に働いた結果と思っていただくより仕方がありません。断片的にせよ下しもに述べるだけの事をあなたに報道し得るのがすでに私には意外なのであります。全く偶然の御蔭おかげなのであります。
0467Ms.名無しさん
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2022/01/24(月) 14:34:20.240
        三十

 我々は二人とも大した旅行癖りょこうへきのない男です。したがって我々の編み上げた旅程もまた経験相応に平凡でした。近くて便利な所を人並に廻って歩けば、それで目的の大半は達せられるくらいな考えで、まず相模さがみ伊豆辺あたりをぼんやり心がけました。
 それでも私の方が兄さんよりはまだましでした。私は主要な場所と、そこへ行くべき交通機関とをほぼ承知していましたが、兄さんに至ってはほとんど地理や方角を超越していました。兄さんは国府津こうづが小田原おだわらの手前か先か知りませんでした。知らないというよりむしろ構わないのでしょう。これほど一方に無頓着むとんじゃくな兄さんが、なぜ人事上のあらゆる方面に、同じ平然たる態度を見せる事ができないのかと思うと、私は実際不思議な感に打たれざるを得ません。しかしそれは余事です。話が逸それると戻り悪にくくなりますから、なるべく本流を伝つたって、筋を離れないように進む事にしましょう。
0468Ms.名無しさん
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2022/01/24(月) 14:34:29.340
 我々は始め逗子ずしを基点として出発する事に相談をきめていました。ところがその朝新橋へ駆かけつける俥くるまの上で、ふと私の考えが変りました。いかに平凡な旅行にしても、真先に逗子へ行くのは、あまりに平凡過ぎて気が進まなくなったのです。私は停車場ステーションで兄さんに相談の仕直しをやりました。私は行程を逆にして、まず沼津から修善寺しゅぜんじへ出て、それから山越やまごしに伊東の方へ下りようと云いました。小田原と国府津の後先あとさきさえ知らない兄さんに異存のあるはずがないので、我々はすぐ沼津までの切符を買って、そのまま東海道行の汽車に乗り込みました。
 汽車中では報知に値あたいするような事が別に起りませんでした。先方へ着いても、風呂へ入ったり、飯を食ったり、茶を飲んだりする間は、これといって目に着く点もなかったのです。私は兄さんについて、これはことによると家族の人の参考のために、知らせておく必要があるかも知れないと思い出したのは、その日の晩になってからであります。
0469Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/24(月) 14:34:37.850
 寝るには早過ぎました。話にはもう飽あきました。私は旅行中に誰でも経験する一種の徒然とぜんに襲われました。ふと床の間の脇わきを見ると、そこに重そうな碁盤ごばんが一面あったので、私はすぐそれを室へやの真中へ持ち出しました。無論兄さんを相手に黒白こくびゃくを争うつもりでした。あなたは御存じだかどうだか知りませんが、私は学校にいた時分、これでよく兄さんと碁ごを打ったものです。その後ご二人とも申し合せたように、ぴたりとやめてしまいましたが、この場合、二人が持て余している時間を、面白く過ごすには碁盤が屈強の道具に違なかったのです。
 兄さんはしばらく碁盤を眺めていました。そうしておいて「まあ止そう」と云いました。私は思い込んだ勢いで、「そう云わずにやろうじゃないか」と押し返しました。それでも兄さんは「いやいやまあ止そう」と云います。兄さんの顔を見ると、眼と眉まゆの間に変な表情がありました。それが何の碁なんぞと云った風の軽蔑けいべつまたは無頓着むとんじゃくを示していないのですから、私はちょっと異いな心持がしました。しかし無理に強しいるのも厭いやですから、私はとうとう一人で碁石を取り上げて、黒と白を打手違うつてちがいに、盤の上に並べ始めました。兄さんは少しの間それを見ていました。私がなお黙って打ち続けて行きますと、兄さんは不意に座を立って廊下へ出ました。おおかた便所へでも行ったのだろうと思った私は、いっこう兄さんの挙動には注意を払いませんでした。
0470Ms.名無しさん
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2022/01/24(月) 14:34:57.960
        三十一

 案の通り兄さんは時を移さず戻って来ました。そうして突然いきなり「やろう」というや否や、自分の手から、碁石を※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)もぎ取るように引ひっ手繰たくりました。私は何の気もつかずに、「よろしい」と答えて、すぐ打ち始めました。我々のは申すまでもなくヘボ碁ですから、石を下くだすのも早いし、勝負の片づくのも雑作ぞうさはありません。一時間のうちに悠ゆうに二番ぐらいは始末ができるくらいだから、見ていても局に対むかっていても、間怠まだるい思いはけっしてないのです。ところを兄さんは、その手早く運んで行く碁面を、しまいまで辛抱して眺めているのは苦痛だと云って、とうとう中途でやめてしまいました。私は心持でも悪くなったのかと思って心配しましたが、兄さんはただ微笑していました。
 床に入る前になって、私は始めて兄さんからその時の心理状態の説明を聞きました。兄さんは碁を打つのは固もとより、何をするのも厭いやだったのだそうです。同時に、何かしなくってはいられなかったのだそうです。この矛盾がすでに兄さんには苦痛なのでした。兄さんは碁を打ち出せば、きっと碁なんぞ打っていられないという気分に襲われると予知していたのです。けれどもまた打たずにはいられなくなったのです。それでやむをえず盤に向ったのです。盤に向うや否や自烈じれったくなったのです。しまいには盤面に散点する黒と白が、自分の頭を悩ますために、わざと続いたり離れたり、切れたり合ったりして見せる、怪物のように思われたのだそうです。兄さんはもうちっとで、盤面をめちゃめちゃに掻かき乱して、この魔物を追払おっぱらうところだったと云いました。何事も知らなかった私は、少し驚きながらも悪い事をしたと思いました。
0471Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/24(月) 14:35:09.090
「いや碁に限った訳じゃない」と云って兄さんは、自分の過失あやまちを許してくれました。私はその時兄さんから、兄さんの平生を聞きました。兄さんの態度は碁を中途でやめた時ですら落ちついていました。上部うわべから見ると何の異状もない兄さんの心持は、おそらくあなた方には理解されていないかも知れません。少くともこういう私には一つの発見でした。
 兄さんは書物を読んでも、理窟りくつを考えても、飯を食っても、散歩をしても、二六時中何をしても、そこに安住する事ができないのだそうです。何をしても、こんな事をしてはいられないという気分に追いかけられるのだそうです。
0472Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/24(月) 14:35:17.090
「自分のしている事が、自分の目的エンドになっていないほど苦しい事はない」と兄さんは云います。
「目的でなくっても方便ミインズになれば好いじゃないか」と私が云います。
0473Ms.名無しさん
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2022/01/24(月) 14:35:26.070
「それは結構である。ある目的があればこそ、方便が定められるのだから」と兄さんが答えます。
 兄さんの苦しむのは、兄さんが何をどうしても、それが目的にならないばかりでなく、方便にもならないと思うからです。ただ不安なのです。したがってじっとしていられないのです。兄さんは落ちついて寝ていられないから起きると云います。起きると、ただ起きていられないから歩くと云います。歩くとただ歩いていられないから走かけると云います。すでに走け出した以上、どこまで行っても止まれないと云います。止まれないばかりなら好いが刻一刻と速力を増して行かなければならないと云います。その極端を想像すると恐ろしいと云います。冷汗が出るように恐ろしいと云います。怖こわくて怖くてたまらないと云います。
0474Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/24(月) 14:35:34.760
        三十二

 私は兄さんの説明を聞いて、驚きました。しかしそういう種類の不安を、生れてからまだ一度も経験した事のない私には、理解があっても同情は伴いませんでした。私は頭痛を知らない人が、割れるような痛みを訴えられた時の気分で、兄さんの話に耳を傾けていました。私はしばらく考えました。考えているうちに、人間の運命というものが朧気おぼろげながら眼の前に浮かんで来ました。私は兄さんのために好い慰藉いしゃを見出したと思いました。
「君のいうような不安は、人間全体の不安で、何も君一人だけが苦しんでいるのじゃないと覚さとればそれまでじゃないか。つまりそう流転るてんして行くのが我々の運命なんだから」
0475Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/24(月) 14:35:43.940
 私のこの言葉はぼんやりしているばかりでなく、すこぶる不快に生温なまぬるいものでありました。鋭い兄さんの眼から出る軽侮けいぶの一瞥いちべつと共に葬られなければなりませんでした。兄さんはこう云うのです。
「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止とどまる事を知らない科学は、かつて我々に止まる事を許してくれた事がない。徒歩から俥くるま、俥から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機と、どこまで行っても休ませてくれない。どこまで伴つれて行かれるか分らない。実に恐ろしい」
0476Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/24(月) 14:35:51.530
「そりゃ恐ろしい」と私も云いました。
 兄さんは笑いました。
0477Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/24(月) 14:36:02.030
「君の恐ろしいというのは、恐ろしいという言葉を使っても差支さしつかえないという意味だろう。実際恐ろしいんじゃないだろう。つまり頭の恐ろしさに過ぎないんだろう。僕のは違う。僕のは心臓の恐ろしさだ。脈を打つ活きた恐ろしさだ」
 私は兄さんの言葉に一毫いちごうも虚偽の分子の交っていない事を保証します。しかし兄さんの恐ろしさを自分の舌で甞なめて見る事はとてもできません。
0478Ms.名無しさん
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2022/01/24(月) 14:36:10.610
「すべての人の運命なら、君一人そう恐ろしがる必要がない」と私は云いました。
「必要がなくても事実がある」と兄さんは答えました。その上下しものような事も云いました。
0482Ms.名無しさん
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2022/01/25(火) 13:44:04.700
「人間全体が幾世紀かの後のちに到着すべき運命を、僕は僕一人で僕一代のうちに経過しなければならないから恐ろしい。一代のうちならまだしもだが、十年間でも、一年間でも、縮めて云えば一カ月間乃至ないし一週間でも、依然として同じ運命を経過しなければならないから恐ろしい。君は嘘うそかと思うかも知れないが、僕の生活のどこをどんな断片に切って見ても、たといその断片の長さが一時間だろうと三十分だろうと、それがきっと同じ運命を経過しつつあるから恐ろしい。要するに僕は人間全体の不安を、自分一人に集めて、そのまた不安を、一刻一分の短時間に煮つめた恐ろしさを経験している」
「それはいけない。もっと気を楽にしなくっちゃ」
0483Ms.名無しさん
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2022/01/25(火) 13:44:13.370
「いけないぐらいは自分にも好く解っている」
 私は兄さんの前で黙って煙草たばこを吹かしていました。私は心のうちで、どうかして兄さんをこの苦痛から救い出して上げたいと念じました。私はすべてその他の事を忘れました。今までじっと私の顔を見守っていた兄さんは、その時突然「君の方が僕より偉えらい」と云いました。私は思想の上において、兄さんこそ私に優すぐれていると感じている際でしたから、この賛辞に対して嬉うれしいともありがたいとも思う気は起りませんでした。私はやはり黙って煙草を吹かしていました。兄さんはだんだん落ちついて来ました。それから二人とも一つ蚊帳かやに這入はいって寝ました。
0484Ms.名無しさん
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2022/01/25(火) 13:44:51.150
 兄さんはその時電車のなかで偶然見当る尊たっとい顔の部類の中うちへ、私を加えました。私は思いも寄らん事だと云って辞退しました。すると兄さんは真面目まじめな態度でこう云いました。
「君でも一日のうちに、損も得も要いらない、善も悪も考えない、ただ天然のままの心を天然のまま顔に出している事が、一度や二度はあるだろう。僕の尊いというのは、その時の君の事を云うんだ。その時に限るのだ」
0485Ms.名無しさん
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2022/01/25(火) 13:44:59.410
 兄さんはこう云われても覚束おぼつかなく見える私のために、具体的な証拠を示してやるというつもりか、昨夜ゆうべ二人が床に入る前の私を取って来てその例に引きました。兄さんはあの折談話の機はずみでつい興奮し過ぎたと自白しました。しかし私の顔を見たときに、その激した心の調子がしだいに収まったと云うのです。私が肯うけがおうと肯うまいと、それには頓着とんじゃくする必要がない、ただその時の私から好い影響を受けて、一時的にせよ苦しい不安を免まぬかれたのだと、兄さんは断言するのです。
 その時の私は前ぜん云った通りです。ただ煙草たばこを吹かして黙っていただけです。私はその時すべての事を忘れました。独ひとり兄さんをどうにかしてこの不安の裡うちから救って上げたいと念じました。けれども私の心が兄さんに通じようとは思いませんでした。また通じさせようという気は無論ありませんでした。だから何にも云わずに黙って煙草を吹かしていたのです。しかしそこに純粋な誠があったのかも知れません。兄さんはその誠を私の顔に読んだのでしょうか。
0486Ms.名無しさん
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2022/01/25(火) 13:45:10.340
 私は兄さんと砂浜の上をのそりのそりと歩きました。歩きながら考えました。兄さんは早晩宗教の門を潜くぐって始めて落ちつける人間ではなかろうか。もっと強い言葉で同じ意味を繰り返すと、兄さんは宗教家になるために、今は苦痛を受けつつあるのではなかろうか。
0487Ms.名無しさん
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2022/01/25(火) 13:45:19.180
        三十四

「君近頃神というものについて考えた事はないか」
 私はしまいにこういう質問を兄さんにかけました。私がここでとくに「近頃」と断ったのは、書生時代の古い回想から来たものであります。その時分は二人共まだ考えの纏まとまらない青二才でしたが、それでも私は思索に耽ふけり勝がちな兄さんと、よく神の存在について云々したものであります。ついでだから申しますが、兄さんの頭はその時分から少しほかの人とは変っていました。兄さんは浮々うかうかと散歩をしていて、ふと自分が今歩いていたなという事実に気がつくと、さあそれが解すべからざる問題になって、考えずにはいられなくなるのでした。歩こうと思えば歩くのが自分に違ちがいないが、その歩こうと思う心と、歩く力とは、はたしてどこから不意に湧わいて出るか、それが兄さんには大いなる疑問になるのでした。
0488Ms.名無しさん
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2022/01/25(火) 13:45:27.870
 二人はそんな事から神とか第一原因とかいう言葉をよく使いました。今から考えると解らずに使ったのでした。しかし口の先で使い慣れた結果、しまいには神もいつか陳腐ちんぷになりました。それから二人とも申し合せたように黙りました。黙ってから何年目になるでしょう。私は静かな夏の朝の、海という深い色を沈める大きな器うつわの前に立って、兄さんと相対しつつ、再び神という言葉を口にしたのであります。
 しかし兄さんはその言葉を全く忘れていました。思い出す気色けしきさえありませんでした。私の質問に対する返事としては、ただ微かすかな苦笑があの皮肉な唇くちびるの端を横切っただけでした。
0489Ms.名無しさん
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2022/01/25(火) 13:45:35.630
 私は兄さんのこの態度で辟易へきえきするほどに臆病ではありませんでした。また思う事を云い終おおせずに引込むほど疎うとい間柄あいだがらでもありませんでした。私は一歩前へ進みました。
「どこの馬の骨だか分らない人間の顔を見てさえ、時々ありがたいという気が起るなら、円満な神の姿を束つかの間まも離れずに拝んでいられる場合には、何百倍幸福になるか知れないじゃないか」
0490Ms.名無しさん
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2022/01/25(火) 13:45:59.160
海は静かにその小石を受け取りました。兄さんは手応てごたえのない努力に、憤いきどおりを起す人のように、二度も三度も同じ所作しょさを繰返しました。兄さんは磯いそへ打ち上げられた昆布こぶだか若布わかめだか、名も知れない海藻かいそうの間を構わず駈かけ廻りました。それからまた私の立って見ている所へ帰って来ました。
「僕は死んだ神より生きた人間の方が好きだ」
0491Ms.名無しさん
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2022/01/25(火) 13:46:06.990
 兄さんはこう云うのです。そうして苦しそうに呼息いきをはずませていました。私は兄さんを連れて、またそろそろ宿の方へ引き返しました。
「車夫でも、立ん坊でも、泥棒でも、僕がありがたいと思う刹那せつなの顔、すなわち神じゃないか。山でも川でも海でも、僕が崇高だと感ずる瞬間の自然、取りも直さず神じゃないか。そのほかにどんな神がある」
0492Ms.名無しさん
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2022/01/25(火) 13:46:17.880
 兄さんからこう論じかけられた私は、ただ「なるほど」と答えるだけでした。兄さんはその時は物足りない顔をします。しかし後あとになるとやっぱり私に感心したような素振そぶりを見せます。実を云うと、私の方が兄さんにやり込められて感心するだけなのですが。
0493Ms.名無しさん
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2022/01/25(火) 13:46:27.690
        三十五

 我々は沼津で二日ほど暮しました。ついでに興津おきつまで行こうかと相談した時、兄さんは厭いやだと云いました。旅程にかけては、万事私の思いのままになっている兄さんが、なぜその時に限って断然私の申もうし出いでを拒絶したものか、私にはとんと解りませんでした。後でその説明を聞いたら、三保みほの松原まつばらだの天女てんにょの羽衣はごろもだのが出て来る所は嫌きらいだと云うのです。兄さんは妙な頭をもった人に違ちがいありません。
 我々はついに三島みしままで引き返しました。そこで大仁おおひと行の汽車に乗り換えて、とうとう修善寺しゅぜんじへ行きました。兄さんには始めからこの温泉が大変気に入っていたようです。しかし肝心かんじんの目的地へ着くや否や、兄さんは「おやおや」という失望の声を放ちました。実際兄さんの好いていたのは、修善寺という名前で、修善寺という所ではなかったのです。瑣事さじですが、これも幾分か兄さんの特色になりますからついでにつけ加えておきます。
0494Ms.名無しさん
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2022/01/25(火) 13:46:50.600
「寝られないと、どうかして寝よう寝ようと焦あせるだろう」と私が聞きました。
「全くそうだ、だからなお寝られなくなる」と兄さんが答えました。
0495Ms.名無しさん
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2022/01/25(火) 13:46:58.470
「君、寝なければ誰かにすまない事でもあるのか」と私がまた聞きました。
 兄さんは変な顔をしました。石で畳んだ風呂槽ふろおけの縁ふちに腰をかけて、自分の手や腹を眺めていました。兄さんは御存じの通り余り肥ふとってはいません。
0496Ms.名無しさん
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2022/01/25(火) 13:47:08.510
「僕も時々寝られない事があるが、寝られないのもまた愉快なものだ」と私が云いました。
「どうして」と今度は兄さんが聞きました。私はその時私の覚えていた灯影無睡とうえいむすいを照てらし心清妙香しんせいみょうこうを聞きくという古人の句を兄さんのために挙あげました。すると兄さんはたちまち私の顔を見てにやにや笑いました。
0497Ms.名無しさん
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2022/01/25(火) 13:47:17.420
「君のような男にそういう趣おもむきが解るかね」と云って、不審そうな様子をしました。
0498Ms.名無しさん
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2022/01/25(火) 13:47:27.160
        三十六

 その日私はまた兄さんを引張ひっぱり出して今度は山へ行きました。上を見て山に行き、下を向いて湯に入る、それよりほかにする事はまずない所なのですから。
 兄さんは痩やせた足を鞭むちのように使って細い道を達者に歩きます。その代り疲れる事もまた人一倍早いようです。肥った私がのそのそ後あとから上あがって行くと、木の根に腰をかけて、せえせえ云っています。兄さんのは他ひとを待ち合せるのではありません。自分が呼息いきを切らしてやむをえずに斃たおれるのです。
0500Ms.名無しさん
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2022/01/25(火) 15:06:44.070
州最高裁判事は、ニューヨークのマスク着用義務化を”違憲 “と判決
”マスク着用義務は無効、執行不能 “と宣言
0503Ms.名無しさん
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2022/01/25(火) 17:34:33.240
【速報】新型コロナ 東京都で新たに12813人感染確認 過去最多
【速報】新型コロナ 大阪府で過去最多8612人感染確認 10人死亡
0507Ms.名無しさん
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2022/01/26(水) 14:29:52.260
「Keine Br※(ダイエレシス付きU小文字)cke f※(ダイエレシス付きU小文字)hrt von Mensch zu Mensch.(人から人へ掛け渡す橋はない)」
 私はつい覚えていた独逸ドイツの諺ことわざを返事に使いました。無論半分は問題を面倒にしない故意こいの作略さりゃくも交まじっていたでしょうが。すると兄さんは、「そうだろう、今の君はそうよりほかに答えられまい」と云うのです。私はすぐ「なぜ」と聞き返しました。
0508Ms.名無しさん
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2022/01/26(水) 14:30:17.430
 兄さんは時々立ち留まって茂みの中に咲いている百合ゆりを眺めました。一度などは白い花片はなびらをとくに指して、「あれは僕の所有だ」と断りました。私にはそれが何の意味だか解りませんでしたが、別に聞き返す気も起らずに、とうとう天辺てっぺんまで上のぼりました。二人でそこにある茶屋に休んだ時、兄さんはまた足の下に見える森だの谷だのを指さして、「あれらもことごとく僕の所有だ」と云いました。二度まで繰り返されたこの言葉で、私は始めて不審を起しました。しかしその不審はその場ですぐ晴らす訳に行きませんでした。私の質問に対する兄さんの答は、ただ淋さびしい笑に過ぎなかったのです。
 我々はその茶店の床几しょうぎの上で、
しばらく死んだように寝ていました。その間兄さんは何を考えていたか知りません。
私はただ明らかな空を流れる白い雲の様子ばかり見ていました。
私の眼はきらきらしました。
しだいに帰かえり途みちの暑さが想おもいやられるようになりました。
私は兄さんを促うながしてまた山を下りました。その時です。兄さんが突然後うしろから私の肩をつかんで、「君の心と僕の心とはいったいどこまで通じていて、どこから離れているのだろう」と聞いたのは。私は立ちどまると同時に、左の肩を二三度強く小突き廻されました。私は身体からだに感ずる動揺を、同じように心でも感じました。私は平生から兄さんを思索家と考えていました。いっしょに旅に出てからは、宗教に這入はいろうと思って這入口はいりくちが分らないで困っている人のようにも解釈して見ました。私が心に動揺を感じたというのは、はたして兄さんのこの質問が、そういう立場から出たのであろうかと迷ったからです。私はあまり物に頓着とんじゃくしない性質たちです。またあまり物に驚かない、いたって鈍どんな男です。けれども出立前ぜんあなたからいろいろ依頼を受けたため、兄さんに対してだけは、妙に鋭敏になりたがっていました。私は少し平気の道を踏み外はずしそうになりました。
0509Ms.名無しさん
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2022/01/26(水) 14:30:29.070
「自分に誠実でないものは、けっして他人に誠実であり得ない」
 私は兄さんのこの言葉を、自分のどこへ応用して好いか気がつきませんでした。
0510Ms.名無しさん
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2022/01/26(水) 14:30:37.270
「君は僕のお守もりになって、わざわざいっしょに旅行しているんじゃないか。僕は君の好意を感謝する。けれどもそういう動機から出る君の言動は、誠まことを装よそおう偽いつわりに過ぎないと思う。朋友ほうゆうとしての僕は君から離れるだけだ」
 兄さんはこう断言しました。そうして私をそこへ取残したまま、一人でどんどん山道を馳かけ下りて行きました。その時私も兄さんの口を迸ほとばしる Einsamkeit, du meine Heimat Einsamkeit !(孤独なるものよ、汝はわが住居すまいなり)という独逸語を聞きました。
0511Ms.名無しさん
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2022/01/26(水) 14:30:47.870
        三十七

 私は心配しいしい宿へ帰りました。兄さんは室へやの真ん中に蒼あおい顔をして寝ていました。私の姿を見ても口を利ききません、動きもしません。私は自然を尊たっとむ人を、自然のままにしておく方針を取りました。私は静かに兄さんの枕元で一服しました。それから気持の悪い汗を流すために手拭てぬぐいを持って風呂場へ行きました。私が湯槽ゆおけの縁ふちに立って身体からだを清めていると、兄さんが後あとからやって来ました。二人はその時始めて物を云い合いました。私は「疲れたろう」と聞きました。兄さんは「疲れた」と答えました。
 午ひるの膳ぜんに向う頃から兄さんの機嫌きげんはだんだん回復して来ました。私はついに兄さんに向って、先刻さっき山途やまみちで二人の間に起った芝居がかりの動作に云い及びました。兄さんは始めのうちは苦笑していました。しかししまいには居住居いずまいを直して真面目まじめになりました。そうして実際孤独の感に堪たえないのだと云い張りました。私はその時始めて兄さんの口から、彼がただに社会に立ってのみならず、家庭にあっても一様に孤独であるという痛ましい自白を聞かされました。兄さんは親しい私に対して疑念を持っている以上に、その家庭の誰彼を疑うたぐっているようでした。兄さんの眼には御父さんも御母さんも偽いつわりの器うつわなのです。細君はことにそう見えるらしいのです。兄さんはその細君の頭にこの間手を加えたと云いました。
0512Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/26(水) 14:31:21.060
「一度打ぶっても落ちついている。二度打っても落ちついている。三度目には抵抗するだろうと思ったが、やっぱり逆さからわない。僕が打てば打つほど向むこうはレデーらしくなる。そのために僕はますます無頼漢ごろつき扱いにされなくてはすまなくなる。僕は自分の人格の堕落を証明するために、怒いかりを小羊の上に洩もらすと同じ事だ。夫の怒いかりを利用して、自分の優越に誇ろうとする相手は残酷じゃないか。君、女は腕力に訴える男より遥はるかに残酷なものだよ。僕はなぜ女が僕に打ぶたれた時、起たって抵抗してくれなかったと思う。抵抗しないでも好いから、なぜ一言ひとことでも云い争ってくれなかったと思う」
 こういう兄さんの顔は苦痛に充みちていました。
不思議な事に兄さんはこれほど鮮明に自分が細君に対する
不快な動作を話しておきながら、
その動作をあえてするに至った原因については、
具体的にほとんど何事も語らないのです。
兄さんはただ自分の周囲が偽で成立していると云います。
しかもその偽を私の眼の前で組み立てて見せようとはしません。
私は何でこの空漠くうばくな響をもつ偽という字のために、
兄さんがそれほど興奮するかを不審がりました。兄さんは私が偽という言葉を字引で知っているだけだから、そんな迂濶うかつな不審を起すのだと云って、実際に遠い私を窘たしなめました。兄さんから見れば、私は実際に遠い人間なのです。私は強しいて兄さんから偽の内容を聞こうともしませんでした。したがって兄さんの家庭にはどんな面倒な事情が縺もつれ合っているか、私にはとんと解りません。好んで聞くべき筋でもなし、また聞いておかないでも、家庭の一員たるあなたには報道の必要のない事と思いましたから、そのままにしてすましました。ただ御参考までに一言いちごん注意しておきますが、兄さんはその時御両親や奥さんについて、抽象的ながら云々うんぬんされたにかかわらず、あなたに関しては、二郎という名前さえ口にされませんでした。それからお重さんとかいう妹さんの事についても何にも云われませんでした。
0513Ms.名無しさん
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2022/01/26(水) 14:31:33.240
        三十八

 私が兄さんにマラルメの話をしたのは修善寺しゅぜんじを立って小田原へ来た晩の事です。専門の違うあなただから、あるいは失礼にもなるまいと思って書き添えますが、マラルメと云うのは有名な仏蘭西フランスの詩人の名前です。こういう私も実はその名前だけしか知らないのです。だから話と云ったところで作物さくぶつの批評などではありません。東京を立つ前に、取りつけの外国雑誌の封を切って、ちょっと眼を通したら、そのうちにこの詩人の逸話があったのを、面白いと思って覚えていたので、私はついそれを挙げて、兄さんの反省を促うながして見たくなったのです。
 このマラルメと云う人にも多くの若い崇拝者がありました。その人達はよく彼の家に集まって、彼の談話に耳を傾ける宵よいを更ふかしたのですが、いかに多くの人が押しかけても、彼の坐すわるべき場所は必ず暖炉だんろの傍そばで、彼の腰をおろすのは必ず一箇の揺椅ゆりいすときまっていました。これは長い習慣で定さだめられた規則のように、誰も犯すものがなかったという事です。ところがある晩新しい客が来ました。たしか英吉利イギリスのシモンズだったという話ですが、その客は今日こんにちまでの習慣をまるで知らないので、どの席もどの椅子いすも同じ価あたいと心得たのでしょう、当然マラルメの坐るべきかの特別の椅子へ腰をかけてしまいました。マラルメは不安になりました。いつものように話に実みが入りませんでした。一座は白けました。
0514Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/26(水) 14:31:47.360
「何という窮屈な事だろう」
 私はマラルメの話をした後あとで、こういう一句の断案を下しました。そうして兄さんに向って、「君の窮屈な程度はマラルメよりも烈はげしい」と云いました。
 兄さんは鋭敏な人です。美的にも倫理的にも、智的にも鋭敏過ぎて、つまり自分を苦しめに生れて来たような結果に陥おちいっています。兄さんには甲でも乙でも構わないという鈍どんなところがありません。必ず甲か乙かのどっちかでなくては承知できないのです。しかもその甲なら甲の形なり程度なり色合いろあいなりが、ぴたりと兄さんの思う坪に嵌はまらなければ肯うけがわないのです。兄さんは自分が鋭敏なだけに、自分のこうと思った針金のように際きわどい線の上を渡って生活の歩ほを進めて行きます。その代り相手も同じ際どい針金の上を、踏み外はずさずに進んで来てくれなければ我慢しないのです。しかしこれが兄さんのわがままから来ると思うと間違いです。兄さんの予期通りに兄さんに向って働きかける世の中を想像して見ると、それは今の世の中より遥はるかに進んだものでなければなりません。したがって兄さんは美的にも智的にも乃至ないし倫理的にも自分ほど進んでいない世の中を忌いむのです。だからただのわがままとは違うでしょう。椅子を失って不安になったマラルメの窮屈ではありますまい。
0515Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/26(水) 14:31:57.660
 しかし苦しいのはあるいはそれ以上かも知れません。私はどうかしてその苦くるしみから兄さんを救い出したいと念じているのです。兄さんも自分でその苦しみに堪たえ切れないで、水に溺おぼれかかった人のように、ひたすら藻掻もがいているのです。私には心のなかのその争いがよく見えます。しかし天賦てんぷの能力と教養の工夫とでようやく鋭くなった兄さんの眼を、ただ落ちつきを与える目的のために、再び昧くらくしなければならないという事が、人生の上においてどんな意義になるでしょうか。よし意義があるにしたところで、人間としてできうる仕事でしょうか。
 私はよく知っていました。考えて考えて考え抜いた兄さんの頭には、血と涙で書かれた宗教の二字が、最後の手段として、躍おどり叫んでいる事を知っていました。
0516Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/26(水) 14:32:09.110
       三十九

「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」
 兄さんははたしてこう云い出しました。その時兄さんの顔は、むしろ絶望の谷に赴おもむく人のように見えました。
0517Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/26(水) 14:32:18.790
「しかし宗教にはどうも這入はいれそうもない。死ぬのも未練に食いとめられそうだ。なればまあ気違だな。しかし未来の僕はさておいて、現在の僕は君正気しょうきなんだろうかな。もうすでにどうかなっているんじゃないかしら。僕は怖こわくてたまらない」
 兄さんは立って縁側えんがわへ出ました。そこから見える海を手摺てすりに倚よってしばらく眺めていました。それから室へやの前を二三度行ったり来たりした後あと、また元の所へ帰って来ました。
0518Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/26(水) 14:32:28.490
「椅子ぐらい失って心の平和を乱されるマラルメは幸いなものだ。僕はもうたいていなものを失っている。わずかに自己の所有として残っているこの肉体さえ、(この手や足さえ、)遠慮なく僕を裏切るくらいだから」
 兄さんのこの言葉は、好い加減な形容ではないのです。昔から内省の力に勝っていた兄さんは、あまり考えた結果として、今はこの力の威圧に苦しみ出しているのです。兄さんは自分の心がどんな状態にあろうとも、一応それを振り返って吟味した上でないと、けっして前へ進めなくなっています。だから兄さんの命の流れは、刹那せつな刹那にぽつぽつと中断されるのです。食事中一分ごとに電話口へ呼び出されるのと同じ事で、苦しいに違ちがいありません。しかし中断するのも兄さんの心なら、中断されるのも兄さんの心ですから、兄さんはつまるところ二つの心に支配されていて、その二つの心が嫁よめと姑しゅうとのように朝から晩まで責めたり、責められたりしているために、寸時の安心も得られないのです。
0519Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/26(水) 14:32:57.060
 私は兄さんの話を聞いて、始めて何も考えていない人の顔が一番気高けだかいと云った兄さんの心を理解する事ができました。兄さんがこの判断に到着したのは、全く考えた御蔭おかげです。しかし考えた御蔭でこの境界きょうがいには這入れないのです。兄さんは幸福になりたいと思って、ただ幸福の研究ばかりしたのです。ところがいくら研究を積んでも、幸福は依然として対岸にあったのです。
 私はとうとう兄さんの前に神という言葉を持ち出しました。
そうして意外にも突然兄さんから頭を打たれました。
しかしこれは小田原で起った最後の幕です。頭を打たれる前にまだ
一節いっせつありますから、まずそれから御報知しようと思います。
しかし前にも申した通り、あなたと私とはまるで専門が違いますので、私の筆にする事が、時によると変に物識ものしりめいた余計よけいな云いい草ぐさのように、あなたの眼に映るかも知れません。それであなたに関係のない片仮名などを入れる時は、なおさら躊躇ちゅうちょしがちになりますが、これでも必要と認めない限り、なるべくそんな性質たちの文字は、省はぶいているのですから、あなたもそのつもりで虚心に読んで下さい。少しでもあなたの心に軽薄という疑念が起るようでは、せっかく書いて上げたものが、前後を通じて、
何の役にも立たなくなる恐れがありますから。
0520Ms.名無しさん
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2022/01/26(水) 14:33:07.370
 私がまだ学校にいた時分、モハメッドについて伝えられた下しものような物語を、何かの書物で読んだ事があります。モハメッドは向うに見える大きな山を、自分の足元へ呼び寄せて見せるというのだそうです。それを見たいものは何月何日を期してどこへ集まれというのだそうです。
0521Ms.名無しさん
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2022/01/26(水) 15:43:56.230
首都高速道路は2021年12月10日、通行料金を2022年4月1日に改定すると発表
上限料金を見直し、現在の1320円(ETC普通車、以下同じ)から1950円に値上げします
0523Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/26(水) 15:55:47.300
【米CDC】入院患者のうち集中治療室に収容された患者の割合、
デルタ18%、オミクロン13%、死亡、デルタ12%、オミクロン7%
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1643178125/
0524Ms.名無しさん
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2022/01/27(木) 07:39:52.570
パウエルFRB議長
3月以降全ての会合で利上げを行う可能性、否定せず

POWELL DOESN'T RULE OUT RAISING RATES AT EVERY FOMC MEETING
0525Ms.名無しさん
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2022/01/27(木) 11:01:31.390
ドイツ政府は26日、ロシアとの緊張が高まるウクライナに対し、
軍用ヘルメット5000個を供与すると発表した。
ただ、ドイツ製の軍艦などの提供を求めてきたウクライナ側からは、
「言葉を失った」(クリチコ・キエフ市長)などと失望の声が出ている。
0528Ms.名無しさん
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2022/01/27(木) 18:35:28.080
東京都で新たに1万6538人感染 3日連続で過去最多更新 先週木曜日(8638人)の約2倍 新型コロナ
0532Ms.名無しさん
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2022/01/28(金) 09:37:40.560
コロナ飲み薬、欧州で初承認。治験での死者ゼロ、偽薬での死者9人。有効性確認済み。 [896590257]
コロナ飲み薬、欧州で初承認 ファイザー製
飲み薬は病院ではなく自宅で服用できるため、コロナ禍の終息に向けて大きな一歩となる可能性があるとみられている。
EMAは、「酸素を必要とせず、重症化リスクの高い成人」に対する使用の承認を勧告。今後、欧州委員会の正式承認が必要となるが、これは形式的な手続きで、通常は同日中または数日以内に行われる。
EMAによると、症状が出てから5日以内にパクスロビドを投与された患者1039人のうち、1か月以内に入院したのはわずか0.8%。
偽薬を投与されたグループの入院率は6.3%だった。パクスロビドを投与されたグループでは死亡者はいなかったが、偽薬グループでは9人が死亡した。
www.afpbb.com/articles/-/3387329
0533Ms.名無しさん
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2022/01/28(金) 10:46:02.570
        四十

 期日になって幾多の群衆が彼の周囲を取巻いた時、モハメッドは約束通り大きな声を出して、向うの山にこっちへ来いと命令しました。ところが山は少しも動き出しません。モハメッドは澄ましたもので、また同じ号令をかけました。それでも山は依然としてじっとしていました。モハメッドはとうとう三度号令を繰返くりかえさなければならなくなりました。しかし三度云っても、動く気色けしきの見えない山を眺めた時、彼は群衆に向って云いました。――「約束通り自分は山を呼び寄せた。しかし山の方では来たくないようである。山が来てくれない以上は、自分が行くよりほかに仕方があるまい」。彼はそう云って、すたすた山の方へ歩いて行ったそうです。
 この話を読んだ当時の私はまだ若うございました。私はいい滑稽こっけいの材料を得たつもりで、それを方々へ持って廻りました。するとそのうちに一人の先輩がありました。みんなが笑うのに、その先輩だけは「ああ結構な話だ。宗教の本義はそこにある。それで尽つくしている」と云いました。私は解らぬながらも、その言葉に耳を傾けました。私が小田原で兄さんに同じ話を繰返したのは、それから何年目になりますか、話は同じ話でも、もう滑稽こっけいのためではなかったのです。
0534Ms.名無しさん
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2022/01/28(金) 10:46:10.130
「なぜ山の方へ歩いて行かない」
 私が兄さんにこう云っても、兄さんは黙っています。私は兄さんに私の主意が徹しないのを恐れて、つけ足たしました。
0535Ms.名無しさん
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2022/01/28(金) 10:46:18.920
「君は山を呼び寄せる男だ。呼び寄せて来ないと怒る男だ。地団太じだんだを踏んで口惜くやしがる男だ。そうして山を悪く批判する事だけを考える男だ。なぜ山の方へ歩いて行かない」
「もし向うがこっちへ来るべき義務があったらどうだ」と兄さんが云います。
0536Ms.名無しさん
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2022/01/28(金) 10:46:27.450
「向うに義務があろうとあるまいと、こっちに必要があればこっちで行くだけの事だ」と私が答えます。
「義務のないところに必要のあるはずがない」と兄さんが主張します。
0537Ms.名無しさん
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2022/01/28(金) 10:46:36.590
「じゃ幸福のために行くさ。必要のために行きたくないなら」と私がまた答えます。
 兄さんはこれでまた黙りました。私のいう意味はよく兄さんに解っているのです。けれども是非、善悪、美醜の区別において、自分の今日こんにちまでに養い上げた高い標準を、生活の中心としなければ生きていられない兄さんは、さらりとそれを擲なげうって、幸福を求める気になれないのです。むしろそれにぶら下さがりながら、幸福を得ようと焦燥あせるのです。そうしてその矛盾も兄さんにはよく呑のみ込めているのです。
0538Ms.名無しさん
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2022/01/28(金) 10:46:44.480
「自分を生活の心棒しんぼうと思わないで、綺麗きれいに投げ出したら、もっと楽らくになれるよ」と私がまた兄さんに云いました。
「じゃ何を心棒にして生きて行くんだ」と兄さんが聞きました。
0539Ms.名無しさん
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2022/01/28(金) 10:46:52.330
「神さ」と私が答えました。
「神とは何だ」と兄さんがまた聞きました。
0540Ms.名無しさん
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2022/01/28(金) 10:47:00.460
 私はここでちょっと自白しなければなりません。私と兄さんとこう問答をしているところを御読みになるあなたには、私がさも宗教家らしく映ずるかも知れませんが、――私がどうかして兄さんを信仰の道に引き入れようと力つとめているように見えるかも知れませんが、実を云うと、私は耶蘇ヤソにもモハメッドにも縁のない、平凡なただの人間に過ぎないのです。宗教というものをそれほど必要とも思わないで、漫然と育った自然の野人なのです。話がとかくそちらへ向くのは、全く相手に兄さんという烈はげしい煩悶家はんもんかを控えているためだったのです。
0541Ms.名無しさん
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2022/01/28(金) 10:47:09.350
        四十一

 私が兄さんにやられた原因も全くそこにあったのです。事実私は神というものを知らない癖に、神という言葉を口にしました。兄さんから反問された時に、それは天とか命めいとかいう意味と同じものだと漠然ばくぜん答えておいたら、まだよかったかも知れません。ところが前後の行きがかり上、私にはそんな説明の余裕がなくなりました。その時の問答はたしか下しものような順序で進行したかと思います。
私「世の中の事が自分の思うようにばかりならない以上、そこに自分以外の意志が働いているという事実を認めなくてはなるまい」
0542Ms.名無しさん
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2022/01/28(金) 10:47:19.200
「認めている」
私「そうしてその意志は君のよりも遥はるかに偉大じゃないか」
0543Ms.名無しさん
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2022/01/28(金) 10:47:27.890
「偉大かも知れない、僕が負けるんだから。けれども大概は僕のよりも不善ふぜんで不美ふびで不真ふしんだ。僕は彼らに負かされる訳がないのに負かされる。だから腹が立つのだ」
私「それは御互おたがいに弱い人間同志の競合せりあいを云うんだろう。僕のはそうじゃない、もっと大きなものを指さすのだ」
0544Ms.名無しさん
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2022/01/28(金) 10:47:35.120
「そんな瞹眛あいまいなものがどこにある」
私「なければ君を救う事ができないだけの話だ」
0545Ms.名無しさん
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2022/01/28(金) 10:47:47.000
「じゃしばらくあると仮定して……」
私「万事そっちへ委任してしまうのさ。何分宜よろしく御頼み申しますって。君、俥くるまに乗ったら、落おっことさないように車夫くるまやが引いてくれるだろうと安心して、俥の上で寝る事はできないか」
0546Ms.名無しさん
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2022/01/28(金) 10:47:54.510
「僕は車夫ほど信用できる神を知らないのだ。君だってそうだろう。君のいう事は、全く僕のために拵こしらえた説教で、君自身に実行する経典じゃないのだろう」
私「そうじゃない」
0547Ms.名無しさん
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2022/01/28(金) 10:48:03.510
「じゃ君は全く我がを投げ出しているね」
私「まあそうだ」
0548Ms.名無しさん
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2022/01/28(金) 10:48:11.440
「死のうが生きようが、神の方で好いように取計ってくれると思って安心しているね」
私「まあそうだ」
0549Ms.名無しさん
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2022/01/28(金) 10:48:21.250
 私は兄さんからこう詰寄せられた時、だんだん危あやしくなって来るような気がしました。けれども前後の勢いが自分を支配している最中さいちゅうなので、またどうする訳にも行きません。すると兄さんが突然手を挙あげて、私の横面よこつらをぴしゃりと打ちました。
 私は御承知の通りよほど神経の鈍にぶくできた性質たちです。御蔭おかげで今日こんにちまで余り人と争った事もなく、また人を怒らした試ためしも知らずに過ぎました。私の鈍のろいせいでもあったでしょうが、子供の時ですら親に打たれた覚えはありません。成人しては無論の事です。生れて始めて手を顔に加えられた私はその時われ知らずむっとしました。
0550Ms.名無しさん
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2022/01/28(金) 10:48:29.620
「何をするんだ」
「それ見ろ」
0551Ms.名無しさん
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2022/01/28(金) 10:48:37.230
 私にはこの「それ見ろ」が解らなかったのです。
「乱暴じゃないか」と私が云いました。
0552Ms.名無しさん
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2022/01/28(金) 10:48:46.360
「それ見ろ。少しも神に信頼していないじゃないか。やっぱり怒るじゃないか。ちょっとした事で気分の平均を失うじゃないか。落ちつきが顛覆てんぷくするじゃないか」
 私は何とも答えませんでした。また何とも答えられませんでした。そのうちに兄さんはつと座を立ちました。私の耳にはどんどん階子段はしごだんを馳かけ下りて行く兄さんの足音だけが残りました。
0553Ms.名無しさん
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2022/01/28(金) 13:04:35.110
新興市場はリーマン・ショック超える惨状に
冷淡「岸田ショック」に怨嗟の声、悲鳴に耳は傾けないのか

日経平均株価が841円安を記録した27日の東京株式市場。
東証1部の株式時価総額は昨年9月のピークから100兆円近く吹っ飛んだ。
個人投資家中心の新興市場は2008年のリーマン・ショックを超える惨状だ。
株式市場に冷淡な岸田文雄政権の取り組みを問題視する市場関係者も多く、
「岸田ショック」に怨嗟(えんさ)の声が上がる。
0555Ms.名無しさん
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2022/01/29(土) 04:51:37.010
[ワシントン 1月28日 ロイター] -
ウクライナとの国境付近で軍を増強させているロシアが、戦闘で負傷者が出た場合に備え、
輸血用の血液を含む医療物資を国境沿いに移動させたことが、複数の米当局者の話で分かった。
ロシアが侵攻の準備を進めていることを示す重要な動きとして警戒されている。
匿名を条件にロイターに情報を提供した3人の米当局者のうち2人によると、
輸血用血液がウクライナとの国境沿いに運ばれたのはここ数週間のことだった。
0559Ms.名無しさん
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2022/01/29(土) 15:35:03.760
【医学】大麻草に脳の老化を防ぐ化合物があることを発見 米ソーク研究所
米ソーク研究所は、大麻に微量にみられるカンナビノール (CBN)がアルツハイマー病の2大兆候とされる酸化ストレスや死滅から神経を守ることを発見した。
jp.sputniknews.com/20220128/10046074.html
0561Ms.名無しさん
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2022/01/29(土) 15:59:43.360
        四十二

 私は下女を呼んで伴つれの御客さんはどうしたと聞いて見ました。
「今しがた表へ御出になりました。おおかた浜でしょう」
0563Ms.名無しさん
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2022/01/29(土) 16:00:33.420
下女の返事が私の想像と一致したので、私はそれ以上の掛念けねんを省はぶいて、ごろりとそこに横になりました。すると衣桁いこうの端はじにかかっている兄さんの夏帽子がすぐ眼に着きました。兄さんはこの暑いのに帽子も被かぶらずにどこかへ飛び出して行ったのです。あなたのように、兄さんの一挙一動を心配する人から見たら、仰向あおむけに寝そべったその時の私の姿は、少し呑気のんき過ぎたかも知れません。これは固もとより私の鈍のろい神経の仕業しわざに違ないのです。けれどもただ鈍いだけで説明する以外に、もう少し御参考になる点も交っているようですから、それをちょっと申上げます。
 私は兄さんの頭を信じていました。私よりも鋭敏な兄さんの理解力に尊敬を払っていました。兄さんは時々普通の人に解らないような事を出し抜けに云います。それが知らないものの耳や、教育の乏しい男の耳には、どこかに破目われめの入った鐘の音ねとして、変に響くでしょうけれども、よく兄さんを心得た私には、かえって習慣的な言説よりはありがたかったのです。私は平生からそこに兄さんの特色を認めていました。だから心配の必要はないと、あれほど強くあなたに断言して憚はばからなかったのです。それでいっしょに旅に出ました。旅へ出てからの兄さんは今まで私が叙述して来た通りですが、私はこの旅行先の兄さんのために、少しずつ故もとの考えを訂正しなければならないようになって来たのです。
0564Ms.名無しさん
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2022/01/29(土) 16:00:41.990
 私は兄さんの頭が、私より判然はっきりと整ととのっている事について、今でも少しの疑いを挟さしはさむ余地はないと思います。しかし人間としての今の兄さんは、故もとに較くらべると、どこか乱れているようです。そうしてその乱れる原因を考えて見ると、判然はっきりと整った彼の頭の働きそのものから来ているのです。私から云えば、整った頭には敬意を表したいし、また乱れた心には疑いをおきたいのですが、兄さんから見れば、整った頭、取りも直さず乱れた心なのです。私はそれで迷います。頭は確たしかである、しかし気はことによると少し変かも知れない。信用はできる、しかし信用はできない。こう云ったらあなたはそれを満足な報道として受け取られるでしょうか。それよりほかに云いようのない私は、自分自身ですでに困ってしまったのです。
 私は梯子段はしごだんをどんどん馳かけ下りて行った兄さんをそのままにして、ごろりと横になりました。私はそれほど安心していたのです。帽子も被らずに出て行ったくらいだから、すぐ帰るにきまっていると考えたのです。しかし兄さんは予想通りそう手軽くは戻りませんでした。すると私もついに大の字になっていられなくなりました。私はしまいに明らかな不安を抱いて起たち上りました。
0565Ms.名無しさん
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2022/01/29(土) 16:00:51.120
 浜へ出ると、日はいつか雲に隠れていました。薄どんよりと曇り掛けた空と、その下にある磯いそと海が、同じ灰色を浴びて、物憂ものうく見える中を、妙に生温なまぬるい風が磯臭いそくさく吹いて来ました。私はその灰色を彩いろどる一点として、向うの波打際なみうちぎわに蹲踞しゃがんでいる兄さんの姿を、白く認めました。私は黙ってその方角へ歩いて行きました。私は後うしろから声をかけた時、兄さんはすぐ立ち上って「先刻さっきは失敬した」と云いました。
 兄さんは目的あてもなくまたとめどもなくそこいらを歩いたあげく、しまいに疲れたなりで疲れた場所に蹲踞んでしまったのだそうです。
0566Ms.名無しさん
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2022/01/29(土) 16:01:01.600
「山に行こう。もうここは厭いやになった。山に行こう」
 兄さんは今にも山へ行きたい風でした。
0567Ms.名無しさん
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2022/01/29(土) 16:01:09.240
        四十三

 我々はその晩とうとう山へ行く事になりました。山と云っても小田原からすぐ行かれる所は箱根のほかにありません。私はこの通俗な温泉場へ、最も通俗でない兄さんを連れ込んだのです。兄さんは始めから、きっと騒々しいに違ないと云っていました。それでも山だから二三日は我慢できるだろうと云うのです。
「我慢しに温泉場へ行くなんてもったいない話だ」
0568Ms.名無しさん
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2022/01/29(土) 16:01:18.490
 これもその時兄さんの口から出た自嘲じちょうの言葉でした。はたして兄さんは着いた晩からして、やかましい隣室の客を我慢しなければならなくなりました。この客は東京のものか横浜のものか解りませんが、何でも言葉の使いようから判断すると、商人とか請負師うけおいしとか仲買なかがいとかいう部に属する種類の人間らしく思われました。時々不調和に大きな声を出します。傍若無人ぼうじゃくぶじんに騒ぎます。そういう事にあまり頓着とんじゃくのない私さえずいぶん辟易へきえきしました。御蔭おかげでその晩は兄さんも私もちっともむずかしい話をしずに寝てしまいました。つまり隣りの男が我々の思索を破壊するために騒いだ事に当るのです。
 翌あくる朝あさ私が兄さんに向って、「昨夜ゆうべは寝られたか」と聞きますと、兄さんは首を掉ふって、「寝られるどころか。君は実に羨うらやましい」と答えました。私はどうしても寝つかれない兄さんの耳に、さかんな鼾声いびきを終宵よもすがら聞かせたのだそうです。
0569Ms.名無しさん
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2022/01/29(土) 16:01:29.360
 その日は夜明から小雨こさめが降っていました。それが十時頃になると本降ほんぶりに変りました。午ひる少し過には、多少の暴模様あれもようさえ見えて来ました。すると兄さんは突然立ち上って尻しりを端折はしおります。これから山の中を歩くのだと云います。凄すさまじい雨に打たれて、谷崖たにがけの容赦ようしゃなくむやみに運動するのだと主張します。御苦労千万だとは思いましたが、兄さんを思い留らせるよりも、私が兄さんに賛成した方が、手数てかずが省けますので、つい「よかろう」と云って、私も尻を端折りました。
 兄さんはすぐ呼息いきの塞つまるような風に向って突進しました。水の音だか、空の音だか、何ともかとも喩たとえられない響の中を、地面から跳はね上る護謨球ゴムだまのような勢いで、ぽんぽん飛ぶのです。そうして血管の破裂するほど大きな声を出して、ただわあっと叫びます。その勢いは昨夜の隣室の客より何層倍猛烈だか分りません。声だって彼よりも遥はるかに野獣らしいのです。しかもその原始的な叫びは、口を出るや否や、すぐ風に攫さらって行かれます。それをまた雨が追いかけて砕き尽します。兄さんはしばらくして沈黙に帰りました。けれどもまだ歩き廻りました。呼息いきが切れて仕方なくなるまで歩き廻りました。
0570Ms.名無しさん
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2022/01/29(土) 16:01:37.780
 我々が濡ぬれ鼠ねずみのようになって宿へ帰ったのは、出てから一時間目でしたろうか、また二時間目にかかりましたろうか。私は臍へその底そこまで冷えました。兄さんは唇くちびるの色を変えていました。湯に這入はいって暖まった時、兄さんはしきりに「痛快だ」と云いました。自然に敵意がないから、いくら征服されても痛快なんでしょう。私はただ「御苦労な事だ」と云って、風呂のなかで心持よく足を伸ばしました。
 その晩は予期に反して、隣の室へやがひっそりと静まっていました。下女に聞いて見ると、兄さんを悩ました昨夕ゆうべの客は、いつの間にかもう立ってしまったのでした。私が兄さんから思いがけない宗教観を聞かされたのはその宵よいの事です。私はちょっと驚きました。
0571Ms.名無しさん
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2022/01/29(土) 16:01:47.190
        四十四

 あなたも現代の青年だから宗教という古めかしい言葉に対してあまり同情は持っていられないでしょう。私も小こむずかしい事はなるべく言わずにすましたいのです。けれども兄さんを理解するためには、ぜひともそこへ触れて来なければなりません。あなたには興味もなかろうし、また意外でもあろうけれども、それを遠慮する以上、肝腎かんじんの兄さんが不可解になるだけだから、辛抱してここのところをとばさずに読んで下さい。辛抱さえなされば、あなたにはよく解る事なんです。読んでそうして善よく兄さんを呑のみ込んだ上、御老人方の合点がてんのゆかれるように御宅へ紹介して上げて下さい。私は兄さんについて過度の心労をされる御年寄に対して実際御気の毒に思っています。しかし今のところあなたを通してよりほかに、ありのままの兄さんを、兄さんの家庭に知らせる手段はないのだから、あなたも少し真面目まじめになって、聞き慣れない字面じづらに眼を御注おそそぎなさい。私は酔興すいきょうでむずかしい事を書くのではありません。むずかしい事が活きた兄さんの一部分なのだから仕方がないのです。二つを引き離すと血や肉からできた兄さんもまた存在しなくなるのです。
 兄さんは神でも仏ほとけでも何でも自分以外に権威のあるものを建立こんりゅうするのが嫌きらいなのです。(この建立という言葉も兄さんの使ったままを、私が踏襲とうしゅうするのです)。それではニイチェのような自我を主張するのかというとそうでもないのです。
0572Ms.名無しさん
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2022/01/29(土) 16:01:59.760
「神は自己だ」と兄さんが云います。兄さんがこう強い断案を下す調子を、知らない人が蔭かげで聞いていると、少し変だと思うかも知れません。兄さんは変だと思われても仕方のないような激した云い方をします。
「じゃ自分が絶対だと主張すると同じ事じゃないか」と私が非難します。兄さんは動きません。
0573Ms.名無しさん
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2022/01/29(土) 16:02:20.290
「僕は絶対だ」と云います。
 こういう問答を重かさねれば重ねるほど、兄さんの調子はますます変になって来ます。調子ばかりではありません、云う事もしだいに尋常を外はずれて来ます。相手がもし私のようなものでなかったならば、兄さんは最後まで行かないうちに、純粋な気違として早く葬られ去ったに違ありません。しかし私はそう容易たやすく彼を見棄みすてるほどに、兄さんを軽んじてはいませんでした。私はとうとう兄さんを底まで押しつめました。
0574Ms.名無しさん
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2022/01/29(土) 16:02:30.190
 兄さんの絶対というのは、哲学者の頭から割り出された空むなしい紙の上の数字ではなかったのです。自分でその境地きょうちに入って親しく経験する事のできる判切はっきりした心理的のものだったのです。
 兄さんは純粋に心の落ちつきを得た人は、求めないでも自然にこの境地に入れるべきだと云います。一度ひとたびこの境界きょうがいに入れば天地も万有も、すべての対象というものがことごとくなくなって、ただ自分だけが存在するのだと云います。そうしてその時の自分は有るとも無いとも片のつかないものだと云います。偉大なようなまた微細なようなものだと云います。何とも名のつけようのないものだと云います。すなわち絶対だと云います。そうしてその絶対を経験している人が、俄然がぜんとして半鐘はんしょうの音を聞くとすると、その半鐘の音はすなわち自分だというのです。言葉を換えて同じ意味を表わすと、絶対即相対になるのだというのです、したがって自分以外に物を置き他ひとを作って、苦しむ必要がなくなるし、また苦しめられる掛念けねんも起らないのだと云うのです。
0575Ms.名無しさん
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2022/01/29(土) 16:02:38.420
「根本義こんぽんぎは死んでも生きても同じ事にならなければ、どうしても安心は得られない。すべからく現代を超越すべしといった才人はとにかく、僕は是非共生死しょうじを超越しなければ駄目だと思う」
 兄さんはほとんど歯を喰いしばる勢いきおいでこう言明しました。
0576Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/29(土) 16:02:49.720
        四十五

 私はこの場合にも自分の頭が兄さんに及ばないという事を自白しなければなりません。私は人間として、はたして兄さんのいうような境界に達せられべきものかをまだ考えていなかったのです。明瞭めいりょうな順序で自然そこに帰着きちゃくして行く兄さんの話を聞いた時、なるほどそんなものかと思いました。またそんなものでも無かろうかとも思いました。何しろ私はとかくの是非を挟さしはさむだけの資格をもっていない人間に過ぎませんでした。私は黙々として熱烈な言葉の前に坐すわりました。すると兄さんの態度が変りました。私の沈黙が鋭い兄さんの鉾先ほこさきを鈍にぶらせた例は、今までにも何遍かありました。そうしてそれがことごとく偶然から来ているのです。もっとも兄さんのような聡明そうめいな人に、一種の思わくから黙って見せるという技巧ぎこうを弄ろうしたら、すぐ観破かんぱされるにきまっていますから、私の鈍のろいのも時には一得いっとくになったのでしょう。
「君、僕を単に口舌こうぜつの人と軽蔑けいべつしてくれるな」と云った兄さんは、急に私の前に手を突きました。私は挨拶あいさつに窮しました。
0577Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/29(土) 16:03:01.240
「君のような重厚ちょうこうな人間から見たら僕はいかにも軽薄なお喋舌しゃべりに違ない。しかし僕はこれでも口で云う事を実行したがっているんだ。実行しなければならないと朝晩あさばん考え続けに考えているんだ。実行しなければ生きていられないとまで思いつめているんだ」
 私は依然として挨拶に困ったままでした。
0578Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/29(土) 16:03:12.070
「君、僕の考えを間違っていると思うか」と兄さんが聞きました。
「そうは思わない」と私が答えました。
0579Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/29(土) 16:03:21.900
「徹底していないと思うか」と兄さんがまた聞きました。
「根本的こんぽんてきのようだ」と私がまた答えました。
0580Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/29(土) 16:03:32.620
「しかしどうしたらこの研究的な僕が、実行的な僕に変化できるだろう。どうぞ教えてくれ」と兄さんが頼むのです。
「僕にそんな力があるものか」と、思いも寄らない私は断るのです。
0581Ms.名無しさん
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2022/01/29(土) 16:03:42.680
「いやある。君は実行的に生れた人だ。だから幸福なんだ。そう落ちついていられるんだ」と兄さんが繰り返すのです。
 兄さんは真剣のようでした。私はその時憮然ぶぜんとして兄さんに向いました。
0582Ms.名無しさん
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2022/01/29(土) 16:03:53.440
「君の智慧ちえは遥はるかに僕に優まさっている。僕にはとても君を救う事はできない。僕の力は僕より鈍のろいものになら、あるいは及ぼし得るかも知れない。しかし僕より聡明な君には全く無効である。要するに君は瘠やせて丈たけが長く生れた男で、僕は肥えてずんぐり育った人間なんだ。僕の真似をして肥ふとろうと思うなら、君は君の背丈せいを縮ちぢめるよりほかに途みちはないんだろう」
 兄さんは眼からぽろぽろ涙を出しました。
0583Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/29(土) 16:04:02.280
「僕は明かに絶対の境地を認めている。しかし僕の世界観が明かになればなるほど、絶対は僕と離れてしまう。要するに僕は図ずを披ひらいて地理を調査する人だったのだ。それでいて脚絆きゃはんを着けて山河さんかを跋渉ばっしょうする実地の人と、同じ経験をしようと焦慮あせり抜いているのだ。僕は迂濶うかつなのだ。僕は矛盾なのだ。しかし迂濶と知り矛盾と知りながら、依然としてもがいている。僕は馬鹿だ。人間としての君は遥に僕よりも偉大だ」
 兄さんはまた私の前に手を突きました。そうしてあたかも謝罪でもする時のように頭を下げました。涙がぽたりぽたりと兄さんの眼から落ちました。私は恐縮しました。
0584Ms.名無しさん
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2022/01/29(土) 16:04:16.480
        四十六

 箱根を出る時兄さんは「二度とこんな所は御免ごめんだ」と云いました。今まで通って来たうちで、兄さんの気に入った所はまだ一カ所もありません。兄さんは誰とどこへ行っても直すぐ厭いやになる人なのでしょう。それもそのはずです。兄さんには自分の身躯からだや自分の心からしてがすでに気に入っていないのですから。兄さんは自分の身躯や心が自分を裏切うらぎる曲者くせもののように云います。それが徒爾いたずら半分の出放題でほうだいでない事は、今日きょうまでいっしょに寝泊ねとまりの日数ひかずを重ねた私にはよく理解できます。その私からありのままの報知を受けるあなたにもとくと御合点ごがてんが行く事だろうと思います。
 こういう兄さんと、私がよくいっしょに旅ができると御思いになるかも知れません。私にも考えると、それが不思議なくらいです。兄さんを上かみに述べたように頭の中へ畳み込んだが最後、いかに遅鈍ちどんな私だって、御相手はでき悪にくい訳です。しかし事実私は今兄さんとこうして差向いで暮していながら、さほどに苦痛を感じてはいないのです。少くとも傍はたで想像するよりはよほど楽なのだろうと考えています。そうしてそれをなぜだと聞かれたら、ちょっと返答に差支さしつかえるのです。あなたも同じ兄さんについて同じ経験をなさりはしませんか。もし同じ経験をなさらないならば、骨肉を分けたあなたよりも、他人の私の方が、兄さんに親しい性質をもって生れて来たのでしょう。親しいというのは、ただ仲が好いと云う意味ではありません。和わして納おさまるべき特性をどこか相互に分担ぶんたんして前へ進めるというつもりなのです。
0587Ms.名無しさん
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2022/01/30(日) 09:46:00.210
 私は旅へ出てから絶えず兄さんの気に障さわるような事を云ったりしたりしました。ある時は頭さえ打ぶたれました。それでも私はあなたの家庭のすべての人の前に立って、私はまだ兄さんから愛想を尽かされていないという事を明言できると思います。同時に、一種の弱点を持ったこの兄さんを、私は今でも衷心ちゅうしんから敬愛していると固く信じて疑わないのであります。
 兄さんは私のような凡庸ぼんような者の前に、頭を下げて涙を流すほどの正しい人です。それをあえてするほどの勇気をもった人です。それをあえてするのが当然だと判断するだけの識見を具そなえた人です。兄さんの頭は明か過ぎて、ややともすると自分を置き去りにして先へ行きたがります。心の他ほかの道具が彼の理智と歩調を一つにして前へ進めないところに、兄さんの苦痛があるのです。人格から云えばそこに隙間すきまがあるのです。成功から云えばそこに破滅が潜ひそんでいるのです。この不調和を兄さんのために悲しみつつある私は、すべての原因をあまりに働き過ぎる彼の理智の罪に帰きしながら、やっぱり、その理智に対する敬意を失う事ができないのです。兄さんをただの気むずかしい人、ただのわがままな人とばかり解釈していては、いつまで経たっても兄さんに近寄る機会は来ないかも知れません。したがって少しでも兄さんの苦痛を柔やわらげる縁は、永劫えいごうに去ったものと見なければなりますまい。
0588Ms.名無しさん
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2022/01/30(日) 09:46:08.810
 我々は前ぜん申した通り箱根を立ちました。そうして直すぐにこの紅べにが谷やつの小別荘に入りました。私はその前ちょっと国府津こうづに泊って見るつもりで、暗あんに一人ひとりぎめのプログラムを立てていたのですが、とうとう兄さんにはそれを云い出さずにしまったのです。国府津でもまた「二度とこんな所は御免ごめんだ」と怒られそうでしたから。その上兄さんは私からこの別荘の話を聞いて、しきりにそこへ落ちつきたがっていたのです。
0589Ms.名無しさん
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2022/01/30(日) 09:46:16.900
        四十七

 何にでも刺戟しげきされやすい癖に、どんな刺戟にも堪たえ切れないと云った風の、今の兄さんには、草庵そうあんめいたこの別荘が最も適していたのかも知れません。兄さんは物静かな座敷から、谷一つ隔てて向うの崖がけの高い松を見上げた時、「好いな」と云ってそこへ腰をおろしました。
「あの松も君の所有だ」
0590Ms.名無しさん
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2022/01/30(日) 09:46:27.600
 私は慰めるような句調で、わざと兄さんの口吻こうふんを真似て見せました。修善寺ではとんと解らなかった「あの百合ゆりは僕の所有だ」とか、「あの山も谷も僕の所有だ」とか云った兄さんの言葉を想おもい出したからです。
 別荘には留守番るすばんの爺じいさんが一人いましたが、これは我々と出違でちがいに自分の宅うちへ帰りました。それでも拭掃除ふきそうじのためや水を汲むために朝夕あさゆう一度ぐらいずつは必ず来てくれます。男二人の事ですから、煮炊にたきは無論できません。我々は爺さんに頼んで近所の宿屋から三度三度食事を運んで貰う事にしました。夜は電灯の設備がありますから、洋灯ランプを点ともす手数てかずは要いらないのです。こういう訳で、朝起きてから夜寝るまでに、我々の是非やらなければならない事は、まあ床を延べて蚊帳かやを釣るくらいなものです。
0591Ms.名無しさん
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2022/01/30(日) 09:46:36.810
「自炊よりも気楽で閑静だね」と兄さんが云います。実際今まで通って来た山や海のうちで、ここが一番静しずかに違ないのです。兄さんと差向いで黙っていると、風の音さえ聞こえない事があります。多少やかましいと思うのは珊瑚樹さんごじゅの葉隠れにぎいぎい軋きしる隣の車井戸くるまいどの響ですが、兄さんは案外それには無頓着むとんじゃくです。兄さんはだんだん落ちついて来るようです。私はもっと早く兄さんをここへ連れて来れば好かったと思いました。
 庭先に少しばかりの畠はたけがあって、そこに茄子なすや唐とうもろこしが作ってあります。この茄子を※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)もいで食おうかと相談しましたが、漬物つけものに拵こしらえるのが面倒なので、ついやめにしました。唐もろこしはまだ食べられるほど実が入りません。勝手口の井戸の傍そばに、トマトーが植えてあります。それを朝、顔を洗うついでに、二人で食いました。
0592Ms.名無しさん
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2022/01/30(日) 09:46:46.660
 兄さんは暑い日盛ひざかりに、この庭だか畑だか分らない地面の上に下りて、じっと蹲踞しゃがんでいる事があります。時々かんなの花の香においを嗅かいで見たりします。かんなに香なんかありゃしません。凋しぼんだ月見草の花片はなびらを見つめている事もあります。着いた日などは左隣の長者ちょうじゃの別荘の境に生えている薄すすきの傍へ行って、長い間立っていました。私は座敷からその様子を眺めていましたが、いつまで経たっても兄さんが動かないので、しまいに縁先にある草履ぞうりをつっかけて、わざわざ傍へ行って見ました。隣と我々の住居すまいとの仕切になっているそこは、高さ一間ぐらいの土堤どてで、時節柄じせつがら一面の薄すすきが蔽おおい被かぶさっているのです。兄さんは近づいた私を顧みて、下の方にある薄の根を指さしました。
 薄の根には蟹かにが這はっていました。小さな蟹でした。親指の爪ぐらいの大きさしかありません。それが一匹ではないのです。しばらく見ているうちに、一匹が二匹になり、二匹が三匹になるのです。しまいにはあすこにもここにも蒼蠅うるさいほど眼に着き出します。
0593Ms.名無しさん
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2022/01/30(日) 09:46:55.470
「薄の葉を渡る奴やつがあるよ」
 兄さんはこんな観察をして、まだ動かずに立っています。私は兄さんをそこへ残してまたもとの席へ帰りました。
0594Ms.名無しさん
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2022/01/30(日) 09:47:03.240
 兄さんがこういう些細ささいな事に気を取られて、ほとんど我を忘れるのを見る私は、はなはだ愉快です。これでこそ兄さんを旅行に連れ出した甲斐かいがあると思うくらいです。その晩私はその意味を兄さんに話しました。
0595Ms.名無しさん
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2022/01/30(日) 09:47:12.750
        四十八

「先刻さっき君は蟹を所有していたじゃないか」
 私が兄さんに突然こう云いかけますと、兄さんは珍らしくあははと声を立てて愉快そうに笑いました。修善寺以後、私が時々所有という言葉を、妙な意味に使って見せるので、単にそれを滑稽こっけいと解釈している兄さんにはおかしく響くのでしょう。おかしがられるのは、怒られるよりもよっぽどましですが、事実私の方ではもっと真面目まじめなのでした。
0596Ms.名無しさん
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2022/01/30(日) 09:47:22.040
「絶対に所有していたのだろう」と私はすぐ云い直しました。今度は兄さんも笑いませんでした。しかしまだ何とも答えません。口を開くのはやはり私の番でした。
「君は絶対絶対と云って、この間むずかしい議論をしたが、何もそう面倒な無理をして、絶対なんかに這入はいる必要はないじゃないか。ああいう風に蟹に見惚みとれてさえいれば、少しも苦しくはあるまいがね。まず絶対を意識して、それからその絶対が相対に変る刹那せつなを捕とらえて、そこに二つの統一を見出すなんて、ずいぶん骨が折れるだろう。第一人間にできる事か何だかそれさえ判然しやしない」
0597Ms.名無しさん
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2022/01/30(日) 09:47:30.610
 兄さんはまだ私を遮さえぎろうとはしません。いつもよりはだいぶ落ちついているようでした。私は一歩先へ進みました。
「それより逆ぎゃくに行った方が便利じゃないか」
0598Ms.名無しさん
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2022/01/30(日) 09:47:40.060
「逆とは」
 こう聞き返す兄さんの眼には誠が輝いていました。
「つまり蟹に見惚れて、自分を忘れるのさ。自分と対象とがぴたりと合えば、君の云う通りになるじゃないか」
0599Ms.名無しさん
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2022/01/30(日) 09:47:48.170
「そうかな」
 兄さんは心元こころもとなさそうな返事をしました。
0600Ms.名無しさん
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2022/01/30(日) 09:47:55.560
「そうかなって、君は現に実行しているじゃないか」
「なるほど」
0601Ms.名無しさん
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2022/01/30(日) 09:49:26.450
 兄さんのこの言葉はやはり茫然ぼうぜんたるものでした。
私はこの時ふと自分が今まで余計な事を云っていたのに気がつきました。
実を云うと、私は絶対というものをまるで知らないのです。考えもしなかったのです。
想像もした覚おぼえがないのです。
ただ教育の御蔭おかげでそう云う言葉を使う事だけを知っていたのです。
けれども私は人間として兄さんよりも落ちついていました。
落ちついているという事が兄さんより偉いという
意味に聞こえては面目ないくらいなものですから、
私は兄さんより普通一般に近い心の状態をもっていたと云い直しましょう。
朋友ほうゆうとして私の兄さんに向って働きかける仕事は、
だからただ兄さんを私のような人並な立場に引き戻すだけなのです。
しかしそれを別な言葉で云って見ると非凡ひぼんなものを平凡へいぼんにする
という馬鹿気た意味にもなって来ます。もし兄さんの方で苦痛の訴えがないならば、
私のようなものが、何で兄さんにこんな問答を仕かけましょう。
兄さんは正直です。腑ふに落ちなければどこまでも問いつめて来ます。
問いつめて来られれば、私には解らなくなります。
それだけならまだしもですが、こういう批評的な談話を交換していると、
せっかく実行的になりかけた兄さんを、
またもとの研究的態度に戻してしまう恐れがあるのです。
私は何より先にそれを気遣きづかいました。私は天下にありとあらゆる芸術品、
高山大河こうざんたいが、もしくは美人、何でも構わないから、
兄さんの心を悉皆しっかい奪い尽して、
少しの研究的態度も萌きざし得ないほどなものを、兄さんに与えたいのです。
そうして約一年ばかり、寸時の間断なく、その全勢力の支配を受けさせたいのです。
兄さんのいわゆる物を所有するという言葉は、
必竟ひっきょう物に所有されるという意味ではありませんか。
だから絶対に物から所有される事、
すなわち絶対に物を所有する事になるのだろうと思います。
神を信じない兄さんは、そこに至って始めて世の中に落ちつけるのでしょう。
0602Ms.名無しさん
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2022/01/30(日) 09:50:07.950
       四十九

 一昨日おとといの晩は二人で浜を散歩しました。
私たちのいる所から海辺うみべまでは約三丁もあります。
細い道を通って、いったん街道へ出て、
またそれを横切らなければ海の色は見えないのです。
月の出にはまだ間がある時刻でした。波は存外暗く動いていました。
眼がなれるまでは、水と磯いそとの境目さかいめが判然はっきり分らないのです。
兄さんはその中を容赦なくずんずん歩いて行きます。
私は時々生温なまぬるい水に足下あしもとを襲われました。岸へ寄せる波の余りが、のし餅もちのように平たいらに拡ひろがって、思いのほか遠くまで押し上げて来るのです。私は後うしろから兄さんに、「下駄げたが濡ぬれやしないか」と聞きました。兄さんは命令でも下すように、「尻を端折はしおれ」と云いました。兄さんは先刻さっきから足を汚す覚悟で、尻を端折っていたものと見えます。二三間離れた私にはそれが分らないくらい四囲あたりが暗いのでした。けれども時節柄じせつがらなんでしょう、避暑地だけあって人に会います。そうして会う人も会う人も、必ず男女なんにょ二人連ふたりづれに限られていました。彼らは申し合せたように、黙って闇やみの中を辿たどって来ます。だから忽然こつぜん[#ルビの「こつぜん」は底本では「こつぜつ」]私たちの前へ現われるまでは、まるで気がつかないのです。彼らが摺すり抜けるように私たちの傍そばを通って行く時、眼を上げて物色ぶっしょくすると、どれもこれも若い男と若い女ばかりです。私はこういう一対いっついに何度か出合いました。
 私が兄さんからお貞さんという人の話を聞いたのはその時の事でした。
お貞さんは近頃大阪の方へ御嫁に行ったんだそうですから、
兄さんはその宵よいに出逢であった幾組かの若い男や女から、
お貞さんの花嫁姿を連想でもしたのでしょう。
0603Ms.名無しさん
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2022/01/31(月) 05:47:46.360
全国のコロナ死者発表(NHK速報値)
一週間(日〜土)ごとの推移
12/05〜12/11 9人
12/12〜12/18 6
12/19〜12/25 8
12/26〜01/01 6
01/02〜01/08 9
01/09〜01/15 31
01/16〜01/22 64
01/23〜01/29 238
0609Ms.名無しさん
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2022/01/31(月) 14:21:39.170
 兄さんはお貞さんを宅中うちじゅうで一番慾の寡すくない善良な人間だと云うのです。ああ云うのが幸福に生れて来た人間だと云って羨うらやましがるのです。自分もああなりたいと云うのです。お貞さんを知らない私は、何とも評しようがありませんから、ただそうかそうかと答えておきました。すると兄さんが「お貞さんは君を女にしたようなものだ」と云って砂の上へ立ちどまりました。私も立ちどまりました。
 向うの高い所に微かすかな灯火ともしびが一つ眼に入りました。昼間見ると、その見当けんとうに赤い色の建物が樹この間隠まがくれに眺められますから、この灯火もおおかたその赤い洋館の主ぬしが点つけているのでしょう。濃い夜陰やいんの色の中にたった一つかけ離れて星のように光っているのです。私の顔はその灯火の方を向いていました。兄さんはまた浪なみの来る海をまともに受けて立ちました。
0610Ms.名無しさん
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2022/01/31(月) 14:21:47.340
 その時二人の頭の上で、ピアノの音ねが不意に起りました。そこは砂浜から一間の高さに、石垣を規則正しく積み上げた一構ひとかまえで、庭から浜へじかに通えるためでしょう、石垣の端はじには階段が筋違すじかいに庭先まで刻きざみ上げてありました。私はその石段を上りました。
 庭には家を洩もれる電灯の光が、線のように落ちていました。その弱い光で照されていた地面は一体の芝生しばふでした。花もあちこちに咲いているようでしたが、これは暗い上に広い庭なので、判然はっきりとは分りませんでした。ピアノの音おとは正面に見える洋館の、明るく照された一室から出るようでした。
0611Ms.名無しさん
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2022/01/31(月) 14:21:55.550
「西洋人の別荘だね」
「そうだろう」
0612Ms.名無しさん
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2022/01/31(月) 14:22:04.040
 兄さんと私は石段の一番上の所に並んで腰をかけました。聞こえないようなまた聞こえるようなピアノの音が、時々二人の耳を掠かすめに来ます。二人共無言でした。兄さんの吸う煙草たばこの先が時々赤くなりました。
0613Ms.名無しさん
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2022/01/31(月) 14:22:12.860
        五十

 私はお貞さんのつづきでも出る事と思って、暗い中でそれとなく兄さんの声を待ち受けていたのですが、兄さんは煙草に魅みせられた人のように、時々紙巻の先を赤くするだけで、なかなか口を開きません。それを石段の下へ投げて私の方へ向いた時は、もう話題がお貞さんを離れていました。私は少し意外に思いました。兄さんの題目は、お貞さんに関係のないばかりか、ピアノの音にも、広い芝生にも、美しい別荘にも、乃至ないしは避暑にも旅行にも、すべて我々の周囲と現在とは全く交渉を絶った昔の坊さんの事でした。
 坊さんの名はたしか香厳きょうげんとか云いました。俗にいう一を問えば十を答え、十を問えば百を答えるといった風の、聡明霊利そうめいれいりに生れついた人なのだそうです。ところがその聡明霊利が悟道ごどうの邪魔になって、いつまで経たっても道に入れなかったと兄さんは語りました。悟さとりを知らない私にもこの意味はよく通じます。自分の智慧ちえに苦しみ抜いている兄さんにはなおさら痛切に解っているでしょう。兄さんは「全く多知多解たちたげが煩わずらいをなしたのだ」ととくに注意したくらいです。
0614Ms.名無しさん
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2022/01/31(月) 14:22:20.770
 数年すねんの間百丈禅師ひゃくじょうぜんじとかいう和尚おしょうさんについて参禅したこの坊さんはついに何の得るところもないうちに師に死なれてしまったのです。それで今度は※(「さんずい+爲」、第3水準1-87-10)山いさんという人の許もとに行きました。※(「さんずい+爲」、第3水準1-87-10)山は御前のような意解識想いげしきそうをふり舞わして得意がる男はとても駄目だめだと叱りつけたそうです。父も母も生れない先の姿になって出て来いと云ったそうです。坊さんは寮舎に帰って、平生読み破った書物上の知識を残らず点検したあげく、ああああ画えに描かいた餅もちはやはり腹の足たしにならなかったと嘆息したと云います。そこで今まで集めた書物をすっかり焼き棄すててしまったのです。
「もう諦あきらめた。これからはただ粥かゆを啜すすって生きて行こう」
0615Ms.名無しさん
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2022/01/31(月) 14:22:29.950
 こう云った彼は、それ以後禅のぜの字も考えなくなったのです。善も投げ悪も投げ、父母ちちははの生れない先の姿も投げ、いっさいを放下ほうげし尽してしまったのです。それからある閑寂かんじゃくな所を選んで小さな庵いおりを建てる気になりました。彼はそこにある草を芟かりました。そこにある株を掘り起しました。地ならしをするために、そこにある石を取って除のけました。するとその石の一つが竹藪たけやぶにあたって戞然かつぜんと鳴りました。彼はこの朗ほがらかな響を聞いて、はっと悟さとったそうです。そうして一撃いちげきに所知しょちを亡うしなうと云って喜んだといいます。
「どうかして香厳になりたい」と兄さんが云います。兄さんの意味はあなたにもよく解るでしょう。いっさいの重荷を卸おろして楽らくになりたいのです。兄さんはその重荷を預かって貰う神をもっていないのです。だから掃溜はきだめか何かへ棄すててしまいたいと云うのです。兄さんは聡明な点においてよくこの香厳きょうげんという坊さんに似ています。だからなおのこと香厳が羨うらやましいのでしょう。
0616Ms.名無しさん
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2022/01/31(月) 14:22:38.200
 兄さんの話は西洋人の別荘や、ハイカラな楽器とは、全く縁の遠いものでした。なぜ兄さんが暗い石段の上で、磯いその香かを嗅かぎながら、突然こんな話をし出したか、それは私には解りません。兄さんの話が済んだ頃はピアノの音ももう聞こえませんでした。潮しおに近いためか、夜露のせいか、浴衣ゆかたが湿しめっぽくなっていました。私は兄さんを促うながしてまたもとの道へ引き返しました。往来へ出た時、私は行きつけの菓子屋へ寄って饅頭まんじゅうを買いました。それを食いながら暗い中を黙って宅うちまで帰って来ました。留守るすを頼んでおいた爺じいさんの所の子供は、蚊かに喰われるのも構わずぐうぐう寝ていました。私は饅頭の余りをやって、すぐ子供を帰してやりました。
0617Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/31(月) 14:22:47.270
        五十一

 昨日きのうの朝食事をした時、飯櫃めしびつを置いた位地いちの都合から、私が兄さんの茶碗を受けとって、一膳目いちぜんめの御飯をよそってやりますと、兄さんはまたお貞さんの名を私の耳に訴えました。お貞さんがまだ嫁に行かないうちは、ちょうど今私がしたように、始終しじゅう兄さんのお給仕をしたものだそうですね。昨夜ゆうべは性格の点からお貞さんに比較され、今朝はまたお給仕の具合で同じお貞さんにたとえられた私は、つい兄さんに向って質問を掛けて見る気になりました。
「君はそのお貞さんとかいう人と、こうしていっしょに住んでいたら幸福になれると思うのか」
0618Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/31(月) 14:22:57.130
 兄さんは黙って箸はしを口へ持って行きました。私は兄さんの態度から推おして、おおかた返事をするのが厭いやなんだろうと考えたので、それぎり後あとを推おしませんでした。すると兄さんの答が、御飯を二口三口嚥のみ下くだしたあとで、不意に出て来ました。
「僕はお貞さんが幸福に生れた人だと云った。けれども僕がお貞さんのために幸福になれるとは云やしない」
0619Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/31(月) 14:23:08.540
 兄さんの言葉はいかにも論理的に終始を貫いて真直まっすぐに見えます。けれども暗い奥には矛盾がすでに漂ただよっています。兄さんは何にも拘泥こうでいしていない自然の顔をみると感謝したくなるほど嬉うれしいと私に明言した事があるのです。それは自分が幸福に生れた以上、他ひとを幸福にする事もできると云うのと同じ意味ではありませんか。私は兄さんの顔を見てにやにやと笑いました。兄さんはそうなるとただではすまされない男です。すぐ食いついて来ます。
「いや本当にそうなのだ。疑ぐられては困る。実際僕の云った事は云った事で、云わない事は云わない事なんだから」
0620Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/31(月) 14:23:17.950
 私は兄さんに逆さからいたくはありませんでした。けれどもこれほど頭の明かな兄さんが、自分の平生から軽蔑けいべつしている言葉の上の論理を弄もてあそんで、平気でいるのは少しおかしいと思いました。それで私の腹にあった兄さんの矛盾を遠慮なく話して聞かせました。
 兄さんはまた無言で飯を二口ほど頬張ほおばりました。兄さんの茶碗はその時空からになりましたが、飯櫃めしびつは依然として兄さんの手の届かない私の傍そばにありました。私はもう一遍給仕をする考えで、兄さんの鼻の先へ手を出したのです。ところが今度は兄さんが応じません。こっちへ寄こしてくれと云います。
0621Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/31(月) 14:23:25.790
 私は飯櫃を向うへ押してやりました。兄さんは自分でしゃもじを取って、飯をてこ盛もりにもり上げました。それからその茶碗を膳ぜんの上に置いたまま、箸はしも執とらずに私に問いかけるのです。
「君は結婚前の女と、結婚後の女と同じ女だと思っているのか」
0622Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/31(月) 14:23:42.590
 こうなると私にはおいそれと返事ができなくなります。平生そんな事を考えて見ないからでもありましょうが。今度は私の方が飯を二口三口立て続けに頬張って、兄さんの説明を待ちました。
「嫁に行く前のお貞さんと、嫁に行ったあとのお貞さんとはまるで違っている。今のお貞さんはもう夫のためにスポイルされてしまっている」
0623Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/31(月) 14:23:51.470
「いったいどんな人のところへ嫁に行ったのかね」と私が途中で聞きました。
「どんな人のところへ行こうと、嫁に行けば、女は夫のために邪よこしまになるのだ。そういう僕がすでに僕の妻さいをどのくらい悪くしたか分らない。自分が悪くした妻から、幸福を求めるのは押おしが強過ぎるじゃないか。幸福は嫁に行って天真てんしんを損そこなわれた女からは要求できるものじゃないよ」
0624Ms.名無しさん
垢版 |
2022/01/31(月) 14:23:59.860
 兄さんはそういうや否や、茶碗を取り上げて、むしゃむしゃてこ盛の飯を平たいらげました。
0626Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/01(火) 10:53:45.630
        五十二

 私は旅行に出てから今日こんにちに至るまでの兄さんを、これでできるだけ委くわしく書いたつもりです。東京を立ったのはつい昨日きのうのようですが、指を折るともう十日あまりになります。私の音信たよりをあてにして待っておられるあなたや御年寄には、この十日が少し長過ぎたかも知れません。私もそれは察しています。しかしこの手紙の冒頭に御断りしたような事情のために、ここへ来て落ちつくまでは、ほとんど筆を執とる余裕がなかったので、やむをえず遅れました。その代り過去十日間のうち、この手紙に洩もれた兄さんは一日もありません。私は念を入れてその日その日の兄さんをことごとくこの一封のうちに書き込めました。それが私の申訳です。同時に私の誇りです。私は当初の予期以上に、私の義務を果し得たという自信のもとに、この手紙を書き終るのですから。
 私の費やした時間は、時計の針で仕事の分量を計算して見ない努力だから、数字としては申し上げられませんが、ずいぶんの骨折には違ありませんでした。私は生れて始めてこんな長い手紙を書きました。無論一気には書けません、一日にも書けません。ひまの見つかり次第机に向って書きかけたあとを書き続けて行ったのです。しかしそれは何でもありません。もし私の見た兄さんと、私の理解した兄さんがこの一封のうちに動いているならば、私は今より数層倍の手数てかずと労力を費やしても厭いとわないつもりです。
0627Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/01(火) 10:53:54.390
 私は私の親愛するあなたの兄さんのために、この手紙を書きます。それから同じく兄さんを親愛するあなたのためにこの手紙を書きます。最後には慈愛に充みちた御年寄、あなたと兄さんの御父さんや御母さんのためにもこの手紙をかきます。私の見た兄さんはおそらくあなた方がたの見た兄さんと違っているでしょう。私の理解する兄さんもまたあなた方の理解する兄さんではありますまい。もしこの手紙がこの努力に価あたいするならば、その価は全くそこにあると考えて下さい。違った角度から、同じ人を見て別様の反射を受けたところにあると思って御参考になさい。
 あなた方は兄さんの将来について、とくに明瞭めいりょうな知識を得たいと御望みになるかも知れませんが、予言者でない私は、未来に喙くちばしを挟さしはさむ資格を持っておりません。雲が空に薄暗く被かぶさった時、雨になる事もありますし、また雨にならずにすむ事もあります。ただ雲が空にある間、日の目の拝まれないのは事実です。あなた方は兄さんが傍はたのものを不愉快にすると云って、気の毒な兄さんに多少非難の意味を持たせているようですが、自分が幸福でないものに、他ひとを幸福にする力があるはずがありません。雲で包まれている太陽に、なぜ暖かい光を与えないかと逼せまるのは、逼る方が無理でしょう。私はこうしていっしょにいる間、できるだけ兄さんのためにこの雲を払おうとしています。あなた方も兄さんから暖かな光を望む前に、まず兄さんの頭を取り巻いている雲を散らしてあげたらいいでしょう。もしそれが散らせないなら、家族のあなた方には悲しい事ができるかも知れません。兄さん自身にとっても悲しい結果になるでしょう。こういう私も悲しゅうございます。
0628Ms.名無しさん
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2022/02/01(火) 10:54:03.550
 私は過去十日間の兄さんを、書きました。この十日間の兄さんが、未来の十日間にどうなるかが問題で、その問題には誰も答えられないのです。よし次の十日間を私が受け合うにしたところで、次の一カ月、次の半年はんとしの兄さんを誰が受け合えましょう。私はただ過去十日間の兄さんを忠実に書いただけです。頭の鋭くない私が、読み直すひまもなくただ書き流したものだから、そのうちには定めて矛盾があるでしょう。頭の鋭い兄さんの言行にも気のつかないところに矛盾があるかも知れません。けれども私は断言します。兄さんは真面目まじめです。けっして私をごまかそうとしてはいません。私も忠実です。あなたを欺あざむく気は毛頭もうとうないのです。
 私がこの手紙を書き始めた時、兄さんはぐうぐう寝ていました。この手紙を書き終る今もまたぐうぐう寝ています。私は偶然兄さんの寝ている時に書き出して、偶然兄さんの寝ている時に書き終る私を妙に考えます。兄さんがこの眠ねむりから永久覚さめなかったらさぞ幸福だろうという気がどこかでします。同時にもしこの眠から永久覚めなかったらさぞ悲しいだろうという気もどこかでします」
0629Ms.名無しさん
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2022/02/01(火) 10:56:53.290
        一

 梅田うめだの停車場ステーションを下おりるや否いなや自分は母からいいつけられた通り、すぐ俥くるまを雇やとって岡田おかだの家に馳かけさせた。岡田は母方の遠縁に当る男であった。自分は彼がはたして母の何に当るかを知らずにただ疎うとい親類とばかり覚えていた。
 大阪へ下りるとすぐ彼を訪とうたのには理由があった。自分はここへ来る一週間前ある友達と約束をして、今から十日以内に阪地はんちで落ち合おう、そうしていっしょに高野こうや登りをやろう、もし時日じじつが許すなら、伊勢から名古屋へ廻まわろう、と取りきめた時、どっちも指定すべき場所をもたないので、自分はつい岡田の氏名と住所を自分の友達に告げたのである。
0630Ms.名無しさん
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2022/02/01(火) 10:57:03.610
「じゃ大阪へ着き次第、そこへ電話をかければ君のいるかいないかは、すぐ分るんだね」と友達は別れるとき念を押した。岡田が電話をもっているかどうか、そこは自分にもはなはだ危あやしかったので、もし電話がなかったら、電信でも郵便でも好いいから、すぐ出してくれるように頼んでおいた。友達は甲州線こうしゅうせんで諏訪すわまで行って、それから引返して木曾きそを通った後あと、大阪へ出る計画であった。自分は東海道を一息ひといきに京都まで来て、そこで四五日用足ようたしかたがた逗留とうりゅうしてから、同じ大阪の地を踏む考えであった。
 予定の時日を京都で費ついやした自分は、友達の消息たよりを一刻も早く耳にするため停車場を出ると共に、岡田の家を尋ねなければならなかったのである。けれどもそれはただ自分の便宜べんぎになるだけの、いわば私の都合に過ぎないので、先刻さっき云った母のいいつけとはまるで別物であった。母が自分に向って、あちらへ行ったら何より先に岡田を尋ねるようにと、わざわざ荷になるほど大きい鑵入かんいりの菓子を、御土産おみやげだよと断ことわって、鞄かばんの中へ入れてくれたのは、昔気質むかしかたぎの律儀りちぎからではあるが、その奥にもう一つ実際的の用件を控ひかえているからであった。
 自分は母と岡田が彼らの系統上どんな幹の先へ岐わかれて出た、どんな枝となって、互に関係しているか知らないくらいな人間である。母から依託された用向についても大した期待も興味もなかった。けれども久しぶりに岡田という人物――落ちついて四角な顔をしている、いくら髭ひげを欲しがっても髭の容易に生えない、しかも頭の方がそろそろ薄くなって来そうな、――岡田という人物に会う方の好奇心は多少動いた。岡田は今までに所用で時々出京した。ところが自分はいつもかけ違って会う事ができなかった。したがって強く酒精アルコールに染められた彼かれの四角な顔も見る機会を奪われていた。自分は俥くるまの上で指を折って勘定して見た。岡田がいなくなったのは、ついこの間のようでも、もう五六年になる。彼の気にしていた頭も、この頃ではだいぶ危険に逼せまっているだろうと思って、その地じの透すいて見えるところを想像したりなどした。
0631Ms.名無しさん
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2022/02/01(火) 10:57:11.950
 岡田の髪の毛は想像した通り薄くなっていたが、住居すまいは思ったよりもさっぱりした新しい普請ふしんであった。
「どうも上方流かみがたりゅうで余計な所に高塀たかべいなんか築き上あげて、陰気いんきで困っちまいます。そのかわり二階はあります。ちょっと上あがって御覧なさい」と彼は云った。自分は何より先に友達の事が気になるので、こうこういう人からまだ何とも通知は来ないかと聞いた。岡田は不思議そうな顔をして、いいえと答えた。
0632Ms.名無しさん
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2022/02/01(火) 10:57:20.650
        二

 自分は岡田に連れられて二階へ上あがって見た。当人が自慢するほどあって眺望ちょうぼうはかなり好かったが、縁側えんがわのない座敷の窓へ日が遠慮なく照り返すので、暑さは一通りではなかった。床とこの間まにかけてある軸物じくものも反そっくり返っていた。
「なに日が射すためじゃない。年ねんが年中ねんじゅうかけ通しだから、糊のりの具合でああなるんです」と岡田は真面目まじめに弁解した。
0633Ms.名無しさん
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2022/02/01(火) 10:57:28.760
「なるほど梅うめに鶯うぐいすだ」と自分も云いたくなった。彼は世帯を持つ時の用意に、この幅ふくを自分の父から貰もらって、大得意で自分の室へやへ持って来て見せたのである。その時自分は「岡田君この呉春ごしゅんは偽物ぎぶつだよ。それだからあの親父おやじが君にくれたんだ」と云って調戯からかい半分岡田を怒らした事を覚えていた。
 二人は懸物かけものを見て、当時を思い出しながら子供らしく笑った。岡田はいつまでも窓に腰をかけて話を続ける風に見えた。自分も襯衣シャツに洋袴ズボンだけになってそこに寝転ねころびながら相手になった。そうして彼から天下茶屋てんがちゃやの形勢だの、将来の発展だの、電車の便利だのを聞かされた。自分は自分にそれほど興味のない問題を、ただ素直にはいはいと聴きいていたが、電車の通じる所へわざわざ俥くるまへ乗って来た事だけは、馬鹿らしいと思った。二人はまた二階を下りた。
0634Ms.名無しさん
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2022/02/01(火) 10:57:48.460
「おい御客さまだよ」と岡田が遠慮のない大きな声を出した時、お兼さんは「ただいま」と奥の方で優やさしく答えた。自分はこの声の持主に、かつて着た久留米絣くるめがすりやフランネルの襦袢じゅばんを縫って貰った事もあるのだなとふと懐なつかしい記憶を喚起よびおこした。
0635Ms.名無しさん
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2022/02/01(火) 10:57:59.730
        三

 お兼かねさんの態度は明瞭めいりょうで落ちついて、どこにも下卑げびた家庭に育ったという面影おもかげは見えなかった。「二三日前にさんちまえからもうおいでだろうと思って、心待こころまちに御待申しておりました」などと云って、眼の縁ふちに愛嬌あいきょうを漂ただよわせるところなどは、自分の妹よりも品ひんの良いいばかりでなく、様子も幾分か立優たちまさって見えた。自分はしばらくお兼さんと話しているうちに、これなら岡田がわざわざ東京まで出て来て連れて行ってもしかるべきだという気になった。
 この若い細君がまだ娘盛むすめざかりの五六年前ぜんに、自分はすでにその声も眼鼻立めはなだちも知っていたのではあるが、それほど親しく言葉を換かわす機会もなかったので、こうして岡田夫人として改まって会って見ると、そう馴々なれなれしい応対もできなかった。それで自分は自分と同階級に属する未知の女に対するごとく、畏かしこまった言語をぽつぽつ使った。岡田はそれがおかしいのか、または嬉うれしいのか、時々自分の顔を見て笑った。それだけなら構わないが、折節おりせつはお兼さんの顔を見て笑った。けれどもお兼さんは澄ましていた。お兼さんがちょっと用があって奥へ立った時、岡田はわざと低い声をして、自分の膝ひざを突っつきながら、「なぜあいつに対して、そう改まってるんです。元から知ってる間柄あいだがらじゃありませんか」と冷笑ひやかすような句調くちょうで云った。
「好い奥さんになったね。あれなら僕が貰やよかった」
0636Ms.名無しさん
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2022/02/01(火) 10:58:08.440
「冗談じょうだんいっちゃいけない」と云って岡田は一層大きな声を出して笑った。やがて少し真面目まじめになって、「だってあなたはあいつの悪口をお母さんに云ったっていうじゃありませんか」と聞いた。
「なんて」
0637Ms.名無しさん
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2022/02/01(火) 10:58:15.760
「岡田も気の毒だ、あんなものを大阪下くだりまで引っ張って行くなんて。もう少し待っていればおれが相当なのを見めつけてやるのにって」
「そりゃ君昔の事ですよ」
0638Ms.名無しさん
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2022/02/01(火) 10:58:24.680
 こうは答えたようなものの、自分は少し恐縮した。かつちょっと狼狽ろうばいした。そうして先刻さっき岡田が変な眼遣めづかいをして、時々細君の方を見た意味をようやく理解した。
「あの時は僕も母から大変叱られてね。おまえのような書生に何が解るものか。岡田さんの事はお父さんと私わたしとで当人達たちに都合の好いようにしたんだから、余計な口を利きかずに黙って見ておいでなさいって。どうも手痛てひどくやられました」
0639Ms.名無しさん
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2022/02/01(火) 10:58:34.240
 自分は母から叱られたという事実が、自分の弁解にでもなるような語気で、その時の様子を多少誇張して述べた。岡田はますます笑った。
 それでもお兼さんがまた座敷へ顔を出した時、自分は多少きまりの悪い思をしなければならなかった。人の悪い岡田はわざわざ細君に、「今二郎じろうさんがおまえの事を大変賞ほめて下すったぜ。よく御礼を申し上げるが好い」と云った。お兼さんは「あなたがあんまり悪口をおっしゃるからでしょう」と夫おっとに答えて、眼では自分の方を見て微笑した。
 夕飯前ゆうはんまえに浴衣ゆかたがけで、岡田と二人岡の上を散歩した。まばらに建てられた家屋や、それを取り巻く垣根が東京の山の手を通り越した郊外を思い出させた。自分は突然大阪で会合しようと約束した友達の消息が気になり出した。自分はいきなり岡田に向って、「君の所にゃ電話はないんでしょうね」と聞いた。「あの構かまえで電話があるように見えますかね」と答えた岡田の顔には、ただ機嫌きげんの好いい浮き浮きした調子ばかり見えた。
0640Ms.名無しさん
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2022/02/01(火) 10:58:43.130
        四

 それは夕方の比較的長く続く夏の日の事であった。二人の歩いている岡の上はことさら明るく見えた。けれども、遠くにある立樹たちきの色が空に包まれてだんだん黒ずんで行くにつれて、空の色も時を移さず変って行った。自分は名残なごりの光で岡田の顔を見た。
「君東京にいた時よりよほど快豁かいかつになったようですね。血色も大変好い。結構だ」
0641Ms.名無しさん
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2022/02/01(火) 10:58:52.240
 岡田は「ええまあお蔭かげさまで」と云ったような瞹眛あいまいな挨拶あいさつをしたが、その挨拶のうちには一種嬉うれしそうな調子もあった。
 もう晩飯ばんめしの用意もできたから帰ろうじゃないかと云って、二人帰路きろについた時、自分は突然岡田に、「君とお兼さんとは大変仲が好いようですね」といった。自分は真面目なつもりだったけれども、岡田にはそれが冷笑ひやかしのように聞えたと見えて、彼はただ笑うだけで何の答えもしなかった。けれども別に否いなみもしなかった。
0645Ms.名無しさん
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2022/02/01(火) 14:04:29.300
国民「生活苦しいから消費税下げてほしい」
→岸田「18歳以下に10万配ったる」・・・

国民「ガソリン高いからガソリン税下げて多重課税やめろ」
→岸田「元売り業者に補助金配ったる」・・・
0647Ms.名無しさん
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2022/02/01(火) 15:50:40.990
電話を掛けても繋がらない、メールをしても返事がない 
コロナ軽症健康男性、9日後に遺体で発見 訪問してないけど対応問題なし、と福岡市
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1643674191/
0650Ms.名無しさん
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2022/02/01(火) 18:16:01.500
雇用保険法改正案を閣議決定 段階的に料率引き上げ 政府
2/1(火) 8:56配信

 政府は1日の閣議で、雇用保険料率の引き上げを盛り込んだ雇用保険法改正案などを決定した。
現在の保険料率は労使合わせて賃金の0.9%。
これを4月に0.95%、10月に1.35%へ引き上げる。
新型コロナウイルス感染拡大で雇用調整助成金の支給額が膨らみ、枯渇した財源を補う。
ただ、与党内で今夏の参院選前に負担増を求めることに慎重論が広がり、
4月の引き上げ幅を抑えた。 
0653Ms.名無しさん
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2022/02/02(水) 14:34:09.810
 しばらくしてから彼は今までの快豁かいかつな調子を急に失った。そうして何か秘密でも打ち明けるような具合に声を落した。それでいて、あたかも独言ひとりごとをいう時のように足元を見つめながら、「これであいつといっしょになってから、かれこれもう五六年近くになるんだが、どうも子供ができないんでね、どういうものか。それが気がかりで……」と云った。
 自分は何とも答えなかった。自分は子供を生ますために女房を貰う人は、天下に一人もあるはずがないと、かねてから思っていた。しかし女房を貰ってから後あとで、子供が欲しくなるものかどうか、そこになると自分にも判断がつかなかった。
0654Ms.名無しさん
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2022/02/02(水) 14:34:19.420
「結婚すると子供が欲しくなるものですかね」と聞いて見た。
「なに子供が可愛かわいいかどうかまだ僕にも分りませんが、何しろ妻さいたるものが子供を生まなくっちゃ、まるで一人前の資格がないような気がして……」
0655Ms.名無しさん
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2022/02/02(水) 14:34:28.000
 岡田は単にわが女房を世間並せけんなみにするために子供を欲するのであった。結婚はしたいが子供ができるのが怖こわいから、まあもう少し先へ延のばそうという苦しい世の中ですよと自分は彼に云ってやりたかった。すると岡田が「それに二人ふたりぎりじゃ淋しくってね」とまたつけ加えた。
「二人ぎりだから仲が好いんでしょう」
0656Ms.名無しさん
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2022/02/02(水) 14:34:39.930
「子供ができると夫婦の愛は減るもんでしょうか」
 岡田と自分は実際二人の経験以外にあることをさも心得たように話し合った。
0657Ms.名無しさん
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2022/02/02(水) 14:34:53.150
 宅うちでは食卓の上に刺身だの吸物だのが綺麗きれいに並んで二人を待っていた。お兼さんは薄化粧うすげしょうをして二人のお酌をした。時々は団扇うちわを持って自分を扇あおいでくれた。自分はその風が横顔に当るたびに、お兼さんの白粉おしろいの匂においを微かすかに感じた。そうしてそれが麦酒ビールや山葵わさびの香かよりも人間らしい好い匂のように思われた。
「岡田君はいつもこうやって晩酌ばんしゃくをやるんですか」と自分はお兼さんに聞いた。お兼さんは微笑しながら、「どうも後引上戸あとひきじょうごで困ります」と答えてわざと夫の方を見やった。夫は、「なに後あとが引けるほど飲ませやしないやね」と云って、傍そばにある団扇を取って、急に胸のあたりをはたはたいわせた。自分はまた急にこっちで会うべきはずの友達の事に思い及んだ。
0658Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/02(水) 14:35:01.290
「奥さん、三沢みさわという男から僕に宛あてて、郵便か電報か何か来ませんでしたか。今散歩に出た後で」
「来やしないよ。大丈夫だよ、君。僕の妻はそう云う事はちゃんと心得てるんだから。ねえお兼。――好いじゃありませんか、三沢の一人や二人来たって来なくたって。二郎さん、そんなに僕の宅が気に入らないんですか。第一だいちあなたはあの一件からして片づけてしまわなくっちゃならない義務があるでしょう」
0659Ms.名無しさん
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2022/02/02(水) 14:35:09.280
 岡田はこう云って、自分の洋盃コップへ麦酒をゴボゴボと注ついだ。もうよほど酔っていた。
0660Ms.名無しさん
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2022/02/02(水) 14:35:17.780
        五

 その晩はとうとう岡田の家うちへ泊った。六畳の二階で一人寝かされた自分は、蚊帳かやの中の暑苦しさに堪たえかねて、なるべく夫婦に知れないように、そっと雨戸を開け放った。窓際まどぎわを枕に寝ていたので、空は蚊帳越にも見えた。試ためしに赤い裾すそから、頭だけ出して眺ながめると星がきらきらと光った。自分はこんな事をする間にも、下にいる岡田夫婦の今昔こんじゃくは忘れなかった。結婚してからああ親しくできたらさぞ幸福だろうと羨うらやましい気もした。三沢から何なんの音信たよりのないのも気がかりであった。しかしこうして幸福な家庭の客となって、彼の消息を待つために四五日ぐずぐずしているのも悪くはないと考えた。一番どうでも好かったのは岡田のいわゆる「例の一件」であった。
 翌日よくじつ眼が覚さめると、窓の下の狭苦しい庭で、岡田の声がした。
0661Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/02(水) 14:35:25.410
「おいお兼とうとう絞しぼりのが咲き出したぜ。ちょいと来て御覧」
 自分は時計を見て、腹這はらばいになった。そうして燐寸マッチを擦すって敷島しきしまへ火を点つけながら、暗あんにお兼さんの返事を待ち構えた。けれどもお兼さんの声はまるで聞えなかった。岡田は「おい」「おいお兼」をまた二三度繰返した。やがて、「せわしない方ね、あなたは。今朝顔どころじゃないわ、台所が忙いそがしくって」という言葉が手に取るように聞こえた。お兼さんは勝手から出て来て座敷の縁側えんがわに立っているらしい。
0662Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/02(水) 14:35:33.390
「それでも綺麗きれいね。咲いて見ると。――金魚はどうして」
「金魚は泳いでいるがね。どうもこのほうはむずかしいらしい」
0663Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/02(水) 14:35:42.190
 自分はお兼さんが、死にかかった金魚の運命について、何かセンチメンタルな事でもいうかと思って、煙草たばこを吹かしながら聴いていた。けれどもいくら待っていても、お兼さんは何とも云わなかった。岡田の声も聞こえなかった。自分は煙草を捨てて立ち上った。そうしてかなり急な階子段はしごだんを一段ずつ音を立てて下へ降りて行った。
 三人で飯を済ました後あと、岡田は会社へ出勤しなければならないので、緩ゆっくり案内をする時間がないのを残念がった。自分はここへ来る前から、そんな事を全く予期していなかったと云って、白い詰襟姿つめえりすがたの彼を坐ったまま眺ながめていた。
0664Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/02(水) 14:35:50.820
「お兼、お前暇があるなら二郎さんを案内して上げるが好い」と岡田は急に思いついたような顔つきで云った。お兼さんはいつもの様子に似ず、この時だけは夫にも自分にも何とも答えなかった。自分はすぐ、「なに構わない。君といっしょに君の会社のある方角まで行って、そこいらを逍遥ぶらついて見よう」と云いながら立った。お兼さんは玄関で自分の洋傘こうもりを取って、自分に手渡ししてくれた。それからただ一口「お早く」と云った。
 自分は二度電車に乗せられて、二度下ろされた。そうして岡田の通かよっている石造の会社の周囲しゅういを好い加減に歩き廻った。同じ流れか、違う流れか、水の面おもてが二三度目に入はいった。そのうち暑さに堪たえられなくなって、また好い加減に岡田の家うちへ帰って来た。
0665Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/02(水) 14:35:58.220
 二階へ上あがって、――自分は昨夜ゆうべからこの六畳の二階を、自分の室へやと心得るようになった。――休息していると、下から階子段を踏む音がして、お兼さんが上あがって来た。自分は驚いて脱ぬいだ肌はだを入れた。昨日廂ひさしに束つかねてあったお兼さんの髪は、いつの間にか大きな丸髷まるまげに変っていた。そうして桃色の手絡てがらが髷まげの間から覗のぞいていた。
0666Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/02(水) 14:36:07.080
        六

 お兼さんは黒い盆の上に載のせた平野水ひらのすいと洋盃コップを自分の前に置いて、「いかがでございますか」と聞いた。自分は「ありがとう」と答えて、盆を引き寄せようとした。お兼さんは「いえ私が」と云って急に罎びんを取り上げた。自分はこの時黙ってお兼さんの白い手ばかり見ていた。その手には昨夕ゆうべ気がつかなかった指環ゆびわが一つ光っていた。
0667Ms.名無しさん
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2022/02/02(水) 14:36:16.120
 自分が洋盃コップを取上げて咽喉のどを潤うるおした時、お兼さんは帯の間から一枚の葉書を取り出した。
「先ほどお出でかけになった後あとで」と云いかけて、にやにや笑っている。自分はその表面に三沢の二字を認めた。
0674Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/03(木) 13:48:58.910
「とうとう参りましたね。御待かねの……」
 自分は微笑しながら、すぐ裏を返して見た。
0675Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/03(木) 13:49:08.300
「一両日後おくれるかも知れぬ」
 葉書に大きく書いた文字はただこれだけであった。
0676Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/03(木) 13:49:18.310
「まるで電報のようでございますね」
「それであなた笑ってたんですか」
0677Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/03(木) 13:49:39.130
「そう云う訳でもございませんけれども、何だかあんまり……」
 お兼さんはそこで黙ってしまった。自分はお兼さんをもっと笑わせたかった。
0678Ms.名無しさん
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2022/02/03(木) 13:49:49.730
「あんまり、どうしました」
「あんまりもったいないようですから」
0679Ms.名無しさん
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2022/02/03(木) 13:49:58.580
 お兼さんのお父さんというのは大変緻密ちみつな人で、お兼さんの所へ手紙を寄こすにも、たいていは葉書で用を弁じている代りに蠅はえの頭のような字を十五行も並べて来るという話しを、お兼さんは面白そうにした。自分は三沢の事を全く忘れて、ただ前にいるお兼さんを的まとに、さまざまの事を尋ねたり聞いたりした。
「奥さん、子供が欲しかありませんか。こうやって、一人で留守るすをしていると退屈するでしょう」
0680Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/03(木) 13:50:07.900
「そうでもございませんわ。私わたくし兄弟の多い家うちに生れて大変苦労して育ったせいか、子供ほど親を意地見いじめるものはないと思っておりますから」
「だって一人や二人はいいでしょう。岡田君は子供がないと淋さみしくっていけないって云ってましたよ」
0681Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/03(木) 13:50:16.010
 お兼さんは何にも答えずに窓の外の方を眺ながめていた。顔を元へ戻しても、自分を見ずに、畳の上にある平野水の罎を見ていた。自分は何にも気がつかなかった。それでまた「奥さんはなぜ子供ができないんでしょう」と聞いた。するとお兼さんは急に赤い顔をした。自分はただ心やすだてで云ったことが、はなはだ面白くない結果を引き起したのを後悔した。けれどもどうする訳わけにも行かなかった。その時はただお兼さんに気の毒をしたという心だけで、お兼さんの赤くなった意味を知ろうなどとは夢にも思わなかった。
 自分はこの居苦いぐるしくまた立苦たちぐるしくなったように見える若い細君を、どうともして救わなければならなかった。それには是非共話頭を転ずる必要があった。自分はかねてからさほど重きを置いていなかった岡田のいわゆる「例の一件」をとうとう持ち出した。お兼さんはすぐ元の態度を回復した。けれども夫に責任の過半を譲ゆずるつもりか、けっして多くを語らなかった。自分もそう根掘り葉掘り聞きもしなかった。
0682Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/03(木) 13:50:26.330
        七

「例の一件」が本式に岡田の口から持ち出されたのはその晩の事であった。自分は露つゆに近い縁側えんがわを好んでそこに座を占めていた。岡田はそれまでお兼さんと向き合って座敷の中に坐すわっていたが、話が始まるや否や、すぐ立って縁側へ出て来た。
「どうも遠くじゃ話がし悪にくくっていけない」と云いながら、模様のついた座蒲団ざぶとんを自分の前に置いた。お兼さんだけは依然として元の席を動かなかった。
0683Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/03(木) 13:50:37.300
「二郎さん写真は見たでしょう、この間僕が送った」
 写真の主ぬしというのは、岡田と同じ会社へ出る若い人であった。この写真が来た時家うちのものが代りばんこに見て、さまざまの批評を加えたのを、岡田は知らないのである。
0684Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/03(木) 13:50:45.820
「ええちょっと見ました」
「どうです評判は」
0685Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/03(木) 13:50:57.930
「少し御凸額おでこだって云ったものもあります」
 お兼さんは笑い出した。自分もおかしくなった。と云うのは、その男の写真を見て、お凸額だと云い始めたものは、実のところ自分だからである。
0686Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/03(木) 13:51:07.960
「お重しげさんでしょう、そんな悪口をいうのは。あの人の口にかかっちゃ、たいていのものは敵かなわないからね」
 岡田は自分の妹のお重を大変口の悪い女だと思っている。それも彼がお重から、あなたの顔は将棋しょうぎの駒こま見たいよと云われてからの事である。
0687Ms.名無しさん
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2022/02/03(木) 13:51:18.500
「お重さんに何と云われたって構わないが肝心かんじんの当人はどうなんです」
 自分は東京を立つとき、母から、貞さだには無論異存これなくという返事を岡田の方へ出しておいたという事を確めて来たのである。だから、当人は母から上げた返事の通りだと答えた。岡田夫婦はまた佐野さのという婿むこになるべき人の性質や品行や将来の望みや、その他いろいろの条項について一々自分に話して聞かせた。最後に当人がこの縁談の成立を切望している例などを挙げた。
0688Ms.名無しさん
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2022/02/03(木) 13:51:27.790
 お貞さんは器量から云っても教育から云っても、これという特色のない女である。ただ自分の家の厄介やっかいものという名があるだけである。
「先方があまり乗気になって何だか剣呑けんのんだから、あっちへ行ったらよく様子を見て来ておくれ」
0689Ms.名無しさん
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2022/02/03(木) 13:51:37.010
 自分は母からこう頼まれたのである。自分はお貞さんの運命について、それほど多くの興味はもち得なかったけれども、なるほどそう望まれるのは、お貞さんのために結構なようでまた危険な事だろうとも考えていた。それで今まで黙って岡田夫婦の云う事を聞いていた自分は、ふと口を滑すべらした。――
「どうしてお貞さんが、そんなに気に入ったものかな。まだ会った事もないのに」
0690Ms.名無しさん
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2022/02/03(木) 13:51:47.260
「佐野さんはああいうしっかりした方だから、やっぱり辛抱人しんぼうにんを御貰おもらいになる御考えなんですよ」
 お兼さんは岡田の方を向いて、佐野の態度をこう弁解した。岡田はすぐ、「そうさ」と答えた。そうしてそのほかには何も考えていないらしかった。自分はとにかくその佐野という人に明日あした会おうという約束を岡田として、また六畳の二階に上った。頭を枕まくらに着けながら、自分の結婚する場合にも事がこう簡単に運ぶのだろうかと考えると、少し恐ろしい気がした。
0691Ms.名無しさん
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2022/02/03(木) 19:01:51.830
【国産(大嘘)】「熊本産」アサリ 97%が外国産か = 中国産アサリを干潟に撒き短期間で回収。熊本産として出荷 産地偽装問題★14
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1643788960/
0692Ms.名無しさん
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2022/02/04(金) 05:24:06.020
世界の天然ガス輸入額 国別ランキング2021年
1位 中国33455
2位 日本30057
3位 ドイツ23358
4位 韓国15718

世界の天然ガス生産量 国別ランキング2021年
1位 米国 914621
2位 ロシア638490
3位 イラン250786
4位 中国194014
0695Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/04(金) 10:47:34.660
【674万人】政府の2040年経済成長目標には、外国人が「今の4倍必要に」 JICA試算…
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1643931974/

2040年に政府がめざす経済成長を達成するには外国人労働者が現在の約4倍の674万人必要
0696Ms.名無しさん
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2022/02/04(金) 13:13:41.790
        八

 翌日あくるひ岡田は会社を午ひるで切上げて帰って来た。洋服を投出すが早いか勝手へ行って水浴をして「さあ行こう」と云い出した。
 お兼さんはいつの間にか箪笥たんすの抽出ひきだしを開けて、岡田の着物を取り出した。自分は岡田が何を着るか、さほど気にも留めなかったが、お兼さんの着せ具合や、帯の取ってやり具合には、知らず知らず注意を払っていたものと見えて、「二郎さんあなた仕度したくは好いんですか」と聞かれた時、はっと気がついて立ち上った。
0697Ms.名無しさん
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2022/02/04(金) 13:13:52.300
「今日はお前も行くんだよ」と岡田はお兼さんに云った。「だって……」とお兼さんは絽ろの羽織を両手で持ちながら、夫の顔を見上げた。自分は梯子段はしごだんの中途で、「奥さんいらっしゃい」と云った。
 洋服を着て下へ降りて見ると、お兼さんはいつの間にかもう着物も帯も取り換えていた。
0698Ms.名無しさん
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2022/02/04(金) 13:14:49.030
「早いですね」
「ええ早変り」
0699Ms.名無しさん
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2022/02/04(金) 13:14:54.710
「あんまり変り栄ばえもしない服装なりだね」と岡田が云った。
「これでたくさんよあんな所とこへ行くのに」とお兼さんが答えた。
0700Ms.名無しさん
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2022/02/04(金) 13:15:05.800
 三人は暑あつさを冒おかして岡を下くだった。そうして停車場からすぐ電車に乗った。自分は向側に並んで腰をかけた岡田とお兼さんを時々見た。その間には三沢の突飛とっぴな葉書を思い出したりした。全体あれはどこで出したものなんだろうと考えても見た。これから会いに行く佐野という男の事も、ちょいちょい頭に浮んだ。しかしそのたんびに「物好ものずき」という言葉がどうしてもいっしょに出て来た。
 岡田は突然体を前に曲げて、「どうです」と聞いた。自分はただ「結構です」と答えた。岡田は元のように腰から上を真直まっすぐにして、何かお兼さんに云った。その顔には得意の色が見えた。すると今度はお兼さんが顔を前へ出して「御気に入ったら、あなたも大阪こちらへいらっしゃいませんか」と云った。自分は覚えず「ありがとう」と答えた。さっきどうですと突然聞いた岡田の意味は、この時ようやく解った。
0701Ms.名無しさん
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2022/02/04(金) 13:15:14.180
 三人は浜寺はまでらで降りた。この地方の様子を知らない自分は、大おおきな松と砂の間を歩いてさすがに好い所だと思った。しかし岡田はここでは「どうです」を繰返さなかった。お兼さんも洋傘こうもりを開いたままさっさと行った。
「もう来ているだろうか」
0702Ms.名無しさん
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2022/02/04(金) 13:15:24.880
「そうね。ことに因よるともう来て待っていらっしゃるかも知れないわ」
 自分は二人の後あとに跟ついて、こんな会話を聴ききながら、すばらしく大きな料理屋の玄関の前に立った。自分は何よりもまずその大きいのに驚かされたが、上って案内をされた時、さらにその道中の長いのに吃驚びっくりした。三人は段々を下りて細い廊下を通った。
0703Ms.名無しさん
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2022/02/04(金) 13:15:34.300
「隧道トンネルですよ」
 お兼さんがこういって自分に教えてくれたとき、自分はそれが冗談じょうだんで、本当に地面の下ではないのだと思った。それでただ笑って薄暗いところを通り抜けた。
0704Ms.名無しさん
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2022/02/04(金) 13:15:43.380
 座敷では佐野が一人敷居際しきいぎわに洋服の片膝を立てて、煙草たばこを吹かしながら海の方を見ていた。自分達の足音を聞いた彼はすぐこっちを向いた。その時彼の額の下に、金縁きんぶちの眼鏡めがねが光った。部屋へ這入はいるとき第一に彼と顔を見合せたのは実に自分だったのである。
0705Ms.名無しさん
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2022/02/04(金) 13:16:03.920
        九

 佐野は写真で見たよりも一層御凸額おでこであった。けれども額の広いところへ、夏だから髪を短く刈かっているので、ことにそう見えたのかも知れない。初対面の挨拶あいさつをするとき、彼は「何分なにぶんよろしく」と云って頭を丁寧ていねいに下げた。この普通一般の挨拶ぶりが、場合が場合なので、自分には一種変に聞こえた。自分の胸は今までさほど責任を感じていなかったところへ急に重苦しい束縛そくばくができた。
 四人よつたりは膳ぜんに向いながら話をした。お兼さんは佐野とはだいぶ心やすい間柄あいだがらと見えて、時々向側から調戯からかったりした。
0706Ms.名無しさん
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2022/02/04(金) 13:16:12.400
「佐野さん、あなたの写真の評判が東京あっちで大変なんですって」
「どう大変なんです。――おおかた好い方へ大変なんでしょうね」
0707Ms.名無しさん
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2022/02/04(金) 13:16:21.870
「そりゃもちろんよ。嘘うそだと覚し召すならお隣りにいらっしゃる方に伺って御覧になれば解るわ」
 佐野は笑いながらすぐ自分の方を見た。自分はちょっと何とか云わなければ跋ばつが悪かった。それで真面目まじめな顔をして、「どうも写真は大阪の方が東京より発達しているようですね」と云った。すると岡田が「浄瑠璃じょうるりじゃあるまいし」と交返まぜかえした。
0708Ms.名無しさん
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2022/02/04(金) 13:16:31.470
 岡田は自分の母の遠縁に当る男だけれども、長く自分の宅うちの食客しょっかくをしていたせいか、昔から自分や自分の兄に対しては一段低い物の云い方をする習慣をもっていた。久しぶりに会った昨日きのう一昨日おとといなどはことにそうであった。ところがこうして佐野が一人新しく席に加わって見ると、友達の手前体裁が悪いという訳だか何だか、自分に対する口の利きき方が急に対等になった。ある時は対等以上に横風おうふうになった。
 四人のいる座敷の向むこうには、同じ家のだけれども棟むねの違う高い二階が見えた。障子しょうじを取り払ったその広間の中を見上げると、角帯かくおびを締しめた若い人達が大勢おおぜいいて、そのうちの一人が手拭てぬぐいを肩へかけて踊おどりかなにか躍おどっていた。「御店おたなものの懇親会というところだろう」と評し合っているうちに、十六七の小僧が手摺てすりの所へ出て来て、汚ないものを容赦ようしゃなく廂ひさしの上へ吐はいた。すると同じくらいな年輩の小僧がまた一人煙草たばこを吹かしながら出て来て、こらしっかりしろ、おれがついているから、何にも怖こわがるには及ばない、という意味を純粋の大阪弁でやり出した。今まで苦々にがにがしい顔をして手摺の方を見ていた四人はとうとう吹き出してしまった。
0709Ms.名無しさん
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2022/02/04(金) 13:16:40.360
「どっちも酔ってるんだよ。小僧の癖に」と岡田が云った。
「あなたみたいね」とお兼さんが評した。
0710Ms.名無しさん
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2022/02/04(金) 13:16:51.670
「どっちがです」と佐野が聞いた。
「両方ともよ。吐いたり管くだを捲まいたり」とお兼さんが答えた。
0712Ms.名無しさん
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2022/02/05(土) 17:20:30.240
東京都 21,122人感染 10人死亡
大阪府 12,302人感染 23人死亡
0713Ms.名無しさん
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2022/02/05(土) 19:39:18.780
 岡田はむしろ愉快な顔をしていた。自分は黙っていた。佐野は独ひとり高笑たかわらいをした。
 四人はまだ日の高い四時頃にそこを出て帰路についた。途中で分れるとき佐野は「いずれそのうちまた」と帽を取って挨拶あいさつした。三人はプラットフォームから外へ出た。
0714Ms.名無しさん
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2022/02/05(土) 19:39:29.350
「どうです、二郎さん」と岡田はすぐ自分の方を見た。
「好さそうですね」
0715Ms.名無しさん
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2022/02/05(土) 19:39:37.750
 自分はこうよりほかに答える言葉を知らなかった。それでいて、こう答えた後あとははなはだ無責任なような気がしてならなかった。同時にこの無責任を余儀なくされるのが、結婚に関係する多くの人の経験なんだろうとも考えた。
0716Ms.名無しさん
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2022/02/05(土) 19:39:52.120
        十

 自分は三沢の消息を待って、なお二三日岡田の厄介になった。実をいうと彼らは自分のよそに行って宿を取る事を許さなかったのである。自分はその間できるだけ一人で大阪を見て歩いた。すると町幅の狭いせいか、人間の運動が東京よりも溌溂はつらつと自分の眼を射るように思われたり、家並いえなみが締りのない東京より整って好ましいように見えたり、河が幾筋もあってその河には静かな水が豊かに流れていたり、眼先の変った興味が日に一つ二つは必ずあった。
0717Ms.名無しさん
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2022/02/05(土) 19:40:03.760
 佐野には浜寺でいっしょに飯を食った次の晩また会った。今度は彼の方から浴衣ゆかたがけで岡田を尋ねて来た。自分はその時もかれこれ二時間余り彼と話した。けれどもそれはただ前日の催しを岡田の家で小規模に繰返したに過ぎなかったので、新しい印象と云っては格別頭に残りようがなかった。だから本当をいうとただ世間並の人というほかに、自分は彼について何も解らなかった。けれどもまた母や岡田に対する義務としては、何も解らないで澄ましている訳にも行かなかった。自分はこの二三日の間に、とうとう東京の母へ向けて佐野と会見を結了けつりょうした旨むねの報告を書いた。
 仕方がないから「佐野さんはあの写真によく似ている」と書いた。「酒は呑のむが、呑んでも赤くならない」と書いた。「御父さんのように謡うたいをうたう代りに義太夫を勉強しているそうだ」と書いた。最後に岡田夫婦と仲の好さそうな様子を述べて、「あれほど仲の好い岡田さん夫婦の周旋だから間違はないでしょう」と書いた。一番しまいに、「要するに、佐野さんは多数の妻帯者と変ったところも何もないようです。お貞さださんも普通の細君になる資格はあるんだから、承諾したら好いじゃありませんか」と書いた。
0718Ms.名無しさん
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2022/02/05(土) 19:40:13.090
 自分はこの手紙を封じる時、ようやく義務が済んだような気がした。しかしこの手紙一つでお貞さんの運命が永久に決せられるのかと思うと、多少自分のおっちょこちょいに恥入るところもあった。そこで自分はこの手紙を封筒へ入いれたまま、岡田の所へ持って行った。岡田はすうと眼を通しただけで、「結構」と答えた。お兼さんは、てんで巻紙に手を触れなかった。自分は二人の前に坐って、双方を見較みくらべた。
「これで好いでしょうかね。これさえ出してしまえば、宅うちの方はきまるんです。したがって佐野さんもちょっと動けなくなるんですが」
0719Ms.名無しさん
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2022/02/05(土) 19:40:25.480
「結構です。それが僕らの最も希望するところです」と岡田は開き直っていった。お兼さんは同じ意味を女の言葉で繰くり返した。二人からこう事もなげに云われた自分は、それで安心するよりもかえって心元なくなった。
「何がそんなに気になるんです」と岡田が微笑しながら煙草たばこの煙を吹いた。「この事件について一番冷淡だったのは君じゃありませんか」
0720Ms.名無しさん
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2022/02/05(土) 19:40:35.470
「冷淡にゃ違ないが、あんまりお手軽過ぎて、少し双方に対して申訳がないようだから」
「お手軽どころじゃございません、それだけ長い手紙を書いていただけば。それでお母さまが御満足なさる、こちらは初はじめからきまっている。これほどおめでたい事はないじゃございませんか、ねえあなた」
0721Ms.名無しさん
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2022/02/05(土) 19:40:45.600
 お兼さんはこういって、岡田の方を見た。岡田はそうともと云わぬばかりの顔をした。自分は理窟りくつをいうのが厭いやになって、二人の目の前で、三銭切手を手紙に貼はった。
0722Ms.名無しさん
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2022/02/05(土) 19:40:56.040
        十一

 自分はこの手紙を出しっきりにして大阪を立退たちのきたかった。岡田も母の返事の来るまで自分にいて貰う必要もなかろうと云った。
「けれどもまあ緩ゆっくりなさい」
0723Ms.名無しさん
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2022/02/05(土) 19:41:21.810
        十一

 自分はこの手紙を出しっきりにして大阪を立退たちのきたかった。岡田も母の返事の来るまで自分にいて貰う必要もなかろうと云った。
「けれどもまあ緩ゆっくりなさい」
0724Ms.名無しさん
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2022/02/05(土) 19:41:31.680
 これが彼のしばしば繰り返す言葉であった。夫婦の好意は自分によく解っていた。同時に彼らの迷惑もまたよく想像された。夫婦ものに自分のような横着おうちゃくな泊り客は、こっちにも多少の窮屈きゅうくつは免まぬかれなかった。自分は電報のように簡単な端書はがきを書いたぎり何の音沙汰おとさたもない三沢が悪にくらしくなった。もし明日中あしたじゅうに何とか音信たよりがなければ、一人で高野登りをやろうと決心した。
「じゃ明日は佐野を誘って宝塚たからづかへでも行きましょう」と岡田が云い出した。自分は岡田が自分のために時間の差繰さしくりをしてくれるのが苦くになった。もっと皮肉を云えば、そんな温泉場へ行って、飲んだり食ったりするのが、お兼さんにすまないような気がした。お兼さんはちょっと見ると、派出好はでずきの女らしいが、それはむしろ色白な顔立や様子がそう思わせるので、性質からいうと普通の東京ものよりずっと地味じみであった。外へ出る夫の懐中にすら、ある程度の束縛を加えるくらい締っているんじゃないかと思われた。
0725Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/05(土) 19:41:41.630
「御酒ごしゅを召上らない方かたは一生のお得ですね」
 自分の杯さかずきに親しまないのを知ったお兼さんは、ある時こういう述懐じゅっかいを、さも羨うらやましそうに洩もらした事さえある。それでも岡田が顔を赤くして、「二郎さん久しぶりに相撲すもうでも取りましょうか」と野蛮な声を出すと、お兼さんは眉まゆをひそめながら、嬉うれしそうな眼つきをするのが常であったから、お兼さんは旦那の酔ようのが嫌きらいなのではなくって、酒に費用ついえのかかるのが嫌いなのだろうと、自分は推察していた。
0726Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/05(土) 19:41:50.760
 自分はせっかくの好意だけれども宝塚行を断ことわった。そうして腹の中で、あしたの朝岡田の留守に、ちょっと電車に乗って一人で行って様子を見て来きようと取りきめた。岡田は「そうですか。文楽ぶんらくだと好いんだけれどもあいにく暑いんで休んでいるもんだから」と気の毒そうに云った。
 翌朝よくあさ自分は岡田といっしょに家うちを出た。彼は電車の上で突然自分の忘れかけていたお貞さんの結婚問題を持ち出した。
0727Ms.名無しさん
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2022/02/05(土) 19:42:00.040
「僕はあなたの親類だと思ってやしません。あなたのお父さんやお母さんに書生として育てられた食客しょっかくと心得ているんです。僕の今の地位だって、あのお兼だって、みんなあなたの御両親のお蔭かげでできたんです。だから何か御恩返しをしなくっちゃすまないと平生から思ってるんです。お貞さんの問題もつまりそれが動機でしたんですよ。けっして他意はないんですからね」
 お貞さんは宅うちの厄介ものだから、一日も早くどこかへ嫁に世話をするというのが彼の主意であった。自分は家族の一人として岡田の好意を謝すべき地位にあった。
0728Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/06(日) 09:35:36.350
「お宅たくじゃ早くお貞さんを片づけたいんでしょう」
 自分の父も母も実際そうなのである。けれどもこの時自分の眼にはお貞さんと佐野という縁故も何もない二人がいっしょにかつ離れ離れに映じた。
0729Ms.名無しさん
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2022/02/06(日) 09:35:46.910
「旨うまく行くでしょうか」
「そりゃ行くだろうじゃありませんか。僕とお兼を見たって解るでしょう。結婚してからまだ一度も大喧嘩おおげんかをした事なんかありゃしませんぜ」
0730Ms.名無しさん
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2022/02/06(日) 09:35:54.910
「あなた方がたは特別だけれども……」
「なにどこの夫婦だって、大概似たものでさあ」
0731Ms.名無しさん
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2022/02/06(日) 09:36:04.250
 岡田と自分はそれでこの話を切り上げた。
0732Ms.名無しさん
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2022/02/06(日) 09:36:14.210
        十二

 三沢の便たよりははたして次の日の午後になっても来なかった。気の短い自分にはこんなズボラを待ってやるのが腹立はらだたしく感ぜられた、強しいてもこれから一人で立とうと決心した。
「まあもう一日いちんち二日ふつかはよろしいじゃございませんか」とお兼さんは愛嬌あいきょうに云ってくれた。自分が鞄かばんの中へ浴衣ゆかたや三尺帯さんじゃくおびを詰めに二階へ上あがりかける下から、「是非そうなさいましよ」とおっかけるように留めた。それでも気がすまなかったと見えて、自分が鞄の始末をした頃、上あがり口ぐちへ顔を出して、「おやもう御荷物の仕度をなすったんですか。じゃ御茶でも入れますから、御緩ごゆっくりどうぞ」と降りて行った。
0733Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/06(日) 09:36:23.340
 自分は胡坐あぐらのまま旅行案内をひろげた。そうして胸の中うちでかれこれと時間の都合を考えた。その都合がなかなか旨うまく行かないので、仰向あおむけになってしばらく寝て見た。すると三沢といっしょに歩く時の愉快がいろいろに想像された。富士を須走口すばしりぐちへ降りる時、滑すべって転んで、腰にぶら下げた大きな金明水きんめいすい入の硝子壜ガラスびんを、壊こわしたなり帯へ括くくりつけて歩いた彼の姿扮すがたなどが眼に浮んだ。ところへまた梯子段はしごだんを踏むお兼さんの足音がしたので、自分は急に起き直った。
 お兼さんは立ちながら、「まあ好かった」と一息吐ついたように云って、すぐ自分の前に坐すわった。そうして三沢から今届いた手紙を自分に渡した。自分はすぐ封を開いて見た。
0734Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/06(日) 09:36:33.620
「とうとう御着おつきになりましたか」
 自分はちょっとお兼さんに答える勇気を失った。三沢は三日前大阪に着いて二日ばかり寝たあげくとうとう病院に入ったのである。自分は病院の名を指さしてお兼さんに地理を聞いた。お兼さんは地理だけはよく呑のみ込んでいたが、病院の名は知らなかった。自分はとにかく鞄かばんを提さげて岡田の家を出る事にした。
0735Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/06(日) 09:36:42.660
「どうもとんだ事でございますね」とお兼さんは繰り返し繰り返し気の毒がった。断ことわるのを無理に、下女が鞄を持って停車場ステーションまで随ついて来た。自分は途中でなおもこの下女を返そうとしたが、何とか云ってなかなか帰らなかった。その言葉は解るには解るが、自分のようにこの土地に親しみのないものにはとても覚えられなかった。別れるとき今まで世話になった礼に一円やったら「さいなら、お機嫌きげんよう」と云った。
 電車を下りて俥くるまに乗ると、その俥は軌道レールを横切って細い通りを真直まっすぐに馳かけた。馳け方があまり烈はげしいので、向うから来る自転車だの俥だのと幾度いくたびか衝突しそうにした。自分ははらはらしながら病院の前に降おろされた。
0736Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/06(日) 09:36:51.790
 鞄を持ったまま三階に上あがった自分は、三沢を探すため方々の室へやを覗のぞいて歩いた。三沢は廊下の突き当りの八畳に、氷嚢ひょうのうを胸の上に載のせて寝ていた。
「どうした」と自分は室に入るや否や聞いた。彼は何も答えずに苦笑している。「また食い過ぎたんだろう」と自分は叱るように云ったなり、枕元に胡坐あぐらをかいて上着うわぎを脱いだ。
0737Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/06(日) 09:37:00.060
「そこに蒲団ふとんがある」と三沢は上眼うわめを使って、室の隅すみを指した。自分はその眼の様子と頬の具合を見て、これはどのくらい重い程度の病気なんだろうと疑った。
「看護婦はついてるのかい」
0738Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/06(日) 09:37:07.490
「うん。今どこかへ出て行った」
0739Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/06(日) 09:37:17.050
        十三

 三沢は平生から胃腸のよくない男であった。ややともすると吐いたり下したりした。友達はそれを彼の不養生からだと評し合った。当人はまた母の遺伝で体質から来るんだから仕方がないと弁解していた。そうして消化器病の書物などをひっくり返して、アトニーとか下垂性かすいせいとかトーヌスとかいう言葉を使った。自分などが時々彼に忠告めいた事をいうと、彼は素人しろうとが何を知るものかと云わぬばかりの顔をした。
「君アルコールは胃で吸収されるものか、腸で吸収されるものか知ってるか」などと澄ましていた。そのくせ病気になると彼はきっと自分を呼んだ。自分もそれ見ろと思いながら必ず見舞に出かけた。彼の病気は短くて二三日長くて一二週間で大抵は癒なおった。それで彼は彼の病気を馬鹿にしていた。他人の自分はなおさらであった。
0740Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/06(日) 09:37:26.450
 けれどもこの場合自分はまず彼の入院に驚かされていた。その上に胃の上の氷嚢ひょうのうでまた驚かされた。自分はそれまで氷嚢は頭か心臓の上でなければ載のせるものでないとばかり信じていたのである。自分はぴくんぴくんと脈を打つ氷嚢を見つめて厭いやな心持になった。枕元に坐っていればいるほど、付景気つけげいきの言葉がだんだん出なくなって来た。
 三沢は看護婦に命じて氷菓子アイスクリームを取らせた。自分がその一杯に手を着けているうちに、彼は残る一杯を食うといい出した。自分は薬と定食以外にそんなものを口にするのは好くなかろうと思ってとめにかかった。すると三沢は怒った。
0741Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/06(日) 09:37:36.040
「君は一杯の氷菓子を消化するのに、どのくらい強壮な胃が必要だと思うのか」と真面目まじめな顔をして議論を仕かけた。自分は実のところ何にも知らないのである。看護婦は、よかろうけれども念のためだからと云って、わざわざ医局へ聞きに行った。そうして少量なら差支さしつかえないという許可を得て来た。
 自分は便所に行くとき三沢に知れないように看護婦を呼んで、あの人の病気は全体何というんだと聞いて見た。看護婦はおおかた胃が悪いんだろうと答えた。それより以上の事を尋ねると、今朝看護婦会から派出されたばかりで、何もまだ分らないんだと云って平気でいた。仕方なしに下へ降りて医員に尋ねたら、その男もまだ三沢の名を知らなかった。けれども患者の病名だの処方だのを書いた紙箋しせんを繰って、胃が少し糜爛ただれたんだという事だけ教えてくれた。
0742Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/06(日) 09:37:46.180
 自分はまた三沢の傍そばへ行った。彼は氷嚢を胃の上に載せたまま、「君その窓から外を見てみろ」、と云った。窓は正面に二つ側面に一つあったけれども、いずれも西洋式で普通より高い上に、病人は日本の蒲団ふとんを敷いて寝ているんだから、彼の眼には強い色の空と、電信線の一部分が筋違すじかいに見えるだけであった。
 自分は窓側まどぎわに手を突いて、外を見下みおろした。すると何よりもまず高い煙突から出る遠い煙が眼に入いった。その煙は市全体を掩おおうように大きな建物の上を這はい廻っていた。
0744Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/07(月) 09:02:51.920
【維新】橋下徹、トーンダウンする「ヒトラーに例えるのは国際的にご法度」→
「常識人の間ではご法度」→「僕は一律禁止という考え」
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1644151339/
0747Ms.名無しさん
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2022/02/07(月) 10:45:45.070
「河が見えるだろう」と三沢が云った。
 大きな河が左手の方に少し見えた。
0748Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/07(月) 10:45:54.200
「山も見えるだろう」と三沢がまた云った。
 山は正面にさっきから見えていた。
0749Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/07(月) 10:46:02.720
 それが暗くらがり峠とうげで、昔は多分大きな木ばかり生えていたのだろうが、今はあの通り明るい峠に変化したんだとか、もう少しするとあの山の下を突つき貫ぬいて、奈良へ電車が通うようになるんだとか、三沢は今誰かから聞いたばかりの事を元気よく語った。自分はこれなら大した心配もないだろうと思って病院を出た。
0750Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/07(月) 10:46:12.090
        十四

 自分は別に行く所もなかったので、三沢の泊った宿の名を聞いて、そこへ俥くるまで乗りつけた。看護婦はつい近くのように云ったが、始めての自分にはかなりの道程みちのりと思われた。
 その宿には玄関も何にもなかった。這入はいってもいらっしゃいと挨拶あいさつに出る下女もなかった。自分は三沢の泊ったという二階の一間ひとまに通された。手摺てすりの前はすぐ大きな川で、座敷から眺ながめていると、大変涼すずしそうに水は流れるが、向むきのせいか風は少しも入らなかった。夜よに入いって向側に点ぜられる灯火のきらめきも、ただ眼に少しばかりの趣おもむきを添えるだけで、涼味という感じにはまるでならなかった。
0751Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/07(月) 10:46:21.420
 自分は給仕の女に三沢の事を聞いて始めて知った。彼は二日ふつかここに寝たあげく、三日目に入院したように記憶していたが実はもう一日前の午後に着いて、鞄かばんを投げ込んだまま外出して、その晩の十時過に始めて帰って来たのだそうである。着いた時には五六人の伴侶つれがいたが、帰りにはたった一人になっていたと下女は告げた。自分はその五六人の伴侶の何人なんびとであるかについて思い悩んだ。しかし想像さえ浮ばなかった。
「酔ってたかい」と自分は下女に聞いて見た。そこは下女も知らなかった。けれども少し経たって吐はいたから酔っていたんだろうと答えた。
0752Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/07(月) 10:46:30.220
 自分はその夜よ蚊帳かやを釣って貰って早く床とこに這入はいった。するとその蚊帳に穴があって、蚊かが二三疋びき這入って来た。団扇うちわを動かして、それを払はらい退のけながら寝ようとすると、隣の室へやの話し声が耳についた。客は下女を相手に酒でも呑んでいるらしかった。そうして警部だとかいう事であった。自分は警部の二字に多少の興味があった。それでその人の話を聞いて見る気になったのである。すると自分の室を受持っている下女が上って来て、病院から電話だと知らせた。自分は驚いて起き上った。
 電話の相手は三沢の看護婦であった。病人の模様でも急に変ったのかと思って心配しながら用事を聞いて見ると病人から、明日あしたはなるべく早く来てくれ、退屈で困るからという伝言に過ぎなかった。自分は彼の病気がはたしてそう重くないんだと断定した。「何だそんな事か、そういうわがままはなるべく取次とりつがないが好い」と叱りつけるように云ってやったが、後で看護婦に対して気の毒になったので、「しかし行く事は行くよ。君が来てくれというなら」とつけ足たして室へ帰った。
0753Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/07(月) 10:46:38.860
 下女はいつ気がついたか、蚊帳の穴を針と糸で塞ふさいでいた。けれどもすでに這入っている蚊はそのままなので、横になるや否や、時々額や鼻の頭の辺あたりでぶうんと云う小ちいさい音がした。それでもうとうとと寝た。すると今度は右の方の部屋でする話声で眼が覚さめた。聞いているとやはり男と女の声であった。自分はこっち側がわに客は一人もいないつもりでいたので、ちょっと驚かされた。しかし女が繰返くりかえして、「そんならもう帰して貰いますぜ」というような言葉を二三度用いたので、隣の客が女に送られて茶屋からでも帰って来たのだろうと推察してまた眠りに落ちた。
 それからもう一度下女が雨戸を引く音に夢を破られて、最後に起き上ったのが、まだ川の面おもてに白い靄もやが薄く見える頃だったから、正味しょうみ寝たのは何時間にもならなかった。
0754Ms.名無しさん
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2022/02/07(月) 10:46:47.560
        十五

 三沢の氷嚢ひょうのうは依然としてその日も胃の上に在あった。
「まだ氷で冷やしているのか」
0755Ms.名無しさん
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2022/02/07(月) 10:46:57.270
 自分はいささか案外な顔をしてこう聞いた。三沢にはそれが友達甲斐がいもなく響いたのだろう。
「鼻風邪はなかぜじゃあるまいし」と云った。
0756Ms.名無しさん
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2022/02/07(月) 10:47:05.940
 自分は看護婦の方を向いて、「昨夕ゆうべは御苦労さま」と一口礼を述べた。看護婦は色の蒼あおい膨ふくれた女であった。顔つきが絵にかいた座頭に好く似ているせいか、普通彼らの着る白い着物がちっとも似合わなかった。岡山のもので、小さい時膿毒性のうどくしょうとかで右の眼を悪くしたんだと、こっちで尋ねもしない事を話した。なるほどこの女の一方の眼には白い雲がいっぱいにかかっていた。
「看護婦さん、こんな病人に優しくしてやると何を云い出すか分らないから、好加減いいかげんにしておくがいいよ」
0757Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/07(月) 10:47:14.250
 自分は面白半分わざと軽薄な露骨ろこつを云って、看護婦を苦笑くしょうさせた。すると三沢が突然「おい氷だ」と氷嚢を持ち上げた。
 廊下の先で氷を割る音がした時、三沢はまた「おい」と云って自分を呼んだ。
0758Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/07(月) 10:47:23.720
「君には解るまいが、この病気を押していると、きっと潰瘍かいようになるんだ。それが危険だから僕はこうじっとして氷嚢を載のせているんだ。ここへ入院したのも、医者が勧めたのでも、宿で周旋して貰ったのでもない。ただ僕自身が必要と認めて自分で入ったのだ。酔興じゃないんだ」
 自分は三沢の医学上の智識について、それほど信を置き得なかった。けれどもこう真面目まじめに出られて見ると、もう交まぜ返かえす勇気もなかった。その上彼のいわゆる潰瘍とはどんなものか全く知らなかった。
0759Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/07(月) 10:47:31.910
 自分は起たって窓側まどぎわへ行った。そうして強い光に反射して、乾いた土の色を見せている暗くらがり峠とうげを望んだ。ふと奈良へでも遊びに行って来きようかという気になった。
「君その様子じゃ当分約束を履行りこうする訳にも行かないだろう」
0760Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/07(月) 10:47:41.900
「履行しようと思って、これほどの養生をしているのさ」
 三沢はなかなか強情の男であった。彼の強情につき合えば、彼の健康が旅行に堪たえ得るまで自分はこの暑い都の中で蒸むされていなければならなかった。
0761Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/07(月) 10:47:50.590
「だって君の氷嚢はなかなか取れそうにないじゃないか」
「だから早く癒なおるさ」
0763Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/07(月) 17:53:56.740
検査陽性率(2/6)

1 神奈川県 79.49%
2 東京都 64.96%
3 熊本県 57.14%
4 岡山県 53.22%
5 京都府 52.93%
6 千葉県 52.54%
7 兵庫県 51.65%
8 秋田県 44.01%
9 栃木県 43.19%
10 埼玉県 43.07%
11 大阪府 41.09%
12 山形県 40.60%
… 全国 40.37%
13 群馬県 39.63%
14 青森県 39.58%
15 和歌山県 38.46%
16 愛知県 37.71%
17 北海道 37.45%
18 奈良県 37.18%
19 石川県 36.50%
20 福岡県 35.06%
21 静岡県 34.25%
22 沖縄県 33.31%
23 茨城県 32.50%
24 長崎県 32.07%
0764Ms.名無しさん
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2022/02/08(火) 07:45:13.780
日産がエンジン開発終了へ まずは欧州、日中も段階的に
日本経済新聞 4時間前 
0772Ms.名無しさん
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2022/02/08(火) 07:56:34.680
どうなる「日本の医」上昌広
日本のコロナ検査キット不足は厚労省が抑制してきたから 海外とは雲泥の差
0773Ms.名無しさん
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2022/02/08(火) 10:19:14.190
自分は彼とこういう談話を取り換かわせているうちに、彼の強情のみならず、彼のわがままな点をよく見て取った。同時に一日も早く病人を見捨てて行こうとする自分のわがままもまたよく自分の眼に映った。
「君大阪へ着いたときはたくさん伴侶つれがあったそうじゃないか」
0774Ms.名無しさん
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2022/02/08(火) 10:19:23.540
「うん、あの連中と飲んだのが悪かった」
 彼の挙げた姓名のうちには、自分の知っているものも二三あった。三沢は彼らと名古屋からいっしょの汽車に乗ったのだが、いずれも馬関とか門司とか福岡とかまで行く人であるにかかわらず久しぶりだからというので、皆みんな大阪で降りて三沢と共に飯を食ったのだそうである。
0775Ms.名無しさん
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2022/02/08(火) 10:19:31.370
 自分はともかくももう二三日いて病人の経過を見た上、どうとかしようと分別ふんべつした。
0776Ms.名無しさん
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2022/02/08(火) 10:19:41.660
        十六

 その間自分は三沢の付添のように、昼も晩も大抵は病院で暮した。孤独な彼は実際毎日自分を待受けているらしかった。それでいて顔を合わすと、けっして礼などは云わなかった。わざわざ草花を買って持って行ってやっても、憤むっと膨ふくれている事さえあった。自分は枕元で書物を読んだり、看護婦を相手にしたり、時間が来ると病人に薬を呑のませたりした。朝日が強く差し込む室へやなので、看護婦を相手に、寝床ねどこを影の方へ移す手伝もさせられた。
 自分はこうしているうちに、毎日午前中に回診する院長を知るようになった。院長は大概黒のモーニングを着て医員と看護婦を一人ずつ随えていた。色の浅黒い鼻筋の通った立派な男で、言葉遣ことばづかいや態度にも容貌ようぼうの示すごとく品格があった。三沢は院長に会うと、医学上の知識をまるでもっていない自分たちと同じような質問をしていた。「まだ容易に旅行などはできないでしょうか」「潰瘍かいようになると危険でしょうか」「こうやって思い切って入院した方が、今考えて見るとやっぱり得策だったんでしょうか」などと聞くたびに院長は「ええまあそうです」ぐらいな単簡たんかんな返答をした。自分は平生解らない術語を使って、他ひとを馬鹿にする彼が、院長の前でこう小さくなるのを滑稽こっけいに思った。
0777Ms.名無しさん
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2022/02/08(火) 10:19:53.910
 彼の病気は軽いような重いような変なものであった。宅うちへ知らせる事は当人が絶対に不承知であった。院長に聞いて見ると、嘔気はきけが来なければ心配するほどの事もあるまいが、それにしてももう少しは食慾が出るはずだと云って、不思議そうに考え込んでいた。自分は去就きょしゅうに迷った。
 自分が始めて彼の膳ぜんを見たときその上には、生豆腐なまどうふと海苔のりと鰹節かつぶしの肉汁ソップが載のっていた。彼はこれより以上箸はしを着ける事を許されなかったのである。自分はこれでは前途遼遠ぜんとりょうえんだと思った。同時にその膳に向って薄い粥かゆを啜すする彼の姿が変に痛ましく見えた。自分が席を外はずして、つい近所の洋食屋へ行って支度したくをして帰って来ると、彼はきっと「旨うまかったか」と聞いた。自分はその顔を見てますます気の毒になった。
0778Ms.名無しさん
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2022/02/08(火) 10:20:02.560
「あの家うちはこの間君と喧嘩けんかした氷菓子アイスクリームを持って来る家だ」
 三沢はこういって笑っていた。自分は彼がもう少し健康を回復するまで彼の傍そばにいてやりたい気がした。
0779Ms.名無しさん
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2022/02/08(火) 10:20:11.260
 しかし宿へ帰ると、暑苦しい蚊帳かやの中で、早く涼しい田舎いなかへ行きたいと思うことが多かった。この間の晩女と話をして人の眠を妨さまたげた隣の客はまだ泊っていた。そうして自分の寝ようとする頃に必ず酒気しゅきを帯びて帰って来た。ある時は宿で酒を飲んで、芸者を呼べと怒鳴どなっていた。それを下女がさまざまにごまかそうとしてしまいには、あの女はあなたの前へ出ればこそ、あんな愛嬌あいきょうをいうものの、蔭かげではあなたの悪口ばかり並べるんだから止やめろと忠告していた。すると客は、なにおれの前へ出た時だけ御世辞おせじを云ってくれりゃそれで嬉うれしいんだ、蔭で何と云ったって聞えないから構わないと答えていた。ある時はこれも芸者が何か真面目まじめな話を持ち込んで来たのを、今度は客の方でごまかそうとして、その芸者から他ひとの話を「じゃん、じゃか、じゃん」にしてしまうと云って怒られていた。
 自分はこんな事で安眠を妨害されて、実際迷惑を感じた。
0780Ms.名無しさん
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2022/02/08(火) 10:20:20.460
        十七

 そんなこんなで好く眠られなかった朝、もう看病は御免蒙ごめんこうむるという気で、病院の方へ橋を渡った。すると病人はまだすやすや眠っていた。
 三階の窓から見下みおろすと、狭い通なので、門前の路みちが細く綺麗きれいに見えた。向側は立派な高塀たかべいつづきで、その一つの潜くぐりの外へ主人あるじらしい人が出て、如露じょうろで丹念たんねんに往来を濡ぬらしていた。塀の内には夏蜜柑なつみかんのような深緑の葉が瓦かわらを隠すほど茂っていた。
0781Ms.名無しさん
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2022/02/08(火) 10:20:30.710
 院内では小使が丁字形ていじけいの棒の先へ雑巾ぞうきんを括くくり付けて廊下をぐんぐん押して歩いた。雑巾をゆすがないので、せっかく拭いた所がかえって白く汚れた。軽い患者はみな洗面所へ出て顔を洗った。看護婦の払塵はたきの声がここかしこで聞こえた。自分は枕まくらを借りて、三沢の隣の空室あきべやへ、昨夕ゆうべの睡眠不足を補いに入った。
 その室へやも朝日の強く当る向むきにあるので、一寝入するとすぐ眼が覚さめた。額や鼻の頭に汗と油が一面に浮き出しているのも不愉快だった。自分はその時岡田から電話口へ呼ばれた。岡田が病院へ電話をかけたのはこれで三度目である。彼はきまりきって、「御病人の御様子はどうです」と聞く。「二三日中うち是非伺います」という。「何でも御用があるなら御遠慮なく」という。最後にきっとお兼さんの事を一口二口つけ加えて、「お兼からもよろしく」とか、「是非お遊びにいらっしゃるように妻さいも申しております」とか、「うちの方が忙がしいんで、つい御無沙汰ごぶさたをしています」とか云う。
0782Ms.名無しさん
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2022/02/08(火) 10:20:38.690
 その日も岡田の話はいつもの通りであった。けれども一番しまいに、「今から一週間内……と断定する訳には行かないが、とにかくもう少しすると、あなたをちょいと驚かせる事が出て来るかも知れませんよ」と妙な事を仄ほのめかした。自分は全く想像がつかないので、全体どんな話なんですかと二三度聞き返したが、岡田は笑いながら、「もう少しすれば解ります」というぎりなので、自分もとうとうその意味を聞かないで、三沢の室へやへ帰って来た。
「また例の男かい」と三沢が云った。
0783Ms.名無しさん
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2022/02/08(火) 10:22:21.800
 自分は今の岡田の電話が気になって、すぐ大阪を立つ話を持ち出す心持になれなかった。すると思いがけない三沢の方から「君もう大阪は厭いやになったろう。僕のためにいて貰う必要はないから、どこかへ行くなら遠慮なく行ってくれ」と云い出した。彼はたとい病院を出る場合が来ても、むやみな山登りなどは当分慎まなければならないと覚さとったと説明して聞かせた。
「それじゃ僕の都合の好いようにしよう」
0784Ms.名無しさん
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2022/02/08(火) 10:22:30.370
 自分はこう答えてしばらく黙っていた。看護婦は無言のまま室の外に出て行った。自分はその草履ぞうりの音の消えるのを聞いていた。それから小さい声をして三沢に、「金はあるか」と尋ねた。彼は己おのれの病気をまだ己れの家に知らせないでいる。それにたった一人の知人たる自分が、彼の傍そばを立ち退のいたら、精神上よりも物質的に心細かろうと自分は懸念けねんした。
「君に才覚ができるのかい」と三沢は聞いた。
0785Ms.名無しさん
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2022/02/08(火) 10:22:39.730
「別に目的あてもないが」と自分は答えた。
「例の男はどうだい」と三沢が云った。
0786Ms.名無しさん
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2022/02/08(火) 10:22:48.860
「岡田か」と自分は少し考え込んだ。
 三沢は急に笑い出した。
0787Ms.名無しさん
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2022/02/08(火) 10:22:58.270
「何いざとなればどうかなるよ。君に算段して貰わなくっても。金はあるにはあるんだから」と云った。
0788Ms.名無しさん
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2022/02/08(火) 12:32:03.090
IT大手の「アマゾン」優秀な人材を確保するため、基本年収をおよそ4000万円に引き上げ
https://www.khb-tv.co.jp/news/14543341
0792Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/08(火) 14:11:25.200
14:02発表
・1月日本 景気ウォッチャー調査[現状判断DI] 37.9(予想 48.2・前回 56.4)
・1月日本 景気ウォッチャー調査[先行き判断DI] 42.5(予想 45.8・前回 49.4)
0798Ms.名無しさん
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2022/02/09(水) 13:37:55.010
d
0800Ms.名無しさん
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2022/02/09(水) 16:22:13.230
        十八

 金の事はついそれなりになった。自分は岡田へ金を借りに行く時の思いを想像すると実際厭いやだった。病気に罹かかった友達のためだと考えても、少しも進む気はしなかった。その代りこの地を立つとも立たないとも決心し得ないでぐずぐずした。
 岡田からの電話はかかって来た時大おおいに自分の好奇心を動揺させたので、わざわざ彼に会って真相を聞き糺ただそうかと思ったけれども、一晩経たつとそれも面倒になって、ついそのままにしておいた。
0801Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/09(水) 16:22:24.380
 自分は依然として病院の門を潜くぐったり出たりした。朝九時頃玄関にかかると、廊下も控所も外来の患者でいっぱいに埋うまっている事があった。そんな時には世間にもこれほど病人があり得るものかとわざと驚いたような顔をして、彼らの様子を一順いちじゅん見渡してから、梯子段はしごだんに足をかけた。自分が偶然あの女を見出だしたのは全くこの一瞬間にあった。あの女というのは三沢があの女あの女と呼ぶから自分もそう呼ぶのである。
 あの女はその時廊下の薄暗い腰掛の隅すみに丸くなって横顔だけを見せていた。その傍そばには洗髪あらいがみを櫛巻くしまきにした背の高い中年の女が立っていた。自分の一瞥いちべつはまずその女の後姿うしろすがたの上に落ちた。そうして何だかそこにぐずぐずしていた。するとその年増としまが向うへ動き出した。あの女はその年増の影から現われたのである。その時あの女は忍耐の像のように丸くなってじっとしていた。けれども血色にも表情にも苦悶くもんの迹あとはほとんど見えなかった。自分は最初その横顔を見た時、これが病人の顔だろうかと疑った。ただ胸が腹に着くほど背中を曲げているところに、恐ろしい何物かが潜ひそんでいるように思われて、それがはなはだ不快であった。自分は階段を上のぼりつつ、「あの女」の忍耐と、美しい容貌ようぼうの下に包んでいる病苦とを想像した。
0802Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/09(水) 16:22:33.490
 三沢は看護婦から病院のAという助手の話を聞かされていた。このAさんは夜になって閑ひまになると、好く尺八しゃくはちを吹く若い男であった。独身ひとりもので病院に寝泊りをして、室へやは三沢と同じ三階の折れ曲った隅にあった。この間まで始終しじゅう上履スリッパーの音をぴしゃぴしゃ云わして歩いていたが、この二三日まるで顔を見せないので、三沢も自分も、どうかしたのかねぐらいは噂うわさし合っていたのである。
 看護婦はAさんが時々跛びっこを引いて便所へ行く様子がおかしいと云って笑った。それから病院の看護婦が時々ガーゼと金盥かなだらいを持ってAさんの部屋へ入って行くところを見たとも云った。三沢はそういう話に興味があるでもなく、また無いでもないような無愛嬌ぶあいきょうな顔をして、ただ「ふん」とか「うん」とか答えていた。
0803Ms.名無しさん
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2022/02/09(水) 16:22:42.900
 彼はまた自分にいつまで大阪にいるつもりかと聞いた。彼は旅行を断念してから、自分の顔を見るとよくこう云った。それが自分には遠慮がましくかつ催促がましく聞こえてかえって厭いやであった。
「僕の都合で帰ろうと思えばいつでも帰るさ」
0804Ms.名無しさん
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2022/02/09(水) 16:22:51.300
「どうかそうしてくれ」
 自分は立って窓から真下を見下した。「あの女」はいくら見ていても門の外へ出て来なかった。
0805Ms.名無しさん
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2022/02/09(水) 16:22:59.060
「日の当る所へわざわざ出て何をしているんだ」と三沢が聞いた。
「見ているんだ」と自分は答えた。
0806Ms.名無しさん
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2022/02/09(水) 16:23:05.730
「何を見ているんだ」と三沢が聞き返した。
0807Ms.名無しさん
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2022/02/09(水) 16:23:13.990
       十九

 自分はそれでも我慢して容易に窓側まどぎわを離れなかった。つい向うに見える物干に、松だの石榴ざくろだのの盆栽が五六鉢はち並んでいる傍そばで、島田に結いった若い女が、しきりに洗濯ものを竿さおの先に通していた。自分はちょっとその方を見てはまた下を向いた。けれども待ち設けている当人はいつまで経たっても出て来る気色けしきはなかった。自分はとうとう暑さに堪たえ切れないでまた三沢の寝床の傍へ来て坐すわった。彼は自分の顔を見て、「どうも強情な男だな、他ひとが親切に云ってやればやるほど、わざわざ日の当る所に顔を曝さらしているんだから。君の顔は真赤まっかだよ」と注意した。自分は平生から三沢こそ強情な男だと思っていた。それで「僕の窓から首を出していたのは、君のような無意味な強情とは違う。ちゃんと目的があってわざと首を出したんだ」と少しもったいをつけて説明した。その代り肝心かんじんの「あの女」の事をかえって云い悪にくくしてしまった。
 ほど経へて三沢はまた「先刻さっきは本当に何か見ていたのか」と笑いながら聞いた。自分はこの時もう気が変っていた。「あの女」を口にするのが愉快だった。どうせ強情な三沢の事だから、聞けばきっと馬鹿だとか下らないとか云って自分を冷罵するに違ないとは思ったが、それも気にはならなかった。そうしたら実は「あの女」について自分はある原因から特別の興味をもつようになったのだぐらい答えて、三沢を少し焦じらしてやろうという下心さえ手伝った。
0808Ms.名無しさん
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2022/02/09(水) 16:23:28.690
 
 ところが三沢は自分の予期とはまるで反対の態度で、自分のいう一句一句をさも感心したらしく聞いていた。自分も乗気になって一二分で済むところを三倍ほどに語り続けた。一番しまいに自分の言葉が途切れた時、三沢は「それは無論素人しろうとなんじゃなかろうな」と聞いた。自分は「あの女」を詳くわしく説明したけれども、つい芸者という言葉を使わなかったのである。
「芸者ならことによると僕の知っている女かも知れない」
0809Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/09(水) 16:23:35.370
 自分は驚かされた。しかしてっきり冗談じょうだんだろうと思った。けれども彼の眼はその反対を語っていた。そのくせ口元は笑っていた。彼は繰り返して「あの女」の眼つきだの鼻つきだのを自分に問うた。自分は梯子段はしごだんを上のぼる時、その横顔を見たぎりなので、そう詳しい事は答えられないほどであった。自分にはただ背中を折って重なり合っているような憐あわれな姿勢だけがありありと眼に映った。
「きっとあれだ。今に看護婦に名前を聞かしてやろう」
0810Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/09(水) 16:23:43.340
 三沢はこう云って薄笑いをした。けれども自分を担かついでる様子はさらに見えなかった。自分は少し釣り込まれた気味で、彼と「あの女」との関係を聞こうとした。
「今に話すよ。あれだと云う事が確に分ったら」
0811Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/09(水) 16:23:52.030
 そこへ病院の看護婦が「回診です」と注意しに来たので、「あの女」の話はそれなり途切とぎれてしまった。自分は回診の混雑を避けるため、時間が来ると席を外はずして廊下へ出たり、貯水桶ちょすいおけのある高いところへ出たりしていたが、その日は手近にある帽を取って、梯子段を下まで降りた。「あの女」がまだどこかにいそうな気がするので、自分は玄関の入口に佇立たたずんで四方を見廻した。けれども廊下にも控室にも患者の影はなかった。
0812Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/09(水) 16:23:59.770
        二十

 その夕方の空が風を殺して静まり返った灯ひともし頃、自分はまた曲りくねった段々を急ぎ足に三沢の室へやまで上のぼった。彼は食後と見えて蒲団ふとんの上に胡坐あぐらをかいて大きくなっていた。
「もう便所へも一人で行くんだ。肴さかなも食っている」
0813Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/09(水) 16:24:08.320
 これが彼のその時の自慢であった。
 窓は三みっつ共とも明け放ってあった。室が三階で前に目を遮さえぎるものがないから、空は近くに見えた。その中に燦きらめく星も遠慮なく光を増して来た。三沢は団扇うちわを使いながら、「蝙蝠こうもりが飛んでやしないか」と云った。看護婦の白い服が窓の傍そばまで動いて行って、その胴から上がちょっと窓枠まどわくの外へ出た。自分は蝙蝠こうもりよりも「あの女」の事が気にかかった。「おい、あの事は解ったか」と聞いて見た。
0814Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/09(水) 16:24:16.110
「やっぱりあの女だ」
 三沢はこう云いながら、ちょっと意味のある眼遣めづかいをして自分を見た。自分は「そうか」と答えた。その調子が余り高いという訳なんだろう、三沢は団扇でぱっと自分の顔を煽あおいだ。そうして急に持ち交かえた柄えの方を前へ出して、自分達のいる室の筋向うを指さした。
0815Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/09(水) 16:24:24.100
「あの室へ這入はいったんだ。君の帰った後あとで」
 三沢の室は廊下の突き当りで往来の方を向いていた。女の室は同じ廊下の角かどで、中庭の方から明りを取るようにできていた。暑いので両方共入り口は明けたまま、障子しょうじは取り払ってあったから、自分のいる所から、団扇の柄で指さし示された部屋の入口は、四半分ほど斜めに見えた。しかしそこには女の寝ている床とこの裾すそが、画えの模様のように三角に少し出ているだけであった。
0817Ms.名無しさん
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2022/02/10(木) 10:30:57.700
【東北大学の調査】
1日に2合以上、飲酒する人は飲まない人より抗体の量が20%少なく、
たばこを吸う人は吸わない人より26%少ない
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1644455895/
0819Ms.名無しさん
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2022/02/10(木) 15:48:13.740
        一

 梅田うめだの停車場ステーションを下おりるや否いなや自分は母からいいつけられた通り、すぐ俥くるまを雇やとって岡田おかだの家に馳かけさせた。岡田は母方の遠縁に当る男であった。自分は彼がはたして母の何に当るかを知らずにただ疎うとい親類とばかり覚えていた。
 大阪へ下りるとすぐ彼を訪とうたのには理由があった。自分はここへ来る一週間前ある友達と約束をして、今から十日以内に阪地はんちで落ち合おう、そうしていっしょに高野こうや登りをやろう、もし時日じじつが許すなら、伊勢から名古屋へ廻まわろう、と取りきめた時、どっちも指定すべき場所をもたないので、自分はつい岡田の氏名と住所を自分の友達に告げたのである。
0820Ms.名無しさん
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2022/02/10(木) 15:48:23.170
「じゃ大阪へ着き次第、そこへ電話をかければ君のいるかいないかは、すぐ分るんだね」と友達は別れるとき念を押した。岡田が電話をもっているかどうか、そこは自分にもはなはだ危あやしかったので、もし電話がなかったら、電信でも郵便でも好いいから、すぐ出してくれるように頼んでおいた。友達は甲州線こうしゅうせんで諏訪すわまで行って、それから引返して木曾きそを通った後あと、大阪へ出る計画であった。自分は東海道を一息ひといきに京都まで来て、そこで四五日用足ようたしかたがた逗留とうりゅうしてから、同じ大阪の地を踏む考えであった。
 予定の時日を京都で費ついやした自分は、友達の消息たよりを一刻も早く耳にするため停車場を出ると共に、岡田の家を尋ねなければならなかったのである。けれどもそれはただ自分の便宜べんぎになるだけの、いわば私の都合に過ぎないので、先刻さっき云った母のいいつけとはまるで別物であった。母が自分に向って、あちらへ行ったら何より先に岡田を尋ねるようにと、わざわざ荷になるほど大きい鑵入かんいりの菓子を、御土産おみやげだよと断ことわって、鞄かばんの中へ入れてくれたのは、昔気質むかしかたぎの律儀りちぎからではあるが、その奥にもう一つ実際的の用件を控ひかえているからであった。
0821Ms.名無しさん
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2022/02/10(木) 15:48:31.780
 自分は母と岡田が彼らの系統上どんな幹の先へ岐わかれて出た、どんな枝となって、互に関係しているか知らないくらいな人間である。母から依託された用向についても大した期待も興味もなかった。けれども久しぶりに岡田という人物――落ちついて四角な顔をしている、いくら髭ひげを欲しがっても髭の容易に生えない、しかも頭の方がそろそろ薄くなって来そうな、――岡田という人物に会う方の好奇心は多少動いた。岡田は今までに所用で時々出京した。ところが自分はいつもかけ違って会う事ができなかった。したがって強く酒精アルコールに染められた彼かれの四角な顔も見る機会を奪われていた。自分は俥くるまの上で指を折って勘定して見た。岡田がいなくなったのは、ついこの間のようでも、もう五六年になる。彼の気にしていた頭も、この頃ではだいぶ危険に逼せまっているだろうと思って、その地じの透すいて見えるところを想像したりなどした。
 岡田の髪の毛は想像した通り薄くなっていたが、住居すまいは思ったよりもさっぱりした新しい普請ふしんであった。
0822Ms.名無しさん
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2022/02/10(木) 15:48:40.060
「どうも上方流かみがたりゅうで余計な所に高塀たかべいなんか築き上あげて、陰気いんきで困っちまいます。そのかわり二階はあります。ちょっと上あがって御覧なさい」と彼は云った。自分は何より先に友達の事が気になるので、こうこういう人からまだ何とも通知は来ないかと聞いた。岡田は不思議そうな顔をして、いいえと答えた。
0823Ms.名無しさん
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2022/02/10(木) 15:48:48.250
        二

 自分は岡田に連れられて二階へ上あがって見た。当人が自慢するほどあって眺望ちょうぼうはかなり好かったが、縁側えんがわのない座敷の窓へ日が遠慮なく照り返すので、暑さは一通りではなかった。床とこの間まにかけてある軸物じくものも反そっくり返っていた。
「なに日が射すためじゃない。年ねんが年中ねんじゅうかけ通しだから、糊のりの具合でああなるんです」と岡田は真面目まじめに弁解した。
0824Ms.名無しさん
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2022/02/10(木) 15:48:57.470
「なるほど梅うめに鶯うぐいすだ」と自分も云いたくなった。彼は世帯を持つ時の用意に、この幅ふくを自分の父から貰もらって、大得意で自分の室へやへ持って来て見せたのである。その時自分は「岡田君この呉春ごしゅんは偽物ぎぶつだよ。それだからあの親父おやじが君にくれたんだ」と云って調戯からかい半分岡田を怒らした事を覚えていた。
 二人は懸物かけものを見て、当時を思い出しながら子供らしく笑った。岡田はいつまでも窓に腰をかけて話を続ける風に見えた。自分も襯衣シャツに洋袴ズボンだけになってそこに寝転ねころびながら相手になった。そうして彼から天下茶屋てんがちゃやの形勢だの、将来の発展だの、電車の便利だのを聞かされた。自分は自分にそれほど興味のない問題を、ただ素直にはいはいと聴きいていたが、電車の通じる所へわざわざ俥くるまへ乗って来た事だけは、馬鹿らしいと思った。二人はまた二階を下りた。
0825Ms.名無しさん
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2022/02/10(木) 15:49:36.690
「おい御客さまだよ」と岡田が遠慮のない大きな声を出した時、お兼さんは「ただいま」と奥の方で優やさしく答えた。自分はこの声の持主に、かつて着た久留米絣くるめがすりやフランネルの襦袢じゅばんを縫って貰った事もあるのだなとふと懐なつかしい記憶を喚起よびおこした。
0826Ms.名無しさん
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2022/02/10(木) 15:49:56.280
「なんて」
「岡田も気の毒だ、あんなものを大阪下くだりまで引っ張って行くなんて。もう少し待っていればおれが相当なのを見めつけてやるのにって」
0827Ms.名無しさん
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2022/02/10(木) 15:50:04.980
「そりゃ君昔の事ですよ」
 こうは答えたようなものの、自分は少し恐縮した。かつちょっと狼狽ろうばいした。そうして先刻さっき岡田が変な眼遣めづかいをして、時々細君の方を見た意味をようやく理解した。
0828Ms.名無しさん
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2022/02/10(木) 15:50:13.780
「あの時は僕も母から大変叱られてね。おまえのような書生に何が解るものか。岡田さんの事はお父さんと私わたしとで当人達たちに都合の好いようにしたんだから、余計な口を利きかずに黙って見ておいでなさいって。どうも手痛てひどくやられました」
 自分は母から叱られたという事実が、自分の弁解にでもなるような語気で、その時の様子を多少誇張して述べた。岡田はますます笑った。
 それでもお兼さんがまた座敷へ顔を出した時、自分は多少きまりの悪い思をしなければならなかった。人の悪い岡田はわざわざ細君に、「今二郎じろうさんがおまえの事を大変賞ほめて下すったぜ。よく御礼を申し上げるが好い」と云った。お兼さんは「あなたがあんまり悪口をおっしゃるからでしょう」と夫おっとに答えて、眼では自分の方を見て微笑した。
0829Ms.名無しさん
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2022/02/10(木) 15:50:22.680
夕飯前ゆうはんまえに浴衣ゆかたがけで、岡田と二人岡の上を散歩した。まばらに建てられた家屋や、それを取り巻く垣根が東京の山の手を通り越した郊外を思い出させた。自分は突然大阪で会合しようと約束した友達の消息が気になり出した。自分はいきなり岡田に向って、「君の所にゃ電話はないんでしょうね」と聞いた。「あの構かまえで電話があるように見えますかね」と答えた岡田の顔には、ただ機嫌きげんの好いい浮き浮きした調子ばかり見えた。
0830Ms.名無しさん
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2022/02/10(木) 15:50:31.650
        四

 それは夕方の比較的長く続く夏の日の事であった。二人の歩いている岡の上はことさら明るく見えた。けれども、遠くにある立樹たちきの色が空に包まれてだんだん黒ずんで行くにつれて、空の色も時を移さず変って行った。自分は名残なごりの光で岡田の顔を見た。
「君東京にいた時よりよほど快豁かいかつになったようですね。血色も大変好い。結構だ」
0831Ms.名無しさん
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2022/02/10(木) 15:50:39.490
 岡田は「ええまあお蔭かげさまで」と云ったような瞹眛あいまいな挨拶あいさつをしたが、その挨拶のうちには一種嬉うれしそうな調子もあった。
 もう晩飯ばんめしの用意もできたから帰ろうじゃないかと云って、二人帰路きろについた時、自分は突然岡田に、「君とお兼さんとは大変仲が好いようですね」といった。自分は真面目なつもりだったけれども、岡田にはそれが冷笑ひやかしのように聞えたと見えて、彼はただ笑うだけで何の答えもしなかった。けれども別に否いなみもしなかった。
0832Ms.名無しさん
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2022/02/10(木) 15:50:48.270
しばらくしてから彼は今までの快豁かいかつな調子を急に失った。そうして何か秘密でも打ち明けるような具合に声を落した。それでいて、あたかも独言ひとりごとをいう時のように足元を見つめながら、「これであいつといっしょになってから、かれこれもう五六年近くになるんだが、どうも子供ができないんでね、どういうものか。それが気がかりで……」と云った。
 自分は何とも答えなかった。自分は子供を生ますために女房を貰う人は、天下に一人もあるはずがないと、かねてから思っていた。しかし女房を貰ってから後あとで、子供が欲しくなるものかどうか、そこになると自分にも判断がつかなかった。
0833Ms.名無しさん
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2022/02/10(木) 15:50:57.990
「結婚すると子供が欲しくなるものですかね」と聞いて見た。
「なに子供が可愛かわいいかどうかまだ僕にも分りませんが、何しろ妻さいたるものが子供を生まなくっちゃ、まるで一人前の資格がないような気がして……」
0838Ms.名無しさん
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2022/02/11(金) 14:25:35.710
 自分はその蒲団の端はじを見つめてしばらく何も云わなかった。
「潰瘍かいようの劇はげしいんだ。血を吐はくんだ」と三沢がまた小さな声で告げた。自分はこの時彼が無理をやると潰瘍になる危険があるから入院したと説明して聞かせた事を思い出した。潰瘍という言葉はその折自分の頭に何らの印象も与えなかったが、今度は妙に恐ろしい響を伝えた。潰瘍の陰に、死という怖いものが潜ひそんでいるかのように。
0839Ms.名無しさん
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2022/02/11(金) 14:25:49.030
 しばらくすると、女の部屋で微かすかにげえげえという声がした。
「そら吐いている」と三沢が眉まゆをひそめた。やがて看護婦が戸口へ現れた。手に小さな金盥かなだらいを持ちながら、草履ぞうりを突っかけて、ちょっと我々の方を見たまま出て行った。
0840Ms.名無しさん
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2022/02/11(金) 14:25:57.280
「癒なおりそうなのかな」
 自分の眼には、今朝けさ腮あごを胸に押しつけるようにして、じっと腰をかけていた美くしい若い女の顔がありありと見えた。
0841Ms.名無しさん
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2022/02/11(金) 14:26:05.230
「どうだかね。ああ嘔はくようじゃ」と三沢は答えた。その表情を見ると気の毒というよりむしろ心配そうなある物に囚とらえられていた。
「君は本当にあの女を知っているのか」と自分は三沢に聞いた。
0842Ms.名無しさん
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2022/02/11(金) 14:26:13.520
「本当に知っている」と三沢は真面目まじめに答えた。
「しかし君は大阪へ来たのが今度始めてじゃないか」と自分は三沢を責めた。
0843Ms.名無しさん
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2022/02/11(金) 14:26:25.190
「今度来て今度知ったのだ」と三沢は弁解した。「この病院の名も実はあの女に聞いたのだ。僕はここへ這入はいる時から、あの女がことによるとやって来やしないかと心配していた。けれども今朝君の話を聞くまではよもやと思っていた。僕はあの女の病気に対しては責任があるんだから……」
0844Ms.名無しさん
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2022/02/11(金) 14:26:33.580
        二十一

 大阪へ着くとそのまま、友達といっしょに飲みに行ったどこかの茶屋で、三沢は「あの女」に会ったのである。
 三沢はその時すでに暑さのために胃に変調を感じていた。彼を強しいた五六人の友達は、久しぶりだからという口実のもとに、彼を酔わせる事を御馳走ごちそうのように振舞ふるまった。三沢も宿命に従う柔順な人として、いくらでも盃さかずきを重ねた。それでも胸の下の所には絶えず不安な自覚があった。ある時は変な顔をして苦しそうに生唾なまつばきを呑のみ込んだ。ちょうど彼の前に坐っていた「あの女」は、大阪言葉で彼に薬をやろうかと聞いた。彼はジェムか何かを五六粒手の平ひらへ載のせて口のなかへ投げ込んだ。すると入物を受取った女も同じように白い掌てのひらの上に小さな粒を並べて口へ入れた。
0845Ms.名無しさん
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2022/02/11(金) 14:26:41.260
 三沢は先刻さっきから女の倦怠だるそうな立居に気をつけていたので、御前もどこか悪いのかと聞いた。女は淋さびしそうな笑いを見せて、暑いせいか食慾がちっとも進まないので困っていると答えた。ことにこの一週間は御飯が厭いやで、ただ氷ばかり呑んでいる、それも今呑んだかと思うと、すぐまた食べたくなるんで、どうもしようがないと云った。
 三沢は女に、それはおおかた胃が悪いのだろうから、どこかへ行って専門の大家にでも見せたら好かろうと真面目な忠告をした。女も他ひとに聞くと胃病に違ないというから、好い医者に見せたいのだけれども家業が家業だからと後あとは云い渋っていた。彼はその時女から始めてここの病院と院長の名前を聞いた。
0846Ms.名無しさん
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2022/02/11(金) 14:26:50.440
「僕もそう云う所へちょっと入ってみようかな。どうも少し変だ」
 三沢は冗談じょうだんとも本気ともつかない調子でこんな事を云って、女から縁喜えんぎでもないように眉まゆを寄せられた。
「それじゃまあたんと飲んでから後あとの事にしよう」と三沢は彼の前にある盃さかずきをぐっと干して、それを女の前に突き出した。女
0847Ms.名無しさん
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2022/02/11(金) 14:27:02.360
「君も飲むさ。飯は食えなくっても、酒なら飲めるだろう」
 彼は女を前に引きつけてむやみに盃をやった。女も素直すなおにそれを受けた。しかししまいには堪忍かんにんしてくれと云い出した。それでもじっと坐ったまま席を立たなかった。
0848Ms.名無しさん
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2022/02/11(金) 14:27:09.040
「酒を呑のんで胃病の虫を殺せば、飯なんかすぐ喰える。呑まなくっちゃ駄目だ」
 三沢は自暴やけに酔ったあげく、乱暴な言葉まで使って女に酒を強しいた。それでいて、己れの胃の中には、今にも爆発しそうな苦しい塊かたまりが、うねりを打っていた。
0849Ms.名無しさん
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2022/02/11(金) 14:27:24.800
 自分は三沢の話をここまで聞いて慄ぞっとした。何の必要があって、彼は己おのれの肉体をそう残酷に取扱ったのだろう。己れは自業自得としても、「あの女」の弱い身体からだをなんでそう無益むやくに苦めたものだろう。
「知らないんだ。向むこうは僕の身体を知らないし、僕はまたあの女の身体を知らないんだ。周囲まわりにいるものはまた我々二人の身体を知らないんだ。そればかりじゃない、僕もあの女も自分で自分の身体が分らなかったんだ。その上僕は自分の胃いの腑ふが忌々いまいましくってたまらなかった。それで酒の力で一つ圧倒してやろうと試みたのだ。あの女もことによると、そうかも知れない」
0850Ms.名無しさん
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2022/02/11(金) 14:27:32.950
 三沢はこう云って暗然としていた。
0851Ms.名無しさん
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2022/02/11(金) 14:27:50.910
       二十二

「あの女」は室へやの前を通っても廊下からは顔の見えない位置に寝ていた。看護婦は入口の柱の傍そばへ寄って覗のぞき込むようにすれば見えると云って自分に教えてくれたけれども自分にはそれをあえてするほどの勇気がなかった。
 附添の看護婦は暑いせいか大概はその柱にもたれて外の方ばかり見ていた。それがまた看護婦としては特別器量きりょうが好いので、三沢は時々不平な顔をして人を馬鹿にしているなどと云った。彼の看護婦はまた別の意味からして、この美しい看護婦を好く云わなかった。病人の世話をそっちのけにするとか、不親切だとか、京都に男があって、その男から手紙が来たんで夢中なんだとか、いろいろの事を探って来ては三沢や自分に報告した。ある時は病人の便器を差し込んだなり、引き出すのを忘れてそのまま寝込んでしまった怠慢たいまんさえあったと告げた。
0852Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/11(金) 14:28:00.610
 実際この美しい看護婦が器量の優すぐれている割合に義務を重んじなかった事は自分達の眼にもよく映った。
「ありゃ取り換えてやらなくっちゃ、あの女が可哀かわいそうだね」と三沢は時々苦にがい顔をした。それでもその看護婦が入口の柱にもたれて、うとうとしていると、彼はわが室へやの中うちからその横顔をじっと見つめている事があった。
0853Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/11(金) 14:28:08.260
「あの女」の病勢もこっちの看護婦の口からよく洩もれた。――牛乳でも肉汁ソップでも、どんな軽い液体でも狂った胃がけっして受けつけない。肝心かんじんの薬さえ厭いやがって飲まない。強いて飲ませると、すぐ戻してしまう。
「血は吐くかい」
0858Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/12(土) 09:17:51.080
 三沢はいつでもこう云って看護婦に反問した。自分はその言葉を聞くたびに不愉快な刺戟しげきを受けた。
「あの女」の見舞客は絶えずあった。けれども外ほかの室へやのように賑にぎやかな話し声はまるで聞こえなかった。自分は三沢の室に寝ころんで、「あの女」の室を出たり入ったりする島田や銀杏返いちょうがえしの影をいくつとなく見た。中には眼の覚さめるように派出はでな模様の着物を着ているものもあったが、大抵は素人しろうとに近い地味じみな服装なりで、こっそり来てこっそり出て行くのが多かった。入口であら姐ねえはんという感投詞かんとうしを用いたものもあったが、それはただの一遍に過ぎなかった。それも廊下の端はじに洋傘こうもりを置いて室の中へ入るや否や急に消えたように静かになった。
0859Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/12(土) 09:18:00.290
「君はあの女を見舞ってやったのか」と自分は三沢に聞いた。
「いいや」と彼は答えた。「しかし見舞ってやる以上の心配をしてやっている」
0860Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/12(土) 09:18:08.900
「じゃ向うでもまだ知らないんだね。君のここにいる事は」
「知らないはずだ、看護婦でも云わない以上は。あの女の入院するとき僕はあの女の顔を見てはっと思ったが、向うでは僕の方を見なかったから、多分知るまい」
0861Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/12(土) 09:18:26.840
 三沢は病院の二階に「あの女」の馴染客なじみきゃくがあって、それが「お前胃のため、わしゃ腸のため、共に苦しむ酒のため」という都々逸どどいつを紙片かみぎれへ書いて、あの女の所へ届けた上、出院のとき袴はかま羽織はおりでわざわざ見舞に来た話をして、何という馬鹿だという顔つきをした。
「静かにして、刺戟しげきのないようにしてやらなくっちゃいけない。室でもそっと入って、そっと出てやるのが当り前だ」と彼は云った。
0862Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/12(土) 09:18:34.790
「ずいぶん静じゃないか」と自分は云った。
「病人が口を利きくのを厭いやがるからさ。悪い証拠しょうこだ」と彼がまた云った。
0863Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/12(土) 09:18:43.110
        二十三

 三沢は「あの女」の事を自分の予想以上に詳くわしく知っていた。そうして自分が病院に行くたびに、その話を第一の問題として持ち出した。彼は自分のいない間まに得た「あの女」の内状を、あたかも彼と関係ある婦人の内所話ないしょばなしでも打ち明けるごとくに語った。そうしてそれらの知識を自分に与えるのを誇りとするように見えた。
 彼の語るところによると「あの女」はある芸者屋の娘分として大事に取扱かわれる売子うれっこであった。虚弱な当人はまたそれを唯一の満足と心得て商売に勉強していた。ちっとやそっと身体からだが悪くてもけっして休むような横着はしなかった。時たま堪たえられないで床に就つく場合でも、早く御座敷に出たい出たいというのを口癖にしていた。……
0864Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/12(土) 09:18:52.480
「今あの女の室へやに来ているのは、その芸者屋に古くからいる下女さ。名前は下女だけれど、古くからいるんで、自然権力があるから、下女らしくしちゃいない。まるで叔母さんか何ぞのようだ。あの女も下女のいう事だけは素直によく聞くので、厭いやがる薬を呑ませたり、わがままを云い募つのらせないためには必要な人間なんだ」
 三沢はすべてこういう内幕うちまくの出所でどころをみんな彼の看護婦に帰して、ことごとく彼女から聞いたように説明した。けれども自分は少しそこに疑わしい点を認めないでもなかった。自分は三沢が便所へ行った留守に、看護婦を捕つらまえて、「三沢はああ云ってるが、僕のいないとき、あの女の室へ行って話でもするんじゃないか」と聞いて見た。看護婦は真面目まじめな顔をして「そんな事ありゃしまへん」というような言葉で、一口に自分の疑いを否定した。彼女はそれからそういうお客が見舞に行ったところで、身上話などができるはずがないと弁解した。そうして「あの女」の病気がだんだん険悪の一方へ落ち込んで行く心細い例を話して聞かせた。
0865Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/12(土) 09:19:03.080
「あの女」は嘔気はきけが止まないので、上から営養の取りようがなくなって、昨日きのうとうとう滋養浣腸じようかんちょうを試みた。しかしその結果は思わしくなかった。少量の牛乳と鶏卵たまごを混和した単純な液体ですら、衰弱を極きわめたあの女の腸には荷が重過ぎると見えて予期通り吸収されなかった。
 看護婦はこれだけ語って、このくらい重い病人の室へ入って、誰が悠々ゆうゆうと身上話などを聞いていられるものかという顔をした。自分も彼女の云うところが本当だと思った。それで三沢の事は忘れて、ただ綺羅きらを着飾った流行の芸者と、恐ろしい病気に罹かかった憐あわれな若い女とを、黙って心のうちに対照した。
0866Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/12(土) 09:19:12.720
「あの女」は器量と芸を売る御蔭おかげで、何とかいう芸者屋の娘分になって家うちのものから大事がられていた。それを売る事ができなくなった今でも、やはり今まで通り宅うちのものから大事がられるだろうか。もし彼らの待遇が、あの女の病気と共にだんだん軽薄に変って行くなら、毒悪どくあくな病と苦戦するあの女の心はどのくらい心細いだろう。どうせ芸妓屋げいしゃやの娘分になるくらいだから、生みの親は身分のあるものでないにきまっている。経済上の余裕がなければ、どう心配したって役には立つまい。
0867Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/12(土) 09:19:21.240
 自分はこんな事も考えた。便所から帰った三沢に「あの女の本当の親はあるのか知ってるか」と尋ねて見た。
0868Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/12(土) 09:19:28.910
        二十四

「あの女」の本当の母というのを、三沢はたった一遍見た事があると語った。
「それもほんの後姿うしろすがただけさ」と彼はわざわざ断ことわった。
0869Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/12(土) 09:19:36.320
 その母というのは自分の想像通どおり、あまり楽らくな身分の人ではなかったらしい。やっとの思いでさっぱりした身装みなりをして出て来るように見えた。たまに来てもさも気兼きがねらしくこそこそと来ていつの間まにか、また梯子段はしごだんを下りて人に気のつかないように帰って行くのだそうである。
「いくら親でも、ああなると遠慮ができるんだね」と三沢は云っていた。
0870Ms.名無しさん
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2022/02/12(土) 09:19:45.060
「あの女」の見舞客はみんな女であった。しかも若い女が多数を占しめていた。それがまた普通の令嬢や細君と違って、色香いろかを命とする綺麗きれいな人ばかりなので、その中に交まじるこの母は、ただでさえ燻くすぶり過ぎて地味じみなのである。自分は年を取った貧しそうなこの母の後姿を想像に描えがいて暗に憐あわれを催した。
「親子の情合からいうと、娘があんな大病に罹かかったら、母たるものは朝晩ともさぞ傍そばについていてやりたい気がするだろうね。他人の下女が幅を利きかしていて、実際の親が他人扱いにされるのは、見ていてもあまり好い心持じゃない」
0871Ms.名無しさん
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2022/02/12(土) 09:19:53.950
「いくら親でも仕方がないんだよ。だいち傍にいてやるほどの時間もなし、時間があっても入費がないんだから」
 自分は情ない気がした。ああ云う浮いた家業をする女の平生は羨うらやましいほど派出はででも、いざ病気となると、普通の人よりも悲酸ひさんの程度が一層甚はなはだしいのではないかと考えた。
0872Ms.名無しさん
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2022/02/12(土) 09:20:01.980
「旦那だんなが付いていそうなものだがな」
 三沢の頭もこの点だけは注意が足りなかったと見えて、自分がこう不審を打ったとき、彼は何の答もなく黙っていた。あの女に関していっさいの新智識を供給する看護婦もそこへ行くと何の役にも立たなかった。
0873Ms.名無しさん
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2022/02/12(土) 09:20:10.970
「あの女」のか弱い身体からだは、その頃の暑さでもどうかこうか持ち応こたえていた。三沢と自分はそれをほとんど奇蹟きせきのごとくに語り合った。そのくせ両人ふたりとも露骨を憚はばかって、ついぞ柱の影から室へやの中を覗のぞいて見た事がないので、現在の「あの女」がどのくらい窶やつれているかは空むなしい想像画に過ぎなかった。滋養浣腸じようかんちょうさえ思わしく行かなかったという報知が、自分ら二人の耳に届いた時ですら、三沢の眼には美しく着飾った芸者の姿よりほかに映るものはなかった。自分の頭にも、ただ血色の悪くない入院前の「あの女」の顔が描えがかれるだけであった。それで二人共あの女はもうむずかしいだろうと話し合っていた。そうして実際は双方共死ぬとは思わなかったのである。
 同時にいろいろな患者が病院を出たり入ったりした。ある晩「あの女」と同じくらいな年輩の二階にいる婦人が担架たんかで下へ運ばれて行った。聞いて見ると、今日きょう明日あすにも変がありそうな危険なところを、付添の母が田舎いなかへ連れて帰るのであった。その母は三沢の看護婦に、氷ばかりも二十何円とかつかったと云って、どうしても退院するよりほかに途みちがないとわが窮状を仄ほのめかしたそうである。
0874Ms.名無しさん
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2022/02/12(土) 09:20:19.150
 自分は三階の窓から、田舎へ帰る釣台を見下みおろした。釣台は暗くて見えなかったが、用意の提灯ちょうちんの灯ひはやがて動き出した。窓が高いのと往来が狭いので、灯は谷の底をひそかに動いて行くように見えた。それが向うの暗い四つ角を曲ってふっと消えた時、三沢は自分を顧かえりみて「帰り着くまで持てば好いがな」と云った。
0878Ms.名無しさん
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2022/02/13(日) 09:56:05.230
        二十五

 こんな悲酸ひさんな退院を余儀なくされる患者があるかと思うと、毎日子供を負ぶって、廊下だの物見台だの他人ひとの室へやだのを、ぶらぶら廻って歩く呑気のんきな男もあった。
「まるで病院を娯楽場のように思ってるんだね」
0879Ms.名無しさん
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2022/02/13(日) 09:56:13.930
「第一だいちどっちが病人なんだろう」
 自分達はおかしくもありまた不思議でもあった。看護婦に聞くと、負ぶっているのは叔父で、負ぶさっているのは甥おいであった。この甥が入院当時骨と皮ばかりに瘠やせていたのを叔父の丹精たんせい一つでこのくらい肥ふとったのだそうである。叔父の商売はめりやす屋だとか云った。いずれにしても金に困らない人なのだろう。
0880Ms.名無しさん
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2022/02/13(日) 09:56:28.540
 三沢の一軒おいて隣にはまた変な患者がいた。手提鞄てさげかばんなどを提さげて、普通の人間の如く平気で出歩いた。時には病院を空あける事さえあった。帰って来ると素すっ裸体ぱだかになって、病院の飯を旨うまそうに食った。そうして昨日きのうはちょっと神戸まで行って来ましたなどと澄ましていた。
 岐阜からわざわざ本願寺参りに京都まで出て来たついでに、夫婦共この病院に這入はいったなり動かないのもいた。その夫婦ものの室の床とこには後光ごこうの射した阿弥陀様あみださまの軸がかけてあった。二人差向いで気楽そうに碁ごを打っている事もあった。それでも細君に聞くと、この春餅もちを食った時、血を猪口ちょくに一杯半ほど吐いたから伴つれて来たのだともったいらしく云って聞かせた。
0881Ms.名無しさん
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2022/02/13(日) 09:56:37.920
「あの女」の看護婦は依然として入口の柱に靠もたれて、わが膝ひざを両手で抱いている事が多かった。こっちの看護婦はそれをまた器量を鼻へかけて、わざわざあんな人の眼に着く所へ出るのだと評していた。自分は「まさか」と云って弁護する事もあった。けれども「あの女」とその美しい看護婦との関係は、冷淡さ加減の程度において、当初もその時もあまり変りがないように見えた。自分は器量好しが二人寄って、我知らず互に嫉にくみ合うのだろうと説明した。三沢は、そうじゃない、大阪の看護婦は気位が高いから、芸者などを眼下がんかに見て、始めから相手にならないんだ、それが冷淡の原因に違ないと主張した。こう主張しながらも彼は別にこの看護婦を悪にくむ様子はなかった。自分もこの女に対してさほど厭な感じはもっていなかった。醜い三沢の付添いは「本間ほんまに器量の好えいものは徳やな」と云った風の、自分達には変に響く言葉を使って、二人を笑わせた。
 こんな周囲に取り囲まれた三沢は、身体の回復するに従って、「あの女」に対する興味を日に増し加えて行くように見えた。自分がやむをえず興味という妙な熟字をここに用いるのは、彼の態度が恋愛でもなければ、また全くの親切でもなく、興味の二字で現すよりほかに、適切な文字がちょっと見当らないからである。
0882Ms.名無しさん
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2022/02/13(日) 09:56:45.910
 始めて「あの女」を控室で見たときは、自分の興味も三沢に譲らないくらい鋭かった。けれども彼から「あの女」の話を聞かされるや否や、主客しゅかくの別はすでについてしまった。それからと云うもの、「あの女」の噂うわさが出るたびに、彼はいつでも先輩の態度を取って自分に向った。自分も一時は彼に釣り込まれて、当初の興味がだんだん研とぎ澄すまされて行くような気分になった。けれども客の位置に据すえられた自分はそれほど長く興味の高潮こうちょうを保ち得なかった。
0883Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/13(日) 09:56:55.860
        二十六

 自分の興味が強くなった頃、彼の興味は自分より一層強くなった。自分の興味がやや衰えかけると、彼の興味はますます強くなって来た。彼は元来がぶっきらぼうの男だけれども、胸の奥には人一倍優やさしい感情をもっていた。そうして何か事があると急に熱する癖があった。
 自分はすでに院内をぶらぶらするほどに回復した彼が、なぜ「あの女」の室へやへ入り込まないかを不審に思った。彼はけっして自分のような羞恥家はにかみやではなかった。同情の言葉をかけに、一遍会った「あの女」の病室へ見舞に行くぐらいの事は、彼の性質から見て何でもなかった。自分は「そんなにあの女が気になるなら、直じかに行って、会って慰めてやれば好いじゃないか」とまで云った。彼は「うん、実は行きたいのだが……」と渋しぶっていた。実際これは彼の平生にも似合わない挨拶あいさつであった。そうしてその意味は解らなかった。解らなかったけれども、本当は彼の行かない方が、自分の希望であった。
0884Ms.名無しさん
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2022/02/13(日) 09:57:05.210
 ある時自分は「あの女」の看護婦から――自分とこの美しい看護婦とはいつの間にか口を利きくようになっていた。もっともそれは彼女が例の柱に倚よりかかって、その前を通る自分の顔を見上げるときに、時候の挨拶を取換とりかわすぐらいな程度に過ぎなかったけれども、――とにかくこの美しい看護婦から自分は運勢早見うんせいはやみなんとかいう、玩具おもちゃの占うらないの本みたようなものを借りて、三沢の室でそれをやって遊んだ。
 これは赤と黒と両面に塗り分けた碁石ごいしのような丸く平たいものをいくつか持って、それを眼を眠ねむったまま畳の上へ並べて置いて、赤がいくつ黒がいくつと後から勘定かんじょうするのである。それからその数字を一つは横へ、一つは竪たてに繰って、両方が一点に会かいしたところを本で引いて見ると、辻占つじうらのような文句が出る事になっていた。
0885Ms.名無しさん
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2022/02/13(日) 09:57:13.210
 自分が眼を閉じて、石を一つ一つ畳の上に置いたとき、看護婦は赤がいくつ黒がいくつと云いながら占うらないの文句を繰ってくれた。すると、「この恋もし成就じょうじゅする時は、大いに恥を掻かく事あるべし」とあったので、彼女は読みながら吹き出した。三沢も笑った。
「おい気をつけなくっちゃいけないぜ」と云った。三沢はその前から「あの女」の看護婦に自分が御辞儀おじぎをするところが変だと云って、始終しじゅう自分に調戯からかっていたのである。
0886Ms.名無しさん
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2022/02/13(日) 09:57:21.440
「君こそ少し気をつけるが好い」と自分は三沢に竹箆返しっぺいがえしを喰わしてやった。すると三沢は真面目まじめな顔をして「なぜ」と反問して来た。この場合この強情な男にこれ以上いうと、事が面倒になるから自分は黙っていた。
 実際自分は三沢が「あの女」の室へやへ出入でいりする気色けしきのないのを不審に思っていたが一方ではまた彼の熱しやすい性質を考えて、今まではとにかく、これから先彼がいつどう変返へんがえるかも知れないと心配した。彼はすでに下の洗面所まで行って、朝ごとに顔を洗うぐらいの気力を回復していた。
0887Ms.名無しさん
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2022/02/13(日) 09:57:30.820
「どうだもう好い加減に退院したら」
 自分はこう勧めて見た。そうして万一金銭上の関係で退院を躊躇ちゅうちょするようすが見えたら、彼が自宅から取り寄せる手間てまと時間を省はぶくため、自分が思い切って一つ岡田に相談して見ようとまで思った。三沢は自分の云う事には何の返事も与えなかった。かえって反対に「いったい君はいつ大阪を立つつもりだ」と聞いた。
0888Ms.名無しさん
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2022/02/13(日) 09:57:40.320
        二十七

 自分は二日前に天下茶屋てんがちゃやのお兼さんから不意の訪問を受けた。その結果としてこの間岡田が電話口で自分に話しかけた言葉の意味をようやく知った。だから自分はこの時すでに一週間内に自分を驚かして見せるといった彼の予言のために縛しばられていた。三沢の病気、美しい看護婦の顔、声も姿も見えない若い芸者と、その人の一時折合っている蒲団ふとんの上の狭い生活、――自分は単にそれらばかりで大阪にぐずついているのではなかった。詩人の好きな言語を借りて云えば、ある予言の実現を期待しつつ暑い宿屋に泊っていたのである。
「僕にはそういう事情があるんだから、もう少しここに待っていなければならないのだ」と自分はおとなしく三沢に答えた。すると三沢は多少残念そうな顔をした。
0889Ms.名無しさん
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2022/02/13(日) 09:57:48.710
「じゃいっしょに海辺かいへんへ行って静養する訳にも行かないな」
 三沢は変な男であった。こっちが大事がってやる間は、向うでいつでも跳はね返すし、こっちが退のこうとすると、急にまた他ひとの袂たもとを捕つらまえて放さないし、と云った風に気分の出入でいりが著いちじるしく眼に立った。彼と自分との交際は従来いつでもこういう消長を繰返しつつ今日こんにちに至ったのである。
0890Ms.名無しさん
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2022/02/13(日) 09:57:56.780
「海岸へいっしょに行くつもりででもあったのか」と自分は念を押して見た。
「無いでもなかった」と彼は遠くの海岸を眼の中に思い浮かべるような風をして答えた。この時の彼の眼には、実際「あの女」も「あの女」の看護婦もなく、ただ自分という友達があるだけのように見えた。
0891Ms.名無しさん
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2022/02/13(日) 09:58:04.640
 自分はその日快よく三沢に別れて宿へ帰った。しかし帰り路に、その快よく別れる前の不愉快さも考えた。自分は彼に病院を出ろと勧めた、彼は自分にいつまで大阪にいるのだと尋ねた。上部うわべにあらわれた言葉のやりとりはただこれだけに過ぎなかった。しかし三沢も自分もそこに変な苦にがい意味を味わった。
 自分の「あの女」に対する興味は衰えたけれども自分はどうしても三沢と「あの女」とをそう懇意にしたくなかった。三沢もまた、あの美しい看護婦をどうする了簡りょうけんもない癖に、自分だけがだんだん彼女かのじょに近づいて行くのを見て、平気でいる訳には行かなかった。そこに自分達の心づかない暗闘があった。そこに持って生れた人間のわがままと嫉妬しっとがあった。そこに調和にも衝突にも発展し得ない、中心を欠いた興味があった。要するにそこには性せいの争いがあったのである。そうして両方共それを露骨に云う事ができなかったのである。
0892Ms.名無しさん
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2022/02/13(日) 09:58:12.640
 自分は歩きながら自分の卑怯ひきょうを恥じた。同時に三沢の卑怯を悪にくんだ。けれどもあさましい人間である以上、これから先何年交際まじわりを重ねても、この卑怯を抜く事はとうていできないんだという自覚があった。自分はその時非常に心細くなった。かつ悲しくなった。
 自分はその明日あした病院へ行って三沢の顔を見るや否や、「もう退院は勧めない」と断った。自分は手を突いて彼の前に自分の罪を詫わびる心持でこう云ったのである。すると三沢は「いや僕もそうぐずぐずしてはいられない。君の忠告に従っていよいよ出る事にした」と答えた。彼は今朝院長から退院の許可を得た旨むねを話して、「あまり動くと悪いそうだから寝台で東京まで直行する事にした」と告げた。自分はその突然なのに驚いた。
0895Ms.名無しさん
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2022/02/14(月) 17:54:52.050
自国民に退避を呼び掛けている国は次の通り

米国、ドイツ、イタリア、英国、アイルランド、ベルギー、
ルクセンブルク、オランダ、カナダ、ノルウェー、
エストニア、リトアニア、ブルガリア、スロベニア、オーストラリア、日本、
イスラエル、サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)
0896Ms.名無しさん
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2022/02/14(月) 19:59:11.590
        二十八

「どうしてまたそう急に退院する気になったのか」
 自分はこう聞いて見ないではいられなかった。三沢は自分の問に答える前にじっと自分の顔を見た。自分はわが顔を通して、わが心を読まれるような気がした。
0897Ms.名無しさん
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2022/02/14(月) 19:59:19.730
「別段これという訳もないが、もう出る方が好かろうと思って……」
 三沢はこれぎり何にも云わなかった。自分も黙っているよりほかに仕方がなかった。二人はいつもより沈んで相対していた。看護婦はすでに帰った後あとなので、室へやの中はことに淋さみしかった。今まで蒲団ふとんの上に胡坐あぐらをかいていた彼は急に倒れるように仰向あおむきに寝た。そうして上眼うわめを使って窓の外を見た。外にはいつものように色の強い青空が、ぎらぎらする太陽の熱を一面に漲みなぎらしていた。
0898Ms.名無しさん
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2022/02/14(月) 19:59:27.400
「おい君」と彼はやがて云った。「よく君の話す例の男ね。あの男は金を持っていないかね」
 自分は固もとより岡田の経済事情を知ろうはずがなかった。あの始末屋しまつやの御兼さんの事を考えると、金という言葉を口から出すのも厭いやだった。けれどもいざ三沢の出院となれば、そのくらいな手数てかずは厭いとうまいと、昨日きのうすでに覚悟をきめたところであった。
0899Ms.名無しさん
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2022/02/14(月) 19:59:36.930
「節倹家だから少しは持ってるだろう」
「少しで好いから借りて来てくれ」
0900Ms.名無しさん
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2022/02/14(月) 19:59:46.130
 自分は彼が退院するについて会計へ払う入院料に困るのだと思った。それでどのくらい不足なのかを確めた。ところが事実は案外であった。
「ここの払と東京へ帰る旅費ぐらいはどうかこうか持っているんだ。それだけなら何も君を煩わずらわす必要はない」
0901Ms.名無しさん
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2022/02/14(月) 19:59:54.550
 彼は大した物持ものもちの家に生れた果報者でもなかったけれども、自分が一人息子だけに、こういう点にかけると、自分達よりよほど自由が利きいた。その上母や親類のものから京都で買物を頼まれたのを、新しい道伴みちづれができたためつい大阪まで乗り越して、いまだに手を着けない金が余っていたのである。
「じゃただ用心のために持って行こうと云うんだね」
0902Ms.名無しさん
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2022/02/14(月) 20:00:05.020
「いや」と彼は急に云った。
「じゃどうするんだ」と自分は問いつめた。
0903Ms.名無しさん
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2022/02/14(月) 20:00:15.590
「どうしても僕の勝手だ。ただ借りてくれさえすれば好いんだ」
 自分はまた腹が立った。彼は自分をまるで他人扱いにしているのである。自分は憤むっとして黙っていた。
「怒っちゃいけない」と彼が云った。「隠すんじゃない、君に関係のない事を、わざと吹聴ふいちょうするように見えるのが厭だから、知らせずにおこうと思っただけだから」
0904Ms.名無しさん
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2022/02/14(月) 20:00:26.710
 自分はまだ黙っていた。彼は寝ながら自分の顔を見上げていた。
「そんなら話すがね」と彼が云い出した。
0905Ms.名無しさん
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2022/02/14(月) 20:00:36.570
「僕はまだあの女を見舞ってやらない。向むこうでもそんな事は待ち受けてやしないだろうし、僕も必ず見舞に行かなければならないほどの義理はない。が、僕は何だかあの女の病気を危険にした本人だという自覚がどうしても退のかない。それでどっちが先へ退院するにしても、その間際まぎわに一度会っておきたいと始終しじゅう思っていた。見舞じゃない、詫あやまるためにだよ。気の毒な事をしたと一口詫まればそれで好いんだ。けれどもただ詫まる訳にも行かないから、それで君に頼んで見たのだ。しかし君の方の都合が悪ければ強いてそうして貰わないでもどうかなるだろう。宅うちへ電報でもかけたら」
0906Ms.名無しさん
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2022/02/14(月) 20:00:48.530
        二十九

 自分は行ゆきがかり上じょう一応岡田に当って見る必要があった。宅うちへ電報を打つという三沢をちょっと待たして、ふらりと病院の門を出た。岡田の勤めている会社は、三沢の室へやとは反対の方向にあるので、彼の窓から眺ながめる訳には行かないけれども、道程みちのりからいうといくらもなかった。それでも暑いので歩いて行くうちに汗が背中を濡ぬらすほど出た。
 彼は自分の顔を見るや否や、さも久しぶりに会った人らしく「やっしばらく」と叫ぶように云った。そうしてこれまでたびたび電話で繰り返した挨拶あいさつをまた新しくまのあたり述べた。
0907Ms.名無しさん
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2022/02/14(月) 20:00:58.970
 自分と岡田とは今でこそ少し改まった言葉使もするが、昔を云えば、何の遠慮もない間柄であった。その頃は金も少しは彼のために融通してやった覚おぼえがある。自分は勇気を鼓舞こぶするために、わざとその当時の記憶を呼起してかかった。何にも知らない彼は、立ちながら元気な声を出して、「どうです二郎さん、僕の予言は」と云った。「どうかこうか一週間うちにあなたを驚かす事ができそうじゃありませんか」
 自分は思い切って、まず肝心かんじんの用事を話した。彼は案外な顔をして聞いていたが、聞いてしまうとすぐ、「ようがす、そのくらいならどうでもします」と容易に引き受けてくれた。
0908Ms.名無しさん
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2022/02/14(月) 20:01:08.010
 彼は固もとよりその隠袋ポッケットの中うちに入用いりようの金を持っていなかった。「明日あしたでも好いんでしょう」と聞いた。自分はまた思い切って、「できるなら今日中きょうじゅうに欲しいんだ」と強いた。彼はちょっと当惑したように見えた。
「じゃ仕方がない迷惑でしょうけれども、手紙を書きますから、宅うちへ持って行ってお兼に渡して下さいませんか」
0909Ms.名無しさん
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2022/02/14(月) 20:01:16.760
 自分はこの事件についてお兼さんと直接の交渉はなるべく避けたかったけれども、この場合やむをえなかったので、岡田の手紙を懐ふところへ入れて、天下茶屋へ行った。お兼さんは自分の声を聞くや否や上り口まで馳かけ出して来て、「この御暑いのによくまあ」と驚いてくれた。そうして、「さあどうぞ」を二三返繰返したが、自分は立ったまま「少し急ぎますから」と断って、岡田の手紙を渡した。お兼さんは上り口に両膝りょうひざを突いたなり封を切った。
「どうもわざわざ恐れ入りましたね。それではすぐ御伴をして参りますから」とすぐ奥へ入った。奥では用箪笥ようだんすの環かんの鳴る音がした。
0910Ms.名無しさん
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2022/02/14(月) 20:01:26.100
 自分はお兼さんと電車の終点までいっしょに乗って来てそこで別れた。「では後のちほど」と云いながらお兼さんは洋傘こうもりを開いた。自分はまた俥くるまを急がして病院へ帰った。顔を洗ったり、身体からだを拭いたり、しばらく三沢と話しているうちに、自分は待ち設けた通りお兼さんから病院の玄関まで呼び出された。お兼さんは帯の間にある銀行の帳面を抜いて、そこに挟はさんであった札さつを自分の手の上に乗せた。
「ではどうぞちょっと御改ためなすって」
0914Ms.名無しさん
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2022/02/15(火) 09:49:01.010
 自分は形式的にそれを勘定した上、「確たしかに。――どうもとんだ御手数おてかずをかけました。御暑いところを」と礼を述べた。実際急いだと見えてお兼さんは富士額の両脇を、細かい汗の玉でじっとりと濡ぬらしていた。
「どうです、ちっと上って涼んでいらしったら」
0915Ms.名無しさん
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2022/02/15(火) 09:49:08.260
「いいえ今日こんにちは急ぎますから、これで御免ごめんを蒙こうむります。御病人へどうぞよろしく。――でも結構でございましたね、早く御退院になれて。一時は宅でも大層心配致しまして、よく電話で御様子を伺ったとか申しておりましたが」
 お兼さんはこんな愛想あいそを云いながら、また例のクリーム色の洋傘こうもりを開いて帰って行った。
0916Ms.名無しさん
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2022/02/15(火) 09:49:17.780
        三十

 自分は少し急せき込んでいた。紙幣しへいを握ったまま段々を馳かけ上るように三階まで来た。三沢は平生よりは落ちついていなかった。今火を点つけたばかりの巻煙草まきたばこをいきなり灰吹はいふきの中に放り込んで、ありがとうともいわずに、自分の手から金を受取った。自分は渡した金の高を注意して、「好いか」と聞いた。それでも彼はただうんと云っただけである。
 彼はじっと「あの女」の室へやの方を見つめた。時間の具合で、見舞に来たものの草履ぞうりは一足も廊下の端はじに脱ぎ棄すててなかった。平生から静過ぎる室の中は、ことに寂寞としていた。例の美くしい看護婦は相変らず角の柱に倚よりかかって、産婆学の本か何か読んでいた。
0917Ms.名無しさん
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2022/02/15(火) 09:49:27.360
「あの女は寝ているのかしら」
 彼は「あの女」の室へやへ入るべき好機会を見出しながら、かえってその眠を妨さまたげるのを恐れるように見えた。
0918Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/15(火) 09:49:36.230
「寝ているかも知れない」と自分も思った。
 しばらくして三沢は小さな声で「あの看護婦に都合を聞いて貰おうか」と云い出した。彼はまだこの看護婦に口を利きいた事がないというので、自分がその役を引受けなければならなかった。
0919Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/15(火) 10:23:23.650
 看護婦は驚いたようなまたおかしいような顔をして自分を見た。けれどもすぐ自分の真面目な態度を認めて、室の中へ入って行った。かと思うと、二分と経たたないうちに笑いながらまた出て来た。そうして今ちょうど気分の好いところだからお目にかかれるという患者の承諾をもたらした。三沢は黙って立ち上った。
 彼は自分の顔も見ず、また看護婦の顔も見ず、黙って立ったなり、すっと「あの女」の室の中へ姿を隠した。自分は元の座に坐すわって、ぼんやりその後影うしろかげを見送った。彼の姿が見えなくなってもやはり空くうに同じ所を見つめていた。冷淡なのは看護婦であった。ちょっと侮蔑あなどりの微笑びしょうを唇くちびるの上に漂ただよわせて自分を見たが、それなり元の通り柱に背を倚よせて、黙って読みかけた書物をまた膝ひざの上にひろげ始めた。
0920Ms.名無しさん
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2022/02/15(火) 10:23:32.330
 室の中は三沢の入った後も彼の入らない前も同じように静しずかであった。話し声などは無論聞こえなかった。看護婦は時々不意に眼を上げて室の奥の方を見た。けれども自分には何の相図あいずもせずに、すぐその眼を頁ページの上に落した。
 自分はこの三階の宵よいの間まに虫の音らしい涼しさを聴きいた例ためしはあるが、昼のうちにやかましい蝉せみの声はついぞ自分の耳に届いた事がない。自分のたった一人で坐っている病室はその時明かな太陽の光を受けながら、真夜中よりもなお静かであった。自分はこの死んだような静かさのために、かえって神経を焦いらつかせて、「あの女」の室から三沢の出るのを待ちかねた。
0921Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/15(火) 10:23:41.260
 やがて三沢はのっそりと出て来た。室の敷居を跨またぐ時、微笑しながら「御邪魔さま。大勉強だね」と看護婦に挨拶あいさつする言葉だけが自分の耳に入った。
 彼は上草履うわぞうりの音をわざとらしく高く鳴らして、自分の室に入るや否や、「やっと済んだ」と云った。自分は「どうだった」と聞いた。
0922Ms.名無しさん
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2022/02/15(火) 10:23:50.050
「やっと済んだ。これでもう出ても好い」
 三沢は同じ言葉を繰返すだけで、その他には何にも云わなかった。自分もそれ以上は聞き得なかった。ともかくも退院の手続を早くする方が便利だと思って、そこらに散らばっているものを片づけ始めた。三沢も固もとよりじっとしてはいなかった。
0923Ms.名無しさん
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2022/02/15(火) 10:23:59.680
        三十一

 二人は俥くるまを雇やとって病院を出た。先へ梶棒かじぼうを上げた三沢の車夫が余り威勢よく馳かけるので、自分は大きな声でそれを留めようとした。三沢は後うしろを振り向いて、手を振った。「大丈夫、大丈夫」と云うらしく聞こえたから、自分もそれなりにして注意はしなかった。宿へ着いたとき、彼は川縁かわべりの欄干らんかんに両手を置いて、眼の下の広い流をじっと眺ながめていた。
「どうした。心持でも悪いか」と自分は後から聞いた。彼は後を向かなかった。けれども「いいや」と答えた。「ここへ来てこの河を見るまでこの室へやの事をまるで忘れていた」
0928Ms.名無しさん
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2022/02/15(火) 14:38:30.240
 そういって、彼は依然として流れに向っていた。自分は彼をそのままにして、麻の座蒲団ざぶとんの上に胡坐あぐらをかいた。それでも待遠しいので、やがて袂たもとから敷島しきしまの袋を出して、煙草を吸い始めた。その煙草が三分の一煙けむになった頃、三沢はようやく手摺てすりを離れて自分の前へ来て坐すわった。
「病院で暮らしたのも、つい昨日今日のようだが、考えて見ると、もうだいぶんになるんだね」と云って指を折りながら、日数ひかずを勘定かんじょうし出した。
0929Ms.名無しさん
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2022/02/15(火) 14:38:38.230
「三階の光景が当分眼を離れないだろう」と自分は彼の顔を見た。
「思いも寄らない経験をした。これも何かの因縁いんねんだろう」と三沢も自分の顔を見た。
0930Ms.名無しさん
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2022/02/15(火) 14:38:45.360
 彼は手を叩たたいて、下女を呼んで今夜の急行列車の寝台しんだいを注文した。それから時計を出して、食事を済ました後あと、時間にどのくらい余裕があるかを見た。窮屈に馴なれない二人はやがて転ごろりと横になった。
「あの女は癒なおりそうなのか」
0931Ms.名無しさん
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2022/02/15(火) 14:38:56.030
「そうさな。事によると癒るかも知れないが……」
 下女が誂あつらえた水菓子を鉢はちに盛って、梯子段はしごだんを上って来たので、「あの女」の話はこれで切れてしまった。自分は寝転ねころんだまま、水菓子を食った。その間彼はただ自分の口の辺あたりを見るばかりで、何事も云わなかった。しまいにさも病人らしい調子で、「おれも食いたいな」と一言ひとこと云った。先刻さっきから浮かない様子を見ていた自分は、「構うものか、食うが好い。食え食え」と勧めた。三沢は幸いにして自分が氷菓子アイスクリームを食わせまいとしたあの日の出来事を忘れていた。彼はただ苦笑いをして横を向いた。
0932Ms.名無しさん
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2022/02/15(火) 14:39:05.730
「いくら好すきだって、悪いと知りながら、無理に食わせられて、あの女のようになっちゃ大変だからな」
 彼は先刻から「あの女」の事を考えているらしかった。彼は今でも「あの女」の事を考えているとしか思われなかった。
0935Ms.名無しさん
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2022/02/16(水) 10:31:01.150
「あの女は君を覚えていたかい」
「覚えているさ。この間会って、僕から無理に酒を呑まされたばかりだもの」
0936Ms.名無しさん
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2022/02/16(水) 10:31:08.790
「恨うらんでいたろう」
 今まで横を向いてそっぽへ口を利きいていた三沢は、この時急に顔を向け直してきっと正面から自分を見た。その変化に気のついた自分はすぐ真面目な顔をした。けれども彼があの女の室に入った時、二人の間にどんな談話が交換されたかについて、彼はついに何事をも語らなかった。
0937Ms.名無しさん
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2022/02/16(水) 10:31:16.710
「あの女はことによると死ぬかも知れない。死ねばもう会う機会はない。万一まんいち癒なおるとしても、やっぱり会う機会はなかろう。妙なものだね。人間の離合というと大袈裟おおげさだが。それに僕から見れば実際離合の感があるんだからな。あの女は今夜僕の東京へ帰る事を知って、笑いながら御機嫌ごきげんようと云った。僕はその淋さびしい笑を、今夜何だか汽車の中で夢に見そうだ」
0938Ms.名無しさん
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2022/02/16(水) 10:31:26.910
        三十二

 三沢はただこう云った。そうして夢に見ない先からすでに「あの女」の淋しい笑い顔を眼の前に浮べているように見えた。三沢に感傷的のところがあるのは自分もよく承知していたが、単にあれだけの関係で、これほどあの女に動かされるのは不審であった。自分は三沢と「あの女」が別れる時、どんな話をしたか、詳しく聞いて見ようと思って、少し水を向けかけたが、何の効果もなかった。しかも彼の態度が惜しいものを半分他ひとに配わけてやると、半分無くなるから厭いやだという風に見えたので、自分はますます変な気持がした。
「そろそろ出かけようか。夜の急行は込むから」ととうとう自分の方で三沢を促うながすようになった。
0939Ms.名無しさん
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2022/02/16(水) 10:31:35.560
「まだ早い」と三沢は時計を見せた。なるほど汽車の出るまでにはまだ二時間ばかり余っていた。もう「あの女」の事は聞くまいと決心した自分は、なるべく病院の名前を口へ出さずに、寝転ねころびながら彼と通り一遍の世間話を始めた。彼はその時人並ひとなみの受け答をした。けれどもどこか調子に乗らないところがあるので、何となく不愉快そうに見えた。それでも席は動かなかった。そうしてしまいには黙って河の流ればかり眺ながめていた。
「まだ考えている」と自分は大きな声を出してわざと叫んだ。三沢は驚いて自分を見た。彼はこういう場合にきっと、御前はヴァルガーだと云う眼つきをして、一瞥いちべつの侮辱を自分に与えなければ承知しなかったが、この時に限ってそんな様子はちっとも見せなかった。
0943Ms.名無しさん
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2022/02/16(水) 13:16:45.620
「うん考えている」と軽く云った。「君に打ち明けようか、打ち明けまいかと迷っていたところだ」と云った。
 自分はその時彼から妙な話を聞いた。そうしてその話が直接「あの女」と何の関係もなかったのでなおさら意外の感に打たれた。
0944Ms.名無しさん
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2022/02/16(水) 13:16:53.070
 今から五六年前彼の父がある知人の娘を同じくある知人の家に嫁よめらした事があった。不幸にもその娘さんはある纏綿てんめんした事情のために、一年経たつか経たないうちに、夫の家を出る事になった。けれどもそこにもまた複雑な事情があって、すぐわが家に引取られて行く訳に行かなかった。それで三沢の父が仲人なこうどという義理合から当分この娘さんを預かる事になった。――三沢はいったん嫁とついで出て来た女を娘さん娘さんと云った。
「その娘さんは余り心配したためだろう、少し精神に異状を呈していた。それは宅うちへ来る前か、あるいは来てからかよく分らないが、とにかく宅のものが気がついたのは来てから少し経ってからだ。固もとより精神に異状を呈しているには相違なかろうが、ちょっと見たって少しも分らない。ただ黙って欝ふさぎ込んでいるだけなんだから。ところがその娘さんが……」
0945Ms.名無しさん
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2022/02/16(水) 13:17:05.720
 三沢はここまで来て少し躊躇ちゅうちょした。
「その娘さんがおかしな話をするようだけれども、僕が外出するときっと玄関まで送って出る。いくら隠れて出ようとしてもきっと送って出る。そうして必ず、早く帰って来てちょうだいねと云う。僕がええ早く帰りますからおとなしくして待っていらっしゃいと返事をすれば合点がってん合点をする。もし黙っていると、早く帰って来てちょうだいね、ね、と何度でも繰返す。僕は宅うちのものに対してきまりが悪くってしようがなかった。けれどもまたこの娘さんが不憫ふびんでたまらなかった。だから外出してもなるべく早く帰るように心がけていた。帰るとその人の傍そばへ行って、立ったままただいまと一言ひとこと必ず云う事にしていた」
0946Ms.名無しさん
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2022/02/16(水) 13:17:15.450
 三沢はそこへ来てまた時計を見た。
「まだ時間はあるね」と云った。
0947Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/16(水) 13:17:39.340
「君に惚ほれたのかな」と自分は三沢に聞きたくなった。
「それがさ。病人の事だから恋愛なんだか病気なんだか、誰にも解るはずがないさ」と三沢は答えた。
0948Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/16(水) 14:34:35.530
「色情狂っていうのは、そんなもんじゃないのかな」と自分はまた三沢に聞いた。
 三沢は厭いやな顔をした。
0949Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/16(水) 14:34:42.380
「色情狂と云うのは、誰にでもしなだれかかるんじゃないか。その娘さんはただ僕を玄関まで送って出て来て、早く帰って来てちょうだいねと云うだけなんだから違うよ」
「そうか」
0950Ms.名無しさん
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2022/02/16(水) 14:34:51.520
 自分のこの時の返事は全く光沢つやがなさ過ぎた。
「僕は病気でも何でも構わないから、その娘さんに思われたいのだ。少くとも僕の方ではそう解釈していたいのだ」と三沢は自分を見つめて云った。彼の顔面の筋肉はむしろ緊張していた。「ところが事実はどうもそうでないらしい。その娘さんの片づいた先の旦那だんなというのが放蕩家ほうとうかなのか交際家なのか知らないが、何でも新婚早々たびたび家うちを空あけたり、夜遅く帰ったりして、その娘さんの心をさんざん苛いじめぬいたらしい。けれどもその娘さんは一口も夫に対して自分の苦みを言わずに我慢していたのだね。その時の事が頭に祟たたっているから、離婚になった後あとでも旦那に云いたかった事を病気のせいで僕に云ったのだそうだ。――けれども僕はそう信じたくない。強しいてもそうでないと信じていたい」
0951Ms.名無しさん
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2022/02/16(水) 14:35:00.690
「それほど君はその娘さんが気に入ってたのか」と自分はまた三沢に聞いた。
「気に入るようになったのさ。病気が悪くなればなるほど」
0952Ms.名無しさん
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2022/02/16(水) 14:35:09.630
「それから。――その娘さんは」
「死んだ。病院へ入いって」
0953Ms.名無しさん
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2022/02/16(水) 17:34:20.530
東京1万7331人感染確認
新型コロナ(先週比5.3%減 20歳未満28.6% 65歳以上9.8% ブレークスルー感染47.2%以上
みなし陽性850人) 死亡21人  都基準の重症者81人(+4)
0956Ms.名無しさん
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2022/02/16(水) 18:05:29.950
直近7日間10万人あたりの感染者数
1 大阪府 944.5
2 東京都 764.2
3 兵庫県 628.7
4 京都府 591.4
5 神奈川 575.8
日本国内 465.0 (平均値)
https://covid.gutas.net/?c=2
0960Ms.名無しさん
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2022/02/17(木) 09:27:10.990
 自分は黙然もくねんとした。
「君から退院を勧められた晩、僕はその娘さんの三回忌を勘定かんじょうして見て、単にそのためだけでも帰りたくなった」と三沢は退院の動機を説明して聞かせた。自分はまだ黙っていた。
0961Ms.名無しさん
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2022/02/17(木) 09:27:19.540
「ああ肝心かんじんの事を忘れた」とその時三沢が叫んだ。自分は思わず「何だ」と聞き返した。
「あの女の顔がね、実はその娘さんに好く似ているんだよ」
0962Ms.名無しさん
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2022/02/17(木) 09:27:27.200
 三沢の口元には解ったろうと云う一種の微笑が見えた。二人はそれからじきに梅田の停車場ステーションへ俥くるまを急がした。場内は急行を待つ乗客ですでにいっぱいになっていた。二人は橋を向むこうへ渡って上のぼり列車を待ち合わせた。列車は十分と立たないうちに地を動かして来た。
「また会おう」
0963Ms.名無しさん
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2022/02/17(木) 09:27:35.150
 自分は「あの女」のために、また「その娘さん」のために三沢の手を固く握った。彼の姿は列車の音と共にたちまち暗中あんちゅうに消えた。
0964Ms.名無しさん
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2022/02/17(木) 09:27:44.830
        一

 自分は三沢を送った翌日あくるひまた母と兄夫婦とを迎えるため同じ停車場ステーションに出かけなければならなかった。
 自分から見るとほとんど想像さえつかなかったこの出来事を、始めから工夫して、とうとうそれを物にするまで漕こぎつけたものは例の岡田であった。彼は平生からよくこんな技巧を弄ろうしてその成効せいこうに誇るのが好すきであった。自分をわざわざ電話口へ呼び出して、そのうちきっと自分を驚かして見せると断ったのは彼である。それからほどなく、お兼さんが宿屋へ尋ねて来て、その訳を話した時には、自分も実際驚かされた。
0967Ms.名無しさん
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2022/02/17(木) 12:59:55.910
「どうして来るんです」と自分は聞いた。
 自分が東京を立つ前に、母の持っていた、ある場末ばすえの地面が、新たに電車の布設される通とおり路みちに当るとかでその前側を幾坪か買い上げられると聞いたとき、自分は母に「じゃその金でこの夏みんなを連つれて旅行なさい」と勧めて、「また二郎さんのお株が始まった」と笑われた事がある。母はかねてから、もし機会があったら京大阪を見たいと云っていたが、あるいはその金が手に入ったところへ、岡田からの勧誘があったため、こう大袈裟おおげさな計画になったのではなかろうか。それにしても岡田がまた何でそんな勧誘をしたものだろう。
0968Ms.名無しさん
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2022/02/17(木) 13:01:01.200
「何という大した考えもないんでございましょう。ただ昔むかしお世話になった御礼に御案内でもする気なんでしょう。それにあの事もございますから」
 お兼さんの「あの事」というのは例の結婚事件である。自分はいくらお貞さださんが母のお気に入りだって、そのために彼女がわざわざ大阪三界さんがいまで出て来るはずがないと思った。
0969Ms.名無しさん
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2022/02/17(木) 13:01:40.010
 自分はその時すでに懐ふところが危あやしくなっていた。
その上後あとから三沢のために岡田に若干の金額を借りた。
ほかの意味は別として、母と兄夫婦の来るのはこの不足填補ふそくてんぽの方便として
自分には好都合であった。
岡田もそれを知って快よくこちらの要いるだけすぐ用立ててくれたに違いなかろうと思った。
 自分は岡田夫婦といっしょに停車場ステーションに行った。
三人で汽車を待ち合わしている間に岡田は、
「どうです。二郎さん喫驚びっくりしたでしょう」といった。
自分はこれと類似の言葉を、彼から何遍も聞いているので、何とも答えなかった。
お兼さんは岡田に向って、「あなたこの間から独ひとりで御得意なのね。
二郎さんだって聞き飽あきていらっしゃるわ。そんな事」と云いながら自分を見て「ねえあなた」と詫あやまるようにつけ加えた。自分はお兼さんの愛嬌あいきょうのうちに、どことなく黒人くろうとらしい媚こびを認めて、急に返事の調子を狂わせた。
お兼さんは素知そしらぬ風をして岡田に話しかけた。――
0970Ms.名無しさん
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2022/02/17(木) 13:01:54.530
「奥さまもだいぶ御目にかからないから、ずいぶんお変りになったでしょうね」
「この前会った時はやっぱり元の叔母さんさ」
0971Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/17(木) 13:02:04.180
 岡田は自分の母の事を叔母さんと云い、お兼さんは奥様というのが、自分には変に聞こえた。
「始終しじゅう傍そばにいると、変るんだか変らないんだか分りませんよ」と自分は答えて笑っているうちに汽車が着いた。岡田は彼ら三人のために特別に宿を取っておいたとかいって、直ただちに俥くるまを南へ走らした。自分は空くうに乗った俥の上で、彼のよく人を驚かせるのに驚いた。そう云えば彼が突然上京してお兼さんを奪うように伴つれて行ったのも自分を驚かした目覚めざましい手柄てがらの一つに相違なかった。
0973Ms.名無しさん
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2022/02/17(木) 14:13:41.540
       二

 母の宿はさほど大きくはなかったけれども、自分の泊っている所よりはよほど上品な構かまえであった。室へやには扇風器だの、唐机とうづくえだの、特別にその唐机の傍そばに備えつけた電灯などがあった。兄はすぐそこにある電報紙へ大阪着の旨むねを書いて下女に渡していた。岡田はいつの間にか用意して来た三四枚の絵端書えはがきを袂たもとの中から出して、これは叔父さん、これはお重しげさん、これはお貞さださんと一々名宛なあてを書いて、「さあ一口ひとくちずつ皆みんなどうぞ」と方々へ配っていた。
 自分はお貞さんの絵端書へ「おめでとう」と書いた。すると母がその後あとへ「病気を大事になさい」と書いたので吃驚びっくりした。
0974Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/17(木) 14:13:49.930
「お貞さんは病気なんですか」
「実はあの事があるので、ちょうど好い折だから、今度伴つれて来きようと思って仕度までさせたところが、あいにくお腹なかが悪くなってね。残念な事をしましたよ」
0975Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/17(木) 14:13:58.200
「でも大した事じゃないのよ。もうお粥かゆがそろそろ食べられるんだから」と嫂あによめが傍そばから説明した。その嫂は父に出す絵端書を持ったまま何か考えていた。「叔父さんは風流人だから歌が好いでしょう」と岡田に勧められて、「歌なんぞできるもんですか」と断った。岡田はまたお重へ宛あてたのに、「あなたの口の悪いところを聞けないのが残念だ」と細こまかく謹つつしんで書いたので、兄から「将棋の駒がまだ祟たたってると見えるね」と笑われていた。
 絵端書が済んで、しばらく世間話をした後で、岡田とお兼さんはまた来ると云って、母や兄が止とめるのも聞かずに帰って行った。
0976Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/17(木) 14:14:06.320
「お兼さんは本当に奥さんらしくなったね」
「宅うちへ仕立物を持って来た時分を考えると、まるで見違えるようだよ」
0977Ms.名無しさん
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2022/02/17(木) 14:14:15.040
 母が兄とお兼さんを評し合った言葉の裏には、己おのれがそれだけ年を取ったという淡い哀愁あいしゅうを含んでいた。
「お貞さんだって、もう直じきですよお母さん」と自分は横合から口を出した。
0978Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/17(木) 22:46:55.330
吉村府知事のコロナ対策

・大阪ワクチンの開発→失敗
・イソジンでコロナに打ち勝つ→嘘
・1日2万回の検査体制→1年以上放置
・大阪モデル→気分次第
・マスク会食→効果なし
・見回り隊→効果なし
・大規模医療センター→使われない
・SOSコールセンター→意味ない
・テレビ出演→引っ張りだこ
0979Ms.名無しさん
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2022/02/17(木) 22:47:36.450
【維新】松井一郎「大阪の重症者の8割以上は高齢者。
政府は早く『5類』にすると結論出してほしい。いつまでも検討では国民生活壊れる★5
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1645101303/
0981Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/18(金) 07:54:28.560
プロ格ゲーマーのたぬかなさん、海外でも大きく報道、米ヤフーニュースデビュー!世界最大のゲーム掲示板でも勢いトップに [517459952]
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1645135506/
0982Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/18(金) 08:01:00.600
「本当にね」と母は答えた。母は腹の中で、まだ片づく当あてのないお重の事でも考えているらしかった。兄は自分を顧かえりみて、「三沢が病気だったので、どこへも行かなかったそうだね」と聞いた。自分は「ええ。とんだところへ引っかかってどこへも行かずじまいでした」と答えた。自分と兄とは常にこのくらい懸隔かけへだてのある言葉で応対するのが例になっていた。これは年が少し違うのと、父が昔堅気むかしかたぎで、長男に最上の権力を塗りつけるようにして育て上げた結果である。母もたまには自分をさんづけにして二郎さんと呼んでくれる事もあるが、これは単に兄の一郎いちろうさんのお余りに過ぎないと自分は信じていた。
 みんなは話に気を取られて浴衣ゆかたを着換えるのを忘れていた。兄は立って、糊のりの強いのを肩へ掛けながら、「どうだい」と自分を促うながした。嫂は浴衣を自分に渡して、「全体あなたのお部屋はどこにあるの」と聞いた。手摺てすりの所へ出て、鼻の先にある高い塗塀ぬりべいを欝陶うっとうしそうに眺ながめていた母は、「いい室へやだが少し陰気だね。二郎お前のお室もこんなかい」と聞いた。自分は母のいる傍そばへ行って、下を見た。下には張物板はりものいたのような細長い庭に、細い竹が疎まばらに生えて錆さびた鉄灯籠かなどうろうが石の上に置いてあった。その石も竹も打水うちみずで皆しっとり濡ぬれていた。
0983Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/18(金) 08:01:08.260
「狭いが凝こってますね。その代り僕の所のように河がありませんよ、お母さん」
「おやどこに河があるの」と母がいう後あとから、兄も嫂あによめもその河の見える座敷と取換えて貰おうと云い出した。自分は自分の宿のある方角やら地理やらを説明して聞かした。そうしてひとまず帰って荷物を纏まとめた上またここへ来る約束をして宿を出た。
0984Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/18(金) 08:01:17.100
        三

 自分はその夕方宿の払はらいを済まして母や兄といっしょになった。三人は少し夕飯ゆうめしが後おくれたと見えて、膳ぜんを控えたまま楊枝ようじを使っていた。自分は彼らを散歩に連れ出そうと試みた。母は疲れたと云って応じなかった。兄は面倒らしかった。嫂だけには行きたい様子が見えた。
「今夜は御止およしよ」と母が留とめた。
0985Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/18(金) 08:01:27.700
 兄は寝転ねころびながら話をした。そうして口では大阪を知ってるような事を云った。けれどもよく聞いて見ると、知っているのは天王寺てんのうじだの中の島だの千日前せんにちまえだのという名前ばかりで地理上の知識になると、まるで夢のように散漫極きわまるものであった。
 もっとも「大坂城の石垣の石は実に大きかった」とか、「天王寺の塔の上へ登って下を見たら眼が眩くらんだ」とか断片的の光景は実際覚えているらしかった。そのうちで一番面白く自分の耳に響いたのは彼の昔泊とまったという宿屋の夜の景色であった。
0986Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/18(金) 08:01:38.220
「細い通りの角で、欄干らんかんの所へ出ると柳が見えた。家が隙間すきまなく並んでいる割には閑静で、窓から眺ながめられる長い橋も画えのように趣おもむきがあった。その上を通る車の音も愉快に響いた。もっとも宿そのものは不親切で汚なくって困ったが……」
「いったいそれは大阪のどこなの」と嫂が聞いたが、兄は全く知らなかった。方角さえ分らないと答えた。これが兄の特色であった。彼は事件の断面を驚くばかり鮮あざやかに覚えている代りに、場所の名や年月としつきを全く忘れてしまう癖があった。それで彼は平気でいた。
0988Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/18(金) 09:29:06.750
「どこだか解らなくっちゃつまらないわね」と嫂がまた云った。兄と嫂とはこんなところでよく喰い違った。兄の機嫌きげんの悪くない時はそれでも済むが、少しの具合で事が面倒になる例ためしも稀まれではなかった。こういう消息に通じた母は、「どこでも構わないが、それだけじゃないはずだったのにね。後あとを御話しよ」と云った。兄は「御母さんにも直なおにもつまらない事ですよ」と断って、「二郎そこの二階に泊ったとき面白いと思ったのはね」と自分に話し掛けた。自分は固もとより兄の話を一人で聞くべき責任を引受けた。
「どうしました」
0989Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/18(金) 09:29:14.050
「夜になって一寝入ひとねいりして眼が醒さめると、明かるい月が出て、その月が青い柳を照していた。それを寝ながら見ているとね、下の方で、急にやっという掛声が聞こえた。あたりは案外静まり返っているので、その掛声がことさら強く聞こえたんだろう、おれはすぐ起きて欄干らんかんの傍そばまで出て下を覗のぞいた。すると向むこうに見える柳の下で、真裸まっぱだかな男が三人代る代る大おおきな沢庵石たくあんいしの持ち上げ競くらをしていた。やっと云うのは両手へ力を入れて差し上げる時の声なんだよ。それを三人とも夢中になって熱心にやっていたが、熱心なせいか、誰も一口も物を云わない。おれは明らかな月影に黙って動く裸体はだかの人影を見て、妙に不思議な心持がした。するとそのうちの一人が細長い天秤棒てんびんぼうのようなものをぐるりぐるりと廻し始めた……」
「何だか水滸伝すいこでんのような趣おもむきじゃありませんか」
0990Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/18(金) 09:29:25.680
「その時からしてがすでに縹緲ひょうびょうたるものさ。今日こんにちになって回顧するとまるで夢のようだ」
 兄はこんな事を回想するのが好であった。そうしてそれは母にも嫂あによめにも通じない、ただ父と自分だけに解る趣であった。
0991Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/18(金) 09:29:36.800
「その時大阪で面白いと思ったのはただそれぎりだが、何だかそんな連想を持って来て見ると、いっこう大阪らしい気がしないね」
 自分は三沢のいた病院の三階から見下みおろされる狭い綺麗きれいな通を思い出した。そうして兄の見た棒使や力持はあんな町内にいる若い衆じゃなかろうかと想像した。
0992Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/18(金) 09:29:45.280
 岡田夫婦は約のごとくその晩また尋たずねて来た。
0993Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/18(金) 13:52:53.820
        四

 岡田はすこぶる念入の遊覧目録といったようなものを、わざわざ宅うちから拵こしらえて来て、母と兄に見せた。それがまた余り綿密過ぎるので、母も兄も「これじゃ」と驚いた。
「まあ幾日いくかくらい御滞在になれるんですか、それ次第でプログラムの作り方もまたあるんですから。こっちは東京と違ってね、少し市を離れるといくらでも見物する所があるんです」
0994Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/18(金) 13:53:01.810
 岡田の言葉のうちには多少の不服が籠こもっていたが、同時に得意な調子も見えた。
「まるで大阪を自慢していらっしゃるようよ。あなたの話を傍そばで聞いていると」
0995Ms.名無しさん
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2022/02/18(金) 13:53:10.710
 お兼さんは笑いながらこう云って真面目まじめな夫に注意した。
「いえ自慢じゃない。自慢じゃないが……」
0996Ms.名無しさん
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2022/02/18(金) 13:53:20.820
 注意された岡田はますます真面目になった。それが少し滑稽こっけいに見えたので皆みんなが笑い出した。
「岡田さんは五六年のうちにすっかり上方風かみがたふうになってしまったんですね」と母が調戯からかった。
「それでもよく東京の言葉だけは忘れずにいるじゃありませんか」と兄がその後あとに随ついてまた冷嘲ひやかし始めた。岡田は兄の顔を見て、「久しぶりに会うと、すぐこれだから敵かなわない。全く東京ものは口が悪い」と云った。
0997Ms.名無しさん
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2022/02/18(金) 13:53:29.450
「それにお重しげの兄あにきだもの、岡田さん」と今度は自分が口を出した。
「お兼かね少し助けてくれ」と岡田がしまいに云った。そうして母の前に置いてあった先刻さっきのプログラムを取って袂たもとへ入れながら、「馬鹿馬鹿しい、骨を折ったり調戯われたり」とわざわざ怒った風をした。
0998Ms.名無しさん
垢版 |
2022/02/18(金) 13:55:26.670
 冗談じょうだんがひとしきり済むと、自分の予期していた通り、佐野の話が母の口から持ち出された。母は「このたびはまたいろいろ」と云ったような打って変った几帳面きちょうめんな言葉で岡田に礼を述べる、岡田はまたしかつめらしく改まった口上で、まことに行き届きませんでなどと挨拶あいさつをする、自分には両方共大袈裟おおげさに見えた。それから岡田はちょうど好い都合だから、是非本人に会ってやってくれと、また会見の打ち合せをし始めた。兄もその話しの中に首を突込まなくっては義理が悪いと見えて、煙草を吹かしながら二人の相手になっていた。自分は病気で寝ているお貞さださんにこの様子を見せて、ありがたいと思うか、余計な御世話だと思うか、本当のところを聞いて見たい気がした。同時に三沢が別れる時、新しく自分の頭に残して行った美しい精神病の「娘さん」の不幸な結婚を聯想れんそうした。
 嫂あによめとお兼さんは親しみの薄い間柄あいだがらであったけれども、若い女同志という縁故で先刻さっきから二人だけで話していた。しかし気心が知れないせいか、両方共遠慮がちでいっこう調子が合いそうになかった。嫂は無口な性質たちであった。お兼さんは愛嬌あいきょうのある方であった。お兼さんが十口とくち物をいう間に嫂は一口ひとくちしかしゃべれなかった。しかも種が切れると、その都度つどきっとお兼さんの方から供給されていた。最後に子供の話が出た。すると嫂の方が急に優勢になった。彼女はその小さい一人娘の平生を、さも興ありげに語った。お兼さんはまた嫂のくだくだしい叙述を、さも感心したように聞いていたが、実際はまるで無頓着むとんじゃくらしくも見えた。ただ一遍「よくまあお一人でお留守居るすいができます事」と云ったのは誠らしかった。「お重さんによく馴なづいておりますから」と嫂は答えていた。
0999Ms.名無しさん
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2022/02/18(金) 13:55:37.330
        五

 母と兄夫婦の滞在日数は存外少いものであった。まず市内で二三日市外で二三日しめて一週間足らずで東京へ帰る予定で出て来たらしかった。
「せめてもう少しはいいでしょう。せっかくここまで出ていらしったんだから。また来るたって、そりゃ容易な事じゃありませんよ、億劫おっくうで」
1000Ms.名無しさん
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2022/02/18(金) 13:55:50.230
 こうは云うものの岡田も、母の滞在中会社の方をまるで休んで、毎日案内ばかりして歩けるほどの余裕は無論なかった。母も東京の宅うちの事が気にかかるように見えた。自分に云わせると、母と兄夫婦というからしてがすでに妙な組合せであった。本来なら父と母といっしょに来るとか、兄と嫂あによめだけが連立つれだって避暑に出かけるとか、もしまたお貞さださんの結婚問題が目的なら、当人の病気が癒なおるのを待って、母なり父なりが連れて来て、早く事を片づけてしまうとか、自然の予定は二通りも三通りもあった。それがこう変な形になって現れたのはどういう訳だか、自分には始めから呑のみ込めなかった。母はまたそれを胸の中に畳込たたみこんでいるという風に見えた。母ばかりではない、兄夫婦もそこに気がついているらしいところもあった。
 佐野との会見は型かたのごとく済んだ。母も兄も岡田に礼を述べていた。岡田の帰った後でも両方共佐野の批評はしなかった。もう事が極って批評をする余地がないというようにも取れた。結婚は年の暮に佐野が東京へ出て来る機会を待って、式を挙げるように相談が調ととのった。自分は兄に、「おめでた過ぎるくらい事件がどんどん進行して行く癖に、本人がいっこう知らないんだから面白い」と云った。
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