テニス改革案●●●
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1. "15, 30, 40"という奇妙な伝統をやめて、"1, 2, 3"と数える。
2. ゲームは一方がサービスするのではなく、タイブレイク方式で両方がサービスする。
3. セットを廃止して、ゲーム数のみにする。何ゲームで勝ちにするかは、世界4大大会などの統計をとって決める。
4. ハードコートはひざへの負担が大きく、また天然芝コートは禿げて大会終盤には悲惨になる。なのでオムニコートとする。
5. オリンピックからは脱退する。 いずれにしろ、試合時間が長過ぎ。
個人の対戦競技で、こんなに試合時間が長いスポーツって他にないだろ。 底の浅いお調子者ほど
人の琴線に触れるようなことを
簡単にいったりやったりして
覆水盆に返らないにも関わらず
それが表沙汰にならない限り
本人はその自覚さえ持っていない。
しかし一度人々に劣等感を抱かせるような人物と
お調子者が対立すれば人々は一斉にお調子者の肩を持つ。
ただの風見鶏を修正力などと呼んで持ち上げる。
それは結局はお調子者のほうが自分達に近いから。
しかし他人に傷つけられた記憶を辿ってみれば
老獪ではなく軽薄に傷つけられた思い出がほとんどなのではないか。
現実生活で実際に孔子の罠に引っ掛かったことなどあるか。
現実は往々にして軽薄だからこそ押しの強い人間の思い通りに
動いていってしまう。
どこかでそれを食い止めない限りは。 ふてぶてしさに気圧されない精神が必要とされている。 孔子も孔明も老獪だったのかもしれないが、
ハムレットのクローディアスは老獪とはいわない。
兄王を毒殺した行動の動機が自らのコンプレックスであるという一点において。
どんなに立派な城を築いて人を欺いても建っている土台が
コンプレックスという泥沼なわけだからどうあがいても沈んでいく。
クローディアスは結局最後は王人格を持つ者に殺されてしまった。
これまでの人生の中で自分のコンプレックスで
さんざん他人様を振り回してきたスティグマがそういう運命を作り出している。
自分が王になっても誰にも喜ばれない、
だから勝利を収めたにも関わらず落ち着かず奇行に走る。
(この点物語よりも現実のほうが典型的な展開をみせている)
こういう人間を老獪とはいわない。 ハムレットは認識劇だというがクローディアス人格が女になると
かわいい女はみんなぶりっ子だけど
かわいくない自分は自然な女なのだという認識を流行させて
内実はコンプレックスたらたらにも関わらず
クローディアス人格の女は頭が良いなどと実際に人にいわせることにまで成功した。
その結果かわいい女がぶりっ子だからといって男に見向きもされなくなるまでには
至らなかったがそういう現実ならば今度は見抜けない男が悪いのだとこうくる。
そしてクローディアス人格の自然な女はあくまでも知的で正しいまま。
これでは「ハムレットの父親である自らの兄を殺したクローディアス」という
これほどシンプルな事実でさえ全く通らなくなってしまう、
それがクローディアス人格のコンプレックスを刺激する限りは絶対に。 不幸にしてクローディアス人格に目をつけられ
「ぶりっ子」のレッテルが不当に貼られてしまった時に
「ヒロイン人格でない奴が何をいっている、分をわきまえろ」
という声が上がった試しはない。
それをいえば耳の痛い人間が多すぎるせいだけれども、
しかし王や王妃になり得る人、その地位にいて安定していられる人というのは
自分のコンプレクスをきっちりコントロールできている人で、
故にしっかり人に愛されそうやって自分の問題は予め解決されているからこそ
王や王妃として人の役に立てるというのに
「ぶりっ子」その他の汚名が着せられてしまったら身動きがとれなくなり
クローディアスに天下を奪われてしまう。
そしてその認識劇はどういう結末を生んだか。 とにかくクローディアス人格は異常にコンプレックスが強くて
その分異常に攻撃性が強い。
その強い攻撃性故に時に勝利を収めても
喜ぶより先にその勝利による他人への影響力のほうをみてしまって
その空しいアピールっぷりは人の心を打たない。
普段あれだけ見事に他人の隙をとらえてはすかさずレッテルを貼るくせに
(あだ名をつけるのと物真似が大の得意)
自分の内面のことになると盲目に等しい。
見てしまったらそこは底なし沼だということが分かっているから見られない。
だから見ることを拒否して解消されないコンプレックスはそのままで
不当な攻撃は永遠に止まずそれで勝っても本人さえ喜んでいない。
それは劇として成立していない。
最後にクローディアスが勝ってしまったら劇ではなくなってしまう。
お金をとって上演するのなら自分の内側に意識を落としている人が
我を忘れて喜ぶ様をみせて欲しい。
それこそがカタルシスなのであり、
ありとあらゆる観客がお金を払って求めているのは
それに尽きるといっていいのだから。 クローディアス人格はどんなにふてぶてしくみえても
実は異様に気が小さい。
だからまずいと思ったら即風見鶏を発揮するし、
クーデターを起こすのではなく先王を毒殺する。
そういう気の小ささが弱点なのだということも
付け加えておく。 スチュワーデスが客室乗務員と
呼ばれるようになった時代に
女性をお嬢さん呼ばわりするのは
あまりにも洗練を欠いていて
前時代的ではないのか。
そうやってまわりを露骨に見下したり
あるいはコンプレックスで物をいったりしないためには
羞恥心がブレーキとなるのだが
そのブレーキがきかないにも関わらず
やたらと運転席に座りたがる人間が存在している。
職場では特に部下に嫌われていたが言うまでもなく
目下の人間がどう思っているかなど気にもしない。
職場では男にしろ女にしろ皆男人格を持っているのに
そういうまわりが全く目に入らず
常に態度がデカくてそれこそ王様然として振る舞い
場を仕切ってしかも目についたところは全部無遠慮に
口を出してくるからほんの少しの自由も奪われ
生きた心地さえしなくなる。
まわりにそんな思いをさせているとどんな危険を
招くのかまるで分かっていない。
虐げられている人間が腹の底で何を考え
どんな復讐を企んでいるのか想像だにしない。 ここまで描写しても誰の顔も思い浮かばないのなら
それは今まで死ぬほど運が良かったのだということ。
お前のあり方はもう古いとそれだけをいいたくなるような
人間と係ったことがないのだから。
かの有名な「お前はもう死んでいる」は
そういう意味だったのかもしれないのに。 文系が理系にコンプレックス持っていたり
理系が文系に憧れ抱いていたり
その状態で相手のことを批判なんかしたって
何の説得力もないばかりか
かえって自分の弱点をさらすことになるのにそういう形で弱点をさらけ出すのが
頭の良いことなのだと勘違いしている、「もう死んでいる」人が。
それについて語る立場にない、といえるほうがよほどスマートなのに
何も分かっていない、「もう死んでいる」人が。 相手選手よりも自分が勝ったほうがいいだとか
ましてやそれを人にみせてお金をとるだとか
根本的に無茶苦茶な話で
一見普通に通っているようだけれど
それは決して普通に通る話ではない。
だからこそルーク・スカイウォーカーがデス・スターの排熱口を攻撃する時に
あえて照準機を外してしまったような無茶苦茶が必要になってくる。
Do not think but feelが。
そういうジュダイ達が戦っているからこそ
観客が集まってくるのであって
フォースのからまない試合に試合としての価値はない。 過度に人間関係を規定するのは「もう死んでいる。」
上司だの教師だの親だの夫だのとして上に立たれた時
常に持ち上げられることしか相手の頭にないと
こちらは何様?を繰り返す羽目になるにも関わらず
こういう「もう死んでいる」人間に限って
超然に憧れていてやたらと偉そうに振舞って
その実超然とは最も遠いところにいる。
自分がしっかり敬われているかどうか気にして
でかい態度の裏で人の顔ばかりみているわけだから。
みていたって自分の出しているかまってちゃんオーラも
自分の偽超然のために犠牲になっている人達の気持ちも
何もみえないくせに。 人間関係の本質はもっと流動的なものだし
他人はこちらを持ち上げるために存在しているわけではない。
それを何も言わなくても分かっているのが理性なのであって
これだけ言っても自分の馬鹿に気がつかないのは理性にはほど遠い。 フォース全開の歴史に残る名勝負をして観客を思いきり楽しませた後で
実際にはみんなそれぞれの用事をしていたに違いないけれども
あの時は世界中の人達に見守られている気がしたなどというコメントを残したり
大きなタイトルをやっととれた時にはどんな名優も敵わないほどの
放出と抑制とをきかせた表現力を発揮したりする選手を向こうに回して
どうして理性派を気取れるのか。
そもそも人気はないけれども頭は良いはあり得ない。
頭が良いから人気があるのだし頭が悪いから人気がない。
本当に頭が良いのなら自分の人気なんかいくらでもコントロールできるわけで
人気を得ようとしてしたことでかえって自分の首を絞めるのは絶対的に頭が悪い。
コンプレックスがこれでもかというほど詰まっていて地頭が悪い人間による
異常な勘違いの無遠慮な発揮をみる以上に不愉快なことはない。
コンプレックスの強い人間ほど自分は頭が良いのだと簡単に思い込んでしまうのが
不思議でならない。 この世の中にはどこでも誰にでもモテるという人が一定人数存在しているが
そういう人は共通して決して露骨な振る舞いをしない。
安っぽい分かりやすさを嫌う、するのもされるのも。
小手先の手練手管なんか全く通用しない。
つまりモテる人間は羞恥心が強くて美意識が高い。
魅力的に感じる人を思い浮かべるとみんなそういう資質を持っているはず。
だからモテたければ小声でものをいって上手く伝えられるようにならなければならない、
歌の上手さはピアニシモに宿るのだから。
大声を出すのは既に戦闘状態に入っている時だけ。
敵が攻めてくれば当然大声を出さざるを得ないが
致命的な攻撃はなぜか受けなかったことにして
ひたすら曲解の隙をうかがってくる敵とどう戦ったらいいのか。 欲望という名の電車のスタンリーよろしく雄たけびを上げるのが似合う人もいる。
相手選手を野次るのでさえあの人なら仕方ないで済まされる人もいる。
しかしマーロン・ブランドには少しも似ていないし
そもそも感情の総量が少なすぎるにも関わらず無理矢理叫んでみたり
気が小さいくせにスラングなんか使って口汚く罵ってみたり
そういう勘違いした態度には目も当てられない。
何言ったってどうせ聞く耳なんか持っていないのだし
全然似合ってない服を着ていたって何ら指摘する必要はないのだが
コンプレックスの強い人間というのはひとりで勘違いをこじらせるというよりも
往々にして自己顕示欲が強くてしかも攻撃性が強いときているから
結局何か言ってやらなくてはならない事態に発展してしまう。 理想と現実が大きく乖離しているから
表層にイメージを結ぶことができない結果の不似合いな格好をしている人や
竹を割ったような性格なのだと言いながら
単にがさつで暴力的なだけでその実陰険そのものな人を
前に出して何時間も観察させた挙句お金をとるというのか。
人前に出る人は最低限自分に本当に似合う服が何なのか分かっているのが大前提。
自分のキャラクターというものが確立されていないと
どんなに立派なステージが用意されていたとしても
どんなにしっかりとした相手役がいたとしても
自分のせいでドラマが成立しなくなってしまう。
自分のことをまるで分かっていないせいで幾多のドラマを台無しにしておきながら
あれはわざとという名の夢オチに逃げ込む敵にはたしてバルサンは効くのか。
自分が勝っている時に周囲に面白くない思いをしている人がたくさんいるのは
夢ではなく紛れもない現実でそういう現実の中で自分の言動を抑えないというのは
いったいどういうわざとなのか。 夢オチの次はあいつが勝手にいってるだけだ攻撃のようだが
それをいくらいっても周りが常日頃から薄々感じてきたことは
あっという間に浸透して止められなくなってしまう。
勝手にいってるだけのことにそんな力はない。
例えば全然関係ない本に
「奥さんが田舎丸出しでオドオドしてるだけなんて」
「亭主の横暴バカが暴露されるだけ」
と書いてあるのを読むと皆一斉に同じ人を思い浮かべてしまう。
本当のことをいわれるというのはそういう現象をいうのであって
他人に戦争を仕掛けるのなら初めからそれを覚悟して臨まなければならない。
平時において他人は本当のことをよく分かっていてただいわないでいるだけ。
見下しきっていて他人をそういうものとして捉えていない点がそもそもの問題で
そもそもの問題に行き着くまで事を掘り下げていくことには十二分に価値がある。
それこそ世界を良くするために。 >なんでこんな偉そうなんだろ
>「自分の無知を知れて良かったんじゃない?」とかすげー上から目線
>それこそ自分こそなにも成し遂げてるわけじゃない素人のくせに
これこそ典型的な「お前の母ちゃんでべそ」で
確かに10年前も全く同じ「お前の母ちゃんでべそ」で
よってなにも成し遂げていないは大正解。
プロは目のつけどころがさすが。 >公式でテニスで感動を与えるよう強要してくるババアきもい
>だいたい感動の押し売りほどうざいものはない
>感動するかどうかは個人の感じ方だろ
そうやって何でも主観で判断しているから
自分と似ている選手、つまり自分と欠点が同じ選手に肩入れしてて
だからここで矢面に立っているのは自分自身で
だから腹を立てているのだということに気がつかない。
ババアだのきもいだのうざいだの書いていて
自分がどれだけ感情的になっているのか全然気づいていない。
そうやって自分の主観で物をいってるだけだからこそ
捨て台詞がお前の母ちゃんでべそになってしまう、10年前と全く変わらず。
世界なんか絶対に変わらない、その「個人の感じ方」のせいで。 例えば民族的にどうのなんていう言及が上の書き込みの中にあるか。
ないにも関わらず平気でお前の母ちゃんでべそを返してくるのは
現状認識があまりにも甘く、著しく謙虚さを欠いている。
何かにつけて人に上から目線をいってくるのは
お前の母ちゃんでべそレベルのことしかいえないくせに
常に自分が一番でありたいというだけ。
お前の母ちゃんでべそこそが一番高級なプロの書き込みで
それより少しでも物事を深化させようとすれば
上から目線を大声で叫ばれて黙らざるを得なくなってしまう。
まさにこの世の中は闇。 人のことをババア呼ばわりしておきながら
都合が悪くなると急に素人の若造扱いして
自分の知らないことを人が知っているのを絶対に許そうとしない。
それでいくらお前の母ちゃんでべそを書き込んでも
カタルシスを得ることは絶対にない。
人は間違えてもカタルシスが間違えることはない。
個々人の主観を超えたそれこそ神に認められた証がカタルシスなのだから。 現実主義者の言葉は弱い。
日常的に妥協を重ねている分言葉の精度が低くなってしまう。
それはそういうもので
アラビアのロレンスが戦後処理を現実主義者に譲ったように
役割が違うのだということ。
相手の資質に嫉妬して攻撃を仕掛けない限りは共存できるが
いざ戦闘に突入したらロレンスには絶対に敵わない。
不幸を抱えていて死さえ厭わなくなっている人物に勝てるはずがない。
退職や離婚を決心した時に何か語ろうとすると
真っ青になった周りに何も語ってくれるなとまで言われるのはそういう理由。
周りにとって一番恐ろしいのはその場を去っていくアラビアのロレンス。
そもそもここができたのは表で語れないことを語るためだったはず。
今はさらにここの裏が必要になっているのかもしれないが。 批判にはすぐ上から目線の声が飛んでくるのに
かわいそうなことをしたという上から目線には全く気がつかない。
何より謝罪に一番ふさわしくない態度にも関わらず。
安心して他人を見下して
いつまでも人にかわいそうなことができる自分でいたいのなら
絶対に喧嘩を売らないこと。
そうすれば自らのサイコパスっぷりを暴かれずに済むのだから。
嫉妬や驕りや偽善や無知の性悪を自覚した時に
かわいそうなことをしたという言葉は絶対出てこない。
敵は自分の内面と対峙する気のないサイコ。
一番かわいそうなのはないがしろにされているその内面ではないのか。 「板垣死すとも自由は死せず」でも
「自由」は全く掘り下げられずに「板垣」ばかり話題にされる。
だから変わるのはいつも当事者だけで
本質的には同じ歴史を何度も繰り返してしまう。
いくら売名行為をしたところで
名声は既にインターネットによって価値が暴落してしまった。
昔は貴重品でも今ではすっかり安価になったバナナのように。
貴重品だった過去の栄光にすがって名声にこだわっていれば
藁を掴んでしまう。
インターネットの書き込みを無名の一点で見下すのは
21世紀に生きているという自覚の欠如に他ならない。
それでもネットでは無料のバナナでお金を稼ぎ続けるのなら
問われるのはその質。
昔なら青くても黒くても売れたバナナも
もう真黄色でなければ売ることができない。
(色に人種を暗示させる意図は当然ない) さんざん場を仕切って自分中心に物事を回して
しかも人を見下して喧嘩を吹っ掛けたのは自分のほうなのに
いざ反撃されたら「弱い者いじめ」を主張する。
言葉を失ってしまう。
あのジャイアンでさえ言ってなかったはず、自分のことを「弱い者」だとは。
ドラえもんの秘密道具でどんな目に遭わされようとも。
軽率な人間は喧嘩が強いと過信していてだからこそ平気で人に喧嘩を売ってくる。
こういう人間がのび太のはずはなくだから秘密道具を使わせてもらえない。
「弱い者いじめ」などという軽率な人間がつけた「 」は
こうやって簡単に壊れてしまう。
それほど弱い「 」にも関わらずあまりにも押しが強いから
「 」が壊されずそのままになってしまっている。
現実はそんなもので、しかしドラマではジャイアンは
決して「弱い者」を騙ったりしない。
何しろ20世紀と21世紀の子供達の目に晒されてきたのだから。 秘密道具を使うとのび太が調子に乗ってしまうのは
それが自分のものではないから。
それをお腹の中にしまっているドラえもんが調子に乗っているのは
見たことがない。
秘密道具をお腹から出す時にドラえもんがどれだけ渋い顔をしていることか。
自分の得意なことをするのはとんでもなく面倒臭いから。
細かいところが全部見えてしまい
それをひとつひとつ潰さなければならないから。
全く面倒臭さを感じないのなら全く自分の得意なことではないのだということ。
自分に何か得手があるのなら他人の得手に敬意を払って
間違っても他人のフィールドを喧嘩の舞台に選んだりしないものではなく
ひとつ得意だから自分は万能の神だと思い込んでしまうものらしい。
HonestyよりModestyのほうがはるかに希少、この世の中では。 そんなにいうならテニスで勝負だとは誰もいわないのだから
Modestyが最も働きにくいのは何かいうことに関して。
客としている時と職場や家庭にいる時とでは
意識の持ちようが全く違うということに気がつかなくてはならない。
おいしくないレストランへ行って
今日はたまたま味が良くなかっただけかもしれないから
後日改めてまた行ってみようなどという悠長な人間がどこにいるというのか。
一回行って二度と行かなかった店が数え切れないほどあるのが普通。
これだけ選択肢がたくさんある世の中で客をやっていれば
誰だって織田信長になっている。
鳴かないホトトギスは即刻殺している、意識していようがいまいが。
人生においてはセカンドサービスを許されないことのほうがはるかに多い。
だからといって短気な信長が一面的にしか物事をみてないとは限らない。
組織の中で人間関係を維持するために仕方なく目をつぶり続けることで
得てしてかえって気がつけなくなってしまう、
そのホトトギスはいつまで待っても絶対に鳴かないということに。
いつ切られてもおかしくない関係だからこそ愛人のほうが正妻よりも
露悪的な男の本性に向き合わされるというのもよくある話。
それだけ組織というものが本質的に頭の悪さを内包しているのだということ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています