大相撲の話に戻すなら、ハワイ勢やモンゴル勢(+東欧勢)を接続詞で継いで「3」(もしくは「4」以上)への多数性をまず受容するとは、
「3」(以上)の物語を壊し、既にあった1に次いで顕れた新たな「1」での、日本大相撲界への「傷」のような書き込みのあと、
「2」以上の狂気を手に走り続けるかに見えるものに「1」だけの殻に閉じこもる者(日本人の贔屓)が
確実に、2以上の持つ無名性と断片性と夾雑物のような感覚を覚えて、足下をぐらつかせて希望について語りたがっているに過ぎないと見える。

1を超えたときから始まる、それ以上の値に対する一律的な違和感と、そもそもの1に基づく欲求不満が2からの逸脱も用意させないし
1を以て尊しとなす(笑)愚かな数理性への恐れや偏見が貴乃花の真の敵となるということ。

多数多様性を他人のことのように受容しようとする他人事自由主義者の偽善に同意するのではない。
私たちが何も汲々とせずに、じつは数理的なロジックに思考停止してしまう現実を危惧するもの。

再び、言う。
今 必要なのは、「境界を見る」、フラットだが凝らした視線なのだと思う。