曹操は献帝擁立以降本拠地許昌の北、東を中心に進出したから西側に割く人員、金の余裕はなかった
だからこそ涼州の軍閥である韓遂馬騰を漢王朝の高官に任じて彼らに西側の支配を預けた
その代わりに彼らの子弟を人質として要求し馬超は一時的に曹操配下の将軍として賊の討伐にもあっている
一方で韓遂、馬騰らは荒廃した長安から西へ逃れて涼州隴西に来た人達を支配下に納め人口を確保しますます力を付けた
これがのちの馬超の乱の時に馬超ら5万を超えると想像される大兵力の動員を可能にする背景になっている
このあたりも全部正史に書いてある

馬超は長安ではなく曹操討伐を本気で狙っていたから目標はそもそも長安ではない
ほぼ廃墟の都市として長安はスルーして潼関を攻めた
これも正史に書いてある

諸葛亮の北伐も都市としての長安を狙ったというよりは州都長安を中心とする一帯の制圧を狙った
その途上で隴西を支配に置く事で漢中からこの方面に移住させられた人達の生産力と経済力も掌中におさめこれを補給や輸送に転用しようとしていた
これも幾多の論文で書かれていてそれなりに三国志の史料や論文を読んでいる人にとっては当たり前の話

簡単に入手したりネットでも読めるんだからとにかく自分で読みなさいな