【ダーリン】宇宙人の秘密基地【ジョセフィーヌ】
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>>848-850
> 【阿波之宇志彦命(天日鷲翔矢命)】の「阿波之宇志彦命」は、
> 丹波比古多々須美知能宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ王)。
> 百済人の牛王と同一人物か同族である可能性が高いです。
丹波比古多々須美知能宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ王)は、
父、日子坐王と、母、息長水依比売(オキナガノミズヨリヒメノ命)の間に生まれた子。
日子坐王(ひこますおう)は、
開化天皇と和珥臣(和珥氏)遠祖の女(むすめ)との間に生まれた子で、
墓は、宮内庁により岐阜県岐阜市岩田西にある日子坐命墓(ひこいますのみことのはか、位置)に治定されている。
(Wiki より) >>830-838
せやさかい、
うちが神功ウナ子どす。 初めは、親の治めてた佐那の地にちなんで、
サナ子いう名前どしたんどすけど、
途中で舟木のフナ子になって、
それでは魚の鮒みたいやいうことで、
神八井耳のお耳(33)が長〜いから、ウサ子→ウナ子になりましたんどす。
和邇氏の娘みたいに言われてますけど、
ほんまの旧姓は舟木どす。舟木ウサ子。 >>851
息長水依比売(オキナガノミズヨリヒメ)いうんは、
うちのことどす。
息子の丹波比古多々須美知能宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ王)は、
いわゆる応神天皇(王仁)どす。
伊勢神宮の外宮、度会大国玉比賣神社に、
弥豆佐佐良比賣命(みずささらひめ)として祀られてるんは、うちどす。
おきながみずよりひめ = みずささらひめ、いうことどすえ。 >>851
>丹波比古多々須美知能宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ王)は、
>父、日子坐王と、母、息長水依比売(オキナガノミズヨリヒメノ命)の間に生まれた子。
息子の父親、日子坐王は、
うちと一緒に度会大国玉比賣神社に祀られている大国玉命のことどす。
岐阜の人と入れ替わってますけど、伊勢の人どす。 日子坐王いうんは、
一志ごおりの猿田彦さんのことどす。
美知能宇斯王(ミチノウシ王)のミチは、
道はやふる、の道にかけてますんどす。
ウシはもちろん、牛氏から来てます。 猿田彦さんは、
本来は日(火)の神どすさかい、
いつはやふる(厳はやふる)が本名どすけど、
道づくりが趣味で、水陸両方の道を造成するさかい、
地はやふる、水はやふる、と、
うちと一心同体の名を名乗ってますんどす。 大昔は、道は主に水路を使うてましたさかい、
船は重要な輸送手段どしたんどす。 同じく和邇氏の女(むすめ)で、
宇那比姫(うなひひめ)いうのも、うちのことどす。
卑弥呼モード、つまり日置氏のうちのことどす。 伊勢神宮の斎宮ておますでしょ。
今の三重県多気郡明和町にあるあの斎宮の場所は、
地図をごらんいただくとわかりますけど、
一志ごおりの△△城と、多気ごおりの佐那や相可(おうか)のちょうど中間地点にありますんどす。 あれが卑弥呼の邪馬台国どす。
多気ごおりの舟木氏と、
一志ごおりの出口氏の都を、今の斎宮のある場所に造営するプランがおましたんどす。
日置とは、舟木と出口の共同モードみたいなもんどす。 道て「とう」とも読みますやろ。
あれは、ヘブライ文字のタウに由来してますのえ。
道は十文字に交わるさかい、タウからトウになりましたんどす。
せやさかい、道路の造成は、タウの象徴するダン族の仕事になってますんどす。 ヘブライ文字 22 番目のタウは、1 番目のアレフとも互換やさかい、
みちはやふるは、いちはやふる、とも言うんどす。 >>860-861
つまり、
多気郡明和町の斎宮と△△城、
それに舟木氏の拠点があったと思われる多気ごおりの相可から佐那のあたり。
この 3 点を結ぶと、大体正三角形に近い三角形ができるんどす。 斎宮は広おますさかい、
Google 地図に「古里公園」とある「園」の字を一応の斎宮の地点にして距離を測ってみると、
斎宮(三重県多気郡明和町) 〜 △△城 10.05 km
△△城 〜 相鹿上神社(三重県多気町相可) 10.10 q
佐那駅 〜 斎宮古里公園 9.81 q
舟木氏が拠点にしていたと思われる相可から佐那のあたりというのも、
斎宮と同じかそれ以上にあいまいな言い方で、
実際は広い範囲にまたがっているので、
正確には測れませんけど。 それでも、さっくり言うて、
一志ごおりの△△城
多気ごおりの相鹿上神社、佐那神社
斎宮
この 3 つの地点は一辺がほぼ 10 q、
三辺の和が大体 30 〜 33 q になる、
正三角形に近い形を形成しとるんどす。 >>151
和邇氏は水軍担当の軍事氏族という説もあるぞ。 >>867
和邇氏 = 王仁氏 = オージンス○ノ氏(物部氏) = 牛(宇志)氏 = ウ○トコ氏 = 牛の土蜘蛛 = 牛鬼 ≒ 九鬼
九鬼水郡を率いた九鬼氏も、遡れば物部ス○ノ氏(王仁氏)に繋がるからではないでしょうか。
これらは日本海側京都の丹波比古多々須美知能宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ王)や阿波の天日鷲の系統ともつながります。 和邇氏は物部氏を構成する氏族なのですから、
軍事的色彩が強いのは当然だし、
そもそも舟木氏を上書きしているのだから、
水軍担当ということになるでしょう。 天理市にある石上神宮の近くを流れる布留川、
この付近を拠点にしていたのが和邇氏でしょう。
そして、石上神宮の周囲にはス○ノ姓と出口姓が多い。
伊勢一志ごおりのフル川水神と布留川との関係も謎。 >>868
訂正
九鬼水郡を率いた九鬼氏
↓
九鬼水軍を率いた九鬼氏 土岐 頼尚(とき よりなお)とは、
陽成源氏(摂津源氏)流土岐氏(美濃源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。
舟木頼尚 : 舟木頼重(頼直/頼真)の曾孫、頼春(頼玄/頼員)の孫、
頼夏の子、政尚の父、政頼の祖父、光俊の曾
祖父。戦国時代の南光坊天海(秀光/随風)[1]は、その後裔である。
明智頼尚 : 明智頼重(頼助)[2]の8世の孫、
頼篤の7世の孫、国篤の6世の孫、頼秋の玄孫、頼秀の曾孫、
頼弘の孫、頼定の子、頼典(よりなお、光継)・頼明の父。
(出典: http://ja.japan.wikia.com/wiki/) 尊卑分脈によると
頼光七世孫土岐五郎光行---頼貞(隠岐孫二郎、土岐惣領)、
弟頼重(号船木、隠岐孫三郎、右衛門蔵人、從五位下、右近将監、母定親に同じ)
(出典: http://rekishkakeizu.seesaa.net/article/373162096.html)
土岐光行の子、土岐頼貞の弟であった頼重が「船木」を号すとある。
但し、この文書の原典と思われる塙保己一編『続群書類従 5下(系図部)』には、
「渡會郡山田住人書之(中略)以其素右系?因左馬介光春嫡男正光之命。」と書かれている。 この明智系図(http://blog.sasakitoru.com/201312/article_1.html、
美濃土岐氏系図の研究(1)―土岐頼貞の系譜というブログより)
に見える土岐頼貞は、
>874 の船木系図にある頼貞(隠岐孫二郎、土岐惣領)と同一人物でしょう。
Wikipedia には、
土岐頼貞(1271 〜 1339 年)、兄弟に舟木頼重とあります。
つまり、土岐頼貞の弟、土岐頼重イコール船木頼重ということ。 しかるに、明智系図に登場する
>伯耆九郎頼基・十郎頼兼・弥十郎頼明らは頼貞の正妻北条氏の子であり、
>東美濃の明智長山城の明智を名乗った。
土岐頼貞の息子たちが、東美濃の明智長山城の明智ということは、
頼貞の弟である船木頼重(船木の祖)と、明智長山城の明智とは叔父甥の関係であり、
船木頼重にとって、東美濃の明智は本家にあたるということです。 船木頼重と同じ「頼重」という名を持つ人物は明智氏にもいます。
明智頼重(1342 〜 1423 年)
明智 頼重(あけち よりしげ)は、南北朝時代から室町時代の武将。
美濃国可児郡明智城主。
美濃守護土岐頼貞の九男長山頼基の子。土岐氏支流の明智氏の祖、あるいは二代目とされる。
(Wiki より) 明智系図(>>875)にある明智頼基の子、ということは、
土岐頼貞の弟である船木頼重にとって、明智頼重は甥の子どもにあたる。
本能寺の変を起こした明智光秀の祖である明智頼重にとって、
船木頼重は大叔父にあたるということになります。
甥の明智頼重(別名明智彦九郎)が、明智光秀の直接の祖になるようです。 >頼清・頼遠は活躍し父頼貞は美濃守護に補任された。
土岐頼貞は、子らの活躍により、美濃守護に任じられた。 旧高松城跡
境内はかつて高松城(別名:喜岡城、以下同上)の本丸であった。
喜岡城は1335年(建武2年)に建武の新政で功をあげて讃岐守護となった舟木頼重(後に地名をとって高松頼重と
名乗る)が築城するも、同年11月26日に足利尊氏の臣下、細川定禅らの軍勢によって落城する。しかし、頼重は生
き延び、子孫の高松頼邑によって城は再建。(Wiki「喜岡寺」の項より)
美濃国初代守護、土岐頼貞の弟にあたる舟木頼重が、
讃岐守護となった高松頼重であるということです。 >元弘元年(1331)に始まる元弘の変で鎌倉幕府が滅亡すると、
頼兼の兄伯耆九郎頼基の子頼重(高松三郎頼重)が建武新政のもと讃岐守護になった。<
頼基の子の、頼重は、明智頼重ですので、これは間違いかと思われます。
明智頼重は美濃可児郡明智城主です。 明智頼重
美濃守護土岐頼貞の九男長山頼基の子。美濃国可児郡明智城主。
(Wiki より)
>頼基の子頼重(高松三郎頼重)が建武新政のもと讃岐守護になった。
この 2 人は同じ明智頼重を指していますが、おかしいです。 >>882 は、
土岐頼貞の弟である土岐頼重(船木頼重)と、
土岐頼貞の息子の子(つまり孫)である土岐頼重(明智頼重)を混同しています。 >>874 の舟木氏系図では、
この讃岐守護となった船木頼重の子が頼春、頼春の弟頼重の子がまた頼春で、
その子が頼夏となっている。
この頼夏が、美濃から伊勢へやって来た船木氏の初代(と思われる)船木頼尚の父親です。
>正平 8 年舟木頼夏(土岐一族)は子の頼尚を官軍につけさせた。頼尚は子とともに伊勢に入った。
(http://www.amigo2.ne.jp/~fuchisai/home/denki.htm) 正平 8 年は西暦 1353 年です。
建武 2 年(1335 年)に讃岐香川で高松城を築くも同年落城の憂き目にあった船木頼重。
その孫かひ孫にあたる頼夏の子、頼尚が、
高松城落城から 20 年も経たないうちに伊勢へやって来ている。
しかし、伊勢一志郡における舟木氏の系統というのはすべて、
この頼夏の子、頼尚、その子正尚を起点にして展開していると言っても過言ではありません。
舟木正尚の二男、正頼の子光俊、光俊の二男光頼の孫光春、その弟中村光長が△△城の城主とされています。 つまり、△△城の城主であった中村、舟木氏は、
元をただせば、美濃の明智氏だったということです。 伊勢舟木家の系図に含まれる乙部氏については、
次にあるように、
「一 正ョ之 嫡男 孫 五 カ康正 者。 爲乙部 家 之 養子」
乙部氏と養子縁組したことになっているのでしょう。
乙部氏は美濃清和源氏の一族に含まれています。
ただし、遅くとも 1185 年には成立したとされる
「平安遺文古文書編東南院文書」東大寺文書にすでに、
一志郡堀内の舟木と乙部の中村氏が記載されていることは前述しました。 この東大寺文書について検討します。
【※『船木弟虫』;伊勢ノ船来直(船木直。船木−伊勢国朝明郡舟木明神祠官。西脇−同郡耳利神社祠官)、
船木臣、船木宿祢(舟木、堀内−伊勢国一志郡人。乙部、中村−伊勢人)】
伊勢ノ船来直(船木直。船木−伊勢国朝明郡舟木明神祠官
この船木氏は朝明郡(現在の三重県四日市市)にある船木明神の神官です。
朝明郡の一部はのちに分割されて伊勢国員弁郡となった。
員弁はおそらく忌部(物部)氏と関係している地名と考えます。 www.geocities.jp/engisiki/ise/bun/is081112-01.html
耳常神社
伊勢国 朝明郡鎮座 (合祀)耳利神社
三重県四日市市下之宮町319
【祭神】 神八井耳命 (配祀)建御雷之男神 斎主神 天児屋根命 姫神 神沼河耳尊 大山祇命
この耳常神社が「舟木明神祠官」の舟木明神です。
祭神は、相鹿上神社(三重県多気郡相可)と同じ天児屋根命。
中臣氏の祖神です。
天児屋根命 ≒ 中臣大鹿島 = 建御雷之男(鹿島神宮)
ちなみに、相鹿上神社の神紋は雀口桜で、
鹿島神宮の近くに特高隊飛行場があり、
その特高兵器が「桜花(おうか)」と呼ばれたことと無関係ではないと思います。 http://www.geocities.jp/engisiki/ise/bun/is081111-01.html
耳利神社 菟上耳利神社に合祀
三重県四日市市伊坂町1388
【祭神】応神天皇 菟上王または菟道稚郎子
これが「西脇−同郡耳利神社祠官」の耳利神社。
おそらく朝明郡の船木氏と同族の西脇氏が神官を務めていたのでしょう。
菟道稚郎子(うじのいらつこ)は宇治の地名の元になった皇族です。
これについては、機会を改めて書きます。 船木宿祢(舟木、堀内−伊勢国一志郡人。乙部、中村−伊勢人)】
一志郡の舟木氏に関係しているのはこの部分です。
一般に舟木家系図とされているものがかなりデタラメであることを裏付けるのが、
東大寺文書のこの記載なわけですが、一志郡堀内の舟木氏についても、
同じ文書の同じ欄に、朝明郡(現四日市市)の船木氏と一緒に記載されているという事実は見逃すべきではないと考えます。
つまり、一志郡堀内の舟木氏も、多気郡大鹿の中臣氏に通じる系統である可能性を軽率に捨て去ってしまうことはできない。
論証の公平さを欠くことになるからです。 明智系図の原本になっていると思われる系図をお持ちなのは、
岐阜の出口さんという方なのです。
東京大学史料編纂所のデータベースで公開されている文書ですが、
下の名前だけは一応伏せておきます。
東京大学史料編纂所
【書名】 明智氏一族宮城家相伝系図書
明智氏一族宮城家相伝系図書 出口欽三 岐阜県揖斐郡揖斐町
【原蔵者】 出口○△(岐阜県揖斐郡揖斐町)
【注記】 原題:清和源姓美濃国住土岐家随一之連枝
明智氏一族宮城家相伝系図書 岐阜県揖斐郡は、揖斐川のあるところです。
揖斐川は出雲の斐川と関係がないわけがない。
岐阜県揖斐郡揖斐川町
島根県出雲市斐川町
旧伊勢街道沿いにあるフル川水神も、
この出雲の斐川がオリジナルであるとの推論を前提にしています。 >>892
ごめんなさい、下の名前を伏せてませんでした。
まぁ、いいか。公開文書だし。 この出口さんは、明智氏一族宮城家の縁者の方なのかな。
ちなみにですが、この系図の最後の部分は、
宮城家の子孫の方が「故あって恵那郡へ移住する」との記述で終わっている。
土岐明智氏の系図を、岐阜の出口氏が持っているということは、
一志郡の出口氏も、
美濃の明智舟木氏について伊勢へやって来た可能性が濃厚になることを意味しますよね。 が、しかし、
それでは辻褄の合わないことが多すぎる。
誰かが嘘をついているのです。 そな話はどうでもいいかは
福岡の部落の荒瀬一味の話をしろよ 秀吉時代に朝鮮から連れてこられた
部落の荒瀬一味は何処の末裔になるんだ? 日本は天皇家の話ししかしないから
底辺の部落どもは何もしらないんだよ
そして、自分達も日本の天皇家の末裔だとか
勘違いする始末 もう、わかりきった天皇家の話は意味がない
部落の謎の解明こそ意味がある わかりきってませんわよ。
伊勢一志郡△△城の舟木氏が美濃の明智氏だなんて、
知られてませんでしょう。 三重県四日市市にも霞ヶ浦という地名がありますのね。
桜花(おうか)という名の特攻兵器を使った予科練訓練場は、
茨城県の霞ヶ浦にありましたのよ。 >>889
日本人はもっと色々ちゃんと調べて知るべきだと思うわ。 そんな事、誰が興味があるんだ?
ほとんどの日本人は自分の先祖の流れもしらないのに 苗字で先祖を辿ると
背後にいる先祖は朝鮮部落なのに
ほとんど天皇家に辿り着くんだよ
あり得ないだろう 部落地域の農民の出の苗字は
ほとんど天皇家と関係ない
出所でわかるけどね
今の天皇家も部落から嫁をもらってるんだよ 言い伝えとか残ってる地域は
ちゃんと侍の先祖が守ってるけど
ほとんどの農民の苗字は天皇家と関係ない
朝鮮から連れてこられた
部落地域が日本での本拠地なんだよ
だから地獄のふ暴力団もうじゃうじゃしている、 言い伝えとか残ってる地域は
ちゃんと侍の先祖が守ってるけど
ほとんどの農民の出の苗字は天皇家と関係ない
朝鮮から連れてこられた
部落地域が日本での本拠地なんだよ
だから地獄の部落の先祖の朝鮮暴力団がうじゃうじゃしているんだよ 部落の荒瀬一味は今度は裏をかく作戦みたい
中学生に恋しているロリコン荒瀬め
しまいには薩摩の龍神様から殺されるよ
わしの天皇家は天皇家の龍神様にとっては
大事な御所なんだよ 荒瀬一味は福岡のただの朝鮮部落
わしの御所は薩摩の大将の島津家の御所なんだよ
部落はヤクザだけど
島津家は天皇家の龍神様なんだよ
さっさと出ていけ まぁ、神社なんてそれ自体、全部同じ人たちが建てたものですから。
全国津々浦々にある神社はどれも、
同じ(サイドの)人たちが同じようなコンセプトに基づいて建てたものでしょう。
伊勢神宮も出雲大社も石上神宮も、
神社、という点では変わらないのですから。 当然、そこに祀られている祭神もそう。全部、現支配者側のものです。
わたしが話の起点にしている
一志ごおり阿射加神社の猿田彦や、多気ごおり佐那神社の天手力男にしたところが、
現天皇家側のマトリックスの中のものなわけです。 記紀に書かれている人物や事物について、
現今のマトリックスを否定する目的で、
現今のマトリックス中にある史料を使って論証をしても、本当の意味では無意味です。
記紀だけでなく現存のあらゆる古文書について、
一般的な意味での信頼性、信憑性を問うというよりも、
現今のマトリックスを否定する目的で、現今のマトリックス内にあるデータを使うというのが、
そもそもこちらの矛盾なのです。 記紀に書かれている猿田彦や天鈿女命、神功皇后について、
記紀の記述に基づいて新たな事実を見出そうとするのは無意味です。
下位のマトリックスの中で上位のマトリックス(メタマトリックス)を実証することは、
基本的には不可能だからです。
不可能というより、メタマトリックスにとってこの下位のマトリックスは意味がないのです。
幻想みたいなものだから。 ただし、幻想とはいえ、
人間にとっての現今のマトリックスと
上位のマトリックスであるメタマトリックスは同じ素材やものを使っている。
夢の中で、見る世界や肉体は、起きているときに見ている世界や肉体の写しですよね。
人や物の形や姿は夢の中と違うものではありませんよね。 ですので、こうした論証により今まで隠されていたものを見つけ出そうとする作業も、
たとえ現今のマトリックス内のものではあっても、まったく無意味かと言えばそうでもないと考えます。
記紀を精読しているわけではありませんが、
そこに書かれていることは全部が全部虚偽というわけでもなくて、
うっかり本当のことを書いてしまった部分や、矛盾の整合性をとり切れなくて事実が漏れている部分、
あるいは編者自身の良心の呵責で嘘がつけなかった部分もあったのかもしれない。
万葉集などには、作者や編者による真実の吐露が暗号として隠されているという説もあります。 例えば神社に関して、
神社なんてすべて同じ(サイドの)人たちが建てたものだとは言っても、
そこには何らかの真実の痕跡が残されている。
土地の先住民による古い祭祀の場に建っている神社と、
新しい人たちが自分たちの神を祀った神社の違いがあるとしたら何か。
例えばこうした模索からでも、
隠されたメタマトリックスが旧態のマトリックスを食い破って出てくる、
そのプロセスの端緒を開くきっかけといいましょうか、
いわゆる嚆矢(こうし)となり得る可能性を秘めているのではないかと考えています。 伊勢国朝明郡は現在の三重県四日市の一部とその周辺を含む地域を指します。
http://www.geocities.jp/engisiki/ise/bun/is081112-01.html
耳常神社
舟木直の祀る耳常神社は、舟木明神または春日明神と呼ばれていた。
475本当にあった怖い名無し2018/08/31(金) 14:28:48.27ID:gGLjX2AP0
朝明郡の舟木氏については後述します。 >>889
> 耳常神社
> 伊勢国 朝明郡鎮座 (合祀)耳利神社
> 三重県四日市市下之宮町319
> 【祭神】 神八井耳命 (配祀)建御雷之男神 斎主神 天児屋根命 姫神 神沼河耳尊 大山祇命
耳常神社の主祭神は神八井耳命。
神武天皇と伊須気余理比売命(いすけよりひめ)の間に生まれた長男で、船木氏の祖とされます。
配祀されている天児屋根命は天孫降臨の際の随伴神で、中臣氏の祖神。
このページ(http://www.genbu.net/saijin/koyane.htm)で天児屋根命 を祀る神社を見ると、
複数の春日大社系と思われる神社と、あと伊賀名張方面の神社が多く挙げられています。 春日氏について調べると、
「春日氏」は「ワニ氏」(和仁、和邇、和爾などとも)から派生した古代氏族とあります。
天児屋根命を祖神とする中臣氏は、「ワニ氏」(和仁、和邇、和爾)氏と関係していると考えられます。 >>921
朝明郡の舟木直が祀る耳常神社は、
春日明神とも呼ばれていたとあることから、
多気郡の相鹿上神社と同じく中臣和邇氏の系統であると考えられます。
ここからは、根拠のないスペキュレーションですが、
大化の改新の立役者、中臣鎌足は百済人の王仁と重ね合わされます。
中臣(大鹿嶋)≒王仁ワニ氏。
中臣和邇氏と上で書いた理由です。 多気郡の大鏡神社の宮司は船木氏ではありません。
(船木氏は近くの佐那神社で天手力男命を祀る)。
一方の朝明郡耳常神社の神官は舟木氏が務めている。
これは何を意味するかというと、
朝明郡の耳常神社の祭神は改竄されたものではないということです。
神八井耳を祀る舟木氏が正統な舟木氏であれば、
祭神の改竄を黙って見過ごすわけはないからです。
改竄だけでなく神八井耳と関係のない神の配祀も許さないでしょう。
つまり、この耳常神社は最初から、
主祭神を神八井耳とし、建御雷之男神や天児屋根命を配祀する神社として創建された神社であり、
宮司の舟木氏についても、
相鹿上神社と同じ中臣和邇氏の流れを汲む舟木氏が最初から神官として任命されていた可能性が高いと考えます。
(合祀されている耳利神社の祭神は応神天皇と菟上王なので、この際は論ずる必要はないでしょう)。
当然、多気郡の大鏡神社も、
最初から中臣和邇氏によって創建された神社であると思います。 最初から〜として創建された、の「最初から」というのは、
その地にいた古代氏族の祭祀の場の名残をとどめた色彩の強い神社ではなく、
比較的新参の人たちによって、所期の目的をもって建てられたという意味です。 その地で祭祀を行っていた、
あるいは祭祀すら行っていなかったかもしれない、
原初的な古代氏族の名残をとどめる神社ではないという意味です。 >>889
> ちなみに、相鹿上神社の神紋は雀口桜で、
> 鹿島神宮の近くに特高隊飛行場があり、
> その特高兵器が「桜花(おうか)」と呼ばれたことと無関係ではないと思います。
特攻兵器「大鹿」は、連合国軍によって「BAKA(馬鹿)」と呼ばれていたそうです。 勘のよい方なら、もう既に、
自分党とアースクエイクとの奇妙な関連についても、気付いておられるのではないでしょうか。 なんやアースクエイクって
自民党の化け物はよく遊んだわ
化け物党め >>889
> 天児屋根命 ≒ 中臣大鹿島 = 建御雷之男(鹿島神宮)
これのことでしてよ。 まぁ、自民党の政治家の中にも政治家がいるから
凄い力を持っている
わしはゼウス家の長男だ まぁ、自民党の政治家の中にもゼウス家がいるから
凄い力を持っている
わしはゼウス家の長男だ まぁ、独りよがりのわがままな天皇家だけじゃ
どうしようもないから
ゼウス家は自民党も育てたんだよ 育てたんだよ、じゃありませんわよ。
自分党に票を投じなかったら殺される国ですのよ。 そうか、わしは自民党の頭だけど
自民党に入れた事ないな
まぁ、福岡の部落地域だからしかたがない 部落政治家がどう思おうと構わんが
薩摩の島津家は本物なんだよ わしはゼウス家の宇宙船から
透明な四角箱に入ってコロコロ降りてきたから
この世の偽物はどうでもいいの
そうやって宇宙船から地球の霊界に発射されて
人間に宿るんだよ なにがねますだ
恥を知れ
偽物ども
おまえらはこの世の幻想だけだ おまえらは部落と同じて
生きる為に嘘をつく
それは嘘のこの世の世界でしか
生きられないただの幻想だからだ こいつらはただの幻想の魂だから
確かな物がないんだよ
だから何も分からない世界で
生きる為に嘘をついて藻掻いてるんだよ 関東にいるじいさん一味は
ただの神社の末裔で
宇宙船乗りの祖神はわしらなんだよ だから関東のじいさんが退位宣言する
ちょい前に
ゼウス家みんな
じいさんを宇宙船に迎えたんだよ
魂はただの神社の末裔なんだよ だから関東のじいさんが退位宣言する
ちょい前に
ゼウス家みんなで
じいさんを宇宙船に迎えたんだよ
魂はただの神社の末裔なんだよ 宇宙船乗りのわしらが
神話に出てくる
宇宙世界の王家で
地上はただの幻想の魂の神官だ だから地上はどんくりの背比べて
争っているだけ
宇宙船乗りの
宇宙世界の王家のゼウス家が
隕石一つ地球にぶつければ終わり
いつもやれるんだよ
地球の猿と戦うまでもない 喜岡城案内板(香川県高松市)の案内板には次のように書かれているそうです。
「鎌倉時代の末期、建武の中興の功臣舟木(高松)頼重が
讃岐守護職としてこの地に城をかまえていましたが、
建武二年(1335)十一月二十六日、足利尊氏の臣、細川定禅らの軍勢に攻められ、
老父一族十四人と郎党三十余人討死し、落城しました。
その後、ここ高松城にて高松庄を領した高松左馬助頼邑は、
天正十三年(1585)四月二十六日、
秀吉の四国征伐の一隊(宇喜多秀家ら七将の兵)約二万三千の攻撃をうけ、
手兵百余人と、香西氏派遣の唐人弾正、片山志摩の率いる兵、
合わせてわずか二百をもって勇敢に戦いましたが衆寡敵しがたく城兵ひとり残らず討死しました。
(出典: https://ameblo.jp/katana-bokudo/entry-12340550930.html) >>880
> 喜岡城は1335年(建武2年)に建武の新政で功をあげて
>讃岐守護となった舟木頼重(後に地名をとって高松頼重と> 名乗る)が築城するも、
>建武の新政で功をあげて
舟木頼重は、
後醍醐天皇の倒幕計画を(妻を通じて)六波羅探題に密告し、陰謀を露顕させた人。
この舟木氏系図(http://rekishkakeizu.seesaa.net/article/373162096.html)にも、
頼貞(隠岐孫二郎、土岐惣領)、弟頼重(号船木、以下略)とあるので、これは同一人物でしょう。
、: 正中の変(しょうちゅうの へん)は、
鎌倉時代後期の元亨4年9月(1324年10月)に起きた、
後醍醐天皇による討幕計画が事前に発覚し首謀者が処分された事件。
建武の新政(けんむのしんせい)は、
鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に
後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。
建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。
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