大学時代
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帝京大学文学部心理学科[1]に進学すると慣れない土地でトレーニングジムを探す余裕もなく、授業とアルバイトに明け暮れるごく普通の大学生活を送っていた[5]。
大学の学部学科の中でなぜか鈴木が進んだ心理学科だけが厳しく、普通は120単位程度取得すればよいところ170単位くらい取らなければならず、さらに教職課程を履修することも必須だった[5]。
アルバイトは、平日は食品メーカーの営業として自ら車を運転して得意先を回り、土日はホテルで蝶ネクタイを付けてパーティーや結婚披露宴のウエイターをしていた[5]。

高校時代あれほど頑張っていたウエイトトレーニングもしなくなり、食事も平気で1日1食で済ましていたため、大学3年生の時には体重50㎏台のひょろひょろな体になっていた[5]。
あまりに細すぎてお気に入りであった女の子から「細い男はイヤ!」と言われたこと、当時総合格闘技やK-1が隆盛を極め、ケビン山崎が注目を浴びた頃で、世の中が肉体改造ブームに湧き上がっていたことなどもあって、トレーニングを再開[5]。とはいえボディビルを始めようという思いは微塵もなく「ある程度筋肉が付けばいい」という考えだったので、最初に入会したのは一般的なスポーツクラブであった[5]。

1ヶ月ほどトレーニングを行うともっとトレーニングを行いたいという欲求が高まり、そこで多摩スポーツジムに入り直した[5]。
そこで中央大学ボディビル部の中島土と出会い、マッスル北村や学生ボディビル界の先輩にあたる須江正尋のビデオを見せられて影響を受けた[5]。
体を大きくするためにマッスル北村の『THE世紀末バルクアップ1999』などに影響を受けてひたすら糖質を取るように心掛けた。1食3合の米を1日3回、間食にハンバーガーを摂取。米を食べる時はポテトチップスをふりかけにして食べ、野菜は殆ど摂取しなかった。いわゆるダーティバルクを採用していたと言える。朝食に卵10個とサバ缶1缶を食べて体を作ったこともある[6]。
トレーニングの甲斐あって、体重は75㎏から76㎏になっていた[7]。
ただしウエイトトレーニングのフォームは自己流であり、とにかく重い物を持ち上げればよいと思っていた[7]。

大学在籍当時『IRONMAN』や『月刊ボディビルディング』を毎日のように読み漁っていた鈴木は、ベースボールマガジン社の当時の取締役であった田代誠が『月刊ボディビルディング』で解剖学的アプローチ(当時ウエイトトレーニング先進国であったアメリカでも、回数や○○法といった生理学的アプローチが主体であった)に基づいたウエイトトレーニングの連載を行っているのを知り、その連載の内容が鈴木の中で知識や考え方として根付き、これが鈴木が理論立てのトレーニングを行う原点となった[7]。それでも鈴木はボディビルがどのようなものなのかまだ分かっておらず、ボディビルをやろうと決意するまでには至らなかった[7]。

4年生の時にはほぼ大学の単位を取得できていたので授業もあまりなく、実家に帰っては地元のトレーニングジムでトレーニングを行っていた[7]。
そのジムの取引先の1つがTHINKフィットネスで、毎日定時で仕事を終えてトレーニングを行える仕事に就きたいと思っていた鈴木は、オーナーを通じて採用試験を受けたいと志願し、卒業間際の3月に試験を受けた。
すでに内定を受けていた鈴木は、この時は清水の舞台から飛び降りる気持ちであったことを後に明かしている[7]。