『君が無事で、良かった……』

力無いが優しい、心から相手を気遣う笑顔。きつく抱きしめる結弦の腕は、見た目に反し逞しい。
『落ち着いて聞いてくれ。君の……ご両親が……』
それは……さっき秋子から聞いたわ。おじ様とおば様も……お気の毒だったわね。
『ごめん、たぶん僕が、あの鍵を掛け忘れたんだ。全部そのせいなんだ』
そうなの? でも違うわ。貴方のせいなんかじゃない。すべてわたくしの嫉妬と絶望が招いた事。
わたくしはあの化け物の存在を知っていて、あえてあそこに行ったの。
でも浅はかだった。事は自分一人の身では済まなかった。
ごめんなさい。一人にしてくださらない?
貴方は秋子と話してあげて。あの子を、もう一人のわたくしを受け入れてあげて。
もしあの子が子供を諦めるような事があれば……わたくしは貴方を許さない。

「――――桜子!!!」

しつこいわ結弦。一人にしてって言ってるでしょう?
わたくしは大丈夫。貴方と違って……無傷ですもの。そう、あの化け物にはまだ何もされてない。
貴方は右手を怪我したのでしょう? 右手じゃなく、左手だったかしら?
どちらでもいいわ。来週末のリサイタル、代わりに弾いて差し上げても宜しくてよ。

「この傷はヴァンパイアを……、……銀の弾頭……心臓の…………」

何を言っているの? もっとはっきり仰ってくださらないと分からないわ。
ヴァンパイアが、銀の弾頭がどうしたと言うの?

「違うわ! あたしの銃はただの……」
「間違いありません。銀の弾丸です」
「……うそ。……誰かが……入れ替えたってこと?」

結弦? 他に誰か居るの? 秋子の声じゃないみたい。言ってる事も意味が分からない。
ああ……何だか身体がだるいわ。眠くて仕方がないの。
それに……とっても寒い……胸のあたりが……氷のよう。
お願いよ結弦。そんなに揺すらないで。ちょっとだけよ。ほんのちょっと、眠るだけ。

あらでも……結弦、聞こえたかしら? 遠くからする……子供の……泣き声。
ええ、確かに子供。まだ小さい……ほんの生まれたばかりの赤ちゃんの産声。
ふふっ……まさか、ね。この病棟に産婦人科はないもの。

不意に……温かい何かが唇の上にポタリと落ちた。
瞬時に香る芳しい香り。落ちる雫は数を増し、滴りとなって口の中に流れ込む。
素晴らしく滋養に満ちた味わい。ゆっくりと味わい、飲み込む。
……もっと…… もっとよ……!!
せがむ口元に押し付けられる温かい感触は、人間の肌だ。無我夢中で牙を立てる。
声を殺し呻く男の声。結弦の声だった。この時気付いた。この肌は結弦のものだと。自分の為に自らの血を分け与えてくれたのだと。

「……結弦!!」
飛び起きたわたくしを見た結弦が笑った。力ない笑顔で。あの時と同じ顔で。
「良かった。眼が覚めたんだね?」
「好きよ、結弦!!」
自分でも不思議と本心が出た。初めて素直に言えた言葉。結弦に抱きつく腕に力が込もる。
「貴方の事が……好き!! 大好き!!」
抱き返す結弦の腕は、やはり細いが逞しかった。鍛えられたピアニストの腕。
その腕が背を離れ、この顎を上に向かせ……何て素敵なんでしょう! 貴方と口づけを交わす日が来るなんて――

「あの、盛り上がってるとこ悪いんだけど」
ちょんちょんと肩をつつかれ振り向くと、浅香が呆れ顔で立っていた。
ちょっとあなた! 空気を読むって言葉を知らないの?
わたくし達が……初めて互いの愛を確認し合った感動の場面なのよ!!?

だがそんな恨みごとは一目で吹き飛んでしまった。浅香の腕に、小さな赤子が抱かれていたから。