全身が総毛立つ。
真紅に染まる桜子の二つの瞳。我を忘れたヴァンパイアが、己の本性に従うときの眼。
あの薄暗い地下室で、初めてあの眼に射竦められたのは中等部に上がってまもなくの時。

四角い、ただ広いだけの地下室はカビと血の匂いがした。
打ちっ放しの汚れた壁。天井の数か所に穿たれた丸いオレンジの照明。
部屋の隅にぼんやりと照らし出された……一体の人影。
『銀弾で弱らせてはいるが、油断するな。手負いの獣の恐ろしさは知っているだろう?』
無線越しの父親の声は、いつにない緊張をはらんでいる。
微かに鳴る880 Hz――ピッチA(アー)の電子音。それに続く金属音。
手足を拘束していた銀の電子錠を外された男が、ゆらりっと立ち上がる。
開いた傷から溢れ出した血液が、黒く汚れた床に新たな染みを作り出す。
やせ細ったむき出しの肩や手足が戦慄く。所々に張り付いた臙脂の布は、もとは衣服だろうか。
容貌は決して若くなく、逞しい体格という訳でもなく、何も持たぬ腕をただ無造作に下げている。
決して脅威ではない。それがただの人間であれば、だが。
「久々の餌……か」
食い入るようにこちらを見つめていた男がポツリと呟き、その眼が血に染まったと思った瞬間、
彼が眼の前に居た。

『――何をしている! 動け!!』

竦んでいた足が、身体が、その言葉に反応した。

『眼を逸らすな! 冷静に! 奴の軌道を読め!』
『呑まれてはダメ! 自分のすべてを解放なさい!』 

――父さん!
――母さん!

左足を軸にして右に半回転。眉間のすぐ先の空を切る敵の手刀。鋭い擦過音。切られ、舞い散る前髪。
空を薙いだ桜子の右手はしかし、ありえぬタイミングでその軌道を変えた。
視界の狭い右側からの一閃。右頬に軽い衝撃。
当たってはいない。かろうじて身体を逸らせ避けていた。
すぐさま下方に転じた手刀の軌道を、右横に回転し受け流す。
押されている。息をつく暇はない。右眼窩にズキンと来た痛みに思わず顔をしかめ――
何故だろう、突きだされた右手が眼前で不意に止まった。

それは攻撃に転じられる一瞬の隙だった。
左に飛んで距離を取りつつ、銃を抜く。
僕の愛用はもっぱらこのベレッタNANO。女性にお薦めって言われる理由はこの手軽感と……フィット感だろうか。
尖りも出っ張りもないから、タキシードの裾に引っかかる事もなく素早く抜ける。
安全装置はグロック式(トリガー部で直接操作する)だから、慣れないと危ないけど。
引き金を引くイメージを、ピアノを弾いて音が出るイメージと重ねる。引くと弾くの違いだけ。
鍵盤はトリガーだ。それが伝える複雑な機構がハンマーに伝わり、一つの音を出す。
この銃の音(ピッチ)はこの通り、F(エフ)フラット。舞台上で響く反響音が耳を劈く。

狙い通り、弾は桜子の左肩を貫通した。
何故わざと急所を外したかは……決まってる。桜子の答えをまだ聞いてないから。
彼女だって本当は僕と話したいはずだ。秋子の事で思わずカッとなっただけで、本当は――
だよね。本当に彼女が僕を殺すつもりなら、とうに出来ていた。
さっき観客にしたように、僕の意思を奪えば良かったんだから。

ヴァンパイアの治癒力はいつ見ても凄まじい。
見る間に塞がる傷口。消える血の痕。裂けたドレスの間から覗く、目眩がするほど綺麗な肌。
眼に見開き、僕を凝視している桜子。
背中に殺気を感じたのは、彼女の眼が黒目勝ちに戻った時だった。

長年培われてきた反射神経をこの時ばかりは呪った。
下手に避けたりしなければ、弾丸は防弾着で受け止められた筈だった。この手に当たる事なんて無かったんだ。