しかるに当世は正像二千年すぎて末法に入りて二百余年、見濁さかりにして、

悪よりも善根にて多く悪道に堕つべき時刻なり。

悪は愚痴の人も悪としればしたがはぬへんもあり。

火を水を以てけすがごとし。善は但善と思ふほどに、小善に付きて大悪のをこる事をしらず。



善なれども大善をやぶる小善は悪道に堕つるなるべし。

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世俗の価値観による善悪は誰にでも判断
ができるが、仏法における善悪を見きわめることは困難であ
り、そこに大きな問題があると日蓮は指摘する。

ここでは「世間の罪」とは次元を異にした仏
法における罪が問題とされており、たしかに仏法であれば何
らかの意味ですべて「善」ではあるが、日蓮はその中に「小
善」と「大善」があるという。

この場合の「小善」とは、自己を判断の規準において
釈尊の教えを選ぶことであり、

「大善」とは釈尊の本意に随順することを意味している。

すなわち自分では「但だ善と思」つていても、釈尊の本意を無視し
た恣意的な仏教受容では「大善をやぶる」こととなり、か
えって「大悪」に陥るという論理である。