八千代工業に吹いていたのは逆風ばかりではなかった、2011年東京モーターショーに突如お目見えした「EV-STER」に、
誰もがビート復活を予感したはずだ。電気で走る次世代のスモールスポーツのコンセプトモデルとアナウンスされたが、
エンジンが載る可能性を全否定していなかった。そして、13年の東京モーターショーには、「S660コンセプト」がお披露目
された。この時点で発売に関する情報は一切報道されていないが、すでに水面下ではどこでつくるかの議論が始まって
いた。「2年ほど前になるでしょうか。ホンダさんかヤチヨかという話題が聞こえてくるようになりました」と語るのはSSPLの
山田宗良さん。S660の生産受託というニュースは、さぞかし嬉しかったに違いない。「正直、最初に耳にしたときは複雑な
思いでした。新型車の開発は非常に機密性が高く、情報の扱いが難しい。公式に発表があるまでは二転三転することだ
ってあり得るのです。昨年4月、ホンダさんから正式にS660の生産は八千代工業四日市製作所で行うと発表があるまでは
手放しに喜ぶことはできませんでした」
 少量生産のノウハウ、ミッドシップバンやビートの生産実績などから、S660を八千代工業がつくるのは自然な流れでは
ないだろうか。「市場からの大きな期待、ホンダの本格スポーツカーの1台として注目度が高い。ヤチヨとしても絶対に失敗
できないプロジェクトです。そうした空気を社員全員が感じ取っていたのでしょう。プレッシャーがいつの間にかヤル気に変
わっていたのを肌で感じられました」
 それでもS660をヤチヨでつくれるようになるまでには、開発段階での部品や工数の精査、効率の高い生産ラインの設計、
金型や専用ロボットを減らすといったコストの低減など解決すべき問題は山積していた。「つくる手間を車両価格に転嫁は
できません。それでもボディ剛性の高さや精度、安全性など、品質にかかわる要件を犠牲にするわけにはいきません。
そういう状況から導き出された答えが『人の手による作業領域を拡げた生産ライン』であり、フロアのプレス工程の大幅な
効率化を可能にした『ワンショット成形技術』です。少しでも価格を抑えながらも、長く愛用していただけるクルマをつくりたい。
そして、一日でも早くオーナーのもとに届けたいという思いで取り組んでいます」

かつてビートの生産を行っていたとはいえ、ミッドシップオープン2シーターという特殊なクルマづくりは容易ではない。しかも、
S660は同クラスのオープンスポーツを凌ぐ曲げ剛性、ねじり剛性を実現しなければならない。シャシー性能の高さや痛快な
ハンドリングの目標はとても高いところにあった。そのこだわりが「一線入魂ボディ」の採用だ。
「ボディ骨格を寸分の狂いなく図面通りにつくれるかが溶接の難しいところです」とは溶接課の篠田明彦さん。ここ八千代工業
で20年以上溶接に携わってきたスペシャリストだ。S660を手がけることが決まったことで溶接課全体のモチベーションが上が
り、いいものをつくろうという空気が感じられたという。「現在のラインが完成するまでに半年以上費やしましたね。S660の場合
、人の手による作業の割合が多い。それでも無闇に工数を増やせない。作業の正確さが求められるため、人材の育成には多
くの時間を費やしました。また、専用ロボットとの導入との融合もS660ならではの工程です。精度を高めるのに不可欠な治具、
とくにボディ内側にセットする治具の開発には大変苦労しました」特別な技術と作業を要するのはどの工程でも同じようだ。
「試作の段階で組みづらい点など、ホンダの栃木研究所の力も借りて改良を重ねました。鈴鹿製作所の方にもいろいろ相談さ
せていただきました」と、組立課・高山宣一さん。同課では昨年3月には習熟度の向上を目的にクルマを1台導入。バラしては
組み立て、またバラすという作業を繰り返しトレーニング。作業効率と精度を高めたという。
「ロールトップは初めてでしたから水漏れがないか心配でした。アクティやバモスと違ってノーズが長いので、フロントガラスを
正確に装着するため専用の治具をつかって2名で作業するなど、気密性を高めるためにさまざまな工夫を凝らしました」と、組
立課にも数々の苦労があったことがうかがえた。
 八千代工業四日市製作所には、量販車種の組立工場とは違った空気が流れ、オレンジの帽子が控えめながら誇らしげに見えた。