柔道五輪金メダリストの古賀稔彦氏に、自身の柔道人生に平成の時代を重ねて語ってもらった。
「平成の三四郎」という異名で期待された。
当時は本当に怖いもの知らずだった。何が何でも得意技の一本背負いで投げるんだという、若気の自信に満ちていた。でも、だんだんとニックネームに
ふさわしい勝ち方をしなければいけないという重圧を感じた。(1989年に)世界選手権で優勝してから、常に不安や迷いがあった。翌年のアジア大会で負けて(銅メダル)、
重圧から解放された。
当時は吉田秀彦選手や小川直也選手、谷(旧姓田村)亮子選手ら、個性的な選手が多かった。
今思えば、自分が活躍することが好きなタイプがいたので、おのずと日本柔道が盛り上がっていく状況がつくれていた。活躍して結果を出すということは、
表彰台の一番高いところ、誰よりも目立つ場所に立つということ。「誰よりも目立つところに俺は立ちたいんだ」「俺を見てくれ」と、自分の柔道に酔えて、
それをみんなに見せるのも好きだという人が、結果を出す選手だと思う。
92年のバルセロナ五輪を振り返って。
(4年前の)ソウル五輪では大会までに頑張り過ぎて、心身とも全てのエネルギーを使い果たしていた(結果は3回戦敗退)。スポーツの最高の舞台での経験は、
勝っても負けても、自分の人生の教訓になった。ソウル五輪は特に私にとっては、自分の柔道に対する思い、考え方を大きく変えくれた大会だった。それからは
「自分にうそのない努力をし、自主性を取り戻そう」と考えた。休む時は休むと指導者に伝え、お互いが理解し合って練習し、休む状況をつくれた。
バルセロナ入り後、後輩の吉田選手との乱取り中に左膝を負傷した。
その時は「なぜここで」と思ったが、痛みが治まると「俺は絶対に優勝できる」と思った。なぜなら、自分にうそのない努力をしてきたから。柔道は心技体トータルの戦い。
今まで培ってきた自分を信じる力があり、カバーできた。監督、コーチは「いつ古賀は出場できませんと言いにくるか。言ってきたら、受け入れよう」と思っていたらしい。
でも私の中では、けがをしてからは本当に何の焦りもなかった。減量だけは計画的にしなければならず、そこが一番きつかった。だけど何の焦りも不安もなく、吉田にも
「俺は優勝するから大丈夫だよ」と言っていた。
僕の試合の前日は吉田の試合を選手村で(田村)亮子と一緒に見ていて「(吉田は)優勝した。俺は膝が痛いが我慢して、あしたは優勝する。試合場を出た後に、
多分倒れるから」と、既に優勝した後のことまでイメージしながら話をしているぐらいだった。本当に自分の取り組みに対しての自信が自分をすごく支えてくれていた。
帰国後、「古賀さんだからできたんですよね」「精神力が強いからできたんですよね」と言われたが、そうではない。私はもともと小心者。でもやってきた積み重ねによって、
その瞬間につくられていた(強い)自分がいた。