2020年東京五輪開幕まで、24日であと2年。出身大学別で最多62人の夏季五輪メダリストを輩出している日体大とコラボレーションした
長期連載の第9回は、柔道男子66キロ級の世界王者、阿部一二三(ひふみ、20)が登場。具志堅幸司学長(61)、柔道部の山本洋祐部長(58)と
対談した。東京五輪の金メダル大本命といわれるホープが、2人のメダリストの前で明かしたさらなる進化の鍵とは具志堅学長(以下、具志堅)
「あと2年に迫った東京五輪の青写真は描けているの」
阿部 「今年9月の世界選手権(バクー)で2連覇、来年の世界選手権(日本武道館)で3連覇できればいいと思います」
具志堅 「世界中の人が柔道の日本代表=金メダルというイメージがある。プレッシャーはあるか」
阿部 「プレッシャーに負けていたら五輪で優勝できない。プレッシャーを力に変えようと思っています」
具志堅 「得意技は」
阿部 「担ぎ技。なかでも背負い投げです。世界王者になって周りから研究されているのを感じます。課題を克服して、その上をいけるようにしたいです」
具志堅 「本当のチャンピオンは研究されてもその上をいく。ところで学生生活はどう」
阿部 「もう3年生なんだと思うと、早いです。(2016年の)リオデジャネイロ五輪のときは1年生で、日本代表に入ることができませんでした。
この悔しさを東京五輪で晴らしたいです」
具志堅 「練習することはイメージすること。考えない練習は練習ではない。金メダルを獲得した(1984年の)ロサンゼルス五輪で学ばせてもらったこと」
阿部 「自分の柔道を追求していきたいと思っています」
具志堅 「一年一年の積み重ねが大事で、前に進んでいってほしい。他の選手の模範となるような憧れるような選手になってもらいたい。では、
どんな稽古に取り組んでいるの」
阿部 「日々、課題を持って取り組んでいます。特に、立ち技からの寝技です。寝技が少し苦手なので」
山本 「伸びる選手は自分で考えて練習する。阿部は学生のなかで突出して考えて練習する選手です」
阿部 「寝技や逆技をひたすらかけるときもあれば、足技ばかりや組み手を重視するときもあります。減量のときは、道着の中に服を着込んで汗を
かきます。考えながら練習します」
具志堅 「いいことだ」
阿部 「課題にしていた逆技(阿部の場合は右組みから出す左技)の感覚をつかめてきています。試合で出せるように仕上げたいです」
具志堅 「訓練、訓練だよ。日体大には体操の白井健三選手(4年)やレスリングの樋口黎選手(助手)ら多くのメダリストが在籍する。
他競技の選手との交流は」
阿部 「多少、あります」
具志堅 「一緒に稽古するのもいい」
阿部 「レスリングは柔道につながる部分があると思います」
具志堅 「(2つの競技は)似ているね」
阿部 「寝技の部分でも役に立つと思います。以前、全日本の合宿で(総合格闘技の選手から関節技の入り方などを)体験したとき、楽しかった。
(レスリング部の)練習に参加して組み合ってみたいです」
具志堅 「(山本部長が65キロ級で銅メダルを獲得した1988年の)ソウル五輪のとき、柔道はレスリングのような動きになっていたよね」
山本 「英語でJUDOに変わるような感じで、外国スタイルでした。一本を狙わずに、ポイントや反則(指導)を取りにいく“ジャケットレスリング”と
言われていました」
具志堅 「柔道とレスリングは類似スポーツで、発見があるかもしれない。ぜひ、日体大のレスリング道場を訪ねてください」
阿部 「行ってみます!!」
具志堅 「今年1月にオーストリアとドイツに約3週間の武者修行に出た、と聞いた」
阿部 「寝技を学ぶことができました。単身での初の海外武者修行で一回りも二回りも成長できました」
山本 「五輪2大会連続銅メダルをとった(現ドイツ代表監督の)トラウトマンに預かってもらいました。彼は十字固めが得意で、かける技術と
防御する技術を教えていただいた」
具志堅 「鬼に金棒!! 財産になったようだね。では再び単身武者修行に出るのか」
阿部 「モンゴルは冬に山道を走るなどハードなトレーニングをやっています。厳しい環境のところでやってみたいです」
山本 「モンゴルや韓国などのアジア圏に行って、不自由さを求めていくのが大事になると思います」
具志堅 「便利さではなく、不自由さを求めていく!? いい言葉だね」
この2年間に全てを懸ける。16年リオデジャネイロ・オリンピック(五輪)柔道男子100キロ級銅メダルで、今年3月に2度目の左肩手術を受けた羽賀龍之介(27=旭化成)が、
20年東京五輪に向けて再起を誓った。
手術から4カ月−。羽賀は東京・芝浦の「トレーニングラボ」で懸命にリハビリに励んでいた。手術によって狭まった左肩の可動域も徐々に回復。専属トレーナーの
中島裕氏とともに、体幹、筋力、瞬発力を軸とした計17種のトレーニングで心身を追い込んだ。「東京五輪は中途半端な気持ちでは勝てない。手術に踏み切って、
自分自身も納得しているし、『まだ今年で良かった』と前向きに捉えている。今はやるだけ」。重さ25キロのダンベル2つを両手に持ちながら、すがすがしい表情でこう言った。
左肩の痛みとは9年間の付き合いだ。09年全日本ジュニア大会準決勝で、初めて「肩がずれた違和感」を感じた。後に亜脱臼と知ったが、うまく付き合って
10年世界ジュニア大会優勝など国際大会でも着実に実績を積み重ねていった。しかし、12年4月の選抜体重別選手権(ロンドン五輪代表最終選考会)1回戦で脱臼した。
五輪代表には選出されず、同9月にリオ五輪を見据えて1度目の手術を千葉県内の病院で受けた。
リオ五輪までは違和感なく競技を続けられたが、再び、悪夢が襲った。2連覇を狙った17年世界選手権2回戦で肩が外れた。「妙な違和感だった」。今年2月の
グランドスラム(GS)デュッセルドルフ大会では完全に外れて、脱臼した。「まさか…。案の定だった」。自身でも肩を入れられず、翌3月に2度目の手術を受けることを決意した。
3時間超に及ぶ大手術。医師には「可動域が落ちても良いから絶対に外れないように」と要望した。全治6カ月の診断だった。
27歳。日本代表では中堅以上の年齢だ。術後4カ月は道着も着られないため、自分自身とも向き合い、「人生」について考える時間も増えた。
「27歳は一般社会で例えたら、部下もいて役割を担っている人もいる。でも、僕は柔道界しか身を置いたことがない。その点は不安だし、常に考えている。
柔道は東京五輪までしかやらないと決めている。選手としてピーク、世界一を目指す上では東京まで。それぐらいの強い覚悟を持っている」
生活にも変化が表れた。病院やジムへ移動する際には本を熟読し、毎日午前7時から英会話の勉強を1時間してからランニングするのが日課だ。全日本柔道連盟の
アスリート委員も務め、競技の普及活動にも力を入れ、トレーニングの合間を見ながら全国各地の柔道教室に参加する。日本フェンシング協会会長で08年北京五輪銀メダル
の太田雄貴氏ら他競技の選手らとも積極的に交流を図り、現役選手でありながらも真剣に柔道界の未来を考える。限られた「今の時間」をどう有効活用するかという考えがある。
「いろいろな方と会うことで人間力が高まる。五輪を経験して、自分の武器は『柔道だけ』でなく、それ以外の厚みを持たせたいと思うようになった。『羽賀龍之介−柔道=ゼロ』
になりたくない」