昔の【米原駅】を語ろう
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
昭和57年11月15日の上越新幹線開業までは首都圏と福井県、石川県とを結ぶ最速ルートの接続駅でしたね 米原は駅だけでなく機関区・客貨車区・車掌区・保線区・通信区・変電区とか集中的に配置されてたから国鉄の職員と家族で常時3000人ぐらいはいただろうな >>65
9・10番のりばにあった洗面所とか。
あと、跨線橋の階段前にパタパタの乗り換え案内が特徴的だったな。
各方面行きの列車が発車するのりば表示だけだったけど、北陸方面はきたぐにのために急行が最後まで残ってた。 沢田さんのボコーダー声の自動アナウンス
名古屋駅とかでもそれだった
誰か動画サイトにうぷってくれ
久しぶりに聴きたい >>62
しかしなぜ、ながら(大垣夜行時代も含む)は、米原まで延長しなかったんだろうか…?
国鉄時代は米原は名古屋局内だったし
JR化以降であれば、ながら接続のために西日本車両をわざわざ大垣まで入線させる必要もなかったわけで
さらに、現在の東海→西日本の接続のように2番線と3番線を使い、西日本側の列車が8両とか12両ならば、危険な「大垣ダッシュ」が生まれることもなかった >>71 そもそも「ながら」は京都方面まで乗り継いで行く客を主な対象としていないから。名古屋までで客が相当数、入れ替わるだろ。関西方面行く客は名古屋で新幹線に乗り換えろという方針で、岐阜から米原以西に行く地域間乗客需要考慮して、大垣で接続させているわけであって。
冬期の関ケ原付近における降雪による運転障害も考えると、大垣止まりにするのが賢明。 まして、大垣で階段ダッシュして接続列車のいい席取ろうとする18キッパーや鉄オタに鉄道会社が配慮する義務はない。 「ながら」の前身の165で東京ないし小田原*)から名古屋までの正しい乗客やってました。
大垣ダッシュなんてキッパーな真似はしてませんw
*新宿から小田原まで小田急で座って行き、小田原からは立ちっぱなし >>71
ヨンサントオ改正で廃止する話だったのを車庫への送り込み名目で残したからだよ。
訳知り顔でぐちゃぐちゃ言ってる奴がいるが国鉄時代は大垣から姫路行きに接続してたんだから
ちゃんと関西方面の連絡は考慮されていた。
昔の時刻表を読めばわかる。 数年ぶりに米原に行ったら、駅のすぐ横に市役所が出来ていてビックリ
市役所敷地も駅前ロータリーも、周辺の駐車場群も、以前は全て鉄道用地だったなぁ 米原駅上に高架路線新設して、そこにのぞみやひかり通過させてでも…っていう考えはないのかよ
何でJR東海は北陸新幹線米原⇔新大阪直通を頑なに拒むの?
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/rail/1674391537/
近畿板スレッド
米原市 2
214: [] 2023/01/23(月) 02:01:08.58 ID:QPXBp8pJ
ええ加減 米原駅東側の広大な更地の
有効活用をしてクレヨン 東口の空地は再開発の計画があったはずと思ったら
コロナで延期→白紙→高専誘致→野洲に高専設置→・・・の流れがあったのか 【中止しろ】 コロナより、ワクチンで、死者でてる
://egg.5ch.net/test/read.cgi/cafe60/1671073993/l50
急行で米原通過、彦根停車の列車は1番/10番線を高速で通過していったのですかね 米原と彦根で駅間が6kmあるから遠慮なく豪快に高速で通過してただろうね 上屋が素敵だった、かつての1番ホーム
カモレが豪快に通過してたのは記憶にある
当該列車も似たようなものだったろう。 子供の頃に7番線停車中の加越の写真を撮って写ってた荷物ホームへの行き方を真剣に考えたことがある
数か月後に加越が停まってない時に見たら一般人には行けない場所だとわかったんだけど しなのは民営化とともに停車するようになったけど、東京発のブルートレインは最後まで停車して客扱いすることはなかったね 寝台急行はブルートレインじゃないと書かれてる本もあったけどどうなんだろ? しなの号は大阪-京都-米原-岐阜-名古屋(〜長野)なので
岐阜駅以外は大阪まで行く意味を為していなかった 準急比叡の一部が米原通過,彦根停車や
大津〜大垣をノンストップのため通過 >>87
その定義は知ってるけど、個人的見解として、
だったら民営化以降に設定された北斗星もブルトレではないということになる
狭義は国鉄80年代にイラストのバックサインが制定された列車限定になるので 米原駅の途中下車印は通常の楕円型じゃなく
菱形の特別下車印だった。 途中下車印を菱形の特別下車印で代用していた駅って、他にも在った? 上組の代紋ですねわかりますw
うちの近所に舎宅あったけど、変わりもんの巣窟だったような…
あ、北陸新幹線ですか…もう米原終点にしちゃえよ >>96
極道の代紋もマークって言うと妙に親しみやすくなるねw >>93
特別下車印ってのは正菱枠
山菱のような扁菱枠じゃねえぞ >>94
国鉄時代からJR初期にかけて長年有名だったのが
米原と直江津
どっちもとっくにフツーになってる ごめん訂正
長岡だったわ
「米原と長岡」が正しいです >>101
その駅名で思い出すのが、長岡→米原の客車鈍行522レ
上野→長岡の上越夜行733Mからだとタッチの差で間に合わないが、
宮内からなら5分の接続で乗継できた。
で、
522レを糸魚川で乗り捨て、先発の快速に乗換、さらに富山で別の列車に乗り換えできた。
金沢で途中下車し市内散策。約2時間後に522レが到着し、再び乗車。
宮脇さんの時刻表20000キロの筑肥線の件を真似て、
車内の網棚に遺留品として雑誌を置いといたら、ちゃんと残ってた。 >>103
宮脇俊三も鉄道ミステリを書いてるよ「殺意の風景」 禾重禾寸先生の長浜鉄道記念館で
米原から近鉄乗り換えの心理的盲点を突かれて
容疑者逃したのがあったな 駅直に役所新築って多いな
それだけ路面店に客が獲られて駅前が寂れているんだろうな 平和堂潰れて縮小したし
そもそも乗り換え駅でしかない米原が栄えた事などなかったからな 米原駅の西側は昭和10年代まで内湖が迫ってて陸地がほとんどない発展しようのない場所だったみたいだからね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています