昔の【米原駅】を語ろう
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昭和57年11月15日の上越新幹線開業までは首都圏と福井県、石川県とを結ぶ最速ルートの接続駅でしたね 国鉄時代、新快速は彦根発着で、米原発着の新快速の設定は昭和63年3月改正からだった 新幹線も停まるジャンクションの駅だってのに、米原は駅以外何もないような。
いつになったら単独市制施行するのかと思っていた。合併しないと人口要件満たさなかったようで。滋賀県はここか彦根に県庁置かなかったのが失敗だな 人口が一番多いからって大津に決まったんだっけ?滋賀県の県庁所在地
米原か彦根だったら山口県みたいな立場になってたかもね 米原の駅前に降りた奴いるか?パチンコ屋くらいしかないのか? 近鉄の伊勢中川も列車の接続が良すぎるから、駅前にパチンコ屋すらないと言われてたからな 一部の民放の天気予報で近畿地方の滋賀県は大津は京都と近すぎるので彦根の天気を
出すね 米原駅は好きだな
旅情をそそる数少ない駅
姫路もそうだったんだけど、高架化されて全く味気ない駅になってしまった >>11
大津市民や草津市民は京都の予報を見るからな 1番ホームの木造上屋とともに、東口の地平旧駅舎当時の
大時代的な雰囲気(改札や待合室)が良かった。
窓口はPOS端末だったが、ひょっとしてと思って
100キロ以下の乗車券を依頼したら二つ返事で愛想よく売ってくれた
きっと年輩の人とかへ応対してたんだろう。記念に大事にしてある https://books.google.co.jp/books?id=L4YT42BjQ1QC&pg=PA85
米原――うなぎ弁当(600円) ます寿し(500円)
近江牛ステーキ弁当(1000円) 小鮎の佃煮(500円)
1978年10月号の時刻表に載っていた米原駅の駅弁。
近江牛ステーキ弁当は自分が買った頃は1,200円だった。
今はもっと高いのかな。野菜が少ないから便通が悪くなった
記憶がある。 運用離脱し、廃車となったDD50が米原機関区の構内に留置されていた >>21
1番ホームは国鉄時代の雰囲気が残ってて良かったね。
駅が改良される前は、彦根方にテルハも残ってた。
東口の駅舎内には閉鎖された日本食堂?のレストランもあったような記憶が・・・ わいが初めて米原を訪れたのは昭和56年の1月か2月頃。当時、小学5年。
同級生が「加越やしらさぎを撮りに行かへん?」と言ったので、即、その話に乗ることにした。
資金は「お年玉」だ。そして大阪から113系の快速に乗りワクワクしながら着いた米原は雪の中・・・
肝心の北陸方面の特急は雪で多くが運休し、辛うじて撮れたのは加越のみだった・・・
そんな中、ホームに旧客が停車していた。あれは長岡行きだったに違いない。
他に475系の普通か快速も停まっていた。ヘッドマークは空欄だったので「くずりゅう」ではなかったはず。
で、俺たちは、ステップに足を掛けて、そのヘッドマークを本のページをめくるように「立山」「ゆのくに」などと
勝手に変えて遊びだしたのだ。
今、そんなことをやれば大変な事になるだろうが・・・何か懐かしい思い出である。
因みにヘッドマークを元通り空欄に戻したのか?というと、その辺りは記憶にないw。以上。
※ヘッドマークに「兼六」はなかったと記憶している。 まいはらえきにはならず。
まいはらインターにはなったが…。 現在はまいばらで統一されたが
かつて「まいばら」と読んでいたのは
米原駅と米原高校だけ >>26
兼六は大型マークの頃だったから、小型マークになってからは入ってなかったかも。
1981年には既に小型に統一されていたので。 25年位前に西側の留置線内に電化されている転車台があった。
周辺の配線がどうなっていたかは覚えてないけど機関庫はなかった。
蒸気機関車でもないのになぜ方向転換する必要があったのか?
複数の架線が張られていたけど方転作業中はパンタを降下させていたのか? ED30形の使用実績はどれくらいだったのでしょうね。
形態的には斬新ですけれど、失敗作だったのは間違いない
と思いますが。 >>22
米原駅おなじみの井筒屋
今は
湖北のおはなし(新幹線グルメからスタートした、季節のおこわと湖北ふるさとの味詰め合わせ)1150円
ステーキ弁当1300円、近江牛大入飯(カレーご飯に炒めた牛めし)、近江牛しょいめし(しょいめし=醤油めし=炊き込みご飯の牛めし)各1150円
牛肉弁当1000円、てき重(加熱式)1300円
おかかごはん900円、幕の内1050円、おこのみめし1050円、鶏めし900円、鱒寿司1200円
季節限定
松茸めし1100円、鮎氷魚ごはんと一夜干し(鮎稚魚の氷魚と鮎の一夜干し)1000円 大阪発着のしなのは当初停車だったが、1975年3月改正で通過となり、JRになってから再度停車するようになった。 敦賀延伸後も米原スイッチバックのしらさぎが存続するかどうか
新大阪延伸時は湖西線経由のサンダバが小浜経由に置き換わるだけで何も変わらない >>11
一部っていうかすべての放送局で滋賀は南部、北部とそろぞ別に予報されてるでしょ
近畿二府四県で大阪以外は全て南部北部は別の予報が出る
滋賀県内でいうと予想気温だけが気象台の関係で彦根になってるだけだよ >>11
京都市と大津市のように都道府県庁所在地が隣接しているのは
他では仙台市と山形市くらいかと思う。 愛子とか作並は宮城郡宮城町が町村合併で仙台市青葉区に編入されただけだから。 中川ほど極端でないにせよ、駅前に大した店がないのは今も昔も変わらず
ホント、乗換だけの駅 大垣駅で、大垣夜行からカボチャ色の網干(または加古川)行きに乗り換え。
途中の米原駅で寝台電車を改造した419系の姿が見えると、
「あれで北陸行きてぇ。」と思ったものだ。 >>42
なるほど、今回新しくなる海の特急形気動車
大阪ひだ投入意欲があるのは
そっち目論見もあるからか。
北陸新幹線は酉だし、
高山への観光利用アピールになるもんな。 東京⇔三島こだまは静岡延伸(その代わり東京⇔新大阪こだまは三島⇔新大阪に短縮されるかも)
東京⇔岡山ひかり停車パターンはこうなる
品川 新横浜 静岡 浜松 豊橋 名古屋 と京都以西各停
東京⇔新大阪ひかり停車パターン
一、
品川 新横浜 静岡 浜松 名古屋 米原 京都
ニ、
品川 新横浜 小田原 名古屋 岐阜羽島 米原 京都
三、
品川 新横浜 熱海or三島(or新富士) 静岡 浜松 名古屋 京都 ←新富士を入れたのは将来、日蓮正宗宗門と創価学会が和解してるかもしれないから
米原停車ひかり誕生の頃はどんな様子だったんだろう 東海道新幹線で東京・名古屋・京都・新大阪以外で最初の「ひかり」停車駅だったからね
当時は湖西線も開通前だし、その後3年が米原駅に活気があった最後の時期だったのかも >>53
注射場は駅前に腐るほどある
1日500〜700円位が相場かな?
平日が安く、週末に上がる所も >>55
駅からちょっと歩いたら200か300のとこ無かったっけ? 橋上化の際に新幹線の跨線橋の高さで揃えれば良かったのにな >>54
最上級は知らんけど駅前のアパは良かったよ。
今は知らんが、宿泊したときはコロナ初期の体制で朝食が弁当式だったけど
美味かったよ。朝食が美味いと滞在全体が好印象だよね。 駅という新幹線開業直前の時期の動画見たけど活気がすごいな
当時は数百人単位の国鉄職員が働いていたんだろう >>49
長浜以北直流化前はながらだと駄目だが臨時の大垣夜行だと米原で富山行鈍行に乗れた。
475系の停まってるホームに降りると途端に空気が北陸に変わったような気がした記憶 わかる
419系の姿に、北陸地区への始まり感があったよね。
わくわくしたもんだ。 直流化前には臨時夜行でも同じ普通列車だったと思うけれど 古くからある旧1~5番線は風情があった
狭く薄暗い地下通路や駅弁売りのお爺さん(2、3番線で立ち売りしてた) 米原は駅だけでなく機関区・客貨車区・車掌区・保線区・通信区・変電区とか集中的に配置されてたから国鉄の職員と家族で常時3000人ぐらいはいただろうな >>65
9・10番のりばにあった洗面所とか。
あと、跨線橋の階段前にパタパタの乗り換え案内が特徴的だったな。
各方面行きの列車が発車するのりば表示だけだったけど、北陸方面はきたぐにのために急行が最後まで残ってた。 沢田さんのボコーダー声の自動アナウンス
名古屋駅とかでもそれだった
誰か動画サイトにうぷってくれ
久しぶりに聴きたい >>62
しかしなぜ、ながら(大垣夜行時代も含む)は、米原まで延長しなかったんだろうか…?
国鉄時代は米原は名古屋局内だったし
JR化以降であれば、ながら接続のために西日本車両をわざわざ大垣まで入線させる必要もなかったわけで
さらに、現在の東海→西日本の接続のように2番線と3番線を使い、西日本側の列車が8両とか12両ならば、危険な「大垣ダッシュ」が生まれることもなかった >>71 そもそも「ながら」は京都方面まで乗り継いで行く客を主な対象としていないから。名古屋までで客が相当数、入れ替わるだろ。関西方面行く客は名古屋で新幹線に乗り換えろという方針で、岐阜から米原以西に行く地域間乗客需要考慮して、大垣で接続させているわけであって。
冬期の関ケ原付近における降雪による運転障害も考えると、大垣止まりにするのが賢明。 まして、大垣で階段ダッシュして接続列車のいい席取ろうとする18キッパーや鉄オタに鉄道会社が配慮する義務はない。 「ながら」の前身の165で東京ないし小田原*)から名古屋までの正しい乗客やってました。
大垣ダッシュなんてキッパーな真似はしてませんw
*新宿から小田原まで小田急で座って行き、小田原からは立ちっぱなし >>71
ヨンサントオ改正で廃止する話だったのを車庫への送り込み名目で残したからだよ。
訳知り顔でぐちゃぐちゃ言ってる奴がいるが国鉄時代は大垣から姫路行きに接続してたんだから
ちゃんと関西方面の連絡は考慮されていた。
昔の時刻表を読めばわかる。 数年ぶりに米原に行ったら、駅のすぐ横に市役所が出来ていてビックリ
市役所敷地も駅前ロータリーも、周辺の駐車場群も、以前は全て鉄道用地だったなぁ 米原駅上に高架路線新設して、そこにのぞみやひかり通過させてでも…っていう考えはないのかよ
何でJR東海は北陸新幹線米原⇔新大阪直通を頑なに拒むの?
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/rail/1674391537/
近畿板スレッド
米原市 2
214: [] 2023/01/23(月) 02:01:08.58 ID:QPXBp8pJ
ええ加減 米原駅東側の広大な更地の
有効活用をしてクレヨン 東口の空地は再開発の計画があったはずと思ったら
コロナで延期→白紙→高専誘致→野洲に高専設置→・・・の流れがあったのか 【中止しろ】 コロナより、ワクチンで、死者でてる
://egg.5ch.net/test/read.cgi/cafe60/1671073993/l50
急行で米原通過、彦根停車の列車は1番/10番線を高速で通過していったのですかね 米原と彦根で駅間が6kmあるから遠慮なく豪快に高速で通過してただろうね 上屋が素敵だった、かつての1番ホーム
カモレが豪快に通過してたのは記憶にある
当該列車も似たようなものだったろう。 子供の頃に7番線停車中の加越の写真を撮って写ってた荷物ホームへの行き方を真剣に考えたことがある
数か月後に加越が停まってない時に見たら一般人には行けない場所だとわかったんだけど しなのは民営化とともに停車するようになったけど、東京発のブルートレインは最後まで停車して客扱いすることはなかったね 寝台急行はブルートレインじゃないと書かれてる本もあったけどどうなんだろ? しなの号は大阪-京都-米原-岐阜-名古屋(〜長野)なので
岐阜駅以外は大阪まで行く意味を為していなかった 準急比叡の一部が米原通過,彦根停車や
大津〜大垣をノンストップのため通過 >>87
その定義は知ってるけど、個人的見解として、
だったら民営化以降に設定された北斗星もブルトレではないということになる
狭義は国鉄80年代にイラストのバックサインが制定された列車限定になるので 米原駅の途中下車印は通常の楕円型じゃなく
菱形の特別下車印だった。 途中下車印を菱形の特別下車印で代用していた駅って、他にも在った? 上組の代紋ですねわかりますw
うちの近所に舎宅あったけど、変わりもんの巣窟だったような…
あ、北陸新幹線ですか…もう米原終点にしちゃえよ >>96
極道の代紋もマークって言うと妙に親しみやすくなるねw >>93
特別下車印ってのは正菱枠
山菱のような扁菱枠じゃねえぞ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています