そろそろみんなが忘れてそうな事@鉄道懐かし板 9
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まあここはテドロス事務局長を信頼してみようじゃないか。 在来線特急の食堂車の「大量虐殺」が断行された、35年前の3月14日は、木曜日だった事。 岡山駅が山陽新幹線の西のターミナル、という時期があった事。 新幹線の駅で唯一その名が消えた小郡駅
磐城西郷? どこの駅だ? 東海道山陽新幹線では、「ひかり」「こだま」と「のぞみ」とで、放送されるチャイムが違ってた事。 7年前まで、東急東横線と地下鉄日比谷線が直通してた事。 29年前、東京発博多行の「最も速い『ひかり』」が、東京駅毎時0分発でなくなった事。 近鉄四日市ー湯の山温泉間の特急は、
真の「ノンストップ」だった事。 特急が特別急行の省略形だったこと
急行がなくなって特急ばかりって変だよな
全部急行にしちゃって、スーパーなんちゃらを特急にすればいい 1984年12月末〜1985年1月初頭に実施された
一部のDRCのスジ(けごん5号と14号)を57で代走 そこまで来ると、みんなが忘れてる以前に、みんなが知らないことのような気がする 新幹線300系は、当初1編成当たり5台のパンタグラフを搭載してた事。 >>16
京急の快特も「快速特急」の略から
正式名称「快特」になりました。 京浜急行の駅で、付近の国鉄の駅と区別する場合は、
昔は「京浜〜」と名乗ってた事。 >>27
近鉄の「近鉄○○」という駅名はむかしは
「近畿日本○○」と長ったらしかったこと。 京浜東北線も終日全区間各駅停車だった事。
日中の快速運転始めた時は、田端―上野―秋葉原―東京―田町、と停まってた事。 鉄道業者自体に非がない限り、列車に乗って命を落とすなんて考えられなかった事。 快速未設定時代の山手線と京浜東北線の並走区間は昼間時は保線間合い確保のためどちらか一方の線路のみ共用で用いていた事 東横線の特急は開設当初、中目黒は通過駅だったこと。 山手線は10両、東海道線の基本編成は11両で、今と逆だった事。 本牧は市電廃止後、陸の孤島状態で未だ地下鉄が通っていないのは?
港湾業界の圧力(物流の邪魔だから)により、市に3号線建設を延期させたのが原因 そういえば筑肥線旧線区間廃止後の小笹もそれに似てるな
もし住民が過激でなければ今頃七隈線は最初から博多起点で開業してたし別府までは旧線と同じルートだったかもしれなかっただけに残念 吉野家のハムエッグ朝定食を食べるとき、玉子を崩したくないからオカズとミニサラダを全部ご飯に載せるんだ。
数回目に思い出した。
これはかつてブルトレ車掌さんたちが閉店後の食堂車で口にした「ハチクマライス」ではないか! 都政審答申第9号では?
地下鉄の横浜2号線(事業主体:横浜市)という、京急本線のバイパスが計画されていた
それは、京急本線の最混雑区間(横浜〜上大岡)における混雑緩和が目的だった
<主な経由地>
神奈川新町〜横浜(東口)〜藤棚〜吉野町〜八幡橋〜磯子〜屏風浦
※同時に京急本線の屏風浦〜金沢八景を複々線化、一部を2号線経由で分散
答申に対し、京急側が難色を示したことで計画中止 阪急宝塚線に特急が運転されていた
神戸電鉄三田線に特急が3往復設定されていた 阪急宝塚線が国鉄時代はほとんどダイヤパターンに変化がなかったことだろうな
15分毎に急行宝塚行き普通宝塚行き普通池田行きが運転されていて比較的容易に準急箕面行きを間に入れることができた 駅の営業は基本24時間だった事。
真夜中でも通過列車は助役がホームに立ち見送る。
場合によっては列車から通信文が投げ落とされる事も。 駅寝はよくやったけど、そのつもりで西鹿児島行ったら閉め出された想い出 (夜行走ってないからね) 元々は、鹿児島駅がその名の通り市の中心駅だった事。 >>51
寝台特急さくらが健在だったころ、東海道線の刈谷駅で下りのさくらの電機(EF65)がやたらに警笛を鳴らして
減速して近づき、通過時に乗務員が投げ文をして、それを駅員に渡したことがある。
後で聞いたら列車内で機器の故障があったらしい。 上越・北陸地区と首都圏を結ぶ列車が皆無だった時期がある事。
>>55
急行・新宿⇔箱根湯本・片瀬江ノ島 動き始めた汽車に飛び乗る、
なんて事も、出来なくはなかった、昔の客車。 >>58
何かの歌みたいだね
黒い縁取りがある手紙が届きそう >>58
何かの歌みたいだね
黒い縁取りがある手紙が届きそう >>57
相模大野で連結してから急行新宿行き、と言うのも今は基本的にないんじゃない 上越新幹線中山トンネルは、当初のルートが完全に使えなくなった事。 福知山線の支線として尼崎港線、有馬線、篠山線が分岐していた その関係で、尼崎駅が、一見「2つ」あった事。
まあ、似た例は宇美とか、嘗ての石巻でも見られたが。
浜川崎は今もそうだし。 私鉄なら三軒茶屋とか一昔前の近鉄四日市か。
地下鉄入れたら切りがない…! 徳島県にあった国鉄鍛冶屋原線
兵庫県にあった国鉄→JR鍛冶屋線 能勢電鉄にあった川西能勢口〜川西国鉄前の区間。
JR化まで残っていたら能勢電川西池田とでもなっていたのかな。 電車に乗って病気移されるなんて、あり得なかった事。 >>73 風邪やインフルは?どこで移されたか本人が覚えてないだけで。 >>75
まあ、確かに「全くあり得なかった」みたいな表現は適切じゃなかったな…。
ただ、今日ほど大々的に
「病気移される恐れがあるから列車に乗るのが憚られる」
なんて騒がれた事はなかっただろう。 >>76 第一次大戦末期頃、スペイン風邪というのが今のコロナ以上に日本含め全世界的にパンデミックを引き起こしてたんだが。 国鉄の優等列車の禁煙車は、当初は自由席にしかなかった事。 特急料金の初乗りが「400kmまで」っていう時代があった事。 グリーン車やA寝台の料金に、通行税(10%)が課せられていたこと 上野や八幡にも京成百貨店があったこと(ただし、八幡のは「京成雑貨店」と揶揄されるほどショボショボだった) 雪が降ると関ヶ原がネックで新幹線が遅れ、2時間境の心理戦が繰り広げられていたこと。 りんかい線は開業当初全列車4両編成だった事。
当然コミケの時は地獄絵図だった。 2車体連結のEH級電機? 無駄無駄! EH10で懲りたでしょ
電気式ディーゼル機関車? 駄目駄目! DF50で懲りたでしょ 垂水(たるみ)ではなく、垂水(たるみず)という駅があったこと。
長谷(は せ)ではなく、長谷(ながたに)という駅があったこと。 ボロボロの古い地図帳を見つけた。
大隈線がまだ古江線で、三江線がまだ三江北線、三江南線の頃の地図。
熊野平が駅で・・
あ〜なんだか目眩く。 軽井沢から先が非電化。
北海道は・・
あ〜やっぱり目眩く。 トイレがウンコしぶきの時代。
窓開けて駅弁なんぞ食ったら中毒になりそうな時代。
なのに、乗ってみたい! 「停車中は(トイレを)使用しないで下さい」の注意書き。
あと、「上野―大宮間では使用を御遠慮下さい」ってのもあった。 >>90
十津川シリーズの再婚列車殺人事件では青酸カリだっけ? 特急「さざなみ」が、東京―館山・千倉間を1日9往復してた事。
(当初非難轟轟だったものが、今の有様と比べれば”立派”に思える) >>86
2車体連結のEH級電機 増えてる
EH200、EH500、EH800
電気式ディーゼル機関車
DF200で出力約3倍にパワーアップ >>95
それが最初は、「こだま」限定の16号車だった事。
(昭和55年10月に以下の変更、
「ひかり」にも禁煙車設置[+5号車を指定席から自由席に]
「こだま」の普通車指定席を1〜4号車→13〜16号車に移すと共に、禁煙車を1号車に) 特急「新特急なすの」、特急「新特急草津」など列車名に新特急という名称が入った特急列車
これらの特急列車は165系の急行電車の車両を185系に置き換えただけで、停車駅も急行時代と
ほとんど変わらなかったこと 新たに格下げした特急というクラス、つまり従来の急行。
という意味の新特急。 その185系の登場当初、国鉄は
「『踊り子』の全てがこの新型車両で運転というわけにはいかない」
って詫びてた事。
こんな車両になる位なら、「古くても」183系の方がよっぽどましだったんだが。 かつて、阪神電鉄にステンレス車体のジェットカーが2両だけ在籍していた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています