もしもあの鉄道路線が廃止されていなかったら?
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もしもあの鉄道路線が廃止されていなかったら?の"もしも"を語るスレです。 武州鉄道
埼玉高速鉄道と乗り入れて岩槻も便利になっていた 国鉄山野線
かつてこの線で水俣病で汚染された魚が山野線で運ばれ沿線で水俣病多発したが今となっては点と線辿りにくいだろうなつまり水俣病の真実がより暴かれたろう 勿体なかったのは勝田線だな。
国に買収されずに西鉄のままだったら、現在も残っていたかも知れん。 >>4
そこは東武に買収され東武武州線になるという形のほうが良いと思う。
埼玉高速は誕生せず東武武州線が南北線直通という形で。
これによって東急のメトロ乗り入れ路線(東横・田都・目黒)は全て逆側の直通相手が東武(副都心は西武も)となっていた。
田園調布〜日吉で東武車並走なんかも見られたろうな。 旧筑肥線廃止は、もったいなかったですね。
当時赤字だったとか、踏切が多く警察が存続に難色を示していた
といわれているけれど、うまくいけば呼子線が開通できて、
活性化されていたかもしれないと思うと、廃止されたのは悔やまれますね。 北海道のオホーツク海側。廃止されてなかったらオホーツク縦貫線開通。 >>9 >>10
あれは国鉄側が、当時博多駅在来線ホームは限界にあり
既存の筑肥線博多乗入では、他線の輸送力増強のネックとなるため
踏切問題もあり、市営地下鉄乗り入れと引換に博多〜姪浜を切り捨て
・輸送力増強の足手まとい(国鉄)
・開かずの踏切問題(国鉄、県警、市)
・相互直通運転により市内交通の効率化(国鉄、市)
3者の思惑により沿線住民は置き去りにされた(そのつけが七隈線) 尼崎港支線
電化して、105系2両編成で、比較的地理的に近い阪神武庫川線のように15〜20分間隔で運転していれば、
それなりに需要はあったはず。 >>12 七隈線は筑肥線旧線よりも、西鉄福岡市内線城南線のルートに近いのでは?
七隈線開業前、六本松辺りの住民はバスで都心部に出ただろうから、筑肥線旧線残したとしても、あまり利便性はない 筑肥線廃線跡をめぐるホームページを見ると、
割と街並みができているから、
今も存続していたなら需要は大きかったようにも思える。
未成線で終わった呼子線とともに、
うまく話をまとめることができる、
政治家が欲しかったですね。 >>15 七隈線工事着手に至るまで結構時間かかってたわけで、旅客重要が最大の問題だったけど。
西鉄城南線に比べても、都心部天神付近に行かない路線に需要あるのかねえ? 福岡市内の廃止区間は駅員配置駅だった
沿線には、企業や高校・大学が点在し通勤通学で一定の需要があった
名所もあり行楽利用もありうる
<一覧>※当時の名称
【筑前簑島】
・九州松下電器本社
・本州製紙福岡工場
【筑前高宮】
・福岡県立福岡中央高等学校
【小笹】
・福岡市動植物園
・泰星高等学校
【鳥飼】
・中村学園
・中村学園大学
・中村学園短期大学
・中村学園女子高等学校
・九州大学六本松キャンバス
【西新】
・紅葉八幡宮
・福岡県立福岡工業高等学校 >>17 だから、筑肥線旧線沿線の企業、学校への通勤通学者の相当数がバスで通ってたんではないの? 西鉄城南線同様、バスで対応できる程度の輸送需要だったわけだろ >>6
JR九州の幹部でさえ勝田線を廃止したことには後悔してるぐらいだからな もし博多−姪浜の筑肥旧線が残ってたら、JR化後に交流電化されてたかもしれない。
姪浜駅は電化方式の違いもあり、筑肥旧線のホームだけは地下鉄とは別に設置されてたかもしれない。
その場合、筑肥旧線と篠栗線は直通運転となって、筑肥旧線も福北ゆたか線に吸収されてたかも。 飾磨港線
旅客営業のみ廃止して、臨港鉄道のような貨物専用線として生き残っていたかも >>9-18
筑肥線廃止→西鉄バス11(昭代経由博多駅行き)新設、7(昭代経由天神・吉塚行き)増発、現在に至る
勝田線廃止→西鉄バス35(箱崎経由天神行き)新設するも、10年程度で32・34系統に統合廃止 南部横断線は便利だった
ただしユジノサハリンスク⇔ホルムスクはバスが頻発しているが 国鉄有馬線
戦時中に営業休止されたまま、戦後も復活することなく、実質的には現在は廃止されている路線だが、
福知山線の支線として現在も存続していたら、現在は電化されて大阪から直通快速が有馬温泉まで直通し、
路線も神鉄有馬温泉駅すぐ近くまで延長されていたかも >>21
エスパルスドリームプラザが出来てからその話は度々耳にするけど、
出来たばかりならともかく20年近くたった今ではどうだろうねぇ >>25
もし戦後も存続してたらキハ58系の大阪直通の急行が運行されてただろう。
大阪−三田では急行丹波に併結し、列車名は「ありま」を名乗ってたと思われる。
グリーン車1両と普通車3両の全車指定席急行として満員の盛況を誇っていたが、
中国道開通と国鉄運賃値上げで利用者が激減し、1976年には普通車の一部が自由席になり、
1978年には全車普通車自由席の2両編成、有馬線内は普通列車化と斜陽化したのち、
1980年10月のリストラダイヤ改正で大阪直通そのものが廃止・・・という感じになってただろう。 >>28
電化で有馬路快速運転して盛り返すだろうな。 有馬線
福知山線に合わせたダイヤだったし、直通運転出来ればそれなりに需要はあっただろうね
https://i.imgur.com/OAlvbTo.jpg >>20
あの区間は踏切をなくしたい行政の圧力で廃止に追い込まれた 北陸鉄道 加南線
→曲線改良で大阪方面からの気動車乗り入れ。
大聖寺で分割、2両程度だがキハ58の急行が山中温泉まで直通。
国鉄と線路が繋がっていない山代線が不利になるから、北鉄新動橋駅を改良して跨線橋での乗り換えができるようにして、単行運転のできる新性能車を投入し、山代温泉へ…
…と、ここまで書いて、やっぱり大聖寺対動橋の喧嘩は避けられなかったのかなぁ。
LRT方式で残ってでもいれば、国道沿いの低規格路線でも改良が効いたかもしれないし、温泉の衰退も避けられたのでは…
なんて、勝手な妄想だけど。 定山渓鉄道&夕張鉄道
路線網を拡大したり合併したりすれば北海道の大手私鉄になれてたかも知れない 定鉄は東急系列だから東急が沿線開発してたかも >>34
その失敗の轍を踏んだのが、他ならぬ>>33の北陸鉄道!
元々別々の会社を合併させ、国鉄以外の石川県内の交通網勢力をほぼ独占したのは良いが、線区がバラバラに離れていて連絡網が成立せず、コストや人員配置が分散して統率が取れず、一つ一つの線区は短距離で盲腸線同然。
結局は殆どの路線が廃止されてしまった。 >>34 定山渓鉄道、札幌都心乗り入れしないと存続難しかったのでは?
札幌市地下鉄南北線のルートに近くなるが、真駒内から地下鉄(通常の鉄輪方式)に相互乗り入れしていたら・・京都市営地下鉄東西線と京津線のような方式になるが。 >>37
そこは自前の線路持つのをイメージしてたわ 東武鉄道熊谷線(熊谷〜妻沼)。
利根川を挟んで西小泉まで連絡していたら、あの特急カメ号と、高崎線のオーバークロスと曲線の改良などは必要だったかもしれないけど、埼玉の悲願、高崎線に対する『横の』交通網の一つ、そして埼玉と群馬を繋ぐルートとしてそれなりに機能していたのではと妄想は尽きない。 岡山臨港鉄道
廃止されなければ築港地区が活性化していただろう。 >>39
東武伊勢崎線沿線と熊谷を結ぶルートは途中で行田市を通る秩父鉄道(羽生〜熊谷)がICカード使用不可だから、
もし通じていたらシフトしていた人がおそらくいただろうね。 >>40
59.2改正までに大元止まりの運行体系が改善できなかったのが原因
OR側は国鉄に対して
旅客の岡山、貨物の岡山操への片乗り入れの要請を断られた(1980)時点で
事実上、余命が断たれた状態
ほかにも
岡山市は、1983年策定「岡山市交通基本計画」において
臨港線を存続させ岡電との相互乗り入れするプランがあった >>42つづき
ORが1970年代後半に検討した岡山乗り入れプランでは?
・臨港線は全便が岡山直通(平均26往復、30分ヘッド)
・乗務員は大元で引継せず岡山まで乗務する
・臨港線設備の近代化(CTC化、駅施設改良、留置線延長等)
・気動車を国鉄から譲受(保守・検査等も国鉄に委託)
・設備投資は岡山県・岡山市による資金援助が前提 >>42 岡山・大元間の宇野線を完全複線化しないと難しかったのでは?
県や市は臨港乗り入れよりも宇野線複線化の方が優先課題だったんだろ。 旧西武鉄道村山線が全線開通していたら、
わが武蔵村山にも鉄道があったのに… ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています