懐かしの三重交通
三重交通に鉄道があったことを知らない人も多くなったこともあり立てました ああ、そういう意味ね、これは失礼こいた m(_ _;)m 神都線みたいに歴史や特徴(右側通行等)が松阪線にはないので一巻持たないだろ >>88
松阪線を載せてないくせに西武山口線みたいな軽便もどきを載せてるし、
性格的には軽便とは全く異なる北海道の簡易軌道も載せてるなど、
まったくバランスを欠いた内容。
あとは日鉱佐賀関線、神岡軌道も掲載漏れか 近鉄志摩線が三重交通の路線で狭軌だったころ、同線で運用されていた三重交通時代に登場したモ5941型電車は、
ノーシル、ノーヘッダー、固定クロスシートの近代的な観光路線にふさわしい車両で、線内急行の運用されることもあった >>103
唐突に何?w
そんなに松阪線の話題が堪えられない人? 真珠港は客扱いしてないが、
海水浴シーズンに臨時的に営業したことがあったのかな 詳しくは知らんけど、多分なかったんじゃないの?
だいたい、いくら海水浴シーズンとか多客期とか言っても、
真珠港みたいな貨物駅・貨物港へ延長する意義があるとは思えんし。
あそこまで行ってもいい浜がある訳じゃないし、
和具・御座とかへ行くなら賢島の方が港に便利なわけで。 したよ。
ただ、改軌で貨車直通が不可能になったので、貨物駅としては終了、
この部分の路線も、名義上は廃線になった。以後は、構内の扱いになり、
駅跡は検車支所(明星検車区賢島検車作業場)として長年使われた。 例の写真を頼りにした駅跡探しのせいで、このスレでだけ突出して知名度が高い「なべや」w おーこわっw
迂闊に軽口も言えんスレなんすか?ここ 軽便時代の湯の山線が詳細に紹介されてる本ないかなあ ああ、なるほど。
「真珠港」と「南島」を見たかった、って事か。
「真珠港と南島」と思って、ちょっと混乱した。 >>119>>120 地元 電機メーカー神鋼のセールスに負けたんでしょ。
(北勢の垂直カルダン・・・ナロー故 選択肢がない との互換や使用実績とか)
三重交通時代(奈良電も)って近車じゃなくて何故、ナニワや木南、日車製が多いの?
昭和30年代半ばまで 近車って製造能力(両数を造れない)が他社に較べ低かったの? 直角、平行があるから垂直でもできるんじゃないか?みたいなノリで作ってみたら
実用に耐えうる出来栄えになったのでわが社の新製品としてセールスし始めたと ノリというか、特許逃れでしょう。
製造能力というよりも、発注者が支払い能力があるかどうかを見極めたものだと思います。
自社発注車が多いわりに有名メーカーが少ない鉄道会社は疑われていたんですよ。
そして三流メーカーが出す見積もりは安かった
日本車両というのは何でも作るゲテモノメーカーですよね。鉄道省から土木機械まで、レールの上に乗るものならなんでも。
近年のJR東海による買収で企業体質が大きく変わっていますが、昔は中小鉄道が見積もりを取れる、唯一に近い大手メーカーでした。
三流と比べると値段は高かったようですが、成約の見通しの小さい見積もりを作ってよこしてくれるだけでも貴重な大手メーカーだった。 >日本車両というのは何でも作るゲテモノメーカーですよね。
>鉄道省から土木機械まで、レールの上に乗るものならなんでも。
いや、レールの上どころかw
35年ほど前の話。
死んだうちのオヤジは、精米機最大手メーカーの営業マンだったんだが、
仕事柄日車の営業マンが知り合いだから、おまえ、そんなに鉄道好きなら、
カレンダーぐらいもらって来てやろうか?と言っていた時期がある。
日車???精米機屋じゃないでしょ?なんでつながりあんの?と聞くと、
日車は、オヤジのいた会社のお家芸であるカントリーエレベータ
(乾燥施設とサイロを併設した大型穀物貯蔵施設)にも食い込もうとしてたんだそうで、
いろんなとこの入札で日車といっしょになるんだ、と。
へぇ〜、と思った。当時高校生ぐらいだったおれには、
日車と言えば車両のイメージしかなかった。けど、実は何でも屋なんだなぁ、と。
今でも日車のサイトを見ると、一ジャンルを築いてるのが分かる。
余談ですまそ。 ウチのおかんが阿波曽の住民で良く電車乗っていた話をしてくれてた。射和の小学校に通ってたので
同級生に奥田務さんがいた ウィキ見た。これか。
>戦争によって母方の祖母が住んでいた飯南郡上蛸路(松阪市)に疎開し、
>祖母の家の近くで借家住まいを続けた。 当時はこれでも採算が取れる路線として計画され、半世紀近く営業を続けられたんだね 桑名電気軌道もここの一員になってれば、戦後まで延命できたかな 中勢はレール撤去と共に会社も解散させられたので三重交通合併は望むべくもないが
安濃は休止の形をとり戦後も会社は存続してたというから妄想レベルだが全くゼロというわけでもない http://stat.ameba.jp/user_images/20120824/16/1010-melon/8d/0b/j/o0320041812152681329.jpg
http://gazoo.com/my/sites/0001455818/parkclint/Lists/GazooAssetLibrary/%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%82%B9%E4%BA%8B%E6%95%85.jpg?1452818442942
https://blog-imgs-88-origin.fc2.com/i/n/t/intouch/120407044.jpg
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犀川スキーバス転落事故(さいがわスキーバスてんらくじこ)は、1985年1月28日、国道19号を走行していたバスが長野市の犀川に転落した事故である。
1985年1月28日、日本福祉大学の学生ら総勢46名を乗せた三重交通バスは、北志賀高原の竜王スキー場へ向かっていた。
同校では1月28日から1月30日まで、体育科の授業の一環としてスキー教室を実施する予定であった。
事故発生時刻は午前5時45分。犀川に架けられた大安寺橋にさしかかる手前の左カーブで、バスはガードレールを破り水深4メートル、水温4度という極寒の犀川に転落。
転落地点は下流に建設された笹平ダムのダム湖にあたる。総勢46名のうち、乗客の大学生22名、教員1名、運転手ら2名、合計25名の命が失われた。
助かった21名のうち8名も重軽傷を負った。
現場は雪が積もり路面が滑りやすくなっており、バスのスピードの出し過ぎが直接の原因であった。
しかし、死亡した運転手は事故当日までの二週間を連続して出勤し乗務に当たっており、バスの運行を担当する三重交通の責任が問われた。 伊勢平野にニブロクナローがやたら多く開業したわけを研究した人はいる? >>144 軌間は違うが、筑後平野に朝倉軌道及び両筑軌道等系列会社の軽便鉄道網があったのと似たようなものなんでは。
建設途上の官鉄線の路線網では不便な地域の交通需要を賄うため、早急かつ低コストでできる軽便鉄道を選択した。
石炭輸送のような重量物貨物輸送がなく、官鉄線との貨物列車乗り入れを行う必要が無いため、軽便で十分。
で、筑後平野の場合、久大線など官鉄線の延伸で朝倉軌道は経営不振となり廃止されたが、伊勢平野の場合、官鉄線やより大型の車両を走らせる私鉄線の路線網では不便な区間で軽便が生き延びた。
というか、近鉄が早急に傘下の軽便路線を改軌して大型車両を乗り入れさせる必要性があまり無かった。
後には、やってるけど。 >>143
まずは自身の研究結果を出さなきゃ誰も食いついては来ないぜ 津市の市場行きバスってあるけど、昔はもっと先まで延びてたらしいんだがどこまで走ってたか分かる人いる?
所々バス停跡らしき小屋が残ってるけど、終点がどこだったのか知りたい >>132
桑名が日本最短の路面電車といわれてるがじつは阪急北野線が最短? >>153
「とにかく企業は合同しろ」の大号令だからあり得なくはなかったかも かつていろんな私鉄線があったというのがなんか信じらない 安濃、中勢、伊勢電、参急、省線とか津市内のターミナルがバラバラだったのがまずかった気もします。特に中勢の岩田橋駅や安濃の新町駅の跡地は今では球場や住宅地になってますしね。埋もれて 新町小学校の北東(八町3丁目)らしいです。
伊勢電が参急ではなく名岐愛電に合併されていたら三交の状況はかなり変わっていたでしょうね。戦後計画があった津市内の路面電車も開通していれば街も違った姿になったでしょう。 了解です。ずいぶん中途半端な場所に駅があったんですね。 郡役所があったはず
小学校の前あたり
当然それなりの商店街も形成されていた 三交といえばスキーバス事故を思い出すな
鉄道は古すぎて無理 学生で満員の客車がカーブでゴロンゴロンと転覆
電機は外れて走って行っちゃった
バス鉄道の2大事故か デパートを忘れるなかれ
これも跡形もなく消えちゃったけどな(泣 ナロー線区の木造車サ100形は日之出車輌工業と大平車輌で1950.6製造されたのですが、
他社線区に製造例があるのかがわかりません。
すぐあとの1950.11には近車、帝車という大手メーカーで半鋼製のサ150形が作られています。
不明なところの多い日之出、大平についてご存じの方がいらっしゃいましたら、教えてほしいです。 湯の山線電化百周年だけど、
最初の電車は東京のヨト形の譲受車だったらしいね。
足回りはどのようにしたのかな。 湯の山線改軌時の写真はネットでも書物でも多く見られるが
ナローの外側に余裕で新レールを置けたので名古屋線改軌よりも簡単だったのかな なぜダイレクトに近鉄に合併されずに、一旦三重電気鉄道に譲渡してから近鉄に合併などという手間をかけたのでしょうか 譲渡というより三重交通の鉄道部門を取り分けて分社化されたんじゃないんか?
もちろん近鉄に合併が前提の整理だったろうけど 三岐の救援車ワム229が、
日之出車輌製だった。
唯一の生き残りかな。 >>174
短命に終わった三重電気鉄道の社名が冠された駅名標が大石駅にあった 三重交通の略称は「三交」でデパートの屋号にもなったが
三重電気鉄道時代は「三電」と呼ばれたのかしら 三重電気鉄道時代も三重交通は存在していたよ
三重電気鉄道は三重交通の鉄道部門を近鉄に譲渡するために分社化したのだから。 今から思えばデパートを持っていたとは信じられないものがある 白井良和氏のピクトリアル誌への寄稿を読んだことがあるが
神都線は修学旅行客がお得意様で
路面電車では珍しい永久連結車を持っていたが
マンモス校の貸切になると一編成では到底運びきれず
3連続や4連続の続行がたびたび見られたらしい 大正末時点
北勢鉄道 桑名町~阿下喜
揖斐川電気 揖斐~大垣~桑名
四日市鉄道 四日市市~湯ノ山
三重鉄道 四日市市~日永~内部・日永~八王子村
伊勢鉄道 四日市~津市
中勢鉄道 岩田橋~阿漕~久居~大仰
安濃鉄道 新町~安東~林・安東~片田
松阪鉄道 松阪~平生町~大石・平生町~大口
伊賀鉄道 伊賀上野~上野町~阿保~名張
合同電気 山田~二見・山田~内宮・二見~内宮 残っていたら三重県には軽便鉄道がいっぱいあると有名になれたかもしれない >>183
そのころはバスとの競合はなかったのかな 家屋の軒先をかすめるような狭い路地にも連結車を乗り入れさせていたようだが
沿線からのクレームはなかったのかな 近鉄になってから、八王子線が八王子まであった頃に八王子まで
乗ったことがあったが、踏切が全て第4種だった。 旅館のすぐ前に軌道敷があって、朝の水まきを終えた後電車が来てまた砂埃を立てると従業員が文句を言ってる逸話は聞いたことがある 松阪線も戦前はライトが脱着可能ときいたことがあるが
写真はすべて固定式だな