北千住って云ったらお化け煙突だよな2
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ロートル鉄オタのスレッドです。
いにしえの北千住は良かったなあ・・・
前スレ
北千住って云ったらお化け煙突だよな
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1299765636/ どうせなら大々的に区画整理して西口並みにしたら、久しぶりに来た人は目を丸くするだろう。 西口も左手の方に行くと昔ながらの飲み屋街が広がっている。お化け煙突のあった頃からそう変わってないのではないか? 営団3000系を初めて見たときはまさに「掃きだめに鶴」だったね。 >>711のレスで書いた東武伊勢崎線の昔の写真を
集めた本で昭和38年の東武の北千住駅の下り線に
昭和一桁生まれの東武の車両が停まっている写真があった。
その隣に営団3000系が停まっていた。
この写真を見て営団3000系の事を「掃き溜めに鶴」と
評した人の気持ちが分かるなぁwと思った昭和47年生まれの俺。
因みにその本には前年の昭和37年に東武と営団の乗り入れ
開始記念の催しの写真があって2代目の東武の社長の
根津嘉一郎(2代目)がテープカットしていた。
この人戦時中の昭和16年から平成6年まで東武の社長
だったんだよな。 営団3000系はステンレスだが何故かジュラルミンの電車と呼ばれていたことがあった。実際のジュラルミンはもっと鈍い銀色だぬ。 その後東急7000系が乗り入れて来るようになったが、3000系と比べると色が鈍く、こちらのほうがジュラルミンぽく見えた。 >>855
そもそも、ステンレスとジュラルミンは全くの別物
【ステンレス(ステンレス鋼、不しゅう鋼)】
鉄にクロムを混ぜた合金鋼
<欠点>
全面腐食よりも、局部腐食の方が現実問題
孔食、すきま腐食、粒界腐食、応力腐食割れ、等
【ジュラルミン】
アルミニウムに銅などを混ぜた軽合金
<欠点>
硬度を高めるために添加された銅による耐食性の低下
それに起因してジュラ電は早々に全金化改造 >>856
金属は表面処理の違いでも見た目が随分違う
あと、営団3000と東急7000とでは?
コルゲートの波板形状や使用箇所とかも違うし >>857
ステンレスはステンがレスなので錆びないと思っていた。
ありがとう。 最近のステンレス車両はコルゲートがないね。
技術の進歩なのだろうか? 一昨日の土曜久しぶりに北千住を歩いてみた。
つべで言われていた通りトポスの跡地に
タワマンが立っていた。ついでに緑屋が
入っていた弥生ビルからツタヤが消えて
代わりにドンキが入店していた。 >>861
かなり変化しているんだね。でも飲み屋街は旧態依然としているね。 >>858
先日弘南鉄道の7000系に乗った。
昭和38年製、それほど古さを感じさせない姿に感激した。 昭和38年と言うことは僅かな期間、お化け煙突と同じ時を過ごしたことになる。 >>863
つり革に広告が着いてるけど、既に存在しない食堂街が有ったりして時代を感じた。 今はオミクロンがはやっているけど結構賑わっている。
飲み屋街はわからないけど。 東急8500系が間もなく終焉を迎える。
次の職場で頑張ってほしい。 コルゲートの沢山あるステンレス車両も少なくなって行くね。 コルゲートのないステンレス車両なんて、目鼻のあるのっぺらぼうみたいだよな 北千住と南千住間はたった一駅だけど3社の列車に乗れる。
ちょっと迷ってしまうね。
ちなみにJRが140円、メトロとつくばが170円。 新松戸から馬橋に行く時、JRならば140円、流鉄の幸谷から馬橋までは130円だ。
大部分の人はJR使うと思うが、10円の安さのため、流鉄使う人も確かに存在する。 南千住の日比谷線の車両基地のに3000系はまだいるんだろうか? 3000系再び長電で03に追い出されることになった 玉突き現象が起きたわけだね。
遠い将来、今度は300000系導入によって30000系が03系を追い出すのだろうな。 営団3000系とお化け煙突は数年間は共存していたことがあるんだね。 >>880
ってことは3000系がお化け煙突を眺めながら、1本になったとか3本になったとか
不思議な煙突だなあって考えながら走っていたのこもしれないね。 お化け煙突があった頃の北千住界隈は煙っぽいイメージがあったね。
工場や風呂屋の煙突からは煙もくもく、駅前のバスからは真っ黒い排気ガス。千住大橋の火葬場からは油っぽい匂いの煙。
道行く人・ホームの人は平気で煙草を吸っていた。 レンガ焼き工場の焼き場や煙突もまたレンガ
作りかな?
オレが育ったところに立つと左足が東京都、
右足が埼玉県だったけれど、ガキンチョが
探検していく先に、お化け煙突と呼んでいる
ところがあった。発電所じゃなくて、レンガ
作りの焼き場と煙突があって、崩れているいわゆる廃墟。レンガ作りだからレンガ工場な訳でもないだろうにレンガ工場跡とかもしかしたら
火葬場の跡なんじゃないかと言われてた。
考えるとただの昔の行政の廃棄物処理場だっ
たのかも知れないが、荒れ地の崩れたレンガがとにかく気味の悪いところだった。
オレはてっきりお化け煙突の発電所は今の
小菅刑務所の所にあったものだと思っていた。小菅刑務所は元々懲役でレンガ焼く作業
をさせていたらしいから、当らずも遠からずで
もしかしたらその廃墟は明治大正時代に出所
した受刑者の受け入れ先の工場だったのかも
知れない。場所的に近い。 >>883
懐かしい話をありがとう。その頃の足立区に隣接している埼玉は、草加は市だったけど。八潮は村だったね。
小菅は当時は刑務所で、懲役もあったんだ。今は拘置所になり、支所は松戸にあるね。 その当時の足立区は場末の雰囲気で、綾瀬や竹の塚あたりはかなり田舎だった。
今の環七あたりは純農村地帯だった記憶がある。
今は見る影もないが、まだ少しは畑が残っているね。 子どもの頃、50年くらい前、足立区に住んでいたけど便所は汲み取りだった。
それが普通だった。 >>887 板橋区も概ね似たような状況だったな。中仙道や川越街道沿いは下水道整備が早かったようだが。 大学が下高井戸だったが約半世紀は駅前通りにもバキュームカーが来ていた。 神戸は下水道整備が早くから行われていたようで、かなりなロートルでも子ども時分から
水洗だったと話していた。 昭和40年頃の小菅刑務所の刑務作業
内装用合板の製作
自動車整備
自転車製造
学校教室用の机製造
伝統工芸品的な木製品製造
値段の割にはしっかりした作りのものは
刑務作業の物も多いようだ。
ただし基本的人権の弱い戦前になると、
北海道の土木作業とか生きて戻れない作業も
多かった模様。最も過酷なのは政治犯が多かったらしいが。 >>892
その頃は刑務所だったから作業があったわけね >>892
北海道での過酷な作業・・・昔健さんの映画で見た覚えがある。 >>888
現在の東京23区の下水道整備率は99.9%だそうだ。
そうすると1000軒に1軒はくみ取り便所が残っている訳だね。 足立区の埼玉との都県境部分の在来住宅の
W君の家は1981年頃汲み取りだった。その後
この辺下水道整備されたのはバブル後93 94
年頃だったと記憶。埼玉県側に入るともっと
遅かったんじゃないかな?もしかして今でも? 足立区の北東部及び北西部、葛飾区北部それに練馬区北西部の辺りが23区内で最も宅地化が進まなかった地域だな。この地域に鉄道が通ってなく都心に行くのに時間がかかったからだが。
舎人ライナー、TX、それに大江戸線開通で変わってきたが。それでも練馬区大泉学園北部のように埼玉県境は今でも畑が残ってたりする。 >>897
その辺りを丹念に調べると汲み取りも残っているかも知れないね 大田区や世田谷区も40年くらい前は結構畑があった記憶がある。 自分は子どもの頃、蝙蝠は夜の雀、牛蛙の鳴き声はお化けの鳴き声と信じていた。 今更だけど、東武のホーム1階と3階なのは仕方ないとして、方向別に出来なかったのだろうか?
小田急の下北沢も同じだね。
その点京成の青戸は使いやすい方向別だね。 >>902 北千住の東武線ホーム、ホーム挟んで両方向に引上げ線設けてある。
日比谷線や浅草発の北千住折り返しならば北側の引き上げ線で対応できるが、半蔵門線がストップした場合に半蔵門線直通をここで折り返し運転を行うため、地平線の南側にも引き上げ線を設けている。
半蔵門線直通を曳舟ないし押上で全部折り返させることができるならば、ここの南側引き合げ線は不要なんだろうが、そうもいかないんだろう。本数多いから。
京成の青砥は高砂方面のみ、複々線の横に引き上げ線があるが、京成上野、押上方面にはない。高砂方面から来て青砥折り返しというのを想定してないのでは。
ホーム両側に引き上げ線を設けなくてはならないから、青砥のように重層立体構造にすると複雑になり工事費もかかる。 重層立体構造の駅で京王線の調布も、ホームの東側、新宿方面しか引き上げ線がない。
相模原線の調布折り返し運用があるからだが。地下化以前同様、新宿方面から来て調布で折り返す運用を想定していない。 >>903>>904
902ですけど、そんな複雑な理由があったんですね。
たらればだけど、つくばエクスプレスがもっと高層化して下のスペースが使えれば良かったのかと・・・ 60年前の今日(1962年5月31日)は営団日比谷線が
北千住まで来て東武伊勢崎線と相互乗り入れを
開始した日ですな。この時はお化け煙突はまだ有った。 >>906
真新しい営団3000系もお化け煙突見ながら走ってたんだね。 毎週のドラマで爆破にカーチェイス、仕舞いには煙突まで倒しちゃう、昭和のTVドラマ凄すぎるw 千代田線用メトロ6000の弟分?だった有楽町線・副都心線用の
メトロ7000ももう直ぐ引退する。この車両は北千住とは
直接は関わりは無かったけど有楽町線が全線地下だった頃
(1974年〜1987年)綾瀬検車区で検査を受ける為に
北千住を通過していたのでここで語ってもいいと思う。
北千住在住で中学生だった1986年頃千代田線のトンネルから
出て来た有楽町線の7000系を見た事が有る。 >>914
綾瀬工場があるおかげで、メトロのいろいろな車両が見られるのがいいね。
埼玉高速の車両も綾瀬担当だ。
深夜の常磐線には綾瀬に向かう甲種回送のスジもある。DE11が牽引してる。 メトロ5000系を東葉向け改造も綾瀬工場で一部行っていたし、長野電鉄から里帰りした3000系の復元も綾瀬工場だった。 初めてメトロ6000系を見た時はまさに未来の電車だと思った。
でも、銘板を見ると製造が汽車会社。ギャグかと思った。 汽車会社製の営団(現東京メトロ)6000系は
北綾瀬支線で運用された1次試作車と
量産車の6112Fと6113Fの3編成だけだった様だ。
その汽車会社は6000系がローレル賞を受賞した
1972年に川崎重工業に吸収されて消滅した。
何かの因縁だろうか?因みに1972年生まれの
俺も汽車会社の銘板を付けた営団6000系には
乗った事が有る。 加速時ぷーーんって音してたんは初期型かな?
そう言えば戦争中北加平にB29が墜落して
後の営団車庫周辺まで残骸飛び散ったと。
当時は一面畑。。 確かに昔の綾瀬車庫の辺りは都内とは思えないくらいの農村地帯だった。
今でも申し訳程度に畑はあるね。 >>924
お若いですね。
1972年だと既にSL廃止から3年後、常磐と営団千代田直通1年後かな。
SL廃止がもう1年遅く、常磐と営団千代田が1年早かったら、SLと6000系の併走・離合
が見られたのになあって残念に思ったもんだ。
あと、常磐快速の柏停車が始まったのも1972年だったと思う。 連スレになってしまうけど、SLと6000系の併走・離合は見られなかったけど、モハ72と6000系の併走・離合は見たし、
快速線を走るモハ72に乗車した経験がある。 営団6000系が常磐線に乗り入れる様に成ったのは
1971年から、と言うのは承知の通りだがと言う事は
キハ81系時代の特急ひたちとも複々線で併走した事が
有ったかも知れないな。そのキハ81系は翌1972年10月の
ダイヤ改正で特急ひたちが485系化された事で関西に
転出しました・・・・・・。 キハ81と6000系の並走と離合は見た記憶がある。
キハ81の先頭車はキハ82だった。 昔の朝の松戸駅でのこと。
3番線は成田発のDE11牽引の旧型客車列車、4番線は6000系の我孫子行き電車が同時に発着する時間があった。
DE11牽引の列車に対しては、「発車後の飛び降り・飛び乗りはおやめください」のアナウンスがあった。 営団(現東京メトロ)日比谷線の第2世代とも言うべき
03系が登場したのは1988年の夏頃だったと思う。
この年の7月に発売された鉄道ファン1988年9月号の
新車ガイドで紹介されていた。それ以上に同じ号で
紹介されていたアメリカントレインの女性スタッフの
写真が気に成って仕方が無かった当時高1の俺w
少々エロい格好だったからなぁ、この女性スタッフは。
因みに03系を初めて直に見たのはその年の8月で
場所は北千住駅だった。 この板の東武スレにも書いたけど先頃ヒギンズさんが撮った
東武鉄道と言う本が出てその本には1962年(昭和37年)
7月15日撮影の東武の北千住駅で並ぶ東武2000系と
営団日比谷線3000系のカラー写真が有る。この本での
北千住の写真はこれだけど
(他には1962年の小菅駅や荒川の鉄橋の写真も有るが)
新装成ったばかりの1962年の東武北千住駅のカラー写真は
有難いと思った。因みにその写真には国鉄常磐線の北千住駅の
ホームも写っていた。この頃の常磐線には401系の中電が
走っていたけど北千住は通過だったんだろうか? 赤電が北千住全列車停車になったのは昭和60年のつくば博くらいからじゃなかった?
それまでは朝のラッシュ時に限って上りが停車していただけ
昭和37年の時刻表が出てこないから当時はわからないけど昭和42年頃は朝ラッシュ時の上りのみ停車していた >>933
1988年で北千住というと、隣の駅の近くで「あの事件」があった頃だな
彼女は03系に乗ったことはあったのだろうか? >>938
わかりません
コンクリートについて詳しくお願いします >>940
セメント+水+砂+砂利=コンクリート
コンクリートは、セメントに水・砂・砂利を混ぜ合わせて作る建築材料です。コンクリートの素材として使う砂・砂利のことを「骨材」と呼び、中でも粒子の大きな砂利を「粗骨材」、粒子の小さな砂を「細骨材」と呼びます。この後ご紹介しますが、セメントにも細骨材は含まれていますが、粗骨材が含まれるのはコンクリートのみ。
細骨材と粗骨材がセメントと結合することで、建築材料として十分な強度を生み出しているのです。 >>940
第二ヒント
女子高生
これでわかるはず 軌道修正の意味で・・・・・・
千代田線用のメトロ6000と有楽町線及び副都心線用のメトロ7000と
有る意味兄弟の半蔵門線用メトロ8000も北千住に関わった車両の一つ。
来年半蔵門線と東武伊勢崎線及び日光線が相互乗り入れ開始してから
20年が経つんだな。そのメトロ8000も段々廃車が進んでいる・・・・・・。
これも時代の流れなんだな。 北綾瀬支線走ってたアルミの5000やハイフン6000もJRに乗り入れたことはある車両だったのでしょうか? 営業運転ではないと思うけど、綾瀬に搬入するときは、武蔵野線から常磐快速に入り松戸で緩行線に転線し綾瀬に向かいます。
深夜にそのためのスジもあり、綾瀬工場担当の車両もその経路です。 捕捉です。
アルミの5000系は元々東西線用だったので、総武や中央線には乗り入れていました。 ハイフン6000系はJRには乗り入れできなかったような ハイフンは3両編成だからね。
北綾瀬開業前は、ほとんど遊んでいたんじゃないかな?
自分的には中間7両作って使えば良いのにって思った。
深川から綾瀬に運ぶ時の甲種はあったはずだ。 営団6000系1次試作車は1968年製造で旅客営業に就いたのが
それから11年後北綾瀬駅が開業した1979年。10年以上も
殆ど遊んでいた車両はこの車両だけだろうな。 >>945
綾瀬工場は各線の車両の搬入や全般検査を担当してるからいろいろな車両を見ることが出来る。
有楽町・副都心・南北・埼玉新交通、更には長野から里帰りした3000系の整備を綾瀬で行った関係で、
甲種回送を見ることが出来た。
ちなみに小田急4000系は御殿場線・新松田経由なのでここで甲種回送を見ることは出来ない 蛇足だけど、JR東日本 大宮総合車両センターが小田急4000系のホームドア対応改造を受託したため、
JR東日本所属のELにより甲種回送として運転されたけど、このときは4000系が松戸区に入り、
ELが迎えに来た。中には長岡の死に神もいたので、4000系はかなりビビッたのではないだろうか?
「えっ、私たちもう廃車??」 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。