寿都鉄道【1日0.5往復】
営業最末期は片道1本のみの運行した寿都鉄道。
水害が原因で昭和46(1971)年廃止に廃止となったが
既に昭和42(1967)年に営業休止と
休止から廃止まで4年と長い期間を要し国鉄買収を夢見たローカル鉄道・・・ >>156
>156
「小樽の機関車メーカーものがたり」NO.499、501(2002年11月号、2003年1月号)
残念ながら戦前戦中の蒸気機関車しか製造してなくて王子製紙とか森林鉄道や軍に納入している。現在機関車が王子製紙苫小牧工場に保存されている。
あと道内のメーカーとして中山機械(札幌)、内燃関係は他に札幌車両工務所、本多鉄工所、札幌交通機械、夕張製作所の名をあげている
是非一読のほど 何気なく買った「北海道アルカリ天然水」というミネラルウォーターの
採水地が「北海道寿都郡黒松内町」になっていた。
寿都、黒松内という文字をみて「ああ・・・」と思い出してしまった。 そうだね、黒松内という地名見ると速効で寿都鉄道を連想するわ 北海道の軽便やローカル私鉄の実態は凄まじいものがあったんだな
労働環境、職場の士気、線路や車両、駅の整備状態とか
今ではとても考えられない
寿都もかなり謎めいた鉄道の一つだけど、
なんどかこのスレにも出てる北海道拓殖鉄道も、長期間スト(それでもほとんど影響はでなかったとか)、異様な低賃金とか
相当に現場は荒んだ雰囲気だったんだろうな 落ちるぞ・・・
>>161
その時に現場に出向いた鉄道ファンは感じ取れなかったのかな。
最近、末期の筑豊炭田の失業者のすさまじさを記したノンフィクションを読む機会があったのだが、貝島とか聞き覚えのある炭鉱名がちらほら出てくるんだよ。
様々なレポートが残されてるだろ。蒸気機関車だけではなくて社会派的なルポルタージュという視点から写真集を残した鉄道ファンはいないのかな。
写真の片隅に移る機関士、鉄道員、そして一般の人々の暮らしは目に入らなかったのだろうか。
誌的な表現に昇華している例はいくつかあるけど、そんなんじゃねえだろ。
基隆炭鉱だって現地人はくたびれ果てているだろ。揃いも揃って機関車のケツばかり追いかけまわしやがって。 >>162
かつて「蒸気機関車」誌に常磐の「重内炭礦専用線」のルポ記事があったね。
もっともこれも趣味師の領域内での社会派ルポルタージュであってやはり叙情的にまとめられたグラフ記事ではあった。、しかし晩年の廃線になる炭礦の重々しさ
を若干でも表現してあったかも。 >>162
>>163
蒸気機関車誌に「廃煙」という映画シナリオが載った時があったね。
瀬野八の無煙化前夜が舞台で、
D52乗務員たちの苦悩が描かれていた社会派ドラマだった。
一般誌ではないがプロレタリア文学全集の類に国鉄の職場を描いたものがあって、
いくつか読んだ記憶がある。
当時はどの職場でも文芸活動が盛んで、
探れば色々面白い読み物が出てくるのではないかな。 問題は現代のレベルと単純に比べてしまうこと
当時の平均的な労働者の生活を描いた作品も読むべし ttp://homepage3.nifty.com/minami-siribesi/contents/suttu_tetudousaigo.htm >167
そのリンク先にある
>NHKニュースでは「まぼろしの西海岸鉄道」という特集が組まれ
の映像が見てみたいなぁ。
NHKの事だから、支局に残ってそうだ。 167の映像は、カラーの寿都鉄道の動画が映ってる。 漫画ゴラクの新連載で寿都町が取り上げられてたのでいろいろ調べて見たらこ
の町にかつて鉄道が走っていたのを初めて知った >>170
蒼太マニアの方ですね
「黒松内」という地名でこの鉄道を思い出す人もここにいます。 寿都出身の田舎娘が主人公の漫画を見る事になるとは思わなかった。
「ビューだね!」にはコケたけどw 「すっつ」と思ってったけど、正しくは「すつ」なんだね。 読みは「すっつ」で合ってるけどね。
田舎かつ昔の事とは言え、なんであんな表記だったんだろ http://www1.ocn.ne.jp/~suttutnk/
ツアー申し込み、今日が締め切りです。 俺地元だけど「すつっっうう〜」って皆いっとるよ。
「すつ」は電信用語っしょ? 関係ないがいまやたらと出てくるみのもんたのラジオのアシスタントの
出身地が「寿都」と聞いて、そこだけ気になった。
唯一の有名人か? 南波の娘さんだね。
漫画家の本庄敬も出身者だよ。
有名人ではないか・・・。 そうですかね
ちょっと考えりゃ往復のどちらか片方が客扱いしないことくらい想像つきますけど? >>189
”片道一本”よりずっと目をひく。
スレタイの付け方がうまいよね 営業しない事の意味が判らないと言えば判らないな・・・・。
何か経費削減の要素、あるか?片道営業。 >>192
Wikipediaによれば
>末期には1日に1往復であったが黒松内駅は国鉄の臨時列車があるときはホームが使用できず黒松内行きは旅客扱いをしないという有様であった
だそうな なるほどw
ホームから乗れなければ営業もしにくい訳だ。
臨時列車とはいえ、確約できなければ法律面でまずい事も起こるだろう。
国鉄も酷い事をする。 >>193>>194 開業当時とか、それなり繁盛していたのに 黒松内には自前の構内が
無かったのか? にわかに、信じがたい・・・
地元民に対する公共性とかの観点からも、国鉄(本来国民の利益に供するべきように配慮すべき)の臨時列車の影響で黒松内ゆきの運行が出来ないなんて
どういうこと?
そもそも 昔の中小地方私鉄っていうのは、国鉄OBの天下り先で ナアナアで車両不足、事故、災害等 経営上 困窮する事態に遭遇してもある程度コネで援助、協力が得られる筈なのだが・・・
この会社 国鉄を余程 怒らせる事でもしでかしたの? 開業当初から赤字続きで補助金だのみ、戦後はその補助金も大幅削減。戦前は冬になれば道路は積雪で橇で行くしかなかったけれど、戦後は除雪もされバスも運行できれば勝ち目はない
最近出た本で「鉄道会社と財務諸表2」に寿都鉄道が取り上げられているが、負債は増える一方で国鉄への連絡運賃の精算を運転資金に回してしまい国鉄への支払いが遅れるという不義理をしている。 戦前は指導責任がある監督官庁だったわけだし、国鉄になってからも中小私鉄は何かと目を配ってやらねば、という姿勢だった筈。
中の人の意識はそう簡単に変わる物じゃない。
とはいえ0.5往復には、国鉄の指導があったんだろうなあ。指導を受けるキッカケとして、とんでもない所で客を乗せている所が見つかって・・w しかし今やコヒが右肩下がりだっていうんだから何ともはや 1964年の時刻表を見たけど寿都発2本で黒松内発3本だからまえから旅客扱いしない列車はあったようだ。 >>196 連絡運輸運賃の使い込みは(気の毒にせざる得なかった)、山鹿温泉鉄道でもあったな。
寿都も北丹も 名目的なものだろうが、昭和40年代半ばまで生きながらえていたことになっている。(そういう諸手続きすら緩慢な体質、経営状態?)
なら山鹿温泉みたいに、マダ日本中が十分豊かになりきっていない(悪く 云えば 働いている人々の勝ち負けがハッキリしていない時代)昭和30年代半ばに廃止になった方が働いている人たちのためにも良かったのかもしれない! 寿都も町に鉱山があったみたいだけど、
ここは運炭や鉱山輸送を主目的に敷設した鉄道じゃないよ。
ニシンの輸送が目的
北海道拓殖鉄道や根室拓殖鉄道と共に道内では、珍しい純旅客輸送目的の地方私鉄 >ニシンの輸送が目的
>道内では、珍しい純旅客輸送目的の地方私鉄
何だって? 会社が傾くと同様に
社員のモチベーションも落ちて行ったのかな 既出だがここは何かと謎めいた会社で、
まだネットが普及していない時期に自分なりにいろいろ調べてみようと図書館に行ったり
大型書店で専門書の取り寄せを試みたりとかなりのめり込んでいた時期があった。
2000年頃にルポライターの方が地方新聞のサイトでお書きになった考察記事が一番印象にあるのだが、
本にはなってないみたい。返す返すも残念。 >>207 失礼な!開業時は、ニシンの輸送で繁盛したらしい
戦時中も物資調達は困窮しただろうが、貨車の重量制限?割り増し特認を受けたくらいだから
ソコソコ繁盛したでしょ。 >>211
>ソコソコ繁盛したでしょ
戦前は貨物が年間1.5千トンから3万トンで営業損益毎年赤字で政府補助金と拓殖補助金を毎年もらっていたのに そいえばグランデに鉄道会社と財務諸表2というマニア本がおいてあって戦後の寿都鉄道をとりあげていたな 往復のうち片方回送って異常に効率の悪い運用してたんだな 効率なんて関係ないんですよ。乗客はゼロでもかまわない。
国鉄新線建設のために、用地買収して欲しい。その時に廃業と営業では補償の出し方がまるで違う。
だから、営業の体裁を維持し続ける必要があるから、本当に最低限の客扱いをしていた。 つまりバスの「免許維持路線」的な存在だったわけか
休日1日1往復の路線とかあってそれに乗車目的で訪れるバスマニアがいる
京都バスなんか年1回春分の日しか運行しないとか凄まじい路線がある >>217 バスの免許維持路線って定期乗車券あるのかね? 実に優雅な木造客車がいた。
模型化が難しい。側面の凸凹の関係からして理解不能だ。
丸ごと模型化できそうで、8100以外となるとハードルが想像以上に高いのが寿都。 株主総会なんてものは開かれたのかしら?
凄まじく悪い業績を報告する機会がなかったのかな >>197 とんでもない処に旅客を乗せて・・・
昭和30年代だとマダ大手も含めて混雑時ドア開けっ放し走行とか屋根上乗車
機関車デッキ等に旅客が鈴なり乗車の写真を散見するけどな。
どんな事が問題になったのかスゴイ気になる。 トロッコが好きだった少年が客車のデッキから落ちて死んだのは1980年代だったな 自分が生まれる前に廃止されてしまったから縁もゆかりもないが
妙に興味をひかれて学生時代夏休みに現地で廃線跡トレースをしたことがあったが
記念碑的なものが当時は一切なくてまるで地元にとって記憶から消し去りたい歴史なのかと
こっちが訝しんでしまうくらいに何も顕彰する雰囲気がなかった >>227
同じ感想を抱いた者です。
戦前に廃止された路線でさえ碑文が残ってるというのになぜ、全くないのか
程度の差こそあれ、地元にさまざまな恩恵を齎した事実は否定できないと思いますが。。。 それを帳消しにする何かがあったのでは?
ただの臆測にすぎないがね。 明らかにされない方がロマンがあって良いという人もいる RMライブアリーで取り上げるとしたら 山鹿、北丹、野上、有田に次ぐ最期悲劇の地方私鉄
だな。昔 交友社から寿都鉄道をテーマにした本があつたけど、入手難だし(当時の同好者を
考えると部数も期待できない)高価だろうから是非ともRMで扱い取り挙げて欲しい。 >>102
> 鉄道何とかリアルとかいう雑誌
鉄道ピクトリアルですか?
寿都と言えば漁業の町。当然貨物列車で魚を運んだと思うのですが、魚油で線路がギトギトになって滑ったりしなかったのか…と心配 鮮魚は鉄道運搬に向いてないと思うのだが
どうだろう 最盛期の1946年
4往復
橇を牽くより鉄道の方が効率よかったんでしょう
https://i.imgur.com/QK6kL3N.jpg >>234 冷蔵車等の冷蔵設備がないと、鮮魚の輸送、保存は難しい。短時間であればともかく、当時の列車で急いでも寿都から札幌まで半日はかかるだろ。
輸送するなら干物にしてからだね。 237の言う通り、
寿都は北前船の頃から
身欠きニシン(干物)がメインでしょう
大量生産するための加工場、
加工品を輸送する鉄道 不漁のときもあっただろうに
農業なら凶作不作でも来年回復できる見込みがあるが
漁業は数年サイクルといわれるし、またサイクルがないものもあるというし、
海産物を当て込んだ鉄道経営は結構綱渡りみたいなとこがあったのな 北海道のニシンに関しては研究多過ぎではっきりしてると思う。
数年サイクルではない。建設時には処理に困るほど獲れていたものがバッタリ来なくなった。
これを、先を読めというのは難しかろう。
単一の目的のために建設された鉄道が構造的に弱いというのは確かだが。鉱山鉄道とか。 汽船が大半の頃、
船が着岸できる浅瀬のある場所は、重要な中間拠点となる。
寿都もニシンの水揚げ、加工出来る事に特化した港の一つ
船同士での積み替えや集荷は、大型船が着岸できる港が限られてしまう
また、航路では都市への移動距離が延びてしまう。
必然的に鉄道が建設されるに至るが、漁獲量の減少は読めなかっただろうね。
https://i.imgur.com/o9iC9dJ.jpg 魚粉肥料と沃度原料が需給とも消滅することを予測するなんて
化学工業と農業の死滅を予測するようなもんだぞ
想像もつかんというか、そんときゃ国が終わるから想像してもしょうがねえって感覚だろ モノカルチャー経済みたいな地域は不安定なんだ。
北海道には多い。 >>242
そりゃ昭和30年代は鉱山関連が新卒の人気企業だったからなぁ・・・ そばを流れる朱太川が大雨になるとたまに氾濫して線路を傷めたらしい
が、その都度地元民が無償奉仕で復旧を手伝っていた
中にはなけなしの金を叩いて寄付金を持ち込む村民もいたという
「おらが村の鉄道はおら達で守るっぞ!」という心意気があったみたい
やる気無しで一貫してた経営陣とはずいぶん対照的だと思った >>246
時系列で整理し直したほうが良いと思う。
>やる気無しで一貫してた経営陣
末期だけだろ。
妙な階級闘争始めるなよ。 今日までのあらゆる歴史は、階級闘争の歴史である。
今日までのあらゆる階級闘争の歴史は、敗北の歴史である。
勝手に決めるなあ〜!
このスレは、団塊老害老人しかいねえのか。
階級闘争なんて言葉、日常に出てこねえよ。
>>246の偏見も相当だな。 246はひどいなw
昔246みたいな作り話が流行った時代があったような気がする。
寿都は町だから、黒松内の人の事なんだろうな…おらが村の・・・w 力がない会社も、支えようという人もいただろう。
それを表現するのにステレオタイプな美談仕立てにする必要がどこにある?
それは史実を歪めて伝えるだけだ。まあ一次情報になど当たってないんだろうが。 1960年代まで田舎の道は未舗装だらけ山道は狭くてクネクネ
やはり地方の小私鉄が生き残れたのはこの年代辺りまで
80年代まで生き延びた会社も支線は60年代末で廃止している