この本源からの流れと、カルマ思考分別からの流れは、インドでは仏教以前から、
ハスの花に譬えられていた。
ちなみに、今回、副大統領になったカマラ・ハリスは、名前の「カマラ」が
「ハスの花」という意味がある。
これは最高神ヴィシュヌの妻である、ラクシュミーの別名になってる。
ヴィシュヌはアラーと同等だろう。

ハスの花は泥中に咲いても、いささかも泥に汚されることがない。
泥というのは人間の思考分別の世界、カルマの世界、時間の幅の世界、
幻想の世界と言ってもいい。
そこでいろいろなカルマが現れてくるわけだけど、大抵の人は、そのカルマを相手に
取っ組み合いをする。
なんとかこれをよくしよう、とか、なんとか無くしてしまおう、とか・・。
つまり、泥を泥で洗ってるわけだ。
しかし、本来はそんな泥とは関係なく、ハスの花は綺麗に咲いている・・

もしも泥がハスの花を汚さないというのならば、泥がいくらあったっていいし、
いくらでも出てきても構わない、ということになる。
問題は、泥のありのままに一致するのではなくて、ハスの花にシフトさせる、
ということだ。
一休さんにはハスの花へのシフトが無く、ただ泥に合わせるようなことだけやっている。
泥はそのままでいいというのは、ハスの花がそれによっていささかも汚れることがないからだ。
汚れが関係ないポイントがあるからだ。
泥だけに焦点を当ててしまったら、いつまで経っても汚れが関係ない世界に行くことは出来ない。
汚れが関係ない世界とは、良し悪しもすべてが平等になる世界。
それは中道の世界ということ。
そして、すべてのものが平等になるということは、すべての「個」「枠に当てはまれられたもの」が
空になる世界だ。