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究極の精神統一法を目指す【最強のMindfulness】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/10/14(水) 02:57:48.89ID:Ey9Ayjm/
弥勒の半跏思惟像は、いかに普通の人が簡単に悟りを開ける方法はないかと考えています。
半分足を崩しているのは、どれだけ楽な方法で悟りを開けるか、ということを表しています。

過去の悟りの行を見ていると、たとえば安楽の法門と言われる座禅でも、長時間足を組んだり、きつい作務(労働)や、厳しい作法があります。

また、易行道と言われる念仏でも、暇なく念仏の言葉を唱えなければならなく、欲望と感情にまみれた状態とハッキリと切り話されているとは言えず、修行者は煩悩を捨てて念仏をするのが正しいと認識してしまいます。

煩悩そのままで悟りを開くというのは、理趣経に示されていますが、未だその意味をハッキリと修行概念に結び付ける教えはありません。

ここでは、将来弥勒が出すであろう、煩悩そのままで悟りを目指す、究極の手法にアプローチします。
0038名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/17(火) 22:02:57.87ID:ywodOWng
ハスの花というのは、= 悟り  であり、 = 中道  であり、
= 空なる世界、 = 縁起(ワンネス)の世界 
そして、= 「今」 を表す。

人が真に「今」に統一したとき、あらゆるものが平等になり、空になり、、
分離のない、一体の世界が現れる。
0040名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/18(水) 00:07:56.67ID:KnHOcZ4A
「いかに聴きしや金剛手、いまわが説ける知慧の理趣、
わが身に受持ち、読み誦え、よく心中に思いなば、たとえ五欲いまみる事も、
わが身汚るることはなし。

五色に咲ける蓮華葉が、泥より出でてその泥に、些かも汚れざるがごと、
人の性なる清浄も、たとえば塵にまみるるも、その奥底に帰るとき、
無上のさとり出ずるなり。」

かくて観自在なる大菩薩に、
姿を変えしびるしゃなは、
顔を怡らげ微笑みて、
弓手に持ちし蓮華をば、
右手で聞きて示し給う。

こは「開ける蓮華」の印にて、「泥の蓮華」を示すなり。
欲が本性染すことはなく、ものも染さざることはなし。

この教えをば示すため、聖音「キリーク(フリーヒ)」と唱えたり。
0041名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/01/19(火) 13:05:12.76ID:NblHMODk
我々は常に、嫌いな自分、好ましからざる状況から
距離を置こうとする。
「良し悪し」の二元相対から、「良し」を求め、「悪し」を排除しようとする。

たとえば、イライラして勉強に集中できない、すると、イライラを何とか消して、集中できる自分になろうとする。
「集中出来ない自分」を何とか改善(排除)して、「集中出来る自分」になろうとする。

座禅や瞑想中に雑念が湧いてくると、この雑念を排除して、クリアな心にしようとする。
発表するときに緊張すると、なんとかこの緊張を排除して、緊張しない自分になろうとする。

こういう二元相対の葛藤を繰り返しているのだが、この「良い状態」というのは実際に存在しない。
なので、永久にたどり着けない。
0042名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/01/19(火) 13:12:16.58ID:NblHMODk
実際にあるのは、「今の自分」だけだ。
それがたとえどんな状況でも。

この「状況」というのはプラスもマイナスもない。
「この状況」に価値判断が加えられるとき、すなわち、人間の思考分別(想い)が働くとき、
はじめてプラス、マイナス、が生じる。
そこで「葛藤」が起きる。

プラスになれない自分と、プラスになろうとする自分。
プラスになっても、すぐにマイナスに戻ってしまう。
マイナスを排除しようとしても、なかなか排除できない。

このような葛藤が、実際は不幸の原因、苦の原因となる。

だから、真の目的はマイナスを排除することではなくて、この「葛藤」を無くすこと…、ということになる。
仏教はここを目指している。
そして、この「葛藤を無くす」道のことを、「中道」という。
両極の葛藤に捉われない道…、その真ん中の道ということで、「中道」だ。
0043名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/01/19(火) 13:14:05.89ID:NblHMODk
(中道というのは中庸と違う。
中道は一切、両極に捉われないが、中庸は、両極の中間地点のポイントという意味で、
両極があって初めて成り立つ。
つまり、両極を意識した言葉だ。)
0044名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/01/19(火) 13:23:56.39ID:NblHMODk
たとえば、何か嫌なことをするとき・・・

たとえば、普段、やり慣れてない人がトイレを掃除をするときに、苦痛を感じるとか、
寒い時に、風呂から上がるときに苦痛を感じるとか、
朝寒い時に、あったかい布団の中から出なくてはいけないとか、
そういう「苦痛」を感じるとき、普通の人は反射的に二択の選択をしている。
それは、
(反射的に)苦痛を取り払って(苦痛を排除して)、行動するか・・・、
(たとえば、気合を入れて、寒さを打ち消して風呂から出る、布団から出る。) か・・・、

もしくは、苦痛を回避するために、そのまま風呂の中に居続ける。 布団の中に居続ける。
掃除をやめる。
の、どっちかだ。

このような反射的な反応が、人間の「想い」の特徴だと言っていい。
つまり、全ての物事に、価値判断(分別)が働いている。

さて、では、このような状態のときに、「中道」とはどういうことを言うのだろうか?
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