アラーの話をしよう。

イスラム教でいうアラーとは、簡単に言うと「無限の一」ということ。
つまり、全てを包含するこの無限の宇宙ということ。

この「宇宙」というのは、単に物質的な宇宙ということだけでなくて、あらゆる次元を含む
総合的な意味での宇宙ということ。

我々の世界は思考分別によって分離的なものが浮き上がってきてる。
前でも喩えたように、本来一枚の絵であるはずなのに、パズルのピースのように、
各々、個々のものが独立して浮き上がってきて、あたかも単独で存在しているように感じている・・
しかし、仏教ではこれを、どんなものでも相依して存在している・・ 単独で存在できるものはない・・・
という言い方をして、これを「縁起」という。

たとえば、相対的なもので、短は長に、長は短に、という風に、お互いに相依して存在している。
相対的な概念は単独では存在出来ない。

縁起というのは言うなれば、パズルのピースで独立していると見えていたものが、実は完全に一体で、
一枚の絵として存在している・・・ ということを言っている。

イスラム教では「タウヒード」という重要な言葉がある。
これは、分離の無い一体性を表す言葉。
このタウヒードこそがアラーだ。

反対に、分離というのは「シルク」という。
このシルクが我々の世界であるわけだ。

よくイスラム教徒はアラーは唯一の神だ、というが、これは根本を間違って解釈している。
イスラム教徒はこれを、神々の中で本物の神はアラーだけだ、という風に解釈する。
この解釈の何が間違っているかというと、まず、神と人間という風に、人間が対象とする神が存在していて、
そして神々の中でも、偽物の神々と本物の神が存在していて、アラーが単なる、多くある存在対象の一つになってしまっている。
その存在対象がどんなに崇高なものでも、それは数ある中での一つということで、
世界は分離したままだ。
たとえるなら、崇高なパズルの一ピースなわけだ。

こういう勘違いをしているから、他宗教を攻撃したり、独善的になったりしている。