X



究極の精神統一法を目指す【最強のMindfulness】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/10/14(水) 02:57:48.89ID:Ey9Ayjm/
弥勒の半跏思惟像は、いかに普通の人が簡単に悟りを開ける方法はないかと考えています。
半分足を崩しているのは、どれだけ楽な方法で悟りを開けるか、ということを表しています。

過去の悟りの行を見ていると、たとえば安楽の法門と言われる座禅でも、長時間足を組んだり、きつい作務(労働)や、厳しい作法があります。

また、易行道と言われる念仏でも、暇なく念仏の言葉を唱えなければならなく、欲望と感情にまみれた状態とハッキリと切り話されているとは言えず、修行者は煩悩を捨てて念仏をするのが正しいと認識してしまいます。

煩悩そのままで悟りを開くというのは、理趣経に示されていますが、未だその意味をハッキリと修行概念に結び付ける教えはありません。

ここでは、将来弥勒が出すであろう、煩悩そのままで悟りを目指す、究極の手法にアプローチします。
0021名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/10/31(土) 01:10:35.30ID:iHQMBO7Z
アラーというのは仏教の「縁起」と同義だ。
タウヒード = 縁起 = ワンネス ということになる。

イスラム教は最初はメッカの方角ではなく、エルサレムの方角に祈っていた。
それを後にメッカの方角に変更している。

この時、なぜイスラム教徒は祈る方角を変えたのだ? という批判に答えて神は、
東も西もどこを向いても神の御前にある・・・ 東も西も全てアラーだ・・
みたいな言い方をしている。

これはそうだろう。
全宇宙一体の姿こそがアラーの姿だ。
どこを向いても、何をとっても、それはアラーだ。
だから、本来はどこを向いても、アラーに祈っていることになる。

また祈りの方角についてこういう風にも言っている。
そなたが神を求めて顔を西へ東へ巡らせるので、祈りの方角を定めてあげたのだと。
つまりは、方角は便宜的なものに他ならない。

そして、イスラム教徒では偶像崇拝を禁止している。
アラーを絵や像で表わしてはいけないわけだ。
これはなぜかというと、像を作ってしまうと、対象として、人間と神 という風に分離してしまうため、
対象物を作ってはいけないということだ。
だから、メッカの中心には中身を隠したブラックボックスが置かれている。

あのブラックボックスの中身は、無限の一なる宇宙に繋がっていると考えればいいわけだ。
0022名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/09(月) 00:36:31.11ID:nArIbXcG
念仏というと、あまり「行」というイメージがないが、これは24時間、
行住坐臥の「行」と言ってもいい。
念仏というのは、仏に助けを求めるものでもないし、一定時間だけ唱えればいいものじゃない。
禅にしろ、念仏にしろ、それは24時間間断のない行と言ってもいい。

道元禅では、24時間座りっぱなしというわけにはいかないので、作務や、経を唱える、
日常の作法を細かく決めることによって、間断のないマイフルを実現している。
それに対して念仏は、ただ念仏を唱え続ければいいわけだから、
非常に易しい行ということも言える。

ただ、のどやその他の、身体の機能上の問題のある人は、
非常に苦痛になるだろう。

また、これらの「行」の趣旨が分からなければ、行をすることで
却って苦しむことになる。
0023名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/09(月) 00:53:05.63ID:nArIbXcG
念仏の行自体は、完全なマイフルなわけだけど、ならば「行」こそ大切ということになるわけだけど、
親鸞はある時、「行」の座につくか、「信」の座につくか、問いかけたことがあった。
そこで多数は「行」の座についたわけだが、親鸞は「信」の座についた。
師匠の法然さんも、親鸞と同じ「信」の座についた。

「信」の座につくというのは、マイフルの行の本質を掴んでないとなかなか出来ない。
いっけん、マイフルにとって大切なのは、24時間間断のない「今」への気づき、
の「行」のように感じられるからだ。

ところが、マイフルにとって真に大切なのは、「ありのままにズレが無いこと」、なのだ。
これをもっと簡単な言葉でいうと、「完全なるお任せ」。
完全にすべてを阿弥陀様なり何なりにお任せした状態というのは、
すべてをありのままにした状態・・・
完全なありのままを受け入れた状態ということになる。

完全なありのままとは、完全に今と一致している、ということ。

ありのまま = 今
0024名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/09(月) 01:09:23.20ID:nArIbXcG
たとえば、風にゆらめく旗があったとする。
旗がマイフルをしようとしたとする。

風が吹いて左にゆらめいたら、旗が抵抗して、右にゆらめき返そうとしたら、
(つまり、思考分別で何かを為そうとしたら、) これはマイフルにはならない。
なぜなら、思考分別を越えるために今に意識を置くのであって、旗にとっての「今」とは、
左にゆらめいてる姿だ。
これを拒絶するということは、それは「今」の拒絶だ。

マイフルにおいて一番大切なのは、ありのまま(今)と一致させる、ということ。
ありのままでない・・・ ということは、思考分別が働いている・・ ということになる。
そしてそれは、「今」と一致していない、ということになる。

完全なる「信」は、完全なるお任せ。
そしてそれは、完全にありのままを受け入れている、ということになり、
それは、完全に「今」と一致しているということになる。
0025名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/09(月) 23:38:42.55ID:nArIbXcG
親鸞のいう極楽浄土とは、通常、ふつうの人が考えているような天国じゃない。
ふつうの人の考えている天国とは、スピリチュアル的に言えば、
幽界の上層だ。
また地獄も、幽界の下層ということになる。

幽界というのは個我のある世界で、迷いの世界だ。
ただ、個我を脱して悟りまで行ってないが、悪い想念を持っていない
善性の人がいる。
こういう人は、幽界の善い世界・・・  いわゆる一般的な天国のようなところに行くことになる。
反対に、想念の悪い、自己中心的な人は、いわゆる地獄というところに赴くことになる。
すべては個我の想念が決めることで、想念の良し悪しによって、自分たちのあの世での
住む世界が決まってくる。

極楽浄土というのは、こういう幽界の個我の世界・・・ 分離の世界、相対分別の世界を越えたところで、
苦楽を越えた真の天国ということになる。
スピリチュアル的に言えば神界ということになる。
ここに至れば個我の想念というものはなく、分離はなく、全てのものが
一体となった美しさがある。
ここの意識は、人間の思考分別で説明できるものではなく、こうだと
当てはめることは出来ない。

パズルのピースの説明で言えば、各ピース一つ一つの素晴らしさではなく、
ピースが消えた、全体の一枚の絵の素晴らしさ・・・ ということになるだろう。
0026名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/09(月) 23:54:06.42ID:nArIbXcG
悟りの入り口では、どういう心境になるかというと、「あ〜、全てはこのままで良かったんだ、
何も変えなくていいんだ、何一つ変えなくていいんだ。」 という、
ありのままを全肯定した心境になる。
相対的な差というものが無くなってくる。
健康であるから幸せだ、病気であるから不幸だ、という差別が無くなってくる。
何物にも依存しない、絶対的な幸福感が溢れてくる。

通常、人間の幸せというのは、相対的なもののポジティブの方に依存している。
貧乏に対しての金持ち、 病気に対しての健康、 ブサイクに対する容姿端麗、
その場その場で言えば、心地悪い に対する 心地よい
食べ物に対して、不味いに対する美味しい
人はネガティブに対するポジティブに依存する形で
幸福感を感じている。
しかし、ポジティブを追求するということは、ネガティブもまた、
セットで付いてくることになる。
だから、こうした相対的な思考分別では、いつまで経っても
真の幸福感を得ることは出来ない。

人間の想い、思考分別というものは、常にこのような相対的な価値判断のもとに成り立っている。
だから、この思考分別を越えることは重要だ。
0027名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/10(火) 00:29:42.23ID:IOk9CTxi
たとえば、100万円を得たときの幸福感というものがあったとする。
結局、人の幸福感というのは、この100万円自体にあるのではない。
たとえば、100万円でも幸福感を感じない人もいるし、それは1000万円でもおなじだ。
しかし、たいがいの人は、そのお金によって、相対的なもののポジティブの方を多く得られることによって、
100万円得たことに幸福感を感じることが出来る。

たとえば、10億円の宝くじが当たった時の幸福感というのは、通常のものより
はるかに大きいものになるだろう。
ところが、たとえば同時に末期のガンが発覚したとすれば、
それらの幸福感は露と消えることになる。
このように、相対的な幸福感というものは、依存的な幸福感というものであって、
依存しているものが倒されるような出来事があれば、すぐに不幸になってしまう。

それに対して、相対的なものを越えた真の幸福感というものは、何ものにも依存しない・・・
そしてそれは、10億円の宝くじが当たるような、相対的な幸福感よりはるかに大きな幸福感になる。
どのようなネガティブな状況でも、相対的な依存ではないため、
崩されることはない。

たとえば、億万長者が感じる最高の幸福感があったとしよう。
お金が山ほどあることへの相対的な幸福感を感じているとする。
一方で、それよりもはるかに大きな幸福感を、ホームレスの
無一文の人が感じていたとする。

幸福感というのは、それが得られる手段に価値があるのではなくて、最終的にどれだけ大きな幸福感があるか
ということが価値があるので、お金の多い少ないより、幸福感の大きさが問題になってくる。
たとえば、10億円を得て、幸福感を感じる人のレベルを、レベル100とすると、
レベル100以上の幸福感を感じる人は、10億円以上の価値のある
幸福感を持っていると言える。
もちろん、10億円の価値に匹敵する幸福感というのは、一般的な感覚すれば、
かなりの高レベルということになる。
これを凌駕する幸福感というのは、並大抵では手に入らないかもしれない。
しかし、もし仮にあったとすれば、その人にとってはもはや10億円を
手に入れる必要がないということになる。
仮にホームレスがその幸福感を持っているとするならば、彼にはもはや
お金はいらないということになる。

これがたとえば、身体障碍者が健常者以上に、現在の状況において、健常者以上の絶対的な幸福感を得ているとすれば、
もはやその人は、健常者の状態を求める必要ないということになる。

このように、相対的なものを越えた絶対的な幸福感というのは、いくらお金を積んでも代えがたい、
全ての人が目指すべき境地である、ということが言える。

ホームレスが100億円の幸せを感じているのならば、それは実際に10億円を持っている人より幸せだ。
身体障碍者が健常者以上に幸せを感じているのならば、それは幸せを得るために、
健常を求める必要がない・・ ということを意味する。
0028名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/12(木) 00:34:24.14ID:v4mvgef0
我々が個我の判断でああだこうだしよう、思考分別が働いて、これをどうにかしよう、あれをどうにかしよう、
という想いが無くなって、自分の我というものが空っぽになったら、そこにソースのパワー(本源の光)が
流れ込んでくる。

というか、もともと縁起で一体のもの、もともと本源と一体で、ソースに繋がっているものが、
自然に現れてくる。

宇宙と一体となって動くわけだから、あらゆるものが都合のいいように物事が運んでいく。
たとえば、マイフルが進んでいくと、運の良いことが起こってきたり、
シンクロニシティのような偶然の働きがあって、良い方向に物事が運んだり、
自然自然に良い方に導かれていったりすることがある。

これはソースの繋がり・・ 宇宙との一体性が出て来てるわけだから、
当たり前と言えば当たり前だ。

芸術家がソースに繋がれば、宇宙全体の力がその表現力になる。
スポーツ選手は完全に全てをコントロールしているような、超越的なファインプレーを
することになるだろう。
宇宙と一体になるということは、宇宙の全てが自分に味方するということになる。
0029名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/12(木) 00:56:11.58ID:v4mvgef0
昔の話で、第二次世界大戦中にグアム島に残された横井庄一さんの話がやっていた。
終戦に気づかず、ずーっと島で生活していたわけだけど、仲間が次々と倒れていき
最後は一人になってしまった。

食料も手に入らなくなり、万策が尽き、もはや死を覚悟し、
生きるのを完全にあきらめた。

穴を掘って生活していたが、上から雨が降って、雨に濡れながら、
あとは死ぬのを待つばかりだった。

すると、翌朝に妙なことが起こった。
朝、穴から出てみると、そこいら中にカタツムリが這い出してきていた。
これまでほとんど見ることのなかったカタツムリが、山ほど這い出してきていた。
横井さんはそれを料理して食べ、窮地を脱することが出来た。

それ以来、不思議なことが起こり始めた。
今日はフラっと山の方に行くと、果物やキノコ類などがたくさん取れたり、
次の日に川の方にフラっと行くと、魚がたくさん取れたりと、
それ以来、食べ物に全く困らなくなった。

自分でああだこうだしようとするんじゃなくて、何も考えずに、
ただサッと行くといいことがある。
これも自分のエゴ(思考分別)が全面降伏して、自分でああしよう、こうしよう、という想いが諦めて、
全てをお任せした状態になったところで、本源のままに動く・・・
これもゾーンに入ったのと同じだ。

映画や本を書く人、番組を作るプロディーサーなど、ヒット作を生み出している人は、
多かれ少なかれ、ゾーンに繋がっていると言えるだろう。
何かを一生懸命やったり、没頭することで、必ずゾーンにアクセスしているはずだ。
そうでなければ、人間の思考分別くらいでは、人間の頭の中で考えるくらいのことでは、
大きな成果を上げることは出来ない。

政治家など、社会の重要な地位にこそ、こういうようなゾーンにアクセスしている人が多くいれば、
この世界は非常に良くなるということになる。
0030名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/12(木) 01:38:06.76ID:v4mvgef0
ここで「行」に対して二つの方向性を洞察しないといけない。

本源と一つになる・・ 宇宙と一体となるためには、「我、エゴ」というものが
追い込まれないといけない。
もはやエゴの自分ではどうにもならない、自分の想いでどうこうしようとしたってどうにもならない、
「我」を喜ばせよう、有利にしよう、温存しよう、
「我」を生き延びさせることが、不可能になってしまった状態。
エゴを温存させる道が、すべて絶たれてしまった状態。

このようになった時に人はエゴを放棄し、ありのままをそのまま受容することになる。

よく、大病をしたときに悟ったという話があったり、自分の全てが奪われるようなことがあって
悟りを開いたという話があるのは、外的な条件でエゴが降伏(消滅)させられた・・ ということだ。


しかし、一方で、いつ起こるか分からない、或いは、来ないかもしれない外的条件を、
しかも、それらのことはエゴを持つ通常の人間には、耐えられないような苦痛になるわけだから、
出来ればそういう道は避けたい。

エゴが外的な条件で消滅させられるようなこと以外に、エゴを消滅させる方法はあるだろうか?

禅の公案などは、人間の思考分別を追い詰めて、エゴを全面降伏させるということを
目的としている。
実際、白隠禅師は、弟子に対して、この公案が解けなければ海に飛び込んで死んでしまえと言って、
実際にその弟子が海に飛び込んで、そうしたらその時その弟子は悟りを開き、
公案が解けたという話がある。

エゴを全面降伏させる・・ というのと、今に統一する・・ というのは、実は同じだ。
座禅や念仏は今に統一することを目的としていると言えるが、同時に、
ある型を始終、行住坐臥、24時間、間断なく行うことによって、
エゴを全面降伏させる・・・ エゴを働かなくさせる・・・ ということも言える

反対に、公案はエゴ、思考分別の全面降伏させることを目的としているが、
公案を四六時中考えることによって、今に統一するマイフルになっている・・
ということも言える。

大病して苦しむのも、極限の今への統一・・・ マイフルとも言えるし、
今しか無ければ、時間の幅の特性を持つエゴは働くことが出来ず、消滅するしかない
ということになる。
0031名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/13(金) 01:27:35.66ID:zp9dBuet
よく、他力、自力、という言葉があるが、本来、悟りの行としては
他力の行が正しい。

他力というのは「お任せ」のことで、別の言い方では「ありのまま」
ということになる。

たとえば、座禅は「他力」か「自力」かというと、もし、一生懸命集中して、
何かを得ようとしているのならば、それは「自力の行」ということになる。
しかし、本当の座禅というのは、自力で集中しようとするのではなく、
ただ座ってありのままにうち任せるだけだ。
雑念が湧こうが、足が痛かろうが、そういうのはただありのままで、本人はただ座るだけだ。
集中しようとか、心が乱れないようにしようとか、そういうものではない。
心が乱れたならば、そのまま。
それは関係ない。
ただ座っていればいい。
そうすると、自然に意識が「座(今)」に集約してくる。
この部分が他力ということだ。
座を組む・・・ 型を作ることが自力ということではなくて、そのあとの心のやりくりが
有るか無いかだ。

念仏も、唱えることが「自力」なのではなくて、唱えることに集中しようとか、
唱えることによって何かを得ようとする心・・・
それが自力の計らいということになる。

唱えるのは型だ。
型をただ守ろうとすることには、何の願望もないし、良い状況を得ようという希望もない。
しかし、通常、個人でやろうとする行においては、このような希望はどうしても働いてしまう。
ただ型を守るというのは、指導されて嫌だからやらされてる・・ くらいの気持ちの方が、
行としては良い。
個人でやる場合には、どうしても希望が前提で行が成り立つから、
ただ型を守るということがやりにくい。

個人でやってるほとんどの人が、こういう自力で何かを獲得しよう、集中しよう、統一しよう、
心を乱さないようにしよう、という行をやっている。
これは悟りとは逆行することになる。
なぜなら、良い状況を求めるという、相対的な価値判断、分別思考に陥ってるからだ。
これがまさに、泥で泥を洗うという状態だ。
0032名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/13(金) 01:51:51.07ID:zp9dBuet
ある時親鸞が、疫病か災害かで苦しんでいる村を通りかかった時、
この村の苦しむ人々を救いたいと思う気持ちから、お経を何千部か読み上げようと
願を立てるようなことをした。
お経を読み上げることによって、苦しんでる人たちが仏の加護によって、
救われることを願ったわけだ。

ところが親鸞は、お経を読み始めてからすぐに、何を思ったのかお経を読むのを止め、
その場を立ち去ってしまった。

これはどういうことだろうか?

さて、阿弥陀様に全てをお任せしたはずの自分が、何をことさら、現状をああだこうだ
変えようとしようとするのか。
これは阿弥陀様を完全に信じられていないということではないか。
すべてをうち任せることが出来ないということではないか。

そこで親鸞は、自力の分別思考で現状をなんとかしようとする想いから、
再び阿弥陀様にすべてをお任せする、ありのまま(今)を受容する態度に戻ったわけだ。

ここでまた自力他力の用語の区別が出来るが、通常、一般の人が思う「他力」とは、
神仏に頼る・・  自分で為すべきことを、神仏に代わって実現してもらう・・・
というイメージだろう。
なので、通常は親鸞がお経の力を使って人々を救おうとするならば、これは「自力」ではなくて
「他力」ということになる。
自分の力ではなくて、仏の力に頼って、これを使おうとしていたのだから。

ところが、仏教でいう「他力」「自力」の考え方では、自分の思考分別が働いて、
ああだこうだ現状を変えようとする・・・  ありのままの今を都合のいいように変化させようとする・・・
この心の計らいが「自力」ということになる。

だから、親鸞が仏や経の力に頼って、現状を変えるためにお経を読み始めたのも、
良い結果を望むという、思考分別の働きを表しているものであり、
完全にうち任せる、ありのままを受容する姿勢・・・ つまり、「他力」とは真逆のものになる。
思考分別、我、エゴ、想いで何とかしようとすることが「自力」で、それらを一切打ち捨ててお任せした状態が
「他力」ということになる。
つまり、スポーツ選手がゾーンに入ったという時も、他力の状態であるわけだ。
0033名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/13(金) 02:21:18.82ID:zp9dBuet
親鸞はおそらく、比叡山で理趣経を読んだんじゃないだろうか。
当時の比叡山に理趣経があったのではないかと推測するが・・・
実際はどうなんだろ。

後の親鸞の行動を見ていると、どうも理趣経を読んだとしか思えない。
当時の僧侶としては、肉食妻帯というのはよっぽどのことが無い限り出来ない。
親鸞は理趣経を読み、その内容を深く洞察して、本当の教えを見抜いたような気がする。

一方で、一休宗純は破戒僧と言われ、あえて慾にまみれた極端な生活をした。
これはもしかしたら、一休も理趣経を読んだか、あるいは噂を聞いたか、
その内容を曲解して、我慾のままに生きるという、誤った解釈を
してしまったのではないかと推測する。
我慾のままに生きるということが、なぜ悟りにおけるありのままの受容と違うのか・・・
いっけん、この二つは同じように見える。
しかし、これは全然ちがう。
この説明は後にしよう。

一休が理趣経の本意を正しく理解しているか大いに疑問だが、今一休が比叡山と関連があるかどうかウィキで調べていたら、
こういう話が出てきた。

一休は本願寺で行われた親鸞の二百回遠忌に、他宗派としてはただ一人参拝して、
山門の扉にある言葉を書いた紙を張り付けていった。
そこに書かれていたのは・・・

「えりまきの 温かそうな 黒坊主 こいつの法が 天下一なり」

これには全く同感だ。
果たして一休は悟りの真理を分かっていたのか・・・

それで、今までは、親鸞の教えが一番優れていると言えるかもしれない。
その教えが悟りの行としてどれだけ優れているかというのは、どれだけありのままの受容に近づけているか、
ということに表れている。
だからこそ、凡夫が比較的簡単に、最上位の悟りを得られるということになるわけだ。
妙好人とはそういう人たちだ。

しかし、これから出る教えは、もっと現代に即したものであり、もっとありのままを受容したものであり、
最後のとどめの教えだ。
その教えは弥勒のために、とっておきにとっておかれたものだ。
0034名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/14(土) 23:29:47.42ID:/rllHIYy
我欲のままに生きると、ありのままの違いなんだけど、この二つは
表面的にはほぼ同じと言っていい。
だけど、大切な部分で相違がある。

前でも言った通り、我々には二つの流れがある。
一つは、ソース(本源)と一体であるところの自分。
もう一つは、思考分別(カルマ)によって作られた、幻想としての自分。
こちらの自分は、あの世とこの世を輪廻しつづける。

本源の自分とは、幻想の自分が「空」になった時に、
一体の世界となって現れる。

つまり、思考分別によって作られた、この幻想としての世界も、自分も、
本来は無く、消えてゆくものだということ。
怒りも実体は無く、かなしみにも実体はない。
ひと時が過ぎれば消えていく。
もちろん、不幸にもだ。
たとえ今生で不幸だとしても、それもやがては消えていく。

そのような消えていく輪廻の姿・・ 幻想の世界というものは偽物で、
真実の世界・・  自分というものは、ソースと一体の姿だ。

さて、怒りや我欲が出たとき、それらは実体はなく、目の前を通り過ぎていく幻想なわけだから、
ソースの自分には一切関係ない。
しかし、悟りの行において、これらの怒りや我欲をどう扱うか・・ 
という問題が出てくる。

大抵の修行者は、この怒りや我欲を何とかしようとするだろう。
いわく、怒りをありのままに観察する・・・
感情を客観視する・・・

結局、ありのままとはどういうことだろうか・・・?

それは、「手を付けないこと(そのまま)」 ということ。

客観視するとか、ありのままに見ようとする・・・  これらは皆、
何とかしようと手を付けている。
自分と対象が分離してしまう。
対象が生じるということは、分離を表し、それは「今(ありのまま)」では
ないということになる。
対象が生じる・・・  分離が現れる・・・ ということは、思考分別(時間の幅)が働いている
ということになる。
0035名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/16(月) 01:38:21.39ID:2/RyCJuP
通常、ここまで来ると、修行に対する考え方は、
大方二つになる。

ありのままにやりたい放題やるか・・・
ありのままになろうとするか。

一休さんは、欲望のままにふるまうことによって、ありのままに一体となると思った。
一方、常識的な修行者は、ありのままを観察したり、感じたりすることで、
一体になろうとする。

このどちらも間違いなのは、なぜだろうか・・・?

一休さんのように、欲望のままに振る舞うことが、なぜありのままと
一致することにならないのか?

ここが奥義なのだけど、前にも言った通り、われわれの流れには二つの流れがある。
一つは、ソース(本源)からの流れ。
一つは、カルマ(幻想)からの流れ。

通常、われわれの不幸や欲望というものは、カルマ(幻想)からの流れだ。
この幻想に一致してもダメなのだよ、一休さん。

では、ありのままとはどいうことだろうか?
不幸や欲望というものは、流れて消えていくものだ。
そして、ありのままとは、流れて消えていくものに捉われないということだ。

ここが難しいところだ。
不幸や欲望に捉われないと言うと、捉われまい、としようとする力が働いてしまう。

基本はなんだろうか?
ありのままとは、そのまま、手を付けないということだ。
これは具体的にはどういうことを言うのか?
0037名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/17(火) 21:59:58.84ID:ywodOWng
この本源からの流れと、カルマ思考分別からの流れは、インドでは仏教以前から、
ハスの花に譬えられていた。
ちなみに、今回、副大統領になったカマラ・ハリスは、名前の「カマラ」が
「ハスの花」という意味がある。
これは最高神ヴィシュヌの妻である、ラクシュミーの別名になってる。
ヴィシュヌはアラーと同等だろう。

ハスの花は泥中に咲いても、いささかも泥に汚されることがない。
泥というのは人間の思考分別の世界、カルマの世界、時間の幅の世界、
幻想の世界と言ってもいい。
そこでいろいろなカルマが現れてくるわけだけど、大抵の人は、そのカルマを相手に
取っ組み合いをする。
なんとかこれをよくしよう、とか、なんとか無くしてしまおう、とか・・。
つまり、泥を泥で洗ってるわけだ。
しかし、本来はそんな泥とは関係なく、ハスの花は綺麗に咲いている・・

もしも泥がハスの花を汚さないというのならば、泥がいくらあったっていいし、
いくらでも出てきても構わない、ということになる。
問題は、泥のありのままに一致するのではなくて、ハスの花にシフトさせる、
ということだ。
一休さんにはハスの花へのシフトが無く、ただ泥に合わせるようなことだけやっている。
泥はそのままでいいというのは、ハスの花がそれによっていささかも汚れることがないからだ。
汚れが関係ないポイントがあるからだ。
泥だけに焦点を当ててしまったら、いつまで経っても汚れが関係ない世界に行くことは出来ない。
汚れが関係ない世界とは、良し悪しもすべてが平等になる世界。
それは中道の世界ということ。
そして、すべてのものが平等になるということは、すべての「個」「枠に当てはまれられたもの」が
空になる世界だ。
0038名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/17(火) 22:02:57.87ID:ywodOWng
ハスの花というのは、= 悟り  であり、 = 中道  であり、
= 空なる世界、 = 縁起(ワンネス)の世界 
そして、= 「今」 を表す。

人が真に「今」に統一したとき、あらゆるものが平等になり、空になり、、
分離のない、一体の世界が現れる。
0040名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/18(水) 00:07:56.67ID:KnHOcZ4A
「いかに聴きしや金剛手、いまわが説ける知慧の理趣、
わが身に受持ち、読み誦え、よく心中に思いなば、たとえ五欲いまみる事も、
わが身汚るることはなし。

五色に咲ける蓮華葉が、泥より出でてその泥に、些かも汚れざるがごと、
人の性なる清浄も、たとえば塵にまみるるも、その奥底に帰るとき、
無上のさとり出ずるなり。」

かくて観自在なる大菩薩に、
姿を変えしびるしゃなは、
顔を怡らげ微笑みて、
弓手に持ちし蓮華をば、
右手で聞きて示し給う。

こは「開ける蓮華」の印にて、「泥の蓮華」を示すなり。
欲が本性染すことはなく、ものも染さざることはなし。

この教えをば示すため、聖音「キリーク(フリーヒ)」と唱えたり。
0041名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/01/19(火) 13:05:12.76ID:NblHMODk
我々は常に、嫌いな自分、好ましからざる状況から
距離を置こうとする。
「良し悪し」の二元相対から、「良し」を求め、「悪し」を排除しようとする。

たとえば、イライラして勉強に集中できない、すると、イライラを何とか消して、集中できる自分になろうとする。
「集中出来ない自分」を何とか改善(排除)して、「集中出来る自分」になろうとする。

座禅や瞑想中に雑念が湧いてくると、この雑念を排除して、クリアな心にしようとする。
発表するときに緊張すると、なんとかこの緊張を排除して、緊張しない自分になろうとする。

こういう二元相対の葛藤を繰り返しているのだが、この「良い状態」というのは実際に存在しない。
なので、永久にたどり着けない。
0042名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/01/19(火) 13:12:16.58ID:NblHMODk
実際にあるのは、「今の自分」だけだ。
それがたとえどんな状況でも。

この「状況」というのはプラスもマイナスもない。
「この状況」に価値判断が加えられるとき、すなわち、人間の思考分別(想い)が働くとき、
はじめてプラス、マイナス、が生じる。
そこで「葛藤」が起きる。

プラスになれない自分と、プラスになろうとする自分。
プラスになっても、すぐにマイナスに戻ってしまう。
マイナスを排除しようとしても、なかなか排除できない。

このような葛藤が、実際は不幸の原因、苦の原因となる。

だから、真の目的はマイナスを排除することではなくて、この「葛藤」を無くすこと…、ということになる。
仏教はここを目指している。
そして、この「葛藤を無くす」道のことを、「中道」という。
両極の葛藤に捉われない道…、その真ん中の道ということで、「中道」だ。
0043名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/01/19(火) 13:14:05.89ID:NblHMODk
(中道というのは中庸と違う。
中道は一切、両極に捉われないが、中庸は、両極の中間地点のポイントという意味で、
両極があって初めて成り立つ。
つまり、両極を意識した言葉だ。)
0044名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/01/19(火) 13:23:56.39ID:NblHMODk
たとえば、何か嫌なことをするとき・・・

たとえば、普段、やり慣れてない人がトイレを掃除をするときに、苦痛を感じるとか、
寒い時に、風呂から上がるときに苦痛を感じるとか、
朝寒い時に、あったかい布団の中から出なくてはいけないとか、
そういう「苦痛」を感じるとき、普通の人は反射的に二択の選択をしている。
それは、
(反射的に)苦痛を取り払って(苦痛を排除して)、行動するか・・・、
(たとえば、気合を入れて、寒さを打ち消して風呂から出る、布団から出る。) か・・・、

もしくは、苦痛を回避するために、そのまま風呂の中に居続ける。 布団の中に居続ける。
掃除をやめる。
の、どっちかだ。

このような反射的な反応が、人間の「想い」の特徴だと言っていい。
つまり、全ての物事に、価値判断(分別)が働いている。

さて、では、このような状態のときに、「中道」とはどういうことを言うのだろうか?
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ニューススポーツなんでも実況